マイスイートスマイルメイカー 柄にもなく緊張して、握り込んだ手にぐっと力を入れて。
陸では、この気持ちをこう表すと聞いたから。
頬の熱を乗せて、ありったけの想いを込めて言葉を紡いだ。
「好きです。付き合ってください」
目の前の彼女は、大きな瞳を溢れんばかりに見開いて、花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。
「はい! 私も大好きです、先輩!」
「えへへ、嬉しいです、ありがとうございます! これからも仲良しでいてくださいね!」
「は?」
「あっ、お付き合いですよね! 任せてください、どこに行きますか? いつでもあいてますよ!」
「は⁇」
「今日は一年の皆でお泊まり勉強会なので、また明日予定決めましょうね!」
「は⁇⁇」
その後、何と言って彼女と別れてどうやって寮に帰ってきたか覚えていない。しかしほぼ一昼夜もの時間が経っているのを見るに、その間最低限の日常生活を送り寮服に着替えて卒なく業務をこなすことはできていたのだろう。
モストロ・ラウンジのキッチンにて無心で明日の仕込みをしていたジェイドは、ずっと頭の中を占めているが放ってしまえば確定してしまうのでは、と恐れていた一文を漸く口に出した。
「僕、もしかして体良く振られたんでしょうか?」
「落ち着きなさいジェイド」
めしょっ、と嫌な音を立てたジェイドの手の内のロブスターに、店の備品や食材に損害を出されては困るアズールが口を出す。
「事情は聞いています」
「誰から」
「お前が昨日一晩中繰り返し状況説明と自己暗示と現実逃避を呟き続けた同室の哀れな片割れからですよ」
「なんだ、フロイドですか。よかった、目撃者がいたのなら消さなければと思っていたところです」
無用な殺生はよくないですからね、と目の下に隈を作りながらも爽やかに笑う青年に、彼の雇用主兼友人は軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえた。寝不足からのジェイドのフォローで疲労困憊となり、現在ラウンジのソファでだらしなく撃沈しているフロイドに、少しだけ同情する。
「で? 何を思い詰めているんですか? 監督生さんが想定以上に鈍かったというだけのことでしょう」
「ああ、アズールには話していませんでしたか」
普段は軽く小気味良い包丁の音が心なしか鈍重に聞こえる。切り終わった食材をざっと鍋に移しながらジェイドは淡々と言う。
「僕、今回の告白に賭けていたんですよ」
「お前らしくもない。一度や二度の失敗で」
「一度や二度ではないんです」
「は? ……想いを告げたのが、ということですか?」
「そうです」
包丁とまな板を洗い次の食材へ。巨大な冷蔵庫へと歩を進めながらジェイドは淡々と言う。
「それならば言い方ややり方を変えて」
「最初は宝石でした」
「……贈り物ですか、定石ですね」
ジェイドは言う。キノコの育成に使用する薬の錬成過程で偶然できた綺麗な青緑色の宝石。自分の色だと思った。これを彼女に渡したいと、持っていてほしいと思った。
呼び出すといつものように名を呼んで微笑みかけてくる彼女。心臓が握り潰されるかのような苦しさを覚えた。早く彼女の特別にならなければ死んでしまうと思った。
「こちらを、貴方へ」
「なんですか? わぁ、すごく綺麗な色……!」
洒落たラッピングも丁寧な加工もされていない、生まれたままの宝石を、小さな両手で柔らかく包んで彼女は笑った。
「その、……大事にしてくださると、嬉しいです」
「勿論! 大事にします。ありがとうございます、ジェイド先輩」
その顔が見られただけで、その声で名を呼ばれただけで、今にも暴れ出しそうな身の内の衝動が鎮まっていく感覚がした。
「……いや、確かに一定の好意は示しているかもしれませんが、想いを告げたというには些か大袈裟では」
「次は花束でした」
「……地上の花は美しいですからね」
ジェイドは言う。確かに贈り物を渡すことに集中しすぎて、肝心のことが言えていなかった。その反省を生かすべく、告白というものに相応しいとされる贈り物を調べたのだ。陸の女性が貰って嬉しいものナンバーワン(らしい。ジェイドが参考にした書籍にはそう書いてあった)、薔薇の花束を携えて彼女を呼び出す。
