男子生徒Aの初恋の記録 千載一遇のチャンスが到来した。
ふらりと寄ったカフェの一席に密かに想いを寄せていた少女が一人で座っている。反射的に確認した隣のテーブルは空席。入店案内も待たずに滑り込み、期間限定と書かれているメニューの中からいくつか頼み、飲み物が先に運ばれてきたところで意を決して声をかける。
「あの、海の生き物でなにが一番好きですか?」
オクタヴィネル寮に所属する人魚である彼にとっては、かなり直接的なアプローチかつ好みのタイプの詮索だったが、人間である彼女にはさほど警戒されないだろうと見込んでの問いかけであった。その目論見通り、彼女——オンボロ寮監督生は、非常に可愛らしい仕草で考え込んだ後にこう言った。
「うーん、やっぱりイルカですかねぇ」
私の元いた場所では、色々な海や川の生き物を展示する場所があって、そこで行われていたイルカのショーを見るのが好きでした。ジャンプしたりボールやフープを運んだり、人を乗せて泳いだり……賢いですし、あと見た目が可愛いですよねと監督生は続ける。
イルカ。あいつらこそ見た目だけの代表格だ。賢いのではなく狡賢いのだ。餌が貰えるから従うだけ。快適に過ごせるから留まるだけ。イジメはするわリンチはするわ、性格が悪いにも程がある。騙されてはいけない。と、恋する男子生徒Aは思ったが口には出さず、他には? と尋ねた。
「えーと、カクレクマノミも好きですねぇ」
小さくてオレンジのしましまが可愛いし、私の元いた場所では映画が作られて大ヒットしたんですよ。イソギンチャクに隠れてる姿がいいですよねと監督生は続ける。
カクレクマノミ。あいつらは弱い。とにかく群れないと生きていけない小魚どもの中でも特に弱い。イソギンチャクを利用し大きな顔をして、ぼくはわたしはかわいいでしょう? と言いたげな姿。嫌いだ。騙されてはいけない。と、恋する男子生徒Aは思ったが口には出さず、他には? と尋ねた。
「ほかには……チンアナゴかなぁ……」
少女の可憐な桜色の唇から卑猥な……もとい、男子高校生には刺激が強すぎる単語が飛び出してきて、男子生徒Aは思わずごくりと鳴った喉に慌てて飲み物を流し込んだ。あまり気にした様子もなく監督生は続ける。
水流に揺れる感じも、臆病なのかすぐに引っ込んでしまうところも、慣れたらこちらのことなど意に介さないようにのんびりしている様子も、なんだか親近感が湧いちゃって……とはにかんで笑う。その様があまりにも愛らしく、内心で対象を批判するのを忘れた。むしろありがとう、こんな姿を見せてくれたこともチン……と言わせてくれたことも感謝しかない。明日から後輩のチンアナゴの人魚に優しくしてやろうと男子生徒Aは心に決める。少女に決して近付かないという誓約をさせてからという条件付きだが。
しかし、一向に己の元の姿である生き物の名前が出てこない。この様子ではおそらくいくら促し続けてもその口から聞けることはないだろう。イルカもカクレクマノミもチンアナゴも方向性が全く違う。つまり自分は好みじゃないということか、と少し落ち込んだが、異性としてはまた別かもしれないじゃないかと一瞬で立ち直る。
なら、アピールをすればいいのだ。意識してもらえばいい。タイムリミットはすぐそこだ、無駄にしている時間はない。さあ言え、がんばれ、自分に負けるな——!
