紙一重ハッピーエンド! 呼び出された学園長室にて喜色満面の学園長から飛び出したのは、監督生が予想だにしていなかった台詞だった。
「あなたが元の世界に帰る方法が見つかったんですよ!」
いやぁよかった、本当に見つかってよかった、これでもちゃんと探してたんですよ? ね? こうして見つけたでしょう? 一人の生徒のためにこんなにも時間と手間を割いて、ああでも監督生さんは気にしなくていいんですよ、なにせ私優しいので。……聞いてますか? 監督生さん? 続けますよ?
右から左へと通り過ぎる音。ざあざあ、ごうごう、血液が流れる音が耳の奥で木霊する。
「それでですね、帰れるチャンスは一度きり。あと二日後の満月の夜、とある場所の鏡が異世界へと繋がるという研究結果を発表した研究機関があるんです」
厳密に言うと一度きりなわけではないんですけどね、次に諸々の条件が整うのが九十六年後という試算みたいでして。長命な妖精属ならともかく、人属が生きる長さとしてはほら、最後のチャンスと言えるでしょう? いやぁタイミングがよくてラッキーでしたねえ! ……監督生さん? ちょっと??
クロウリーの声が何処か遠い。
二日後。遥か遠くに実習に行った恋人が戻ってくる予定の前日。彼が自分の名前を呼ぶ声と、その耳に揺れる翡翠を想って、オンボロ寮の監督生であり異世界から来た少女は数秒間だけ息を止めた。
もう見つからないと思っていた。帰れないと思っていた。この学園で、もしかしたらいつか帰れるかもなんて楽観的なことを言いながら過ごした二年があまりにも色濃くて、寂しさも哀しさも心の奥底に追いやっていた。
家族。友人。好きだった店やキャラクター。漫画の続きも気になるし、あの料理ももう一度食べたい。そんな諦めかけていた全てを目の前に用意されて、けれど、何より欲しかった筈のものと天秤にかけられる存在がこの世界にできてしまった。
——お付き合いを始めた頃の自分なら、相談しないで抱え込んでいたかもしれない。
くすりと笑ったのが伝わったのか、電話口から聞こえる落ち着いた声が耳朶を甘く喰んでいく。
『どうしましたか?』
「……いえ。あの、先輩。相談があるんです」
毎晩欠かさず行なっている通話。距離は遠くても、心は確かに傍に居るんだといつも示してくれる。そんな恋人が、今の監督生にとっては誰より大事な存在だった。
昼間、クロウリーに呼び出された際の話を全て伝え、最後に言い添える。
「……正直に言うと、少しだけ迷っています。今までずっと探してくれていた学園長に悪いなっていう気持ちもあります。それに何より、また家族に、皆に会いたい。ここでのこと、たくさんできた新しい友達のこと、大好きなジェイド先輩のこと。一杯話して、またいつかってちゃんとお別れを言って、ここに戻って来たい」
窓から見える月は殆ど円に近い。柔らかな自然灯を身に受けながら、少し冷たくなり始めた空気を肺に取り込んで監督生は続けた。
「でも、戻ってくることは考えない方がいいと学園長に言われました。片道でさえ完全にうまくいくという保証はない。何せ今まで前例がないので。だから、向こうに戻れたらもうこの世界のことは忘れて元のように生きなさい、と」
スマホの向こうは静かだ。言葉が途切れた時に、呼吸の音が耳に届くくらい。相槌もなく、けれどそれはこちらの話を遮らないよう、真剣に聞いてくれている証なんだと監督生は思う。
「それは、いやです。ジェイド先輩のことを、忘れて生きるのは嫌。私は、あなたの手を取って生きていきたいと思っています。……ジェイド先輩が、許してくれるなら、ですが」
『許す?』
思ったより強い語調が耳に飛び込んできて、反射的にスマホを少し遠ざけてしまう。改めて耳に当て直すと、少しだけ語気が柔らかくなった、けれど普段よりは強い口調のジェイドの声が脳を揺らした。
『何を言っているんですか貴方は。逆です。こちらが跪いて側にいて欲しいと請う立場なんですよ。この距離さえなければ今すぐにでもオンボロ寮に出向いて求愛行動をしていました』
ふは、と笑い声が口から漏れたのが聞こえたのか、『僕の本気、伝わっていないようですね』と拗ねたような声が聞こえる。疑ってなんていませんよ、と伝える声は、自分でも驚くほどに幸せに満ちていた。
