ひづめと鳥の目 水槽の底に、砂を敷きつめる。
あらかじめ決めておいたレイアウトに沿って、石や木を並べる。また底砂をすこし足して、水槽の奥を高く、手前を低くして、景観を見やすいように整えてゆく。
大きな流木を設置し、さあ水草を植え付けよう、というところで――来馬は手を止めた。
かち、こち、と壁時計が鳴る。
だれもいなくなった、鈴鳴支部の一階フロント。市民向けの対応窓口は営業を終えて、出入口は施錠され、職員は各々、帰宅したか、別室で事務作業にあたっている。来馬ひとりきりのこの空間は、彼が動きを止めてしまえば、とても静かだった。
来馬の目の前にある水槽は、ここを訪れた人々の待ち時間に癒しを与えるアクアリウム――になる予定の、空の水槽だ。支部長に、なにか飾るものが欲しいのだけれど、と話をされて、それならば、と来馬自身が提案した。
どのような水槽にするかは、来馬に一任されている。与えられた予算内で適当な材料を買い、レイアウトはそれらを使いきれるようにと、今さっき、即興で決めた。のだが。
「……これは…………」
どうしよう、と来馬は内心で頭を抱えた。
左右それぞれに、大小さまざまな石を転がした、なだらかな丘。真ん中は浅い谷のような道が、手前から奥まで続いている。その上に大きな流木が渡された光景は、
「……マップ、『河川敷A』」
先日、鈴鳴第一が敗北した、B級ランク戦。今期の三番試合。そのステージに、よく似ていた。
どうして気がつかなかったんだろう、と来馬は途方に暮れた。石や木を仮置きし、頭の中で情景を組み立てている間は、まったく、こんなつもりではなかったのだ。
那須隊と玉狛第二。前衛と中衛と後衛がひとりずつ、鈴鳴第一と同じ編成をした二チーム。鈴鳴は――大敗した、と言うべきだろう。別役は来馬を庇って緊急脱出。橋を分断され、エースである村上は思うように点を取れなかった。
来馬はどうにか那須と相討ちになり、試合が終わった後、各方面から、鈴鳴には成長が見られた、とも言われたが――このままではいけない。もっと積極的に、もっと確実に、来馬や別役も点の取れる方法を模索せねばならない。村上ひとりに任せきりでは、この先の展望はない。
――そんなことばかり考えていたから、無意識にあの空間を組み立ててしまったのだろうか。
来馬は、彼にしてはめずらしくため息を吐き、それから、ぽすり、と、手近な椅子に座った。これから水草を入れ水を注ぐはずの、その水槽を眺める。
べつに、このままつくったって、だれが気づくわけでもないだろうけど。
首を傾げて、ううん、と唸る。単に来馬の心情の問題だった。さりとて今からレイアウトを考え直すのは――ちらり、視線を投げた先、作業台の上にぴしりと並んだ水草が、植えられるのを待っている。
「ちょっと、……気負いすぎ、かなあ」
こんなところにまで思いがにじみ出てしまうのならば、知らず知らずのうち、日常生活の言動にも、敗北を思い返す来馬の気持ちが表れているかもしれない。
それを思うと、すこし、不安になった。村上や今や別役に、それが見えてしまってはいないだろうか。鈴鳴第一の隊員たちは、大げさなくらいに来馬を気遣う節がある。肩身の狭い思いをさせていないだろうか。
ただでさえ、戦闘中は庇われている身なのだ。本来ならば最年長の来馬こそが、皆を守る存在であるべきだというのに――
「……いけない。卑屈になっちゃ、だめだよね」
来馬はそこで思考を中断した。深みに嵌まっている。たったいま考えるべきは、目の前の水槽をどうレイアウトするか、それだけの単純な問題だ。
やっぱりこのまま進めてしまおう。そう決めて、来馬が立ち上がったそのときだった。
「来馬せんぱーい!」
がちゃり、と扉が開いた。施錠されている正面玄関ではなく、他のフロアと繋がっている内部の扉だ。
開けたのは別役だった。
くるませんぱい、ともう一度呼ばわって、小走りに近寄ってくる。
「来馬先輩、鋼さんと今先輩もう帰るらしーんですけど、おれ残っててもいいっすか? 宿題ここでやってっちゃいたくって……、来馬先輩は何時ごろ帰ります? ――あっ、それ、アクアリウムっすか!?」
