魔法を見せてあげる(再録)↓キャプションと同じ概要です。本編は2ページ目からどうぞ。
王子の独立にあわせて、両片想いっぽいふたりがもだもだしているオハナシです。
王子視点→蔵内視点→王子視点、ときどき神田。そのほか弓場さんや18歳男子たちがちらほら。
勉強会(という名の集まり)をしたり、水族館デートをしたり、モールモッドと戦ったりします。
原作と同程度の欠損描写(トリオン体)があります。
「クラウチ、きみに魔法をかけてあげる」
プロローグ
賭けをしようと思うんだ、と、王子は言った。
「賭け?」
「うん」
王子と自分、ふたりぶんの紅茶を淹れて、神田はくるりと振り向いた。
弓場隊の隊室、主に作戦会議に使われる大きな机。王子はその椅子に腰掛けて頬杖をついていた。
神田の視線の先でうすら微笑みながら、なんでもなさそうに王子は言う。
「ぼく、弓場隊から独立をしようと思うんだけど」
「えっ?」
青天の霹靂。
ぎょっとして、しばし神田は動きを止めた。わずかのち、動揺しながらも紅茶の注がれたティーカップを王子の前に置いてやる。自分も席に着いて、なんだそりゃ、と頭を抱えた。
「いや……、はじめて聞いたな、そうなのか」
「きみにははじめて言ったからね」
「……他のみんなにはもう言ってあんの?」
「ううん。弓場さんにだけ」
あ、ののさんにも伝わってるかな? と王子は小首をかしげる。その平然とした様子を見て神田はため息を吐いた。ついさっき自身で淹れた茶をずるずると啜る。王子が好んでいる銘柄のこの紅茶は、上等なものらしい。が、神田に味の貴賤はわからない。買ってきたのは蔵内だ。
「それじゃ、『王子隊』、つくるのか」
「うん。目標は打倒弓場隊だよ。弓場さんの早撃ちときみの策略を超えたい」
「おー、言うじゃん」
軽口を叩いたらすこし落ち着いた。ふー、と息を吐いて、机の上で指を組む。
神田は、高校を卒業したら三門から去る。それはずいぶんと前から宣言していることで、弓場隊の誰もが知るところだった。だから王子の思惑はそれをふまえてのものだ。つまるところ、神田が卒業するまでに倒してみせる、と言われている。
「ののさんと蔵内にも勝つぞって言わなきゃ失礼だろー」
「オペレーターは……戦闘員とは勝手が違うからね。もちろん動きで攪乱したりはできるけど、そもそも土俵が違うように思うよ。強いて言うなら、ののさんのオペレートに裏打ちされた強さを超えたい、ってところかな。それから、」
クラウチのことだけれど。
王子は淀みなく動かしていた口を急につぐんだ。
なるほど、と神田は心中で合点した。突如切り出された独立宣言には驚いたが──本題はきっと蔵内のことだ。
王子と蔵内は仲が良い。馬が合う、とはまさにふたりのことを指すのだと思う。似ているところも違うところも、互いが互いをおもしろいと思って、傍にいることを選んでいる間柄。
攻撃手と射手、新しく隊をはじめるにはバランスのよい組み合わせでもある。独立するにあたって、王子は蔵内を連れて行きたいのだろう。
いや、すでに王子と蔵内、弓場の間では話がついているのかもしれない。王子と蔵内と神田は同い年でよくつるんでいるから、ふたりで隊を抜けることがうしろめたいに違いない。
「ぼく、クラウチのことを」
ぽつりと落とされた言葉のつづきを待ってやる。
──『連れて行きたいと思ってるんだけど』。
そう告げられるのだと思い込んでいた神田は、
「恋愛感情としてすきみたいなんだけど」
「へあっ?」
──王子の放ったひとことを聞いて、頓狂な声をあげた。れんあいかんじょうとして、すきみたいなんだけど? 驚きのあまりにそのまま復唱する。
「レンアイ、? 恋とか? 愛とか?」
「うん、恋とか愛とか。ぼく、クラウチがほしいんだ」
まるで新しい服が欲しいとでも告げるように、王子の口ぶりは軽い。めまいのような感覚をおぼえて、神田はひたいに手をやった。うーん、としばらく唸って、苦笑いを王子に向ける。
「……はじめて聞いたなぁ」
「はじめて言ったからね」
うっかり先ほどと同じ言葉をくりかえして、先ほどと同じ返事をされた。王子は静かにわらっている。
「これはね、ほかの誰も知らないことだよ。それにぼく自身、最近になってこの気持ちに気がついたし」
「待ってくれ、じゃあ……王子、蔵内と付き合いたいんだ?」
確認するように問うと、王子は首をかしげて答えた。
「どうだろう。キスやセックスはできると思うけど、積極的にしたいとは思わないね」
「セ、」
あまりに明け透けな物言いにさすがの神田も怯んだが、それに構わず王子は話を続けている。
「でももしクラウチがそういうことを誰かとするなら、それはぼくがいいんだ。……ぼく以外とはしてほしくない。これは恋だよね?」
「あー…………たしかに」
恋愛の定義。そんなもの、誰にだってわからない。けれども王子のそれが独占欲であることに間違いはないだろう。王子自身が恋だと言うのならば、否定する理由は、ない。
しかし——驚いた。王子と蔵内、ふたりの間で相互に向いている感情はあくまで友愛だと思っていた。神田にしてみれば、応援したい気持ちもあるし、なんだかさみしいような気もする。けれども何より相応しいのは、「しっくりきた」という表現だろう。
しっくりくる。肩をならべて笑いあっているふたりが、いまよりもうすこしだけ甘やかな距離を手に入れること。──それは驚くほど簡単に、想像のつくことだった。
「でもなんでまた、そんな大事なこと俺だけに話したんだよ」
神田は問うた。王子と蔵内共通の友人として秘密を打ち明けてもらえるのは嬉しかったが、ほんとうに自分だけが聴いてよいものなのだろうか。
──応援してほしいというならば、それなりにしてやりたい、と思うけれど。
「ああ、そうそう。だからね、賭けをしようと思って。きみには証人になってほしいというか」
「証人?」
「うん、ぼくがこの賭けをしたことを知っててほしい」
見守ってほしい、と言う王子はあまりに綺麗に笑んでいて、神田はそれを断ることができない。
「ぼくはね、新しい部隊にクラウチを誘わない。……クラウチのほうから着いて行きたいって、言ってくれるのを待つんだ」
いかにも余裕のある態度で王子は指を組んで、そこにちいさなおとがいを乗せた。
にこ、と微笑めば、そこに在るのはおとぎ話に出てくる王子様そのものだ。
「賭けだよ。クラウチが弓場隊にとどまるのなら、ぼくらは変わらずいい友達。よき好敵手だ。でももしクラウチがぼくに着いて来てくれるのなら」
笑顔の性質が変わる。くちびるの端をにい、と吊り上げた笑みは、戦いの最中に王子が見せる顔だ。強敵に対峙したときの顔。──あるいは、作戦が上手くいったときの顔。
「そのときは、クラウチに告白する。……絶対に手放さない」
「あっはは! オッケー貰える前提なんだな」
大きく笑った神田を見、きょとん、と王子は目をまるくした。首をかしげて目線を上にやってから、うん、とひとつ頷く。
「だって、ぼくはこれからあの手この手でクラウチと一緒の時間を過ごして、ぼくを好きになってもらえるように仕向けるよ。宣言したからにはね」
「うわ、こわいこわい。……ま、俺も応援するよ。告られたらオッケーするくらいには、蔵内も王子のこと好きだと思うからさ」
「……」
紅茶を飲み終わったカップとソーサーを手に、神田は立ち上がり振り向いた。
「…………それほんとう? [[rb:神田 >カンダタ]]」
その背に、すこしだけ弱気な声がかかる。
ん? ともういちど王子のほうを見ると、彼の碧眼が上目遣いに神田を見つめていた。わずかに迷うような素振りのあと、つい先ほどまでの堂々とした態度とは打ってかわって、ふう、と王子がため息を吐く。
口角こそ上がったままだが、これは真剣に物事と向き合っているときの表情だと、そう神田は思った。
「クラウチのことを考えると、……まるで魔法にかかったみたいなんだ。クラウチも、ぼくのことでこんな気持ちになってくれると思う?」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
これだから王子一彰には飽きない。獲物を狙う獣の顔をしたと思えば、次の瞬間には驚くほどのかわいげを見せる。同学年ではあるけれど、ふとしたとき、まるで年下のきょうだいを相手にしているような気持ちになるのだ。
勝利を確信しているようなふりをして、その裏にあったほんのすこしの心細さを吐露してくれた彼を、安心させるように。神田は飄々と言葉を紡ぐ。
「きっとうまくいくって。おまえら、似た者同士だからさ」
1.
弓場、神田、藤丸。
順番に、独立して王子隊をつくるのだと話し終えて、さあ、あとは蔵内だけ──と、王子はボーダー本部内にて彼の姿をさがしていた。
弓場隊はこのあと防衛任務がある。そこで顔を合わせることはできるが、王子はできれば、蔵内とふたりきりで話がしたかった。
「クラウチ……どこにいるかな」
廊下を歩きながら、王子は蔵内に話す内容を考える。メンバーはどうするんだ、ポジション構成は、問われるであろうことをうまく誤魔化さねばならない。
それとなく直通通路の出入口付近をチェックしながらラウンジへ向かう。作戦室にはいなかったから、蔵内はラウンジにいるかまだ基地へ到着していないか、そのどちらかのはずだ。
結局蔵内は見当たらないまま、王子はラウンジへと辿りついた。見渡すと、特徴的な頭の隊員と向かい合って席に着いている姿がある。
「やあ、クラウチ、みずかみんぐ」
「王子」
「おつかれさん」
挨拶を交わして、水上の隣に座る。それを見たふたりは眉を上げてほんのすこし目をまるくした。蔵内の隣が空いていれば、そこに陣取るのが王子の常だった。それをよく知っているふたりは、どういう気まぐれだろうかと王子の顔を見る。
「……どしたん。なんか用事でもあんのか」
「うん。話したいことがあって」
「蔵っちと、俺にも?」
「クラウチに話そうと思ってきたんだけど、ちょうどいいから、みずかみんぐにも」
弓場隊の全員に話し終えたなら、あとは身近な者から広めていってもいいな、と考えていたのは事実だった。
王子は足を組んで膝に手を置き、神田や藤丸に話したときと同じように、なんでもない風を装って口を開く。──ほんとうは、すこしだけ、緊張している。
「ぼく、弓場隊を離れて、新しい部隊をつくるんだ」
「は?」
「……えっ、」
間髪入れずに声をあげたのは水上で、蔵内はやや間を置いてから反応を示した。彼にはめずらしく慌てた様子で、王子のほうに身を乗り出す。王子は小首をかしげて応じた。
「待て王子、それは……いつだ? ランク戦はどうするんだ」
「今期のランク戦いっぱいは弓場隊にいるよ。弓場さんたちにはもう話してある」
「……あとひと月か? 隊員は、」
「オペは伝手がありそうなんだけど、戦闘員はこれから。弓場隊を抜けた後でさがしてもいいわけだし」
「だ……れも、誘ってない、のか」
「うん」
矢継ぎ早に訊ねる蔵内はほんとうにずいぶん慌てていて、王子はすこし嬉しくなる。はじめこそ声をあげたものの落ち着いた様子で、へえ、ふうん、と相槌を打っている水上とは、対照的だ。それだけ蔵内にとって、王子が隣にいることが当たり前になっている──ということの、はず。
自惚れても、いいのだろうか。
「クラウチ、びっくりしすぎだよ」
あはは、と王子が笑ってみせると、蔵内はため息を吐いた。水上は、じと、と横目で王子を見ている。
まだ納得のいかない様子で、蔵内は言葉を重ねた。
「ずいぶん急じゃないか?」
「そうでもないよ。ずっと考えてたんだ、弓場さんや神田とも戦ってみたいなって」
「……おまえらしいな」
「──B級上位の順位、変動するやろなあ」
腕を組み、どっかりとソファに座り直した水上が言う。
「おもろそうやん。銃手、万能手……万能手言うても神田は銃がメインやし、弓場隊は基本的に中距離だけの編成になるってことやろ。そうなると、対策も変わってくるなあ」
面白そう、と言いながら水上の表情は変わらない。口元を覆い隠して考え込むようなポーズをとりながら、いつもどおりの半眼で、じ、と王子を見やる。
「……銃手、万能手、射手、とはいっても、弓場さんの早撃ちは攻撃手の速さと遜色ないよ。近距離でだって戦える。いまと変わらぬ驚異になるんじゃない?」
笑って返しながら、王子はさりげなく水上の言葉を修正した。
──勘繰られている。
頭の回転のすこぶる早い水上のことだ。王子と蔵内、ふたりのわずかなやり取りだけで何らかを察したのだろう。王子は蔵内を連れて行くつもりなのかどうか、それを探られている。
「ぼくも三人に負けないようなメンバーを集めるつもりだよ」
だめ押しで、人数を強調する。
もちろん蔵内には着いてきてほしいが、王子からそれを明かすことはない。そういう、賭けなのだ。いまここで水上に悟られて、蔵内にも意図するところが伝わってしまうのは困る。
「そうか……」
呟いたのは蔵内だった。
「やっぱり王子は面白いな。弓場さんに勝とうだなんて、考えたこともなかった」
「ふふ、光栄だね」
「いまのメンバーでのランク戦は、今期が最後になるんだな……、」
半ばひとりごとのように紡がれる言葉の続きを、慌てて遮った。
「うん、がんばろうね、クラウチ」
「ああ」
──じゃあ、いままでありがとう、王子。
あっさりとそんな別れの言葉が出てくるのではないかと思って、王子はすこし、どきどきした。ただ穏やかに笑んでいる蔵内を見て胸を撫で下ろす。
気付けば、そろそろ作戦室に戻らなくてはならない時間だった。蔵内を促して立ち上がる。
「またね、みずかみんぐ」
水上は黙ったまま、ソファの背にずるずると凭れかかって手を振った。行儀の悪さに苦笑する。蔵内のほうを見ると、彼はなんともいえない表情で水上を見ていた。
「水上、」
ふと蔵内が水上を呼んだ。戸惑ったような声だ。
水上はすこしだけ背を伸ばして居住まいを正す。しばらく蔵内の顔を見つめて、ふっと笑んだ。彼にしてはめずらしい笑顔だ。王子は目をまるくした。
「また今度な。蔵っち」
「……ああ」
蔵内とふたり歩き出してから、王子は上半身を傾けて、下から顔を覗き込むようにして訊いた。
「クラウチ、みずかみんぐと何話してたの?」
「相談を──授業でわからなかったところを聞いてたんだ」
「学校違うのに?」
「俺も本当は荒船か犬飼に聞こうと思ったんだが、ちょうどラウンジに水上がいたから」
「なるほど、みずかみんぐは成績優秀だからね。でもどうせなら、ぼくに聞いてくれればよかったのに」
言ってから、すこし恥ずかしくなった。これではあまりに──まるで拗ねたこどもだ。けれども言ってしまったものは仕方がない、どうせ蔵内を手に入れるためには形振り構ってなどいられないのだ。むしろいいアピールチャンスじゃないかと思考を切り替えて、王子は歩きながら蔵内の腕に自分の腕を絡めた。
「現弓場隊はもうすぐ解散なんだ。相談事くらいしてくれなくちゃ、さびしいよ」
「王子……」
目と目が合った。紅玉の瞳が王子のすがたを映す。
ロボットのような、能面のような、と評されがちな蔵内であるが、その実彼はとても情に弱い。表情だって王子よりもよっぽど豊かだ。うれしい、かなしい、くやしい、王子は誰よりも近くでその感情の機微を見てきた。
けれども──いま蔵内の眼を見て、彼が自分のことをどう思っているか、王子はどうしてもそれだけがわからない。いつの間にか、わからなくなってしまった。王子を映し出す瞳。その奥底にある炎のいろは、果たしてなにを思って燃えているのだろう。王子と共に在りたいと、そう考えてくれるだろうか?
