愛してるの響きだけで強くなれたら苦労はしない 自動的にありとあらゆる身体情報を読み取った魔法錠が主の帰還を認め、薄暗く冷え切った部屋の空気が出迎える。ここに戻ってくるのは数日ぶりだった。今回は珍しく手こずったが、無事に異種企業との大規模提携の話はまとまったし、それに付随する大量の事務作業も片付けた。だというのに表情が全く晴れない理由は、現在時刻にある。部屋の明かりをつけ、大きめのソファに身体を投げ出し業務用のスマホを手に取り画面表示を見る。
(……もう、寝ている時間ですね)
二件の着信履歴にいくつかの新着連絡。ざっと目を通し、急ぎ対応しなければならないもののみ手短に返信をする。飲食店から始まり、食物生産、運送業務、通信業界に家具家電と次々に手を出し、果ては魔法が使えない者でもその恩恵に与れる魔法薬の製薬会社立ち上げと、手広く業務を取り仕切っている身だ。従業員は多種多様、種族によっては陽が落ちてから活動を開始する者や、そもそも睡眠を必要としない者もいる。夜間帯の業務はそれを得手としている種族に任せてはいるが、今くらいの時間までは連絡を取れるようにしてある。それが代表取締役としての責任だと彼自身が思っているからだ。
次いでプライベートとして持っているスマホを手に取る。こちらの番号やアドレスを知っている者はそう多くない。着信、なし。新着連絡、なし。
特大の溜息が口から零れた。業務の多忙さを知っている彼女は、遠慮をしてなかなか連絡を寄越さない。それが許されている数少ない存在だというのに、だ。かといって今は深夜、こちらからアクションを起こそうにもどうにも憚られる時間帯だった。きっと彼女もこうやって葛藤をして、きっと相手のために我慢をしてくれているんだろう、なんて思うのは傲慢だろうか。
(……声が聞きたいな)
明かりを消してソファにだらしなく凭れる。彼は、この薄暗くて冷たくて静かな部屋を割合に好んでいた。故郷の北の海を思い出す。暗くて、冷たくて、静かな。
幼少期には嫌な思い出も多いが、故郷には良い思い出も沢山あるし親しいひともいる。普段目まぐるしく変わる環境に身を置いている彼にとって、安らげる場所の象徴だった。けれど。
不意に流れた優しいメロディと淡く点滅するライト。それは彼女専用に設定しているもので、とたんに煩く鳴り始めた心臓音に関わっている余裕もなくスマホを見る。
夜遅くにすみません。お仕事お疲れ様です。そんな短い文がいくつか並ぶ。その中の最後の一文に思わず笑ってしまう。
最近お話しできなくて、少し寂しいです。
実に控えめな、我儘とも呼べないような彼女らしいおねだりだった。それを叶えられるのは、世界中で自分だけだと思うと誇らしかった。同時に、アズールの渇望を満たす事ができるのは世界中で彼女だけなのだと自覚させられる。
発着信履歴から目当ての番号を押す。数度の呼び出し音が途切れ、おずおずと遠慮がちな声が耳に忍び込んできた。
『ごめんなさい、アズールさん。起こしてしまいましたか……?』
「いいえ、丁度時間が取れたものですから。あなたの声が聞きたくて、電話をかけようと迷っていたところだったんです」
数少ない友人をして「よくそんなに口が回んね」と言わしめる彼の話術は、恋人に対しても常通り遺憾なく発揮されている。ただ、夜中なので常より少しだけ声を落とした密やかなやり取りは、電話の向こうから押し殺しきれなかった欠伸の声が漏れ聞こえるまで続いた。
「……で、あのー、何でオレ呼び出されたんすかね?」
聞きたくない。聞きたくないが、聞かねば先に進まない。柄にもなく緊張しているのを感じながら、エース・トラッポラは対面で優雅に座る学生時代の先輩の顔を見た。