まくし立ててから、別役は足をとめた。弾かれたように一歩を退がった姿を見て、来馬はできるだけやさしく声をかける。
「太一。大丈夫だよ、まだ魚は入ってないんだ」
いつぞや、来馬のつくったアクアリウムの温度を上げ、魚たちを白茹でにしてしまったこと。それを別役は気にしていて、近寄ろうとしないのだ。
そう悟って来馬は、ほら、と空の水槽を示してみせる。石と枝のみが鎮座しているその様子を見ると、別役は興味深そうに声を上げた。
「おおっ、アクアリウムって後から水入れるんすね。ジオラマみたい」
「そうだね。魚を入れずに景観を楽しむものもあるよ。実際、ジオラマの素材を入れることもあるし……」
「あ、」
改めて来馬のほうに寄ってくる姿は、なんだか小動物みたいだ――これでも一応、身長が一六八センチもある男子なのだけれど――そう微笑ましく思った矢先、別役がなにかに気づいた。
「これ」
指差された先は、いままさに中途で放置されている、アクアリウム――になる予定の水槽。
「こないだ、那須先輩のとこと、玉狛と、やったとこ」
どき、と心臓が鳴った。まさか。
――気づかれてしまった。
別役の空間把握能力や観察力はすばらしいもので、防衛任務やランク戦の最中も、索敵などにかけてはチーム内随一なのだ。
来馬は後悔する。
この子は大空をはばたく鳥の瞳をもっていると、それを知っていたのに、油断した。
「――っすよね!? わあ、すげー!」
「うん、太一、その――」
「あ! 来馬先輩、おれ、これにジオラマ用のミニチュア入れてもいいっすか!?」
「――え?」
誤魔化し損ねて歯切れの悪くなった言葉を予想外に遮られ、来馬はぽかんと別役の顔を見た。
彼の眼はきらきらと輝き、期待に満ちて来馬を見ている。
けれども、困惑した来馬の様子を見てとると、うぶ……と眉を下げて口を尖らせた。
「すんません、勝手に入れちゃだめっすよね」
「ううん、だめじゃないよ。ごめん太一、思ってもみなかった提案だったから、びっくりしちゃっただけなんだ」
「……! じゃあ、」
慌ててフォローを入れると、また表情を明るくする。
「大丈夫ってことすか!?」
「うん、だけど、素材によっては水質に影響があるからね。実物を見てから……」
「おれ、取ってきますから! 待っててください、来馬先輩!」
ぱああ、と効果音が付きそうなほどに嬉しそうな顔をして、別役は再び扉の向こうに消えてゆく。――と思った矢先、振り向いて扉から顔を覗かせると、ぶんぶんと手を振った。
こちらからも手を振り返してやって、来馬は別役を見送る。
どうやら、水槽の中の景色は、別役に不愉快な思い、不安な思いをさせることはなかったらしい。安堵して来馬は彼を待つ。
混迷するものの考えは、自身でさっさと捨ててしまうにかぎる。一時的にでも、恒久的にでもよい。見つめ続けるだけが解決法ではないのだ。畢竟、くよくよするのはよそう、ということ。
思考する間にも、別役は戻ってきた。どたどた、けたたましい足音をたてる。
「来馬先輩ー!」
「太一、ゆっくりでいいよ」
「はい! ……どわっと!」
すさまじい勢いで駆けてくるものだから、来馬はそっと両手で押し留めるようにして、彼を諫めた。自動車がブレーキをかけるように急停止した別役は、勢いのままつんのめって、けれどもどうにか転ばずに立ち止まる。
「ふいー、あぶないあぶない! ……来馬先輩! 持ってきました!」
大輪の笑顔を来馬に向けて、胸の前で握っていた両手をそっと開いた。
ころ、と手のひらのなかで転がったのは、木製の置物だ。それは動物の姿を模している。
「…………鹿、?」
「ハイ! 鹿っす!」
そっとかかげられたその動物は、とてもとてもちいさく造られた、雄鹿だ。ちいさく、とはいっても、こどもの鹿ではない。まっすぐに立って、前を向いている。
塗料の使われていないそれは、削った具合だけで背中のまだらな模様が表現されている。ぴぴっとちいさなちいさな尻尾が立っていて、とても精巧なつくりだ。
