こういうところを気に入っている 男は自分自身をある程度空気が読める人間だと思っていた。あの時もあの時も、空気を読み、相手の感情の機微を読み、色々なことを察して渡り歩いて来たからこそ、今の己のポジションがあるのだと頑なに信じていた。
名の知れた大企業に入社できたのも、クビにならずに生き残ってこられたのも、閉鎖的で秘匿性が高い上に何かと噂のタネになる上司がいる部署に飛ばされてもまだなんとか生きているのも、空気を読むという誰にも優劣のつけられない能力のおかげだと自負していた。
ところでこの部署、噂とは全く違い、上司が破天荒なのは間違いないがそれなりに優しさや道徳心のようなものも持ち合わせているということがわかり、毎日いびられ心を壊すかプレッシャーに耐えかねて胃を壊すか、と戦々恐々していた男は現在、割とのびのびと業務をこなしていた。仕事内容は元々性に合っている。人間関係も良好。時たま主に件の上司が原因で左半身を吹っ飛ばされかけたり目を焼かれかけたり鼓膜が破れかけたり五感を奪われかけたりもしているが、そしてその度にこっそり悪態をついたり辞表を書きかけたり労災申請について調べたり会社の匿名ダイヤルに電話しようとしたりもしているが、それでも男はしっかりと仕事をこなし、休日は趣味の苔アクアリウムをゆっくりと楽しむだけの余裕が出てきていた。
そんなある日。
明日はハロウィン。そして男の仕事は休み。更に朝からずっと何か言いたそうにしている明日出勤の愛妻家。
ここから導き出される結論はひとつ。
(明日の出勤を代わる準備はできてますよ部長……!)
人知れず拳を握りしめる。
ハロウィンといえば年に一度の一大行事。きっとリーチ家でもハロウィンパーティーをするだろう。もしかしたら噂の双子の兄──いや弟だったかも知れない──や、親しいと噂のアーシェングロット会長もお招きするのかもしれない。その準備を妻一人に任せることになってしまう愛妻家の上司は、おそらく心配や罪悪感で一杯なのだ。だから自分も準備に加わるため、誰かに仕事を代わってほしいと思っているに違いない。そう、部長の代わりを務められるような頼れる人間に!
ふふ、わかってますよ部長。あんな可愛らしい奥方に力仕事なんてさせられませんよね部長。先日夫の忘れ物を届けに来たリーチ夫人とたまたま街中で会い、会社まで案内したという実績がある男は訳知り顔で一人頷く。明日休みで、代理を遂行できる能力があり、奥方と知り合ったことで比較的頼みやすい人間。おまけに独り身。この条件を完璧に満たす人間がそう、ここにいるのだ!
「──あのさあ」
「へぁい!」
きた‼︎ と男は思った。力みすぎて若干間の抜けた返事になったが、声を掛けてきた男──フロイド・リーチはさして気にする素振りも見せず、ただ普段より多少歯切れの悪い口調で言葉を続けた。
「オキアミくん、明日なんだけどさぁ」
「はい!」
「なんか用事とかある?」
「ないです!」
はきはきと答える。よくよく考えると悲しい返答であったが、オキアミくんというあだ名で呼ばれた男はよく考えていなかった。とにかく『あの上司に頼られている自分』が嬉しかったからである。
あー、と左右で虹彩の違う瞳を斜め上に逸らしたフロイドは、長い指で頬をぽり、と掻いた後に視線を戻して言った。
「じゃあさ」
「はい!」
「うち来てハロウィンパーティーしない?」
「はい喜んで!」
食い気味に返事をしてから、男はおや? と首を傾げる。なんか、予想と違う言葉じゃなかったか?