場所は有名な会員制の食事処。先程手短に注文を済ませたアズールが、「いい場所でしょう? 料亭というんだそうです。彼女の故郷では、このような場所でお偉方が密談をしたりするそうですよ」などと話していた。彼女とはつまり、エースの学生時代からのマブダチであり、オンボロ寮元監督生であり、学生時代からずっと目の前にいるアズールとお付き合いをしている彼女のことで、その故郷とは異世界のニホンという場所のことだった。そこにある建物を模したということは、ここを作らせたのは自分であると暗に言っているも同然だった。そんな権力者様が一介の会社員である自分に一体何の用なのか。
視線を真っ向から受けた瞳が、眼鏡の奥で細まる。
「いえ、実は今回は、折り入ってご相談がありまして」
ごそうだん。五文字を頭の中で反芻する。今一番ホットな新進気鋭の大グループのトップのごそうだん。無論、経営戦略やら会社イメージやらの話でないことは火を見るより明らかで。オレとオマエの共通点といえばもうアレしかないわけで。
エースは友人絡みの色恋沙汰が割と苦手であった。それでもマブのためなら話も聞くし求められればアドバイスもする。ただしそれはマブ本人から相談された場合だ。目の前の商人に下手な手を打って、そのせいで関係悪化でもされたら後にどんな報復が待っているかわかったものではない。
聞く前に断ろう。エースの脳は瞬時に現状での最適解を叩き出した。流石、割とその界隈では名の知れた急成長企業の秘蔵っ子と呼ばれているだけはある回転の速さだった。
「あっ、オレちょっと用事が」
「ところでエース・トラッポラくん」
しかし、目の前の男はそれより更に上手であった。老若男女問わず皆騙される爽やかな微笑みでアズールは告げた。
「先日、僕のところの会社と、そちらがお勤めの会社が業務提携を結んだことはご存知ですか?」
「はぁ⁉︎ 何ソレ初耳なんだけど⁉︎」
「おや、そうですか。まあ発表前ですからね、知らなくて当然です。提携先がきちんと情報管理していることを知れてよかったですよ」
未発表の情報。己の上司のそのまた上司と同格の男。いやアズールのことだ、下手な提携など結ぶはずがないので同格どころか格上な可能性だってある。
つまりわかりやすく脅しをかけられている。断ったり情報を漏らしたらどうなるかわかっているな? という類の。
エースの武器は自他共に認める要領の良さだったので、あっさり降伏宣言をすることにした。
「わーかりました。こうなったら何でも言って下さいよ、アズール先ぱ、えーと、アズールさん……様?」
「何ですか気持ち悪い」
「いや一応提携先のお偉いさんなら、様でも付けないといけないかなーって」
「別に呼び易いものでいいですよ。さんでも様でも先輩でもね」
「じゃあアっちゃん」
「一瞬で図に乗りますねあなた」
「冗談ですって」
「相変わらず調子のいいことで」
溜息には笑顔で応える。エースなりの処世術だった。
「それでは本題です。言うまでもないことですが、ここでの会話は他言無用ですよ」
「わかってますって。じゃなかったらこんなわざわざ貸切になんてしないでしょ」
ふざけた言葉の応酬をしている間に運ばれてきた酒を呷り、つまみを口にしてもごもごと動かす。美味い。入店してから今まで店員以外に全く人気のない店は、エースが知っている「大人気! お洒落な隠れ家!」の触れ込みで一大特集を組まれたこともあるこの店のイメージとはかけ離れていた。人払いをしないと切り出せない話があるのだろう。
先程開示された情報から、共通点が一つ増えた。大方自分の手駒として動いて欲しいとか、そんな話になるに違いない。条件次第だな、とエースは脳内を損得勘定モードに切り替えた。
「さ、いつでもどうぞ」
「では。…………プロポーズをしようと思っているんです」
「誰に⁉︎ オレに⁉︎」
「話聞いてましたか⁇」
何を馬鹿なことを、と言いたげな視線に、今さっき切り替えた脳内スイッチが悲鳴を上げる。やっぱり恋人絡みじゃねーか!