「こんにちは、ジェイド先輩。先日は綺麗な宝石をありがとうございました! 飾っておこうかとも思ったんですが、なんだか先輩の髪の色に似ていて持っていると安心するので、ほら」
こうしてお守り代わりにしてるんです。と、自身で縫ったのであろう手作り感溢れる袋をポケットから出してはにかむ姿に、危うく結婚の申し込みが口から出そうになって咳払いをする。
「喉、調子悪いですか?」
「いえ大丈夫です。……あの、監督生さん」
眼前で恭しく跪く。目を白黒させる監督生の前に花束を差し出し、反射的に手を出して受け取った彼女に微笑んだ。
「こちらを。貴方に似合うと思いまして」
「すごい、すごいです、こんな綺麗なお花……! 本当にいただいてしまっていいんですか?」
薔薇にも負けないくらいに鮮やかな笑顔を返され、用意していた台詞が頭から飛ぶ。それでも喉をキュゥと鳴らしながらジェイドは渾身の力を振り絞って口を開いた。
「僕が、育てたんです。想いを込めて」
勿論貴方への。赤い薔薇の花言葉はご存知ですか? これが、僕の気持ちです。
——と、続く筈だった言葉は、無邪気な声に遮られる。
「えっ、ジェイド先輩が⁉︎ 薔薇の花って育てるのがすごく難しいって、ハーツラビュルの皆に聞いたことがあります。それをこんなに綺麗に……やっぱり先輩はすごいです。私、寮の庭が寂しいから何かお花を植えようと思ってるんですけど、初心者でも育てやすいお花ってありますか?」
「……で?」
「パンジーをお勧めしました」
「いや、そういう事を聞いているわけではなく」
沸騰した鍋の火を最小にして蓋をする。次の下準備へと取り掛かりながらジェイドは神妙に口を開いた。
「共に土を弄り美しい花を植えている時思ったのです。嗚呼、これが愛の共同作業というものなのか……と」
もう帰って何もかも忘れて眠った方が己の精神衛生上いいんじゃないかとアズールは思ったが、どうにか踏みとどまった。長くなりそうだし、このままただ突っ立って聞いているのも非合理的だと思い直して流しの洗い物に取り掛かる。
「で、その後どうしたんですか」
「お礼をしたいとのことで、オンボロ寮で紅茶を頂いて、少し話をして帰りました」
「それだけ?」
「それだけです。その時に部屋の中を見させて頂いて思ったのですが、彼女はあまり私物を持っていない。ならばプレゼントを渡すというのはどうだろう、せっかくなのでお揃いのものを——と」
付き合ってもいないのに急に重いな、とアズールは思ったが、面倒なことになりそうだし全て終わったことだったので、黙ってジェイドの話の続きを待った。
「紅茶のあれこれが、明らかにどこかの寮からの貰い物という風体で、カップとソーサーの柄も別々、ポットにはヒビが入っていました。ならティーセットをプレゼントしようと思いまして、彼女に似合う白とミント色の一式を見繕ったのです」
「……先日、お前の部屋で見たあの新品のティーセットのことですね」
「はい。あれは僕用のものですが」
にこりと笑ってジェイドは言う。彼女をイメージした綺麗な薄桃色の包装紙でラッピングを施してもらった。次はこれを口実にまた部屋で一緒にお茶をして、仲を深めるきっかけになればいいと思った。
オンボロ寮の戸を叩き、ゴーストが彼女に来客を知らせるのを待つ。
「あ、ジェイド先輩! こんにちは、ラウンジのアルバイトのお誘いですか? それともパンジーの様子が気になります?」
ひょこりと顔を覗かせた監督生の部屋着は、少し大きめな男物のTシャツと七分丈のパンツというラフなものだった。——そう、男物だ。
「こんにちは、監督生さん。つかぬことをお伺いしますが、そのお洋服はどなたかからの頂き物ですか?」
「え、あ、はい。すみませんこんな格好で……私、お洋服をほとんど持っていなくて。ずっと制服や体操服でいるわけにもいかないので困ってたら、エースやデュースが古い服をくれたんです」
くるりとその場で回ると、余った裾がふわりと膨らむ。これ元々ハーフパンツだったみたいなんですけど、ウエストが緩かったのでゴムを入れ直したんですよー、と呑気な声が続くが、意中の雌が他の雄のものを身に付けている光景を直視してしまったジェイドは気が気ではない。