王子を見つめる目が、眇められる。絡めていた腕を、絡んだほうとは反対の手でぎゅうと握られた。
「……クラウチ?」
「王子、」
首をかしげた王子のことを蔵内はなおも見つめて──、
「歩きづらいから離れてくれ」
「辛辣だねクラウチ!?」
──どうやらまだ、王子の手中に落ちてきてはくれないらしい。
□□□
さりとて大きな問題もなく防衛任務は終わった。担当の区域を回り終えて本部に戻る。解散、と弓場の号令がかかれば、あとは各々帰宅するだけだ。
王子と蔵内と神田、三人で連れ立って帰ろうとしたところを弓場に呼び止められた。
「王子、おめェーは残れ。話がある」
「はい」
新部隊発足に関してだろう。他の皆が作戦室を後にし、弓場と二人きりになる。王子は弓場との間に机を挟んで立った。弓場が座らないから、王子も座らない。
「新しい隊についてだが」
「はい」
思ったとおりの切り出し。何を告げられるのだろう、と王子は考えた。
──王子は遠くへ行くわけではないけれど、送別会のひとつでも開いてくれるのだろうか。我らが隊長、弓場拓磨は、それはもうたいへんに義理堅いひとだから。
呑気に思考する王子の前で、弓場は腕を組んで堂々と立ったままでいる。彼が席に着かないのはいつものことだけれども、換装した姿ではなく生身で見下ろされるのは、そこそこにめずらしい。前髪の上がった弓場ばかり見慣れているから、なんだかふしぎな心地になる。いつものように叱られたり発破をかけられるというよりは、諭されるような。
チッ、と、弓場は舌打ちをひとつした。ひたいに刻まれた皺の数がいつもより多い気がする。換装した姿のときは、眉間の皺のぐあいまでカスタムされているのだろうか。
「蔵内は連れてかねェのか」
「……はい?」
それは予想だにしなかった質問だった。王子の口から間抜けな声が漏れ出る。
「蔵内を『王子隊』に入れるんじゃねェのかって言ったんだ」
「え……なんでクラウチ連れてくと思ったの、弓場さん。ぼく、そんなのひとことも言ってないよ──」
「敬語。隊長やるってんなら、示しがつかねェーだろうが」
「……はぁい」
口調を嗜められて、ぶう、と唇を尖らせた王子に、弓場は重ねて問う。
「で? ──神田にもハナシはついてんだろ、隠さなくていい」
彼にしてはずいぶん穏やかにそう言うので、王子は困惑した。
なにか、大きな勘違いをされている。心配をしてくれているのか、優しく言ってくれるのはとても嬉しかったけれども、そのままにしておくというわけにもいかない。
誤解をとくために王子は口を開いた。
「ほんとうに、クラウチにも神田にも、クラウチを連れて行く、なんて言ってません。言う予定もありません」
「……。じゃあおめェー……、蔵内は弓場隊に残るってー解釈でいいんだな?」
「う、」
王子は言葉に詰まる。そのように断定されると、困るのだ。
──まさか、恋仲になりたいがために賭けをしています、などと言うわけにもいかないし。
はあ、と弓場のため息が空気を震わせた。閉口した王子の様子をどのようにとったのか、弓場は切れ長の目をさらに細めて、畳み掛けるように言う。
「欲しいんだろうが。自分の気持ちひとつぐらいには素直でいろや」
──ぼく、クラウチがほしいんだ。
神田にそう言ったのは、たしかに嘘ではない。けれども。
「……ぼくが来てほしいって言ったら、クラウチはたぶん、新しい隊に着いてきてくれます。でも」
弓場の視線から逃れるようにして、王子は目を顔ごと伏せる。
半ば公私混同の事情でなくとも、蔵内を欲しがる理由はある。お互いに勝手知ったる仲、連携のとりやすい射手。それらを述べて説得すれば、きっと蔵内は王子の傍に来てくれるだろう。
それでも、王子は賭けがしたかった。王子の隣に在りたいと思ってくれる蔵内に。王子の可能性を信じてくれる蔵内に。
「でも、…………」
「日和ってんじゃねェーぞ、王子ィ」
言われ、弾かれたように弓場を見た。
「日和って、なんか──ないよ!」
意図せず大声が出た。弓場のほうに一歩を寄ろうとして、机に足をぶつける。ごち、と鈍い音がした。痛い。つまさきを見て、そのまま俯いた。
「ぼくは、」
一度大きな声を出したら止まらなかった。つらつらと、思ってもいなかった言葉たちが喉を通って外の世界にすべり落ちてゆく。
「たしかにぼくは、新部隊にクラウチが欲しいなと思ってるけど──ほとんど私情で、来てほしいなんて言えないよ。クラウチは──弓場隊にいたいって、そう思うかも、」
「敬語。……なんでそう思うんだ」
問われて、は、と息を呑む。
──いま、ぼくは、なんと言った?
ぎく、と胸のあたりが冷たくなる。
王子にとって、蔵内は唯一無二の存在だった。部隊を組むという意味でも、友人としても。弓場でも、神田でも、藤丸でもない。彼らとは違う部隊にいたって良い関係性を築けるのだと、そう確信がある。
でも、蔵内は。蔵内と相対するときを想像すると──まるで見捨てられたような気持ちになる。和を重んじる性質の蔵内は、弓場隊に残りたいと言うのではないだろうか──王子の隣など欲しくないのだと、そう言うのではないか。考えてもしかたないような不安が、胸の内を離れない。
不可解で、どうにもならない。
「自信がないんです。……でも、妥協してなんか、いないからね」
どうにもならなくとも、それだけは確かだった。自らの気持ちをコントロールできないからこそ、王子はこの感情を恋と定義している。
不安は確かにある。蔵内への執着を、ぶちまけてしまいたい気持ちもある。
けれども、王子はもう、決めていた。いま蔵内が王子を選ばないのなら、王子はその手を離す。中途半端に彼のことを求めてしまったなら、きっと王子は彼に優しくできなくなる。だらだらとその一生を縛り付けようとしてしまうだろう。王子の人生にも蔵内の人生にも、ボーダーにとっても、損になることだ。王子は自分たちの価値を見誤らない。
だから、これでいい。彼を手中に収めるか、それともきっぱりと諦めてしまうか。その二択でいい。その二択だけで、いい。
ゆえに──王子一彰は、賭けをする。
「『王子に着いて行きたい』って、クラウチにそう言わせてみせるからさ。……見ててよ、弓場さん」
たしかにそう言い返すと、机越しに手を伸ばされ、あたまをくしゃくしゃと撫でられた。
見れば、弓場はやわらかな笑みで王子を見下ろしている。その表情がめずらしくて、王子は目をまるくした。
「おう、その意気でいろや。それから」
いちど言葉を区切ってふっと息を吐いた弓場は、
「敬語」
と王子のひたいにデコピンを食らわせた。
2.
蔵内和紀は、たいへん戸惑っていた。
同じ部隊──自分と同じ、ボーダーB級、弓場隊に所属する、王子一彰のことである。
弓場隊から独立して新しい部隊をつくる、と宣言した王子は、準備のために毎日忙しなく奔走している。
それはいいのだが。
──このところ王子は、奇行が目立つ。
予定の合間にさまざまな同級生を誘って、なにやら妙なことばかりしているようなのだ。忙しければ忙しいほど、プライベートにも予定を詰めてしまうタイプの人間、というものもあるらしいが──王子はそこに該当するのだろうか。
それとも。
──弓場隊を抜けることが寂しくて、暇な時間をつくらないようにしているのだろうか。
蔵内はその考えを、自らで即座に否定する。
それは根拠のある想像ではなく、蔵内自身の願望だ。王子が弓場隊を離れがたく思ってくれていればいい。そんなこどものような感傷を──実際、蔵内はいまだこどもと呼ばれて差し支えない年齢だが──そんなわがままを、胸のうちに飼ってしまっている。
あっさりと──あまりにもあっさりと、部隊を抜けると告げた王子の様子を思い出す。慌てる蔵内を見て、驚きすぎ、と笑っていた。蔵内の腕に腕を絡めて、さびしい、などと言っていたが、その様子はどう見てもほんの戯れに過ぎなかった。
寂しく思っているのは、蔵内のほうだ。
──とにかく。
王子が奇行を重ねているのなら、それを止めるのは蔵内の役目だ。弓場でも、神田でも、藤丸でもない。王子のことを任されるのは、いつも蔵内なのだ。
だから、蔵内は、戸惑っていた。
自分の知らないところで、王子がどうにも不可解な行動をしている。
□□□
「会長! 王子に伝言、頼まれてくれるか」
放課後の教室、学校からボーダー本部へ向かおうとした蔵内を、引き止める声があった。
振り返って見ると、こちらへ駆け寄ってくる姿がある。
「荒船。──俺からでいいのか?」
蔵内は聞き返した。
荒船と王子は、普段からそんなに交流のあるほうではない。用があるとすればボーダー関係のことで──荒船は隊長を務めているから、おそらく王子のつくる新部隊に関してだろう。書類でなくていいのか、間に蔵内を挟んで伝えていいものか、その確認をした。
ああ、と荒船は頷く。ただし声の調子は蔵内の言を肯定するものではなく、納得がいった、という様子だ。
「ボーダーのことじゃない。アレだ、お勧めの。……俺じゃわからないから那須に聞いた」
「那須?」
ボーダー随一の変化弾の使い手に何の用が、と首をかしげかけて、ボーダーに関する用事ではないのだ、と思い直す。
続いた言葉に、蔵内は目をまるくした。
「いまやってるヤツならダントツでお勧めなのは『君に恋した日曜日』。次点で『コーヒーくんとはちみつティーちゃん』。ただし『キミコイ』を観るなら前作を観ておくこと推奨、だってよ」
「は?」
「ん?」
蔵内が頓狂な声をあげ、それを受けて荒船が首をかしげた。
荒船が挙げたのは、どちらも映画のタイトルだ。いまやってるヤツ、との言葉どおり、どちらも現在全国の映画館で上映されているもので、蔵内の記憶が確かならば、両方ともに原作があるはずだ。
そしてその原作とは、どちらも、恋愛ものの、少女漫画だった。
「……会長と観に行くんじゃないのか?」
訝しげに荒船は言った。どうやら王子と蔵内で映画を観に行くのだと、そう思われていたらしい。
「いや、知らないな……。というか王子は最近忙しいはずなんだが」
「そうなのか? 『お勧めの恋愛映画ってある?』なんて訊くもんだから、てっきり会長と一緒に行くもんだと」
ふたり揃って首をひねる。
蔵内は、映画に誘われてなどいなかったし、王子が誰かと行く予定を立てているとも聞いていなかった。そもそも、王子は新部隊の準備で忙しいはずだ。
すこし前までは尖った言動ばかり繰り返していたものの、王子はいまではすっかり落ち着いて、素行も成績も優秀な生徒になった。ボーダー隊員はある程度の学業免除を受けているとはいえ、学校とボーダーの両立というのはなかなかに忙しない。そこに加えての新部隊隊長就任。映画を観ている余裕があるのだろうか、と蔵内は疑問に思った。が、それを口には出さなかった。代わりに別のことを訊く。
「……なんで恋愛映画なんだ?」
「さあ? というか、誰と観に行くんだ? まさか、一人で、か?」
「王子の趣味じゃないだろう」
言いながら、蔵内も不思議に思った。王子自身もそうだが、王子とある程度の交友関係のある人物に、恋愛ものの作品を好む人柄、というのが思い当たらない。
王子も誰かにおすすめの映画を訊かれて、それで自分よりも詳しい荒船に訊ねた、ということだろうか。それならそうと言いそうなものだが、と考えながら、蔵内は気になったことを訊いた。
「ところで荒船、手続きのことなんかは王子に相談されてないのか? あいつ、ずいぶん忙しそうで。心配なんだ」
「手続き? なんの」
「新部隊の……」
荒船はきょとんと目をまるくして、それから、ああ! と声をあげた。
「独立するって話か! そういや聞いたな、すっかり忘れてたぜ」
見事にいまのいままで失念していた、といった様子の荒船を見て、蔵内はすこし驚く。
同級生で隊長職を経験したことがあるのは荒船と影浦のみだ。そして影浦は明らかに、戦闘以外の雑務を他人に教えるということに向いていなかった。だから、王子は隊長を務めるにあたって、荒船にいろいろなことを聞いているだろうと──てっきりそう思っていた。しかし、荒船の様子を見るに、そういうことはないらしい。
「そう言われてみれば……まあ、結成の手続き自体は即日受理だし、簡単だけどな。その後がそこそこ面倒なんだよな……あいつ、弓場さんに教えてもらってんのか?」
「それが、弓場さんに頼ってる様子はないんだ」
ふーん、と荒船は首をかしげた。
「今期のランク戦終わりまでは弓場隊にいるんだろ? 抜けてからいろいろやるんじゃないのか……いや、」
不思議そうにしながらも言って、けれど荒船は自分で否定し、眉を顰めた。
「王子、確かに忙しそうだよな。オペレーターと一緒にいるのも何度か見たし。……なんで映画なんか観ようとしてんだ?」
心底、理解できない、という表情をした荒船を見て、蔵内は不安になった。途端に王子の多忙さが心配になる。──けれども、弓場隊に留まる蔵内には、関係のないことなのだ。うっかり口を出したなら、王子に鬱陶しく思われるのではないかと、そんな想像が脳裏をめぐった。
しかし、王子はほんとうに、ひとりきりで新部隊をつくりあげようとしているのだろうか──もしくは、オペレーターとふたりきりで?