「ていうか、まだプロポーズしてなかったんすか? 付き合って何年?」
「僕だって何度か考えました。ただ、仕事や彼女のプライベートのタイミングが合わなくて」
「そのタイミングが今だって? それはいいけど、何でオレに言うんすか。相談ならあの二人に……」
その時エースは急に思い出した。数日前、休日前夜の飲み会の帰りでほろ酔いだったエースの前に数年ぶりに姿を見せた、あの二人の片方ことフロイド・リーチが発した言葉を。
『カニちゃん久しぶり〜。あのさ、もうすぐアズールに呼び出されると思うから、相談乗ってあげてねぇ。陸のことはオレらじゃ力になれねえし』
よろしくね、とすれ違いざまに肩を叩かれたと思った次の瞬間にはもう、振り返っても姿が見えなかった。もしかして酔っ払って見たマボロシ? オレ疲れてんのかな、と思ってその日は自宅に帰ってぐっすりと眠ったらすっかり忘れてしまっていた。
あれ、現実だったんだ……。
「あの二人に相談したら、玩具にされるに決まってます。そんなことになるくらいならこっちの方がマシだ」
「言い方に悪意しかない」
「……もとい、彼女の親友であるあなた方に是非相談したいと思いまして」
相変わらず胡散臭いくらいに爽やかな笑顔でアズールは言う。もうとっくに玩具にされてますよ、とは言えずにエースも愛想笑いを浮かべて……「あなたがた?」と呟くのと同時に足音が聞こえた。
こちらです、という女性の声の後に、ありがとうございます、と聞こえてきたのは、聞き覚えのある。
「アズール先輩! 犯罪見逃しの相談なら乗れねえっすから!」
スパン! と入り口を勢いよくあけて早々に宣言した見習い警察官を出迎えたのは、対照的なようでよく似た表情だった。
「あなた方が僕のことをどう思っているか、よぉくわかりましたよ」
「変わんねえなあお前」
「あ? エース? 何でお前が?」
「久しぶりぃ、デュースちゃん」
もう一人のマブを出迎えながら、こいつはプロポーズ相談の役には立たないだろうな……とエースは思う。なにせ異性への免疫の無さは折り紙付きだ。
自分が元監督生の命運を左右する大事な役どころであることを悟ったエースは、本腰を入れて話を聞くため、手に持った杯の中身をくっと呷って気合を入れた。
「アズールさん、お待たせしました!」
「いえ、僕もさっき来たところです」
恋人同士のお決まりのやりとり。
アズールはデートの時は自宅の前まで迎えに行く派だったのだが、ある日彼女がドラマの中のやりとりを見ながら「こういうの、憧れなんですよね」とぽつりと溢した日から、時間がある日は待ち合わせスタイルに変わった。アズールは恋人の希望は何でも叶えてやりたい派の男だった。
本日の彼女の服は、前回のショッピングデートの時にアズールと一緒に選んで購入した、控えめにフリルのついた白のトップスにラベンダー色のロングスカートだ。全身で愛おしさを表現しながら彼女を待つ。少し緊張した面持ちの彼女は、アズールの隣に並んでにこりと微笑んだ。
「今日はどこへ行くんですか?」
「到着するまで秘密ですよ。楽しみにしていてください」
差し出した腕を自然に取って、二人は歩き出す。こうして、アズールのプロポーズ大作戦が始まった。
(……何故だ……っ⁉︎)
そして今、アズール・アーシェングロットは狼狽していた。彼女がお手洗いで隣にいない今だからできる物凄い表情で、脳内シミュレーションを片っ端から見直す。
エースとデュースのアイデアを取り入れ独自改良したプロポーズポイントは尽く不発に終わっていた。それどころか彼女の顔はどんどん曇っていくばかりで、久しぶりに楽しくデートをするという最低限の目的すら果たせていない。
(陸の女性は、こういうのを喜ぶんじゃないのか…⁉︎)
高いタワーの上で、というから、苦手な展望台へと登った。緊張と恐怖心で何を喋ったか覚えていないが、彼女が「そろそろ降りましょうか」と言ったので、切り出せなかった。彼女も高いところは苦手だったのか?