一方、今まで奥歯に物が挟まったような話し方をしていたフロイドは、ぱあっと顔を輝かせて普段通りの態度に戻った。よかったー、小エビちゃんがどうしても呼んでほしいって言うからさー、などと話す上司に男は恐る恐る話しかける。
「あ、えーと、あれですか? 準備に男手が必要的な」
「は? 準備はこっちでやるつもりだったけど、何? 準備から参加したい派?」
「いや、あの、明日部長仕事じゃないですか」
「あー、言ってなかったっけ? うちの部署全員明日休みにしてあるって」
「フゥン⁉︎」
言ってないし聞いてない。そういやオキアミくん元々休みだったから言ってなかったかもぉ、と能天気に言ってフロイドは頭をかりかりと掻く。
「オレだけ休んでもよかったけど、なんかあった時呼び出しくらうのやだったからさ。ならもう全員休みでよくねえ? ってアズールと交渉した」
「……た、対価は?」
弊社の会長は筋金入りの等価交換主義で有名である。願いを何でも叶えてくれる超優秀な魔法使い様だ。それに相応しい対価さえあれば。
あは、と人好きのする笑顔を浮かべてフロイドが言う。
「再来週にくる案件の三日間の納期短縮♡」
「ミ゛ッ」
死ぬ間際の蝉のような声が出る。それは元々休みだった自分にとってははちゃめちゃにとばっちりというやつでは? と男は思ったが、すんでのところで言葉を喉の奥へと押し戻すというファインプレイをみせた。フロイドがひらりと手を振る。
「じゃあ、後でパーティーの案内送んね。おつかれぇ」
「えっ、あ、お、お出かけですか?」
「んー? 今日は早退。明日の準備しねーと」
小エビちゃんとぉっても楽しみにしてるからさぁ、と慈しむような微笑みを残して、今度こそフロイドはその場から去った。残された男はしばらく「えっ」以外の言葉を発することができなくなり、更に上司のホームパーティーに手ぶらで行くわけにはいかないという事実に思い至ってからはもうそれしか考えられなくなって、貴重な薬草を無駄に燃やしかけるというミスを犯し定時で帰りたい同僚達から袋叩きに遭いそうになるも、事情を知ると皆少しだけ優しくしてくれた。
その優しさと、再来週の鬼納期のことと、手土産へのプレッシャーで男は自宅に帰ってから少しだけ泣き、あり合わせのものを炒めたおかずで主食を流し込むスタイルの夕飯を手早く終えてシャワーを浴び、あとはひたすら『手土産 上司 ホームパーティー』『手土産 女性 流行』『手土産 ハロウィン 最新』といったワードで検索をかけまくり、いつの間にか寝落ちをし、生クリームまみれのジャックオランタンとめちゃくちゃなワルツを踊る夢を見た。
率直に言って悪夢だったが、隣で片や実験着のまま、片や薄紅色のドレスを身に纏い楽しそうに踊るリーチ夫妻を見ているのは悪くない気分だった。
頭が捻じ切れそうになるくらい悩んだ手土産を、小エビちゃんことリーチ夫人は笑顔で受け取ってくれたので、男はほっと胸を撫で下ろした。
男は己を空気が読める人間だと思っていたし、運は悪いが悪運は強い方であるとも思っていたが、手土産のセンスを褒められたことは生まれてこの方ほとんどなかった。現に奥方の斜め後ろにいる上司は「まじかこんなんどこで見つけてきたんだ」みたいな顔をしている。違うんです部長。最後の二択で時間切れぎりぎりまで悩んだんです部長。すごい無難な流行りの菓子とこれ。ハロウィンだからこっちのがいいかなと思ったんです。
思いが通じたわけではないだろうが、人魚である上司は「人間のセンスよくわからん」とでも言いたげに口を開いて閉じて、ちらりと愛妻の方を見て、笑顔になった。空気を読まずともわかる。これは「小エビちゃんが喜んでるならなんでもいいや」の笑顔だ。ありがとう奥方。首の皮が繋がりました。
最大級の懸念事項であった手土産問題をクリアした男は、上司宅でのホームパーティーを楽しみ尽くすモードへと移行した。普段色々やらかす上司も、最愛の妻の前では大人しいに違いない。更に言えば上司はエリート校であるナイトレイブンカレッジを卒業した魔法士だ。そんなお宅のハロウィンパーティーなんて、一体どんな驚きや感動が待っているのか想像もつかない。子供がテーマパークを目にした時と同じテンションで男は上司宅へと足を踏み入れた。
そして。
「えっ」
「ごめんね小エビちゃん、すぐ帰ってくるから」
「はい、気をつけて行ってきてください。オキアミさんと待ってますから」
「オキアミくん、小エビちゃんのことよろしく」
「えっ、あっ、はい」
上司が出て行った。
あまりの展開に頭がフリーズしている。えーと? 電話が鳴って? 部長は無視してたけど着信音が変わって? 舌打ちしながら出て? 奥方が「アズール先輩からだ」と呟いて? 「はぁー⁉︎ そんなんジェイド探して、また山ぁ⁉︎」「ひとつ貸しだかんな!」と声を荒げて?
