僕らの七日間戦争 痴話喧嘩編 発端は何? と訊かれれば、誰もが首を捻るような、そんな些細な出来事だったと思う。
それが学園中を巻き込んだ大騒動に発展するなんて、当事者達でさえ思っていなかったのだ。
「先輩の分からず屋‼︎」
少女の怒号がその場に居合わせた全員の鼓膜を震わせる。こんなに大きな声を出すことなど、ましてや怒りの感情を露わにすることなど滅多にない少女の怒髪天を衝く様に、対峙している長身の男は一切動じる様子を見せず淡々と返す。
「分からず屋は小エビちゃんじゃん。オレぜってー折れねえから」
「こちらだって折れる気なんてありませんから!」
静と動。すっかり外野となったNRC生達は、普段は真逆の役割なのだと知っていた。少女は男子校であるNRCで唯一の例外である女生徒で、男は少女の一学年上の気分屋のウツボの人魚。どちらも個々で目立っていたし、ましてや二人は付き合っていると専らの噂だったので、揃えば更に目立っていた。普段は小エビちゃん小エビちゃんと少女に賑やかに纏わり付くウツボと、はい小エビですよとそれを静かに受け流しながらもどこか嬉しそうにはにかむ少女という組み合わせなのだ。つまり、二人ともが今現在それほど怒っているということで。
「一体何があったんだ……?」
「わかんね、監督生が急に大声出した」
「あいつらさっきまでにこにこ喋ってなかったか……?」
騒めく周囲など目に入らないと言わんばかりに、監督生と呼ばれた少女はキッと男を睨んで宣言する。
「先輩が謝ってくるまで、口ききませんからね」
「どーぞ。音ぇ上げんのは小エビちゃんの方だと思うけど」
見上げる者と見下ろす者、視線を外したのは同時だった。真逆に歩き去る二人。周囲の生徒達の思いは一つだった。
——痴話喧嘩は他所でやれ。
彼らの喧嘩は実は初めてではない。ここまで大きくはなかったが、何度か衝突はしている。どうせまた放課後までには仲直りするだろう、いつまでだと思う? 俺次の休み時間、などと好き勝手に口々に、外野はこの口喧嘩を消費し、忘れ、そして。
いっそ関わらなければよかったと、後悔することになる。
フロイドの機嫌は最悪だった。最愛の番と理由すら思い出せないようなことで喧嘩をしたばかりか、彼女は謝ってくるどころか本日の授業が全て終わっても姿すら見せやしない。そっちがその気なら徹底抗戦だ。番相手だから判定がガバガバなだけで、本来フロイドは気分屋ですぐ手も足も口も出て相手の事情などお構いなしに己のやりたいようにやる生き物である。それを思い知らせてやる、主に番以外の「最近あいつ腑抜けてね? 彼女持ちの余裕かよ」的な陰口を叩いている奴らに。
「フロイド、暇なら七番テーブルのオーダー取ってきてください」
しかし今は仕事中のため、雇用主の指示を聞き割と勤勉に働いていた。昼間の件は把握済みのアズールも「オレ今頭に血ぃ昇ってるから上手く判断できねーかも。用事あったら指示出して」と申告してきた懐刀をそれなりに心配しつつも、指示を出せばその通りに動く彼に「こちらとしてはありがたいですね」と右腕に軽口を叩くなどしていた。
絡んでくる相手には普段の五割増の迫力で『オハナシ』をしながら、この日のモストロ・ラウンジ勤務は概ね平和に終わった。監督生は遂に姿を現さなかった。
監督生の怒りは鎮まっていた。正確に言うと、あの時の瞬間湯沸かし器のような激しい怒りは鎮まっていたが、代わりに沸々と湧き上がるような静かな怒りが継続していた。
監督生はフロイドが好きだ。多分相手が考えているよりずっと。そうでなければ、いずれは元の世界に帰るのだからという思いより、少しでも長く彼と一緒にいたいという想いの方が勝るわけがない。それなのに、あんな、あんな冷たい態度。どうでもいいと言わんばかりの、関係ないと言わんばかりの。
「オマエ、それは怒ってるんじゃなくて」
悲しいんじゃないのか、というグリムの声は、口々に監督生への慰めとやれ甲斐性なしだのやれ器が小さいだのとフロイドを罵る過保ゴースト達の声にかき消された。オンボロ寮の夜は賑やかに更けていく。フロイドは遂に姿を現さなかった。
フロイドは苛立っていた。普段なら必ず会う登校前、昼休みの食堂、そして授業終わり。何故必ず会うかといえば、自分が彼女を待っていたからだ。それをしなくなっただけで全く姿が見えないという事はつまり、彼女がこちらと会うための努力をしていないか、努めてこちらを避けているかのどちらかでしかない。
苛立ちのままにボールを弾ませ、勢いよくダンクシュートを決める。その過程で相手チームのディフェンダーを吹っ飛ばしたような気もするがすぐに忘れた。
「随分と荒れてるな、フロイド」
「……だから何? ウミヘビくん相手してくれんの?」
「お望みとあれば。俺も最近運動不足でね」
その涼しい顔がやけに癪に触る。ギチ、と奥歯を鳴らしてボールを片手に掴むと無造作にジャミルの方へと腕を振り抜く。手加減せずに投げられたボールは、吸い寄せられるようにキャッチされた後に背後のゴールへと吸い込まれていった。パサリ、ネットを揺らす音。
「……は?」
お手本のようなフォームのスリーポイントシュートだった。普段のフロイドであれば目を輝かせて称賛したかもしれない。しかし生憎、今の彼の機嫌グラフは北の海の水温より低かった。
「ぜっってぇ絞める……!」
「やれるものならやってみろ」
誰も手を出さない、手が出せない一対一は、部活時間の終了まで続いた。監督生は最後まで姿を現さなかった。
監督生はマジフト場の隅にいた。バルガスから頼まれた——というのは建前で、実際は魔力がなく飛べない監督生が、飛行術の授業を免除してもらう代わりの単純な肉体労働だ——器具の整備も終わり、そろそろオンボロ寮へ戻ろうかと立ち上がって伸びをする。関節や腰がバキボキと音を立てた。
