いつの間にやら気に入られている 画面の中のキャラクターが消滅し、中央にでかでかとゲームオーバーの文字が表示された瞬間、やっぱり自分には向いていないのだなあと男は本日何度目かのため息をついた。
割と何事にもあまり関心がなく、平穏無事にのんべんだらりと生きていくことを願っている、そんな自称平凡な男の唯一の趣味は苔アクアリウムである。それを知った会社の別部署にいる陽キャと言えば聞こえはいいが実際は割と距離なしの同期が、今俺がハマってるゲーム超おもしれーからやってみ! と半ば無理やりインストールの後各種登録を済ませてしまい、やる気はほとんどなかったがまあ付き合いもあるしと思いながら引いた最初の無料ガチャで「まじ!? おまえすげーな、レアだし超つえーんだぜこのキャラ! 引き良すぎんだろ!」と散々持ち上げられた結果、慣れない操作に四苦八苦しながら苦手なリアルタイム選択系ゲームを必死になってやった挙句にろくに進められず今に至っている。
そもそも男は反射神経も鈍ければ決断力もあまりないため、どちらかといえばのんびり野菜や動物を育てたり、考える余裕のある完全ターン制ゲームの方が向いていた。しかし今までほとんどそういったものに触れてこなかったために苦手なジャンルに精神力と時間を削られ続け、そしてようやく悟ったのだ。
「……そうだ、苔買おう」
自分にはこのゲームは無理である。
ならば削られたメンタルを回復するべく、唯一の趣味である苔アクアリウムに没頭しよう。でないと明日の仕事に支障が出そうだった。
ゲーム画面を閉じて、のそのそと通販ページを開く。ぱっと表示された大小さまざまな苔玉、飼育グッズ、そこだけキラキラと踊る新入荷! の文字。男がよく使う専門通販サイトだった。はあ落ち着く。酷使した目と神経に緑がやさしい。
ぐう、と腹が鳴った。数時間前に夕飯はきちんと食べたのだが、この後商品を吟味するのだから空腹は満たしておいた方がいい。男はそう判断し、狭い台所に赴き冷蔵庫からジャムの瓶と買い置きのプレーンヨーグルトを取り出し、その二つを混ぜた。まだ三分の一ほど残っているジャムを冷蔵庫に戻し、出来上がったフルーツヨーグルトを大きめのスプーンで口に運ぶ。至福のひとときである。
ジャムはなんとリーチ夫人お手製だった。先日のハロウィンパーティーの折にお土産だと渡されたもので、イチゴとリンゴが煮詰めてある。甘すぎず、しかしそれぞれの果肉の旨味がしっかりと生かされていて、焼きたてのパンに塗るとそれはもう美味であったが、男は貧乏性だったのでこうしてヨーグルトで嵩増しをして少しでも食べ切るのを遅くしようとちまちま節約をしていた。また作って貰えばいいだろ、と距離なしの同期あたりなら言いそうではあるが、ご厚意でいただいたものを更に強請るなど男にはできなかった。奥方の性格上、きっと嫌な顔どころか喜んでいろんな味のジャムをくれそうだなあ、とは思う。思うがそれはそれこれはこれ。元来小心者である。万が一ちょっと引かれでもしたら立ち直れない。
綺麗に食べ切った食器を軽く洗ってワンルームへと舞い戻る。腹が満たされたので機嫌が良いし少し気が大きくなっていた男は、欲しかったあれや目についたそれを手当たり次第──とまではいかないが、本人にしては思い切り良く買い物カートへとぶち込んでいく。
何も考えず欲のままに欲しい物を並べることも、とんでもない数字になっている合計額を見ることも、そこからある程度冷静になって購入品を絞っていくことも、その一連の流れが無意識下での男のストレス解消の手段だった。中でも一番好きな作業がカートの中身を見る時だ。そこには商品の名前、画像、値段や個数表示の他に、人数が表示されている欄がある。購入した者ではなく、今現時点でその商品をカートに入れている者の総人数である。大抵は数十から数百が表示されるが、たまに一桁の時があり、稀に『1』の時がある。それを見ると、今現在この商品の価値を見出しているのは世界で自分一人だけなのだと思って謎の優越感が湧いてくる。そんな時は会計を済ませてからお気に入りの少しお高めの酒を開けることにしている。男はあまりアルコールに強くなかったので、気分の良い時にいい酒を飲みたかった。なお自棄酒の時に選ぶのは味など二の次で安くて手頃なものである。すぐ酔うので。
無意識に鼻歌など歌いながら買い物カートをスクロールする。57、124、えっ2671? ああこれ日替わりセール品だもんなあ。そりゃみんな入れるか。
指が止まる。大型の苔アクアリウム完成品。丸みを帯びたガラスの器に美しく配置された大小様々な苔と流木、自動で濾過される流水装置、その調和を崩さぬようそっと並べられたキノコのオブジェ。なかなかお値段が張るが、吟味は後ですればいいしとりあえずカートに入れとけとポチったものだ。同じモチーフの作品は他にもあるが、何故かこれが目に留まった。価格の割に地味といえば地味、オブジェを並べるなら癒される小動物だったり幻想的な妖精の方が人気は高い。それは男にもわかっている。
