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    壁の定義 こんなはずでは、とか何故こんなことに、と反論する資格は多分ないのだろう。完全なるやぶ蛇というやつだった。原因を挙げるのなら、誰が悪いのかは明白だ。
     だけどひとつだけ言わせてほしい。決して相手のことをからかっていたわけじゃない。悪気も悪意もなく、あったのは己の中にいつも満ち溢れている、純然たる探究心と好奇心だった。
     いつもは自分のポテンシャルを高めてくれるそれらの言動が、こんなふうに跳ね返ってくるなんて考えたこともなかった。
    「しゅ、ん……!」
     仰向けに倒れている始の身体の上へ伸し掛る隼が、熱に浮かされたように熱い息を吐いた。表情は暗くてよく分からないが、きっと頬を赤く染めて潤んだ眼差しを向けているのだろう。そんな彼の姿自体はライブや握手会などで何度か見たことがある。
     最初に見た時ははっきり言ってドン引きした。女性から熱い眼差しできゃあきゃあと言われるのはともかくとして、同性から同じ反応をされても非常に困る。どう返すのが正解なのか分からない。
     世の中には多種多様な人間が存在するので、同性アイドルに心ときめく者もいるだろう。そう理屈では分かっていても、いざ目の前に、しかも顔見知りの人間にされれば、ひたすら困惑、困惑、さらに困惑なのである。
    「はぁ……っ。始、ねぇ、好きだよ……」
     語尾に大量のハートマークが付きそうなほど甘い甘い声だ。砂糖菓子を溶かしたような、とはきっとこのことだ。
     外はとっくに日が落ちて真っ暗だった。部屋のカーテンは開けたままだったので、街灯の明かりが窓の外から淡く差し込んでいる。ある程度のものは視認可能で、室内は暗闇というほどではない。
     けれど天井を背にして始を押し倒している隼の顔は、濃い影が落ちている。それがますます始の背筋をぞくぞくとさせた。
     頬を彼の両手で固定されているので、始は顔を逸らすことはできない。やがて隼の吐息が皮膚で感じられるくらいにお互いの距離が近づき、彼は少しだけ顔を傾けた。
     唇が、あと少しで触れる。
    「あ、ぁ……っ」
     これ以上は無理だと思った瞬間、緊張で固まっていた手足がしなやかに動いた。
     気づいたら始は隼を、力一杯投げ飛ばしていた。




    1.



    「ぎゃ~~~! 推しの顔が今日も良い! 尊い!」
     そんな黄色い悲鳴を始の耳が拾う。
     本日はバラエティ番組の収録で、始と恋、二人での出演だった。スタジオ入りした始を迎えたのは、どこかの誰かを彷彿とさせるような言葉だ。あからさまに視線を向けるような真似はしなかったが、始はつい聞き耳を立ててしまった。
     話していたのは最近人気急上昇中の女性芸人だった。彼女はとある男性俳優を推しだと公言し、かつ本日の収録ではその俳優が出演しているのだ。
    「エミちゃん、今日も元気だね~」
    「あ、日永さん! 本日はよろしくお願いしまーす」
     そこへ声を掛けたのは、出演者の一人である中堅俳優の男だった。演技は上手いが、私生活に何かとスキャンダルの多い人物だと記憶している。
     始は彼らからさり気なく距離を取った。礼儀として最低限の挨拶はもう済ませてあるので、あとはスルーしても問題ないだろう。不用意に関わって何かしらに巻き込まれでもしたら面倒だ。トラブルメイカーと関わらずに済むならば、それが一番平和なのである。
     我ながらコミュニケーション力が低いとは思うが、上手く捌ける自信がないのなら、適正距離を保つのは有効な手段だ。まだまだ経験値の少ない芸能生活の中で、始はそう学習していた。
     こんな時に言葉巧みな恋が側にいてくれるのは心強い。彼はトイレに行くと言ったまま、まだ戻らないのだが。
    「同じ現場に推しがいるって大変じゃない?」
    「え。何でですか? ご一緒できてめちゃくちゃラッキーですよ! 私の席順的には後ろ頭から耳がチラリと見えるくらいなんですけどね、もう耳の形ですら尊くて……! こう、ぐわっと萌えがせり上がってきて、すんごくお腹いっぱいになれるんですよ……! 明日も生きていけるって感じですよお!」
     距離を取ってもよく通る女性の声が、始の耳まで届く。彼女たちは話題を隠す気もなく、むしろフルオープンだった。元気があるなと始は苦笑する。他の出演者たちからも和やかな笑いが起こっていた。
     話題の中心である件の俳優はまだ来ていない。彼は道路事情で到着が遅れ、まだ控え室で準備をしているとのことだった。ここに本人がいたのならどんな反応をするのだろうと興味があったので、少し残念だ。
     その後もつらつらと彼女の微笑ましい萌えトークが続き、まるで隼みたいなことを言うんだなと始が感想を抱いていると、ようやく恋が戻ってきた。
    「ひゃー! 遅くなってすみません、始さん!」
    「まだ始まってないから、慌てなくても大丈夫だぞ?」
    「なら良かったです! 手を洗おうとしたら蛇口がなんだか緩くなってたみたいで、勢いよく水が飛び散っちゃって。慌てて控え室戻って濡れた衣装をドライヤーで乾かしてました!」
    「それは災難だったな」
    「ホントそれです! 今日の俺、隼さんの占いでアンラって言われてたんですよねー。あ、でもこれで不運は乗り越えた感じ? それならこれから始まる本番は、きっと上手くいきますね!」
     前向きに笑う恋に、始もつられて笑う。その時、どことなく耳障りな男の声が一際大きく響いた。
    「うらやましいなあ。僕も推しはいたことあるけどさ、君みたいに見て喜んでるだけってできなくてさあ」
     またあの会話が聞こえ、始は思わず耳を傾けてしまう。そんな始の様子に恋もきょろきょろと首を動かし、何事かと耳を済ませた。
    「えー、どういうことですか?」
    「女性って皆そうなのかな。推しに自分を見てほしいとか思わない? 自分が推しとどうにかなりたいとかさ」
    「それは人によるんじゃないですか? 私は推しと自分がどうこうなるより、推しをひたすら眺めてる方がいいですね。ああ、推しの部屋の壁になりたい!」
    「うわっ、あの方、隼さんみたいなこと仰ってますね! でも隼さんと違ってなんだか微笑ましいです」
     日頃からクラビバリアで始を守る身として、隼の奇行には苦労させられている恋が苦笑する。
     似たようなことを言う二人。隼と彼女の違いは何なんだろうと始は生真面目に考える。モヤモヤするのは嫌いだから、原因をハッキリとさせたい気質だ。そのせいでどうでもいいことまで悩んでしまうのは頭のリソースが勿体ないよと、春に何度か言われたことがある。
    「へぇ~、純粋に好きって言えるのってある意味羨ましいよ。男は好きって思うとどうしても性欲が伴うものだからさ。いわゆる下心ってやつ。萌えるって気持ちは分かるけど、興奮すると絶対一緒に勃っちゃうもん。だから公に向かって誰ちゃんが推しですとかなかなか言えないよ」
    「ふーん、そうなんですかあ。男の人って大変なんですねえ。一つ勉強になりました!」
    「うおっと、さりげないセクハラをさらりと笑顔で返す会話術……! さすが今人気の方ですね。俺も上手い受け答えができるように頑張らなきゃ」
     隣で恋が何か話していたが、始の耳には届かなかった。どうにも会話の内容がいちいち意識に引っ掛かって、思考がそちらへ引っ張られる。
     始は自分が誰かのファンになったことがないから、今の会話に共感できる要素はひとつもない。しかし男女の心情の違いというところは、始の生まれ持った好奇心の網にしっかりと掛かった。
     男性の『好き』は性的欲求と切り離せない。
     そういうものなのだろうか?
     アイドルのファンになる者は確かに異性が多いが、始のファンには男性もそこそこいる。
    (それに、隼だって)
     未だに慣れないところがあるプロセラのリーダーを脳裏に思い浮かべようとして、ピシッとノイズが走った。深く考えてはいけない。そんな気がして始は慌てて思考を切り替える。
     どちらにせよ普通の恋すらしたこともない始には、どんなに想像したところで机上の空論にすぎない。
    (だが、そうも言ってられないか……)
     知らない感情でも、勉強しなければならない。それがアイドルとしての仕事だからだ。
     最近はメディアにしょっちゅう出るようになり、ありがたくもグラビとプロセラの知名度はうなぎ登りだ。最初はテレビのちょっとした出演から始まり、活躍の場は今やドラマ、映画、舞台等多岐にわたる。
     役者業を始めてから、始は人の感情を勉強するようになった。納得できる役作りをするために、出演ドラマの原作も読み込んだ。
     昨今は漫画原作も多く、生まれて初めて少女漫画を読んだりもした。主人公は当然女性で、女性側から見る恋愛の世界に感心したりもした。そこは始の知らない世界で、未知への探究心が擽られた。
     それを思い返すと、確かに性欲に直結、というのは少なかった気がする。少年漫画の方は、いわゆるサービスと呼ばれるお色気シーンが多々あった。
     今まで恋愛どころか性欲に関してもそんなに考えたことがなかったので、世界にはまだまだ知らないことがたくさんあると感じたものだ。
     春はそんな始を見て、君らしいけどそれはちょっと人としてどうなの、と呆れていた。
    「始くんはどうなの?」
     不意に声を掛けられて、物思いに耽っていた始は少し反応が遅れた。先ほどまで女性芸人と話していた男は、いつの間か始の側まで歩み寄ってきていた。
     気配に気づかないとは不覚だった。しかし内心で盛大に舌打ちしたことはおくびにも出さない。見るからに軽薄そうな男は、始の返事も待たずにペラペラと喋り出す。
    「ほら、あの白いイケメン。隼くん、だったっけ。めちゃくちゃ君のこと推しって言ってるじゃない。実際のところってどうなの? ひとつ屋根の下に住んでるんでしょ。普段一緒に過ごしたりしちゃってる?」
    「……事務所の寮で、プロセラのメンバーとは別のフロアです。普段は兄弟ユニットとして仲良くさせてもらっていますが」
     ニヤニヤと嫌な笑い方をする男だ。始の苦手なタイプだ。ざわりと神経を逆撫でするような物言いが不快だった。
     馴れ馴れしく名前を呼ばれるのも、隼のことをからかうように話題に出されるのもすべてが気に入らない。始が失礼にならない程度に話題を切り上げようとしているのに、なおもしつこく絡んでくる。
    「隼くんってそういう意味で君のこと好きなのかなあ。容姿は中性的だけどやっぱり男の子だし、推しって言うからにはほら、アレだよねえ? 確かに始くんは同性から見てもカッコいいし、前髪を下ろしてから色気も出てきたって感じ? あ、君ってセクシー担当なんだっけ」
    「……それは、どうも」
    「女の子にモテまくってきたでしょ。これまで彼女何人くらいいたんだろ? それだけ入れ替わり立ち代わりしてれば推しって言われるのも慣れてるのかな? 性別問わず性的な目で見られるのも全然平気そう。むしろ選り取りみどりで美味しいとこ取りができちゃう!?」
     恋がギュッと眉根を寄せて何か言いたげにしているのを、始はそっと腕で制した。
    「ちょっともう、日永さんってば。それはさすがに睦月さんに対して失礼すぎですよお。霜月さんは私と同じで推しの部屋の壁になりたいタイプかもしれないですし!」
    「壁になって何を見ちゃうのかなあ?」
    「勿論いろいろな推しの表情を堪能するに決まってるじゃないですか。こっそり一人で甘いものを食べた時の至福の表情とか!」
     会話の合間に、女性芸人がさりげなく申し訳なさそうな視線を送ってくる。彼女が悪いわけではないのに、気配りができる人物のようだ。
    「欲がないねえ。僕だったらやっぱり壁は嫌だな。実物に触りたいって思っちゃう。それにしても始くん、鋭い目つきもいいね。同性から見ても惚れ惚れするよ。でもさあ、お色気はやっぱりまだ足りないんじゃない?」
    「……!」
     始はそこで、男からしつこく絡まれる理由にピンと来た。
     今度放映される深夜のテレビドラマで、始は敵のアジトに潜入するスパイの役を演じることになっていた。人心掌握に長けた人物で手練手管を駆使しつつ、色気を使って相手を惑わせることもある、感情を多面体に表現しなければならない難しい役だ。
     元々は別の俳優が演じるはずの予定だったが、ちょっとした事件があって始にお鉢が回ってきたのだ。目の前の男はその事件と関わりがあり、元々出演予定だった俳優とは仲が良いらしい。不測の事態で交代したことを無念に思っているようだった。
     始はそのいざこざには全く関係がなかったので、言わばこれは始に対する完全な八つ当たりだ。
     芸能界に限らずの話だが、世間は優しい人ばかりではない。始もそれは理解しているが、比較的近いところでは身の回りに恵まれているため、こうして唐突に刃を突き立てられると驚いてしまう。
     面倒なポジションになってしまったなと思いもするが、始に役を振ってくれた相手は何度かお世話になったことがある人物で、百パーセントの善意だった。それが分かるからこそ、その人の期待には応えたい。完成度の高いドラマになるよう、全力を尽くしたかった。
    「君って、誘われ慣れてても誘うのは苦手そう。誘われて当然の生活送ってるとね、その逆は意外とできないものなんだよね。そうそう、今度君が演じることになったあのドラマさあ、男相手にハニートラップとかもあったよねえ。噂の隼くんに練習相手になってもらったらいいんじゃない? 推しの相手役なんて喜んで受けてくれそう。一緒に住んでるんだしいつでも会えるんでしょ?」
     始が言い返さないのをいいことに、男の言葉はどんどんヒートアップしていく。
    「あ、隼くんが推しって言ってるのが営業の一環だったりしたらゴメンね。実は二人、仲悪かったりする? それとも逆かな? 始くんって顔が良ければ男女問わずイケちゃう方? あー、何かそれもありそう。あはは、僕はどっちでもいいんだけどさ、まあ頑張ってみてよ」
     男はそれだけ言うと満足したのか、始の反応は興味無いとばかりにけらけらと笑いながら歩み去って行く。あとに残された女性芸人が焦った顔をして始たちにぺこぺこと頭を下げた。
    「睦月さん、とんだ御無礼を……! あの人は普段から言葉遣いが良いわけじゃないんですけど、今日は本当に失礼な態度を取ってしまって」
    「……あなたが謝罪する必要はありません」
    「ええと、あの。実はあの人、私の遠縁になりまして……」
    「………………」
     無言で空を睨む始に、女性芸人は繋ぎの言葉が見つからないのかおろおろとしだす。
    「あっ、あの、俺たちの方は大丈夫ですので」
     恋が助け舟を出すと、彼女はあからさまにホッとした。
    「本当にすみませんでしたっ」
     もう一度頭を下げると足早に去っていく。始たちはスタジオの隅の方に居たとはいえ、何人かが好奇に溢れた視線をこちらへと注いでいた。
    「あの人、何様って感じですよね! しかもハニートラップなんて言い方。全然そんな感じじゃなくて、もっとこうスリルに溢れたドキドキの駆け引きって感じの話なのに。それに何より、始さんと隼さんのこと悪く言うなんて許せません! 始さんの演技は素敵ですし、隼さんがガチ勢の中のガチ勢だってことは見ればわかるのに。呆気に取られちゃいましたけど、何か言い返してやればよかった!」
     去っていく男の背中を睨みつけながら、恋が小声で憤慨する。例のドラマの原作は人気の少年漫画で、彼は読んだことがあると言っていた。始がキャストに決まった時は、驚きつつも応援しますとキラキラした笑顔で喜んでくれたものだ。
    「ああいう手合いには言い返すだけ無駄だ。……よく我慢したな、恋」
    「でも始さん……、ひえっ」
     始を振り返った恋が恐怖で固まる。
     尻拭いをさせられる女性芸人を気の毒と思う心の余裕もなかった。面識もない相手に突然馬鹿にされた、喧嘩を売られた。あまつさえその暴言が身内にまで及んだ。
     それだけでも腹立たしいのに、言われたことは一部正しくもあることが、始にとっては実に業腹なのだ。
     