それを思った瞬間、なんともいえない気持ちが、蔵内の胸中を襲った。乗り物酔いのような。三半規管がぶれるような、気味の悪い感覚。
「……会長?」
訝しげに蔵内の顔を覗き込もうとした荒船に、手を振ってみせた。
「ああ、悪い、なんでもない」
そう言って、そのとき感じた気持ちを、蔵内は自分自身でもすぐに忘れてしまった。
□□□
それからつい数日後のこと。
「会長、おれ今日、防衛任務の後に王子と待ち合わせしてるんだけど。やっぱ無理そうって伝えてもらえる? おれからも連絡しとくんだけど、念の為ね」
同じく放課後の教室にて──今度は犬飼が蔵内に声をかけた。
「ああ、わかった。伝えておく。何の用事があったんだ?」
「んー、ゲーセンに遊びに行く予定だったんだよね。二人でプリ撮ろうって話してて」
「は?」
なんの気なしに問うた蔵内は、あんぐりと口を開けるはめになった。
──王子と犬飼が、二人でプリ。プリ? プリというのはプリクラのプリだろうか? まさか王子のプリではあるまいし。
相も変わらず忙しそうにしている王子は、弓場隊を離れて新部隊のオペレーターと過ごす時間が増えた。弓場隊の作戦室に戻っているときは、だいたい何らかの書類を手に、弓場や藤丸に質問をしている。
ゲームセンターに行く時間など、どこにあるのだろう。それ以前に、なぜ、プリクラ?
「……男二人で?」
「あはは、そう、男二人で!」
困惑を隠せないままに蔵内が聞き返すと、犬飼はけらけらと笑った。
「女の子がいないと追い出されちゃうところもあるけどね。王子がやったことないから撮ってみたいって。なーんか、恋人ができたときの予行練習だよーとか言って、ふざけてたけど……アレ、会長、王子から聞いてないの?」
「特に聞いてないな……、あいつ、最近忙しいはずなんだけどな……」
荒船のときと同じだ。まとまった時間など取れないはずの王子が、いつの間にやら出かける予定をつくっている。そして蔵内はそれを知らなかった。
途端、もや、と、なんともいえない気持ちが蔵内の胸のなかに湧き上がった。そして蔵内は思い出す。──そうだ、この間荒船と話したときも、同じ感覚が胸の内にあった。
ふうん、と犬飼が相槌を打つ。
「まあ、日程考えなおしなんだけど。そうだ、会長も来る? 最新プリでみんなまつ毛バシバシにしてもらおうよ。それこそ王子みたいにさ」
「……いや、俺は遠慮しておくよ」
「はは、だよねー」
そこで蔵内が苦い顔をした理由を、犬飼はきっとわからなかった。そして、蔵内自身も。
じゃあね、またボーダーでね、と手を振る犬飼と別れ、蔵内は歩き出しながら思考する。
──なんだろう、この気持ちは。
なにかに納得がいっていない。
王子がなにを考えているかわからない、なんて、そんなのはよくあることだった。やたらと予定を詰めている理由が気になって落ち着かない、というわけでは、ないと思う。
どちらかというと。
「……どうして、俺じゃないんだ……?」
ぽつり、落ちたひとりごとが自分自身の耳に届いた瞬間、蔵内はぎょっとして足を止めた。
──いま、俺は、なんと言った?
ぎく、と胸のあたりが冷たくなる。
動揺を誤魔化すように再び歩を進めながら蔵内は考える。自分は、荒船や犬飼を妬んでいるのだろうか? 自らに問いかけ、そんなはずはない、と否定しかけて──ぐ、と下唇を噛んだ。もしも蔵内の心中を精査してみたならば、きっとそうは言いきれない。
──相談事くらいしてくれなくちゃ、さびしいよ。
そう言ったのは確かに王子だったのに、王子自身はといえば、映画のお勧めは荒船に聞いているし、撮ったことのないプリクラの相談は犬飼にしている。それを思うと、ぐずぐずと気持ちが煮立つような心地がする。
はら、と落ちてきた前髪を耳にかける。知らず俯いていた顔を前に向けて、蔵内は大きく息を吐いた。ぱん、と自らの頬を叩く。
ひとりで考えていたって仕方がない。寂しいと感じるならば、相手が自分に近寄ってきてくれるのを待つのではなく、自分から行動すればいいのだ。
□□□
ボーダー本部の廊下にて、蔵内が王子に声をかけようとしたとき、王子はちょうど誰かとの会話を終えるところだった。
「じゃあ、羽矢さん、またあとで」
「ええ、じゃあ──」
手を振って去っていく後ろ姿。角を曲がって見えなくなった人影は、蔵内や王子よりもひとまわり小さい。
「王子」
「ああ、クラウチ」
「いまのは……、『王子隊』のオペレーターの人か?」
「そうだよ。橘高羽矢さん。ののさんの友達」
弓場さんやののさんと同い年、と王子は続けた。なるほど、そのふたりとの繋がりから紹介してもらったのだろう。
長い髪を風に靡かせた彼女は、女性にしてはずいぶんと背が高く、それゆえか清廉な印象を残していった。
「凛とした雰囲気の人だな」
「うん、さばさばした人で、話してて気が楽だよ。オペレートの腕も優秀なんだって。部隊を組むのが楽しみだな」
そう言って、王子は、いたずらを考えるこどものような顔をした。言葉どおり、新しい部隊が楽しみで仕方ないのだろう。
王子が新しくつくる隊はきっと、彼の自由な発想を生かした、おもしろい部隊になるのだろう。そこにいるのは、弓場でも、神田でも、藤丸でもない。──もちろん、蔵内でもないのだ。
やはりそれをすこし寂しく思う自分に苦笑しつつ、蔵内は本題を切り出した。
「ところで王子、この間、水上に勉強を教わった延長で……勉強会を、やることになったんだが」
「へえ」
「よかったらおまえも来ないか?」
蔵内が目を合わせると、王子は、きょとん、と目をまるくした。そのまま小首をかしげて顎に手をやる姿は、どうやら誘いを受けようか迷っている様子だ。蔵内は重ねて続ける。
「ゆるい集まりになると思う。人数が、けっこう集まってて……騒がしくなりそうなんだ」
「なるほど。楽しそうだね……日程と会場とメンバーは?」
興味ありげにうんうんと頷かれる。詳細を問われ、蔵内はひとつずつ説明した。
「今週の日曜、午後からだな。場所は俺の家だ。メンバーは、俺と、水上と……」
ふんふん、と聞く王子の瞳があからさまに輝いている。
実際、勉強会というよりも、菓子でも食べながら他愛ない息抜きをしようというような集まりなのだ。あまり勉強というものが好きではない性格の当真なども参加予定で、それを教えてやると、王子はにっこりと笑って了承した。
「それならぼくもみんなと喋りに行こうかな。日曜の午後って何時から?」
「十三時か、十四時あたりにしようと話してる」
「じゃあ少し遅れていくかも。──持ち物は? 一応、筆記用具と、あとはなにか食べるものがあればいいかな?」
ひととおりの約束をとりつけて、楽しみだなあ、なんて笑いながら、王子は去っていった。今日も新部隊に関する用事があるのだという。先ほど話し込んでいた橘高とふたりで、作戦室内のレイアウトを考えるらしい。いよいよ、王子隊の設立はすぐそこに迫っているのだ。
もし、そこに、自分がいたら。蔵内はそれを想像しかけて、やめた。
──弓場さんや神田と戦うのが楽しみ。王子がそう発言していたのを、何度か耳にした。蔵内は、王子と一緒にいた時間こそ多いものの、彼の中ではひとつの駒に過ぎないのだ。突出したところのない、ただの駒。
友としては、きっと重んじてくれている。王子が蔵内を尊重してくれる気持ちを踏みにじってまで卑屈になるつもりはない。ないが、友愛と必要性はまた別の話だ。蔵内は、必ずしも王子の傍に必要な人間ではないし、きっと王子自身もそれをわかっている。王子がやりたいことをやりとおすのに、蔵内は不必要だ。だから、王子が自分の傍に蔵内をほしがることは、ない。
そうでないのならば、王子のほうから蔵内を新部隊に誘っているだろう。
だから、王子が弓場隊を出て行くまでの、あとほんのすこしの時間だけでも。蔵内は彼と過ごす楽しい時間をつくりたかった。いつか思い出したときにふと微笑んでしまうような、ただ静かに凪いだ思い出がほしい。
いまいる隊を辞めて、独立する。たったそれだけの事象は、大した別れではない。九州の大学に進学を考えている神田のように、すぐ会えないほど離れた場所へ行ってしまうというわけではないし、──三門市にいて、ましてやボーダーなんてものに所属している以上、一生涯の別れが突然に訪れることだってあるのだ。たかがひとりの独立ごとき、いちいち深く悲しんでいてはどうしようもない。
それをわかっているのに、どうして、こんなにも寂しさをおぼえるのだろうか。
あまり考え込むと深みに嵌まりそうで、だから、蔵内は思考を放棄した。
□□□
勉強会は予定通り、日曜日に行われることになった。当真、北添、水上、犬飼が十三時から、王子と神田が遅れて十五時頃に、それぞれ蔵内の家へやってくる。
先に五人が集まった時点で、蔵内の部屋はぎゅうぎゅうになった。
「お菓子どれ開ける?」
「飲みもんは? コップこっち、」
「会長、当真の課題見てやって、こいつヤバい!」
「お世話んなりまーす」
なんともまあ賑やかなことで、蔵内は苦笑しながら学習机に腰かけた。蔵内の部屋にあるローテーブルに座るのはせいぜい四人までが限界で、遅れてくるふたりはベッドにでも腰かけてもらうことになるだろう。
水上から渡されたサイダーを飲みつつ、当真が広げているプリントを覗き込む。
課題を抱え込んでいるのは当真と北添で、あとのメンバーはそれを見てやりながら、自分の勉強をする形になりそうだった。水上も宿題があるらしいものの、彼の成績なら誰に教わる必要もないだろう。
「当真の面倒見たら、蔵っち自身の勉強はどないすんねん」
「まあ、俺はそんなにわからないところもないし……王子と神田も来てくれるだろ。わからないところは二人に訊くよ」
実際、蔵内が授業でわからなかったところ、なんていうものは、ほとんどなかった。
──でもどうせなら、ぼくに聞いてくれればよかったのに。
そう言ってくれた王子のために、彼に訊ねようとあえて残してある課題が、いくつかあるのみである。
王子と神田の名が出たのを聞いて、そういえば、と犬飼が言う。
「王子、弓場隊辞めちゃうんでしょ?」
「ああ、もう皆聞いたのか? ランク戦が終わったら独立するんだ」
「会長と神田は弓場隊に残るんだよね?」
「……そうだな」
ほんの一瞬だけ返答を迷って、結局、蔵内は肯定を返した。その様子には気付かず、犬飼は、ええー、と声をあげる。
「なんかさあ、会長と王子と神田って、ずーっと一緒かと思ってた。とくに会長と王子のふたりは」
「はは、なんだそれ」
笑いながら、蔵内は内心どきりとした。──ずっと一緒かと思っていた。それはまさに、蔵内のことに他ならなかった。王子や神田と共に過ごすのは心地がよくて、どんな形であれいずれ別れのときが来るとはわかっていたが、こんなタイミングでとは思っていなかったのだ。
「……ずっと一緒なんて、ないだろ。ボーダーを辞めてくやつもいるし、ボーダーで正職員として働くにしても、ずっと同じ隊なんてことはないさ」
「そうなんだけどさあ、なんか、さびしい気分」
自分自身の甘ったれた心を否定するように蔵内が言うと、犬飼はそれでも寂しいと続けた。腕を頭の後ろで組んで、舟を漕ぐようにする。
「たとえばさ、おれの場合、二宮さんって、二宮隊以前に東隊だった人じゃん。なんとなくあの人は、いつか幹部になるのかなあとか、そしたら二宮隊は解散かーとか、想像つくんだけど。鳩原ちゃんも、人が撃てなくてもさ、なんか別のとこでもうまくやっていきそうな気がする。でも、二宮隊がはじめての所属で、いっつもコンビ組んでるせいかな、辻ちゃんと違う隊になるっていうのは、うまく想像できないんだよね」
ランク戦で敵対するなんてなおさら。そう言って犬飼はテーブルの上に手を伸ばした。所謂パーティ開きになっていたポテトチップスをつまみ上げて、ぱり、とかじる。
──そうか、この先、王子と敵対する可能性があるのか。
蔵内はいまはじめてそれを思った。
王子とは何度も模擬戦をやったことがある。むしろ、王子が一騎討ちをやろうと持ちかける相手は、たいていが蔵内だった。弓場は王子に挑まれてもあまり相手にしなかったし、神田は──王子曰く、「神田とは団体戦がやりたいよね」。
けれども、違うチームに属し、王子が蔵内のことを完全に「敵の駒」として見るのだと思うと、すこしのどの詰まるような思いがした。
「ゾエさん、ちょっとわかるなあ」
北添がしみじみと同意した。ポテトチップスを二枚いっぺんに掴んで、ばり、と頬張る。
「みんなでやる模擬戦とかなら、カゲと戦うこともあるけど。違う部隊に所属して敵対するっていうのは、なんだかしっくりこないよねえ」
「んなことねーだろ」
唇を尖らせて言う北添に、当真が否定を返す。こちらは棒状のチョコ菓子を口に咥えていた。当真が喋るたびに、ぴょこぴょこと菓子が上下する。
「あんまり固まってると、そのうち上層部にバラされるんじゃねーの? で、やらされたらやらされたで、意外と違和感ねーもんだと思うぜ、俺は。たかが部隊が変わるだけだろ?」
「そう? それって当真が一人で動く部隊だから言えちゃうんじゃない? ──あっ、そうだよ。おれと辻ちゃんとか、会長と王子とかって、ニコイチ、ってやつだよね」
「……こら、話しとる場合か。当真は宿題やらへんと終わらんぞ」
煽るように指さした犬飼を、水上が止めて、当真にも釘を刺す。犬飼は、はぁい、とあっさり勉強に戻った。当真も同様で、それを見ていた蔵内はすこし拍子抜けした。