「わ、すごい音」
「同じ姿勢でいたからねぇ。マジフト部は練習おしまい?」
近付いてきた同学年の友人、エペルに笑いかけると、はにかんだような笑顔が返ってきた。土や砂でボロボロでも、彼の愛らしさが損なわれることはない。
「うん。でも、この後レオナサンが特別コーチをしてくれることになったんだ!」
「えっ、あのレオナ先輩が?」
「何か言いたいことがありそうだな、草食動物」
急に予想もしていなかった方向から声をかけられて、監督生は飛び上がりそうになる程驚く。見ると、服も顔も殆ど汚れていないレオナ・キングスカラー、サバナクロー寮長にしてマジフト部部長その人が、浮かぶほうきの上に悠然と立っていた。
「い、いつの間に……」
「お前らがだらだらお喋りしてる間に、だ。おいエペル」
「はっ、はいっ!」
「俺を待たせるなんざいい度胸だ。新しいディスクはもう取ってきたんだろうな?」
「ま、まだ、です」
「移動する時は走れ。ただでさえ基礎体力が足りてねえんだ、それくらいやって少しは鍛えろ」
「押忍!」
それだけを言ってマジフト場に戻っていく後ろ姿に、エペルが大きな声で返事をする。先程磨き上げたディスクを手渡して監督生は笑った。
「行ってらっしゃい!」
「ありがとう、そいだば行ってくる!」
弾けるような笑顔でエペルが去っていく。それを見送ってから、さて今度こそ寮へ帰ろうかと身体の向きを変えた瞬間、沈みかけた陽の光が瞳を突き刺す。眩しさによろめいて反射的に閉じた目の端に、大きめのポケットからするりと落ちていく自身のスマホが見えた。それは呆気なく地面に到達し、ガシャッと鈍い音を立てる。
「あ!」
慌てて拾うも画面は割れ、その色は黒のまま。支給されたものを壊してしまった。さっと血の気が引くのを感じる。寝不足で注意力散漫なのがいけなかった。
直す? 買い替え? こういう時はどこに頼ればいい? 調べるための機械は沈黙している。
早く帰ってグリムと自分の夕飯を作って、今日の授業の復習と明日の予習もしなくてはならない。もう時間がないし、明日誰かに訊いてみようと、深く溜息を吐いてからスマホをしっかりとポケットに入れ直し、監督生は歩き出した。
フロイドは今日も姿を現さなかった。
「親父殿を見かけなかったか」
「誰それ」
フロイドは首を傾げる。話しかけてきたシルバーは同学年で、互いによく中庭の木の下で寝ていたりする。まさにその中庭にて出会い頭に問われた内容に心当たりは全くない。
「すまない、ディアソムニア寮三年のリリア先輩のことだ。どこかで姿を見かけたら、俺が探していたことを伝えてほしい」
「いいよぉ、気が向いたらねぇ」
気の抜けた返事を返し、適当な木の下に寝転がって瞳を閉じる。
フロイドの気持ちは凪いでいた。昨日身体を動かしてある程度発散できたからかもしれない。最愛の番と丸二日会えないでいる彼の心中は、凪いでいるというより虚無であると言った方が正しかったが、当の本人がそれを自覚してはいなかった。
ふわふわ、そよそよ。風が髪を揺らす。彼女が控えめに髪を撫でて「サラサラですね」と笑った姿が目蓋の裏に蘇る。
(……なんで、こんなんなってんだっけ)
今頃は小エビちゃんと一緒にご飯を食べて、他愛もない話をして、笑い合ってたはずなのに。
深い溜息に重なって、ガサリと枝葉が揺れる音がした。腑抜けすぎた自分を内心で叱咤しながら瞬時にマジカルペンを掴んで迎撃姿勢を取る。頭上から顔を出した人物は、大きな瞳をぱちぱちさせながら満面の笑みで両手を広げた。
「おや、先客がおったのか。悪かったな」
起こしてしまったか? いや別に、と会話を続けながら、フロイドは注意深く相手を探った。マジカルペンの魔法石の色は緑、この姿はどこかで見たことがある。昨夜はあまり眠っていないせいで頭の回転が鈍っている。思い至るのは式典の日、寮長代理として壇上に立っていた。
「……さっき、クラゲちゃんが探してたよ」
多分、これがシルバーの探していたリリア先輩とやらだろう。小柄な闖入者はけらけらと笑い、枝に引っ掛けた足を支点に一回転して危なげなく着地した。
「それはすまぬな、礼を言うぞ」
「どーも」
「そういえばおぬし、オンボロ寮の監督生と派手に喧嘩をしておったな」
「あ゛?」
フロイドの気持ちは凪いでいたが、今その話題を出されて無視できるほど落ち着いてはいなかった。無意識に声が低くなる。全く動じた様子もなく、リリアは自身の顎に手を当てしみじみと頷いた。
「よいよい。喧嘩をしてこそ仲が深まるというもの。切りがいいところで仲直りをしておくんじゃぞ。縁が切れてからでは遅いからのう」
「……その仲直りの手段を考えてんの」
ぶすっとした顔でフロイドが言う。負けでもなんでもいい、自分が折れればこの状況が終わるなら、もうそれでよかった。なんと言って謝ろうか。そもそもどこに行けば会えるのか?
「なんじゃ、会って謝ればよかろうに」
その表情から何かを察したのか、リリアはこう付け足す。
「面と向かうのが無理なら、スマホで電話なりメールなりすればいいと思うが」
「それだ!」
「おわっ、急に元気になったなおぬし」
何故忘れていたのか、勿論彼女の連絡先は登録してある。なんなら発着信履歴の八割は彼女だ。
フロイドは迷わずリダイヤルをしてスマホを耳に当てた。
『おかけになった番号は、現在いずれかの理由で不通となっており——』
「は⁉︎ 三日前までかかってただろ‼︎」
すぐに流れ出した合成音声に大声を上げてから、一つの可能性に思い至る。考えたくはないが、もしや彼女の身に何かあったのではないか。自分が傍にいない時にまたトラブルに巻き込まれているのでは——?