『辛い決断をさせてしまってすみません。けれど、僕は今とても嬉しく思っています。貴方が包み隠さず話してくれたこと。その上で僕を選んでくれたこと。僕は、貴方が失うものの代わりにはなれないかもしれない。けれど、それ以上のものになって、貴方をずっと、ずっと守ります。傍にいます』
僕の番になって下さいますか。
静かな夜に、じんわりと響く愛の誓い。
『……こんな、電話越しに言うつもりなんて全くなかったのに。そちらに着いたら顔を見てもう一度伝えますので、お返事はその時に』
「えっ、今じゃだめなんですか?」
『だめです。僕の気が済みません』
「先輩って結構ロマンチストですよねぇ」
『お嫌いですか?』
「大好きです」
ふふふ、と笑い合う。返事なんてもう、言ったも同然なのに。ジェイドは意外と形式に拘るところがある。特に恋愛関係においては。それは、恋人となってから新しく見えた相手の愛しい一面だった。
他愛のない話は尽きない。けれど、ジェイドはいつものように話を切り上げる。
『そろそろ眠りましょうか。身体が冷えるといけませんから』
終わりの合図。寂しくないと言えば嘘になるが、また次の夜に話ができる。数日後には会える。それを支えにして頑張れる。
「はい。おやすみなさい、ジェイド先輩」
『おやすみなさい、また明日』
小さな通話終了音が響き、室内に静寂が満ちた。監督生は、左手薬指に収まった細いリングにそっと触れる。眠る時以外は欠かさずつけている、ジェイドと一緒に選んだペアリング。監督生のお守りだった。
「……おやすみなさい、また明日」
それにそっと口付けて、談話室の窓のカーテンを閉め、自室に戻り、先に眠っているグリムが温めてくれていたベッドへと身体を滑り込ませる。
明日、学園長に沢山御礼と謝罪をしないと。帰る方法を探してくれていたなんて正直思っていなかった。すっかり忘れられたものだと思っていた。ああ見えてちゃんと気遣ってくれていたのに、それを無碍にしてしまうのは申し訳ないけど、何より優先したいものができてしまったから。
「……卒業まで、一緒に頑張るって約束もあるしね」
指輪を外し、ジュエリーボックスにしまう。その手で耳元から背中に向かって柔らかく撫でると、ふわふわの相棒が耳をぴるぴるさせてから、寝惚けた声で小さくふなぁ〜と鳴いた。
「それじゃあ困るんだよなァ」
「……そうですか。わかりました」
「はい。よろしくお願いします」
学園長室には二つの人影がある。部屋の主である学園長と、オンボロ寮の監督生だ。
「申し訳ないのですが、今回あなたが帰るために用いる魔法は部外秘です。扱うのも学園関係者ではない。そのため、お別れを告げるのは必要最低限の方にして下さい。移動時間もありますから、明日の十六時にはここに戻ってきて下さいよ」
クロウリーの言葉に、監督生はしっかりと頷いた。
今日は平日なので、これから通常通りの授業がある。自分にはもう関係がなくても、これから一人でここに残らなければならないグリムや、元々この世界の住人であるエースやデュースにとってはどれも必要なものだ。それにはきちんと出席して、終わった後に伝えよう。夜はオンボロ寮の自室の片付けをして、明日は……最後に皆と遊べればいいんだけど。そう考えながら、学園長室を後にする。
「お、監督生。話は終わったのか?」
「うん、待たせてごめんね」
「まったく、朝イチで呼び出されるなんて何やったんだゾ」
「お前の尻拭いで呼び出されてたんじゃねーの?」
「その時はオレ様も一緒に呼び出されて怒られてるはずだからな! つまり今回はオレ様のせいじゃねーんだゾ!」
「胸を張って言うことか」
教室へと向かう三人に少しだけ遅れて歩きながら、目の前の姿を脳に焼き付けるように凝視する。ずっと一緒にいてくれた大事な友人達。帰ってしまっても忘れないでいたいと監督生は強く思った。
何事もなく時間は過ぎる。授業が終わり、昼休みが終わり、また授業が終わって。
寮に遊びにこないかと珍しく誘われて訪れてみれば、青天の霹靂にエースとデュースの顔は強張り、ややあって二人同時に声を発した。