ジェイド・リーチ。上司の双子の兄弟で見た目がそっくりな彼を、本日の交渉の相手として大口顧客が指名してきたそうだ。普段ならなんやかんやと理由をつけて断るが、今回の商談は是が非でもまとめたいものであるため、仕方なしに本人に連絡をとろうとするも音信不通。痕跡から推測するに、連続で休みをとっていたジェイドの行き先はおそらく山。しかも電波が届かないレベルの。ならば双子の兄弟フロイドを代役にたてよう──という話、らしい。
「そんな無茶な」
思わず呟くと、フロイドは嫌そうな顔で「普段からたまに入れ替わってる」と言った。えっ、もしかしてたまに別人みたいに穏やかな振る舞いしてた時の上司は本当に別人だったりするの? と男は思ったが、怖くて訊けなかった。
そして今に至る。リビングで上司の奥方と向かい合いながら、男は脳みそをフル回転させていた。
話題! なんか話題!
目の前に出されている紅茶から立ち上る湯気が揺れる。とりあえず一口飲んでみる。ふわりと鼻に抜ける茶葉の香りが上品だった。えぐみがない。
「あ、おいしい」
「ふふ、ありがとうございます」
奥方が笑った。
「すみません、お呼びしたのはこちらなのに、ばたばたしてしまって」
「い、いえいえ、こういうのに呼ばれることなんてもうずっとなかったので、お招きいただいて嬉しいです」
「そう言っていただけると私も嬉しいです。オキアミさんともっとお話ししてみたいと思ってたんですよ」
悪戯を思いついた子供のような微笑みを浮かべたリーチ夫人は、色々な話題を出してくれた。相槌をうち、表情豊かに聞き入り、かと思えば鋭く切り込んできたりする。成る程これは上司が溺愛するはずだ、と男は思った。ただのお喋りが純粋にものすごく楽しい。
「そういえば」
男は言った。
「部長……フロイドさんとはどこでお知り合いになられたんですか?」
「フロイド先輩とは学園で、あっ」
しまった、という風に奥方は口元を軽く押さえる。自称空気が読める男は首を傾げて言った。
「先輩、ということは同じ学校だったんです?」
「あ、えーと」
「あれ、でも部長、ミドルスクールまでは海の中だったって言ってたような……じゃあ陸に上がってきてから……ってことはまさか、二人ともナイトレイブンカレッジ卒業生なんですか⁉︎」
すげー! エリート夫婦だ! とはしゃぎかけてから男ははてと首を傾げる。あれ、ナイトレイブンカレッジって確か男子校では?