「かからんのか? ……監督生なら、さっき購買のあたりにおったぞ」
「行ってくる!」
迷いなく走り出した姿を見てリリアは笑う。
「青春じゃのう。……さて、わしもシルバーを探すとするか」
その後購買から目撃情報を辿り数ヶ所を周るも尽く空振りに終わり、けれど各証言から何かに巻き込まれている可能性は限りなく低くて安心した、という内容を寝る前の同室の片割れに話したところ「それ着信拒否されてるんじゃないですか?」という予想外のボディーブローを喰らい、フロイドは一晩中布団の上で蹲って震えていた。
そんなことはお構いなしにジェイドはぐっすりと眠ったし、監督生は今日も姿を現さなかった。
「若様を見なかったか⁉︎」
大声に驚きながらも、監督生は首を横に振る。セベクの言う若様ことマレウス・ドラコニアが行方不明だという。ただ、セベクがマレウスを探しているのは割と日常の光景なので、それ自体には特に驚きはなかった。
がっくりと肩を落とした級友は、ふと顔を上げて監督生の目をじっと見つめて言う。
「お前達人間の寿命は僕達と違って短いんだ、無駄なことをしていると大事なものを取り零すぞ」
その言葉は心臓に鋭く刺さる。それに気付いたのか、少しだけ表情を軟化させたセベクは励ますように監督生の肩を弱めに叩いた。
「では、僕は若様を探す。見かけたらすぐに教えるように!」
「わかった。ありがとうセベク、頑張ってね」
廊下は走らないという校則を守り、限界ぎりぎりの早歩きでセベクが去っていく。手を振って見送っていると、背後から声がした。
「やれやれ、騒がしいな」
「ツノ太郎。いつからそこにいたの?」
「さて、いつからだろうな」
神出鬼没の友人であるツノ太郎がそこにいた。大きな体躯を屈めて、耳元で愉しげに笑う。
「あれも言うようになった。だが、無駄に見えるものでも重要なことがあるものだ。まだ未熟だな」
「セベクのこと知ってるの? あ、同じ寮だから知ってるか」
ディアソムニア寮のことはよく知らないが、セベクは声が大きいし寮長の護衛ということで何かと目立つ。目に留まってもおかしくはない。
「セベク、若様……寮長さんを探してるんだって。ツノ太郎も見かけたら教えてあげてね」
「……ああ。お前が言うのならそうしよう」
ところで、と、長い指が顎を掬い上げた。深い若草色の瞳と視線がかち合う。
「何か相談事があるのなら、僕が聞いてやろうか」
「……うう、じゃあ聞いてくれる……?」
「なんなりと」
「実はスマホを壊しちゃったんだけど、どうやって直したらいいかわからなくて……新しい機種が入ってくるのも時間がかかるって言われて……」
「そうだな、機械ならイデア・シュラウドに頼るといい。僕も以前壊れたものを直してもらったことがある」
「イデア先輩……イデア先輩かぁ、ありがとうツノ太郎、すごく助かった!」
「相談はそれだけか?」
「うん。あとは、自分でなんとかしてみるよ」
「そうか。何かあったら僕を呼べ。いつでもお前の味方をしてやろう」
「ふふ、心強いなぁ」
頤を柔く擽られ、小さく笑い声を上げながら身を捩ると、優しい友人の指は離れていった。
「本当にありがとう。私は友達に恵まれて幸せだね」
「さあな。話とやらの結果次第では、僕が相手を消し炭にするかもしれないぞ」
「その時は、私が身体を張って止めるから大丈夫」
鼻を鳴らし、満更でもなさそうな顔で長駆は消えた。手を振って見送り、すっかり忘れかけていたがいつの間にかいなくなったグリムを探さないと、と監督生は歩き出す。
フロイドは今日も姿を現さなかった。
フロイドは少し焦っていた。こうなったら直接会って謝ろうと思って待ち伏せのようなことをしているのに、全く小エビちゃんに会えない。誰かが邪魔をしているんじゃないかと思うほどに。徹底的に避けられているんじゃないかと思うほどに。
今日はラウンジのシフトが入っていないのでオンボロ寮へ行ってみたが、あの子はいないしいても会わせんよ! と凄い剣幕で塩を撒こうとするゴースト達に追い返され、仕方なく第二候補であったここに来てみたのだが。
「監督生なら今日は来ていないよ」
ハーツラビュル寮の談話室にて、寮長であるリドルに素気無く告げられたのは、ここにも番はいないという事実のみだった。
無言で踵を返すと、リドルの向かいに座って座学の教科書やノートを広げていたジャックに呼び止められる。
「あの、フロイド先輩。あいつ今日、先輩を探しに」
「ありがとねぇウニちゃん。でも、その先はいいや」
これはエゴだとわかってはいる。けれど、自分の力だけで彼女を探し出したい。その気持ちが伝わったのか、耳をぺたんと伏せてジャックは黙った。リドルは少しだけ態度を軟化させ、フンと小さく鼻を鳴らす。あまりに腑抜けているようなら首を跳ねようかと思っていたと言わんばかりの態度だった。彼は、ハーツラビュル寮生であるエースデュースと親しくしている監督生とグリムに、自寮生と同じくらい、いやそれ以上に目をかけてきた。それを傷付けられて怒ってはいるが、痴話喧嘩に首を突っ込むほど野暮でもない。それは彼女の友人であるジャックも同じだった。
「さあ、続きを。この国が輸出する作物が——」
「そうするとこの鉱石を独占するために——」
再開された勉強会を後にし、他にもいくつかの候補を探し回るが姿は見えない。そうこうしているうちにすっかり日が落ちた。もう彼女は寮に戻ってしまっているだろう。あのゴースト達の剣幕では、少なくとも今日は本当に寮内に入れる気はなさそうだった。
監督生には今日も会えなかった。
監督生は腹を括っていた。スマホより先にまず恋人との関係修復をするべく、束縛されることが嫌いなフロイドに例え無視されても罵倒されても、とにかくひたすら謝り続けようと心に誓ってモストロ・ラウンジのドアを開けたのが五分前。
しかし、案内された席についた監督生を待っていたのは、緊急でシフトに入ったというラギーの「今日はフロイドくん休みっすよー」というのんびりした声だった。
「なーに、やっと謝る気になったんスかぁ?」
「そ、そうなんですけど、どうしてそれを」
「あんだけでっかい声で怒ってちゃ、オレ達みたいな獣人属には丸聞こえっスよ」
「噂も広まってるしね〜」
「ケイト先輩」
「や、監督生ちゃん。お疲れ〜」
背後の席から顔を出し、ケイトはスマホを片手にひらひらと手を振る。そのテーブルには目を引く鮮やかなブルーのドリンクと本日の数量限定デザートが乗っていた。彼はこうしてマジカメに載せたらバズりそうなものを探すのが得意だ。
「噂、広まってるって、どういう……」
「フロイドくんと監督生ちゃんが喧嘩して別れたとか、フロイドくんが荒れに荒れてるとか、監督生ちゃんが他に好きな人できたとかかな〜」
