おやすみのまえに「待って待ってジェイド先輩ちょっと落ち着いてください‼︎」
「ぼくはおちついていますよ。さて、まずはたまごをわって……やわらかすぎてわれないですねぇ」
「ひぃ! それ卵じゃないです胸です小さくてすみません‼︎」
「むね? むねにくはでざーとにつかわないですよ、かんとくせいさんはおもしろいですね。ふふふ」
だめだ噛み合わない!
オンボロ寮監督生として学園在籍を許されてから幾つもの難局を乗り越えてきたが、そのどれよりも比類なきピンチがまさに今。百九十センチの長身に後ろからすっぽりと包み込まれてオンボロ寮のキッチンに立っている監督生は、どうしたらこの状況から逃れられるかを必死で考えていた。
背後をとっているのはジェイド・リーチ、オクタヴィネル寮に所属する一学年上の先輩で、先日晴れて恋人となった特別なひとだ。本来ならば照れ戸惑いながらも女としては諸々を期待しなくもない濡れ場一歩手前のこの状況だが、諸手を挙げて受け入れるには些か、いや大分、非常に難しい状況でもあった。何故なら。
「かんとくせいさん? どうかしましたか?」
「ひっ」
耳元に唇を寄せて囁かれる心地の良い低音に、反射的に声を上げてしまう。それにくすくすと笑ってジェイドは続ける。
「なんだかふわふわしてて、たのしいですね」
「ふぁい……」
これである。
酔っている。
何故かわからないが、ジェイドは今酔っ払っている。普段のポーカーフェイスはどこへやら、上機嫌で卵と間違えているらしい監督生の胸をふにふにと揉み続けている。そこに下心は欠片も感じない。
彼は今、大真面目でただ何かのデザートを作ろうとしているだけなのである。
(何故、なぜこんなことに…⁉︎)
いや薄々は察していた。キッチンに並べられた買い物袋の中身。卵、マスカルポーネチーズ、型に入ったままのスポンジケーキ、コーヒー、薄力粉、砂糖、濡れた大さじスプーン、バター、牛乳などなど……そして封の開いた小さなラム酒の瓶。
自分で、もしくは何かのトラブルによってラム酒を口に含んだのであろうこと、そしておそらく彼はもの凄くアルコールに弱いのであろうことが想像できた。できたところでこの事態は何も解決しないわけだが。
「ひぇっ⁉︎」
大きな手がようやく胸から離れたと思ったら、臍のあたりに添えられてくるくると掌で優しく押し揉まれる。思わずジェイドの顔を見上げると、見たこともないようなふにゃんふにゃんの緩んだ笑顔が返ってきた。
「あしたたべるぱんも、いっしょにつくりましょうか」
「あ、ありがとうございましゅ……」
パン生地をこねる手の動きだったようだ。程よいマッサージについこのままでもいいかもと流されそうになるが、ふと思い返すと先程胸を揉まれる前は髪を梳かれながら「うん、いいてざわりです。まるできのこのかさのようだ」なんて言われていたので、ある事実を導き出してしまった監督生は内心大声をあげる。
(上から下に手が降りてきてる⁉︎)
髪、胸、腹ときている。次は、ジェイドが彼曰くのパン生地をこね終わったその先は。
「だ、だめだ早くなんとかしないと……‼︎」
遡ること数時間。ジェイド・リーチは学園内の購買部に来ていた。
