後か先か「お前さえいなければ」と言われたことがある者はそれなりにいるだろう。
しかし目の前の彼はこう言うのだ。
「なぜお前はいないのだ」と。
自我が芽吹いた頃にはもう世界は出来ていた。
空があって空気がある。街があり、人がいる。かたちを持って、既にそこへ存在していた。
自分が始まりであると言うならば、今さら一体何が始まると言うのだろう。
世界は歪ながらもとっくに始まっていて、おそらく最もかたちを歪まされた存在が、今こうして始を憎み、弾劾している。
正しく始まらなかった世界は、どのような始まりを迎えたのだろう。そんな世界でも当然の約束事のように、始まってすぐに終わりが生まれた。歪で空虚な始まりに終わりがくっついて、くるくると回り、狂っていく。ほら、もう終わることさえできなくなった。正常なんてどこにもない。それなら何のためにこの世界は生まれた?
まだ何もない世界が生まれる瞬間、そこへ立って可能性を掴むことならきっとできるだろう。未知の世界を愛することも、己にはきっと容易い。
けれど然るべき時に生まれ落ちず、ゲームの途中から突然放り込まれた場合には、探すべき道すらなかなか見つけることができない。いつも迷い、途方にくれて彷徨って、運良く春を運ぶ道標に出会えなければ、始まりといえどただ流されていくだけだ。
「さあ、始。僕を殺して」
感情を削ぎ落とした隼はやけに冷静で、始は逆に動揺のあまり、一瞬思考が止まった。
壮絶な孤独の末に虚無を生み出した彼は、一度は感情を捨てた。そこから長い月日を経て、彼の道標である白兎たちと出会った。しかし、人間らしい感情を取り戻しつつあった彼が迎えた結末は。
生きることから簡単に逃げるななんて叱っても、過ぎた時間は元に戻りはしない。始にならやり直せた。けれど彼にはできなかった。すべてを無かったことにしてゼロからやり直す対価は、終わりを正しく終わらせて、虚無を殺し、一度世界を壊すことだった。
悲しいと思う。でもできてしまう。感情とは裏腹に、冷静に、自分になら。
そしてきっと狂うこともなく、知らん顔で新しい世界を創り出す。始まりとはなんという傲慢な力なのだろう。まさに王とも言うべき、傲岸不遜な力業。瞬く間にあっけなくすべてを捩じ伏せた。
そんなものを振るってもなお正気でいられてしまう。それを強さと言うのなら、狂っていないと言うのなら、それはもう人の範疇ではない。
(隼を、殺した)
彼が望んだまま、その首に手を掛けたわけじゃない。有無を言わさぬ力業で、隼ともう一人の隼──虚無を殺し、世界ともども終わらせた。再構築だなんて、素晴らしく聞こえが良い、実に悍ましい言葉だ。
壊して始めから創り直した世界は、元の世界とは違うものだ。似て非なるものであり、同一ではない。そこに住まう命もまた、以前と同じ顔をした新しい命なのだ。
壊れれば元に戻らない。死ねばそれっきり。
虚無はもうどこにもいない。あの彼は、死んでしまった。
もしあの時、隼を殺さずに済んだのなら、結末はきっと違っていただろう。
もう一度チャンスがあるのなら、壊さずに済むのなら。
再構築ではなく、再誕を願う。
(……何度でも、できるんだな)
自分が世界の始まりと共に生まれても、既に興った世界へ途中乗車したとしても。この意志一つで捻じ曲げて、そこから新しく始められてしまう。
諸刃の剣という言葉をふと思い出した。どんな世界にとっても己の存在は、自分が望むと望まざるとにかかわらず、善悪どちらにもなれるのだろう。世界にとっての多くは善かもしれない。ならば隼にとっては、果たしてどちらになり得るのか?
「はじめ、……っ! 僕を、殺して…………ッ!! 君ができないのなら……、自分で……!!」
二度目の同じ言葉は、血を吐くような感情を伴った絶叫だった。前回とは違い、今度はすぐに身体が動く。己の首を落とそうとする隼の両手を掴んで引き剥がし、始はその頬を殴り飛ばした。
倒れ込んだ虚無は、まだ生きている。始を見て、わずかな希望を抱いている。その身体を抱きしめた時、この世界はきっと壊さずとも、ここからやり直せると確信したのだ。
─────そ れ で い い の か ?
頭の奥で、嫌に冷静な声が響く。
最初から失敗している世界の歪みを一身に浴びるのは、終わりである隼だ。本当の苦しみから解放してやるのなら、彼の望み通りにするのが一番ではないのだろうか?