「監督生さん。こちらを」
「は、はい。えっ、何ですかこれ」
「喜んでいただければいいのですが。日頃のお礼の品です。では、僕は用事ができましたのでこの辺りで失礼します」
「え? え? は、はい……⁇」
疑問符だらけの監督生に薄桃色の箱を押しつけ、ジェイドは来た道を戻っていった。女性用の部屋着を何種類か取り寄せなくては——と思いながら。
「……」
何かツッコミを入れようかと思ったアズールだが、もし仮に自分がジェイドの立場だったら間違いなく同じリアクションをするな……と察してしまったので黙っていた。付け合わせを二種類作り終えたジェイドは、溜息を吐きながらそれを業務用冷蔵庫にしまいつつ言った。
「その日一日、ひたすら検索を繰り返しました。そして気が付いたのです、女性の服というのは実に多種多様であると」
ガーリー、ボーイッシュ、フェミニンにモードにトラッド……全く系統が違う情報の海に溺れてしまいそうだとジェイドは思った。この中から自分の好みの服を探して贈ることはさして難しくはないが、監督生の好みとなると皆目見当がつかない。彼女が女性服を着ているところを見たことがないからだ。
「陸の人間は、自分に似合うものだけでなく、好きなものを積極的に身につけようとするようです。そしてその際たるものが服、つまりどれだけ監督生さんに似合っていようとも、彼女が気にいるものでなければ部屋着にしてもらえないのでは、と」
「成る程、一理ありますね。では監督生さんと一緒に選んだのですか?」
「いえ、マドルを渡すことにしました」
一瞬にしてアズールの脳が「何故」の二文字で埋め尽くされる。このウツボ、恋愛下手にも程があるのでは⁇
「……渡したんですか、マドルを、そのまま」
「はい。服だけでなく、当面の生活費や雑費の足しにしていただければと思いまして、とりあえず給金三ヶ月分を」
頭に過ぎった次の二文字は「馬鹿」だった。目眩すら覚えながら、どこか満足気にしているジェイドへとどうにか言葉を絞り出す。
「馬鹿ですか?」
何の捻りもないド直球の罵倒だった。
しかしジェイドは気にする素振りもなく、眉をハの字にしながらもどこか嬉しそうに言う。
「本当に、仰るとおりです。三ヶ月分は多すぎました。彼女にも非常に気を遣わせてしまって……一ヶ月分をこまめにお渡しするべきでしたね」
「そういうことではなくて」
恋愛関係に金銭を持ち出した時点で、それは如何わしい何かになってしまう。上下関係も発生するし、そもそも通常の感覚を持っていたら『付き合ってもいない相手から』『多額の現金を渡される』という状況に危機感を抱かないわけがない。
それは体良く振られもするだろう、とアズールは思ったが、我が身が一番可愛かったのでそこは黙っていた。
「あー、彼女は、受け取ったんですか? それ」
「残念ながら、一マドルも受け取っていただけませんでした」
それはそうだろうな、という言葉を喉元で留める。右往左往しながら頑なに固辞する姿が目に浮かぶ。
「お金のかかるものは受け取れません、ましてお金そのものなんてもっと受け取れません、とはっきり言われてしまいました」
「思っていたよりしっかりしていますね、彼女」
「そうでしょう? 惚れ直しました」
「惚気はいい。で、渡した物はこれで全部ですか?」
「まだまだありますよ」
まだまだあるのか……。
アズールが思っていたより、この右腕は監督生に惚れ込んでいるらしい。一体あの何の変哲もない人間の女性のどこがそんなにいいんだか後で聞いてみようと思いながら、次はなんです? と続きを促す。
「金銭を介さない贈り物の定番といえば手紙では、と思いまして、この想いの丈を存分に綴らせていただきました」
「手紙ですか。いいんじゃないですか? 勿論高価な物ではないし、告白の手段としても定石だ。気持ちを伝えるのには最上でしょうね」
ジェイドの選択を褒めながら、はて、と首を傾げる。フロイドから聞いていた告白方法は「直接シンプルに」だった筈。明日の仕込みを終えて調理台の掃除を始めたジェイドへと疑問を投げかける。
「つかぬ事を伺いますが」
「はい」
「手紙、どんなことを書いたんです?」
「そうですね……少々恥ずかしいですが」
