鳴かぬ蛍を鳴かせてみせよう「ねえ、小エビちゃん」
ふわりゆらりと、海に揺蕩うような声だった。
「オレねぇ、今まほーにかかってんの。思ってることぜんぶ喋っちゃうまほー。ジェイドのみたいなやつ。だからさ、聞いててね小エビちゃん」
「フロ、」
名を呼ぼうとした唇を、長い人差し指が静止する。
指は主の唇へと吸い寄せられるように動き、そのまま「しー、」と小さく囁かれれば抗う事などできるわけもなかった。
「聞いててねぇ」
蜂蜜を煮詰めたような右の瞳、月の影を溶かし固めたような左の瞳が、それぞれとろりと半月を描く。
「オレさぁ、小エビちゃんのきらきらの目とかさぁ、どこまでもまっすぐ走ってく脚とかさぁ、笑ったときの口のかたちとか、さらさらでちくちくの髪の毛も、オレの名前呼ぶ声も」
さらり。優しく髪を梳いた手が耳に触れる。
「馬鹿なのかなって思うくらいお人好しで、割と頑固なとこもあって、こっそり泣いてたりするのも知ってるし、勉強ついてけなくていっしょーけんめー頑張ってる、小エビちゃんのぜんぶがすき。だから、一回しか言わないから、いえないから、よぉく聞いててね」
ふるり。震える身体をぎゅっと抱き締められ、熱くて大きな掌が二の腕に柔らかく食い込む。
「あのね、オレ小エビちゃんのためなら何にだってなれるよ。父親にも母親にも、兄でも姉でも弟でも妹でも、じーちゃんでもばーちゃんでもいとこでも、甥でも姪でもペットでも、友達でも先生でも恋人でも旦那でも奥さんでも嫌だけど他人でも」
はらり。首元のリボンが解かれてくったりと床に横たわる。
「悪人でもセイギノミカタでもカミサマでも、なんにだってなってあげる。元の世界で持ってたもの、小エビちゃんがほしいぜんぶになってあげるから」
くるり。腕の力が緩んで、片手で顎を優しく掴まれて向きを変えられる。
「代わりに、オレのぜんぶにはなってくれなくていいから、今の、そのままの小エビちゃんをオレにちょうだい。小エビちゃんが小エビちゃんならオレ、なんでもいいんだ。ただ、そのままでいてくれればいいから」
ぱちり。熱を帯びて蕩けた一対の異なる色の瞳が脳髄を射抜く。
「でも、もしオレに全部あげてもいいって思う時が来たら、そんなときがきたら、」
ことり。近づいてきた顔が肩に埋められる。恥ずかしくて逸らしてしまった自分の顔はきっと真っ赤だ。
「……その時はぁ……、……」
……そろり。
いつまでも続きの言葉が降ってこないことに痺れを切らし、肩口に乗せられた頭の方を向く。
「近っ……もー、寝てるぅ……」
監督生の全身からがくりと力が抜けた。
スカラビアの寮長カリムに誘われて引っ張り込まれた宴、その会場に偶然居合わせたフロイド。いつも通り小エビちゃん小エビちゃんと気紛れに構ってくる彼となんとはなしに隣に座って飲み食いをしていたら、これは俺の実家の取引先が出してるチョコレートだ! うまいぞ! 食べてみてくれ! と主催者が問答無用で同級生の口にチョコをねじ込んだのが宴の中盤ほど。
それが微量のアルコールを含んだものであったため、極端にアルコールに弱い海の生き物であるフロイドはあっという間に酔っ払い、絡み上戸を発揮した。哀れにもロックオンされてしまった監督生は、今こうして胡座をかいた彼の膝の間に座らされて、後ろから抱き締められるような格好で触られたり撫でられたりしながら熱烈な愛の言葉を囁かれた上、最後には寝落ちされたのである。
「……フロイド先輩のばか」
何も言わせてもらえないまま、好意を一方的に浴びるように叩きつけられて、お返しをする前にするりと逃げられて。
密かに想いを寄せていた相手にそんなことをされて、喜んでいいのか怒っていいのかわからない。ましてや相手は酔っ払いだ。一連のことを目覚めた後もちゃんと覚えている保証などない。
……けれど。こんなことでもなければ紡がれることはなかったであろう彼の本音はなんだか泣きたいくらいに嬉しかったので、ありったけの勇気を総動員して、明日起きた後の想い人に、今日のことを改めて尋ねてみようと、そう決心した。
「うわっ、重っ、誰かぁ! 助けてくださーい……!」
とりあえず今はこの背中の重みをなんとかすることが先決だ。本格的に寝始めたフロイドは監督生に全体重をかけつつある。カリムかジャミルとまではいかなくても誰か助けてくれないかと声を上げた監督生の叫びは、繰り広げられるドンチャン騒ぎの中虚しく消えていった。
「あ、小エビちゃんだ。おっはよー」
いつもの挨拶。特に機嫌がいい時は声と共に全身で抱きついてくるが、今日はそれがない。かつ、機嫌が良くない時は「あー、小エビちゃんかぁ」くらいで終わるので、今の彼の機嫌は良くも悪くもないと推測される。
よかった。その方が話を切り出しやすい。
「小エビちゃん? なに、無視? それともどっか調子悪い?」
「いえあの、おはようございますフロイド先輩。少し考え事をしてて」
「ふーん。無視だったら絞めちゃうとこだった」
「それは勘弁してください……」
昨日の抱擁を思い出して頬が熱くなる。
「……あの、フロイド先輩。昨日のこと、ですけど」
「昨日ー? あー、ラッコちゃんとこ?」
「そうです」