わかっているが。
表示されている人数は『2』。
男はにんまりと笑った。買おう、と思った。1じゃなかったことが嬉しかった。自分が好きだと思ったものを、この世界でもう一人、同じタイミングで好きになってくれていることが嬉しかった。顔も名前も知らない誰かに親近感を覚えた。勝手に今後の幸せと健康を祈った。画面の向こうの誰かにとっても、自分がその他大勢でなければいいな、と思った。
いくつかはカートから削除ボタンを押し、それでもなかなかの合計金額となったが、男は上機嫌で購入操作を終えた。台所から缶を持ってきてカシュッと開ける。一口飲み、ふはぁと満足げな息を吐いてから、注文履歴のページから今回買ったものを再度確認し、届くその日に思いを馳せる。これで明日からの仕事も頑張れる。上司の無茶振りも危険な作業も……いやなるべく命の危険がないに越したことはないが。
「あ」
購入した大型の苔リウムが現在在庫なし表示になっている。
商品ページをよくよく読み込んだら一点ものだった。しまった。顔も知らない同志はがっかりしなかっただろうか。
少しだけ苦味が増してしまった酒をもう一口飲んで、この苔リウムを大事にしようと心に決める。いつかどこかで会ってもし仲良くなれたら現物を見せてあげたい。まあそんなこと、奇跡でも起こらないとないだろうけど。
ぐいぐいと飲んでうっかりそのまま寝落ちした男は、次の日寝坊からの遅刻をし楽しそうな上司に新薬の実験台にされ、髪の毛が六時間わさわさと伸び続けるという罰を受けてしばらくロングヘアの人とすれ違うことに怯える日々を過ごすことになる。
「……という理由があったんですよあの時」
「へー。先に言えばよかったのに」
「言う暇なかったですよ。『おはよーオキアミくん、走ってきて疲れただろうしこれ飲んで〜』って飲まされたのが新薬だったじゃないですか」
「今のオレの真似ぇ? へたくそ〜」
男二人の間伸びした会話が研究室に響いては消えていく。
本日の仕事は現在研究中の薬の経過観察だ。およそ九時間の間、一時間おきに三分間鍋をかき混ぜてまた一時間おく。他に急ぎの仕事は特になし。人手は必要ないので他の職員は有休消化で全員休み。言ってしまえば、男と男の上司はとても暇だった。故に上司は男に「ねー飽きたぁ、なんかおもしれー話ないの?」と無茶振りをかまし、悩みながらも男が捻り出したのがわずか数日前に起こった出来事の裏話だった。
ちなみに遅刻したこと自体に関しては、割と早い段階で上司に「それただネットで買い物して酒飲んで夜更かしして寝坊したってだけじゃん?」と指摘されている。全くもってその通りであった。
一時間経ったのでゆっくりと鍋の中身をかき混ぜる。腐った葉のような色をしてどろりと粘性を帯びた液体は、あと三回同じ作業を繰り返せばさらりとした琥珀色の薬へと変化するはずなのだ。成功していればの話だが。こぽりと小さな泡が膨らんで弾ける。最初の三時間までは毒性があり、飛沫に触れようものなら皮膚が溶けるという劇薬だったため完全防備で挑んでいたが、毒性が消えた今となってはただ重いだけの液体だ。かき混ぜるのにも割と力がいるので男は両手で行っているが、一時間前の上司は鼻歌混じりに片手で楽々と混ぜていた。種族差なのか。そう思いたい。
やっと三分が終わったため再び暇な時間が訪れる。いい感じじゃーん、と上司が言った。ぜはぁ、と息を吐き、流れ出した汗を拭って男は腰を下ろす。用意しておいた冷たい水をきゅうと飲み干せば、喉から臓腑へと滲み渡るのがわかる。いのちのみずだなあ、などとどうでもいいことを思った。
薬の経過観察は複数人で行われる。何か問題が起こった時に対処しやすいように、不正がないように、トイレや食事などで誰かが場を離れても他の誰かがついていられるように。複雑な手順の薬の場合は何人もが同席することもあるが、基本的に人数は二人だ。暇な時間を嫌ってか毎回志願者は少ないが、男はこの時間が嫌いではなかったので参加率が高かった。おそらく部署内で一・二を争うだろう。そして目の前で欠伸をしている上司は部署内で突出したワースト記録を誇っている。それはそうだ、この暇さえあれば妻に会いに帰りたがる気紛れ型の天才肌が、ただ時間が過ぎるのを待つだけの空間にいる事に耐えられるわけがない。今日はまた何の気紛れを起こしたのかこの場にいるが。
「ねぇオキアミくん、さっきの話だけどさぁ」
おわぁ話しかけられた。さっきの話ってどれだ? 延々伸び続ける髪の毛の話か?