片手に雑巾を持ったまま、ジェイドは爽やかに笑った。
「まずは監督生さんの容姿と中身を褒めて、出会った頃から今までの印象的だった言動とそれに対する僕の感想、それとお渡しした贈り物の数々に僕がどんな想いを込めていたか、どんなところが好きでお付き合いしたらどんなデートをしてどのくらいで結婚をして将来設計を複数パターン、子供の有無や陸と海の生活別に……」
「ストップ! ストップ‼︎」
今度こそ床に倒れ込みそうになりながらアズールは己の右腕を制止した。完全に舐めていた。目の前の人魚の恋愛下手レベルと監督生への執着を。
「どうかしましたか? アズール」
「どうもこうも……それは手紙というより論文の分量でしょう。まさか、それを全部書いて監督生さんに渡したんですか? その重すぎる代物を?」
「そこまで重くはないと思いますが……百枚まではいきませんでしたし」
そういうことじゃない、という突っ込みができる気力はアズールにはなかった。
「ですが、お渡ししようとオンボロ寮に向かう途中、以前のイソギンチャクさん達に絡まれまして」
「……ああ、そのような報告もありましたね」
確か二週間……いや三週間ほど前だったか。普段はどんな難癖をつけられても「困りましたね」と言いながら愉しそうに報告してくるジェイドが、淡々と事実のみを並べ立てた後に急な有休申請をしてきたことがあった。滅多にないことで驚いたが、何か意味のあることなのだろうと言われるがままに受領をしたのだが。
「隠れていたお仲間の方が飛ばしてきた炎で手紙の端が燃えてしまったので、消そうと焦って水を出した結果、全て濡れて読めなくなってしまったんです。泣いてしまうかと思いました」
しくしく、と泣き真似をする身長百九十センチオーバーの男というのは余りにわざとらしくて本当に煽り効果が高いのだと、アズールは身を持って実感することとなった。取り立ての時や雑魚に絡まれた時などに今後も取り入れていこう、と前向きに検討しながら続きを促す。
「結局手紙は渡せなかったんですね」
「はい。今書き直しているところです」
百枚は流石に多すぎましたので、半分以下の分量にしようと頑張ってるんですがなかなかうまく削れなくて……とジェイドは笑う。せめて五枚程度にしておけとアドバイスするべきかアズールは迷ったが、読むのも感想を求められるのも量の多さに引かれるのも自分ではないので黙っていた。
さて、明日の仕込みもキッチンの片付けも洗い物も終わったし、話を切り上げるタイミングとしては上々だろうと判断し口を開こうとしたアズールの目の前で、掃除道具を片付け終わり身綺麗にしたジェイドは業務用冷蔵庫から中身の詰まった保存容器を取り出した。一つ、二つ、三つ……全部で五つ。
「な、何をしてるんです? それは明日の仕込みの分では?」
急な奇行に動揺も露わに問いかけたアズールに対し、当たり前のことのようにジェイドは返事をする。
「何、とは……ついでに作っておいた監督生さんへの差し入れを取り出しているだけですが?」
「待て、最初から説明しろ、いやしなくていい、明日の分とそれは別なんだな?」
「はい。仕入れの時に少し量を増やして注文をして、多めに作った余りの分です。勿論差額は自分で出していますので、経費の流用は一切していませんよ。領収書も別に切ってもらっています」
「……まあ確かに、監督生さんは食べ物を一番喜びそうですね」
「そうですね。あれが美味しかった、あの味が好き等と言われてしまうと、もっと食べさせたくなってしまって」
保存容器に保冷の魔法をかけながらジェイドは笑う。
ことの始まりはモストロ・ラウンジ提供の料理お届けサービスで急なキャンセルが出た時に、たまたまその場にいた監督生に「このままだとこの料理は廃棄になってしまいます……お代は結構ですので、どなたか召し上がって頂ける方はいないでしょうか」と持ちかけた時だ。ぱ、と顔を輝かせた彼女。学友と比較してあまりに細い身体。美味しそうに幸せそうに料理を頬張るその姿。
何故今までこの選択肢に気が付かなかったのだろう、とジェイドは思った。雄が雌に餌を運ぶ。当たり前の好意の示し方なのに、当たり前すぎて忘れていた。陸には食物も娯楽も溢れすぎていて、海の中とは全く違うという固定観念が自分の中に生まれていたことにその時初めて気が付いた。