     ────色気がなくて悪かったな。

     まさに今、役作りでそこを試行錯誤している最中だったのだ。
     ふつふつと怒りが煮え滾る。丁度自分の恋愛経験の無さを自覚して、思い悩んでいたところだったから余計に。
    「上等じゃねえか……」
    「は、始さーん……! 顔! 顔、すごく怖いです……!」
     隣で縮こまる恋には目もくれず、始はめらめらと怒りの炎を燃やした。



     無事とは言いがたい収録は、表面上は穏やかに滞りなく終了した。
     このあとラジオの収録がある恋とはテレビ局の前で別れた。時刻はまだ夕方だが、始は寮に帰って例のドラマの脚本を読み込む予定だった。原作漫画は読破したが役作りは難航し、完成にはまだ程遠い。
    「色気……」
     正直に言えば、振る舞い方もよく分からない。漫画では細かい動作までは読み取れない。コマとコマの動きを想像して繋げることが、始にとっては至難の業だった。何かしら参考になる映画やドラマなど、これまで鑑賞した知識の中から使えそうな動きをピックアップしつつ、また考えるの繰り返しだ。
     思い当たる作品をもう一度見てみようか。もしくは近しい人で、参考になるような人物がいれば。
    「春……、却下。海……は、除外。陽は……ちょっとイメージが違う、かな」
     ミステリアスな雰囲気なら篁志季、花のある所作なら世良里津花。事務所の先輩へと範囲を広げて想像してみるが、彼らは皆忙しい身であるし、直接観察させてくれというのもなかなか頼みにくい。
     悩みつつも始はタクシーで寮へ帰り、早速自室に篭って脚本を読む。だがどうにも昼間の収録の出来事が頭をよぎり、思い出したくもない顔を思い出してはイライラすることを繰り返していた。
     これでは何も手に付かない。一度すっきりと頭の中をリセットした方がいいだろうと考え、始は自室を出てグラビの共有ルームへと足を運ぶ。あわよくば誰かが夕飯を作ってくれるかもしれないという、淡い期待もあった。
    「誰もいない……」
     だが始の思惑とは裏腹に、共有ルームに人影はなかった。予定が押したり変更になったりするのはよくあることだし、逆に予定通りに帰宅できるパターンの方が最近では珍しい。順調にアイドルとして売れてきているのは喜ばしいことだ。それに年下のメンバーたちはまだ在学中で、学業と仕事を両立する生活を送っていた。
     けれどもデビューしたての頃を思い返せば、少しだけ寂しくなる。あの頃は朝晩、ほぼ全員が揃って共有ルームで食事をしていた。ユニットのメンバー同士、交流を深める意味合いもあった。
     それが今は、コンビの仕事が増え、ソロの仕事が増え、六人は少しずつバラバラになっていた。
    「……ちょっと疲れてるな」
     やたらと過去を懐かしむのは、現在、不満や不安を抱えているせいなのだろう。
     あの男を見返してやりたい。痛いところを突かれて頭に血が上った自覚はある。波風立てずに始終笑顔のままテレビの収録を終えたのは、ただひたすらに意地だった。
     恋愛物のドラマや映画にはよく出させてもらえてはいる。ヒロインの相手役だっていくつかこなした。だけど役者としてさらなる成長を望むには、圧倒的に経験が足りていなかった。
     プロの俳優としてもっと厚みを増したい。もっといろいろな世界を体験したい。そう考えているのに、なかなか思うようにはいかない。自分からかけ離れた役ほど面白く感じるが、自分の器がまだまだ浅いのだということを思い知らされたりもする。
     始は一人キッチンに立ち、おもむろに冷蔵庫を開ける。ストックされている物に一通り目を通す。簡単な料理ならできそうだが、それだけの気力も湧かなくて、スポーツ飲料のペットボトルを一本取り出した。蓋を開けて一気に呷れば冷たいそれが喉を冷やし、少しだけ視界がクリアになる気がした。
     何気なくペットボトルを見れば、本体に巻かれてた白色のラベルに目が留まる。
    「そういえば、隼の悪口も言いたい放題だったな……」
     口調こそ柔らかくはあったものの、回りくどい疑問形や言葉のチョイスといい、悪意はこの上なくしっかりと感じた。思い出したら次から次へと連鎖して、収まりかけていたイライラが再び加速する。
     隼に対しては、始も彼本人のことがまだよく分からないところも多くあり、そろりそろりといった感じで付き合っている。けれどプロセラだって身内なのだ。始にとっては一緒に戦う同士であり、良きライバルとなっていた。
     そんなふうに大切にしている身内の悪口を、赤の他人に好き勝手言われるなどと、到底許せるわけがない。隼は常日頃ふざけていることが多いけれど、ただ楽しいことが大好きなだけだともう知っている。初めてのグラビとプロセラの合同ライブの時に、始と同じ景色を同じ気持ちで見てくれた彼を、知っている。
     春とはまた違った、リーダー同士という距離感。始の隣に立ち、始を支え、時にはぶつかり、受け止めてくれた。まるで鏡合わせの自分のようだとも思えた。彼は、自分と対等なのだと感じた。清濁併せ呑む彼の本質に、あの時初めて触れたのだ。
    「隼は、そんな奴じゃない」
     どんなにふざけていても、嘘なんて言わない。いつだって思いに誠実で、一途だ。
     
     ──そういう意味で君のこと好きなのかなあ?
     ──実は仲悪かったりする?
     ──男女問わず誘われちゃう?
     
     どれもこれも酷い侮辱だった。
     思わず手に力が入り、始は持っていたペットボトルをぐしゃりと握り潰した。
    「わお! 野生的な始も力強くてかっこいい……! 潰されたペットボトルすら羨ましい! 尊い!」
    「────っ?!」
     突然間近ではしゃいだ声が聞こえ、始は驚いて振り返る。そこには頬をほんのりと赤くして、原型を留めていないペットボトルを恍惚と見つめる隼がいた。
     思わず一歩引いて、始は軽く咳払いをした。
    「なんでお前がここにいる」
    「やあ始。一週間とちょっと振りだね!」
    「答えになってない」
    「クールな君もかっこいい!」
    「……」
     すれ違った会話の軌道修正を諦め、始は黙る。隼は特に気にした様子もなく、にこにこと始を見た。そこでまた昼間のことが脳裏によみがえる。今度はあの女性芸人の方だった。
     推しに対しての反応は両者とも似たようなものに見えるのに、隼といるとどうも居心地が悪い。それは自分が当事者だからなのか。
     色気がない。誘えない。恋愛をしたことがない。だから気持ちが分からない。
     洪水のように本日の悩みが脳内になだれ込んできて、くらくらと目が回る。景色がぐるりと回転し、ああ、思ったより自分は疲れていたんだなと始は他人事のように思う。
    「……始!」
     足がもつれた瞬間、それまでふにゃふにゃと笑っていた隼が機敏に動いて始を抱き留めた。至近距離で目が合い、始は金緑の瞳を間近で眺めた。先ほどまでとは打って変わって真剣な目をしている。
    (こういうところは、ずるい)
     ふざけていた顔から急に真面目になるところ。それが相手を思いやってのことだというところ。彼の優しさが嫌でも分かってしまうから、嬉しくなってしまう。不安げに瞬く視線からは、始を本当に心配している気配が感じ取れて、仲が悪いなんて言われたことにまた苛立ちが巻き起こる。
     隼が始を好きなのは間違いないし、奇行には走るが決して軽薄な人間ではない。見知らぬ第三者に好きだの嫌いだの、仲がいいだの悪いだのなんて言われる筋合いはない。

     ──男の『好き』は性的欲求と切り離せない。

     唐突にそれを思い出して、隼にもそんな感情があるのだろうと始はふと不思議に思った。
     好き、大好きと一人の人間に向けて何度も叫ぶ彼の心は、一体どんな回路をしているのだろう。少しでいいから覗いてみたい。その気持ちに、触れてみたい。
     それは純粋な好奇心だった。
    「あ、の……、始……?」
     始はそっと片手を持ち上げて、隼の頬に触れた。手のひらで優しく擽るようにしてから撫ぜる。顎の方へ指を滑らせ、親指の腹で唇へ触れた。
     そんなシーンが漫画の中にあったのを思い出し、可能な限りトレースしてみたのだ。動きを付けるならおそらくこういう感じだろうということを、ざっくり脳内で組み立てて実行した。隼の反応が、無性に知りたかった。
     唇を辿るようにしてから、次は少し唇を開かせるようにして、というところでその手をガシッと隼に掴まれた。
    「どうしたの始?! ぼんやりしているようだけど大丈夫かい? 熱でもあるのかな。ちょっとごめんね?」
     両手が塞がっているため、隼は頭を近づけて自分の額を始の額にくっつけた。視界がぼやけるほどのアップに思わずどきりとしたが、隼の方は用が済んだとばかりにすぐに顔を離した。
    「熱は大丈夫みたい。もしかしてお疲れだったのかな? グラビの子は誰もいないよね。調子の悪そうな君をここに一人にしておくのも心配だし、このまま始の部屋まで送るよ」
    「は、ちょ……っ、待て……!」
     隼は言うが早いか、始を素早く横抱きにすると立ち上がる。重心のバランスを取ろうとして、始は咄嗟に隼の身体へしがみついた。容易く始を抱え上げた隼は、グラビの共有ルームを出て始の部屋へ向かう。唖然として見上げた横顔は、真剣そのものだ。
     始の部屋へ着くと隼は器用に扉を開け、寝室へと直行する。始をベッドの上へ丁寧に下ろし、布団まで掛けてくれた。
    「何か欲しいものはある? お水のペットボトルはあるかな」
    「……飲み物は、冷蔵庫に」
    「わかった。ちょっと待ってて」
     優しく微笑むと隼は寝室を出て行き、すぐにペットボトルを手にして戻って来た。
    「お茶があったからここに置いておくね。熱はなかったから冷やすものは要らないとは思うけど、もし体調が悪くなったりしたらすぐに呼んで? 僕もさっき帰ってきたばかりで、このあとはずっと寮にいるからね。グラビの子たちはまだ帰ってこないから」
     ゆっくり休んでねと言って、隼はそのまま一度も振り返らずに始の部屋を出て行ってしまった。
    「嘘だろ……」
     隼は、始のことが好きなんじゃなかったのか。
     精一杯のモーションを体調不良で片づけられてしまった。彼は一ミリたりとも心を動かされなかったらしい。
     そんな、馬鹿な。
    「俺に………………色気が、ない」
     始は呆然と呟いた。呟いた言葉が重く、それは重く自分へと圧し掛かる。
     体調なんてどこも悪くない。眠気が訪れるわけもなく、隼から事情を聞いたらしい春が慌てて見舞いに来るまで、始は布団の中から動けずにいた。



