これでも割と気に入っている 男がこの部署に転属になったのは、入社して三年目のことであった。
曰く、タッパも態度もでかく酷く気分屋で口も手癖も悪いが、きちんと成果は出しているので管理職の地位にある男が統括している小さな部署だという。極秘の開発にも携わっているため、部署に辿り着くには複数の転送魔法と魔法チェックが必要であり、故に内情を知るものは殆どおらず、噂が噂を呼び『管理者の機嫌を損ねた者は実験台にされる』『管理者の気紛れで成果物を横取りされる』等の噂のネタに事欠かないような部署に、何故だか入社三年目の自分が栄転あるいは左遷となってしまった。内示を受けた当時はそれはもう荒れに荒れ、実験台にされるくらいなら辞めてやろうかとも思ったが、やっとの思いで入社した名の知れた魔法薬開発会社を辞めるのは噂の真偽を確かめてからでも遅くないなと思い直したのは、男が二日酔いで地獄を見てから四日後のことであった。
あれから早数年。
「あー、ヒマ」
隣でぐるぐると一定速度で小さな鍋をかき回しているのが、件の管理者ことフロイド・リーチ部長である。タッパも態度もでかく酷く気分屋で口も手癖も悪いが、きちんと成果は出しているので管理職の地位にある男という噂は概ね合っていて、実験台の話も対象が他部署もしくは部外者の人間であること以外は概ね真実であったし、そういうことを知ることができる程度には彼に近しい位置に男はいた。
「部長、あと七秒後に四八番を二ミリです」
「ん~」
適当な返事だが、フロイドは多数ある薬棚の中から魔法でひとつを開けきっかり二ミリの粉末状の何かを取り出し七秒後に鍋に入れた。とたんに発光しだす鍋の中身。変化した魔力量やその質を記録するのが直属の部下である男の今の役目であった。
「どーなった?」
「順調です。前回より効果が上がっています。推測ですが、おそらく一・四倍くらいは」
「二倍以上にしたいんだよねー」
「二倍、ですか」
相変わらず無茶を言う。元々非常に高い効果を持った魔法薬の、その効果を二倍以上にしたいと事もなげにこの上司は言ってのける。それだけの高い能力がある証拠だが、この集中力がいつまで持つか。
「そしたらさぁ、こっから一〇九番入れてみるのってどう?」
「あ、いいですね。六ミリくらいでしょうか」
「八・五くらい入れちゃいたい」
「爆発しませんかそれ」
「九まで入れると多分ダメ。八はセーフだと思う。ミスったら今までの工程ぱぁだけどさぁ、やってみてもいーい?」
こてん、と首を傾げる身長百九十センチオーバーの大男。しかしそれが不思議と似合う顔面と雰囲気の持ち主であり、どちらにせよこの上司が訊ねたことには概ねイエスと答えるしかないのだ。なにせこの部署で、いやこの会社全体で、気分が乗りさえすれば最も頭が良く神がかり的な発想を持つのがこの上司なので。
「やってみましょう」
「オッケー。んじゃ手っ取り早く八・八まで入れまぁーす」
「えっ」
止める間も無く棚が開き、キラキラと輝く紫色の粉が鍋に降り注ぎ、次いで目が焼けるような光が辺りに満ちた。
(あの気分屋上司め‼︎)
結論から言うと、その後無事に薬の改良は完了した。
光っている間にフロイドが更に入れた何番かの薬液により爆発は抑えられ、魔力が定着し効果が二倍以上見込まれる新たな魔法薬が完成した。それはいい。喜ばしいことだしおそらく報奨金も出る。フロイドだけでなく実質コンビを組んで尽力した自分にも金一封が渡されるだろう。それだけの効果をあの薬は持っている。
ただしそれは結果論だ。
(今度こそ死ぬかと思ったぞ!)