犬飼や北添の意見を聞いて、安心した。やはり、別の部隊に離ればなれになるのは、寂しいものなのだ。蔵内ばかりがこんな気持ちになるわけではない。それと同時に当真の意見も耳にして、いろいろな考えがあることを知る。
自分だけがとくべつ、王子に執着しているわけではないはずだ。そう自分に言い聞かせながら、蔵内は当真の勉強を見てやる仕事に戻った。
王子と神田がやって来たのは、十五時になるすこし前だった。
「おつかれさま」
「おつかれー」
新しい客人を迎え入れて、にわかに場が騒がしくなる。が、蔵内と水上はろくに挨拶もできずにいた。当真の課題の出来があまりにも酷かったためである。
「……どこをどうしたらこの数字が出てくるんだ……? ちょっと待ってくれ、当真と同じ答えになるようにやってみる…………、ん……? なん……どうしたらこれが……どうし……?」
「アカンアカン! 蔵っちがバグった!」
やいのやいのと騒いでいる間に、王子はローテーブルへと無理やりに詰め、神田はベッドのふちに座ったらしかった。
だから、蔵内がそれに気がついたのは、ずいぶん時間が経って、当真が一足先に帰ると言いだした頃だ。
「ははっ、もー、いい加減なにやってるの、王子?」
呆れたような北添の笑い声が聞こえて、ふと蔵内はそちらを振り向いた。すると見えたのは──北添の大きな体躯を押し倒して、そのおとがいに手をかけている、王子の姿だった。
王子は親指でそっと北添の唇をなぞって、ふ、と微笑んだ。
「ゾエ……きみの唇、すごくぷるぷるだね……」
「あっはっはっは! 王子、それたぶん、ポテチの油!」
それを見ながら犬飼が爆笑している。あまつさえスマートフォンを取り出して写真を撮っていた。なんだこれは。
「……なにやってるんだ」
そう尋ねれば、王子は笑って言う。
「なにって……、うーん、予行練習? いつか役に立つかもしれないと思って。床ドン顎クイ」
「床ドン顎クイ」
聞き慣れない単語に思わず鸚鵡返しをしてしまった。
「そう。床ドン顎クイ……クラウチ、そっちはもういいの?」
そんな蔵内の様子には構わず、王子は、そっち、と、帰り支度をしている当真を指した。それに気付いて、ん、と当真が手を上げる。
「俺はこれから本部。いやー、久々にこんなにベンキョーしたぜ」
「いやまだ半分も終わっとらんかったけどな」
休み明けにはきちんと最後までやってこい、そう命じた水上をひらりとかわして、当真は輪を抜け出す。
「じゃーな」
後ろ手に手を振って、飄々と出ていった。その姿を見送って、王子が北添の傍から立ち上がる。
「ぼく、そっちに座ろうかな。ここ狭いし」
「ちょっとちょっと、最初にくっついてきたのは王子だよね? ゾエさん悲しいなぁ」
よよよ、と泣き真似をする北添をあっさりと放り出して、王子は蔵内の傍まで移動してきた。先ほどまで当真のいた位置に座ると、学習机に腰かけている蔵内からは、彼を見下ろす形になる。ひょんひょんとところどころが跳ねた髪はやわらかそうだった。ぼんやり見ていると、蒼い目がついと蔵内を見る。
「クラウチ、ぼくにも勉強教えてよ」
「ああ……でも、王子、今日は遊びに来たんだろう?」
教えてよ、とは言うものの、その手元にはテキストもノートも広げられていない。ひっついていた北添のところにも王子の筆記用具は置かれていなかった。鞄はと見渡せば、部屋の入口付近に放り出されている。
「第一、おまえは俺に教わるような成績じゃないだろ」
「そうなんだけど、」
指摘すると、王子は肩をすくめて、なんだかきまりが悪いような顔をする。
「頼ってくれなきゃさびしい、なんて言ったのはぼくだからね。構ってよ、クラウチ」
照れくさそうに苦笑を浮かべる。ぐ、と蔵内は息を呑んだ。
──おぼえていたのか。
いずれ来る別れ、なんてことのないちいさな喪失、それを気にしているのは自分のほうばかりかと、すっかりそう思っていた。犬飼や北添は蔵内の気持ちをわかってくれるだろうと、先ほどのやり取りでそうは思ったが、王子のそれは気まぐれに出た言葉だと認識していた。王子自身は、そう言ったことすら、記憶していないだろうと。
「…………そうだな、やっぱり教えるようなことはないけど、逆に、おまえに訊こうと思った課題があるんだ」
「ぼくがクラウチに教えるんだね。いいよ、手取り足取りなんでも教えてあげよう」
明るく笑って王子は立ち上がった。威張るように腰に手をあてて胸を張る。それから学習机に凭れかかって、腕を組んだ。蔵内の手元に広げられたプリントを覗き込む。
「どこがわからないの? クラウチ」
「ああ、ここなんだが……一応、考えるだけは考えたんだ、確認したくて」
「ふーん?」
至近距離で首をかしげられるのは、すこし、緊張する。空の色をした瞳が、じっと蔵内を見た。
シャーペンをとって、字を書き込んでいく。かりかり。解答だけではなく中途の思考も書き込んで、言語化してゆく作業をする。蔵内が音を発さずに言葉を重ねてゆくさまを静かに見守って、そっと、王子の左手が、ペンを握った蔵内の手に添えられた。
「クラウチ、ここ。答えは合ってるけど、すこし飛躍してるね。他の問題でこれをやると間違えるよ。だから、まず、こっちを……」
賢い王子のこと、蔵内の解答を見るや否や、すぐさまに問題点がわかったようだった。そのまま蔵内の手を使って、紙の上に文字が書き連ねられていく。
──いくら他者から、気の合うふたりだ、所謂ニコイチだ、と言われていたって、密着した姿勢はすこし恥ずかしい。こそばゆく感じる蔵内に対して、王子はあくまで平然としていて、蔵内はなんとなく罪悪感をおぼえた。
自分ばかりが意識しているようで、気まずかった。瞬間、ちらと逸らした視線が、ちょうどこちらを見ていた犬飼とかち合う。
犬飼はいちどまばたきをしてから、突然、ばっと手を挙げた。
「センセー! 家庭教師のオージさんが、えっちな個人指導してまーす!」
「ぶっ、わはは、どういうノリだよ、それ」
「出たな、色仕掛けで法外な授業料を請求する悪徳家庭教師。蔵っちを誑かそうとしたってそうはいかへん」
「ふたりとも何言ってるの、もー、王子も蔵っちも困ってるでしょ」
それぞれに騒ぎだした四人を見て、王子がため息を吐いた。握られていた手がぱっと離れていく。
「失礼だなあ。ぼくは来週には弓場隊を離れるんだよ? いまのうちにスキンシップの一つや二つ、えっちな個人指導の三つや四つくらいするよ!」
「王子!?」
なにを言ってるんだ、と、机の傍に立ったままの王子に顔を向けるも、王子は皆のほうを見ている。そうだ、と水上に向けて指を鳴らした。
「独立はいいけどさ、絶賛隊員募集中なんだよね。これが思ったより見つからなくて。目を付けてる中学生が一人いるんだけど、できれば同年代からも一人欲しいんだ。ある程度、頭脳派な人がいいんだよね。……みずかみんぐ、どう?」
「うっわ信じらんない、ライバルが揃ってる中でそういうこと言う? 王子と水上が一緒に作戦練ってくるとか最悪なんだけど!」
「うひー、それはちょっとゾエさんも相手したくないかなあ……」
犬飼と北添が揃って苦い顔をした。当の水上はというと、いつもどおり感情の読み取れない表情をして腕を組んでいた。やがて手を首の後ろにやって、んー、と間延びした声を出す。蔵内は彼をじっと見た。
「……遠慮しとくわ。俺はいまんとこ、生駒隊辞める気ぃはないからな」
「そう。残念」
どうやら本気ではなかったらしい。王子はあっさりと引き下がって、くるりと蔵内を振り向いた。
「さ、クラウチ。続き続き」
にこ、と笑って蔵内を促す。困惑しながら、蔵内は机に向かい直した。
──王子は、誰のことも新部隊に誘わないのだと思っていた。
もしも王子が「王子隊」に誰かを入れようとするのならば、それは神田か自分だろうと、そう思い込んでいた。彼の右腕に相応しいのは、きっと自分たちしかいないと。いまさら自分の傲慢さに気がついて恥じ入る。
「クラウチ、この公式で引っかかるみたいだね。基礎は問題ない、応用も途中式以外は大丈夫。でも、さらにハイレベルな……これ大学相当だよね? この辺の解答になるとぎこちないのかな。って言ってもこのレベルじゃぼくにも答えはよくわからないんだけど」
流れるように言う王子に、まるでなにもかも見透かされているような気になった。
他者のものの考えかたを把握して、実際に思考を推測してみせることが、王子はとても巧い。人の先回りをして喋ってみせたりだとか、思考の癖を計算に入れて作戦を予測したりだとか、そういうことができるタイプの人間だった。
優秀な彼に、いま、蔵内はどう見えているだろう。自分だけが持ち合わせる執着に、見損なわれてしまうのではないかと、それが気がかりだった。
「六頴ではこんなのやってるんだ。すごいね、さすが……」
テキストをペラペラと捲りはじめた、その表情を直視できない。
すらすらと淀みなく、王子は蔵内を褒める。果たしてその瞳は、彼が弓場や生駒を見るときと同じように、輝いているのだろうか。
それを確認するのが、いま、このときだけは、こわい。
ぎゃあぎゃあと喧しく騒ぎながらも、意外にも勉強会はきちんと「勉強会」として機能した。気がつけば日がとっぷりと暮れている。机に向かってすっかり集中をしていた蔵内は、慌てて皆に声をかけた。
「皆、もう真っ暗だぞ。帰らないと」
「わっ、ホントじゃん! ヤバいヤバい」
窓の外を見て犬飼が騒ぎ出す。帰り支度を、と蔵内が促しかけたところで、神田がそっと人差し指を唇に当てた。静かに、のジェスチャー。
何かと思い、蔵内は首をかしげる。すると今度は北添が自身の足元を指差した。蔵内からは死角になっていたそこを覗き込むと、王子が北添の腿を枕に眠り込んでいる。そういえば、さっきから王子の姿が見えなかった。
「……いつの間に」
「疲れてるんだろ」
「だねぇ。王子、ぴくりとも動かないよ」
たしかに、すー、すー、と、聞こえる寝息は深い。寝顔を隠しもせず、いとけない表情を晒しているのはめずらしかった。ローテーブルの下になって見えないだろうと、そう思ったのだろうか、それとも。
「……まるくなったよなあ」
しみじみと神田が言った。
「出会ったばっかの頃は、ぜったいこんな顔見せてくれなかったもんな。寄らば斬る! だった」
「そうだったな。……不用意に寄ったやつは実際に斬られてたな。弧月で」
「あはは」
笑いあっていると、妙におずおずとした様子で、北添が口を挟んだ。
「……蔵っちと神田くんのおかげだと思う」
「ん?」
「うん?」
「だから、王子がこんな風にいろんな姿を見せてくれるようになったのはさ。ふたりの影響が大きいんじゃないかなあ。とくに蔵っちは、王子にずっと寄り添ってあげてたでしょ? 安心できる居場所だと思ってるんじゃないのかな。そんなイメージ」
「…………、そうか?」
蔵内はぽかんとした。
周囲から見て、そんな風に思われているとは知らなかった。いつだって自由に好きなところを飛び回る王子の、彼のためのとまり木に、ほんのすこしでも、蔵内はなれたのだろうか。そうだったら嬉しいと思う。
「そうだよ──」
「なになに、ゾエ、それ体験談?」
「ゾエの場合は影浦隊と来馬先輩か?」
言い募る北添に、からかいの言葉が飛ぶ。両隣からつつかれ、北添は大きな体を揺らした。
「ちょっとちょっと、ゾエさんおこるよ」
怒るよ、と言いながらも本気ではない。北添はくすぐったそうに笑いながら身じろぎをする。
枕が揺れたのを感じ取ったのか、王子が眉間に皺を寄せた。
「ん……」
北添の腿の上で、はしばみ色の髪がさらさらと揺らされるのを、蔵内は見守った。
むぐ、と唇が引き結ばれて、また弛緩する。長いまつ毛がふるえて、ターコイズの瞳が姿を現す。──目が合った。
「王子、起きたか?」
「…………」
蔵内が声をかけたので、皆も王子の様子に気がついた。複数の視線に見下ろされた王子は、けれどもまだぼんやりとして、どうやら覚醒しきっていないらしかった。顔にかかった髪もそのままに、いつも意識的に上げられている口角も、いまは力を抜いて下がったままでいる。
「……くらうち?」
ぽつりと呟かれた。蔵内が返事をするよりも早く、北添が前髪をのけてやりながら言う。
「そうだよ王子、蔵っちだよー」
「ふふ、くらうちだ……」
王子は気持ちよさそうに目を細めた。北添の手に頬をすり寄せて、嬉しそうに蔵内を呼ぶと──またすぐに、眠りこけた。
「えっ、王子、それは蔵っちじゃなくてゾエさんの手なんだけど……」
「うわー、王子かわいいことするじゃん。あざといねー」
「いや身長一七七センチの男のすることやないやろ」
周りがやいのやいのと囃し立てても、犬飼がその頬をつついても、今度こそ王子は何の反応も返さなかった。
「はは、眠り姫じゃなくて眠り王子だな」
「会長ご指名いただいたんじゃないの? 目覚めのキッス贈らなきゃ」
「え、この場合ゾエさんの立場はなに? 天蓋付きベッド?」
ただ目が合っただけだというのに、こうも茶化されると、さすがに照れてしまう。
偶然に蔵内と目が合ったから、寝惚けて名前を呼んだ。それだけのことだ。それだけのこととわかっていて尚、むずがゆい気持ちになる自分自身が、よけいに恥ずかしい。そう思って、蔵内は黙した。
「……でももう帰ろうって話だったよね? おーい、王子」