    「始、大丈夫? 顔色が大分悪いけど」
    「…………」
    「ついでに人相もすごく悪い」
    「…………春」
    「どうしたの? ……何だか面倒なことが起こる予感しかしないけど」
    「俺には魅力がないんだろうか」
    「ほーら、面倒ごとが…………え。何だって?」
    「だから、魅力」
     恥を忍んで尋ねているのに、春は口をぽかりと開けたまま黙った。お互いしばらく無言で見つめ合ったあと、春がぼそりと呟いた。
    「うわ……。これは重症だ……」
    「どこも悪くない。健康だ」
    「いや、そうじゃなくてね?」
     寝ていた記憶もないのにすっかり夜も更けていた。時間が経過した感覚が全くなく、始はむくりとベッドの上に起き上がった。
     身体が動くと空腹を感じた。時刻を見れば、夕飯を食べそびれてしまったことになる。現実を突き付けられれば余計に何か食べたくなり、ぐう、と小さく腹が鳴った。
     そんな始へ、春がすっと紙袋を手渡した。始が無言で受け取ると、中にはサンドイッチが入っていた。春が気に入っている店のものだ。野菜がたっぷり入っていて、食べ応えがあると人気の一品だった。
    「いいのか?」
    「自分の帰りが遅くなると思って、小腹が空いた時用に買っておいたんだけどね。俺はさっき葵くんが作ったカップケーキをもらったから、それは良ければ君が食べて? 葵くん、今度テレビでお菓子作り対決に出るから、試作品をいろいろ作ってるんだって」
    「じゃあ、ありがたくもらう」
     飲み物は隼が置いていったペットボトルがまだ手付かずの状態なので、それを飲むことにする。始は遠慮なく包装を破いてサンドイッチに齧り付いた。
    「わあ、いい食べっぷり。グラビの皆には心配ないって伝えておくよ」
    「そもそも隼の早とちりだ」
    「……昼間の収録であったことなら恋に聞いたよ。もしかして、それが原因で思い悩んでたりするんじゃないかって恋が心配してたよ? あ。今、露骨に余計なことをって顔したね」
     にやりと笑う春を無視して、始はサンドイッチを無心に頬張る。春はそれ以上からかうことはせず、すぐに笑みを引っ込めた。空気がひやりとしたのを感じ、相方の静かな怒りを知る。
    「俺がその現場にいたら絶対倍返しするのに、残念」
     相方が一緒に腹を立ててくれることに妙に安心して、始はようやくささくれていた感情を落ち着かせることができた。サンドイッチが美味しくなったような気がして、一気に食べ終える。
    「せっかく恋が我慢してくれたのに大事にするな」
    「冗談だよ。でも俺の目の前で始を侮辱されたら、そのくらいはするかな。それにしても始の口より早い手が出なくて本当に良かった」
    「そんなことするわけないだろ」
    「あはは、だよねえ。でも君が相手を綺麗に投げ飛ばしてくれたら、ものすごく爽快な光景だろうなあ」
    「……絶対に見返してやる」
    「うんうん、その調子」
    「まずは落とす」
    「うん?」
    「それから本気にさせる」
    「えっと、何の話かな?」
     不穏な雲行きに春が引き攣り気味に訊いてくる。空になったサンドイッチの包装紙を丸めて紙袋に入れると、始は立ち上がった。まずは歯を磨いて顔を洗い、気を引き締めよう。それからさっとシャワーを浴びたらリベンジしてやる。
     凝り固まった肩を回してコキコキと鳴らしたら、春がうわあという顔をした。
    「……俺ならできる」
    「いやだから何が? 俺の質問まるっと無視?! さっきの魅力がどうのっていう話の続きなのかな?」
    「やり遂げてみせる」
    「ちょっと待って、少しでもいいから聞いて俺の話!」
     始は嘆く春の横を通り過ぎ、着替えを抱えて洗面所へと向かった。
     さっきは単に、事に及んだ場所が悪かったんだ。そうに違いない。
     キッチンじゃなくて寝室なら。
     食事と気分転換を挟んだお陰で気持ちもリセットできた。最高の役に仕上げてみせると、始は心の中で決意を固める。
     シャワーを浴びて戻って来たら春がまだいたので、もう遅いから部屋に帰れと伝える。何故か酷い人間扱いをされた。
    「明日は朝の十時から、二人での収録だったな」
    「そうだね。始がもうすっかりいつもの調子で俺は嬉しいんだか悲しいんだか……。過去にこだわらないのは君の美徳だと思うけど、俺は高確率で何らかの被害に遭ってる気がする。うーん、理不尽!」
     恨めしげに始を見上げる春へ、始はふっと笑う。彼が始を心配して、仕事帰りに自室へ戻らず駆けつけて来てくれたことは、服装を見れば一目瞭然だ。
    「疲れてるのに悪いな、春。サンキュ」
    「ほらね、君のそういうとこ。……もう仕方ないなあ」
     始もあんまり夜更かししないでよね、と言い残して春は部屋を出て行った。
    「……よし、乗り込むか」
     意気込みは十分だ。
     始は意識を切り替え、戦いに赴くような意気込みで自室を出た。



     ドアを開けるのに言葉はいらない。
     部屋の主人は、始ならいつでも歓迎だよと言っていたし、夏場は冷房代わりにもさせてもらっている。だからこの部屋自体には、結構通っていたりするのだ。
     堂々と正面から入ればいつもの通り、物理法則を無視したリビングが現れる。明るい照明は落とされ、代わりに間接照明のやわらかな灯りがほんのりと室内を照らしている。そこに白い姿は見えなかったので、彼はもう寝ているのだろう。それなら余計に好都合だ。
     始はずかずかと中央を歩き、寝室へ向かう。そちらに足を踏み入れることはほぼ無い。以前隼を起こすために入った時には、紫の大きなツキウサがベッドサイドに鎮座していた。
     あれはまだあるのだろうか。そんなことを考えながらなるべく音を立てないように寝室の扉を開けた。こちらも物理法則を無視し、ダブルサイズの大きなベッドがどんと中央に置かれている。
     その空間は寮だというにもかかわらず、自分の部屋とは明らかに間取りも面積も異なっていた。しかしもうそういうものだという認識なので、始も疑問に思うことはいつからかしなくなった。人間とは慣れる生き物である。
     遮光カーテンが引かれた真っ暗な部屋では物の輪郭も危うげだ。開け放したドアから暗い室内へ、リビングのわずかな明かりがうっすらと差し込む。始は暗闇の中、記憶を頼りにベッドの側へと歩み寄った。手探りでサイドテーブルの調光ランプを点け、仄かな明かりを灯す。ベッドの上はこんもりと山になっていて、中でくるまっているだろう人の呼吸に合わせて緩やかに上下している。
     明かりにも反応しないくらい、主はぐっすりと眠っているらしい。夜行性にしては珍しく早寝だ。
     始が布団の端を少しめくって顔を覗き込むと、部屋の主──隼は、紫のツキウサを抱えて丸くなって眠っていた。
     始を部屋に運んで以降、隼は姿を見せなかった。あとのことは春へ任せたのだろうが、それをやたらと不満に感じた。
    (お前は俺のことが好きなんじゃないのか?)
     知りたい。またあの欲求がむくむくと頭をもたげてくる。同性の始を、推しだと言う彼の本心を。それは一体どういう気持ちなのだろう。好奇心が見る間に広がっていく。
     始は隼の腕の中から紫のツキウサを引っこ抜き、ベッドの上へ上がる。部屋に入ったことがあるとはいえ、さすがにベッドへ入るのは初めてだった。マットレスはふわふわしていて気持ちがいい。ベッドカバーは良い生地なのだろう、さらさらで肌触りも抜群だ。とても良く眠れそうな寝床だった。
    「う……ん……」
     腕の中が空になり、隼は少し眉根を寄せて何かを探すように腕を動かした。
     始は大胆に布団を捲り上げると、ツキウサの代わりに躊躇なくその腕の中に入っていった。
     やがて彷徨う隼の腕は始の身体に触れた。そのままぬいぐるみを抱くように腕が回され、始も隼を抱き返そうとした。
    「温かい……あれ……、えっ、えええ?!」
     ぱかっと開いた金緑の瞳が、ぱちぱちと何度か瞬きする。始はその視線をごく間近で、正面から受け止める。
    「しゅ、」
    「始?! 苦しいの?!」
    「ん、……は?」
     思っていたのと違う第一声に、始は咄嗟に言葉に詰まった。
     隼は驚いた顔をしたあと、今まで眠っていたとは思えないくらいの俊敏さで身体を起こし、夕方の時と同じように始を横抱きにして立ち上がった。
    「なっ……」
    「まだ春は帰ってきてないの? グラビの子たちは? ああ、年下の子に心配をかけたくないんだね。でも辛い時は頼ったっていいんだよ、始」
    「いや、そうじゃな」
    「寝ちゃっててごめんね。僕を呼んでくれたんだね」
     少し悲しげに笑った隼は始を抱えて部屋を出ると、そのまま始の部屋まで走って行った。人ひとりを横抱きに抱えてワンフロア走るとか、そんな腕力と体力があったのかとか、言いたいことはそれはもういろいろあった。だが始は走る振動に舌を噛まないよう、また隼にしっかりとしがみつくだけで精一杯だった。
     気づけば再び自室まで運ばれ、寝室のベッドの上に寝かされていた。状況は振り出しに戻ってしまった。
     隼の少し冷えた手が、始の額に乗せられる。
    「うん、やっぱり熱はないみたい。始、どうしたの? 春に連絡しようか?」
    「……いい。大丈夫だ」
    「元気がないみたいだ。身体じゃなくて、心の方がお疲れなのかな。ううん、心配だなあ……。でもそろそろ寝ないと明日が辛くなってしまうよ。僕も君も、朝から仕事だしね」
     仕事と聞いて、始は隼が早く就寝していた理由を知った。そして仕事であるならば、それを邪魔することはできない。
     急速に心が萎えた。
    「もう、寝れる。……押し掛けて悪かった」
    「そっか。僕を頼ってくれてありがとう、始。……君が眠るまで側にいたいけれど、きっと君は、僕がいたら逆に眠れなくなっちゃうよね」
    「そんなことは、」
    「じゃあ僕は行くね。でもまた苦しくなったら呼んで。必ず来るから」
    「…………わかった」
     パタンと静かに扉が閉まる音を、始はぼんやりと聞いた。
     とても心配されているのが分かる。大事にされているんだろうということも。
     だけど、それでも。それでも納得がいかなかった。

    「俺には……色気が、ない……」
     
     とても絶望的な気持ちになったまま、始はやがて気絶するように眠りに落ちた。


    2.