爆発こそしなかったが、光のせいで目の奥がズキズキ痛いし焦って転んで捻った右足も地味に痛い。何があるか分からないからと最高レベルの防護魔法が使われているゴーグルを着用していたものの、それでもこのザマだ。あの上司の気紛れには困ったもので、今回は運良く成功したが失敗したことも数知れず、似たようなケースで左半身を吹っ飛ばされかけた時は失禁したし丸一日寝込んだ。その時の記憶は思い出したくもない。
男は今、会社から歩いて十分ほどの距離にある菓子屋にきていた。これまたフロイドの気紛れで「すげー頭使ったから甘いモン食べたい」の一言で決定した外出である。あの部署の裁量権はフロイドにあるため、この時間も業務の一環だった。
普段上司が好んで食べるもの、更に気紛れを起こした場合に備え己の勘を頼りに複数選び(その中にはこっそり自分の好みの菓子も入れ)、会計を済ませて外に出る。途端に目の奥を突き刺す日光。これ労災おりねえかな、と思いながら目を瞑って眉の間を数回揉む。と、
「あの、大丈夫ですか?」
やわらかな声が右隣から聞こえた。
誰か転びでもしただろうか。目を開いて声のした方を見る。小柄な女性だった。心配そうな顔でこちらを見ている。……こちらを。
「……あっ、もしかして自分ですか」
「あの、顔色がよくないように見えたもので。目眩でも起こされたのかと」
優しいひとだ、と思った。今時見ず知らずの他人をここまで心配してくれるというのは珍しいのではないだろうか。自分が会社と自宅の往復生活に浸かってしまっているせいもあるだろうが、最近こういったあからさまな人の善意に触れていなかったので感動すら覚える。
「ありがとうございます、大丈夫です」
「よかった、あまり無理はしないでくださいね」
では、と女性は微笑んで歩き出した。なんとはなしに目で追っていると、女性は小さな紙とスマホを取り出してしきりに辺りを見回している。脳裏をあるひとつの可能性がよぎった。
男は、善意には善意を返したいと思うタイプの人間であった。
「……あ、あの!」
「え、あ、さっきの」
「もしかして、道に迷ってます?」
女性の頬がぱっ、と朱に染まる。可愛らしいなあ、と思った。
「実はそうなんです、この辺りの地理に明るくなくて……お恥ずかしい……」
「僕、職場が近くなので。よろしければ、行き先一緒に探しますよ」
「本当ですか⁉︎ 嬉しい、助かります……!」
ありがとうございます、と女性は笑った。
きゅ、と心臓のあたりが苦しくなる。異性にこんなに明確な好意を向けてもらったのはいつぶりだろうか。最後にこの類の笑顔を見たのは原材料の取引先にご挨拶に行った時の受付嬢だったが、その時の視線の先は明らかに隣にいたやる気のない顔をした上司だった。顔面偏差値の差がやるせない。悲しくなってきたので思い出すのをやめた。
へら、と出来る限り優しい笑顔を作る。
「どこに行きたかったんですか?」
女性はスマホを操作しながら隣に体を寄せてきた。近い。いい匂いがする。この匂い、なんだか最近も嗅いだような気が、と記憶の扉が音を立てて開かれたような気がして。
「ここなんです、夫が勤めている会社なんですけど」
バタンと大きな音を立てて閉じた。
秒で失恋。まさかそんなことがあるのか。割と惚れっぽいと自覚はあったがこれは過去最短ではなかろうか。いや自分は恋などしていない、これはただ優しさに感動しただけだ。そうに違いない。目頭を押さえた。
「あ、やっぱり具合が悪いんじゃ」
「いえちょっとゴミが目に入ったのですみませんもう大丈夫です」
勝手に恋をして勝手にそれを失ったのはこちらなので、勝手に立ち直らねば筋が通らない。男は筋を通したがるタイプの人間であった。なんとか気持ちを切り替え画面に目をやる。
「……あれ、ここ僕の勤め先ですね」
「えっ!」
「今から戻るところなんで、一緒に行きませんか」
「よろしくお願いします……‼︎」
先ほどとはまた違う顔で女性は笑う。安心した、という笑みであった。
道中無言もどうかと思ったのもあるが、純粋に疑問だったので、ところで、と男は話を切り出した。
「会社になんの御用で、って聞いても大丈夫ですか?」
「はい。夫が今朝『今日中に出さないといけない大事な研究結果のレポートがある』って話していた書類一式を家に忘れて行ったもので……」