贈り物を渡しながら、というから、アクセサリー店へと赴いた。アズールの伝手のひとつだ。スタッフがいくつか持ってきた中から一つを指して、今流行りのデザインで取引先の女性にも好評なんですよ、と伝えた途端、彼女が「私にはこれがありますから」と以前贈ったネックレスを触りながら言ったので、切り上げて店を後にした。気を使わせないようにしたつもりだったが、やはりオーダーメイドにするべきだったか。
夜景の見えるレストランで、というから、タワーでの失敗を織り込んで、そこまで高くない階層だが夜景がよく見えて料理の評判もいい店の一番いい席を押さえた。肩書きとはこういう時に便利だと思った。料理を食べている時の彼女の顔は幸せそうで、ずっとこの顔を見ていたいと思い「お口に合ったようで何よりです」と伝えると、恥ずかしそうに俯いた後に「アズールさんは頼まないんですか?」と訊かれた。正直緊張で食べ物が喉を通るとも思えなかったし、最近の不摂生による体重増加のせいでダイエットを決意していたこともあって「僕はサラダだけで大丈夫ですよ」と答えた途端、また彼女の顔が曇って、いつもはデザートまで食べるはずが早々に店を出ることになってしまった。やはり彼女に合わせて何か頼むべきだったか。けれど残してしまうのは確実だった。食材を無駄にすることは主義に反する。
そして今。二人の思い出の場所で、というから、流石にナイトレイブンカレッジには行けなかったので、卒業してから初めてデートをした公園へと誘導している所だった。ここで決めるしかないと腹を括ったのも束の間、彼女が真っ赤な顔で「お、お手洗いに行きたいのですが……!」というので、近くにあったコンビニで水などを買いつつ、彼女が出てくるのを待っているというわけだった。
「ごめんなさい、お待たせしました!」
小走りで店から出てきた彼女の手には袋が下がっていた。ちらりと覗いているのはお茶のボトル。
「声をかけて下されば僕が買ったのに」
「……いいんです、私が飲みたかっただけですから」
すみません、と小声で謝られて胸が痛んだ。また顔を曇らせてしまった。久しぶりのデートだからか、プロポーズへの熱意と緊張が強すぎるのか、今日はどうもうまくいかない。
もう切り上げようか。いや、最後にもう一度だけチャンスが欲しい。手を繋ぐタイミングすら逃しながら、アズールは「行きましょうか」と声をかけた。
陽が落ちた後の公園は静かだった。
遮蔽物がないため、防音と認識阻害の魔法を強めておく。彼女を好奇や我欲の目から守るため、メディア関係には予め圧力をかけてあるが、何があるかわからない。警戒だけは怠らず、しかし頭の中はひとつの事柄に占められていた。
卒業後に初めてデートをしたあの日も、こうやってベンチに座って、陽が暮れるまで話をした。それだけで楽しかった。それだけで幸せだった。
無言の時間が過ぎていく。たまに隣から何か言いたげな気配がするが、彼女が口を開くことはない。もしかして、察しているのだろうか。待ってくれて、いるのだろうか。
ぐ、と両の手を握る。手汗が酷い。どんな商談の時だってここまで緊張した事はなかった。断られたら、いやそんなはずは無い。僕ほど彼女のことを想い、幸せにできる力を持った男はいないのだから。
弱気が顔を出しそうになる度に己を叱咤し、アズールはついに口を開く。
「……あの!」
しかし、そこから声が出るより先に、彼女の声が辺りに響いた。
「……ど、どうしましたか?」
帰りますなんて言われた暁にはなんとしても引き止めようとアズールは決めたが、その口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「大丈夫です。私、わかってますから」
「えっ」