     翌朝目が覚めたら、驚くぐらいに身体が怠かった。
     倦怠感が半端ない。よく眠れなかったこともあるが、一番の原因は昨夜のショックが全く取れていなかったせいだ。
     始はよろよろと身体を起こし、時計を確認する。本日の現場はこの寮から程近い場所にある。とはいえいつまでも布団の中で鬱々としているわけにはいかず、自室のキッチンに立って濃いめのコーヒーを淹れた。
    「熱っ……!」
     冷ますのを忘れて舌を火傷した。だがそのおかげで目も覚めた。すっきりとは程遠いがどうにか気持ちを切り替え、さっさと出かける準備をしてしまうことにする。
    「始! 起きてる?」
     ドアがガンガンとノックされ、こちらが返事をする前に相方が顔を出す。
    「ノックの意味がないな」
    「今さらでしょ。……あれ? もしかしてまだ疲れが取れてない? 昨夜よりもちょっと顔色が悪い気がする」
     目敏い相方には若干夢見が悪かったんだと伝え、時間に遅れないように二人揃って寮を出た。
     その後、ことある毎に昨夜の出来事がフラッシュバックしてしまい、あろうことか本番中に凡ミスを連発してしまった。春にはちゃんと寝たのかと怒られ、月城には心配されながらも自己管理が至らなかったことを窘められた。
     どうにも始の顔色が悪く、本調子ではないということで、午後に予定されていた仕事を延期にまでされてしまった。それほど大事に至るとは思わなくて、始は少なからずショックを受けた。融通が利く雑誌の取材だったとはいえ、相手方にも迷惑を掛けてしまった。自分はそんなに酷い顔をしているのだろうかと落ち込む。
     春と別れ、始は一人タクシーで寮に戻る。月城が送ると言ってくれたが固辞した。帰宅くらいは一人で平気だし、何よりもこれ以上迷惑を掛けることになるのが情けなさすぎた。早くひとりになりたかった。
     昨日までどこにも不調なんてなかったのに、リズムが百八十度狂ってしまった。芸能界は毎日が冒険のようで、同じ日々はない。そこが楽しくもあり好ましくもあるが、逆に言えば手にしそびれたものはもう二度と手に入らないのだ。似たような代替品でさえ難しい。すべてが一期一会。そんな世界なのだ。
     始は喪失感を抱えながら一旦自室へ戻ったものの、眠気なんて当然ない。部屋着に着替えてフラフラとグラビの共有ルームへと向かった。
     月城から、体調を整えるまではグラビフロア以外の外出禁止を言い渡された。グラビの領土をふらつくのは辛うじて許されている。
     フロア内は静まり返っていた。平日の午後で、全員仕事、もしくは学校に行っている。当然フロアには誰もいない。静かだと広く感じた。
     昼の日差しがぽかぽかと降り注ぐ共有ルームのリビングで、始はソファへだらりと座った。誰も見ていないから、どんなにだらしなくしても構いやしない。とても投げやりな気分だった。
    「俺は、何がそんなにショックだったんだ」
     自分の感情が自分でも制御できなくて、心が大きく揺れてしまうことに納得できない。実際に周囲の人へ実害を被らせてしまったことによる焦燥感と、心身の疲弊が始を苛んでいた。
    「……気分転換に次のライブのセットリストでも考える、か」
     始はライブが格別に好きだった。
     メンバーは勿論、あの会場のすべてと一体になれる高揚感は、まさにそこでしか味わえない唯一無二のものだ。仲間たちと一緒に声を出して、全力で歌って、力の限り叫んで、そして限界を突破して身体を動かす。会場の熱気を感じながら客席へとコールする。そこでふと始は思い出した。
    「そういえば俺の曲は、そこそこ扇状的な振りが多かったよな」
     ギリギリ十代だった頃、自分にこれを歌わせるのかと驚いた記憶がある。
     色気なんていうものには言葉ですら縁がなかった。ダンスの振りも難しく、振付師と何度も練習をして必死に食らいついていった。とにかく初めてのこと尽くしで必死だった。けれどとても楽しかった。
     始の振る舞い一つで客席が熱気に包まれるのは爽快だった。当時は果たしてこれが自分に表現できるのかと不安にも思ったものだが、蓋を開けてみれば大絶賛の嵐だった。
     一時はSNS上で歩く十八禁などと衝撃的な呼ばれ方をしたのは不本意だが(春が大爆笑していた)、評価は高かった。色っぽく、艶っぽくだなんて、まさに今始が演技で求めているものじゃないかと思い至る。
     自分の曲なのに何故気づかなかったんだろう。思わぬ糸口を掴めて、始の気分が少し浮上する。ステージとドラマという違いはあるが、表現には違いない。上手く落とし込めるのではと思った矢先、ふとその時の隼の反応を思い出した。
     あの曲を聞いて、歌っている始を見て、隼のリアクションに慣れたプロセラの面々が真剣に引くくらい、それはもう悶え狂っていたらしい。
    「あぁ……、そうか……」

     ────私は推しの部屋の壁になりたい!

