海をみないひと 海を見に行きませんか、と言った。
他意はなかった。ただ、友人たちと海へ行こうと約束をしていて、その延長だった。支部にはいま村上と来馬のふたりきりだったが、来馬から了承を得られたなら、別役や今も誘おうと思っていた。友人らとはまた別に、鈴鳴の皆でも行きたいなと、そう思って。
それをやんわりと断られたとき、村上は、自分はいったいなにを間違えたのだろうと思った。村上の様子を見かねてか、来馬はやわい音で、それでもはっきりと言葉を選んで、紡いだ。
「ぼくはね、鋼」
沁み入る声は低い。低いのに、いつもやわらかくやさしく他人を包んで、重さを感じさせない。そのうしなわれた重量を、抱え込んで、孕んでいるのはだれだったのか。村上は、いまはじめてそれを思った。
いっそ軽やかに来馬は言う。
「海は、見ないんだ」
言葉は端的だった。困惑に眉を顰めた村上を見て尚、来馬は微笑んでいる。
「だから、ごめん…………ちょっと、わけを話そうか」
説明もなしに不親切だよね、そう言って来馬は、よかったら座って、と村上を促した。ふたりは立ったままで向かい合っていた。そろ、と村上が座ると、来馬は茶の用意をしはじめた。
かぽ。茶筒の蓋が開けられる。ざ、茶葉がすくわれる。
「鋼は知ってるかな、三門には海がないんだけど」
知っている。
この地――村上が、来馬が、別役が今が、いのちを賭して守っている土地。三門市には、海がなかった。県それ自体は堂々と海に面しているところだが、市にかぎって言えば、川こそ大きいが海はない。
それがいったいどう関係するのか、因果関係が読めずに押し黙る村上を、来馬はどう思ったろう。いつの間にか茶葉の入った急須に、こぽ、と湯が入れられる。
かたん。急須の蓋が閉められて、音が鳴る。
「だから……なんていうかな、ぼくにとって、海へ行かないのは、三門への誓いみたいなものかな」
「誓い……ですか」
「うん。はは、恥ずかしいかな」
来馬は自分も座って、指を組んだ。その動きにつられて、村上は彼の手をじっと見てしまう。
ほそいゆびだった。けれども、おんなのような、と形容されるような手指ではない。節の目立つ指は、確かにりっぱな成人男性のものだ。この手が、この地を守るために銃を握り、引き金を引くことを、村上はよく知っている。
「べつに、三門から一歩も出ないとか、そういうことはないんだけど。中学生のときは修学旅行に行ったし……」
中学生の来馬。イメージが村上のなかで構築されようとして、上手くいかずに、ほどけた。村上にとっての来馬は出逢った当初から「おとな」のかたちをしていて、「こども」の姿を想像することは、どうやらできなかった。
「ただ……ぼくはここで産まれて、ここで育った。そして、ここの人たちにずいぶん甘やかしてもらっている。親だけじゃなくて、たくさんのひとたちにね」
苦笑しながら、来馬は茶を淹れる。湯呑みはふたつ。はい、熱いから気をつけてね、そう言ってかたいっぽうを村上に与えた。素直に受けとって、村上は口をつける。来馬は自分のぶんの湯呑みをだいじそうに両手で持って、そのまま茶の水面を見つめている。
「たとえばぼくは近界遠征には行かないことになっている。これがどうしてだか、わかる? 鋼」
「……遠征よりも、残って防衛を務めるほうに適性があるから、……?」
突如投げかけられた問いに、咄嗟に思いついた答えを返した。目を合わせ、来馬はにっこりと笑う。それはぼくに対してずいぶん好意的な意見だね、そう来馬は言った。なんでもないことのように続ける。
「それも不正解ではないけど。ぼくが遠征先で死ぬとね、市民からのボーダーの評判が下がる」
ひゅっ、と、喉が鳴った。
死ぬ。遠征先で死ぬと。来馬は確かにそう言った。ぐん、と、村上の胸のうちで、温度が下がったような錯覚があった。心臓がどこかに落ちたような気がする。冷たい。考えたくない仮定を聞いた。こころが冷える。
「防衛任務でだって、死んでしまう可能性はゼロではないんだけどね。やっぱり、市民の目線としては、遠征はかなり危険なものに思えるらしい。だからぼくが遠征に行こうとすると、反対意見が挙がる。……これを自分で言うのはすこし恥ずかしいけど、ぼくは人気者の、『来馬のおぼっちゃん』だから」
「それは……違います、来馬先輩が慕われるのは、先輩の人柄のおかげで、」
「ふふ、ありがとう。――とにかく、ぼくは基本的に遠征を禁じられる立場で、それはみんながぼくを気にかけてくれるからで。つまりは、ぼくは三門そのものに、恩がある。……ぼくはきっと、生涯をこの街で過ごす」
それは簡単に想像がついた。
来馬は三門で生きて、三門で果てる。そうあるだろうという確信が、この地へ来て日の浅い村上の中にさえある。
目の前にいるこのひとは、この場所でいつか孵った過去があり、いまはこの場所に帰り、そしていつかこの場所に還る。そういうひとだ。村上だけでなく、周りは誰もが知っていることだ。