なんてできたパートナーだろう。見ず知らずの誰かが心底羨ましい。そして思い出したが自分の部署も本日提出締切の研究結果報告があった気がする。まずい。今回はオレが作るよーなんて笑っていたが、気紛れ上司は覚えていただろうか。
「それは大変だ。急いで届けましょう」
大義名分を掲げ私情で足を早めた。
「受付で相手の名前を言えば、呼び出してくれると思いますので」
「本当に、何から何までありがとうございます。お名前をお伺いしても……?」
「いえ、名乗るほどの者ではありませんので」
キリッ、と今年度最大のキメ顔を作って男は言った。人生で一度は言ってみたいと常々思っていた台詞であった。
そうこうしているうちに受付に到着し、受付係に名前付きで「おかえりなさい」と声をかけられる。あ、そんなお名前だったんですねと言わんばかりの視線を隣から感じた気がして、先ほどあれだけ格好つけたのに台無しじゃないかと男は勝手に落ち込んだ。受付係は悪くない。恨むのは自分のタイミングと運の悪さだ。
女性が受付に声をかける。そういえば、女性のパートナーである社員はいったいどこの部署の誰なんだろうか。この会社は総人数が多い上に割と部署間の交流が少ないため、自分の上司ほどの有名人でなければお互い名前も顔もわからない同僚というものも少なくない。知っている名前だったら面白いのになぁ、と何気ない風を装い耳を傾ける。
「あの、届け物がありまして。フロイド・リーチをお願いします」
なんてこった。面白がっている場合ではなかった。
上司の名前だ。上司の奥方だ。記憶の扉がこじ開けられる。あの時の既視感。あの匂い、上司が纏っているものと同じだ。同じ洗剤、柔軟剤、もしかしたら石鹸やシャンプー類まで同じものを使っているのだから当然である。つい数十分前に爆発に怯えて盾にした上司の白衣がいい匂いで一瞬恐怖を忘れたのであった。羨ましい。何が、とまでは考えなかった。
その後続けられた女性の名乗りに男は違和感を覚える。
「あれ、コエミィさんではないのですか?」
「えっ、違いますね……」
被せ気味に返ってきた答え。おかしいな、と男は首を捻る。
「フロイド部長、よく『コエミィちゃんが』って自慢してくるんですよ。てっきり奥方のお名前だとばっかり」
そこまで言って、やべっ修羅場案件だったらどうしようと密かに焦ったが、目の前の女性は目を丸くしてから笑い出した。
「ああ、もしかして『小エビちゃん』ですか?」
「こえび」
「はい。フロイドさん、出会った頃からずっと私のことそう呼ぶんです」
「小エビちゃ————ん‼︎」
大声。ズザザザザと音を立てるくらいのコーナリングでロビーに駆け込んできた話題の男、フロイド・リーチは、直前で勢いを殺しながら女性へと抱きつく。顔が良い若き出世頭に密かに恋情、もしくは幻想を抱いていた有象無象の声無き断末魔がそこかしこに轟いているのがわかったので、先刻秒で失恋したばかりの男は内心で哀悼の意を表しておいた。
「こんなとこまでどうしたの、オレに会いたくなった? 連絡くれればすぐ帰ったのに」
「フロイドさん、書類忘れていったでしょう? 今日必要だって話してたし、大事な実験と被ってるって言ってたから、職場の方が困ると思って届けに来たんです」
「小エビちゃん……小エビちゃんは優しいね……ねぇもうオレ帰っていい?」
オッドアイがぎらりとこちらを捉える。ぞわり、背骨が抜かれるような感覚。へたり込まなかっただけ自分を褒めてやりたいが、喉が貼り付いてしまったように声が出ない。あれは上司がたまに見せる目だ、他部署の人間が彼の機嫌を損ねたり心底つまらないと彼が感じていることを会社命令でやらなければならなくなったりした時の。出会った時にまず向けられた、最近はほとんど向けられなくなっていた、探るような射抜くような、腹の中をかき混ぜられるような、そんな。
「ダメです。お仕事頑張ってください」
ぺち、と奥方が自身の肩に乗っているフロイドの頭を軽く叩いて、それから優しく撫でた。とたんにふにゃりと圧力が霧散する。
「フロイドさんが白衣を着て真剣にお仕事している姿、私大好きなんですから」
「ほんと? んふふ、じゃあオレ頑張っちゃおっかなぁ」
「はい、頑張っちゃってください。今日の夜はたこ焼きパーティーしましょうね」
「定時で帰る」
「待ってます」