「アズールさんが言いたいこと、わかってますので、もう、いっそ一思いに言ってください」
「えっっ」
「覚悟はできてます」
きっ、とこちらを射抜く瞳に、早鐘を打っている心臓が止まりそうになる。
彼女はわかっていると言う。アズールがプロポーズをしようとしていることをわかって、覚悟はできていると言う。なんと潔い、それに比べて自分の格好悪さといったら。
今すぐ蛸壷に引きこもりたい気持ちに襲われるが、この絶好のタイミングを逃したら次はない。遅すぎる覚悟を決めて、遂にアズールは本懐を遂げた。
「ぼ、僕と結婚してくらしゃい!」
噛んだ。
まるで茹で蛸のような顔で、蚊の鳴くような声を絞り出し、挙句に噛んだ。商談の席のアズールを知る者が見たら、十人中十五人はよく似た別人判定をするであろうほどに、情けない姿であった。
「…………えっ?」
己の無様さに打ち拉がれるアズールに更に追い討ちがかけられる。涙目で見上げた先、愛しい恋人は呆けた顔で爆弾を落とした。
「別れ話じゃ、ないんですか……?」
「…………はい?」
脳が単語の処理を拒否した。わかれ・ばなし。だれと、だれが?
動けないでいるアズールの前で、ぽつぽつと、彼女が言葉を紡いでいく。
「さ、最近、連絡がなくて、不安で」
その件については僕が悪いです。あなたの好意に甘えて、仕事に時間を割きすぎました。
「お仕事、忙しいって、わかってたんですけど、寂しくて」
これからは一日に一回絶対に連絡を取ります。罰則を入れ込んだ契約書を作成しても構いません。
「久しぶりに、会えることになって、嬉しかったんです、けど。エースから、連絡がきて。お出かけの話をしたら、なんか大事な話があるって言ってたって、聞いて」
ぐす、と鼻を鳴らして、今にも泣き出しそうな顔で彼女は続ける。
「まさか、もしかして、って、思ってたんですけど。……今日、先輩、なんか遠くて、手も繋いでくれないし、他の女の人のお話とか、ご飯も食べてくれなくて」
ああ、もう、終わりなんだな、って。
私のこと、好きじゃなくなってしまったんだな、って、思って、と。
無意識なのか意図的なのか、最近やっと使われなくなった呼称でアズールを呼び、ぽろぽろと透明な滴を零しながら、とうとう彼女は顔を両手で覆ってしまった。
彼女が話している間、心の中では饒舌だったが実際には「や、ちが、あ」しか言えなかったアズールは内心で絶叫する。
完全に裏目に出てるじゃないか‼︎
オレがいい感じに気分盛り上げときますよ、なんて安請け合いをしていた彼の姿を思い出す。とんだ時限爆弾だ。元はと言えば自分の煮え切らない態度が原因ではあるが、全てを棚に上げてアズールはエースを全力で逆恨みした。
ここからどうにか挽回しないと、結婚どころかこのまま本当の別れ話に発展しかねない崖っ淵にいることは今のアズールにもわかる。彼の値千金の頭脳はしかし、恋人の涙の前ではポンコツ同然だった。
「あ、その、違うんです、僕は、プロポーズを、あなたと、ええと」
脳を介さない言葉が虚しく口から滑り落ちていく。巨額の商談を幾つも成立させる男も、こうなってしまえば形無しであった。
きちんと伝えるつもりだった。一人であの暗く冷たい部屋にいるのが嫌いではなかったこと。忙しいのも重圧も大して苦ではなかったこと。けれどそれはあなたに会って、暖かいものや癒しや愛しさや、そういうものを定期的に受け取っていたからだったということに気付いたこと。あの着信音が、淡く光るスマホが、まるで海底を照らす柔らかな陽の輝きのようであったこと。
決して涙を流させようなどと考えてはいなかった。喜んで、笑ってほしかった、のに。
太陽を覆い隠す両の手がぴくりと動き、ゆっくりと動く。現れた瞳はもう新たな水滴を零してはいなかったが、違うものに揺れていた。