目的は勿論買い物である。先日晴れて恋人同士となった可愛い彼女の誕生日が近日であることを知ったのだ。ありとあらゆる贈り物を考えたが、結局アクセサリーとスイーツという無難なチョイスに落ち着いた。スイーツは手作りをする予定で、ひとつ大人に近づくことへの祝福も込めて少し背伸びをした風味のもの……あまり彼女が食べたことのないようなものを、とレシピを探した結果、よく女性向けとして紹介されていた『ティラミス』というスイーツを作ろうと決めたのだった。
なお、かねてよりポムフィオーレ寮の生徒達からメニューに加えてほしいという要望があったので名前だけは知っていたが、他の寮生が頼むとは思えないので採算が取れないという理由でアズールに却下されていたため、作ったことはおろか実物を見たことすらない状態からのスタートである。
モストロ・ラウンジにある各種食材は賞味期限から使用用途まで細かく管理されているので勝手に使う訳にはいかない。翌日が休みである今日のうちに試作もしたかったので、取り急ぎ材料を買いに来たというわけだ。
あまりにも多種多量の商品が並ぶ購買部、目的のものが決まっている時はちまちまと見て回るより直接店主に注文した方が早い。
「サムさん、これをお願いしたいのですが」
「ヘイ小鬼ちゃん、どれだい? なんでも取り揃えてるぜ」
持参したメモを渡す。サムはひとつひとつチェックをしながら手早く用意していく。卵、マスカルポーネチーズ、コーヒー、薄力粉、砂糖、バター、牛乳……
「……ん、大きな小鬼ちゃん。一応確認なんだが、ラム酒は製菓用でいいかい? それとも一瓶?」
「製菓用で構いません。今回はラウンジの買い出しではなく個人用なので」
「オーケー」
くれぐれもそのまま飲まないように、という良識のある大人のアドバイスを笑って受け取る。過去に複数名の生徒の飲酒が発覚してからアルコール類の取り扱いには厳しいのだが、普段から付き合いのある取引先なのでその辺りがノーチェックなのはとてもありがたい。
無事に材料を手にし帰路に着く。無性に監督生に会いたくなったが、今日は課題を終わらせると言っていたのを思い出し我慢をする。それが明日の休日をジェイドと一日過ごすための努力だと知っていたので尚更。
モストロ・ラウンジとは別にあるオクタヴィネル寮のキッチンに材料を並べ、調べたレシピ通りの手順で作っていく。まずはスポンジケーキを焼かなければ。手早く材料を混ぜて型に入れ温めたオーブンに放り込む。続いてコーヒーシロップと、チーズクリームを……
(……うっ)
ラム酒の瓶の封を切った途端、強烈な匂いが鼻を突いた。頭がくらくらとする。海の生き物には嗅覚が鋭いものも多く、日常生活や学業に支障をきたしてはいけないのでアルコールを使用した料理は出さないか、極力匂いが影響しないような優しいものを選んで使用していた。今回は初めて作るものなのでレシピ通りのものを買い求めたのだが、これは、なかなか、強烈な。
分量を見る。大さじ二。本当に? これを大さじ二も?
(…大丈夫だろうか)
不安になった。お好みで増やしても減らしても、と曖昧な注釈が横に添えてあるが、そもそも食べたこともなく味がわからないのでお好みもなにもない。大さじ二は果たして適量なのか? 監督生が美味しく食べてくれる量なのか? そもそもラム酒とは苦いのか甘いのか? 匂いはきついが味はそうでもなかったりしないか? 下手に減らして風味付けにもならないつまらない味になったりしないか?