     女性芸人の言葉が頭をよぎった。
    「隼は、『睦月始』が好きなんだな」
     言葉にすればしっくりときた。ようやくすとんと腑に落ちた。
     隼が始を仲間として、同志として大切にしてくれているのは本当だ。けれど、彼が好きなのはアイドルの『睦月始』であって、ただの始ではない。
     ズキンと胸にひび割れたような痛みがして、反射的に涙が溢れた。
    「あ……」
     ぼろぼろと次から次へと溢れてくるそれに自分でも驚く。
     勝手に涙が出る。自分は悲しいのだろうか。何が悲しいのだろうか。
     隼に、相手にされないことが、なのだろうか?
     納得したと同時に、これからも自分は期待に応えられる『睦月始』を見せられるのかと、急に不安になる。プレッシャーが重く圧し掛かり、息が詰まる。喉の奥が苦しくなって思わず喘ぐ。
    「……う、」
     隼は、ただの始には何も求めていないのだ。だから誘われているなんて欠片ほども気づかなかった。
     何も。
     再度涙が溢れてくる。
     どうせ誰もいない。自分が泣きたいなら泣かせてやればいいと、どこか冷静な部分が考える。自分の感情が理解できなくても、事務的に泣いてしまえばやがては落ち着きを取り戻すものだ。涙とは、キャパシティを超えたストレスを、体外に吐き出すためのシステムなのだから。
     ふと空気が動いた気がして、ぼたぼたと涙を流しながら始が振り向いた螺旋階段の先に、困ったような顔をした陽が立っていた。
     プロセラも本日は全員出ていると記憶していたが、予定が変更にでもなったのだろう。タイミングが悪かった。年下の彼らには良いところばかりを見せたいのに、こんなものを見せてしまうなんてと後悔した。春の言う通り、大人しく部屋で寝ていれば良かったのだ。どれだけ反省しても、もう既にあとの祭りでしかないが。
     始はそっと顔を伏せて、陽に背を向けた。
     これで人の感情の機微に聡い彼は、見なかったことにして立ち去ってくれるだろう。
     ところがその思惑は外れ、肩に温かな温度が触れた。始の思いとは裏腹にグラビの共有ルームへと足を踏み入れた陽は、始が座っているソファの背にもたれて、始の肩にポンと手を置いた。そして何事もなかったような、いつもの声音で訊いてくる。
    「始さん、お茶飲みませんか? 俺、淹れますよ」
    「……見逃してくれないことに、驚いた」
     涙声で疑問を返せば、陽はふっと笑った。
    「泣きたい時って、誰か側に人がいてくれる方がたくさん泣けません?」
    「お前は、俺を泣かせたいのか?」
    「だって泣きたい時ってのは、感情が煮詰まってる時ですよね。いつまでも引きずるより一気に泣いて、全部出し尽くしちゃった方が良くないですか? モヤモヤするものはとっとと出し切った方が、スッキリ笑えますよ」
    「……そうか」
     なるほど、と納得して、陽の優しさにわだかまっていた心が少し解けた気がした。
    「俺、今から適当に喋りながらお茶淹れるんで、待っててくださいね」
     キッチン借ります、という彼に頷くと同時に、さっきよりも涙が出た。陽が言った通りだった。優しくしてくれる人がいると、涙が増える。
     ぐす、と鼻を鳴らしても、喋りながらお湯を沸かす陽の耳には届かない。彼は始のために、独り言を呟くように、最近あったちょっとしたことをペラペラと話してくれた。
     小さな嗚咽が落ち着いた頃、ハーブティーのいい香りが鼻先をくすぐる。陽は両手にカップを持って始の元へと戻ってきた。
    「はい、どうぞ」
     差し出されたカップを両手で受け取れば、じんわりと手のひらに温もりを感じた。お湯の温度は、すぐにでも飲めるくらいの熱さだった。
    「手慣れてるな」
    「お茶のことですか? うちには誰彼構わずお茶淹れろってねだってくる駄々っ子がいますんで、全員いつの間にか淹れるのはお手の物なんですよ」
    「そうなのか」
     いつも彼らのリーダーのことを邪険にする陽だが、適度な温度でお茶を淹れてやる程度には慕っているようだ。微笑ましくなって、始は泣いたまま笑った。
    「で、何かあったんですか?」
     直球で訊かれて苦笑しつつ、始はどう答えようかと悩む。もう散々情けないところを見せたあとだ。どうせならば陽に相談してみようと開き直る。彼ならば、自分とは全く違った視点でアドバイスをくれるかもしれない。
     某俳優と一悶着あったことと、始が隼にしたことは端折っておく。役作りに悩んでおり、それを第三者の視点からダメ出しされたという内容を簡潔に話した。
     どんな役なのかを説明するのは少しだけ気恥ずかしかった。色気がないだの何だのと年下の彼に言うのは、若干情けない気持ちになる。
    「……いや、始さんにエロさが足りないとか誰が言ったんだよ……。これ以上威力が上がったら隼が死ぬだろうが。じゃあ今あいつがまだ原型留めてるのかって言われると、それも返答に困るんだけどさ。あれでも一応リーダーだからガチで死なれるのは困るんだよ、死なれるのは。にしてもそいつの目はとんでもない節穴なのか?」
     半眼でぼそりと呟いた陽の言葉が上手く聞き取れず、始は首を傾げた。
    「陽も、俺に色気がないと思うか?」
    「えっ! いや、そんなこと言ってないですむしろ逆っていうか」
     そこで陽はこほんと咳払いをする。
    「とにかく! 訊いた俺が言うのもなんですが、相手は俺でいいんですか? もちろん始さんが頼ってくれるのは嬉しいですし、俺の知識で良ければできる限りお手伝いしますけど。こういうのは隼とかの方がいいような気も……待てよ、内容的にやっぱ隼が死ぬのか……?」
     陽の言葉から、隼にはそういった経験があるということだろうかと考える。どちらにしても、昨夜散々失態を繰り返して先ほど無力感を味わった相手に頼むほど、始の神経は図太くない。
    「いや、いい。あいつは壁になりたい奴だから」
    「はあ。壁になりたい、ですか……?」
     ライバル的な意味でですかね、と陽は困惑気味に始を見た。そしてすぐにふるふると首を振ったあと、彼は真剣な表情になった。仕事用の顔だな、と始は興味深く陽を観察した。
    「えーと、それじゃちょっと質問です」
    「ああ」
    「始さん、自分のキメ顔って何通りくらい把握してます?」
     カメラを向けられる職業を生業としている者は、自分が良く見える角度をいくつか知っている。良い絵を撮るためには、カメラだけでも人物だけでも足りなくて、双方が良く見せるように工夫をしなければならない。
     アイドルを始めた時に、撮影のノウハウは一通り習った。始にも、カメラを向けられるとまず意識する角度というものがあった。
    「バリエーションはそんなにはないな。ここぞというパターンはいくつか作ってはいるが」
    「撮影だとそれをいかに効果的に使うかってことはご存知だとは思いますが、同じことをドラマでもやるんですよ。とにかくカメラを意識して画角を細かく想像する。どういう向きにすれば映えるのか、それの連続です。俺の場合、相手役の人もカメラだと思って角度と表情を意識してますね」
    「相手が、カメラ……」
    「そうです。一番良く見える角度を繋げて見せることが大事なんですよ。相手をときめかせるってことは、常にこっちの良い顔を見せるってことでしょ? そうそう、たとえばこんなふうにね」
     陽はちょっとすみませんと一言入れると、始をソファへ仰向けに横たえた。腿を軽く開かせてその間に片膝を割り入れ、始に覆い被さるようにして顔の隣に手を着いた。
    「俺の表情見ててくださいね。───こんな感じは、どうですか?」
    「……いつもとは全然違った雰囲気だ。なるほどな、確かにぐっと魅力的に見える」
     ストレートに褒めると、陽は目元を赤らめて笑った。彼は己の魅力を相手に伝える術に長けている。すごいなと始は感嘆した。
    「昔、彼女がいた頃に、こういう顔すると相手が喜ぶっていうの覚えたんですよね。その子が喜んでくれる表情とか言葉とか、とにかくいろいろ。ぶっちゃけモテたかったんですよ、俺。今はまあ特定の相手がいなんで、その頃を思い出しながら鏡でキメ顔研究してるんですけどね」
    「陽はよく勉強してるんだな」
    「そりゃあもう。だって俺はアイドルですからね。いつだって女の子が求める王子様でいたいんですよ。そしてもっとキャーキャー言われたい」
     戯けたようにウインクをする陽は、いつもよりもっと格好良く見えた。
     最初から彼に教えを乞えば良かったと始は反省する。技術を磨くことに年齢は関係ないし、彼はもう面倒を見るだけの相手ではない。雛鳥はいつの間にか巣立っていくものだ。
     年上とはいえ、始だってまだ子供の域を多少出ただけのひよっこには違いない。それなのに、まるで親にでもなっていたような心持ちだった。今後は考えを改めないといけないなと苦笑する。年下の彼らもまた、自分のライバルであるのだと。
    「もう少しお前のテクニックをご教授願いたいもんだな、葉月先生?」
     陽の真下で不敵に笑えば、彼は困ったように眉尻を下げた。
    「……うーん。すっごく嬉しいんですけど、もうこれ俺が教えることなくねっていうか、この人にこれ以上の色気、いる?」
     節穴野郎は今すぐ眼科行ってこいよと呟きながら、先生と呼ばれた陽は満更でもなかったらしい。始が重ねてねだれば、もうちょっとだけ技術指南に付き合ってくれるようだった。
    「んじゃ次は、表情とか角度にプラスして動きを付けましょっか。もう少し近寄るんで見づらいかもしれませんけど、そこはまあ雰囲気で」
     くすくす笑いながら、陽は始の唇の辺りに指を這わせた。
     始が隼に仕掛けて見事に無視された動作に似ていたが、陽を見上げればその表情はひどく艶めかしく、彼はこんなに色気のある貌をするんだと素直に感動した。
     表情と合わせて口元を優しく撫でられるのは、確かに心をざわつかせる。目の前の存在に心を惹かれていく。
     似たようなことをしても自分は全く駄目だったがと自嘲しつつも、折角の機会なので、始は後学のためにも陽の手管をじっと観察する。赤い髪から覗く、グレー味のある淡い紫の瞳を遠慮なく見つめた。こんなに近くで見るのは初めてで、揺らめく色に、自分の目の色ともちょっと似てるだなんて密かに発見して嬉しくなった。
     過去に何人か彼女がいたという陽は、色恋の何たるかも様々に経験しているのだろう。始の知らない世界を知っている彼を、羨ましいと思った。
    「陽……! 何、してる、の」
    「は……、隼?! うげっ、マジかよ」
     二人の親密な空気を壊す硬質な声が響き渡り、陽が非常に嫌そうな表情を作って螺旋階段の方へ顔を向けた。
    「何でこんな時間にお前がいるんだよ。それに夜まで」
     始も寝転んだまま視線を向ければ、衝撃を受けたような顔をして始と陽を真っ直ぐに見つめる隼と、その隣でおろおろする夜の姿が見えた。
     もう少しで何かを掴めそうな気がしていたのに、突然の闖入者に邪魔されたのが面白くない。どうせ隼には、関係のないことなのだ。始は陽の服を引っ張り、彼の意識をこちらへと向けさせる。
    「気にしなくていい。あいつは壁だから」
    「は、はあ。また、壁……?」
     陽がして見せてくれた動作をなるべく真似て、始は彼の頬に指を滑らせた。
     あの先を、もうちょっとだけ見せてほしい。
    「陽、続き……ほしい。くれ」
    「いやいやいや、そこは言葉を端折らず普通に『見せてほしい、見せてくれ』って言ってくださいよ始さん! この状況でそんな誤解を増やすだけのセリフ、ピンポイントで言っちゃうことある? でもこれがこの人の素なんだよな、知ってる! 本当に誰だよこの人に色気が足りないとか言った節穴野郎は! 即眼科行ってこいマジで! おかげで今とんだ修羅場だよ!」
    「……陽、どうした?」
    「陽、何で、君が……」
    「よ、陽! 隼さん?! ああっ、俺はどうしたら……!」
     小首を傾げて陽を見る始。
     おどろおどろしい空気を背負った隼。
     あたふたと焦り始める夜。
    「だーーーーもう! そうだよな! 傍から見るとトンデモ勘違いしかない状況なんだわ! めんどくせえ!」
     くっそ、と悪態をでかでかと吐いた陽はさっと始の上から降りる。講義はここでおしまいかと始が残念に思っていると、陽は隼を指差して言い放った。
    「ポジション変わってやるからお前がやれ」
    「え、僕?」
    「おいコラ急に露骨に嬉しそうな顔すんな! いいか、俺と始さんは今、始さんの役作りの一環として演技の研究をしてたんだ。つーわけでそこの二人に告ぐ! 変に騒ぎ立てるんじゃない」
     その言葉を聞いて、夜があからさまにほっとした顔をした。
    「なあんだ、そうだったんだ、よかった……。俺はてっきり陽が始さんを無理矢理……」
    「おい夜やめろ。冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ。隣の白いやつが本気にしたらどうしてくれる」
    「だって陽、始さん泣いてる……よね?」
     始は夜の遠慮がちな言葉にハッとして目尻を拭う。いろいろと感情がせめぎ合って、また涙が出ていたようだった。
     夜に見られるのも、隼に見られたのも不覚だった。再びやるせない気持ちになる。
    「感情も込めての演技だから、そのせいだっつーの」
    「え、あ、うん。もちろん陽がそんなことする人じゃないってわかってるよ。ちょっとびっくりしちゃって。そうか、そうだよね。演技で泣いたりするのは俺もあるから」
     フォローしてくれた陽の優しさが弱った涙腺に刺さる。始はそれをどうにか堪えて、すぐにいつもの顔を作った。
    「……僕も、陽を信じていたよ!」
    「わざとらしいわ。お前、めちゃくちゃ恨みがましそうな目で俺のこと見ただろうが。誰も取ったりしねえから安心しろ!」
     一通り反論し終わり、ぜいぜいと肩で息をした陽が一呼吸置く。
    「まあ、でもそういうことだから。近すぎて何やってるか全体像が見えないって思ってたところだし、丁度いいか。通り掛かったのが魔王様なのは予想外だったけど。仕事の方はどうしたんだよ」
    「夜と一緒だった予定が変わってしまってね。突然のオフになったから二人で寮に帰ってきたんだよ。そしたら始の気配を察知して、嬉しくなってここへ来てみれば、陽が始を」
    「わざとそういう言い方すんのやめろ。だから役を譲ってやるって言ってんだろ」
    「ありがとう陽! 君はなんていい子なんだ! 僕が謹んで始のお相手役をさせて! いただきます!」
    「コイツのこと殴りたい。心底すげえ殴りたい」
     二人の会話をぼんやり聞いていた始は、じゃあ隼と変わってもらうんで、と陽に言われて何も考えずに頷いた。陽と隼の二人で演技するところを客観的に見せてもらった方がいいのではとも思ったが、監督のように全体を見て動きを確認し、是正してもらうのも確かに勉強になるかもしれない。
     そう納得して、横たわったままの始の上に乗り上げる隼を、ぼうっと見つめた。
    (あの時と同じだ)
     キッチンで、あの唇に触れた時と。始を真っ直ぐに見つめる瞳には労わるような表情が浮かんでいた。
     今は、何故だか隼の表情がよく分からない。陽に指名されて面白半分で付き合ってくれているのは間違いない。彼は楽しいことが大好きだし、演技の勉強なら自身のためにもなるはずだ。
    (何も見えない。隼がどんな顔をしてるのか……いや、きっとどうという顔でもない)
     どうせ始が何をしても、『睦月始』からのアクションでない限り、隼は。
     先ほどの陽と同じように顔が近づいてきても、何とも思えなかった。
     たとえばこのままキスをしたとしても、きっとまた体調が悪いのかと言われて運ばれるだけなんだろう。そもそも現在、始は体調が悪くて休みを取らされているのだから、それこそが真実でもある。
     それならそれでもういい。スっと気持ちが冷めた。茶番は終わりにして自室へ戻りたいなという思いが浮かんでくる。どうせ、隼の心には波風ひとつ立たないのだ。
     急に悔しいが込み上げ、始はまた泣きたくなる。しかし二度とここで泣いたりなんてしたくなかったので、代わりにぐっと奥歯を噛み締めて衝動をやり過ごした。
     何故これほど悔しく思うのかを掘り起こそうとして、始はわけが分からなくなっていく。自分は隼に、どうしてほしかったんだろう。
     近づいてくる隼の頬に手のひらを添わせ、顎を掴む。唇を少し開かせて、顔の角度を傾けた。それからもう片方の手を彼の後頭部へ回し、一気に引き寄せる。
     目を閉じて、唇を合わせた。
     温かいな、と思った。
    「ちょ、始さん……っ?! さすがにそれは……おい隼、返事しろ! 生きてるか?!」
    「ひええぇぇっ、始さん……っ! 隼さん、隼さんが死んじゃいます……っ!」
     陽と夜が慌てたような悲鳴を上げる。
     すぐに唇を離し、目を開けた始が最初に見たものは、鼻を押さえて仰け反りながらソファから転げ落ちる隼の姿だった。
    「──────はうっ」
    「しゅ、隼さああぁぁーーーん!」
    「おい夜、ティッシュだ! ティッシュ持ってこい! 早く!」
    「あ、う、うん。えっと、あった! これお借りますっ」
     夜はティッシュの箱をガシッと掴んで陽に差し出す。陽は何枚か引き抜いて急いで隼の鼻に詰め込んだ。
    「鼻血吹いて倒れるとかいつのギャグだよ! 古典的すぎるんだよ!」
    「でも寝たままだと血が逆流することもあるから、たかが鼻血と言ってもあなどれないよ」
    「夜、俺が言いたいのはそういうことじゃねえんだわ」
     何が起きたのか、始にはすぐに理解できなかった。
     最初は役作りの上での純粋な好奇心だった。
     いつの間にか、隼の心を暴いて振り向かせたくなった。彼からの反応が、欲しかった。
    「俺は、勝ったのか……?」
    「はい? あの、始さん……?」
    「ええっと、隼さんのことでしたら、今のクリティカル攻撃で瀕死の重症ですよ!」
     呆然とした始は、陽と夜に介抱されている意識のない隼を見つめた。不意に込み上げてきたのは、鬱々とした心を全部塗り替えてくれるような、満足感だった。達成感とでも言うべきだろうか。
    「……やった。俺は、壁を倒したんだ」
    「って、また壁? 壁って何なの?! 俺、今本気で始さんの思考が理解できないんだけど!」
    「落ち着いて、陽! まずは隼さんの鼻血を止めるのが先だよ。すっごく見事なクリーンヒットだったからね」
    「うおおーい! 何でここに郁がいないんだよ! 俺一人でツッコミを捌ききれねえ! 郁! 頼むから今すぐ帰ってこい!」
    「あっそうか。いっくんはスポーツやってるから応急処置上手だもんね」
     鼻血が逆流しないよう、隼の上体を少し起こして抱きかかえるようにした夜が、にこやかに陽を見る。
    「夜! 変なテンパり方してないで正気に戻れ!」
    「隼さん目覚めませんね。……綺麗なお顔をしてます」
    「死人みたいに言うな。縁起でもない。鼻にティッシュ詰め込まれてだらしなくニヤけながら気を失ってる顔なんて、俺なら絶対ファンの子に見せられねーわ」
    「すごく幸せそうだよ? 眺めてると好感が湧いてくるような……」
    「んなもん沸くか! ……しっかしグラビの共有ルームにこんなもん放置しとくわけにもいかねえし、運んでやるのはなんか癪だし」
     どうするかなあとぼやいた陽の隣に影が落ちる。
    「始さん……?」
    「隼は俺がもらう」
    「へ?」
     始は陽の返事を待たず、夜に代わって隼を抱き起こす。背中に片腕を差し込んで上体をしっかり起こし、膝を立たせてその裏側からもう片方の手を入れ、抱き上げた。
    「わ、お姫様抱っこってやつですね。お二人がすると絵になりますね!」
    「白い方は鼻にティッシュ詰められてるけどな?」
     完全に意識を飛ばしている身長百八十センチ越えの成人男性の重みが、ずっしりと始の両腕に掛かる。
    (……、重い)
     だが先日、隼は軽々と始を抱えてみせた。始の意識があったとはいえ、二度もだ。彼は廊下を走ってさえいた。
     それならば隼と身長と体重が全く同じ始にだって、物理的には可能なはずなのだ。
    「えっと、もしかしてコイツのこと部屋に運んでくれるんですか?」
     申し訳なさそうに始を見上げた陽に、しかし始は事も無げに言い放つ。
    「俺が勝ったから、俺の部屋へ持って帰るが?」
     陽は一瞬黙り、若干視線を彷徨わせたあと、再び始を見上げた。
    「……すみません、ちょっと言ってる意味がわからないです始さん」
    「戦利品……、ですか。何の勝負かはわからないですけど、それなら仕方ないですね。さすが戦闘民族です!」
    「いやマジで何の話?!」
     始は陽と夜の二人へふっと笑い掛けると、隼を横抱きにして自室へと向かった。
     もう俺はツッコまねえぞ、という陽の絶叫が共有ルームに響いていた。


     始が満足そうに去ったあと、ずっと笑顔を貼り付けていた夜の顔が真っ青に変わる。
    「ど、どどどどうしよう陽。演技の練習とはいえ隼さんと始さんのキスシーンなんて俺には刺激が強すぎるよ……! むしろこれって見ちゃいけなかったんじゃないの?! 次に会った時どんな顔したら……! しかも始さん、何だか様子がおかしかったよね? 隼さんは大丈夫なのかな?!」
    「お前はこのタイミングで正気に戻るのかよ! そっちの方が驚くわ!」



     ***



     人をひとり抱えたままドアを開けるのはなかなか難しかった。
     始はどうにか室内に入ることに成功し、寝室へと向かった。とりあえず意識が戻りそうにない隼を自分のベッドの上に転がしてみる。昨夜は始が同じように転がされたことを思い出し、面白くない気持ちになった。
     血は止まっていたようなので、息苦しそうな鼻のティッシュは取ってやり、しばらく何をするでもなくその寝顔を眺めていた。いつまで経っても反応がないことにやっぱり少し苛ついたが、始はおもむろに隼を壁際へ追いやると、空いた隙間に自分の身体を捩じ込ませた。
    「……狭い」
     隼のベッドは快適だったし広かったのにと思ったら、その後の出来事も芋づる式に思い出してしまい、始の中へまた不満が溜まり始めた。
     何がそんなにむかむかするのか自分でも分からずに腹は立ったが、こうして隼を倒して捕まえてきたので、もう終わったことなのだと片付けてしまう。
     気疲れしていたこともあり、急速な眠気に襲われて、始はそのまま意識を手放した。