全てマジカメ情報だ。噂が一人歩きをし、数股の悪女だとか飽きたフロイドがヤリ捨てただとか、果ては妊娠だ堕胎だと散々な書かれようだとか、どちらが先に謝るかもしくはこのまま別れるかの賭けがされていることだとか、それらを全部知っているが黙っていようとケイトもラギーも思っているし、悪質なものは密かにアズールやジェイドに報告していることだとかを監督生は知らないまま、暗い表情を取り繕うことに失敗しながらラギーに持ち帰り用のサンドイッチを二つ注文した。
ラギーが厨房に下がっている間、沈黙を避けるようにケイトが切り出す。
「あれから、フロイドくんとは会ってないの?」
「はい……偶然なのか避けられてるのか、なかなか会えなくて。ここならって思ったんですけど」
「とりあえずスマホで会う約束だけでもしてみたら?」
「スマホ、落として壊れちゃって」
バキバキに割れた画面を見せる。ちょっと貸して、と手に取ったケイトが色々と試してみるが、やはり画面の反応どころか電源すら入らない。
「うーん、ここまで酷いと買い替えも手じゃないかな」
「それだけの手持ちが今なくて……学園長にお願いするとしても、入荷するのに一週間くらいかかるってサムさんが。だから、イデア先輩に頼んでみたらいいんじゃないかってアドバイスもらってて」
「イデアくんかぁー……確かにお願いできれば心強いだろうけど……」
「はい、サンドイッチ二つテイクアウトで、お待ちどうさまっス」
両手に包みを下げたラギーが戻ってきて、無残なスマホを見て顔を顰めた。それに愛想笑いを返し、監督生はマドルを手に支払い金額を確認する。ホールが混雑してきたためそれ以上の話はできず、自分の夕食と留守をお願いしたグリムへのお土産を片手にオンボロ寮まで戻るしかなかった。
フロイドには今日も会えなかった。
フロイドは憔悴していた。
ウミウマくんことサムのミステリーショップに行き、目当ての人物に必ず会えるアイテムはないかと尋ねたところ「あるけど、今は品切れだね」と素気無く言われ、アズールに何かいい手はないかと訊くと「それくらい自分で考えたらどうですか。あなたの番でしょう」と正論をくらい、今日も小エビちゃんの声どころか姿すら見ることが叶わず、最後の手段を取るかどうかを検討する段階に入っていた。
最後の手段。つまり、授業中や就寝中など、確実に相手がいるであろう時間帯にその場所に乗り込むこと。けれど、避けている相手──自分のことだ。認めたくはないけれどここまで続くと嫌でも認めざるを得ない——に勉強中や睡眠中に会いに来られて、来てくれてありがとう会いたかったわなんて展開になると考える程フロイドの頭はお花畑ではなかった。そもそも小エビちゃんは真面目だから授業の妨害なんて論外だし、オンボロ寮に乗り込むならゴースト達との全面戦争になるのは免れない。
燃料の切れたマジカルホイールの如くよろよろと辿り着いたのはサイエンス部の部室だった。ノックもせずに開け、誰がいるかも確認せずにフロイドは据わった目で言い放つ。
「透明になれる薬、作ってほしいんだけど」
「ん? フロイドか。珍しいな、ここに来るなんて」
フロイドにとっては僥倖なことに、室内にはハーツラビュル副寮長のトレイ・クローバーしかいなかった。
「ウミネコくんは?」
トレイは「ルークなら今、不足した材料を集めに植物園に行ってるよ」と苦笑した。フロイドがここに近付かない最大の理由が天敵の存在なのだが、今の質問からして不在を狙ってきたわけではなさそうだと理解したからだ。
「で、どうして透明薬が必要なんだ?」
「小エビちゃんに会いたいから」
ヤケになっているフロイドは素直に答える。今までの流れを掻い摘んで話し、小エビちゃんに嫌がられずに会うためにはもう透明薬を飲んで授業中の彼女のクラスに忍び込むしかない、と。
真剣な顔で聞いていたトレイが低く唸る。
「……事情はわかった。切実だな」
「で、作れんの。作れないの」
「まあ待て。お前の事情はわかったが、それだと本当にやりたいことはできないままじゃないか?」
「は? オレが小エビちゃんに会いたいのが本当じゃないって?」
鋭い歯がガチリと音を立てるが、気にした風もなくトレイは両腕を組んだ。
「そうは言っていないさ。会いたいのは本当だろうけど、そこで終わっていいのか? 本当にお前がやりたいことは、監督生と仲直りすることだろ?」
ぐ、と言葉に詰まる。言われてみれば確かにそうだ。ひと目会いたいとばかり思ってここに来たが、もし実行したとしてそれが彼女にバレたら。今度こそ関係修復は不可能な気がする。
「……帰」
「おや、ムシュー・愉快犯じゃないか!」
「げっ」
「私の気配に気が付かないとは、弱り切っているようだね。髪の艶も肌の張りも足りないし、何より目の隈がひどい。キミの良さである生命力が損なわれている、これは由々しき事態だ!」
「オレ今ウミネコくんに構ってる暇ねえんだけど!」
急に姿を現したルークを押し退け、ドアの手前で止まり、トレイに向かってフロイドは言う。
「ちゃんと、小エビちゃん探して直接謝ることにする」
「そうか。頑張れよ」
嵐が過ぎ去った部室に残された二人は顔を見合わせ、これぞ青春と笑う。
「ルーク、いつからいたんだ?」
「薔薇の騎士がどうして透明薬が必要か訊いていたあたりかな」
「割と最初からか……。なあルーク、これは独り言なんだが、監督生のスマホが壊れたらしいって今朝エースとデュースが話しているのを聞いたんだ。連絡を取るのに不便だってな」
「ふふ、運命の女神は悪戯が好きだからね」
手に持っていた複数の薬草毒草をテーブルに置き、ルークは楽しげに高らかに歌った。
「それは愛を引き裂く魔物、翻弄されし二人が再び手を取り合う日々は何処……私達は、可愛い後輩達を温かく見守るとしようじゃないか」
「そうだな。まったく、手のかかる後輩達だ」
その日どこを探しても愛しい番が去った跡しか見つけられず、モストロ・ラウンジでも全く使い物にならなかったフロイドは、自室に戻った後にベッドの上でさめざめと泣きながら、スマホに保存された監督生の写真を眺めることと監督生に電話をかけては音声案内に阻まれることを繰り返し、とうとうジェイドにスマホを真っ二つに折られたので号泣しながらデータ保存の互換性のある機種をパソコンから検索し、到着は三日後の文字に悩んだが諦めて注文してから鼻をグズグズ鳴らしつつ眠りについた。
監督生とこんなに長く話ができないのは初めてのことだった。
監督生は逡巡していた。
果たしてこのドアをノックしてもいいものか。自分がしようとしていることは本当に正しいのか? いや、もうこれしか手がない。けれど……。
手をあげてはおろし、おろしてはまたあげて、を繰り返していたところに、横から無邪気な声が掛けられる。
「あ、監督生さんだ! こんにちは! 兄さんに会いにきたの?」
「こんにちは、オルト。そう、なんだけど……」
我ながら歯切れが悪い。部屋の主の弟であるオルト・シュラウドは、キュイィと小さく音を響かせて首を傾げた。
「兄さんなら中にいるよ。僕が開けてあげようか?」
「えっ、あの、うーん」
「僕がいれば、兄さんも少しはお話聞いてくれると思うから! ね?」