自分は人魚だ。なら、人魚なりの方法で好意を示していけばいい、と。
「その結果がこれですか」
アズールが指した五つの保存容器には、それぞれ明日のモストロ・ラウンジで提供する主菜副菜やメイン料理の一部が二人分きっちり入れられていた。監督生が特に大食いだからというわけではない。ジェイドが料理を渡し始めた当初は一人分だったのだが、ある時グリムが「二人で分けると足りねーんだゾ! もっと腹一杯食べたいんだゾ!」と言ってきた時に初めて『共に食事をしている存在』に思い至ったのだった。その時は我ながらなんと視野が狭いことかと笑いが抑えられなくなり、グリムに随分怯えられてしまったが。
「最近、あの二人の毛艶が妙に良くなってきていると思ってはいましたが……」
はあ、とため息をつき、眼鏡のブリッジを押し上げながらアズールは言った。
「まあいいでしょう、他の従業員には見られないようにして下さいね」
「ありがとうございます、アズール。心配なさらずとも、これを見せたのは貴方とフロイドだけですよ」
各場所を施錠しホールへと向かう途中、そういえば、とジェイドが話を切り出す。
「アズール、鱗の業者に伝手とかありませんか? 情報があまり多くないので迷っていまして」
「ああ……渡している給金では足りなくなりましたか? あまり入れ込みすぎるのもどうかと思いますよ」
人魚の鱗は人間の髪や犬猫の換毛と同じように一定期間で痛みもなく剥がれるものなので、綺麗な種の鱗は割といい値段で陸の業者に引き取られることもある。アクセサリーや服の装飾、小物の色付けなど用途は多岐に渡るため、小遣い稼ぎをしている人魚も少なくはないと聞く。その類のものかと類推し、脳内で質の良い業者をセレクトし始めたアズールに、夕飯のメニューを相談するかのような気楽さでジェイドは続けた。
「いえ、ちょっと監督生さんにお渡ししたくて。どうも言葉だけでは信じていただけなかったようですので、証を立てようかと」
何気ない世間話風に持ちかけられた話題は、今度こそ明確に制止せざるを得ないものだった。それを理解したアズールは、片手で眉間の皺を押さえほぐしながらもう片方の手で手近なボックス席を数度指し、少し不満そうな顔をしながらも素直に着座したジェイドの対面に自身も腰を下ろす。
人魚の鱗自体にはあまり希少価値はない。価値が付くのはあくまで希少種の鱗や、美しい色や形に対してであって、あとはせいぜい小遣い稼ぎ程度の金額にしかならない。けれど、人魚が愛する者に贈る『証』としての鱗は話が別だ。
他の鱗は剥がれてもまた再生するが、証は再生しない。そのため、海の中には証を剥がす専門業者や剥がした部分を覆うカバーの専門業者がいるほどだ。それを渡すことは即ち、永遠の愛の誓いを意味する。生涯、死ぬまで、あなただけだというこれ以上ない誓い。けれどそれは。
「……普通、人魚が証を渡すのは婚姻時、または将来婚姻の約束をした時、というのは、幾らお前でも理解しているな?」
「勿論です」
「番に操を立てる、それは結構。僕らはそれを常識として生きてきた。全く問題ありませんよ、相手が番であったならの話ですが」
「ならば全く問題ありませんね、将来の番ですから」
涼しい顔。長い付き合いなので知っている。これは何を言っても聞かない顔だ。もう決めてしまって、何を以ってしてもそれをやり遂げると決めてしまった時の、滅多にない表情だ。
ここで初めて、アズールは監督生に心底同情した。
「…………きちんと相手の同意を得てからにしなさい。彼女は海の慣習どころかこの世界の常識にも疎い。稚魚に初めて理を説くように、ゆっくりと教えてあげた方がいいでしょう。お前は無駄だと思うかもしれませんが、この忠告は聞いておいた方がいい。いずれお前の鱗の意味を知った時、彼女が傷付くのを見たくなければ」
「……慈悲深きアズール。今の言葉、胸に留め置くことにいたします」
再び眉間の皺を揉み解し、はぁーと大きく溜息を吐く。フロイドから昨夜の惨状を聞いてはいたが、予想以上の熱意と執着に疲労感を覚える。普段はポーカーフェイスの権化で感情を如何様にも隠し切り誤認させるジェイドが、こと監督生に関してはまるで恋というものを初めて知った稚魚のように稚拙だった。