    「……はっ。何だか僕の生死を著しく左右するような、とんでもない過酷な夢を見ていた気がする……」 
     真っ暗な部屋で隼が瞬きをする。最初に目に入ったのは見慣れない天井だが、よく知っている部屋だった。
    「え、始の部屋? なんで」
     少し身体を起こして、さっきから感じていた温かいものに目を向けた瞬間、隼はひえっと悲鳴を上げて飛び退る。壁にゴンと背中をぶつけて、その音で始は目を覚ました。
    「ん……」
    「は、は、はじめ……?! 何で僕、始と寝て……僕が始と、始と寝、寝、これって同衾……、ど、どうきん? え? 何これ?!」
    「……うるさい。壁は黙ってろ」
    「あっ、始! おはよう、と言っても今は夜なのだけど。それに壁、とは……?」
     共有ルームでいろいろと起こったのは午後も遅めの時間だったので、昼寝というには長すぎる時間を微睡んだようだった。隼の快適な温度でぐっすりと眠れたせいか、始の頭の中はとてもすっきりとしていた。あんなに苛々していたのが嘘のようだ。
    「壁……ああ、そういえば壁は倒したから、今度は布団でいい」
    「壁が、布団に……? shit……! 始のことが理解できないなんて、僕はまだ未熟者だ。ごめんね始。今度会う時までにはちゃんと壁と布団の関係について勉強してくるから」
     起き上がった隼との隙間にできた空気がやたらと寒く感じる。もう少し温もっていたいとぼんやり思った始は、手探りで隼の袖を引っ張ってベッドに引き戻そうとした。
    「もう少し寝てろ」
     始の言葉に、隼は言葉にならない声で叫ぶ。始から距離を取るように、先ほどぶつかったばかりの背後の壁へと張り付いた。
    「無理、無理無理絶対無理! 始のベッドの上で始と密着しながら同衾なんて、寝れるわけがないよ!」
     あまりの必死すぎる拒否に、再びうとうととしかけていた始の頭へまた血が上りかけた。
     のそりと上体を起こして、壁にしがみつく隼と向き合うようにあぐらをかいて座る。
    「……ああそうか、悪かったな。どうせ俺には色気なんてねえよ」
    「えっ、誰がそんなことを?! 全くもってあり得ない! そんなわけがないよね、断じてないよ!」
    「お前が言ったんだろ」
    「はい……? ちょっと待って始。この僕がそんなこと、天地がひっくり返っても言うわけないから! 何かの勘違いだよ。それにしたって始の様子がおかしいような……? ねえ、どうしたの、始。昨日からどこか変だよ。何かあったの?」
     隼は信じられないとばかりに始の顔を覗き込んだ。しかし始は、隼がキッパリと否定してくることにさらに苛立ちを覚えた。
    「言っただろ。……いや、言葉にはしていないのか。嫌味なほど態度で表してただけ、だな。どっちにしても同じことだ。お前は俺が何をしてもどうとも思わないんだから、黙って布団になってればいい」
    「ええっ、僕が一体いつ始に何を……?! しかもまた布団という意味深なキーワード……。どうしよう、全く記憶がない。完全無欠の記憶力なのに。何で、どうして? 時空でも歪んだのかな。それとも神様の悪戯? いいや、魔王様の僕に悪戯するなんて神様でも無理。そんなことできるのは始しかいないよね?! っていうことは今まさに僕は始から悪戯をされてる?! 今、僕は始のベッドの上で、始に抱き着かれて迫られていた……?」
     面白いくらいに表情豊かに慌てふためく隼を見て、始の溜飲がちょっと下がった。そして寝起きの頭はここへ来てようやくきちんと覚醒したようだった。
     隼を壁際に追い詰めて、突っかかるような体勢になっていたことに、始ははたと気づいたのだ。自分は今、何をしているのだろう?
    「あの、これって……」
     先ほどまでとは打って変わって真剣味を帯びた隼の声が、おそるおそるといったように始へと問いかける。
    「君が、僕を、誘ってるってこと……で、いいの?」
    「────は?」
     思わず剣呑とした目付きになれば、隼はぴえっと鳴いた。
     そういえば何故こんなことになったのかと、始はぐっすり眠ったおかげでさっぱりした頭で考える。
     切っ掛けは顔も思い出したくないあの男だ。焚き付けられて、それが丁度自分の思い悩んでいる事情と上手く噛み合ってしまった。頭に血が上ってカッとなった記憶は、ある。
     それから、躍起になって何故か隼に絡み、彼にしたことの数々の所業が脳裏を通り過ぎていった。
    「…………っ」
     一気に顔が熱くなる。自分は本当に、一体何をしていたんだろう。
     憑き物が落ちたとはよく言われる言葉だが、よほど悪いものに憑かれてしまっていたらしい。仕事のストレスが、思いのほかメンタルに響いていたのかもしれない。管理不足を痛感して、始は項垂れた。
     総合すると、悩みをからかわれて逆ギレし、無関係の隼へ性的に絡んだ(しかも本人にはすべてスルーされた形だ)。
     恥ずかしすぎる。悩みの方も何ひとつ解決していないのがまた救えない。いや、陽のおかげで突破の糸口は掴めたと言えるのか。
     とにかくいたたまれなくなり、この場から逃げ出したくなった始は、ベッドを降りようとして失敗する。隼から離れるつもりが、逆によろけて隼の胸へと突っ込んだ。
     そこをすかさず隼が抱き締める。二人の身体がぴったりと密着する。
    「……隼、お前……」
     下半身に触れたせいで、隼の身体の変化を知ってしまい、始は狼狽えた。
     わざとじゃないし、不可抗力だ。けれど彼が何故そんな状態になっているのか分からなくて、焦りが加速する。どうして今この状況で、そんなに興奮しているかなんて。
    「男の身体の構造上、興奮することとこの生理現象は切り離せないんじゃないかなあ。君にだって覚えがあるでしょう? たとえば、ステージ上で最高に盛り上がって興奮したあとの舞台裏とか、辛い時ないかな?」
     言われてみれば、それは確かに経験がある。あの時の感動と興奮が綯い交ぜになった感覚は、とても言葉では言い表せないが。
     始を抱く隼の腕に力がこもる。余計にその昂りを感じてしまい、始の喉がひっと鳴った。
    「僕も、男の子だしね?」

     ──男の『好き』は性的欲求と切り離せない。

     そんなことを知りたいだなんて思っていた自分は大層な間抜けだった。
     目の奥がチカチカする。
     そういう目を、今まさに向けられている。
    「だけどそれは僕の事情であって、純粋に君を推してる心は本当なんだ。だからそういう欲望を君に見せたいわけじゃない。今の今までそう思ってたんだけど……」
     ねえ、と唇へやけに艶やかな笑みを刷いた隼が、至近距離で始を見つめる。蛇に睨まれた蛙のように、始の身体は隼に捕まったまま、緊張で指一本すらも動かせなかった。
    「君から誘ってくれるのなら、話は別だ。手を伸ばしたくても届かないはずのものが、向こうからこの手を取ってくれるというのなら、僕は」
     はじめ、と。愛おしむような声音が名前を紡ぐ。
    「君を」
     隼は動けずにいる始の身体を抱え直すと、ゆっくりとベッドの上へ仰向けに横たえた。始が反応できないうちに、隼が覆い被さってくる。逃げ場がどこにもないことに、始は痺れるような感覚を覚えた。
     お前は壁がいいんじゃなかったのか?
     焦って混乱した頭は、そんなことを思うのが精一杯だった。
    「この腕の中に閉じ込めて、ありったけの愛を囁いて、しなやかな肢体を愛でて、それから……」
    「…………っ!」
     服の上から下腹のあたりを撫でられて、ぞわりと鳥肌が立つ。
    「僕の欲望を君のここへ、ぶちまけてしまいたい」
     手のひらから火種を落とされたように、腹の奥にじんと痺れが走る。身体の芯に火を灯されたみたいだった。
     次第に息が上がり、始は発生した熱を逃そうと大きく胸を上下させた。
     隼はそんな始の様子に笑みを深くして、始の腹から手を離す。今度は愛おしそうに黒髪を撫でて、両の手のひらで始の頬を包み込んだ。
    「はじめ」
     距離が、近くなる。

    (無理だ……!)



     ツキノ寮全体を揺るがすような激しい轟音が、グラビフロアから響き渡った。


    3.



    「ちょっと始?! 凄い音! とんでもない破壊音がしたんだけど?! この寮って防音だったよね?!」
     寮の防音性能を遥かに上回る衝撃音が隣室から響き渡り、血相を変えた春が自室から飛び出す。
     問題の隣室、始の部屋のドアを問答無用で開けようとしたが、鍵が掛かっていて開かない。仕方なくガンガンとドアを叩いていると、葵、夜、それから新の三人がグラビの共有ルームから駆けてきた。さらに自室にいた恋が、焦ったようにドアを開けて廊下へとまろび出る。
    「は、春さん? 一体何が起こったんですか?!」
     泡立て器を片手にしている葵は、グラビルームでお菓子作りをしていたようだった。
    「ひええええっ、始さんの部屋で何かあったんですか?! 始さんどうなっちゃったんですか?!」
    「ま、まさか……」
     顔を真っ青にする恋の隣で、こちらはフライ返しを持つ夜が顎に手をやり、何やら考え込んでいる。
    「うーん。何やら事件のにおいがする」
    「新、落ち着きすぎ!」
     新はクッキーを片手にもぐもぐとしながら呟く。こちらは葵と夜のお菓子の味見係をしていたらしい。
     仕事で出かけている駆以外は、先ほどグラビの共有ルームで仲良く夕飯を取っていた。春は始が部屋にいるのは当然把握していたが、夕飯の時刻になっても出てくる気配がなかったのでそのまま放っておいた。やはり疲れが溜まって寝ているのだろうと思ったから、声を掛けることはしなかったのだ。
     部屋のドアの前で一同が不安になっていると、ずっとうんうん唸っていた夜が、ぼそりと呟いた。
    「今の音の発生源、始さんの部屋からだったんだよね? 隼さん、夕飯にも来なかったし、俺が葵に誘われてグラビフロアに来た時、まだ部屋に戻ってないみたいだったから……。もしかして、隼さんが大丈夫じゃなくなったのかも……です」
    「隼が大丈夫じゃない……?」
     それはいつものことなのではと思いながらも、春は夜の不吉な言葉にまた面倒ごとかと渋い顔をする。始の部屋の前が軒並み騒がしくなった。
     夜の発言のおかげで、室内に踏み込む元気は一気にマイナスにまで低下したが、このままでは埒が明かない。春は意を決してもう一度ドアを開けようとする。すると、先ほどは鍵が掛かってびくともしなかった扉が、今度は不思議とすんなり開いた。不安を煽る現象に一瞬眉根を寄せたものの、室内へ向かって声を張り上げた。
    「始、入るよ?」
     部屋の中は真っ暗だ。春がパチリと照明を点けて室内へと踏み込めば、リビングの床にはうつ伏せに倒れ伏した隼の姿があった。
     ピクリとも動かず、顔から首の位置にかけて血溜まりができている。全く想像していなかった光景に、春はひゅっと息を呑んだ。
    「隼?!」
    「うわあ、殺人事件の現場だー」
    「ちょ、ちょっと新! 物騒なこと言わないでよ……!」
    「そうだぞ新! 葵さんに謝れ!」
     ざわめくグラビ勢の隙間を掻き分けて、夜がひょっこりと室内に入る。
    「隼さん……! うわっ大変だ、また鼻血を……!」
    「え、これ鼻血なの?! それにまたって……」
     春が驚いている間に夜が隼を抱え起こす。仰向けにされた隼の顔を確認すれば、確かに鼻から血を流していた。
     隼の両鼻から鮮血が流れているというのもなかなかにセンセーショナルな光景だったが、命には別状ない様子に、とりあえず春は安堵した。鼻血にしては血溜まりの量が多すぎるのも気になるが、冷静に介抱する夜にあとを任せてしまうことにする。
     大混乱に陥ったリビングを通り抜け、奥の寝室に目を向ければ、引き戸が半分外れているのが目に入る。ただ事ではない状況だ。
     春がにわかに焦りを濃くして、寝室の中へと慎重に足を踏み入れる。そこにはベッドの側面にもたれかかるようにして、呆然と床の上へ座り込んでいる始の姿があった。
     すぐに駆け寄った春は、始と視線を合わせるようにして彼の肩を揺さぶった。
    「始! しっかりして、何があったの?!」
    「………………はる」
     始はゆっくりと春の方を向いた。意識はある。目元は少し潤んでいて赤みが差していた。まるで散々泣いた跡みたいだった。
     尋常ではない事態に春は震えた。こんな始は見たことがない。始がこんなにショックを受けるなんてと、春の中へ衝撃が広がっていく。
     普通に考えれば、こうなった原因はそこに倒れている隼ということになるだろう。何かしらのやりとりがあって、始が彼を投げ飛ばした。その時に寝室の扉にぶつかって外れたのだと予想する。
     しかしそこからリビングまではもう少しだけ距離がある。隼が何故そこで血を流して倒れていたのかまではさっばり検討がつかない。
     始が本当に泣いていたのなら、その原因が隼だというのなら絶対に見過ごせない。しかし隼が始を傷つけるようなことをするだろうか? それはまずあり得ないと思える程度には、春は彼のことを信頼している。
     段々と頭の中が混乱してくる。とにかく現場検証と隼の事情は後回しだ。まずは始のことが先決だ。
     春が始の目を覗き込めば、意志を持った光が見返してくる。正気はあるようで、肩をそっと撫でてやれば、始はふっと息を吐いた。
    「少しずつでいいから、何があったか俺に話してみて?」
     しばらくの間返答はなく、始はぼんやりと春の顔を見ていた。辛抱強く待っていると、たっぷり時間をかけてから彼は口を開いた。
    「……俺にも」
    「うん」
    「色気が、ちゃんとあった」
    「…………何だって?」
     既視感に襲われる。聞き間違えたのかと思い、春はもう一度必死で聞き取ろうと耳を傾けた。
    「春」
    「うん」
    「ようやく役と向かい合えそうなんだ」
    「……うんと、今度は何の話?」
     急に話が飛んだ。というよりそもそも繋がっている気がしない。
    「俺は最後まで演じ切って、あの男を、見返してやる……!」
     突然ぎらりと闘志を纏って目を光らせる始に、春はついていけず呆気に取られた。
    「おお、始さんからかつてないほどのやる気が迸っている! 頑張れ始さん! 俺は全力で始さんを応援しますよ!」
     パチパチと拍手をする新を胡散臭そうに見た恋が、あっと声を上げる。
    「あの男ってアイツのことですよね。あの失礼すぎるセクハラオヤジ! 是非是非ガツンと始さんの凄さを見せつけちゃってください!」
     俺も応援してます、との恋の言葉に、春は始に絡んでいたという俳優のことを思い出した。
     謂れのない悪口は気にしない始だが、そんな彼だってナーバスに陥ることもある。悪い方向に何かしらの歯車が噛み合って、スランプのような状態になっていたのかもしれない。
     春の中で、元凶の男に対する怒りがむくむくと沸き上がる。大切な親友を無意味に傷つけられるなんて、我慢できない。
     けれどそんな状況を脱却して、始は満足のいく答えが出せたということなのだろうか。それはそれで喜ばしいことだが、今度は何故隼がリビングで血溜まりに沈んでいたのかが意味不明だ。
    「夜、隼の具合は?」
     言動は怪しいものの、とりあえず始の無事が確認できたので、春は夜と隼の元へ戻ってくる。
     血溜まりは何度見ても派手だが、夜の様子から、重症ではないことは確かだった。
    「はい。応急処置はしたので大丈夫です」
    「応急処置? ええと、両鼻にティッシュを詰めたらさすがに隼でも息ができないんじゃないかなあ」
     大味な処置に春が苦笑すると、葵も乾いた笑いを零した。
    「あ、あはは……これはちょっと、ファンの子には見せられない姿ですね……」
    「とっても安らかなお顔です」
    「夜、言い方、言い方!」
     ぎょっとする葵の横に座り、春は夜に尋ねてみる。
    「えっと、夜は事情を知っていそうだね? 血まみれの隼を見てまたって言ってたし。隼がなんで始の部屋にいるのか、教えてもらってもいいかな?」
    「あっ、はい。俺もすべて知ってるわけじゃないんですが。詳しく事情を知っていそうな陽には、もう関わりたくないから何があっても呼ぶなって言われちゃいましたし」
     ますます話の雲行きが怪しくなってきたことを察して、春は脱力感に襲われた。プロセラのツッコミ担当が場を放棄するような、そんな面倒くさい何かが起きたということだ。
    「今日は俺と隼さんの二人で仕事があったんですが、予定が変更になってお昼過ぎに寮へ戻って来たんです。そしたらグラビルームで陽と始さんが何やら真剣にお芝居の練習をしていて、まあそこからいろいろありまして、始さんが隼さんを倒したあと、戦利品だからと言って隼さんを担いで自室に戻られたんですよね」
    「………………ちょっと待ってほしい。今の説明で何ひとつ意味がわからない」
    「う、うわあ……。いろいろの辺りを詳しく聞きたいけど、聞いちゃ駄目な案件のような……」
     頭痛を堪えるように額へ手を当てた春を見て、葵の口元が引き攣った。
    「あ、俺わかったかも。お芝居で始さんと隼さんがファイトして、始さんがストレート勝ちしたとかそんな感じ?」
    「ちょっと新! 話を余計に混乱させないでくれます!?」
     なるほど、と頷いてぽんと手のひらを拳で打った新に、恋がすかさずツッコミを入れる。
    「大丈夫だよ、恋。新の言った通りだから」
    「夜さん……?! いや、全然状況が見えてこないです……!」
     どこら辺が大丈夫なのか全く分からず、新以外のグラビ勢は口を閉ざした。春はどうにか削れかけた精神を立て直して、もう少しだけ詳しい状況を説明してくれるよう、夜へ頼んだ。