一人では終われない隼は、始の意向次第で生も死も弄ぶように変えられてしまう。
なんて可哀想な。
始まりと対であるばかりに歪の受け皿となっている彼は、きっとこの先も歪みという泥を飲まされ続けるのだ。
隼は、始の意思が揺らがずにいるための対価そのものだ。始まりの行いの精算は、すべて終わりに課せられる。泥を浴び、ゆがんで、ひずんで、ねじれて、蝕まれ、狂って、狂って、壊れていく。
「それでも、隼がいてくれるから、俺は……」
後ろを振り返らなくても、献身的に着いてくる足音が聞こえる。何よりもそれが、始にとって希望を咲かす音だった。
それがあるという確信は、信念を確固たるものにした。目の前が暗闇でも、真っ直ぐに歩いて行ける気がした。
代わりにそれを、己こそが残虐に蝕んでいることも知らずに。
「……じめ、はじめ!」
「……っ、」
揺さぶられて意識が一気に覚醒する。
何度か瞬きをすれば、そこは見慣れたグラビ共有ルームの天井だった。
「あぁ、寝てたのか……」
ソファに横になったまま、始は手のひらで前髪を掻き上げる。少ししっとりとしていた。どうも寝汗を掻いたようだ。
「台本読みながらぐっすりだったよ。でも突然うなされ始めたから起こしたんだけど……」
ちょっと心配そうな顔で覗き込んでくる金緑の瞳に、始は懐かしいような既視感を覚える。うなされていたのならこの気怠さにも納得がいく。だけど。
「変な夢を見ていた……のは覚えてるんだが、内容が全然思い出せない」
「悪夢っていうのはそういうものだよ。目覚めると同時に吹き飛んでしまう、小さくて儚い、ひとときの幻想さ」
赤い夕陽が窓から差して、隼の横顔を緋色に彩る。ひどくメランコリックな色彩に、始まりとも終わりともつかない何かを予感させられた。
(これも夢、なんだろうか……?)
現実味が無くて、まるで胡蝶の夢だ。
身体が溶けて、底なしの穴に落ちていくような感覚がして、始は慌てて身じろぎをする。その拍子に、胸の横あたりに乗っていたらしい台本が、ばさりと音を立てて床へ落ちた。
「あ、角がちょっと折れちゃったね」
夕陽に染まる隼の白い手が、落ちた本をゆっくりと拾う。始はのろのろと身体を起こし、ソファの上へさも億劫そうにだらしなく座った。
隼はそんな始を見てくすりと笑う。膝立ちして始を見上げると、拾った台本を恭しく差し出した。
「はい、どうぞ。おねむな黒の王様は、まだ夢の住人なのかな。僕はこのあとまだちょっと時間があるのだけど、よかったら読み合わせに付き合うよ?」
「……ああ、サンキュ」
本を受け取り、始はぼんやりする頭を起こそうと頑張りつつ、パラパラとめくる。眠る前はどこまで読んでいたのだろうかと確認しているうちに、妙な生々しさが芽生えた。
今回の舞台は、以前演じた話の再演だ。前回とは少しだけ話の内容が異なっている。その部分をどのようにして演じ分けようかと悩んでいたところだったことを思い出した。
しかし、こうして本をめくっているだけで、話の情景があまりにもリアルに脳裏へと浮かび上がってくる。役への感情移入が上手くいくと、その人物とシンクロしているかのように、視界やセリフが自然と自分に馴染むことがある。けれど今はその時の比じゃないくらい、まるでその場所に自分が立っているかのように何もかもが見えてくる。
これはさすがにおかしいと、始は一度台本から目を離してぎゅっと目を瞑る。役の上で何かと絡みの多い隼と少しでも多く読み合わせできるのは助かるが、どうも自分は疲れているらしい。
まぶたから眉間の辺りにかけて指で軽く揉むと、始は申し訳なさそうに隼を見た。
「悪い、隼。どうも疲れが溜まってるみたいだ。ちょっと休みたい」
「ふむ。確かに顔色はあんまり良くないねえ」
隼は始の顔を覗き込むようにして近づいた。
「君は結構無茶をするから、休むにしてもちゃんとベッドで寝てほしいかな」
「寝落ちしたのは不可抗力だ」
人をダメにするクッションを持ち込んだのはそもそもプロセラだと抗議すると、隼は笑った。
「気に入ってくれてるみたいで嬉しいなあ。クッションに埋もれてすやすや眠る始! 尊い! 僕のスマホの待ち受け画像です!」
「消せ」
真顔で拒否すると隼は悲しげな顔をした。
「始のお願いでもこれは無理! 僕の生きる糧だから!」
「ならわざわざ本人に申告しなけりゃいいだろ」
「隠れてそっと待ち受けにしてもいいの?」
「そんなの知らなきゃ……、拒否する以前の問題だろう」
「うん、そっか。ありがとう!」
苦し紛れの遠回しな了承に、満面の笑顔を返される。始は頬を赤くしながら、無邪気な笑顔からスッと目を逸らした。
「もう部屋へ戻る」
雑談をしている間に西日は随分と傾き、室内は大分暗くなっていた。屈託なく笑っていた隼の笑顔も、急に影が差して朧げになる。
時間的には夕飯を取った方がいいのだが、眠気の方が勝った。始がソファから立ち上がろうとすれば、隼が微妙な位置にいて上手く立てない。
(なんだ、これ)
急に意識が遠くなる。見慣れた部屋の景色が幻のように霞んでいく。ただ、目の前にいる隼の存在だけが大きく感じられた。けれど逢魔が時の室内は昏く、隼の口元しか見えないことが不安になる。
「はじ……、さ……と、……」
隼が何かを言っている。頭の中にザーザーと煩いノイズが鳴り響き、途切れ途切れにしか聞き取れない。
「……っ、しゅ、ん……!」
状況がおかしいことを相手に伝えたいのに、呂律すらも曖昧で成す術がない。
やがて部屋が真っ暗になった時、ふっとノイズが掻き消えた。
クリアになった聴覚に、隼の聴き慣れた優しい声が、子守唄のように響く。
「三度目はちゃんと、僕を殺してね?」