「嘘だろ、そんな」
「帰るっておまえ」
「き、聞いてねえんだゾ⁉︎」
……が、一番大きな声を出したのは、監督生の相棒である魔獣だった。え、聞いてないの? ずっと一緒にいるのに? と、問い詰める気勢をすっかり削がれた二人は顔を見合わせる。
「オレ様が大魔法士になるまで、一緒にいるって言ったんだゾ! い、いやだぞ、そんなの、ふなぁ〜‼︎」
ぼろぼろと大粒の涙を零す相棒に、監督生の瞳も揺れる。何度か口を開いては閉じて、ようやく言葉を絞り出す。
「私は、帰らないといけないから」
「なら仕方ねえんだゾ」
でも寂しいもんは寂しいんだゾ〜と抱きついてくるグリムに、私も寂しいよ、と監督生は抱き締める腕にぎゅっと力を込めた。一心同体、ふたりでひとり、これまで様々な困難を乗り越えてきた。離れることが寂しくないわけがない。けれど。
「エース、デュース、勝手なことを言ってごめんね。でも、私が帰った後はグリムのことお願いね」
「おう、任せとけ」
「しょうがねーなぁ、任されてやるよ」
複雑そうな顔で、それでも親友二人は最後の心残りを引き受けてくれた。ありがとう、と監督生は笑う。
「そういえばお前、このこと皆に言わなくていいの?」
「魔法が部外秘だから、あまり多くの人に知られないようにって学園長が」
「そっか。じゃあ、ジェイド先輩にも伝えないで行くのか?」
「ジェイド先輩には昨日の夜話したよ。仕方がないですよねって受け入れてくれた」
「よかったな、わかってくれて」
「うん」
これから片付けか? 僕たちも手伝おう。早く終わらせれば明日の昼間は空くんだろ? じゃあジャックやエペル呼んでお別れ会しようぜ! セベクやオルトは呼ばないのか? その二人ワカサマやニイサンに洗いざらい喋りそうじゃん。秘密なんだろ? 成る程、確かに……
賑やかな親友達に胸が詰まり、監督生はまたありがとうと言って笑った。元々そんなに荷物が多いわけではなかったが、二年も過ごすと生活必需品はそれなりにある。まだ使えるのか捨てた方がいいのかを分別し、段ボールに詰め、中身を書き積み上げていく。今夜はまだここにいるんだからカーテンは最後にしようぜ。グリムが調味料ぶち撒けた! クシャミが、へくしゅ、とまんねーんだゾ、へぶしゅ! よし、次はここか? あっバカ、デュースそこ監督生の下着の棚だぞ! なんで知ってるのエース……?
いやオレもさっき間違えて開けたんだって! 上がる笑い声。珍しく顔を赤くして慌てていたエースは、揶揄われただけだと分かって拗ねたような顔でそっぽを向く。
昨夜とは打って変わって、オンボロ寮の夜は賑やかに更けていった。
次の日の昼間、結局目的は言わず、ジャックとエペル、そしてセベクとオルトを誘い、一年生の頃から仲が良かった馴染みのメンバーだけで街へと下りた。普段は部活や鍛錬などで忙しくなかなか集まれないメンバーだったが、監督生が声をかけると皆誘いを了承してくれた。
あっという間に時間は過ぎ、一人、また一人と解散していく。最後に残ったのはやはりいつもの四人で、そろそろ時間だからとエース、デュースにグリムを預けようとしたが、三人とも頑として「見送りだけならいいだろう」と言うので、腕の中にグリム、両脇にマブといういつもの布陣で目的地へと向かう。
「実は、少しだけ不安だったんだ。ありがとう」
そう監督生が言うと、だろうと思った、と両隣を歩く二人は笑った。
学園長から指定された場所は、街の隅にある住宅街のそのまた外れにある一軒の寂れたバーだった。開店準備中の看板がくるくると風に踊っている。まさかこんなとこに異世界に繋がる場所があるなんて誰も思わないよなーとエースがぼやく。
「そうだよねェ、ご近所さんもビックリ。けどキミ、こんな表で不用意な発言は控えるべきだなァ」
「うわっ⁉︎」
背後から急に投げ掛けられた声に三者三様のリアクションを返し振り向くと、そこには住宅街に似つかわしくない、白衣をだらしなく着崩した痩身の男が立っていた。
「やァやァ、驚かせたかな。ぼかァ今日の実験メンバーの一人さァ。怪しいもんじゃないから、まあ入りなよ」