彼の想いは何一つとして伝わっていないまま、震える唇は言葉を紡ぐ。
「……ごめんなさい、先輩」
勢いよく吸った息が喉元でヒュッと音を立てた。
深海に打ち捨てられた亡骸となったような心地で、アズールは茫然と己の番——の契りを交わす筈だったひと——を見る。
「疑ってしまって、勝手に悲しんで、先輩がせっかく伝えようとしてくれたこと、台無しにして、ごめんなさい」
「……い、いいんです、そんなの、僕が、悪いので」
プロポーズ自体を断られたわけではなさそうだと気付き、辛うじて肺から言葉を絞り出す。今自分がいる場所すらよく分からなくなっていた。両の瞳に映る自分の姿がゆらゆらと揺れている。
震える唇は言葉を紡ぐ。
ごめんなさい。けっこんは、できません。
目の前が真っ白になって全てが遠い彼方に消えそうになるのを気力で繋ぎ止める。もう恥も外聞も何もかもかなぐり捨てて泣き叫んで縋りたい気分だった。返答次第では本当にそうしてやろうとぼんやり思いながら、アズールは己の中にある理性をかき集めて「何故ですか」と努めて冷静に問いかけた。……つもりだったが、実際にはか細い糸のような声しか出なかった。
「先輩のこと、信じ続けることができなかった。今の私に、先輩の隣に立つことも、先輩の支えになることも、できないです。そんな資格ない」
耳元でプツ、と何かが切れた音がした。
「だから、私……」
「…………どうやら思い違いをしているようですね」
次に目を見開いたのは彼女の方だった。目前の恋人は、先程までの雨の中で震える仔犬のような姿とは打って変わって、怒りと苛立ちと何かの決意を煮詰めた瞳で、さながら捕食者の様相を呈していた。
「僕がいつ、あなたに隣に立ってほしい、支えてほしいと言いましたか? あなたにその役割を求めたことがありましたか?」
「……な、ない、です」
「そうでしょう。僕は常にあなたを大切に守り慈しんできたつもりです。矢面に立たないよう、不便がないよう、けれどその自由を損なうことがないよう、ありとあらゆる手段で庇護してきた」
大きすぎる愛情を改めてぶつけられた彼女は唇を噛む。異世界から迷い込んだ、この世に何一つとして拠り所がない人間。魔法というアドバンテージもなく頭も体も平均、そもそもこの世界の一般常識すら覚束なかった。そんな人間がここまで然程の不自由なく生きてこられたのは、学園にいる時は学園長始め皆のサポートが、そして卒業後は目の前の恋人が表から裏から手を回してくれていたからだと彼女は気付いていた。あくまで自力ではどうしようもないことを、あくまで彼女には知られないように、決して自尊心を傷付けないようにしてくれていたことを。
それが、引け目だった。
「それを恩に着せるつもりはありません。あなたのためにしたことではない。僕がしたくてしたことです。今までのことも、今日のことも、これからのことも全部、あなたを喜ばせたくてしたことだ。あなたのためではなく、あなたの喜ぶ姿が見たかった僕のためだ」
眦は吊り上がっている。握り締めた拳は小さく震えている。物言いはあくまで穏やかだが語気は荒い。怒っている。怒られている。けれど、涙が溢れそうな理由は、悲しみや恐怖ではなく嬉しさだった。
本当に、こんなにも、大事にされていた。
「せんぱ……」
「あなたと一緒にいたい僕のためだ。それなのに僕が求めていないそんな資格だのなんだの、僕があなたといることでどれだけ癒されて落ち着いてパフォーマンスが向上するかわかってるのか? 今まさに経済の損失とも言える行為をしようとしているんだということがわかってるのか⁇ わからないなら骨の髄まで教え込んで別れるなんて二度と言えないように」
「ちょちょ、ちょっと待ってください、別れるって何ですか⁉︎」