「きみは、アブラツノ」
「ご注文のたこ焼きですお待たせいたしました」
テーブルの間に体を割り込ませる形で男子生徒Aと監督生を分断した男が、鰹節が踊る出来立てのたこ焼きを優雅に置く。
「……早かったな、アーシェングロット。支配人直々の接客痛み入るよ」
「ご来店ありがとうございます、先輩。ご挨拶が遅くなり申し訳ありませんでした。すぐに残りの料理もお出しいたしますので、冷めないうちにお召し上がり下さい」
苦虫を噛み潰したような表情の男子生徒Aとは対照的に、アズール・アーシェングロットは涼しい笑顔で応えた。本当に嫌な性格の後輩だ、タイミングを見計らっていたに違いない。こいつも監督生に片思いをしていることはわかっている。好きな子のタイプは聞き出したいが、恋敵のアピールは潰すと言わんばかりの絶妙な間で商品提供をしてきやがった。せめて嫌味のひとつも言ってやらなければ気が済まない。
「なんで急にタコのメニューを充実させようと思ったんだ? いよいよ身を切り売りしないと成り立たなくなったか?」
「個人的にはあまり提供したくはなかったのですが、顧客のニーズに応えることもまた経営者の務めですから。ジェイドとフロイドが好きで作っていた賄いの味の評判が広がったようで、ぜひ店でもという要望が相次いだんですよ」
「あ、私も要望書出しましたよ!」
アズールの後ろから天使の声がする。そこをどけ、天使の姿が見えないだろうが。男子生徒Aの心の声は届かず(あるいは黙殺され)、場所はそのままでアズールは声のした方に顔だけを向けて喋りだす。
「そうなんですか?」
「はい! たこ焼きもカルパッチョも頼みました、すっごく美味しかったです!」
「それはよかった」
「今、そちらの先輩と、海の生き物で何が一番好きかって話をしていたんです」
なんだって? まさか彼女から話の続きを振ってくれるとは。もしや本当に天使なのだろうか。二人きりでないのは残念だが、コミュニケーションを続けられるという喜びの方が勝った。
「そうなんだよアーシェングロット。だからお前は早く戻っ」
「はいタコのカルパッチョでーすお待たせしましたぁー」
双子ウツボの片割れがオシャレに盛り付けられた皿を手に現れた。なんでどいつもこいつも邪魔をするのか。どうでもいいがテーブルの間に入ってくるなでかい。二メートル近い長身は同じ男でも普通に怖い。
「監督生さんは、何が一番好きだと答えたのですか?」
やめろそっちで話を続けるんじゃない。割り込みたかったが二メートルに勝てない。にやにや笑いをやめろ、お前わかっててやってるだろ。
「それなんですけど、先輩」
隙間から少女の顔が覗いた。こちらをまっすぐに見ている。柄にもなく心臓が跳ねて顔が赤くなる。真顔のアーシェングロットと双子の片割れにザマアミロと思う余裕もない。まさか、まさかまさかまさか。
少女が言葉を続けた。
「私、タコが一番好きかもしれません」
「………………は?」
口の閉じ方を忘れてしまった。肺呼吸ってどうやるんだっけ?
顔を赤くするなアーシェングロット。あらあらウフフと言わんばかりのその顔をやめろ片割れ。お前弟なのか兄なのかどっちなんだ。
声が震えないように努めて腹に力を入れる。
「……あの、タコの、どのへんが……?」
「甘くても辛くても合う旨味の塊なところとか、ぷりぷりした食感とか、タンパク質が多くてカロリーが少なめなのでダイエットに向いてるところとかです‼︎」
食用の話だった。
あからさまに肩を落とすタコに今度こそざまあみろと心の中で拍手喝采する。流石俺の天使、上げて落とすなんて最高だ。
「……あなたがそこまでタコが好きだなんて知りませんでした。それにダイエットに向いているというのは良い情報です。これからはタコのレギュラーメニューを少し増やすことにしましょうか」
「いいんですか⁉︎ 嬉しいです!」
もじもじしながら、実は、と少女はモストロラウンジのポイントカードをアズールに差し出す。
「どうしても食べたいメニューがありまして、これでアズール先輩に相談しようと思ってたんです……」
「おや、そのくらいならカードを使わなくても」
「いえ! ぜひ! これを使って今相談させてください‼︎」
「……そうですか? そこまで言うのであれば、フロイド。僕はVIPルームにいますので、何かあれば呼びに来てください」