男はだらだらと歩きながら監督生達を追い越し、古びたドアノブに手をかける。意外にもスムーズに開いたドアの向こうには、なんの変哲もないカウンターが見えた。
無言で顔を見合わせ、頷いた後に三人は歩を進める。監督生が抱いているグリムの毛は逆立ち、耳は何かを警戒するようにピンと立っていた。
店の内部はドアから見えた印象と寸分違わず、まったくもってなんの変哲もないありふれたバーだった。実験メンバーとやらも学園長もいなければ、壁にもテーブルの上にも鏡なんてどこにもない。
「なぁ監督生、まさか騙されてるんじゃ」
エースが小声で耳打ちした瞬間、幾何学的な模様が走って床一面が青白く発光する。次の瞬間には周囲の景色が一変していた。四方八方全てが真っ白な部屋に三人の男。一人は先程の白衣の男、一人は見覚えのない壮年の男。もう一人はよく見知った顔で、監督生達に向かって手を振りかけて動きを止めた。
「おや? 人数が多くないですか?」
「誰が対象者なのかわかんなかったもんでねェ。全員連れてきちまッた」
「訊けばいいでしょうに……」
「学園長! 何今の⁉︎」
「今のも魔法ですか⁉︎」
「エース・トラッポラくんとデュース・スペードくんですか。まあ君達は来るんじゃないかと思ってましたが、呉々もトラブルだけは起こさないで下さいよ」
苦々しい顔で学園長が言う。
「ここに来るのに青白い光に乗ってきましたか? あれは転送の魔法陣です。ここは魔力で編まれた特別な部屋です。異世界への送還なんて何があるかわかりませんからね。外部への影響を考えて空間を遮断しているんですよ」
簡潔に現状を述べていく学園長に、エースとデュースは呆けた顔で目を見合わせた後に頷いた。言葉がなくとも互いが今何を考えているかがわかる。それは学園生活を共に過ごしたマブ故の特殊能力だった。
(学園長が何言ってるかわかるか?)
(全然)
監督生とグリムはきょろきょろと辺りを見回していた。ぼやっと白く発光した空間には何もない。鏡も、勝手に想像していた仰々しい装置も、何も。
そんな彼女に近付いてきた白衣の男二人が口々に言う。
「やァ、キミが対象……おッと失礼。異世界からのお客人だね? ぼかァノーマンていうんだ。こう見えても異世界研究の第一人者なんだよォ」
「私はレスター、同じく異世界研究をしている。僕らのことを頭のおかしい集団だと迫害する者もいたけれど、こうして本当に異世界に行ける可能性がここにある。今日は実に最高の日だ、協力をしてくれて心から感謝するよ。早速で悪いが、時間もないので始めさせてもらうよ。ノーマン」
「はいよ。まず説明……ッても、難しいこたァないがなァ」
足音を立てずに監督生達から離れたノーマンは、「この辺でいいか」と呟いて手の内に杖を出現させた。その先で地面を二回叩くと目を開けていられない程の風が巻き起こる。監督生が閉じていた目を開くと、鏡面が黒一色に覆われ何も写していない大きな鏡と、僅かに発光する乳白色の球体が空中に出現していた。
「この丸いのが、世界中の色んなとこで集めた自然エネルギーの集合体。触ると魂ごと吹ッ飛ぶからねェ」
足を踏み出しかけていたエースがそっと元の位置に戻った。
「んで、ここ実はさッきの店の地下なんだけど、あの店の裏手に井戸があッてさァ、その水を通した満月の光を今夜この鏡に集めたら、異世界への道が開くッて計算なんだわ」
杖先で地面を一回。天井の一部が透明になり、ゆらゆらと水中から外界を眺めているような景色が広がる。月らしきものはまだ見えない。
レスターが続ける。
「異世界への道を開くのは割と簡単なんだ」
「なんて言うけどォ、キミらが五十年研究しても一割もわかんないような複雑な数式と魔法式の賜物なんだよォ」
「ノーマン、黙って。けれど、異世界というものは無限に存在している。行きたい世界や場所を指定するのは至難の業だ。その方向付けのために自然エネルギーがあり、私達がいるんだよ」
「次に準備が整うのは、九十年以上後だと聞きました」
