迷えるヒツジの話
(いやだ)
「僕だって嫌だよ」
(もういや)
「お仕事だもの、仕方ないよ」
胸のうちで子供が叫ぶ。子供と一言で表すのは些か乱暴だろうか。それは親に構ってもらえなくて不貞腐れる子供のようでいて、根はもっと深いものだ。そんな内なる声に、隼はため息をつく。
隼だって別に、好きで離れ離れになっているわけじゃない。ただ、仕事とプライベートを混同するような子供ではない。それだけのことだ。
一年の始まりである一月は、大好きな人の担当の月だ。一年中忙しいあの人が、さらに忙殺される一ヶ月。隼だって自分の担当月は恐ろしいほど仕事に追いかけ回されるので、実直である愛しい彼がそれ以上に忙しくなるのは分かりきったことなのだ。
その忙しさはある意味毎年の行事みたいなものでもあるが、最近は彼──始も自分のペースを掴んできたのか、ちゃんと休息は無理なく取るようにしているらしい。勿論その多くはない休息時間を自分にくれだなんて言えない程度には、隼はもう大人だった。けれど、最近自分の内側に迎え入れた子供はまだ、本当の意味で子供なのだ。
(始、はじめはじめはじめ……! 会いたい、会いたい……)
胸を撫でながら隼は苦笑する。『彼』の存在を引き受けた時、自分の存在とひとつになって融合したはずだったのだ。それなのに、心がちょっと不安定な時に、こうしてひょっこりと顔を出しては感情を吐露していく。
『彼』の存在もまた隼であり、その言葉は確かに隼の思いでもある。
会いたい。始。はじめ、傍にいたい。
その存在を常に感じていられる幸せ。始まりに触れられる幸せ。
隼の世界から始を奪おうとした『彼』の執着は、どこまでも子供じみてストレートだ。拗らせた思いの形に少し気恥ずかしくもなる。だけどほとんど始と直に会えない毎日にまいっているのは、隼も同じだった。
「ダメだなあ、僕……。年々贅沢になってくね」
誕生日の夜に始が時間をくれることも、当たり前に思うようになってしまった。本当は宝くじに当たるよりも稀有な事態なのに。
だからこうして会えない毎日が続くことに、信じられないくらい不満を感じてしまう。始だって、自分に会えないことをきっと気にしてくれていると、傲慢にも思ってしまう。
(始は『僕』のものじゃないの? 一緒にいてくれないの?)
唐突な主張に、隼は思わず咽せた。
「僕の、もの……」
あの時は散々僕の始、と連呼していたが、正確には僕の『世界の』始、だ。
彼が自分のものになるなんてそんな大それた、と考えたところでふと去年の誕生日の夜を思い出す。
隼のために駆けつけてくれた彼。あの時、紫の瞳の中には隼しか映っていなかった。真っ直ぐに交差する視線に、泣きたくなったのを覚えている。実際に泣いていたのかもしれない。
(始が欲しい、はじめ、君さえいればいい。ほかに何も望まない。僕の始まり……!)
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いて、僕!」
刺激的な告白をする子供を宥めようと叫ぶ。けれど、駄々を捏ねる子供はしばらく落ち着きはしないだろう。ずっとそんな言葉を聞かされては隼もたまったものではない。そんな、心のうちを削り取りながらばら撒かれるようなことを。
たまりかねた隼は、強硬手段に出た。
ポン、というどこかコミカルな音と共にふわりと白い煙が部屋に舞う。
「メエェェ」
煙が消えたあと、そこにいたのは小さな白い羊だった。
(これなら、なんとか……)
姿かたちを変えることで、一時的に思考を中断させるという離れ業をやってのけた。寂しさがつのると色々込み上げてくるものがあって困ってしまう。非常手段があるのは良いことだと、隼はもう一度メエと鳴いた。
***
「隼くーん! あーさーだーよーってうわ?! 今朝も羊なのかよ!」
ああもうと頭を掻きながら、海が慌ただしく隼の部屋に乗り込んできた。彼はソファの上で寛いでいるミニ羊を小脇に抱えると、側に落ちている本日の荷物も忘れずに掴む。鮮やかな手つきだと隼が感心している間に、回れ右をして廊下へと飛び出した。
「ハジメェエエェ」
「羊ならせめてちゃんと羊っぽくメエって鳴いてくれ!」
バタバタと廊下を走る海に抱えられて揺られながら、何事かとこちらを見る視線を捉える。目をまん丸にしている夜。その隣でうわ、という顔をした陽。
プロセラの共有ルームからワンフロア降りてグラビの領土へ。目を輝かせてこちらを見る葵。今日もモフモフですね、と笑う駆と恋。始は────、いない。
彼は昨夜から出かけている。だからそんなことは知っていたのに、がっかり感が重くのしかかる。今日も会えない。昨日も会えなかった。明日も、きっと無理なのだろう。
「メエェェ」
鳴き声は思ったより悲し気に響いて、次いで大きな手のひらが頭をガシガシと撫でた。
「今月は我慢だ我慢。来月になって落ち着けば、またのんびりこたつデートでもしてくれるだろ」
隼が羊になって意識を引きこもらせる理由をちゃんと知っている海は、走りながらそんなことを言う。隼もその通りだと思う。一月はまだ中旬になったばかりで、先はとても長く感じられた。
「黒月さーん! お待たせしてすみません! 隼は無事に確保してきました!」