「──いや。置いてってええやろ」
犬飼がすっかり熟睡している王子を揺さぶる。それを止めたのは、意外にも水上だった。きっぱりと言い切られた言葉に、え、と蔵内は彼の顔を見た。普段と同じ、温度の変わらない半眼は、どうしてもなにを考えているのかが読み取れない色だ。
「王子は家も遠くないし。無理に起こすより泊めてやったらええんちゃう」
普段と同じその目で、普段なら言わないような気遣いを王子に向けたので、蔵内はすこし驚いた。蔵内がまばたきを繰り返している間にも、水上はばりばりと首の後ろのあたりを掻きながら、重ねて続ける。
「家の電話番号も知っとるやろ? 親御さんに連絡だけしておいたらええと思う」
「……まあ、おそらく、それで大丈夫だな」
蔵内の親も王子の親もすでに顔見知りであるし、そもそもボーダーに所属している以上、突然泊まりがけになって帰宅しないことは多い。似たようなことはいままでにもあって、それらを参照するに、今回のこともそれでいいはずだ。
「じゃあ、それでいいんじゃね? 解散解散。蔵内、今日はありがとな」
「あ、ああ……」
ぱん、と神田が手を叩き、あっという間にその場は解散となった。
蔵内は王子を泊める許可を親にとってから、水上が言っていたとおり、王子の家にも連絡をした。あっさりと、王子がこの夜を蔵内の部屋で過ごすことが決まる。
北添がいなくなって、カーペットの上に直接寝ている姿に、そっとブランケットをかけてやる。何度か声をかけたりゆすぶってみたりしたが、一向に王子は起きなかった。
あまりにも無反応なので、すこし心配になった。人間というものはここまで深く寝入ることができるのだろうか。すっ、と口元に手をかざしてみると、吐息が手にかかった。きちんと呼吸をしていることがわかって、安心する。
そのまま、北添がしていたように髪の束をよけてやる。むずがる様子もなく、王子はただただ眠りつづけていた。
触れたところで、王子は起床しないのだ。蔵内は童話に出てくる王子様ではないのだから。
結局、こんこんと眠る王子を放置し、蔵内は先に夕食を摂って風呂に入ることにした。
濡れた髪をタオルで拭きながら、蔵内が自室に戻ってくると、王子は座ってスマートフォンをいじっていた。ようやく目が覚めたらしい。戻ってきた蔵内に気付くと、やあ、と片手を挙げた。
「親から連絡きてた。泊まっていいんだってね。迷惑かけてごめん」
「いや、いいよ、疲れてたんだろう? 風呂が沸いてるから、入ったらどうだ」
「うん……そうだね」
王子はうんと伸びをして、ふはっ、と息を吐く。
蔵内は箪笥を開け、王子に寝間着として貸すための服を選びはじめた。その背に向かって声がかけられる。
「にしても置いて帰るなんて、みんなひどいなあ。聞きたいこともあったのに」
「聞きたいこと?」
ごそごそと自分の衣服を漁りながら訊ねると、しばらく間があった。──ああ、これがいいか。ここしばらく着ていなかった青いスウェットの上下を引っ張りだし、袖を伸ばしてみる。そこで、はたと、王子から返事がなかったことに気がつく。スウェットを胸に抱いて振り返ると、王子は俯いていた。
「王子?」
どうした、と問うと、蔵内の表情を窺うようにこちらを見上げた。
「うーん……クラウチ」
「なんだ?」
「クラウチだったら、恋人にするならどんな人がいい? どういうしぐさや振るまいに、心惹かれると思う?」
ぱさ、と、青のスウェットが床の上に落ちた。
蔵内は自らが取り落としたそれを慌てて拾い上げた。──こいびとに、するなら、どんなひとが? どんなひとにこころひかれるか? 聞こえた言葉が目の前の男とうまく結び付かなくて混乱する。その様子を見て、王子はくつくつと笑った。
「ちょっとクラウチ、動揺しすぎ。……ぼくがこういうこと言うの、そんなに意外?」
「……いや、まあ、……気になる人でもいるのか?」
「まあ、そんなところかな」
あっさりと肯定されて、今度こそ蔵内はぎょっとした、が、もう衣服を取り落としはしなかった。けれども困惑はこちらのほうがより深い。
「ごめんごめん。クラウチがそんなにもこういう話に弱いとはね。……その服貸してくれるの? お風呂、行ってくるね」
王子は笑って話題を切り上げると、立ち上がった。ぽかんと立ったままになっていた蔵内の手からスウェットを受け取ると、勝手知ったると言わんばかりに廊下へ消えて行く。
はあ、とため息を吐いて、蔵内はベッドに座り込み、床に足を投げ出した。
「……驚いたな」
おどろいた。王子の口から、恋だとか、愛だとか、惚れた腫れただとか、そういう話題を聞くことがあるとは思っていなかった。王子の飽くなき好奇心は、たしかに、他人の言動や思考に対して向くことが多かったが、それがまさか恋愛感情へ発展したのだろうか。
違和感があり、その違和感に既視感があった。
──『お勧めの恋愛映画ってある?』なんて訊くもんだから、てっきり会長と一緒に行くもんだと。
不思議そうに言った荒船を思い出す。そうだ。らしくない言動。王子の奇行。
──オージがやったことないから撮ってみたいって。なーんか、恋人ができたときの予行練習だよーとか言って、ふざけてたけど。
──予行練習? いつか役に立つかもしれないと思って。床ドン顎クイ。
──恋人にするならどんな人がいい?
いくつかの言葉が蔵内の脳裏を駆けめぐって、はじけた。
ああ、と蔵内は嘆息した。王子が忙しい合間を縫うようにして、いろんなところを飛び回っている理由。たしかにその言動は、一般的に恋する人間のとる行動とされるものだ。
新しい部隊をつくるにあたって、王子が知り合った人といえば。
──さばさばした人で、話してて気が楽だよ。
そう言った王子が思い出された。
さすがに邪推が過ぎる、と蔵内は首を振る。相手がだれかなど、関係がない。つまるところは。
王子は、蔵内の知らないだれかに、恋をしている。
幕間
飄々としていて、落ち着いていて、いつも慌てずにいる。
自分がそう評されることを、神田は知っていたが──それは「表情に出づらいタイプ」というのも含めて言われているのだと、神田自身はよくわかっていた。
だから、この場合、神田は自らの性質をすこし疎ましく思う。
「べつにさ、いますぐどうこうならなくっても、いんじゃね? もう誘ったらいいだろ、新しい部隊」
「うーん」
神田の焦りは、なにひとつ王子に伝わっていなかった。
「王子隊」ができあがるまで──王子が弓場隊を辞めるまでに、一週間を切った。
王子と蔵内。ふたりは、いまだに友人同士のままでいる。
正直に言って、神田は、ふたりがあっという間に恋人同士になるものだと踏んでいた。それほどまでにふたりの距離は近く、周りから見て踏み入ることのできない世界を生じさせていたし、なによりお互いがお互いを尊重し、好き合っていた。他人の色恋沙汰を勝手に確信するなど、行儀のよいことではなかったが、それでも神田はそう思っていたのだ。
その恋の実らないこと、ただそれだけに、第三者である神田がどうしてこんなにも焦れているのかというと、それは王子の方針と蔵内の態度にあった。
蔵内が弓場隊を辞めて王子と共にゆくことを決めたならば、王子は絶対に彼を手放さない。それが王子の言い分だったが、つまりは、蔵内が言い出さない限り、王子は蔵内を手に入れるつもりがない。どころか、永遠にその手を離してしまうつもりでいるらしい。蔵内は蔵内で、王子が自分を指名しないのならば、彼のつくる部隊に自分は不必要なのだと、そう思い込んでいる。これではすれ違いだ。
双方の考えが見事に行き違った結果、そのどちらもが望んでいない別れが、ふたりに差し迫っている。
共通の友人として、また、彼らがお互いに想い合っているのとは異なる意味で、ふたりを大切に想っている身として、もどかしく思う。
だから、神田はいま、目の前にいる王子を、どうにか説得しようとしている。
「自分でタイムリミットつけて、それでこの先も一生諦めておしまいのつもりなんて、勿体なくね?」
──賭けをするのだと、そういう言いかたを繰り返している王子は、その賭けに「敗け」ようものならば、自分の気持ちまで棄ててしまおうとしている。やるせなくてしかたがなかった。
そんなことは、しなくていいのだ。
「……あのね、神田」
ふう、とひとつ息を吐いて、王子は弓場隊作戦室の机に頬杖をつく。まだ弓場隊の隊服を着ているが、一週間後の彼は違う服を着て違う隊室で笑んでいるのだと思うと、すこし寂しい。
「この間の勉強会。みんな、ぼくを置いて帰ったよね」
「ん? ……ああ。なんだ、気にしてんの? 悪かったって」
「いや、そうじゃなくて。……ぼく、クラウチの家で寝てる間に、変な夢を見て」
「ヘンな夢?」
神田は首をかしげた。うん、と頷いてから、王子は視線を彷徨わせる。めずらしく煮え切らない態度で、いかにも苦々しいといった表情で、言葉を紡いだ。
「……その、クラウチがさ、寝てるぼくの頬を撫でたり、くちに触ってみたりするんだ。……そういう夢」
「それは……」
なんと言っていいものか、神田は逡巡した。
あのとき王子に触れて、顔にかかった髪をのけてやっていたのは北添で、頬をつついていたのは犬飼で。だからきっと王子の見た夢には、それらの感触が反映されたのだろう。そう伝えてもいいものか、迷った。
けれど、彼が気にしているのはそういうことではないらしかった。当たり前みたいな顔をして、王子は言う。
「まったく、あさましいよね。……ぼくは自分で思っていたよりずっと、クラウチに執着してるみたいなんだ」
──それはきっと蔵内も同じだと、そう言ってやることは、できなかった。とん、とん、と、指先でテーブルを鳴らして、流れるように王子は言うのだ。
「クラウチがぼくのことを好いてくれてるのはわかってる。……たとえばぼくがいま告白したって、クラウチはきっと頷いてくれるだろうなって、わかってるんだ。でも、クラウチは優しいから…………ぼくと同じ気持ちになってくれたのか、それともぼくに『付き合ってくれる』のか、ぼくにはきっと判断がつかないだろう」
ぴたりと動きを止めて、だからね、と、王子は笑んだ。その表情はひどく優美で、どこからどうみたって閑雅なる王子様でしかない。
「最初のアクションはクラウチからでないとならない。でなければ、ぼくは一生、彼に一方的な支配関係を課しているんじゃないかって、思い続けることになるだろうね。……ぼくと来てくれるって言ってくれたら、それだけでいいんだ。近付いてくる意思があるなら、それでいい。そのときは容赦しないから」
「……王子、」
一見すると傍若無人にも思える彼は、けれども実際のところ、ひとの感情の機微にとても敏い。だからこそ、他人を慮って立ち止まってしまうことがある。
我らがプリンス、無邪気で完璧なおうじさま。──だからといって、悩みのひとつもないなんて思うのは、大間違いだ。
「わかった。……わかったけど」
はあ、と大きくため息を吐いて、神田は頭を抱えた。
王子と蔵内が直面しているのはあくまでお互いの間にある問題だ。どんなに親しい友であれ、第三者である神田には手出しのしようがない。下手に口を出しても、よけいに彼らの仲を拗らせる可能性となるだけだと、それがよくわかった。
けれども、せめて、できる限りのアシストはさせてほしい。
「……なあ、まだ、諦めたわけじゃないんだよな」
「うん。そういうふうに聞こえなかった? 弓場さんにもそう言ったからね。ぼくは全力を尽くす。だから、だめだったときは諦める。はっきりさせてるだけだよ」
「えっ、弓場さんにも言ったのか?」
「あ、恋愛云々は抜きにしてね。ほんとうはクラウチが欲しいんだけどって、……実は、弓場さんに見抜かれちゃって」
「あはは、弓場さんらしいや。……じゃあ、これ。いいもんやるよ」
そう言って神田は自分の荷物の中を探って、一枚の紙切れを取り出した。この間、建築様式を確かめたくて訪れたレジャー施設。そこで貰ったものだった。
「水族館の割引チケット。二名様まで有効だから、蔵内と一緒に行ってこいよ」
「……、いいの?」
王子は上目遣いになって、じっと神田を見た。澄んだ瞳はまるでそれこそが水槽の中のようだ。──言外に訊ねられている。ほんとうに、蔵内の手をとることを成してしまってもいいのかと。それは蔵内を縛り付ける行為に他ならないのではないかと。
公平さを求められているから、できるだけ公平に在ろうとして返す。だからといって何が変わるわけでもない。王子は蔵内を、蔵内は王子を欲しがっている。それは明白なことなのだから。
──いいよ、と神田は笑った。
「行ってくれ。俺はいきものとかあんま興味ないし、王子と蔵内には幸せになってほしいから」
「神田、」
「あ、ランク戦のことも忘れんなよ。弓場隊最後のランク戦なんだぞ。俺だって、こう見えてけっこう寂しいんだからな」
湿っぽくなった空気を振り払うように、神田は明るい声を出した。それを受けて王子もまた、口角をゆるめて笑う。
「……うん。ぼくも、ぼくのつくった部隊できみと対戦するのは楽しみだけど、きみと別れるの、さびしいよ」
「それ、矛盾してるっぽく聞こえるなあ」
「矛盾してるっぽく聞こえるね」
そう笑い合って、順に席を立った。
「……神田、ありがと」
「おー」
誰とだって、どうせいつか別れが来るのなら、明るく手を振って別れたい。神田は、常々そう思っている。
3.