「そう、この世界ではない何処かへ行くという願いなら次の満月の日にでも叶えられる。けれどきみが願っている『元の場所に帰る』という行為は、先人達から代々受け継がれたこれがないと叶えることができないんだ。加えてエネルギーをこの状態に保っておくにも限度がある。今日を逃したら次まで保たずに霧散してしまうだろうという試算が出た。だからチャンスは一度きり、なのさ」
レスターは手の内に数冊の本を出現させ、ばさばさとめくりながら講義をするかの如く説明をした。先生みたいだな、とデュースが言う。
「はい、ッてなわけで、もうそろそろ月も昇るし、外野はアブナイから遠くで見ててねェ」
監督生の腕の中のグリムをちょいちょいと指差してレスターが言った。心なしか悲しそうな顔で監督生を見るグリムの額に自分の額を合わせて、心からの祈りを込めて監督生は声をかける。
「元気でね、グリム」
「……オマエもな、子分」
危なげなく地面に降り立ち、グリムはそのままデュースの方に歩き腕の中に収まった。隣にいたエースが少しだけ不満そうな表情を浮かべる。
「彼女の気が逸れるといけませんから、向こうからは姿が見えないよう隠密魔法をかけておきましょう。防音もしっかりと」
学園長がパチンと指を鳴らすと、映像が消えるように四人の姿は見えなくなった。
「アブナイからキミもちッと離れてなァ。さてさて。今から魔法をね、展開するわけなんだけどォ、それが終わッたら鏡がもうものすごく光る予定だから、そしたらそこにドーンと飛び込んじゃッてねェ」
「私達がサポートするが、元の世界とやらのことはきみにしかわからない。道を繋げるためには会いたい人や帰りたい場所のことを強く念じるんだ」
「はい」
監督生はきっ、と鏡を睨む。会いたい人。家族、友達、好きだった芸能人、お気に入りの店の店員さん、気になっていた一つ上の先輩、それから……
——先輩のことを、忘れて生きるのは嫌——
……それから、帰りたい場所。自分の部屋、自分の家、学校、お気に入りの店、気になっていた一つ上の先輩がバイトをしていたカフェ、他にも……
——それ以上のものになって、貴方をずっと、ずっと守ります——
パチンパチンと目の奥で何かが鳴っている。それが何なのか掴み切れないまま、博士二人の詠唱が始まった。
「——スプロットの第五訳、展開」
「——グレイヴァンの七節、展開」
「——べゲットの八十章、重ねて百章」
「——コロカの原理を挟んで二乗」
天井がゆらゆらと揺れている。雲が切れ、満月の光が柔らかく辺りに降り注いだ。光を浴びた球体は次々に形と色を変えていく。
「レスターの構築式を展開する」
「ノーマンの補助式、収束展開ィ」
虹の上に立っているのか、と思った。
部屋を色とりどりの光が満たして、次いで全てが真っ黒な鏡の中に消えていく。吸い寄せられるように一歩踏み出した瞬間に、鏡面の闇が弾けた。
「うわ!」
「さァてお客人、これで道は開けた筈だ。あとは鏡に飛び込めば、行きたいところにひとッ飛び、ッてねェ」
「飛び込む瞬間に元の世界を思い描くのを忘れるな。下手をしたら異世界の狭間で出られなくなる可能性もある」
「ひえ」
慌てて真っ白になった頭を埋めていく。帰りたい場所。会いたい人。わたしは、もとのせかいへ。
——誰かが名を呼ぶ声がする。
「……おいおい、怖気付いちまッたかァ?」
「大丈夫、あれこれ考えなくても、親の顔でも思い浮かべていれば戻れるはずだ」
「は、はい!」
そうだ、よくわからないものに気を取られている場合じゃない。両親の顔なら鮮明に思い出せる。とりあえず、まずは一歩ずつ鏡に近付いて……
「……あ、」
足が縫い止められたように動かない。誰かに後ろから引かれているような、身体だけが別のものになってしまったような感覚。焦りが募り、呼吸が早まる。早く、早く、帰れなくなってしまう。それが自分の望みのはず。歯の根がカチカチと鳴った。
杖を高く掲げたままノーマンが舌打ちをする。
「脅しすぎじゃァねえかレスター、動けないみたいだぞ」
「……仕方がない、私が抱えて移動しよう。少しの間だけこちらの式も任せられるかノーマン」
「ぼかァ天才だからァ、できなくはないけどゲロ疲れるから早くしてくれよォ」
「よし、渡すぞ!」
「ホントにヒト使いが荒いんだからさァ!」