盛大な惚気と牽制、アプローチが有効に作用していないことへの苛立ちと焦り、それを上回る相手への愛しさ。こんなにもわかりやすく巨大な感情に何故彼女は気付かないんだ……と考えたところで、自分自身も当人の口から語られるまで「まさかそこまで本気で入れ込んでいるわけではないだろう」と思っていたことに気付く。隠し方が下手になったわけではなく、ただ表し方が下手なだけなのだと。
アズールの思考を察したのか、ジェイドが困ったように笑う。
「しかしよくもまあ、そんなに懲りずに試行錯誤ができますね。監督生の一体どこがそんなに好きなんです?」
顔中に疑問の文字を貼り付けたような表情で発された問いに、少しだけ考えてからジェイドは言った。
「……面白いんです。監督生さん」
「……それは、いい玩具を見つけたという意味で?」
未就学児でももっとましな答えを思いつくぞと言わんばかりの視線に、それもありますけどと前置きをしてから頬に手を添えてジェイドは続ける。
「僕が予定調和を好まないことはご存知だと思いますが。彼女、そもそもイレギュラー尽くしでしょう。学園で唯一の女生徒、唯一の魔力なし、唯一の『監督生』。そして今のところこの世で唯一の異世界人。とても興味がありました。知りたいと思った。きっかけはそれだけで、それ以上ではありませんでした」
情報を集めた。彼女の周囲から、彼女自身から。そして知った。特段何の変哲もない。この学園では珍しいかもしれないが、一度外部に出てしまえば人波に紛れてしまう程度の『普通の魔力なしの人間の女性』。向こうの世界にはここにはない習慣や料理や文化があり、その話を聞くことは純粋に面白かったが、彼女自身は平々凡々。
その結論に辿り着き、そこで自分の興味は途切れた。——筈だった。
「そんな平凡な女性が、この学園に馴染んでいくのが面白い。彼女がすることから目が離せない。彼女が言った言葉がいつまでも耳に残る。自分でもよくわからないのですが、ずっと傍で見ていたいと、その輝きを守りたいと、そう思うんです。美しく飛ぶ蝶を箱庭に閉じ込め保護したいと思う反面、その自由な美しさをこそ愛している。そんな文を見かけたことがありますが、今がまさにそのような心境なんでしょうね」
「……これはまた、随分と……」
「げ、まだ小エビちゃんのこと喋ってんのジェイド」
「おやフロイド、ずっとそこで寝ていたんですか?」
「そうだよ、昨日どっかのウツボのせいで寝不足なのにどっかのタコにこき使われたからー。あー身体いてえ」
気配も物音もしなかったのでとっくに帰ったとばかり思われていたフロイドが、少し離れたソファー席からのそりと起き上がり悪態をつく。
「昨夜は取り乱してしまい、失礼いたしました」
「謝って済むと思うなよ、ぜってー許さねえから」
「おやおや。では、お詫びとして。先日貴方が予約をし損ねたブランドシューズの新作購入権では如何です?」
「まじ⁉︎ 限定のやつ⁉︎」
「まじです。限定のやつです」
「許した。ありがとオニーチャン、小エビちゃん拐ってこよっか?」
「本当に必要な時にはお願いしますね、オニイチャン」
一瞬で機嫌を直した双子による茶番が繰り広げられるのを横目に、時計を確認したアズールは本日何度目かの溜息を吐いた。健康と痩身を保つために良いとされる就寝時間が迫っている。今から部屋に戻ってシャワーを浴びて……無駄にするような時間はない。
コツコツと魔法石を軽く叩いて「終了です。対価をお忘れなく」と呟く。
「あ? タコちゃんなんか言った?」
「もう部屋に戻ると言ったんです。施錠するので、ホールの確認だけ手早く終わらせてください」
「かしこまりました」
「いいよぉー。あー腹減ったぁ、ジェイドぉそこのやつ食べていい?」
「駄目です。これは明日の朝に監督生さんに届ける分なので、戻ったらキッチンで何か作りますよ」
「キノコ以外で」
「却下です。今日はマイタケにしましょう」
「うえー。つーかジェイド、なんかすっきりしてんね?」
「そうですね、我らが寮長に話を聞いていただきましたので。柄にもなく、自分が焦っていたことに気が付きました。ゆっくり時間をかけてこの気持ちを伝えていくことにします。これからもずっと共に過ごすのですから」