「それなんだけどさー、オレどーやって自分の部屋帰ったんだっけ? 小エビちゃん知ってる?」
「えっ」
「途中からあんま記憶なくて、ラッコちゃんになんか無理やり食わされたのは覚えてんだけど、ふわふわのふにふにってしたいい匂いの枕みたいなのでよく寝たことしか覚えてないし、気付いたら部屋にいたし」
「そ、うですか」
露骨にがっかりした顔をしてしまって慌てて表情を作る。やはりそうだ、あれだけ饒舌に本音を喋るフロイドなんて、記憶を飛ばすほど酔っていないとありえない。事前にある程度心の準備ができていてよかった。
「先輩、眠っちゃって全然起きなかったから、ジャミル先輩がアズール先輩とジェイド先輩を呼んで、数人がかりで運んでましたよ」
「げっ、朝二人ともすごい顔してたのそれかぁ……ネチネチ怒られんのやだなぁ」
「ふふっ」
「んで? 小エビちゃんはなんだって?」
「……大丈夫です、用件は大体済みました」
「ならいーけどぉ」
「はい。先輩はこの後魔法史でしたっけ?」
「そ。多分寝る……出席しただけでもうオレちょー偉いと思う……」
「頑張ってくださいね」
「あっいた! 悪い待たせて……先輩おはようございまっす!」
「はよざいます! ったく、実験着と漂白したカーテン間違えるなんて優等生が聞いて呆れるっつーの」
「二人とも! 間に合ってよかったよ」
「朝からランニングなんて元気だねー。じゃあオレもう行くね。ジェイドの雷が倍になるのヤだし……」
「はい、いってらっしゃい」
ひらり。手を振る監督生に片手を上げて応えて、フロイドは生徒の波に乗って流れていく。
ぜーぜーと肩で息をしている友人二人に向き直り、お疲れ様と労いつつ監督生はひっそりため息をつく。
「あ? どした、なんかあった?」
「ん、大丈夫だよ。ただグリムが心配なだけで」
「あれ、そういやいないな。待ってられなくて先に行ったか?」
待たせた側の自覚があるデュースが困ったような顔をする。先程エースが言った通り、洗濯した実験着と漂白した真っ白なカーテンの袋を間違えて持ってきていたのだ。ジャンケンに勝って荷物持ちをさせていたエースのものと合わせて二人分。時間が早かったので、クルーウェル先生に躾という名の折檻をされるよりはと走って取りに行った。また間違われてはたまらないとついて行ったエースと一緒に戻ってきたのがついさっき。予鈴には間に合うが、決して余裕のある時間ではない。
「いや、あの、待ってる間に先に行こうとしたのはそうなんだけど」
「迷子か?」
「んー、なんかこの間大事な資料を燃やしたとかなんかで、トレイン先生に連れて行かれちゃって……」
「……無事に戻ってくるのを祈るしかないな」
「うっし、オレらも行こうぜ監督生。遅刻したらシャレになんないし。デュースお前今日の昼飯奢りだからな!」
「そうだね」
「うっ、わかってる……すまなかった」
「よっしゃ、それを励みに今日も頑張るとしますか」
少なくなってきた生徒の流れに乗って、三人は一限目の教室へと歩いて行った。
「……は————————」
口から出るのは長い長いため息ばかりだ。
のそりのそりとアンニュイに歩みを進めるフロイドに、触らぬ神に祟りなしとばかりに生徒たちが道を譲っていく。監督生が見たら「モーセの奇跡だ……」と評したかもしれないが、ここはツイステッドワンダーランド。モーセはいないし、ここに監督生もいない。
(ダッッッッッッッッッセェ、オレ)
実は、フロイドに昨日の記憶はあった。
チョコレートで己が酔ったことも、彼お気に入りの小エビちゃんを膝に抱えて自分でも明確にわかっていなかった『本音』をぶちまけたのも、途中で寝落ちした事実も全部、ぜんぶ。
(ああああああああああああ)
片手で頭を掻き毟る。今すぐお気に入りの昼寝スポットに行って丸まって叫び悶えたい。胸の中の嵐をどうにかしたい。けれどそれはできない。沢山迷惑をかけたアズールとジェイドに「今日の授業にちゃんと出席するなら許す」と釘を刺されているので、こんな精神状態でもフロイドはサボらず真面目に教室へと向かっている。
小エビちゃんに謝ってから行くね、と二人に単独行動を申し入れたのは彼だ。これで約束を反故にしようものなら、待っているのはおそらく恐怖の人魚搾りだ。
ぶるりと身体を震わせる。あれはよくない。マジで動けなくなるので極力避けたい。
はあ、と何度目かもわからないため息が溢れる。
あの先。言いたかったこと。聞きたかった返事。
言葉は全て真実彼の想いそのものであったし、決して嘘などついてはいないのだが、酔っていたという事実がマイナスすぎる。
(素面の時に言えっつーのオレ。カッコ悪)
小エビちゃんになんと言われるのか怖くなって、とっさに覚えていないふりをしてしまった。直後の彼女の表情で、選択を間違えたことに気付くも時は戻らない。
いつか、いつか、覚悟ができたら。
いつか失うかもしれない覚悟、それまで全てを捧げる覚悟。それができたら、今度は自分自身の力で想いを告げるから。
『……その時は、全部をオレのものにさせてね』
最後まで言えなかった言葉を飲み込んで、とにかくアルコールには気を付けようとお年頃のウツボは固く心に誓った。