魔法式の管理をノーマンに任せ自由になったレスターが、監督生の腕に触れようと伸ばした手がバチッと音を立てて弾かれた。
「いっ⁉︎ なんだ、防御魔法…⁉︎」
「な〜にぃ? 面白そーなことやってんじゃん、小エビちゃん?」
声が響く。ねっとりと纏わり付くような、無邪気な子供のようでいて人の神経を逆撫でする喋り方。よく聞き覚えのあるそれは。
「フロイド先輩⁉︎」
「久しぶりぃ、元気だった?」
動けないままの監督生の足元近くの床が発光し、そこから真っ黒な長駆がぬらりと姿を現す。影が薄れるにつれ、ターコイズブルーの髪と優しげに垂れるオッドアイ、それに反する鋭い牙が並ぶ口元が明度を上げて表出する。
監督生を守るようにレスターとの間に入ったフロイドは、隙を見せないようマジカルペンを構えながら距離をとりつつ、放課後の遊びの予定を決める時のような気軽さで口を開いた。
「ジェイドが心配してたよ、駄目じゃん連絡すっぽかしちゃあ」
お陰でこーんなに疲れる羽目になったんだから、ちゃんと対価払ってよねと言われている内容に、監督生は微塵も心当たりがない。
ない、筈なのに。どうして心臓がじくじく痛いんだろう。
考え込む間もなく、レスターが大声で叫んだ。
「誰だきみは! 今は儀式の最中だ、邪魔をすると全員この部屋ごと吹き飛ぶぞ!」
「知らねーし。そっちこそ誰だよ、ひとの身内勝手に拐かすのやめてくんない?」
「私の名前はレスター、異世界への転送実験を任された博士の一人だ。その子の望みは今しか叶わない、これを逃したら百年近くの時間が必要なんだ。この場の全員の命とその子の望みを妨害して、きみは一体何がしたいんだ!」
熱を入れて語りかけてくるレスターを煩そうに睥睨して、フロイドは肺一杯にぴりぴりとした空気を吸い込んで大きく吐き出した。
「何言ってんのかぜんっぜんわかんねーけど、その子って小エビちゃんのこと? なら、オレがやってることが小エビちゃんの望みだよ」
「その子は元の世界に帰るんだ。ふざけている時間はない。一度だけ言うぞ、その子をこちらに寄越すんだ」
「『巻きつく尾』!」
何が起きたのか、目の前で見ていたはずの監督生には全くわからなかった。レスターが喋って、フロイドが叫んで、レスターの顔つきが変わった。目には何も映らなかったが、何かが弾かれた気配がした。
「ふーん、操る系のユニーク魔法? オレには効かないけど、小エビちゃんにはよく効いたんだろうねー」
「え? え?」
「チッ」
「なァレスター! まだかァ⁉︎」
「あっちもお仲間? 小エビちゃん送り返して何がしたかったの? 自分達の研究結果が正しいって証明したかった? 異世界なんて誰も見たことないもんねえ、元々異世界から来た小エビちゃんじゃないと、ほんとに異世界と繋がったのかなんてわかんないもんねえ」
いっそ穏やかな表情と語り口でフロイドは言う。監督生は全くわけがわからない。何かが弾かれた気配がしてから、目の前がぐらぐらと揺れている。
「わ、私、元の世界に帰りたくて……いや、でも、帰る……帰りたい、けど、元の世界……?」
「しっかりしてよ小エビちゃん。まさかジェイドとのこと忘れてたりしないよね?」
「ジェイド先輩……? せんぱい、は、帰っていいって、卒業まで、選んで、一緒に……⁇」
「わあジェイドかわいそー。プロポーズしたって聞いてんだけどオレ」
フロイドの意識が一瞬逸れた。その隙をつき、レスターが放った拘束魔法がフロイドを床に引き倒す。
「ってえな! くそ、油断した!」
「さあ、こちらに来るんだ! 帰るんだろう⁉︎」
は、と我に返る。そうだ、元の世界に帰るんだった。こんなに沢山の人を巻き込んで、協力してもらって、帰らないなんて許されるわけがない。
顔だけを無理やり動かしながらフロイドが叫ぶ。
「おい! 操ってんじゃ、むぐ、むごー‼︎」
「少し黙っていてほしい。手元が狂ってしまうからね」
先程までの重さは何だったのかというほどスムーズに足が動く。手間取らせてしまった。早く鏡の側に行かなければ。フロイドを避けてレスターの方へと監督生は歩いていく。あと三歩、二歩、