「うわぁ重ぉい」
賑やかに確認作業を終え戻ってきた二人に、アズールは「マイタケ僕にも分けてください」と言い、本日の営業を全て終えたモストロ・ラウンジを施錠した。
「しかし、あなたから依頼を受けた時は驚きましたよ。『気になる相手の言動の真意を知りたい』だなんて」
ラウンジ開店前のVIPルームにて、制服姿のままのアズールが片手を差し出す。
あの日、ジェイドが渾身の告白をして玉砕した当日。二年C組に単身乗り込んできて「アズール先輩に相談があります!」と叫んだ少女は、対価となるポイントカード三枚を差し出しながら困ったような笑顔を浮かべた。
「小さい頃、仲が良かった男の子がいたんです。ずっと同じクラスで仲良しで。中学校……ミドルスクールに通っていた時に告白をされて、嬉しくてオーケーしたんです。そしたらそれが罰ゲームで、隠れてた他の子達にすごく揶揄われて、その子ともぎくしゃくしちゃって……」
それ以来、誰かが自分に向けた好意を疑うようになってしまった。これは友情だ、これは罰ゲームだ、これは自分の勘違いだ、鵜呑みにするな……と。
監督生の説明を受け、あの夜と同じような溜息を吐きアズールは言った。
「慈悲の心で忠告しますが、それ、ジェイドには絶対に言わない方がいいですよ。人魚は一途で嫉妬深い生き物ですが、あれはその中でも特にその性質が強い。死ぬまで黙っておけないなら、金輪際自由を謳歌することは叶わないと覚悟することです」
「ひぇ……」
ぞわぞわと背筋を這う悪寒に身震いをする。いくら好きな相手とはいえ、軟監禁生活は勘弁してほしい。この話は墓の中まで持っていこうと監督生は決意した。
「で? 相手の真意とやらは理解できたんですか?」
はい、と返事をした少女の表情は、先程とは打って変わって明るい。
「アズール先輩が、ジェイド先輩のお話を聞かせてくれたおかげで、本当に私のことを、その、好きでいてくれているんだって知ることができました。本当にありがとうございました!」
アズールはコツコツと魔法石を軽く叩く。モストロ・ラウンジの営業後、ジェイドに話しかける前に魔法を使い、オンボロ寮の自室にいた監督生の耳に直接音を届けていたのだが、無事に作用していたらしい。スマホの通話でもよかったが、途中で切れてしまっても面倒だし、聞かれたくない話の時は自由に遮断できるからと魔法を選んだ。現に鱗の話題の時は、一定の動作で一時的に魔法を切っている。本来はそんなにあっさりと行使できるものではないということを、この世界の常識や魔法に疎い監督生だけが知らないし、アズールもわざわざひけらかす気はなかったが。
想定外だったのはジェイド自らあそこまで洗いざらい心情を吐露してくれたことだが、そこは魔法ではなく誘導尋問でどうにか白状させるつもりだったアズールにとってありがたい誤算だった。ああ見えて失恋のダメージはかなり大きかったようだ。
あの、と両手の指をすり合わせて、決意を湛えた目で監督生は宣言する。
「実はこの後、お仕事が終わったジェイド先輩と会う約束をしているんです。この間逃げてしまったことを謝って、今度は自分から、きちんと自分の気持ちを伝えようと思っています」
「そうですか。まあ僕に迷惑のかからない範囲でなら、好きなだけいちゃついてくださって結構ですよ。なんならジェイドのシフトをあなたの予定に合わせてあげても構いません。こう見えて、僕は身内には優しい男ですからね」
実際は失恋どころかこの状態なわけだが。
今日のジェイドのシフトは早番だ。それまではいいとして、監督生が想いに応えてくれたとなれば三日は使い物にならないだろうなと試算しながらアズールは美しく笑う。一番の被害者は同室の片割れだろうから、そちらのフォローを手厚くしなければ。キレたフロイドに暴れられてはそれこそ大損害が出かねない。
「何にせよ、これで一件落着ですね。今後は」
鈍感バカップルのいざこざに僕を決して巻き込むなよ、という本音を上手く押し隠し、アズールは受け取ったポイントカード三枚を手に、長年培った完璧な営業スマイルで「末長くお幸せに」と告げ、友人の番からの依頼を締め括った。