普段のジェイドであればこんなにぐるぐると考え込む前に「まあ、一度作ってみて駄目ならまたやり直しましょう」くらいの豪快な思い切りの良さがあるのだが、自覚なく匂いに酔い始めている今の彼にあるのは、また方向性の違った思い切りの良さだった。即ち。
「味見をしてみればわかるか……」
購買部店主の言葉は頭からすっ飛んでいた。混ぜる前にとにかく味をみてみよう。まず半量の大さじ一。
ひと舐めすればそれでいいのでは、と判断力が低下している彼を諫めてくれる片割れも友人も今ここにはいない。鼻を刺す鋭い匂いに顔をしかめながら、さじに唇をつけラム酒を口内に流し込んだ。苦味と焼けるような喉の熱さ。鼻に抜ける風味。反射的に吐き出しそうになるのを堪えたせいで咽せる。視界がぐるぐるする。ここはどこだ、何をしていたっけ。彼女のために、かのじょ。そうだ、かのじょのところにいかなければ。たべものをもって、ぼくのつがいのところにかよわなければ。きっちんにでていたしょくざいを、ふくろにつめなおして。
そこからの記憶は、ジェイドにはない。
……そして、冒頭を経て今に至る。
オンボロ寮に来る前のジェイドの行動は何一つ知らないが、放っておいた場合にこの先発生するであろう惨状は容易に想像がつく。まだまだ付き合いが長いとは言えないけれど、酔って彼女の前で醜態を晒したとなれば、彼女自身は全く醜態とは思っていなかったとしても、彼の性格上監督生の前にしばらく姿を見せない可能性がある。それどころか記憶を失う薬とか作って来かねない。それは困る。非常に困る。一緒にいられる時間が減ってしまう。
どうにか穏便に自分が何とかせねば、と監督生は腹を括った。
未だむぎゅむぎゅと揉み込まれている自分の腹に添えられた手を掴んで止める。
「ろうかひまひたか?」
とろん、と溶けるような目付きでジェイドは監督生に問う。普段であれば恋人に向ける甘い視線だが、呂律が回っていないことも含めて現在はただ眠いだけであることが見て取れる。その表情かわいいなぁ、などと思っている場合ではない。監督生が反撃できるとしたら今が絶好のチャンスだった。
「先輩、私眠くなってしまいました……! でも一人で寝るのは寂しいので、えっと、先にお部屋に行って横になってて下さい!」
「いいれすよ」
即答。
離れていく長身。元々ジェイドは身内にはとても甘いところがある。ナイトレイブンカレッジに来てからはフロイドとアズールにしか発揮されなかったそれは、勿論彼女にも適用されていた。それに加えて愛しい恋人の滅多にないお願いなんて、酔っていても眠くても叶えない選択肢など彼の中には初めからない。それを踏まえると、彼女の取った行動はこの場では最適解であった。
勝手知ったる他人の寮で、自室に向かって迷いない足取りで歩いていくジェイド。それを見送り、監督生は真っ赤な顔でその場にへたり込んだ。
「よ、よかった……」
言うことを素直に聞いてくれるかは賭けだった。普段ならともかく、酔った時に人格が変わる人もいるというし。いやさっきのジェイドもかなり人格は変わっていたけども。
(忘れよう、忘れよう)
気まずくなりかねない記憶なんて、自分の心の奥底に閉まっておこう。いつもしっかりしていてそつなく物事をこなしていくジェイドはきっと、そうではない姿を見られたいとは思わないはずだ。
ドクドクと早鐘を打つ心臓と震える足を叱咤し立ち上がる。今更ながらグリムが戻って来てなくてよかった。今日は夜通し賭けトランプだゾ! 今度こそエースからツナ缶巻き上げてやるんだゾ‼︎ などと言い鼻息荒く出て行ったが、負けが込んでくると泣きながら帰寮する日もあるので今日は順調なのだろう。
なるべく足音を立てないように寝室に向かう。ゴースト達も今は姿がない。ギシ、キィ、と床板が小さく軋む音だけが響く。
ドアを開け、隙間から室内を覗くと、ベッドから長い足がはみ出しているのが見えた。
(……寝てるみたい)
耳を澄ますと寝息が聞こえる。サイズの合わないベッドに寝かせてごめんなさい、と内心謝りながらベッドに近づく。
時計を見ると十八時前。今から夕飯を作って、少し経ったら先輩を起こして、もし酔いが覚めていたら一緒に夕飯を食べないか誘ってみよう。その後は課題をみてもらえないか聞いてみよう。もし早く終わらせることができたら、もう少し一緒にいられないかとお願いしてみよう。
起きなかったら……こっそり隣で眠って、明日の朝まで一緒にいよう。
何を作ろうかな、その前にキッチンの片付けからだな……などと考えながら、しっかり布団を二枚重ね掛けして大きな身体を覆い、少女は無防備な耳元にこそりと囁く。
「おやすみなさい、ジェイド先輩」
起きた後に記憶が抜け落ちているのを不審に思ったジェイドの誘導尋問に引っかかり、彼の行動も自分の気持ちも洗いざらい喋った後で、山に籠もろうとする彼を説得するのに苦心することになるのを、上機嫌な彼女はまだ知らない。