わあ、と来馬は声をあげた。別役の手から受け取って、ためつすがめつして眺める。
「すごいね、よく出来てる。ぜんぶ木でつくられてるの?」
「そうっす! 木彫りの鹿です」
「ふふ、熊じゃないんだ。……うん、これなら水槽に入れても平気そうだ」
素材のままつくられたフィギュアは、アクアリウムに入れても水質に悪影響を与えることはないだろう。そう伝えて、鹿を別役の手のなかに戻した。
ほんとっすか、よかったあ、そう胸をなでおろした別役は、何気なく続けた。
「これ、……来馬先輩みたいだなって思って!」
「え?」
真意を測りかね、来馬は疑問符を発する。それから、自らが揶揄されることばを思い出した。――仔鹿、群れからはぐれた仔鹿。護るものがいなければ食われるだけの、――弱い、
「おれ、似てると思うんすよね。来馬先輩って――」
別役の頬が紅潮しているのを見守りながら、来馬は固唾を飲んだ。悪気のない無邪気な笑顔が、いま、なにを言おうとしているのか、それを思うと緊張が走る。
この子はほとんど悪意あってなにかを言うような人間ではなく、だから、こころにわずか刺さるようなことばがその口から発せられたとて、それにいちいち傷付く――そう傷付くのは――むしろこちらの落ち度で――
「まっすぐな人だから、鹿みたいだなって」
「――うん?」
言われたことばが上手く理解できずに、来馬は首を傾げた。思わず聞き返す。
「鹿って……、まっすぐ、なの?」
「まっすぐっすよ!」
勢いよく言って、別役はずいと身を乗り出した。彼の手のなか、鹿の黒い目が来馬を見る。
「鹿とか、ヤギとか、えーっと、ぐ、ぐう? グーテン? モル?」
「……偶蹄目かな?」
「そうそれっす! ――グウテイモク、って、坂道とか下るのに、絶対うしろ向かないんすよね」
ああ、と来馬は相槌を打った。
「たしかに、急な斜面でも前足からだね」
「崖みたいなところでも、こわがらないんです」
言いながら、別役は置物の鹿を水槽に差し入れるようにする。ちいさいこどもが遊びでするように、鹿の背をつまんで、流木の上をとことこと歩かせた。
「どんな深い谷でも、まっすぐ前見て、下ってくんです」
そのままぐいと下向け、底に向かって、跳躍。
着地。
来馬は先のランク戦を思い出した。暴風雨を避けるために住宅街の隙間を縫い――別役と合流してからは、射線を通すために建物の上へ――那須の弾を避けて、また地に降り――そこで、別役に庇われて。
あのとき、来馬がみずからの足で地面の上に立てたのは、別役のおかげだ。
それをわかっているのかいないのか、来馬の与えた帽子をいつもだいじそうにかぶっている少年は、かがやくひとみで言う。
「かっこいいっすよねえ」
その声に、別役の真意を知る。
来馬は自らの内心を恥じた。なにが傷付くことばなものか――別役の目は、そんなところを見ていない。彼の観察眼は、しばし来馬に与えられるようなどこぞの誰かの悪意など軽々と飛びこえ、その向こうのひかりを視る。
いいや、別役こそが、地上のちいさな太陽なのだ。
「来馬先輩も、まっすぐで、かっこいいです!」
心底誇らしげに笑うので、つられて来馬も頬を緩めた。
「太一。…………ありがとう」
別役は、にぱっ、と、まるい頬の上で花を咲かせた。
はい、と、水槽からすくいあげた鹿を、改めて来馬へと差し出す。たしかに受け取って、来馬はそれの配置を考えはじめる。
考えて、ふと、言った。
「……これがぼくなら」
「ん?」
「ちょっと思いついたんだけど、太一、協力してくれる?」
そうして続いたことばを受けて、別役の表情、咲いた花は満開の様相を見せる。
ボーダー鈴鳴支部その一階、市民向けの窓口近くに設置されている水槽――アクアリウム。
よくつくりこまれたその景色を、訪れた人々は口々に褒める。
「きれいですね」
「来馬さんのところのお兄ちゃんが? 感心だねえ」
「すごおい! おとうさん! しか! しかがいるよ!」
「本当だね。……ほら、こっちも見てごらん、他にも――」
その水槽には、鹿の置物と、それから。
三匹の動物が――あわせて四匹、まっすぐに、前を向いて佇んでいる。