攫風 ラムの酔いが回りきった脳の有様は、波の間で弄ばれる小舟の哀れさによく似ている。シルバーの計略を見透かしていたのにあえてそれに乗ったのはグレー自身の意思であり、今生の別れとなる今この時の分岐点で、この後には何も残りはしない記憶になっちまえという、やけっぱちとなんら変わりのない足掻きにもならない一時の波紋を、シルバーの中に立てるためのものだった。
度数も質も違うラムは気分が悪くなるほどに深い酩酊をグレーにもたらして、同じ量を飲んだくせにシャキリとしてるシルバーを、グレーはぼやけた視界で睨みつける。自分が床に倒れているのか、ベッドに背を預けたままなのかももうすでにグレーにはわからない。くそったれ、と吐き捨てた言葉は言葉になっていたらしく「そういうなよ」とシルバーの声がかかって、グレーは「行くならさっさといっちまえ」と酒精に感覚が蝕まれても消えない、苦々しい感情を放つ。
「嫌われたもんだな」
「……きらっちゃ、ねえよ、」
「そうかい、そいつは嬉しいこった。グレー、お前のそういうとこ、俺は案外好きだぜ?」
「うるせえ……うぇっ、なにがいいてえんだシルバー」
「なんでだろうなあ。お前の望みの一つでも叶えてやりたくてな、逃げるな以外……でな」
そう言ったシルバーの胸の内で、どのような色の風が吹いたのかは、グレーは永遠にわからない。そのわからないということがグレーにはたまらなく悔しい。グレーの胸の内にある、何がどうしようとされようと、決して死なないシルバーという男が焼き付けた強すぎる光の痕がひどく疼く。すぐそばで寄り添うことのできる女でも、荒波をいなして進む航路で生死を共にする男でも、結局は誰にもすべては解ることのできない男にグレーは魅入られてしまっている。そしてもはやなんの感情であるかも判然としないほどに膨らんだ、グレーの中にある熱い高ぶりが「なら、キスのひとつでもくれよ。あついやつを、この世の名残に」と口を動かさせた。
「そいつは……おいおい、そんなんでいいのかい?」
「それいがいは、あさまでここにいろしかねえよ」
「……そうかい、なら、後で文句はなしだ」
そう言って松葉杖をどこかに置き、いつのまにか倒れて床に背を預けていたらしいグレーの顔のそばにシルバーは腕を置いて、自然と床に垂れるその茶金の長い髪が外界と二人をごくささやかに隔絶する。
「っ……ふ、っ、」
唇が唇を覆い、どちらのものかも判然としない吐息が部屋の寂寞を揺らしながら、シルバーの厚い舌がグレーの舌を絡めとる。シルバーの舌がグレーのそれをあやすように数度絡まり、ほんのわずかなふれあいが終われば、淡い情の架け橋は容易く砕けてグレーの視界は暗がりに飲まれていく。必死で腕を伸ばしたが、何をもって引き止めたいかわからない腕は簡単に取られて床に戻された。
いっちまえ、たしかにそういえたはずだった。朝になって、シルバーがどこにもいないよどうしようとグレーより早く起きていたらしいジムに起こされ、シルバー以外は代わりの水夫も揃った港で一度、シルバーを逃したのかと怒鳴りつけただけのスモレットにグレーはジムと一緒に頭を下げ持ち場に戻りながら、結局のところ、錨をどれほど深く重く押そうとどこも根付けないのが海というもので、海に生きるあの男は束の間の停留をいくつもするかもしれないが、結局は見つけられない夢を意味を追い求める男の枷になることは何にも、誰にも、きっとできっこないとグレーは思う。
「……俺は、」
甲板の上で、潮風に消えるように放った言葉は、頼り無い微風があっという間に削って、帆を張った船を動かす風が遠く遠くへ、もはや誰にも届かないほどに砕いて攫った。