「その証明として、この地に『来馬辰也』というものを、縛り付けておきたいような……、そんな気がするんだ」
これはそのためのひとつ。そう呟いて、来馬はようやく茶をひとくち飲んだ。
「ぼく自身の感覚の問題だけどね。ぼくは海を知りません。たかがそれだけなんだけど。そういう、ひとつの誓い、なんだよ」
「…………」
理解した。理解して、絶句した。
なんということはない、個人の拘りのようなものだ。縛り付ける、と言えば言葉は強いが、実際のところたいした制限を課しているわけでもない。ただ、海というものをその目で見ない、たったそれだけ。
だから、おそろしかった。だれに知られることもなく、なんでもないように、ただそれだけのことを貫いている意志。それはきっととても、強い。
自ら海を棄てて、凛と立つ。まるで泡にならない人魚だ。
これに匹敵するような強い想いを、いったいこの人はどれだけ、抱えているのだろう。
「……と、」
無意識に、声を発した。
――遠くへ、行かないでください。
村上はそう言おうとして思いとどまる。たったいま来馬は、遠くへ行くどころか、この場所へ留まることを宣言したのだ。矛盾した懇願をしようとした。
ただ、あまりにも遠く感じたのだ。未熟な村上とはまるで違う、そのこころが。
「……あの、」
「うん。ちゃんと聞くよ」
言葉に詰まる村上を、やさしく促す彼は、いつもどおり穏やかだった。見つめる視線はあたたかい。すこし安堵して、村上はゆっくり言葉を選ぼうとする。
来馬の決めたことならば、村上に口出しをする権利はないだろう。だから、伝えるのは、やはり村上自身の願望にほかならない。もしもの話。
「……もしも、」
「もしも近界民との戦いが終わったら、来馬先輩とも海を見に行けますか」
言って、村上は目をまるくした。
――自分で言って自分でおどろくなんて、ばかみたいだな、ぼんやりとそう思いながら、けれども悪い気はしなかった。思い付きのまま、あたまのなかから直接外界に出されたような提案は、どうしてなかなか悪くない。
そうだ。戦いに明け暮れる日々さえ終われば、ここはふつうの街になる。隣り合わせの死があたりまえではなくなる。生きること、守られることに過度の感謝をしなくてもよくなる。
来馬も、村上の言に驚いたのか、すこしぽかんとした後、めずらしく視線を彷徨わせた。
「鋼……それは、」
「そうだよな、行けるはずだ、……来馬先輩、行きましょう、海。今回じゃなくても、いつか、きっと」
ゆるゆると、自分の言葉が現実味を帯びる。止まぬ戦を――やり過ごすだけでない、終わらせるためにひた進み続けているおとなたち。ここに来てから出来たたくさんの友、部隊の仲間たち、それから自分自身を、思う。村上はそれらを信ずる。
「オレもあなたも、そのために戦ってるはずだ」
自分たちになら、そういうことが、できます、と。
村上が胸を張って言えるようにしてくれた、その何よりは――まずだいいちに、このひとだ。目の前の隊長だ。来馬辰也、そのひとこそ。
「来馬先輩、オレと、海を見ましょう」
かえしてもかえしきれない。
都市は一種のいきものだ。
来馬が、三門といういきものに恩があると、そう言うならば、村上は来馬に恩がある。部屋のすみでうずくまることをやめた、村上鋼、という存在を孵して、いまは帰る場所となる。これが大恩でなくてなんだというのだ。ならば村上は来馬にこそ貢献する。
「…………はは、鋼! そうだね……、ほんとうにそうだ」
見たことのないものを見るような目で村上を見ていた来馬は、突如破顔した。それこそはじめて見る来馬の表情に、きょとん、とした村上の目前で、おおきな手がひらひらと振られる。
「鋼。おまえが正しいよ。わかった、絶対にいつか行こう、海」
朗らかに笑って、しかし会話を軽んじて言っているわけではない。やくそくだね、と差し伸べられた小指も、ふざけているわけではない。別役にも今にも、いつだって分け隔てなく、このひとは同じポーズで約束というものをする。すすんで破られたところは見たことがない。
だからきっと、これは何よりの、誓いだろう。
そう思いながら、村上は自分の小指を差し出して、来馬のそれにそっと絡ませた。
「そうしたらそのときは、ぼくが車を運転して行こうかな。乗せてってあげるよ、鋼」
「え、来馬先輩、免許ないですよね」
村上の記憶力はといえば言わずもがなで、だからこれは間違っていない。来馬は運転免許を持っていない。
それまでに取得するということか、と村上が納得しかけたところで、いたずらっぽく来馬が笑った。
「たしかに免許証は持ってないけど、まあ、取ろうと思えば、すぐ。鋼、知らない? 私有地内では、免許がなくても車を運転できるんだよ」
「……え?」
「ぼくはすでに自動車の運転ができますよってこと」
「…………え?」
なんだそれ。しらなかった。かっこいい。
ぼやくように、思考が次々と口から出てしまった。そんな村上を見て、来馬は自慢げに言う。
「そうだろ」