寮の前には既に黒月の車が待機していた。
「いつもすまんな、海。二人ともおはよう。まだ大丈夫だが、ちょっとだけ急いでくれ」
頷いた海はサッと後部座席に乗り込むと、二人分の荷物を隣のシートに置いた。シートベルトを締めてから、羊を膝の上に乗せてしっかりと抱く。
「隼は今日も羊かあ……。ハハハ、羊がそのサイズっていうのがそもそもおかしいし、控室で人間になるっていうのもおかしいのにすっかり見慣れたな……」
ハンドルを握りながらぶつぶつと呟く黒月に、海が同情的な視線を向ける。
「一月が終わるまでの辛抱ですよ。これがおかしいと思えるうちはまだ大丈夫ですから!」
「そっかあ……、ああ、俺はまだ大丈夫だよな!」
言動に少々疲れは見えるが危なげないハンドル捌きで、二人は無事本日の仕事場であるスタジオに到着した。
荷物と羊を抱え、海は控室に向かう。不思議そうに見る人と、いつものことだと普通に挨拶をしてくれる顔馴染みのスタッフたちとすれ違う。
「隼さん、今日もモッフモフですね!」
「こいつ、毛艶だけはいいんで」
おはようございますと笑顔で挨拶してくれる相手に、海も笑顔で返す。その隣で事情を知らない者は何のことやらとクエスチョンマークを盛大に浮かべていた。
隼の不思議な力を知っている者、知らない者、受け入れる者と夢だと思う者。いつの間にか様々な反応ができていた。
隼自身も不思議に思う。これまで力をあえて隠そうとはしてこなかった。信じる者は信じればいい。否定する者は否定すればいい。好きに受け止めたらいいと、そんなふうに考えていた。
しかし明らかに人ではあり得ない力に、忌み嫌い排除しようとする者は現れなかった。
(もしかしてそれは)
世界がバランスを取りつつある証拠かもしれないと、隼は考える。もう少し踏み込んで言うならば、隼の力に対を成すものが、その力を解放しつつあるのではないかと。
対である彼がもし覚醒したとしたら、この世界の何が変わるのだろう。
始の力が強くなればなるほど隼の存在は目立たなくなり、均衡が取れていく。隼の力を見ても疑わず、そういうものだと受け入れる者が増えたのは、きっとそういうことなのかもしれない。
「メェ」
ソファにポンと投げられて、驚いた隼は抗議の声で鳴く。
「ほら隼、結構ギリギリに着いたからさっさと準備しろよ? メイクさんが来てもそのままじゃ困るだろ」
いつもならそこで茶番はおしまいとばかりに仕事モードに戻るのだが、何故だか今日は心が騒ついて落ち着かない。戻らなければと思うのに、そのままスタジオの中を駆け出したい気持ちになる。
『彼』の我慢がまた利かなくなったのだろうか。
始、はじめと呼ぶ声が、幻聴のようにまとわりつく。
(ダメだよ、今は会えないんだ。でもね、同じ世界にいるのだから、焦ることなんてひとつもないのさ)
自分自身にも言い聞かせるよう、ゆっくりと言い含める。しかし焦燥は収まらず、次第に意識がぼんやりとしてくる。
ああ、実は僕、結構疲れてたりするのかな?
ふとそう思った瞬間、足が勝手に動いて小さな身体が控室を飛び出していた。
「えっ……、おい、隼?! どこ行くんだ?! ちょっ……待っ」
「何? 動物?!」
「ヒツジ……? にしては小さすぎない?」
「あれっ、隼さん? どうしたんですか?」
「えっ、なにこれっ」
「ちょっと、よくわからん動物持ち込んだの誰だ?!」
阿鼻叫喚の廊下を一目散で駆け抜けて、隼はいつの間にか大きなホールへと辿り着いていた。
丁度何らかの収録が終わったタイミングらしい。片付けでバタバタと動き回るスタッフたちと、はけて行こうとしていたキャストで雑然としていた。小さな羊が一匹迷い込んだところで、誰も気づかないはずだった。
ふわっと隼の手足が浮く。
誰かが背中から隼を抱き上げたのだ。
あれっ、と疑問に思った瞬間身体を抱え直されて、その人物と向かい合う形になる。
(え……)
胸のうちで抑えられていた子供が再び声を上げる。歓喜に満ちた声だった。
呆然と目を見開いていると、隼を捕まえた相手は呆れたようなため息を吐いた。
「こんなところで何してる、隼。お前の仕事場は反対側だと思ったが?」
あんなに会いたかった始が目の前にいる。起こった出来事が信じられなくて、隼は嘘、なんでと忙しく頭を回転させる。
そういえば今日の現場は同じ建物にあった気がする。とはいえ始はこのあとすぐ別の現場へ行かなければならないはずで、会える可能性はとても低かったのですっかり忘れていた。
「メエェェ……」
喜びとも悲しみともつかない声で鳴けば、少し怖い顔をしていた始がふっと表情を緩める。温かい手のひらが隼の毛皮を優しく撫でた。
「ふわふわしてるな。……癒される」
少しの悲しみなんてすぐに消えて、すぐに嬉しさが込み上げた。胸の中の『彼』と一緒にはしゃいでしまう。
始を癒すことができるのは嬉しいが、今すぐ言葉を交わしたい。この喜びを伝えたい。
もし始もそれを望んで、隼を呼んでくれたなら。
「騒ぎになる前に早く戻れよ? 俺もちょっとイラついてたから、お前に会えてよかった」
始は再度羊を抱え直し、今度は腕の中から下ろそうとする。
(…………はじめ、僕を離さないで!)