兄に来客があったことがよほど嬉しいのか、にこにこと微笑むオルト。その勢いに負けて、監督生は頷いた。ここまできたらもうヤケである。
「よろしくお願いします」
「はーい。兄さん、入るよー」
監督生があれだけ悩みに悩んで触れなかったドアにあっさりと手をかけ、オルトは部屋へと踏み入る。こちらに背を向け、パソコンに向かって何かを打ち込んでいた猫背の男が笑顔で振り返った。
「オルト、どうしたの? 兄ちゃんになにかよ、う、じ…………」
目線が弟の顔から斜め後ろ上部へと移動するにつれ、イデアの声が小さくなっていく。最終的に決まり悪げに佇む監督生と目があった瞬間、ヒッ、と呻いて椅子から転がり落ちた。
「な、な、なな、なんで監督生氏がここに、お、おると、おともだちぃ? あああ、遊ぶならちがうとこで」
「監督生さんとはお友達だけど、今日は兄さんに用があるんだって」
「拙者⁉︎ 何故⁉︎」
目を剥きながら後退りする姿を見て、イデア先輩は本当に対人が苦手なんだな……と申し訳なさを感じつつ、このままでは話が進まないと悟った監督生はその場から動かず口を開く。
「あの、イデア先輩」
「ヒェッシャベッタ」
黙殺した。
「先輩にお願いがあって来たんです。実はスマホが壊れてしまって」
「そそそんなんミステリーショップ行きなよ、何もこんな他人以上知人以下の陰キャのとこに来なくても」
「品切れで、取り寄せに時間がかかるって言われて、困っていたら友達が『イデア先輩なら直してくれる』って」
「誰でござるかそんな適当ぶっこきよった迷惑千万なフレンズは」
「前、自分も機械を直してもらったことがあるって言ってました」
「えぇー……?」
人嫌い、付き合いが悪い、コミュニュケーション下手で有名なイデアが機械を直したことがある相手といえば、校内では教師陣を除けば数えるほどしかいない。確か監督生はオクタヴィネルの暴れウツボ、フロイド・リーチと恋仲にあった筈だ。とすると、紹介先は恐らくオクタヴィネル寮長でイデアの部活仲間であるアズールだろう。意外と身内には甘い後輩の紹介を断ったとあっては後で何をやらされるかわかったものではない。これは無碍にはできないか、と数秒の逡巡の間にイデアは考え、渋々頷いて二人を部屋へと招き入れる。まさかツノ太郎ことマレウスが紹介先だとは夢にも思っていないしそれを知る事もなかった。
「こうなったらとっとと終わらせよ……。監督生氏、スマホ貸して」
「は、はい」
「うわ画面バキバキ。これ交換するだけなら多分ストックあるから数分だけど、他に何か問題ある?」
「何をやっても画面がつかないんです」
「オケ把握。一応言っとくけど、完全に百パーセント直せるって保証はないからね」
「わかっています。お金も、あんまり多くは難しいですがお支払いします」
「いいよそんなの。どうしてもって言うなら今度僕の代わりに色んな駄菓子買ってきて。もしくは体力系の授業に代理出席して」
「一瞬でバレて二人とも怒られるやつでは……」
機械を触っている時のイデアは饒舌だ。薄い手袋を装着した長い指であっという間にスマホを分解し、ブツブツと何事かを呟きながら細かい部品を改めていく。
「んあぁー、これはまた厄介な」
小さく薄い部品を丁寧に持ち上げて、上下左右に傾けながらイデアは唇を歪ませる。
「えー、シロウトさんにもわかりやすく言うと、小さいけどすごく大事な部品が歪んでる。これを交換しないといけないんだけど、生憎メモリーとかも関係してくる部分だから手持ちがない。僕はプレミアム会員だから今から注文かければ数時間で届くけど、そこからメモリー移して組み立て直してってやってると時間かかるから、渡せるのは早くて明日の朝かな。それでいい?」
「はい! ありがとうございます……!」
「じゃ、一晩預かるから。僕は大体部屋にいるけど、万が一いなくてもわかるようにしとく……いやダメだ、夜からはイベント走らないとだからオルトに預けて教室まで持っていってもらうようにしよう、今回の上位報酬は絶対ゲットしたいし……」
自分の世界に入ってしまったイデアを興奮した面持ちで見て、邪魔をしないよう小さな声で監督生はオルトに話しかける。
「オルトくん、イデア先輩ってすごいんだね! 色んな賞を取ってるって話だけは知ってたんだけど、まさかこんな、なんでもないみたいに直せちゃうなんて……!」
「うん、兄さんは本当にすごいんだよ! それを知ってもらえて嬉しいな。明日、朝礼が始まる前に届けに行くね」
「うん! ありがとうオルトくん!」
「ヒィ⁉︎ まだいたの監督生氏⁉︎」
「あっ、お邪魔してすみませんでした、お約束の駄菓子は後日お届けします! 失礼します!」
「えっ⁉︎ そんな小ボケにマジレスしなくてもっていうかもう来ないでほしいっていうかちょっと監督生氏ぃ⁉︎」
まだ興奮冷めやらぬ監督生にはイデアの声は届かなかった。
明日にはフロイドと連絡がとれる。通話に出てくれるだろうか。なんて言って謝ろうか。許して、もらえるだろうか。いや、何事もやってみないとわからない。明日になったら、明日になったら。
その夜、監督生は久々に少しだけ深く眠ることができた。フロイドとこんなに長く話ができないのは初めてのことだった。
「おぉー、今日は気合入ってるなぁ」
「すっげえ綺麗なの造って小エビちゃんにあげる」
グルグルと大鍋をかき混ぜながら真剣な顔でフロイドは応える。今日の錬金術の授業は珍しく「自分が一番得意とするものを披露するように」というクルーウェルの指示で、皆が思い思いにコンビを組んで様々な調合を行なっていた。俗に言う自習である。
A組とD組の合同授業が始まるとすぐに隣に飛んできて、オレとコンビ組まないか! とキラキラした瞳で話しかけてきたカリムは、今もその瞳を輝かせながら鍋の中を覗いていた。
「ラッコちゃん、もうすぐ中身跳ねっから離れた方がいーよ」
「お? いやぁ近すぎたな! あんまり綺麗でつい」
ありがとな、とカリムが鍋から離れた瞬間、青緑色の光がバチッと辺りに散った。
「綺麗だな、お前の髪の色そっくりだ」
「ラッコちゃんそっちの安定薬取って」
「これか?」
差し出されたものを目視し、礼を言って受け取る。普段の授業態度を知っている者なら皆目を見張るほどに、今のフロイドは真剣だった。それをじっと見ていたカリムは、鍋の中が安定した事を確認してから口を開く。
「なあ、監督生と喧嘩したんだって?」
「……今あんまその話したくないんだけど」
機嫌が急降下した事がありありとわかる態度で、フロイドはカリムを睥睨した。それを意にも介さず、真っ直ぐに相手を見つめたままカリムは続ける。
「さっきフロイドはさ、それができたら監督生にあげるって言ってたけど。受け取ってもらえなかったらどうすんだ?」
「……」
「オレも、相手を怒らせちまったらとにかく謝るしかないと思ってるけど。でも、大事な相手がそれでも許してくれなかった時、フロイドはどうする?」
謝り続ける? 諦める? 逆ギレする? 別の方法を探す?