    「この度は、うちのリーダーがそちらのリーダーにご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ございませんでした」
     夜の話を吟味した結果、始と不在の駆を除くグラビ一同はプロセラの共有ルームに正座して、深々と頭を下げていた。
    「わっわっ、とんでもないです……! 皆さん、どうか頭を上げてください。多分やらかしたのは絶対にうちの方のリーダーなので!」
    「そうですよ春さん。夜が何を喋ったのか知らないですけど、元凶は百パーセントうちのなんで」
     自室にいたところを突然プロセラルームに呼ばれた郁が、目の前の光景にサッと顔を青ざめさせる。同じく部屋から呼ばれた陽は、案の定巻き込まれるのかよ、と不貞腐れていた。
     話が大事になってしまった事態におろおろする夜は、ソファにうつ伏せで寝かされている隼を心配そうに見た。隼の後頭部には氷嚢が乗せられている。あの轟音の理由は、隼が寝室の扉で後頭部を強打したことに因るものだった。その時の衝撃で、扉が半分外れてしまったらしい。あれだけ大きな音がして、病院送りの大怪我にならなかったことがいっそ奇跡だった。
    「グラビの謝罪はとってもレアだね」
    「涙?! わくわくしてる場合じゃないよ……! 俺はわけもわからず夜さんに呼ばれて来たんだけど、一体何があったんですか? さっき下の階からものすごい音がしてましたけど、何か関係してるんですよね」
    「建物が揺れたよね」
     好奇心に目を輝かせる涙に、郁がさらに慌てる。うちのリーダーが、という定型文の謝罪がまさかグラビの春の口から出る日が来ようなどとは思いも寄らず、目を白黒させるしかない。
     郁が仕事から戻って自室で涙と一緒にスケジュールの確認をしていたところ、何か爆発でも起きたのかというほどのけたたましい音が聞こえた。下手に動いたら危険があるかもしれないと思いその場で身構えていたら、普通ではない様子の夜が慌ただしく訪ねてきた。
     そこで彼から、隼が大量出血して倒れたのだと知らされたのだ。驚いて部屋から飛び出しプロセラルームへと走れば、春を筆頭にグラビの面々から何故か土下座付きの謝罪をされたというわけである。
     ソファに横たわってピクリとも動かない隼を見て、まさかとは思いながらももしかして、と考えれば血の気が引いていく。病院に運ばれていないということは、見た目ほど重症ではないのだろうけれど。
    「か、海さんはどこですか? この状況、俺には荷が重すぎます……!」
    「いっくん、海は今日はロケで帰らないよ」
    「そういえばそうだった……!」
     郁は涙の言葉に頭を抱え、ちらりと夜を見るが、彼も相当テンパっているようだった。郁と一緒だった涙は当然事情を知らないので、自主的に関わらないようにしている雰囲気の陽に尋ねてみる。
    「陽! これってどういうことなの? 何か知ってるんだよね?」
     名指しされて、陽はちっと舌打ちをした。続いてものすごく疲れたようなウンザリした顔をしたので、郁はああ、これいつものやつかあ、と悟った。
     それにしても、プロセラの謝罪ではなくグラビの方なのは何故なんだろうと首を捻る。始が何かをやらかすなんて、郁にはどう頑張っても全く想像できなかった。
    「細かいところまではちょっとわからないんだけど、隼を負傷させたのは始だから」
     神妙な春の言葉に、郁はええっと驚く。始が加害者で隼が被害者。そんなことが現実に起こり得るのだろうか?
    「本来は始に謝罪させるのが筋なんだけどね、なんだか壁がどうとかおかしなことばかり言うんだよね……。もうちょっと落ち着いたら、本人からちゃんと隼のところへ謝罪しに行かせるから」
     疲れた顔を見せる春に、郁と陽は慌ててそんなことないですと否定する。
    「始さんから謝罪だなんてとんでもないです……っ」
    「そうですよ! 元を正せば隼が悪い。そうに決まってる。絶対間違いない」
    「よ、陽……。隼さんは今回怪我人なんだし、そんな断言しなくても……」
     きっぱりと言い放つ陽へ、夜が隼のフォローをしようとした時。それまで微動だにしなかったソファの上の渦中の人物が、もぞもぞと動いた。
    「……うーん……。世界を手に入れる夢を見た……ような、気がする……」
    「壮大に寝惚けんな!」
    「どういう夢ですか!?」
    「夢はおっきく世界征服、だね」
    「涙?!」
     ツッコミが習慣になってしまっているプロセラを何とも言えない目で眺めながら、春が隼の元へ近づいた。
    「隼、大丈夫? すごい出血量の鼻血だったし、後頭部のたんこぶ、かなり腫れてたんだけど。痛むなら今からでも病院行く?」
     鼻血?! と事情を知らないプロセラ勢が騒めくのを横目に、春は若干よろつきながら上体を起こそうとする隼を手伝ってやる。
    「全然大丈夫だよ! 始からの愛の鉄拳だからね。謹んで受けたよ!」
     うわあ、と涙を除く全員が眉間に皺を寄せた。
    「……無事ならよかったよ。それはさておき、隼は、なんで始があんな状態になってたのか知ってるのかな? 何を聞いても壁、壁、壁って。壁がどうのこうのってことしか言わないんだ。最初は超えられない壁でもできて悩んでいるのかなって思ったんだけど、ちょっと意味がわからなくて」
    「壁……。ふむ、確かに始は僕にも言ってたねえ。ええと確か、壁はもう倒したから布団でいい、だったかな」
    「布団……?! ますます意味がわからない。どうしよう、今までこんなにも始のことが意味不明になったケースなんてないよ。本当に煮詰まってる時は、ちょっと言動がおかしくなることもあるんだけど」
    「春、是非その話詳しく!」
    「隼、ステイ、ステイ!」
     始の話に目を輝かせる隼を、陽がすかさずブロックする。
    「あ! どこかで聞いたワードだなって思ったら、アイツの話ですよ、春さん!」
     恋が憤慨したように叫ぶ。
    「それって恋が報告してくれた、始の不調の原因かもしれないって言ってた俳優のこと? またその人に関わりのある話なのかな」
     本日何度目なのか、できれば頭の中から存在を消したいほど腹立たしい相手が浮上してきて、春は大きくため息をついた。
    「ですです! 始さんに失礼極まりないセクハラしてきたアイツ! その人と話してた女性の芸人さんが、推しの部屋の壁になりたいって話をしてたんですよ」
     恋はその時の会話を覚えている限り詳細に再現しながら、女性芸人の推しの話と俳優の素行の悪さもまるっと含め、この場の全員に説明した。
    「その言葉だけが、なんだか変な方向で始さんの脳内に残っちゃった感じとかですかね?」
    「推しの部屋の壁……。それはそれでもう何が何だか俺にはわからないよ。壁ドンされたいとかじゃなくて、壁になりたいの……?」
     無言で春と恋の会話を聞いていた陽が、あっと声を上げた。
    「もしかして、始さんにエロさが足りないって言った奴ってそいつのことか?! その節穴野郎のせいで俺はえらい目に遭って……、うわっ」
     話が繋がったとばかりに立ち上がった陽は、ソファから音もなくゆらりと立った自分のリーダーの姿を目に留めて、表情を固まらせながら一歩下がった。そんな陽の様子を見た郁と夜も何事かと視線をそちらに向け、ひえっと叫んで身を寄せ合った。
    「始に、セクハラ……。セクハラだって……? 羨ま、じゃなくて許すまじ……。しかも始にエロさが足りない、だって……? 人としてちょっと目が曇りすぎてるんじゃないのかい。僕の大切な始にそんなことを言ったのは、どこの誰なのかなあ?」
     にっこりと白の美貌を全面に押し出しつつ美しく笑う魔王様に、春と新、涙以外の面々は震え上がった。プロセラのメンバーはこれからもたらされる惨劇を予想して。グラビのメンバーは魔王様の怒りのメーターを目の当たりにして。
    「隼が本気で怒ってる、ね」
    「始さんにセクハラとは断じて許せん。隼さん、やっちゃってください!」
    「涙、それに新さんも! 火に油を注ぐのやめて?!」
     半泣きで涙と新を窘める郁に同情の視線を向けつつ、春は自分が手を出しようのない方向へ事態が収束していく結末が見えた。もうこれ自分の部屋へ帰ってもいいかな、と力なく呟く。
     始を惑わせた相手についてはどうしてくれようかとずっと考えていたが、自分は何もしなくともおそらくきついお返しが行くことだけは確定した。そこだけは溜飲が下がった。
    「あーあ、なんで今ここに海がいないかなあ。世話の焼けるリーダーを持つ同じ苦労人の参謀として、某ネコ型ロボットの扉を借りて今すぐここに来てほしいよ。いっそ魔界経由で瞬間移動みたいにワープしてきてくれてもいいのに。ね、葵くんもそう思うでしょ?」
    「へあっ、お、俺ですか?」
    「春さん! 気をしっかり持ってください! 今まだ仕事中の駆さんが俺は心底羨ましいっ」
    「春さんが壊れたぞ! 皆の者、担架、担架の用意ー!」
     新と葵に両脇を支えられて、春がフラフラと帰っていく。
     お騒がせしてすみませんと謝る恋へ、こちらこそすみませんと謝る夜との間で謝罪合戦が始まった。それもどうにか終わらせた郁が疲れ切った顔で、プロセラルームの床にへたり込んだ。
    「陽が部屋に引きこもってた意味がわかったよ……。俺も部屋に戻っていいかな?」
    「郁。お前がいない時に俺はずっと一人で修羅場を戦ってたんだよ。ブラックな時間外労働させられたんだから正当な手当を要求したいわ」
    「俺、その時仕事で本当に良かった」
    「ねえねえ二人とも。ところで結局始が変になった原因とか、隼が負傷して倒れた流れとか、肝心なことってわからないままなんだよね」
    「……あ」
     涙に言われてそういえばそうだと二人は思ったが、これ以上関わり合う根性もなければ勇気もなかった。真相は知らない方が身のためだと悟ったので、もう深く追求しないことにする。
    「問題ない。全部夢だった。つーわけで俺は部屋へ帰る」
    「そ、そうだよね、陽。隼さんも世界征服した夢を見てたらしいですし。俺も戻りますね。さ、涙もここにいたら危ないから部屋へ戻ろう?」
    「いっくんがそう言うのなら。僕も世界征服する夢、見てみたいなあ」
    「えっ、皆、隼さんのことは……?」
     プロセラルームを去ろうとする三人に、慌てて夜が駆け寄った。
    「夜、悪いことは言わねえからお前も部屋に戻れ。アイツならもうほっといても大丈夫だ」
    「う、うん……? わかった。それじゃあ隼さん、おやすみなさい」
     一人共有ルームで仁王立ちする隼を置いて、危機管理能力の優れたプロセラメンバーたちは、自室というシェルターへ避難していった。
     その直後、家具が小刻みに振動し始め、カタカタという音がルーム内のあちこちで鳴り響く。どこからともなく風が吹き始め、室内の空気が渦を巻く。小さなぬいぐるみや軽い小物類がふわりと浮き上がってぐるぐると空中を舞った。