「はぁ⁉︎ あなたが言ったことでしょう⁉︎ 結婚できないと‼︎」
わなわなと両手を震わせて叫んだ内容に己でショックを受け、今度こそアズールは沈黙した。酷い誤解を与えていることにようやく気付いた彼女が目を白黒させながらどうにか言葉を届けようと口を開閉する。
「あ、え、結婚はしたいですよ!」
「……⁇」
目を見開いて動きを停止した恋人とは反対に、あまり意味をなさない身振り手振りを加えながら焦った様子で彼女は続けた。
「あの、私先輩のこと大好きです! ずっと側にいたいし、結婚だってしたいし、会えないの寂しいし、できればお料理作って待ってたりとか、帰ってきた先輩にお帰りなさいって言いたいし、朝起きておはようございますって、いってらっしゃいって言いたいです! あっ、勿論今のお仕事はちゃんと続けますよ! 先輩に頼り切りになるような自分は嫌なんです、先輩が要らないって言ってもやっぱり、私は先輩を支えたいです」
自在に動く手と表情をぼーっと見ていたアズールの口から勢いのない言葉が滑り落ちる。
「……じゃあ、さっきのは……?」
「今すぐは結婚できませんって言いたかったんです! こんな弱い自分じゃ駄目です。もっと、どんな時でもアズール先輩を信じられるように、先輩のお話や一挙手一投足からすぐに望んでることを読み取れるくらいにならないと……秘書さんみたいに、アズール先輩の隣にはやっぱりあなたがいないとって言われるくらいに!」
それはまた大それた望みですね、と言葉を零しながら、アズールはぼんやり考える。
それ、前半はともかく、後半は多分、大体達成できてます。
彼女が側からいなくなるかもしれないと思った瞬間激昂し、そうじゃなさそうだとわかった瞬間から腑抜けてしまった自分自身の体たらくを思う。
そんなアズールを見て、愚かで愛おしい彼の番は慈愛の体現のように笑った。
「だからもう少し待ってて下さいって、言うつもりだったんですけど……さっきの言葉、すごく嬉しかったです。私、なりたかった自分に、少しでもなれてるんだなって、先輩が教えてくれたから」
距離が近付く。ベンチがギ、と音を立てる。まるで姫の手を取る王子のように恭しく、彼女は恋人の冷えた手に己の体温を分け与えた。
「アズール先輩の、言ったことは全てやり遂げる所が好きです。好きな人達を大事にする所が好き。そのためにどんな努力も惜しまない所が大好き。でも、自分の体や気持ちを大事にしない時があるのと、たまに大事なことを忘れちゃう時があるのが心配です」
そこに映る自分の姿はもう揺れてはいなかった。両の瞳でしっかりと恋人を捉え、彼女は続ける。
「あなたが忘れちゃうことを、私が覚えておきたい。あなたに教えてあげたい。そうやって、あなたがなりたいあなたに、少しでも近付けるようなお手伝いができたら、凄く幸せだって思います」
そういえば、この瞳の煌めきが焼き付いて離れなかったのだったとアズールは思い出した。恋に落ちた瞬間。彼が愛する彼女を構成するひとつ。
「これからも、迷惑をかけることがあると思います。それでも、あなたが許してくれるなら私は、あなたと一緒にいたいです。さっき一度断っておいて、今更って思われるかもしれないけど」
心地のいい声。
「アズール先輩。私と、結婚してください」
「…………っっ、なんっであなたはそうやって僕ができないことをあっさりやってのけるんですかああぁ……‼︎」
対のスカイブルーから大粒の真珠がぼろぼろと落ちた。自分が格好良くプロポーズをするつもりだったのに、まるで逆になってしまったばかりか、おそらく自分のプロポーズが成功していたら言えなかったであろうことも聞けなかったであろうことも全て出尽くした上で、ほぼ最良の形に丸く収まってしまった。これが、自分が選んだ番の力なんだと。