もしも許してくれなかったら。
フロイドの眉がへにゃ、と下がる。小エビちゃんがゆるしてくれない。そんなことは考えたこともなかった。会って謝りさえすれば、あとはもう元通りだと思っていたから。
そんな級友の様子を見て、カリムは困ったように笑った。
「あー、ごめんな、余計なこと言ったな」
「………」
「オレもさー、よくジャミルのこと怒らせちまうし、謝れば許してはくれるんだけどさ、多分本当には許してもらえてないんだろうなって、最近よく思うんだよなあ」
カリムを見る。いくらお前なんか友達じゃないと、嫌いだと言われてもめげずに何度も相手に近付いていく青年。彼もきっと、どうしたらいいかの答えは持っていないのだろうと漠然と思った。
「……ラッコちゃん」
「ん?」
「ありがとねぇ。オレ、ちょっと考えてみる」
「おう。オレも考えてみるから、答えが出たら教えてくれよ」
「気が向いたらね」
鍋の中身の色が強まって、色のついた煙が上がる。ここから先は魔力を込めながら一定速度で攪拌しなければならない。御守り代わりの魔法石。出来次第では有事の際の身代わりにすらなってくれる、比較的簡単だが奥が深い錬金術。
「オレは自分の実験の準備してるから。がんばれよフロイド」
「ん」
ぐるぐるぐるぐる、鍋の中身が回る。頭の中も心臓のあたりもぐるぐると回る。天才肌で、昔から考える前に出来てしまうか放棄するかの二択だったフロイドにとっては初めてといっていい感覚だった。
質の高い魔法石ができてクルーウェルからS評価を貰ったが、思考は固まる事がないまま、結局眠りにつくまでぐるぐると回転し続けていた。
その日の夜、フロイドは夢を見た。自分以外の誰かと監督生が、どこまでも広がる大地と青い空の下で、手を繋ぎ楽しそうに笑い合っている夢だった。
「あら、そこにいるのは……ちょっと、何その酷い顔!」
「ヴィル先輩……」
無情にも不通のアナウンスを繰り返すスマホを手に、今にも泣き出しそうな顔で監督生は相手の名前を呼んだ。
今朝オルトが届けてくれたスマホはばっちり直っていた。イデアに感謝しつつ、昼食を早々に切り上げた監督生は人気の少ない校舎裏へ来て、ばくばくと緊張を伝えてくる心臓をどうにか宥めながらアドレス帳からフロイドの番号を探して。
『おかけになった番号は、現在いずれかの理由で不通となっており——』
血の気が引いた。電源が入っていない、電波が届かない、料金の滞納、特定相手もしくは特定相手以外からの着信拒否、機械の故障や機種変更中、またはその他のトラブル——初めて聞いた合成音声のアナウンス。
頬の暖かさも心臓から力強く送り出された血液も、全て地面に吸い取られてしまったかのようだった。そのタイミングでかけられた声に返事を絞り出すも、ぐちゃぐちゃになった紙コップのような声しか出なかった。
「顔色が最悪よ。動けるなら一旦座りなさい」
「は、い……」
よろよろと歩を進め、少し先のベンチに倒れ込むように腰掛ける。美しくないわとヴィルは思ったが、流石に死にそうな顔色をした目の前の少女にそれを求めることは酷だと思えた。すこし間を開けて座り、仕方がないと溜息を吐いたあとに話しかける。
「で? なんでそんなに死にそうなのアンタは」
「そ、そんな顔、してますかね、へへ」
「そういうのいいから。アタシの時間は貴重なの。それをアンタに使ってやるって言ってんだから、感謝してとっとと吐きなさい」
世界的スーパーモデルのヴィルは忙しい。仕事と学業の両立、それ以外の時間では自己研鑽。暇な時間などないし、時給換算などしたらそれこそ膨大な額になる。それがわからない監督生ではなかったので、つっかえながらも今まであった事をなるべく短くなるように話した。
喧嘩をした事。それから六日会えていない事。スマホが壊れた事。やっと直ったので謝罪の電話をかけようとしたら不通だった事。
一通り話し終わった後、それを無言で聞いていたヴィルは美しく磨き上げられた自身の爪を眺めながら言う。
「恋は盲目っていうけど、アンタも大概ね」
「え」
「他人の恋愛沙汰にああだこうだ言う趣味はないけど。今のままのアンタがたとえ謝ったところで、また同じように喧嘩するだけじゃないの? その度に同じこと繰り返すつもり?」
監督生は惚けたような顔で、美しい男の横顔を見る。
「自分の何が悪くて、どう変えていきたくて、相手には何を望むか。それくらいきちんと整理してから相手と向き合いなさい。でないと、恋愛という大義名分に振り回されて相手を振り回すバカに成り下がるわよ」
言葉は鋭利な刃物のようで、さっくりと心臓を抉ったけれど、不思議と痛みや不快感はなかった。これはきっと自分が答えを見つけないといけないことだ。全てを完全に理解できたわけではないが、言われていることはわかったので、監督生は深々と頭を下げる。
「先輩、ありがとうございます」
「お礼なんていいから、早急にそのボロボロの肌をどうにかしなさい。アタシが美しさに妥協しない人間だってアンタ知ってるでしょう」
野郎ならともかく、いいもの持ってるはずの娘がそれをみすみす台無しにしてるなんてアタシの美意識が許せないのよ、と憤慨しているヴィルに思わず監督生は笑ってしまう。清々しいほどに普段通りのヴィル・シェーンハイトだ。気を使うわけでもなく、面倒がって突き放すでもなく、まったくいつも通りの。
「ヴィル先輩」
「何」
「ちゃんと、考えてみます」
「勝手になさいな。アタシはもう行くわ。授業開始ギリギリに滑り込むなんて真似はしたくないし」
指先まで美しくひらめかせて、ヴィルは校舎の方へと去っていった。
無事に始業時間に間に合い、授業をきちんと受けながらも、監督生の頭の中ではヴィルの言葉とフロイドの姿がぐるぐると回っていた。そのおかげで、トレインに指名されて答えを口にする時に間違えてひとつ先の予習箇所を読んでしまい、慌てふためいて言い直す羽目になった。
その日の夜、監督生は夢を見た。自分以外の誰かと人魚姿のフロイドが、どこまでも広がる青い海と柔らかな光の中で、指を絡め親密そうに笑い合っている夢だった。
「監督生、頼むからフロイド先輩と仲直りしてくれないか。ここ何日か先輩方や同級の皆から『どうにか説得してくれ』って寮にまで押し掛けられてるんだ……」
「部活でも機嫌最悪でバスケやってんだかドッジボールやってんだかわかんねえし、負傷者続出でこっちに苦情がきてんだよ……」
「わ、私だって仲直りしたいけど」
頭を下げて頼み込んでくるマブ達の憔悴し切った姿に動揺した監督生は、おろおろと辺りを見回す。周囲にいた生徒がさっと視線を外した。動向は気になるが巻き込まれたくはない、そんな動きだった。