    「どこの誰ともしれない輩が、僕の始にあんなことやそんなことを……。僕もまだ見たことない始の顔を……ふふ、うふふふふふふ……、あははははははは……!」





     後日、例の俳優の自宅に雷が落ちたとかそこだけ雹が降ったとか、そんな噂がひっそりと流れたらしい。


    ep.



     階段をそろそろと上がってくる足音が聞こえる。真っ直ぐに隼の部屋へ向かってくる音だ。
     あの騒ぎのあと、自室のソファでくつろいでいた隼は、目を閉じて耳を澄ます。
     建物の構造上、いくら夜が遅くても、普通なら足音なんて聞こえるはずもない。だけどどれだけ厚い壁が立ちはだかったとしても、彼と自分を隔てることなどできやしないのだ。
     防音壁の中だろうと、核シェルターの中に居ようと、隼が始の音を聞き逃すわけなんてない。
     最短距離のエレベーターじゃなくて、誰かと会えるかもしれない共有ルームを繋ぐ螺旋階段でもない。ほどほどの距離かつ一番人との遭遇率が低い、奥まった階段からだ。
     そこを彼が選んだ心境を思うと、微笑ましくなって隼はついついくすりと笑ってしまう。
     夜はすっかり更けていたが、今夜のうちにきっとここへ来ると思っていた。黒の王様は、何事においてもけじめを着けずにはいられない性格なのだから。そんなきっちりしているところも、大好きでたまらない。
    「あ、痛っ……」
     後頭部に鈍い痛みがして隼は苦笑する。
     始に投げ飛ばされて扉に強打したそこは、当面の間仰向けには寝られそうにないくらい腫れて、ズキズキと痛んでいた。
     笑った振動でも痛むものだから、あの時の始は力加減を忘れるほど必死だったことが窺える。隼がまだ見たことのない一面だった。それを知れたことが、とても嬉しい。
     怪我なんてその気になれば一瞬で回復できる。それをしないのは、始が隼に与えた傷だからだ。目に見える確かな痕としてこの身体に付けられたものを消すなんて、そんな勿体ないことはできない。
     口に出して言ってしまえばプロセラの面々はきっとドン引きして、蜂の巣をつついたように騒ぐのだろう。隼の言動で慌てふためく彼らの様子を眺めるのも楽しいものだが、今はまだ誰も知らない、自分ひとりだけの大切な秘密だ。
     確かな刻印に、彼が存在しているのだと感じられることができる、特別な痛みだった。
    「推しの部屋の壁になりたい、かあ。アイドル『睦月始』を知ったばかりの頃は、そんなことを思ってた時期もあったよねえ」
     最初は見ているだけで幸せだった。
     でもあの日、あの時、目が合ってしまったのだ。
     彼は隼をその目に映し、隼という存在を認識した。
     始まりの彼が隼を見るのならば、隼は今までの立ち位置を捨て去り、共に歩む者として彼の視線を受け止めたい。自分がいつか自分のまま、彼の前に立てる存在になりたいと願う。
     その時に、届かないと思っていたものに手を伸ばしたいのだという、自分の渇望を知ってしまった。
    「でも、困らせちゃったよね」
     目を開けたら始の部屋の、しかもベッドの中にいて、あろうことか隣には彼が寝ていた。それだけでも驚天動地の心境だったのに、起きたら起きたで何故か壁際に追いやられて迫られた。
     そんなことを想い人からされたら、世の中のほぼすべての人間は、間違いなく勘違いするんじゃないかと自分を擁護したくもなる。
     大切にしたかったのに、勘違いとはいえ欲望の一欠片をぶつけてしまったことを酷く後悔している。怪我をそのままにしているのは、自戒の意味も込められていた。
     隼の生々しさを伴った行動に、始は驚いたことだろう。好意に鈍感な彼のことだから、おそらく予想もしていなかったに違いない。
     だけどもし、あの時彼が流されてくれていたのなら。キスを受け入れてくれたなら。もう元には戻れないと分かっていても、隼は彼を手に入れていただろう。
     当然のことながら、始に限って雰囲気に流されるわけなんてなかった。手痛いお返しを受けた身体は、十分すぎるほどの痛みをもって隼に現実を教えてくれる。
     あの忌々しい俳優が、始に邪な知恵の実を与えなければ、間違いは起こらなかったのだ。今までもこれからも、隼は普通のファンのままでいられたはずだった。
     せめて嫌われたりはしませんようにと願ったところで、控えめなノックが鳴った。


    「本当に悪かった。大分どうかしてた」
     悄然とした顔で隼の部屋に現れた始を、隼はリビングのソファへといざなった。
     自室のキッチンに立って手ずから紅茶を淹れてきたら、始はちょっと驚いたような顔をした。普段はほぼ人に淹れてもらってばかりの隼だが、無論自分で淹れることもできる。
     意外そうな始の表情がどことなくあどけなくて、そうやってもっと隼のことを知ってほしいと切に願った。
     始はありがとう、と礼を言って口に含む。紅茶の香りと温度にリラックスできたのか、ほっと肩から力を抜いた。
    「僕としては、君のお茶目な一面が見られてとっても嬉しかったよ」
     なるべく空気が重くならないように軽く伝えれば、彼は何とも言えない表情になった。
    「お前は……。本当にどんな俺でも構わないんだな」
    「当然でしょ。僕は君が大好きだからね。アイドルの君でも、そうじゃない君でも。別の世界を生きる君にだって、憧れて、惹かれて、いつだって追いかけずにはいられないんだ」
     隼の言葉を、彼がどういった思いで聞いているのかは分からないが、受け止めてもらえているのだとなんとなく分かる。それが嬉しくて仕方ない。
    「それに、僕の方こそ驚かせてしまってごめんね。でもあんなふうにされたらさすがに勘違いしちゃうから、他の人間にはやらないようにしてほしいかな」
     やるわけないだろ、という反論は反射的に口を突いて出たのだろう。しかしその裏に、隼だからこそやってしまった、だなんて自分に都合の良い理由をこじつけてしまいそうになる。
    「そこは、どうやって謝ったらいいのかわからない……。お前こそ、気持ちを弄ばれたんだから怒ればいいのに」
    「始に弄ばれるなんてご褒美です! あ、待って、ごめんなさい、引かないで。僕にまっすぐ向けられた蔑む視線も麗しい……じゃなくて。僕の落ち度で君に怖い思いをさせてしまったからね。本当にごめんなさい」
    「怖かったわけじゃない。びっくりしただけだ」
    「でも、嫌だったよね?」
     それを尋ねるのは結構な勇気が必要だった。きっと隼を傷つけるような言葉を、彼は使わない。けれど、迂遠に拒否をされるのもまた、堪えてしまうのだ。
     完全な八方塞がりだった。これで警戒されて、長い時間を経て少しずつ縮まりかけていた距離がまた開いてしまったら。それだけでなく、嫌われてしまったらどうしようという小さな恐怖に襲われる。
    「別にそうじゃない」
    「……え」
     しかし始は、事も無げにあっさりと否定してみせた。
    「お前の意味不明な言動には慣れてきたつもりだったが、……あんな姿はさすがに見たことがなかったから、いきなりで混乱したんだ」
    「……嫌じゃ、ないの」
    「あ? まぁ、そうだな。嫌では……なかった、のか?」
     始はその時のことを思い出すように遠くを眺めてから、隼の顔をチラリと見た。それからそっと視線を外したその耳元は、ほんのりと赤く染まっていた。
    「…………」
     今見聞きしているものが信じられなくて、隼は思わずその顔を凝視してしまう。始は隼の視線に居心地が悪くなったのか、温くなった紅茶を一気に飲み干すとソファから立ち上がった。
    「時間を取らせて悪かったな、隼。俺は部屋に戻るが、後頭部はちゃんと冷やしておいてくれ」
    「……うん!」
     律儀にティーカップを片づけようとする始の手を制して微笑んだら、彼はご馳走さん、と赤い耳のままで笑った。
     玄関ドアまでの短い距離を見送る背中。触れたら届く距離に心臓が忙しなく動く。隼の視界にはたくさんの鮮やかな花が舞って見えた。ついでに幸せを運ぶ鐘の音も聴こえた気がする。
     玄関でおやすみの挨拶をして、始と別れる。ドアを閉じた隼は、そこに背を預けてずるずると床にへたり込んだ。はあ、と熱い息を吐き出して、煩い心臓を抑えるように胸元をぎゅっと掴んだ。
     相変わらず後頭部は痛む。だけどそんな痛みなんて、きれいさっぱり忘れるくらい。

     絶対勘違いだと思った。
     キスをされたことも、意識が飛んで目が覚めたら、ベッドの中で始に抱きしめられていたことも。
     そんなこと、彼がするはずがない。それなのに現実は隼を裏切って、この身体に温もりを与えてくれる。勘違いなんだ。ただの偶然だ──これが偶然なんて、とてもじゃないが信じられない!
     わざとではないにしろ、身体の変化に触れられて、始が隼をハッキリと意識した。そう認識した瞬間、もう理性はどこかへ消えてしまっていた。それまでの会話がすべて睦言に聞こえて、ならば自分には彼に触れる資格があるのだと思い込んだ。
     始に思い切り投げ飛ばされて、半開きだった寝室の扉にしこたま後頭部をぶつけ、沸いていた頭が一瞬で冷静になった。
     やってしまった。一番見せたくないところを見せてしまった。
     痛みで目の奥がチカチカする。言い訳をしなければ、いや、きちんと謝らなくてはいけないと焦り、隼がよろめきながら膝を着いて上体を起こした時。
     始は熱でもあるのかというくらいに顔を真っ赤にし、両腕で自分を抱きしめるようにして寝室の床に座り込んでいた。
     そこには隼の希望的観測を除いたとしても嫌悪感など見て取れず、ただひたすら恥ずかしがっているようなその表情、その姿に、また勘違いしそうになった。
     違うんだ、それは都合のいい解釈なんだと隼は必死になって自分に言い聞かせた。暗い部屋の中でも見たいものが見えてしまう自分の目が恨めしい。何も見えなければ、希望なんて絶対に持たなかったのに。
     同じ過ちを起こさないようにと、痛む頭を抑えてよたよたとリビングまで逃げた。そこまでの距離を稼ぐのが限界で、混乱する情動をセーブするために、そこで意識を手放したのだ。
     それなのに、それが本当に勘違いじゃなかったのならば。


     ──もしかして僕。

    「世界が手に入る可能性、ワンチャンあるの……?」


    PLA Link Message Mute
    2024/02/16 21:17:47

    壁の定義

    #隼始
    ラブコメ?のおかしな隼始の話。
    隼←無自覚始で、始さんが大分情緒不安定気味。
    視点が色々移ります。
    *大学卒業後くらいの話。
    *名前のあるモブが絡みます。

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