くふくふと笑い合う雰囲気に、仲のいい夫婦なんだなあとぼんやり思った。上司のあんな蕩けた笑顔は初めて見た。いや普通ただの部下にあんな笑顔は見せないと思うし特に見たくもないけど。コエミィさん改め小エビさんが職場の事務でもやってくれれば上司の機嫌がうなぎ上りで成果もバンバン出せて超出世できて何より八つ当たりや無茶な実験が減るんじゃないかな……と男は考えた。あの状態のフロイドが自分含め複数の男がいる職場に最愛の奥方を連れて行くとは思えなかったのでただのイフ話だが。
「ねー、オレ小エビちゃんを駅まで送ってってもいい?」
先ほどとは違い、凪いだ瞳で上司は言った。底知れぬ海、いつ荒れ狂うかわからない嵐の前の静けさ。いつもの上司だ。
「いいですけど」
ホウキに乗ってひとっ飛び、自宅まで送ればいいのでは? なんて無粋なことは言わない。学習したのだ。上司はホウキで空を飛ぶのがあまり好きではないしそれに触れられるのも好きではないと。先日哀れにもフロイド相手に新しいホウキを自慢してそれを叩き折られた別の部署の役職付きの顔を思い出してまた記憶の奥底に沈めた。
フロイドがくるりと魔法石のついたペンを回す。身に付けていた白衣が一瞬で普段着へと変わった。きらり、魔法の残滓で奥方の瞳が虹色に輝く。
「んじゃ、行ってくんね~」
ひらひら、と振られる大きな手。今日はありがとうございました! と頭を下げる小さな身体。またいつでもいらしてください、と社交辞令半分、本気半分で言葉を返す。手を繋ぎ仲睦まじい様子で建物を出る二人を目で追い、姿が見えなくなると同時に空間にどわっと音が満ちた。
いつまでもこの場にいたら噂好きの社員に取っ捕まって質問責めにされてしまう。そんなのはごめんなので、早々に己の部署に戻るため手順通りにワープを行いチェックをパスして安全地帯に足を踏み入れ、男は今度こそ膝から崩れ落ちた。
「あ、の、上司は——————‼︎」
菓子を買いに出かける前とは全く様相の変わった、おそらく気紛れでまた何かを試そうとして失敗したのであろう、嵐の間ずっと窓を開け放しておいたような惨状の部屋。全てを元の場所に戻す労力を考えたくもなくて、そういえば今日提出だという書類を奥方から受け取るのを忘れたなあなどと現実逃避をしながら、男は床の上になんとかスペースを作り出して菓子の包みを開け、せめてもの嫌がらせとして上司の好物を真っ先に己の口に放り込んだ。
相変わらず、上品な甘さで美味しかった。
「ねえフロイドさん」
駅に向かう間、他愛のない話をしながらのんびりと歩く。自宅にいてもそう、出かけていてもそう。お喋りしていても黙っていても、その表情はくるくると変わる。
彼女といると毎日飽きない。毎日毎日、そう思う。
「あの方が『オキアミさん』でしょう?」
「そ。オレが言った通りの人間だったでしょ?」
「はい。優しくて、気が利いて、でもちょっと臆病な感じで、動きがぴょこぴょこしてて、素敵な方でした」
「そんなん言ったことあったぁ……?」
じと、と機嫌が悪そうに細められる色違いの目。くすくす笑うと、繋いだ手に力が込められた。何を考えているのかよくわからないと言われることが多いけれど、表情も言動も割と多弁に彼の感情を伝えてくれるのだ。それがわかるほど近くにいた。これからもずっとずっと、近くにいる。
「私、もっとオキアミさんとお話ししてみたいです。夜ご飯にお誘いしたら来てくれるかな……」
「えぇー……多分オレが言えば来ると思うけどぉ、パワハラ上司とか言われるんじゃないのそういうの」
「もちろん、嫌がっているようなら無理強いはだめですけど……でもオキアミさん、フロイドさんのことすごく褒めてましたよ?」
「なにそれ。オキアミくんいっつも文句ばっかなのに」
「どうして外にいたんですかって聞いたら、上司がすごい実験を成功させたのでお祝いのお菓子を買いに来たんですって。うちの上司は気紛れだけど、才能も実力もすごいひとなんですよって笑ってました」
「ふーん……」
フロイドは唇を尖らせて唸る。その様子を元監督生は嬉しそうに眺めていた。
「……オキアミくん、タコとか好きかなぁ」
「好きだといいですね」
駅にて、間もなく列車到着のアナウンス。おうちで待ってますね、と改札を抜けてから、手に持ったままの書類に気付き、元監督生は慌てて上機嫌な配偶者に向かって踵を返した。