「わかっていても悔しいものは悔しいのでやり直しを要求します! 次のあなたの休みを丸々僕にください!」
「ええー、いいですけど、もう新鮮なリアクションはできないと思うのでただの楽しいデートになっちゃいますよ……?」
「構いません! 今日は気負いすぎました、陸だの海だの一般論だのに拘って、あなたの事を見ることができなかった。だから、今度こそ、あなただけのためにプロポーズをします。絶対嬉し泣きさせてみせますから!」
「もう既にまた気負ってませんか⁉︎」
ぐずぐずと鼻を鳴らして、目からぼろぼろと溢れるものは止まらず、それでも今日一番弾んだ声を響かせる怖がりで愛おしい恋人に抱きつくと、強く抱きしめ返してくれる。それだけでもう嬉し泣きしそうなんだけどな、と思いながら、早い心臓の音に包まれながら彼女はうっとりと瞳を閉じた。
「……あの、僕の家に来ませんか。ここだと、その、あれなので……」
「ふふ、喜んで」
「あなたが僕のことを何回先輩と呼んだか、しっかり教えてあげないといけませんし」
「う、あ、それは今日は無効です!」
「おや、『今後呼び捨て、もしくはさん付け以外で互いを呼んだ場合』の契約、忘れたとは言わせませんよ」
「ううう……アズールさんのせいなのに……」
楽しそうな笑い声が響く。先輩と呼んだことは間違いないが、何回かなんて覚えているわけがないアズールの腕の中で、そうとは知らない愚かで愛おしい彼の番は白旗を上げた。
応接ブースの前で、エースは頭の中に数パターンの謝罪を用意しながら深呼吸をしていた。
来客がある、お前をご指名だ。それしか伝えられていない出頭命令。それはつまり、エースが発端となった何かに対してのクレーム対応、しかも厄介な相手の可能性が非常に高い。通常のクレーム対応は相手がある程度冷静で、何に対しての意見要望なのかをしっかりと述べてくれるからだ。受付がこちらへ伝えてきたそれに対しての対策改善案なりひたすらの謝意なりを携えて応対する。その過程が丸々抜けてしまっているということは、相手が何に対しての意見なのかを言わず、かつこちらに不満を募らせている場合ということになる。もう出たとこ勝負でいくしかない。
幸い、エースは今までこの類のクレーム対応で失敗したことがなかった。生来の愛嬌と要領のよさで今回も乗り切るつもりでノックをする。
「失礼します! エース・トラッポラで……」
「ご足労いただきありがとうございます」
部屋の中央、ソファに腰掛けてにこにこと微笑んでいたのはアズールだった。エースは即座に要件を理解する。なにせ昨日の朝から世間は『若き事業家、一般女性と婚約発表』のニュースで持ちきりだ。因みに彼は一昨日の夜にマブから直接報告を受けている。この婚約、オレも一枚噛んでるんすよと喧伝したい気持ちで一杯だったところに当の御本人の登場である。
脳内に『特別ボーナス』の文字が踊った。
「そんなそんな! いやぁ今一躍時の人じゃないですか先輩! いっそがしいでしょうに、どうしたんすかこんなとこまで〜」
「いえ、今回の件でどうしてもお話したいことがありまして」
「ええー? やー何かなー、あっご婚約おめでとうございます〜」
「それはどうも。ところで、先日のデートの件、彼女から何か聞いていますか?」
おや。雲行きがなんだか怪しい。この流れはつい最近体験した。しかし結果はご覧の通り、結婚まではいかずとも嬉し恥ずかし婚約発表だ。そこで何か不手際が、しかもエースが発端で起こることなんて、そんな……
「いや、ただ婚約したって報告しか……」
「そうですか。それはよかった」
目の前の美しい人魚は、左手薬指をさすりながら、海の如く深き慈愛を湛えて微笑んだ。