「けど? あの後もなんかあったわけ?」
「仲直りしてほしいとは言ったが、僕は監督生の味方だからな。理不尽に傷付けられるようなことがあるなら、我慢なんてする必要ないと思う」
「デュース……」
パン! と掌に力強く拳を打ちつけ、デュースは安心させるように微笑みかける。
「いざとなったら拳で語り合うって手もあるしな!」
「ねえよ! 恋愛沙汰に脳筋理論持ち出すのやめろよ!」
「う……すまない、正直その方面では役に立てそうにない……」
「大丈夫だよ、ありがとうデュース」
「夜になったらメソメソ泣いてるくせに、なにが大丈夫なんだゾ」
「グリム」
肉球が足にてちてちと押しつけられる。七十センチの相棒は、抱き上げるとお日様の匂いがした。
「な、泣いたりしてるのか監督生」
「そりゃ泣くでしょ、監督生フロイド先輩のことかなり好きじゃん」
「そうなのか⁉︎ いつも軽くあしらってると思っていたが⁉︎」
「これだから恋愛経験値ゼロのおこちゃまデュースは。先輩に話しかけられた時の監督生の顔ちゃんと見たことあるか? 普段と全然違うでしょーが」
「そうか……流石経験豊富なエースは違うな、監督生の顔をそんなに観察したことなんてなかったから気付かなかった」
「その言い方は人聞き悪すぎない?」
いつもの軽口が嬉しくて、笑おうとした口の端が引きつった。見守ってくれている人が、代わりに怒ってくれる人が、慰めてくれる相棒が側にいる。こんなに恵まれているのに、側からもバレバレな恋心が足りないと、これではないと叫んでいる。要らない意地を張って自分から手を離しておいて、追いかけてきてもらえないことにこんなに傷ついて絶望している。なんて自分勝手な、なんて無様な。
表面張力が限界を迎えた。
「もうむり。泡になって消えたい」
「思春期の病んだ少年少女みたいなことを言いますねフロイド」
「今オレ思春期の病んだ少年だから……」
見るからにやる気も気力もない片割れを、困りましたねと言いながらその実全く困っていなさそうな顔でジェイドは引きずっていく。早く行かないと食堂が人で溢れかえってしまう。今日はいつもより大盛りにしてくれるおばちゃんの日なので購買で済ませたくはなかった。食べ盛りのウツボの胃袋問題は切実だ。
「そんなにつらいなら、いじけていないで早く監督生さんに謝ってしまえばいいのでは?」
「オレだってそうしたいけどぉ、小エビちゃんに全然、会えなくて、やっぱ避けられてんの、かも」
いつになく歯切れの悪い返答。ここ数日、二人が完全にすれ違っていることを知っているジェイドは溜息を吐く。
「それに、謝ってももう、許してもらえない、かも」
「フロイドらしくもない。うじうじ考える前にまず行動するのが長所でしょう」
「……これ以上、嫌われんの怖い」
ぼそ、と吐き出された言葉。思っていたより重症だ。監督生と会えなかったこの数日で、フロイドの良さが見事に損なわれてしまっている。
面白い——もとい、片割れの成長のためと思い手も口も出さずに見守ってきたが、こうも鬱陶しくなられると流石に辟易する。
はあ、と本日何度目かの溜息を吐いて、ジェイドはフロイドの腕を振り解いた。
「じぇ、じぇいどぉ」
「監督生さんに会ったら、なんと言うおつもりですか?」
「小エビちゃんに……まずは謝って、」
「何を?」
「ひどい態度とったこと。会いに行かなかったこと。すぐに謝れなかったこと。あと薬に頼ろうとしたことと、諦めようとしたこと」
薬の件は黙っていたほうがいいのでは? とジェイドは思ったが、まあいいかと口を噤んだ。
「そんで、どんだけ小エビちゃんが大事なのか、いっぱいいっぱい伝えて、許してもらえたらぎゅーってする」
「許してもらえなかったら?」
「許してもらえるまで通う」
「それすらも拒否されたら?」
「そんときはぁ……」
ほんとに泡かな。と呟いた顔があまりにも酷かったので、小さい子供にするように相手の頬を両手で挟んでぐにぐにと動かす。
「にゃ、にゃに、じぇいろ」
「そんな青白い顔で会っても幻滅されるだけですよ。少しは血行をよくして……」
ざわ、と食堂の方が騒がしくなった。
NRCは決して上品な生徒達の集まりではない。思春期男子がこれだけいれば、喧嘩や小競り合いは日常茶飯事だ。だからこれもまた、そんなありふれた日常の一部だと思っていたのだが。
伝播した騒めきの中から、監督生が泣いてる、という声を拾った瞬間、今の今までぐだぐだだったフロイドは反射的に騒めきの中心へと駆け出していき、それを見ていたジェイドは「それでこそ僕の兄弟です」と心底嬉しそうに笑った。
「ああーもう、泣くなよ監督生……」
「ご、ごめ、とまんな、」
「いやもう逆に思いっきり泣け、な? そんですっきりしたら、一緒にフロイド先輩探そうぜ」
「い、いま゛、や゛さしくされ゛たら、うゔー」
「はいはい、とりあえず移動すんぞー。ほらデュース、突っ立ってないで道作って」
「お、おう!」
グリムを抱きしめたまま瞳から大粒の涙を零している監督生の肩を抱いて移動を促すエースに、どうしていいかわからず棒立ちだったデュースはスイッチが入ったように周囲を牽制しつつ道を空けるよう声を張る。
「ふ、ふろいろせんぱ、に、きらわれたぁ」
「はぁ⁈ 待って監督生、それだけは絶対にないから‼︎」
「らって、あいにきて、くれないし、さがしても、あえないし、さけられて、あいたくないって、おもわれっ……うああああん」
「泣くな子分〜、オレ様の自慢の毛並みがびしょびしょなんだゾ!」
「うっそだろ、あの人お前のこと大好きだから! じゃなかったらあんなに」
「大丈夫か監督生⁉︎ こ、このハンカチでよければ使って」
とうとう足を止めて号泣し出した監督生に、動揺したマブ達は口々に言葉を浴びせる。その間を縫って、今一番監督生が聴きたかった声が響いた。
「小エビちゃん‼︎」
「ふろ、ふろいろしぇんぱ」
間一髪のタイミングでグリムがエースの腕の中に逃れるのと同時に、人波をものともせずに走ってきたフロイドが監督生を抱きしめた。上がる歓声。そのまま流れるように抱き上げられ、訳もわからないまま反射的に大きな身体にしがみつく。
「監督生ー! がんばれよー‼︎」
「ぶちかましてやるんだゾ子分‼︎」
「待ってるからなー‼︎」
「シフトまでには戻ってくるんですよー」
喧騒の中を縫って聴こえてくる大事な友人達の声援に監督生の涙腺は更に緩み、片割れの声が耳に入ったフロイドは、万が一仲直りに失敗したらジェイドの大事なキノコの標本達を焚べた炎に身を投げようと決意しながら、腕の中の小さくあたたかい宝物を大事に抱えてひたすら走った。