ちらりと奥方の方を見る。どこからどう見ても女性である。いやどこがってわけでなく服装とか線の丸みとかそういうのが。全体的な話で。誰にともなく脳内で言い訳をする。あの上司が帰ってきた後何かを察したらパーティーどころかこの世からの出禁を喰らいかねない。
「……あの、小エビさんも魔法、使えるんですか?」
奥方と呼んでいたら「むず痒いので名前で呼んでください。それに抵抗があるなら『小エビ』はどうですか? 私もオキアミさんと呼ばせていただいてますし」と微笑みで押し切られてしまったあだ名を使って訊ねる。
「いえ、私はまったく」
彼女はふるりと首を横に振る。上司も以前「小エビちゃんはぁ、魔法士じゃないけど魔法みたいにオレのことたくさん喜ばせてくれるんだよぉ」と惚気ていた。ということは。
「……小エビさん、ほんとに小エビの人魚だったりします?」
「いえ、普通の人間です……」
魔法が使えない普通の人間女性が、エリート魔法士養成男子学校ナイトレイブンカレッジに入学できる理由。男は真剣に考え、そして一つの結論を出した。
等価交換。つまり何かを代償に何かを叶える行為。かの有名な海の魔女は、人魚姫に人間の足を与え肺呼吸ができるようにする代わりに、彼女の美しい声を奪ったのだという。更に意中の王子と結ばれなかった場合、泡となって消えてしまうという命の制限をつけて。当時人魚が陸に上がるにはそれだけの代償が必要だったのだ。それと同じことを、例えばアーシェングロット会長あたりに頼んだのだとしたら。
「僕、このことは秘密にしておきますから!」
「えっ」
はっと何かに気付いたような顔をした後に急に大声を上げた男は、驚いたような表情で見られていることにも気付かずに自論をぶち上げる。
「小エビさんが元々男性だったことも、部長と結婚するために魔力と引き換えに性転換をしたことも、それにアーシェングロット会長が一枚噛んでることも誰にも言いませんから!」
「えっっ」
「安心してくださいね!」
にこっ、とできるだけ爽やかに見えるように苦心しながら笑顔を浮かべる。
それをぽかんとした顔で見つめていたリーチ夫人は、やがて肩を震わせながら俯き、両手で口元を押さえ、そして──耐え切れなくなり涙を拭いながら大笑いをし始めた。男はそれをぽかんと見つめる。先程までの彼女と全く同じ表情であった。
「えっ? あれ? 奥方?」
「あは、ふふふ、すみませ、ああーその手があったかって、ふっふふ、今度から説明それにしちゃおうかなぁ、あはは!」
うっかり口を滑らせて内心で冷や汗をかいていた彼女は笑い続ける。成る程これはフロイドさんが気に入るはずだ、と思った。自分の魅力的な部分を全く自覚していないところなどが特に。
自身もそうであり、そしてフロイドが気に入っているのが正に似ているからであることに、笑い続ける彼女も、困惑し切っている男も気付かない。
「ただいまぁ。楽しそうじゃん、オレも混ぜて」
「部長!」
「おかえりなさい、フロイドさん」
早かったですね、と付け足され、急いで終わらせてきたぁと言いながらフロイドは愛妻の目尻に浮かんだ涙をそっと拭う。響いていた楽しそうな笑い声を聞けば、悲しみの涙ではないことはすぐわかる。喜怒哀楽が比較的わかりやすい彼女だが、一体何をしてここまでツボにはまるようなことになったのか。
色違いの凪いだ海が男を捉える。機嫌が良さそうに緩く細められたそれに敵意はない。
「オキアミくん、一発芸でもしたの?」
「えっ、あ、いや! これは自分と奥方の秘密ですので!」
「は?」
そして一瞬で敵意に染まった。
不機嫌さを煮詰めたような一言に男は怯え、リーチ夫人はまだくすくすと笑いながら「話しても大丈夫ですよ、オキアミさん」と場を宥めた。
深刻そうな顔で先程と同じ自論を語った男は、オキアミくんやっぱ面白えー! と大笑いの二重奏を聞く羽目になり、ホームパーティー開始は大分遅れたけれど、その日のことは男の人生の中で三本の指に入るくらいに楽しい思い出となった。
そして、代理として出かけたフロイドが商談をうまく纏めたご褒美として、部署全員ハロウィン休みを取った対価である納期短縮はなかったことになり、更にずっと要望を出していたが高価であったためなかなか申請が通らなかった計測器具を導入できることとなったのでテンション最高潮で続いたお祭りモードは、当のフロイドが起こした気まぐれが原因で部署の三分の一が文字通り吹っ飛んだことにより強制終了となったのだった。