待ち合わせは、水族館の最寄り駅にした。三門の外れにある、すこし大きな乗換駅だ。
「クラウチ。ごめん、待たせたね」
「いや、俺もいま来たところだ」
首からミラーレスの一眼レフカメラを下げた蔵内の姿を見つけて、王子は手を挙げ、歩み寄った。その姿を認めて蔵内はやわらかく笑っている。
この笑顔を浮かべさせることができるのは、きっと自分だけだ。そう思い込んでいたくて、王子はとびきりの微笑みをつくって返した。
「じゃあ、行こうか」
神田がくれた割引券は、駅ビルの上階に入っているという、すこしめずらしい水族館のものだった。ビルの最上階とひとつ下のフロアを使った施設は、他の水族館に比べれば狭いが、魚以外にもさまざまないきものを展示しているらしい。
商業ビルのフロア内に水族館の入口があるのは、なんだか奇妙な感覚だった。エレベーターを降りると学習塾とゲームセンターが並んでいて、ふたりははたしてこの階であっていたかと案内表示板を見た。
「ああ、やっぱりここだね。違う階にきちゃったかと思った」
「そうだな……こんなところに水族館が入ってるのか。めずらしいな」
「すこし前にオープンしたばっかりなんだって」
あっちだ、と指さしながら、ゲームセンターの敷地内を突っ切るような形の通路を歩く。クレーンゲームの大きなぬいぐるみが目に入った。
──かわいいだろうな、と王子は思った。ぬいぐるみをかわいいと思う趣味はないが、この巨大なマスコットをもしも蔵内が抱えていたら、きっとそのアンバランスさがかわいい。
「クラウチ見て、あれ、取れそうじゃない? 帰りにやろうよ」
「……持って帰っても邪魔にならないか?」
「うーん、たしかにそうだね」
言われればそうだなと納得して、クレーンゲームから視線をはずすと、その奥にあるプリクラが目に入る。そういえば、と王子は思い出した。
一般的に、意中の相手とするとよいとされている行動──共に恋愛映画を見るだとか、プリクラを撮るだとか。同級生たちからそれらを聞き出したり、予行練習をさせてもらっていたのに、結局、蔵内とはなにひとつ行わずじまいだった。勉強会のときなんて、共に見られるかもしれないと恋愛映画のDVDを鞄に忍ばせていたというのに、王子が寝こけてしまったから機会を逃した。
「……奥にプリクラがあるよ。クラウチ、一緒に撮ってみる?」
口に出してから、無理があるな、と思った。
長身の男ふたり、プリクラを撮るなんてなかなかめずらしい光景だろうし、王子も蔵内も興味のあることではない。この間、王子に撮りかたを教えてくれた犬飼は慣れた様子だったが、男子高校生にしてはめずらしい部類だろう。
「……。はは、俺とおまえでか?」
「ふふ、冗談だよ」
案の定、蔵内は困ったように眉を下げて笑った。はやく行こうと促して、通り過ぎる。
水族館の入口は広く、シンプルで清潔感があった。チケットカウンターへ向かおうとする王子を、蔵内が呼び止める。
「王子、待ってくれ」
「ん?」
「そこに立ってくれないか? 写真が撮りたい」
言われて、飾られている水族館の名が写り込むように立つ。軽くポーズを取ってみせると、蔵内がファインダーを覗き込んだ。カシャ、とシャッター音が鳴る。
「……撮れた。ありがとう」
「どういたしまして? この場合、お礼を言うのはぼくのほうじゃない?」
律儀な彼は、撮らせてくれてありがとう、なんて、そんな謙虚が過ぎることを言う。
「王子が写ってくれると、画面が華やかになるからな」
さらりとそう言ってパンフレットを取り、改めて受付に向かう姿を見ながら、──そういうところがすきなんだよなあ、と、王子は思った。
水族館に入ると、ひんやりとした温度の心地よい空間が、静かに王子と蔵内のふたりを迎えた。客の姿はちらほらと見えるが、賑やかな様子はなく、ただ穏やかで静謐な時間が流れている。
最初のコーナーには、円筒形のちいさな水槽が立ち並んでいた。
「川魚? ちいさいのがたくさんいる」
「このあたりの魚らしいな。あんまり見たことはないけど」
「『河川敷マップ』ならよく行くけどね。あれに魚はいないだろうし」
「そうだな……」
会話を交わしながら蔵内はすっとしゃがみ込んで、さっそく写真を撮りはじめる。王子はすこし離れてそれを見守った。水槽の周りをゆっくりと歩いて、蔵内から遠ざかる。
カメラを操ることに集中する、蔵内の真剣な横顔。すこし遠くからそれを見て、なんともいえない幸福な気持ちになる。勉強しているときだとか、王子とのチェスゲームに臨んでくれるときだとか、彼が誠意をもってやりたいことに取り組んでいる姿はとても格好良くて、王子の目に魅力的に映る。
「王子、この水槽、イモリが入ってるぞ」
「うん?」
ぐるりと回って蔵内のもとへ戻ってくると、蔵内は水槽の下のほうを指差してそう言った。見れば、たしかにちいさな黒いとかげがいる。水槽の表面に、アカハライモリ、と解説が貼ってあった。
「ほんとだ。……いっぱいいる!」
蔵内の隣にしゃがんで覗き込むと、死角になっていた場所に二匹三匹とその姿を見つけた。そのほとんどが微動だにせず、中には目を閉じているものもいる。
「イモリって目を閉じるんだね……寝てるのかな? ぜんぜん動かない」
「ふ、……」
「クラウチ?」
じいっと水槽を観察する王子の隣で、蔵内が吐息だけで笑いそうになって、押し黙った。振り返ってなにかと問えば、苦笑して蔵内は言う。
「いや、……悪い、この間の王子を思い出して」
「え?」
「勉強会の。よく寝てたよな」
目を細めて笑う蔵内に、む、と王子は口を尖らせた。
「あんなふうに寝ちゃうつもりはなかったんだけど……。ぼく、こんなだった?」
「かわいかったよ」
心の底からそう思っていると言わんばかりに微笑まれる。蔵内がこういう言いかたをするときは社交辞令だとわかってはいるが、それでも照れくさかった。
「……そういうのは女の子に言いなよ」
「すまんすまん」
蔵内はそれでも笑うのをやめず、ふいにカメラを王子に向けると、間髪おかずにそのままシャッターを切った。
「クラウチ!」
「はは、めずらしい顔してたからな、つい。──そろそろ次に行くか」
「もう……」
悪びれもせずに言って順路を進みはじめる彼を追う。
──ああ、楽しいな、と王子は思った。王子をからかおうとするのなんて、蔵内や神田くらいだ。けれども王子はそれがいやではなかった。
新部隊をつくりたかったのは本当のことであるし、自分が選択する道を誤ったとはけっして思わない。なにひとつ後悔もない。それでも。
この時間が永遠に続けばいいのにな、と、王子は思ってしまった。──いけない、と内心で首を振る。まだ諦めたわけではないのだ。神田にだって、そう言ったのだから。
王子と蔵内はゆっくりと館内をまわった。度々、蔵内は立ち止まって写真を撮り、王子はそれを静かに見守る。時折、王子自身にもカメラが向けられた。
巨大な亀──スッポンモドキ、というらしい──が王子に向かってひたすら泳ぎ、ガラスにぶつかる姿を見て、困惑したり。
「……ぼく、なんかした?」
「王子、気に入られたんじゃないか」
「うーん、嬉しいけど、きみとぼくとじゃ種族がちがうから」
「振られたな。かわいそうに」
「あっ、ほら、クラウチのほうに行ったよ」
「切り替えが早いな」
ワライカワセミの大きさと笑い声に驚いたり。
「カワセミってこんなに大きかったか?」
「海外に生息してる種類みたいだね。……うわっ!?」
「……すごい声だな。なるほど、だからワライカワセミって名前なのか」
「びっくりした……」
アロワナ、ピラルク、テッポウウオに肺魚。
めくるめく水中の世界を蔵内と共に観察するのはほんとうに楽しくって、だから、王子は口を滑らせた。
たえず枝の上で動き回っているカメレオン。それを見て、王子は言った。
「思ってたより色が変わるのが早い。さすが、隠密トリガーの名前の元になっただけあるね。……そうだクラウチ、今度使ってみない? カメレオン。試してみたいことがあるんだ。射手はトリガーキューブでバレちゃうから、あんまり使ってる人見ないけど──」
「王子」
蔵内は王子の言葉を遮って、どこか苦しそうな表情をした。
「次の試合が終わったら、俺とおまえはもう、チームメイトじゃないだろう」
「あ……」
指摘されて、王子は口をつぐんだ。
──そう、タイムリミットはすぐそこまで来ている。蔵内が王子の部隊へ入りたいと申し出てくれないのならば、ふたりはチームメイトをやめる。
それはたかだか部隊編成が変わる程度の、それだけのことでしかないけれど。
作戦室でチェスをすることも、様々なトリガーを試してみたりすることも、なくなるのだ。
「……うん。ごめん」
「もちろん、練習とか実験とか、付き合うけどな。いまほど頻繁には、できないだろ」
「うん。……わかってる、つい」
「ああ」
蔵内はふいと顔を背けてしまって、彼がどんな表情をしているのか、王子は見ることができなかった。
──違う、あんな顔をさせるつもりじゃなかった。あんなことを言わせるつもりじゃ、なかったのに。
王子は己の失言を悔いた。
「クラウチ──」
用もなく名を呼ぶ。再び、くる、と振り返った蔵内は、なにかをこらえるような笑顔を浮かべていた。見ているこちらが、つらくなるような。
──ねえクラウチ、ぼくの隊においでよ。
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。──違う。違うだろう。それを言ってはいけない。あんなに他人を巻き込んでおいて。賭けをするのだと、のたまっておいて。
言葉に詰まった王子をどう思ったのか、蔵内は曖昧に笑う。
「王子。……下には広い水槽があるらしいぞ、行ってみないか」
そう言って王子の前にパンフレットを広げる。水族館はビルの二階ぶんを使用して成り立っている。順路をたどるなら、この後はフロア中央のエスカレーターを下るのだ。
「うん……」
ぼんやりと返事をした王子に、蔵内は笑いかけて、
「近界民だ!!」
——突然聞こえた叫び声に、ふたりともハッと振り向いた。
「近界民? なんでこんなところに……」
「警戒区域外どころじゃない、ほとんど三門の外れだぞ……!」
俄に場が騒がしくなる。早く逃げろ、と叫んでいる声は、入口のほうから聞こえていた。どうすればいいのかと多くの客が迷っている間に、館内放送が流れた。──二階ショッピングコーナーに近界民が現れました、お客様はスタッフに従い避難を──。放送の声はひどく震えている。戸惑いながらも、人の流れが入口に向かいはじめる。
「クラウチ」
「二階だな。行こう」
王子と蔵内は目配せしあって、各々のトリガーを取り出した。
『トリガー起動!』
すぐに換装すると、耳元に手をやる。──王子は舌打ちをした。トリオン体には内部通信機能が備わっているが、本部への連絡が通じない。できるのは王子と蔵内間の会話だけだ。
それが、なにを意味するか。
「……本部に繋がらないね」
「ああ。……緊急脱出システムの範囲外だな」
「こんなところに近界民が出るなんてね。イレギュラー門、ってやつかな」
「だな。……俺たちが行くしかない。民間人への被害をすこしでも食い止めないと」
換装体の通信機能ではなくボーダーから支給されている端末で本部に連絡を入れて、近くの施設スタッフに声をかけ、ふたりは水族館の順路を逆走して外に出た。このビルには吹き抜けがある。そこまで走って行き、並んで下層階を見下ろした。
ガシャン、ぱりん、と何らかの破壊音が響く中を、人々が逃げ惑っている。ガシャガシャガシャ、ひときわ大きい音の発生源を見やると、巨大な蠍のような姿が見え隠れした。
「まずい、モールモッドだ。逃げ遅れてる人たちを助けなくちゃ。もしやられたらすこしの怪我じゃ済まないよ」
「レーダーの反応は二つあるな。王子、見えたか?」
「いや……見えたのは一体だね。もう一体もすぐ近くにいると思うけど」
王子は吹き抜けの柵に足をかけた。佩いている弧月に手をかけながら、早口に言う。
「指揮権はぼくがもらうよ。──まず、ぼくはモールモッドをおびき寄せて、足止めする。クラウチはその隙を見て、一階と二階の民間人を救出および避難誘導。一階の避難が終わった時点で、ぼくは敵をそちらに誘導、討伐に集中。一階・二階クリア後、蔵内は三階より上階にいる人をさらに上層階へ避難させる。場合によっては援護。——とにかく、きみの優先行動は避難誘導だ。いいね?」
「蔵内、了解。ただしすこしでも危なくなったらすぐに言ってくれ。……緊急脱出が使えないんだからな」
「了解。お互いにね。──行くよ」
足元の柵を蹴って、跳んだ。同時に蔵内も、王子とは違う方向に跳躍する。
「誘導弾!」
吹き抜けを落下しながら、細かく割った弾トリガーを放つ。ドドド、と着弾音がして、手応えがあった。二階フロアにスコーピオンの刃を引っかけて着地する。
王子に気付いたモールモッドが、アパレル店のショーウィンドウを踏み割って吹き抜けのほうへ出てきた。レーダーに映っていたとおり、やはり一体ではなく、二体いる。
『二体とも釣れた。クラウチ、二階から避難誘導お願い』
『ああ、無理はするなよ!』
モールモッドたちが元いたあたり、破壊された店舗内に蔵内が入ってゆくのが見えた。それを遮るように、視界内にモールモッドが躍り出る。するどい刃を弧月で受け止めて、王子は再び誘導弾を放った。半分は目の前に、もう半分は後ろに回った敵に。──ただしトリオンキューブの分割は細かく、威力は控えめだ。牽制のための射撃。
警戒区域外──それも三門市の外れ、トリオン兵の襲撃に慣れていない一般市民が多く利用するこの場所では、弾トリガーによる攻撃は難しい。逃げ遅れている人々に誤射する可能性はもちろん、建物の損壊を考えて、なるべく被害を少なくするように気をつけねばならなかった。