泣きそうな声で子供が叫ぶ。聞こえるはずもない幻の声に、しかし始は不思議そうな顔をして持ち上げた羊の瞳を覗き込んだ。
「……隼?」
その瞬間、ポンというコミカルな音が辺りに鳴り響く。白い煙を伴ったそれは、慌ただしいホールの中でも十分に人目を引いた。
「はじめ! ……会いたかった!」
煙の中から唐突に現れた白い人に、辺りは目を白黒させる。
ぎゅっと抱きつかれた始は驚いたのか、しばらく動かなかった。しかし彼がハッと我に返った途端、隼は容赦なくべりっと引っぺがされた。
「始の愛、確かに受け取ったよ……!」
「意味がわからない。それよりも」
辺りは静まり返っていて、その場にいた人間は全員手を止め足を止め、二人に注目していた。
「え、隼くん……?」
「いきなり出てきた?」
「いや、さっき小さい羊みたいなのいたよな?」
「どこから……」
ぼそぼそと囁かれる声に、隼は自分がまた騒ぎを起こしてしまったのだと気づく。けれどこのまま始に床へ沈められても構わないくらい、胸は満たされていた。
始はやや困惑気味に周囲を見渡してから、意を決したように辿々しく口を開いた。
「……い、いりゅーじょん……」
しん、とホール内が静寂に満たされる。
隼もぽかんとして始を見つめた。
いつぞやの黒月の真似をしたのだけは分かったけれど、ここには高月のように反応してくれる相手もいない。
沈黙に耐えられず徐々に始の耳元が赤くなっていくのを、隼はガン見してしまう。
(可愛い、スベって恥ずかしがる始! 激レア! 可愛い、可愛すぎる!)
心にしっかりと刻みつけようとガッツポーズをした瞬間、始はギッと隼を睨んだ。
若干涙目になっているのがまたたまらなくて、隼は気絶しそうになる。だがどうにか踏み留まって、意識を保った自分を褒めてやりたい。
「ありがとう始。あの子の声を聞いてくれて」
「……あの子?」
胸のうちから渇望するような声は、満足したのかもう鳴りを潜めている。
呼ばれるだけで眠れる魂もあるのだということを、彼はどうか知らないままでいてほしい。
「なんでもないよ。さて、僕は行くね。そろそろお迎えが来てくれる頃だし」
「しゅーんーーー! やっぱ始のとこ行ってたか! 今月はひたすら堪えろって言っただろ!?」
隼を叱りつつ始へすまん、と忙しく叫びながら、海が走り込んできた。
「じゃあね、始」
展開について行けずぱちぱちと瞬きする始に名残惜しく視線を送り、隼は海の方へと走って勢いよくダイブする。
本日三回目のコミカルな音が鳴り、白煙がふんわりと雲のように浮く。
「うおっ!? ……っと、あっぶねえ! こら隼、いきなり飛び込んでくるな!」
空中でミニ羊に変わった隼を、海はしっかりと両腕でキャッチした。
その反応速度に、成り行きを見守っていたギャラリー達がおおーっと一斉に歓声を上げる。
海はすぐに顔を上げ、営業スマイルをひとつ作るとばちんとウインクをした。
「イリュ〜ジョン☆ なんつって。えーっと、この場にお集まりの皆様! うちの相方がお騒がせして、大変すみませんでしたーーーっ! それでは失礼させていただきますっ」
頭を下げながら海は、脱兎のごとくホールから去っていった。
始からあとで聞いた話によると、プロセラなら仕方ないと、その後拍手喝采が起こっていたらしい。始は納得しかねていたが。
海に抱えられて自分の仕事に戻った隼は、ぎりぎり間に合ったものの、海と黒月からしこたま怒られた。
胸のうちの『彼』はすっかり眠りに就いたようで、これなら当分現れることもないだろう。
「また、始の力が強くなったような気がする……」
あくまで気がするだけだ。考えすぎなのかもしれない。
自分と同じものになってほしい。でも今のままでいてほしい。
きっと、隼はまた明日も同じことを考えるのだろう。