蹴破らんばかりの勢いでオンボロ寮の扉を押し開く。背格好から寮長ではないと察知したゴースト達が騒めくが、フロイドとその腕の中にいる監督生の表情を見ると、やれやれと肩を竦めながら一人、また一人と透明になって消えていった。その中を突っ切ってフロイドは監督生の自室へと足を進めた。そこが彼女にとって一番安心できる場所だろうと思っての行動だった。
玄関扉の時よりは幾分か丁寧に自室の扉を開け、ようやくフロイドは足を止めてその場にしゃがみ込む。しがみついていた監督生も腕の力を緩めた。
ゼ、と自分の息が上がっていることに、フロイドはそこで初めて気がついた。化物並の体力があるとよく言われるが、流石に小エビちゃんを抱えてオンボロ寮までの全力疾走はキツかったんかな、と考えた瞬間に、華奢な指が頬に触れた。
「先輩、泣かないで」
ぽたぽた、滴が床に落ちる。汗だろ、と思った。別に、汗が目に入っただけ。流石に疲れたし。ちょっと目の前が霞むけど、休んだらすぐ治るから。
そう言いたくて開いた口から出たのは、ひぐ、と引き攣れた嗚咽だった。それを見た監督生の目からも、止まっていたはずの涙が零れ落ちる。互いの背に腕を回して、距離をゼロにしながら言葉をぶつけあう。
「こ、こえび、ちゃ」
「せんぱ、わたし、ごめんなさいぃ」
「オレも、ごめんねぇ、こえびちゃ、ごめんなさい」
「会えないの、やだぁぁ」
「オレもやだあぁー」
わあわあと二人でひとしきり泣いて、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、それでも互いを抱きしめあったまま、互いに訥々と言葉を紡いでいく。
「先輩に謝りたくて、電話したんです。でも、繋がらなくて」
「オレも電話したし、繋がんなかった……。なに、妖精の邪魔でも入ってたの?」
「あ、私一回、スマホ壊しちゃって」
「いつ?」
「喧嘩したあと、次の日? くらい、です。もう直してもらいましたけど」
「オレも壊した、てか壊された」
「いつですか?」
「んー、二日前。まだ直してない」
「……電話、繋がらなかったの、理由わかりました」
「オレもぉ。よかったぁ、ジェイドのやつが着信拒否とか言うからさぁ」
「私も、もう番号消されちゃったかと」
「んなことするわけねーじゃん」
「私だって、先輩のこと着信拒否なんてしませんよ」
フロイドの腕にぎゅうと力が入った。出会った頃の力任せな絞め方ではない、彼の成長と愛情を感じさせる抱擁に、監督生も精一杯の力と気持ちで応える。
「小エビちゃん」
「はい」
「顔見ていい?」
「だめです、今ぐちゃぐちゃなので」
「あは、オレもぉ」
さっきからお揃いばっかだねえ、とフロイドが笑った気配がする。絶対に顔を見ないでくださいね、と念押しをし、監督生は腕の中から抜け出し、勝手知ったる自室の中からティッシュやタオルを抱えて戻ってきた。涙やら汗やらなんやかんやでぐちゃぐちゃになっていたのを拭き整え、やっと互いの顔を見合わせて、お互い同時に吹き出す。
「あは、小エビちゃん目ぇ真っ赤じゃん!」
「先輩、髪の毛ぐちゃぐちゃですよ!」
「力入れて拭いたら腫れるよ、ちゃんと冷やしな」
「私が整えますから、少し屈んで」
口を閉じるのも同時だった。互いに、相手に伝えたいことが沢山あった。あのさ、と切り出したのはフロイドの方だった。
「オレ、小エビちゃんに会えない間、色々考えたんだ。なんて謝ろうかとか、どうしたら会えるかとか、許してもらえなかったらどうしようとか。でも、会ったら全部吹っ飛んじゃった」
両の手の指をとった。一回り二回り、それ以上違う小さな手。力を入れすぎたらすぐに折れてしまう、力を抜いたらすぐにこぼれ落ちてしまう、繋いでいたら幸せをくれる、そんな手を見つめながら続ける。
「小エビちゃん。オレ、気をつけるけど、多分これからも間違えたり、やな思いさせたりすると思う。その時は教えて。小エビちゃんに嫌な思いさせるのもやだけど、会えないのが、小エビちゃんが隣からいなくなるのが、オレは一番いやだから」
じわじわと指先から熱が伝わる。
「勝手なこと言ってるかもしれないけど、オレ、小エビちゃんと一緒じゃないとやだよ。言うこと全部聞くし直すから、オレから離れていかないで。お願いだから」
気分屋で尊大で自由に生きる巨躯を知る者が見たら驚愕するであろう姿と内容で、フロイドは監督生に懇願した。睡眠と酸素が不足した頭で必死に考えて、残った結論がこれだった。
その姿をじっと見ながら黙って聞いていた監督生は、握られていた指をそっと引き戻した。泣きそうな瞳で顔を上げたフロイドの指を、今度は自分から握り直す。
「フロイド先輩、私も先輩に伝えたいことがあるんです」
こくこくと頷く巨躯に笑って、監督生も繋がれた指へと視線を落とした。
「私、先輩が好きでいてくれることに甘えてたんだと思います。当たり前なんかじゃないのに。先輩の好きも、私がここにいることも」
ヒュ、とフロイドの喉が鳴った。気付かないふりをして続ける。
「私は、フロイド先輩と一緒にいたいです。笑ったり怒ったり呆れたり泣いたり、たまに悪いことを考えたり、そんなフロイド先輩の側に、ずっといたい」
じわじわと指の熱が戻ってくる。
「私にだって悪い所が沢山あると思います。だからお互い、言いたいことを言いましょう。嫌なら嫌だって言って、直せるところは直して、直せなければどうしたらいいか考えましょう、二人で。それで、ずっと一緒にいましょう」
頭の片隅にいつもあった、見ないふりをしてきた事に向き合う。元の世界かフロイドか、選ぶ時が来たらどちらを取るのか。その答えを今、明確に示した。
「フロイド先輩、大好きです」
「大好きだよ、小エビちゃん」
額を突き合わせて、まるでプロポーズみたいだと二人で笑った。ところでなんで喧嘩してたんでしたっけと監督生が言って、もう忘れたぁとフロイドが言った。もうすぐ午後の授業も終了する時間だったので、サボってしまった分負担をかけてしまったグリムにせめて美味しい夕飯を、と考えた監督生は、フロイドに一緒に料理をして欲しいと頼み、フロイドはそれを快諾した。
「ありがとうございます、先輩。ツナ缶の買い置きはあるから……」
「あ、小エビちゃん」
立ち上がりかけた監督生の腕を引き、フロイドは「忘れ物」と耳元で囁いた後、瞳を瞬かせる監督生へと優しく誓いのキスを贈った。
これが、巻き込まれた人間にとっては災難だったとしか言いようがない、そして後に結婚し幸せに暮らす二人にとっては最後にして最大の痴話喧嘩全七日間の記録である。
なお、二人の結婚式二次会にて有志による一部記録の再現映像がサプライズで流され、危うく新郎と主犯の大乱闘ウツボブラザーズが始まるところであったことも、ここに記しておく。