吹き抜けがあるぶん、二階より上のフロアは足場が狭い。機動力を生かして戦うスタイルの王子には不利な条件だ。できれば下に降りたいが、少なくとも蔵内が一般人を避難させ終えるまでは、一対二の状況を凌がなければならない。
王子の胴あたりを狙って放たれたブレードを、跳んで躱す。続く二撃目は弧月ではじいた。着地するとすぐにもう一体の刃が飛んでくる。伏せて避け、そのまま床を転がりながら、王子はスコーピオンを曲げて放った。モールモッドの弱点、目を狙う。──当たらない。長さが足りず、狙いも外れて、硬い装甲に阻まれる。
王子は舌打ちをひとつした。
「……っ、カゲくんみたいには、いかない、ね!」
モールモッドの猛攻は止まない。
隙をついて懐に飛び込めば、一体は確実に仕留められるだろうが、続く二体めに大きく回避行動をとらねばならない。二階のワンフロア、それも並ぶ店舗を傷付けないようにと気を遣っての立ち回りでは、難しいことだ。
たかだかモールモッドの二体程度、普段の防衛任務ならば苦戦するような相手ではないのだが──いかんせん、場所が悪すぎる。
何度目かの斬撃、がりがりがり、と床や壁を削りながら迫ってくるモールモッドを避けると、相手はそのまま吹き抜けから下へ落ちそうになった。
一階にはまだ、逃げ遅れた一般人の姿がちらほらと見える。真上に近界民の姿があるのを見つけて、悲鳴が上がった。
「──まずい、っ!」
王子は無理やりモールモッドの側面へと回り込んで、二階フロアに押し戻すように体当たりをした。敵もろとも、受け身を取れずにどっと倒れ込む。突き飛ばしたモールモッドはひっくり返ってもがいたが、生憎、敵はもう一体いる。
ビュ、とブレードが風を切る音がした。反射的に身を捩る。──ばつん、といやな感触があった。
立ち上がって、シールドを張りながら二、三歩を退がる。王子を襲ったモールモッド、いま体勢を立て直したモールモッド、二体の間にトリオン体の右腕が落ちている。くそ、と王子は悪態を吐いた。利き腕でなかったのが救いか。
『クラウチ、どう!?』
内部通話で蔵内に問う。
いまだ連絡がないのだから、返答はわかっていたが、それでも訊かずにはいられなかった。
『もうすこしだ、堪えてくれ! ──二階は救助完了した!』
すぐにいらえがあって、ちょうどモールモッドの巨体越しに、階下へと飛び降りていく蔵内の姿が見える。
出入口が多くあるぶん、一階の人間を退出させ終えるほうが早いはずだ。自分自身にそう言い聞かせて、王子は気力を奮い立たせる。二階にはもう人がいないのだから、先程までより多少は派手に暴れても構わない。
千切れた右腕からはスコーピオンを生やして、再び二体を相手取る。
いま必要なのは倒しきることではなく、足止めだ。また相手が吹き抜けに行かないようにと気をつけながら、振るわれるブレードを弧月とシールドで受け流していく。隙を見て、何本かの脚を落とした。モールモッドはすぐに格納された脚を出してくるが、多少の時間稼ぎにはなる。
「防戦一方なんて、趣味じゃないなあ……!」
──足場が狭すぎる。
数歩を退がると背が店舗のショーウィンドウについてしまう。迫る二体に、王子は目線を上にやった。
「──追尾弾!」
視線誘導で弾を放つ。天井に付いていた、装飾のある照明が落ちた。トリオン兵はあくまでロボット、こういった不意討ちには弱い。
ガシャン! モールモッドたちの背を見事押し潰すようにして、照明がけたたましく音をたてた。
トリオン兵には、トリオン以外による攻撃はほとんど効かないので、これは隙をつくるためだけの不意討ちだ。二体の間をくぐり抜けて、王子は逃げ場のないところから立ち位置を反転させる。──敵に向き直ったところで、吹き飛ばされた照明が眼前に迫った。
「うっ……ぐ!?」
慌てて払いのけると、その向こうからモールモッドの爪が振り下ろされた。咄嗟に跳び退るが避けきれず、肩から胸にかけて傷を負う。
『トリオン漏出、甚大』
換装体に標準装備のアナウンスが鳴る。大した傷ではなかったが、腕を失ったことと合わせると、失ったトリオン量が大きい。
戦闘体の、活動限界が迫る。
「まずいなあ……」
半身になって、弧月を構えなおす。
緊急脱出はできないのだ。ひとたび換装体を失えば、あとは生身が残って、蹂躙されるばかり。それを思うと、背を冷たい汗が伝ったような気がした。
蔵内に内部通信を入れようとしたところで、
『──王子、一階の避難が終わった!』
向こうから、通信が入った。
王子はにやりと笑った。蔵内はいつも、いつだって、王子の欲しいときに欲しいものをくれる。
『タイミングがいいねクラウチ、そのまま一階の──吹き抜けの中心まで移動! モールモッドを誘導する!』
『了解した! すぐに行く』
蔵内との通信を切って、とん、とん、と跳ねるように数歩退がる。モールモッドは釣られて前に出た。散らした誘導弾を側面から当てる。
『着いたぞ、王子』
すぐにもう一度通話が入った。オーケイ、と笑って、王子はモールモッドの目の前に躍り出る。突き立てられたブレードを避け、登るように足で蹴って、跳躍する。そのまま、スコーピオンを生やした脚で、モールモッドの口の中、弱点である目のような部位に、膝蹴りを叩き込んだ。
モールモッドの動きが止まる。ズシン、音をたてて巨体が沈んだ。刺さったスコーピオンがずると抜ける。
視界の端でもう一体がブレードを構えていた。受けるにも避けるにも間に合わない。王子は体を反転させながら両足を揃えて、動かなくなったその塊を強く蹴った。——吹き抜けになっている空間、その中心を目指して、大きく、跳んだ。
眼下に蔵内の姿を見つけて、王子は笑んだ。後ろで、モールモッドが王子を追う気配がする。──ひゅん、と、ブレードの振るわれる音と、風を感じた。下半身に上から叩きつけられるような衝撃があって、放物線を描いて飛んでいた体の軌道が、がくん、とずれる。頬のあたりから、ピシ、と音がした。
『戦闘体、活動限界』
無機質なアナウンス。トリオンで出来た体が、どん、と破裂する。その衝撃に王子は一瞬だけ目を瞑って、それから、ぽかんとこちらを見上げている蔵内に向かって、せいいっぱいの大声をあげた。
「クラウチ────!」
「っ……、王子!?」
ひゅるる、と、ビルの吹き抜けを二階から一階へ、生身が落下する。
「王子!!」
切迫した表情で叫んで、蔵内は王子の体を抱きとめた。もろとも床に転がってから、蔵内はいままさにこちらへ跳んでこようとしているモールモッドに気付いた。モールモッドは、バクン、と背にしまわれていたブレードをいっぺんに開いて襲い掛かろうとするが、──遅い。
「通常弾!」
床に寝転がるような体勢で王子を抱いたまま、蔵内の撃った弾が、空中で敵を仕留めた。着弾する音の後、ドガシャン! とすさまじい落下音がして、モールモッドの残骸が散らばる。
「……っ、は、あはは」
動くものがいなくなって、途端に静かになった建物内で、王子は笑った。
無茶をした自覚はある。心臓がバクバクと、うるさいぐらいに音をたてていた。いまだ換装体のままでいる蔵内の肩口にひたいをうずめて、ひとしきり笑ってから、王子はようやっと体を起こして蔵内の上から退いた。
「こんなつもりで練習してたんじゃなかったんだけどなあ、床ドンってやつ。……クラウチ?」
王子に続いてむくりと身を起こした蔵内は、笑う王子の姿をぼうぜんと眺めていたが、ふいにハッとして王子の肩を掴んだ。
「王子、」
「うん? どうしたのくらう、」
名前を呼ぼうとした声は最後まで言葉にならなかった。
がしっ、と、彼にしてはめずらしい乱暴なしぐさで王子の頬を掴むと、蔵内はぎり、と歯を食いしばって悲痛な表情をした。
「おまえっ……、危なくなったらすぐに言えって、言っただろっ……!」
まるで怒鳴りかたを知らないように、喘ぐようにして王子を𠮟りつける。滅多に見ないような彼の顔に、王子は目をまるくした。
「ごめん、でも」
「でもじゃない、俺がっ……どれだけ、……王子が、死んだら、どうしようって…………っ」
王子の頬に触れる手が汗ばんで、震えている。
通常、トリオン体は汗をかかない。息切れもしないければ、涙をこぼすこともない。こんな風に手のひらが汗をかくのは、主に心情を反映してのことだ。蔵内はそれほどまでに王子のことを心配したのだ。
触れられた部分が、熱い。王子は彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「クラウチ。……換装、解いて」
「……、『トリガー解除』」
シュン、と蔵内の姿が元に戻ると、思ったとおり、彼の生身は両目からぼろぼろと涙をこぼした。王子はそれを拭ってやって、ごめんね、と背を撫でた。
「もう大丈夫だから」
「わかってる……、取り乱して、すまない、」
「ううん、ぼくが悪かった」
蔵内はどうも涙脆いところがある。やさしくて、涙脆くって、ボーダーなんて戦闘集団に所属しているのが不思議なくらい、やわらかなこころの持ち主だ。それをすこしでも傷付けてしまったことが、申し訳なかった。
だけれども、王子はいままでも、これからも、きっとこうして蔵内を傷付けるのだと思う。やりたいことをやる自分の性分を改めるつもりはないし、蔵内もそれは理解していることだろう。
だったら、せめて。
「もうそんなに泣かないで。……クラウチ、ねえ」
「ぼくのつくる部隊に、きみも入ってよ」
それはあまりにも自然に、するりと、王子の口からこぼれ出た。
「違うな。……きみも一緒に、つくろうよ。新しい部隊を。好き勝手するぼくのことを、見張って」
ああ、言ってしまったな、とどこか他人事のように思う。神田に話したあの賭けは、ここでご破算だ。蔵内が自ら王子に手を伸ばさないかぎり、彼を縛り付けることはしないと、たしかに言ったのに。
こうなってはもう、告白はするまいと、王子は思った。いま、王子は、王子のほうから、蔵内に手を差し伸べてしまった。きっと蔵内は着いて来てくれる。それがわかっていて、どうして、彼を余計に絡めとるようなことが言えるだろう。
王子は、賭けに敗けた。
「そうしたら、死ぬときはきみの隣にするって、それだけは約束するからさ」
「だからっ……死ぬとか、」
声をすこし荒らげてから、蔵内はぐっとなにかを堪えるようにして黙った。しばらく俯いて、ぐいぐいと涙を拭いてから、決意を込めた瞳で王子を見据える。
「……わかった。──だったら、俺が死ぬときも、きっとおまえの隣にする」
王子はどきりとした。泣き止んだ蔵内の目はあまりにもまっすぐで、自分はなにか取り返しのつかないことを言ったのではないかと、そう思ってしまいそうになる。──いや、確かにもう、取り返しはつかないのだ。
王子は蔵内を手に入れられなかった。けれども、隣に置くことだけはできた。──できてしまった。それがどういうことなのか、よくよく自覚して、自分を律していかねばならないと、思う。
「イレギュラー門なんて滅多にないだろうけどな。よろしくな、王子」
「……うん、よろしく、クラウチ」
差し出された手を握った。彼と新しい部隊をつくりあげられることは、素直に嬉しい。
だから、すこし胸が痛むのは、気のせいだ。
改めて、ビル内に残っていたすべての人々を外に避難させながら、本部に戦闘が終了したと報告を入れて、回収班を呼んで。
隊長になればこういった雑務も担当することになるのだなあ、なんて考えながら、王子は屋外に避難させた人々に説明を行った。イレギュラー門の発生にボーダーを責める声、怪我人のひとりも出なかったことに対する感謝の声、さまざまに飛び交う意見を聞きながら、内心でため息を吐いた。──このビルにはいまからボーダーの調査が入る。もちろん、水族館も立ち入り禁止になるだろう。
「続きも見たかったね、水族館」
「そうだな。仕方ないさ」
施設利用者への説明がひと段落して、隣に立っている蔵内に話しかける。蔵内は一眼レフのボタンをぱちぱちといじった。撮った写真のデータをモニタに表示して、いくつかを消去し、厳選する。仕方ない、と言った口調は軽かったが、水族館が好きな蔵内はさぞ残念だったことだろう。
さて、と王子は建物の出入口に向き直った。回収班が到着すれば交代となるが、それまでは王子と蔵内にもまだやることがある。建物内、破壊された箇所のある二階の、火元や電気系統などの簡易的な点検をして回らねばならない。先の戦いで王子はトリオン体を失ってしまったが、火が出たり崩落があったなら蔵内にシールドでも張ってもらえばいいだろう。
そのように話して、ビル内に戻ろうとしたふたりに、後ろから声がかかった。
「不謹慎かもしれないけれど、ラッキーだったね。貸切なんて」
「……正直俺も嬉しいよ、ここの展示は興味深かったからな」
二階フロアをひととおり回り終えた後、王子と蔵内は、件の水族館にいた。
水族館の職員から、緊急時用に切り換えてきてしまった電源を、元に戻してほしい、と頼まれたのだった。いくつかのスイッチで簡単に切り換えることができるから、緊急時の予備電源はバッテリーに限りがあっていきものたちによくないから、と。
ついでに館内のいきものの様子を見てきてほしい、と頼んだ職員は、おそらく王子と蔵内が水族館を訪れていたことを知っていた。言葉の裏に込められた感謝を、ありがたく思う。
「ここだね。エスカレーター」
「気を付けろよ」
照明が消えているから、借りた懐中電灯で歩く。電源を切り換えるスイッチは、先ほどは下りなかったエスカレーターの先だ。止まっているそれに気を付けながら、フロアを下る。