「オッケー」
「では行きましょうか、監督生さん」
「はい! では失礼します!」
こっちを見てぺこっと礼をする少女。さぞ勝ち誇った顔をしているだろうと思って憎しみを込めた視線を送った相手はこちらのことなど見ていなかった。あれはこれから意中の相手と二人きりという状況をどうチャンスに繋げるべきか考えている顔だ、俺にはわかる、なにせ十数分前に自分がした表情と同じだろうからである。どうか盛大に失敗して恥をかいて彼女に幻滅されてしまえと願わずにいられない。ああ行ってしまう、何か引き止める手段は、考える前にぬっと二メートルが視界を遮った。お前は早く仕事に戻れ。
「追加のご注文ございますかぁー?」
「……同じ飲み物と、タコの唐揚げを」
こうなった以上、男子生徒Aに取れる手段は、少女が戻ってくることに賭けて少しでも長くこの店内に居座ることだけだった。
結局、少女は戻ってこなかった。
まだメニューの相談をしているか、そのままオンボロ寮に帰ったかしたのだろう。あいつらさえこなければもっと話ができたはずなのに。自分の元の姿をさりげなくアピールするはずだったのに。
腹は立ったが料理は間違いなく美味かった。特にタコ料理は絶品だった。彼女が好む味なので美味しいに決まっているが。いつか一緒に作れたらいい、調理方法でも聞いておくか。そんなことを考えながら会計に向かう。
そこにいた双子の片割れは、こちらを見るなりにっこりと人当たり良く微笑んだ。これはジェイド・リーチの方だな。フロイド・リーチの笑い方はもっと凶悪だ。
「おや、お帰りですか」
「ああ。寮長に言っておいてくれ、次は邪魔をするなとな」
「それはそれは、タイミングが良くなかったようで申し訳ありませんでした」
全く申し訳なくなさそうな顔でウツボは笑った。差し出した伝票を手に取ると優雅に一礼をする。
「おい、支払いがまだだぞ。詫びに無料ってわけじゃないだろ」
「こちらのお支払い分は既にいただいておりますので」
「誰から」
「監督生さんです。ご存知ですか? オンボロ寮の」
ご存知もなにも、どういうことだ? 男子生徒Aは混乱する。奢られるようなことをした覚えはないし、むしろ奢りたいくらいなのに、なんだ、これは、もしや、ワンチャン⁉︎
「俺にも春が……⁉︎」
「ああ、監督生さんからのご伝言ですが」
「なんだ⁉︎」
心の準備はできた、電話番号でもマジカメIDでも告白でもどんとこい!
ウツボが微笑む。
「『あなたのおかげで、勇気を出すことができました。本当にありがとうございました』とのことですよ」
「…………」
「聞きます? VIPルームでの彼らの様子」
「…………かえる」
「それは残念です。またのお越しをお待ちしております」
「二度と来るかぁ‼︎‼︎」
この世に神も天使もいるものか‼︎
自室への帰り道、物語の主役になり損ねた男子生徒Aはちょっとだけ泣いた。
「……監督生さんも罪深い方ですね。ダシにされて、あの方も可哀想に」
「ぜぇんぜんそんなこと思ってないくせに。で、アズールまだ喋ってんの?」
「そうみたいですね。フロアが忙しくなければあのまま聞き耳を立てていられたのですが……」
「ジェイドいっつもオレに働けって言うくせに自分はサボりかよ」
「サボっていたわけではありませんよ。あまりにも面白かったもので」
耳打ちをされたフロイドは顔を輝かせる。
「なにそれ、ちょー面白れぇじゃん。オレ今から行ってこよっかな」
「ジェイド、フロイド! ちょっと監督生さんを送って……なんですかその顔は」
話題の主が登場し、期待に満ちた表情でそちらを見たリーチ兄弟はがっかりした。どう見ても何かがあった形跡はない。心なしか監督生の表情も……いや、そんなに暗くない。むしろ明るい……? よく見たらアズールの顔も仄かに赤いような。いやよく思い返せば振り返った直後まで彼らの手は繋がれていたような……⁇
目を合わせて頷くと、一瞬にして左右から肩を組み、アズールを監督生から引き離して口々に彼らは囁いた。
「今夜タコパね」
「早く帰ってきてくださいよ」
「寄り道したら絞める」
「ではいってらっしゃい」
「気ぃつけてねぇー」
ぱ、と解放され混乱するアズールと、おそらく何かを察したのであろう聡い少女に、双子はひらひらと手を振ってみせた。
モストロラウンジ閉店まで、あと二時間。