「その、苔? の写真とかないの」
それか、と男は思った。
「興味あるんですか?」
「オレっていうより、ジェイドがそーゆーの好きなんだよね。だから今度話してやろっかなって思って」
もしかしてゴヨータシかもしんないけどー、と前髪をくるくると指で巻きながら上司は眠そうに言う。ジェイド? と一瞬ハテナを浮かべて男は思い出す。上司の双子の兄弟。山登りが好きとは聞いていたが、苔にも興味があるなんて。もしかして植物全般が好きなのか? 意外と気が合うかもしれない。なんちゃって。
シャシャッと愛機を操作して、先日頼んで早くも昨日届いた大型苔アクアリウムの写真を見せる。どれも角度、光源、設置場所にこだわった自信作だ。これで上司も苔のよさに目覚めてくれたらいいのに。無理だろうけど。
ちらりと一瞥した瞬間、上司は目をぱちくりとさせた。お? と男は期待する。目覚めた? 目覚めちゃった⁇
「……オキアミくんさぁ、これ販売してたページ見せてぇ」
「えっ、あっはい」
えっほんとに? と男は思ったが、素直にソールドアウト表示の販売ページを出す。それをじっと見た上司は、何か言おうと口を開いて、
「うわっびっくりした!」
リリリリリ、という馬鹿でかいアラーム音に阻まれた。びくぅと盛大に肩を揺らした男とは対照的に涼しい顔──というより、とても嫌そうな顔をした上司は音の発生源である会社用スマホを手に取る。
「何?」
ところで男は並の人間よりも耳がよかった。先先先祖あたりに耳がいい種族との混血がいたとかいなかったとかで、集中するとかなり小さな音や遠くの音も聞き取れる。日常生活には不便なことの方が多かったので普段は意図的に聞かないようにしているが、この場に二人しかいないこともありつい聞き耳を立ててしまう。
スマホの向こうでは焦った調子で「至急お戻りを」や「会長がお呼びです」と繰り返す嗄れた男の声、あとは微かに聞こえるガチャンパリンと何かが落ちたり割れたりするような音。
苦虫を噛み潰したような顔をして、上司は「まずは状況説明してくんない?」と返した。
再びマジホの向こう。ジェイド様ご指名のお客様です。
ぱちりと瞬きをした上司は──上司と同じ顔をした誰かは、今行くぅ、とやる気のなさそうな声を残して通話を切った。色の違う瞳がふたつ、男を捉える。こういう時いつもであれば背筋がぞわっとしたりひやっとしたり、胃の底の方がぎゅっとしたりするのだが、男は今奇妙な落ち着きを覚えていた。
「オキアミくんさぁ、悪いんだけどオレ呼ばれちった。一人でもいけそう? 今のうちトイレ行っとく?」
「や、大丈夫っす」
あそ、と呟いて立ち上がる姿は、どこからどう見てもリーチ部長だ。ハロウィンパーティーでのことを思い出す。『普段からたまに入れ替わってる』と彼は言った。上司の嫌いな長時間拘束。にも関わらず穏やかなリーチ部長。既に半分ほど知っているはずの話に聞き入っていたのも、苔に興味を示したのも。
「ほんとにそっくりなんですね」
やべ、と思ったが遅かった。美しい色彩の中央に収まる瞳孔がきゅうと小さくなるのが見えてしまった。けれどやはり、いつものぞわぞわを感じない。ふぅ、と穏やかに息を吐いて(いつもの部長なら「はぁー」と大きく長く息を吐くんだよなあと思った自分に内心笑ってしまった。どんだけ見てるんだ)、リーチ部長はひらりと手を振って言った。
「出品したものの、いっそ自分で買い戻してしまうか悩んでいたんです。あの時のもう一人がまさか『オキアミさん』だったとは」
「えっ」
「お気に召していただいたようで嬉しいです。大事にしてあげてくださいね」
「えっっ」
「あなたの話も聞きたいですし、今度は是非僕の話も聞いてください。山にご興味はおありですか?」
「えっえっ」
え、しか発せなくなった男ににこりと微笑み、ではまた、と優雅に一礼をして、部長と瓜二つの外見をした双子の兄弟は上機嫌で部屋を出て行った。部長が凪いだ海ならあのひとは何事にも動じない大木のようだなあと男は思った。海の生き物を陸のものに例えるのは失礼かもしれないが、あのひとならむしろ喜んでくれそうな気がした。
ぼーっとしながらスマホを弄る。ソールドアウト表示のページ。製作者はJ・L。なるほどなあ。今度あの流水装置の作り方を教えてもらおう。
ピピ、とタイマーが鳴る。
もうすぐ次の作業の時間だ。慌てて準備をする。今までの七時間を無駄にするわけにはいかない。三分きっちり混ぜ終わり、ぜはぜはしながら水を飲もうとして中身が空なことに気付いた男はくるりと回って床に倒れる。その姿は彼が苦心しつつもクリアできなかったあのゲームのキャラクターにそっくりだったのだが、残念ながらそれを見る者は誰もいなかった。