「わっ」
「王子。……言っただろ、気を付けろって。ほら」
「う、うん」
止まっているエスカレーターを歩いて下りるのは、なんだか違和感がある。躓きかけた王子に、蔵内が手を差し出した。おとなしく取って、一段一段をゆっくりと歩く。
たん、と最後の一段を下りきって、顔を見合わせた。暗闇の中、蔵内の表情はぼんやりとしか見えなかったが、なんとなく笑っているのはわかる。
「エスコートされちゃったな。『王子』はぼくなのにね」
「はは」
笑って、蔵内は再び歩きはじめた。──繋いだ手をそのままにして。王子は驚きつつも、慌てて歩調を合わせる。
「こっちだな」
説明された道順を確かめ、蔵内は館内を先導する。引かれた手が熱いような気がした。この熱は蔵内に伝わってしまっているだろうか、どぎまぎしながら、王子は歩くことに集中した。
「……この辺りだ」
そう言って蔵内が立ち止まった空間は広かった。電気の消えたままではよく見えないが、浅く大きな水槽が設置してあるらしい。周囲から水の循環する音がする。
闇の中、ざわめく気配にすこし気圧される。蔵内も同じことを思ったのか、手を、ぎゅっ、と握られた。
「あ、クラウチ、それじゃない?」
「……ああ」
懐中電灯の光で照らされた壁沿いに、スタッフルーム、の文字を記された扉を見つける。ぎい、と重い扉を開けると、狭い通路があった。こちらは電気が点いたままになっている。懐中電灯を消してしばらく進み、またいくつかの扉と通路を抜けると、縦長の大きな分電盤があった。職員から教わったスイッチを切り換えて、通路を戻る。
水族館内に戻る扉の側まで戻ると、向こうから鳥の声がした。館内用のBGMが動作している。照明も点いているはずだ。蔵内と顔を見合わせ、扉を開けた。
「うわ……」
どちらからともかく、感嘆の声をあげる。
広く浅い水槽は、美しく整えられた超大型のアクアリウムだった。コの字型に一帯を囲み、背景には遠い異国の風景が映像で流れている。落ち着いたいろの照明の中、水草のみどりが光って見えた。
王子は蔵内の手を引いて、数歩を進んだ。くる、と振り返ると、蔵内は目の前の風景に見とれているようだった。あかい瞳が潤んで、紅玉みたいにきらめく。
「……きれいだね、クラウチ」
そっと、王子は告げた。
主語は省いた。王子の想いは伝わらなくてよいのだ。じっと見た蔵内の眼、ひとえのまぶたが、ぱち、とまばたきをする。涙がころりと落ちた。高い鼻梁の下のくちびるがわなないて、ああ、きみはほんとうに泣き虫だね、なんて、王子は笑おうとして、
「すきだ、王子」
ことばをうしなった。
「え……、う、ん? クラウチ?」
聞こえた言葉が信じられず、王子は半笑いで首をかしげた。蔵内は繋いでいないほうの手で目頭を押さえる。はあ、と大きなため息を吐いて、その間に手のひらの下からまた涙の粒が頬を伝う。
「悪い。言うつもりは、なかったんだが。王子、おまえがすきなんだ」
「え……?」
今度こそ、王子の耳は蔵内の言葉を正確に聞き取った。あまりの驚きに、口元に手をやろうとして、蔵内と繋いだままだったことに気がつく。すると、向こうから振り払われた。
すん、と鼻を鳴らして、蔵内は俯く。手のひらに覆われていた表情が見えるようになっても、やはりそのかんばせは、涙に濡れ続けている。
混乱した王子は、なんで、と問うた。
「なんで、泣くの」
「……気持ち悪いだろう。せっかく、新しい部隊に誘ってくれたのに。おまえの、気持ちも、考えないで」
蔵内は嗚咽する。止まらない涙が、ついに、ぱたぱたと床に落ちてゆく。そのさまがひどく痛々しく思えて、王子は眉を顰めた。
どうにかしてやりたいが、どうしていいかわからない。蔵内の言っていることもよく理解できない。自分はたしか、賭けに敗けたはずだ。だから王子は重ねて訊ねた。
「クラウチ……、ぼくのことが、好きなの」
「……。ほんとうに、ごめん、俺は、」
「いいから。クラウチの好きって、どういう好き?」
王子の質問に、蔵内はびくりと肩を跳ねさせた。驚いたように王子を見る。王子はできるだけまっすぐに、蔵内を見据えた。
泣き濡れてますます色を濃くするあかい目が、揺れて、狼狽えるようにさまよって、それからもういちど、王子を見た。ゆっくりと蔵内は口を開く。
「…………王子が、ほしい。触れたい。手を繋ぎたいし、それ以上も……こんなことを言われるのは、いやだろ、できない──」
震えた声がすべてを言い終わる前に、王子は彼の手をとって、それから口で口をふさいだ。蔵内の重そうなまぶたが大きく見開かれる。
「できるよ」
はっきりと、王子は言った。
「できるよ。──ぼくもずっと、きみが、ほしかった」
語尾が震えて、王子は自分自身に驚いた。こんなところで声を震わせるほど、自分は弱くない。そう思いながら、なぜだか徐々にぼやける視界を認識して、あれ、と思う。頬が熱い。
「ぼくもきみがすきだよ、クラウチ。あいしてる。──うれしい、」
言い募るほどに、自分の声が不明瞭になって、聞き取りづらくなる。口元が引きつってしまう。おかしい、こんなはずじゃない、と焦ったところに、──くちびるにあたたかいものが触れた。
水槽の中に迷い込んでしまったかのように滲んだ視界に、あかい瞳が、至近距離でこちらを見ている。
背中に手を回されて、ぎゅうと抱きすくめられた。王子は蔵内を抱きしめ返して、目を閉じた。ぼやけた視界は消え失せて、彼のぬくもりだけをつよく感じる。
──すきなひとに触れるのって、こんなに気持ちいいんだ。
積極的に触れたいとは思わない、なんて、神田に言ってみせた自分を思い出した。あのときは確かにそう思ったのだが──蔵内と共にいると、自身も知らない自分を思い知らされる。
こんなにあたたかくて幸福な気持ちになるだなんて、いったい蔵内はどんな魔法を使ったのだろうと、思った。
エピローグ
うきうき、という形容詞は、こういう様子にこそ相応しいのだろうなと、そんなことを神田は思った。半ば現実逃避である。
「……で、蔵内にどんな魔法をかけたんだ」
「それは内緒かな。神田に教えて、とられちゃったりしたら困るからね」
これ以上ないほどに楽しそうな笑みを浮かべて、王子は目の前の紅茶を飲み干した。
弓場隊の作戦室で、神田は王子と席を共にしていた。神田は弓場隊の白い隊服を着用したトリオン体だが、向かいに座っている王子の衣装は、それと対照的に黒い。
王子隊の、隊服だった。
はあ、と、神田はわざと大きなため息を吐いてみせた。
「──とらないって。しあわせになってほしいって言ったろ」
「冗談だよ。感謝してる、ありがと神田」
そう言う王子は、この部屋に入ってきたときからずうっと笑顔を絶やさなかった。
──クラウチと付き合うことになったよ。ありがとうカンダタ。
蔵内が王子に着いて行くと宣言して、今期のランク戦が終わって。それが数日前のことだ。さっそく王子隊は快調な滑り出しを見せている。王子が気になっていると言っていた中学生も迎えて、隊服をつくり、防衛任務に参加するようになっていた。
「なーんか軽いんだよなあ。……まあ、よかったよ、おしあわせにな」
「うん、次のランク戦、楽しみにしてるからね」
「そりゃこっちのセリフ」
「ぼくとクラウチが新しい隊をつくったんだよ? カシオと羽矢さんもいる。いくらきみと弓場さんだって、簡単に勝てるかな」
想いが通じ合わないかもしれない、通じたとしてそれは蔵内にとってよいことではないのかもしれない、そう洩らしていたときには見せなかった軽やかな調子で、王子はよくよく喋った。美しいかんばせが与える淑やかな印象も、よく回る舌には敵わない。元気になったのはいいが──いい加減ここらへんで、と神田が止めようとしたそのタイミングで、王子が席を立った。
「──もう時間だ。ぼくの部隊、これからミーティングなんだ。行かなくちゃ」
「はいはい。早く行きなー」
ぼくのチーム、と自慢げに強調して言う王子をあしらって手を振り、ふと神田は彼を呼び止めた。
「あ、待ってくれ王子」
「なに?」
「これやるよ」
ぽい、と放って寄越したのは、いま飲んだばかりの紅茶の茶葉が入った缶だった。手元を見もせずに、ぱし、と器用に受け取って、王子はそれをまじまじと見る。何であるかを理解して、神田に向かって首をかしげた。
「いいの? たしかにぼく、この紅茶すごく好きだけど」
「餞別。……っていうか、もともと王子のみたいなものだろ? 蔵内が王子のためにって選んで買ってきたやつだし」
「え、そうなの?」
「あれ、知らなかったのか?」
神田が言うと、王子は目を細めて缶をためつすがめつした。神田の記憶が正しければ、あの缶ひとつで四千円を下らない値だったはずだ。
「ふうん。そうなんだ……」
まるで関心なさげに呟く王子の心の内は読めない。
──ああ、これでこそ、王子一彰だ。
そう神田は思った。余裕たっぷりに笑んで、けっして迷う様子は見せなくて。それでいい。不安そうな王子なんて、見ていられない。
無関心そうにしばらく紅茶の缶を眺めて、やがて王子は扉に足を向けた。
「クラウチが買ってきてくれたものだったんだね」
「──どうりで、おいしいと思った」
そう言って扉に向かう横顔は、見たことないほどに、淡く、甘い笑顔をしていた。
ぎょっとした神田を見もせず、王子は扉を抜けて去っていった。出てきた王子と出くわしたのだろう、壁の向こうから幾人かの話し声がする。
──急に出てくんじゃねーよ、あぶねーだろ。
──王子、ご機嫌だな。
──なにかあったのか? 良いことでも。
二言三言、言葉を交わしてから、王子がその場から消えたらしい気配を感じる。神田は、残された数人の内からただひとりの気配をさがした。──このメンツなら、あいつもいるはずだ。
その期待どおりに、作戦室の出入口が開いて、ひとりだけが中に入ってくる。後ろを振り向いて手を振っている。
「じゃあ、俺は神田に用があるから」
廊下に残っているクラスメイトの三人にそう言って、──水上は弓場隊作戦室へと足を踏み入れた。数秒を置いて、シュン、と自動ドアが閉まる。
「よう、おつかれ」
「おつかれさん。……なんやあの浮かれまくった王子、腹立つわ。ほんまに疲れた、もう二度とこんなことやらん」
「あっはっは、俺もさすがに一度だけでいいかな」
神田が笑ってそう言うと、水上は大きくため息を吐いて、先ほどまで王子が座っていた席に座った。紅茶を飲み終えた後のカップとソーサーが、置き去りになっている。水上はそれらを一瞥し、テーブルの上に湯が注がれたままのティーポットがあるのを見つけると、目の前のティーカップにふたたび紅茶を淹れた。勝手知ったる他人の作戦室である。
ず、とまるで緑茶のように紅茶を啜ってから、水上は、べえっと舌を出した。
「気取った味やな」
「それ、蔵内が買ってきたんだよ」
「王子のために? ……蔵っち、なんであんなに人間の趣味だけは悪いんやろな」
「生駒隊大好きな水上が言うことじゃないと思うけどな、それ」
「はあ? 生駒隊にあんな性格の悪いやつおらんわ」
言って水上は、ずーっ、と、目の前の紅茶をいっぺんに飲み干した。かちゃん、と音を立ててカップをソーサーに置く。テーブルマナーも情緒もない。
「俺だけでじゅうぶんや」
なんでもないことのように、あまりにはっきりと言いきるから、神田は吹き出すように笑ってしまった。
「水上ってそういうとこ、王子に似てると思うんだけどなあ」
「不本意やな」
真顔のまま不平を洩らすのがいっそうおもしろい。
けらけらと神田は笑って、それからふと思い出し、スマートフォンを取り出した。メッセージアプリを立ち上げながら水上に訊ねる。
「そういえば、例のグループに報告していいか?」
「おー」
投げやりな音の肯定が返ってくる。神田はチャットグループを開いて、「王子と蔵内くっついた。みんな協力ありがとう」とメッセージを送った。
途端に怒涛の返信が襲い来る。「おめでとう!」「随分かかったな」「うまく応援してあげられたかなあ。余計なこと言っちゃったかも」──みんな暇だな、と神田は笑った。ティーポットに湯を注ぎ足そうとして立ち上がった水上に、若干大きめの声で話しかける。
「ゾエが、うまく応援できたか不安だった、ってさ」
「あー、やりかたが露骨すぎた気ぃはするな。まあでも、犬飼よりかはましやろ」
あいつはほんまにわざとらしすぎ、と水上は言いながら、湯を並々と注いだティーポットを持って、テーブルに帰ってくる。
「まあでも、楽しかったっつーか、俺は嬉しかったよ。みんな後押ししてくれてさ」
「そら、あんなわかりやすければ後押しもしたくなるやろ」
どぼどぼと紅茶を注ぎながら、水上は、はーあ、と大きくため息を吐いた。そのまま神田にも淹れてくれる。ひとくち飲んでみると、とんでもなく薄い味がした。
「なんで当人同士だけは気付かんのやろな、ああいうのって」
「そうだなあ。ふたりともあんなに頭いいのにな」
言いながら、神田は王子と交わした会話を思い出した。
──クラウチのことを考えると、まるで魔法にかかったみたいなんだ。
「……魔法にでも、かかってんのかもな」
「あ?」
それをそのまま伝えると、水上は怪訝そうな顔をした。砂糖でも吐き出しそうな表情をする。
「蔵っちもおんなじようなこと言うとったなあ」
「へえ、なんて?」
「……片想いはつらい、って。『もし俺に魔法が使えるのなら、』」
「『王子も同じ気持ちにさせるのにな』って。見たことない顔して笑うとった。──恐ろしかったわ、あんときの蔵っちは」
苦々しい顔をした水上を見て、神田は大いに笑った。
「やっぱりあいつら、似た者同士、お似合いだよな」
「王子、おまえに魔法をかけるよ」