「無様ですね、フロイド」
一歩、レスターの伸ばした手が空を切った。
「今度はなんだ⁉︎」
監督生の体に赤黒い触手のようなものが二本巻きついている。吸盤がついており、うまく監督生の手足を拘束して引き戻したそれは床から生えていた。むぐごごとフロイドが唸る。
「また邪魔か!」
「レスター、待て、さッきの魔法の話は本当か!」
「今はそんなことはどうでもいいだろ!」
「いいわけあるかァ! まさかそいつにユニーク魔法使ッてたのか⁉︎」
「だったらなんだ!」
「……内輪揉め、というやつですかねえ。ここには無様な人物しかいないのか?」
出現させた魔法陣から優雅に登場したものの、誰にも注目されなかったアズールは、己の蛸足の一部で監督生を拘束したまま呆れたように成り行きを見る。更に煩くなりそうだったので、足元でむぐむぐしているフロイドのことは無視をした。
幾重にもなる魔法式を制御しながら、集中を切らさないギリギリまで力を込めてノーマンは研究の相方へと問いかける。
「どこまでがそいつの意思だ」
「全てだよ。全てこの子自身の意思だ。私はただ、隠れていた望みを表に引き出しただけだ」
「知られてないと思ッてるかもしれんがね、ぼかァキミのユニーク魔法を知ッてんだ。それ、望みを捻じ曲げるだろう?」
「……何故、きみの前で使ったことはないはずだ」
「学生の時に——」
「失礼、他人の思い出話に興味はないんですよ」
知りたいことは全て聞いたとばかりに、涼しい声でアズールが割り込む。
「つまり、監督生さんの望みを『元の世界に帰る』と捻じ曲げ、それを後押しするよう周囲をも捻じ曲げたということですね? 珍しい、強力なユニーク魔法です。こんな時でなければ契約の打診をしていたかもしれません。実に残念だ」
大袈裟に嘆いてみせ、当事者でありながら何がなんだかわかっていない様子の監督生を置き去りに、アズールは話を進めていく。
「で、こんな大掛かりな事をした理由ですが……大方、研究成果が出なくて焦ったか、もしくは研究そのものに取り憑かれたかでしょう。魔法式の様子を見るに、あなたは後者ですね。非常に巧緻で素晴らしい。異世界人を解剖して調べたいと言わないだけ僥倖と思うべきなのでしょうね」
「……興味があるのは異世界そのものだ。人体はどうでもいい。今はな」
「レスター……!」
否定をしない。それは肯定と同じことだ。信じられないものを見る表情でノーマンは道を踏み外したかつての仲間を見た。
「素晴らしい洞察力だ、蛸の人魚。いかにも、きみが言う通りだよ」
「おや、どうして僕がタコの人魚だと? 使い魔を使役しているだけかもしれないでしょう?」
「あまり大人を舐めるなよ。使役魔法か本体かなんてすぐにわかる。それにその魔法石、オクタヴィネルだろう。あの寮には人魚が多かった」
ふんとつまらなそうに鼻を鳴らしてアズールは話題を変える。
「そんなに異世界に興味があるなら、自身で行ったらいいでしょうに」
「現状、異世界への確実なパスは強くその地を思うことでしか繋がらない。何もない私が飛んだところで、どこかの異世界にたどり着くか、狭間で彷徨うかは賭けでしかない。だから、その異世界人と共に行くのさ」
「……成る程。動機は十分わかりました。あなたが監督生さんを道具としてしか思っていないこともね」
「当然だろう。何年焦がれたと思っている。それは私の夢の必需品だ。返してもらおうか」
「だ、そうですよ。あなたも仲間ですか? 違うのであれば、その術式を止めればこの方の夢も終わると思いますが?」
視線をノーマンへと向けアズールが言う。魔法の制御と仲間の犯罪告白で精神がすり減り憔悴しているノーマンは、それでも軽く聞こえるように努めて言った。
「そいつの犯罪行為にゃあ絡んでないが、生憎もう一人じゃどうにもできねェわ。そいつどうにかしてから手伝ッてくんないかね、キミ天才の類だろォ?」
「否定はしませんよ。ではまず、あなたをどうにかすることにしましょうか」
「舐めるなと言っただろう!」
レスターが片手に出現させた本をめくると、身構えたアズールの背後で殺気が膨らんだ。
「な⁉︎」
「離して、離して、離して……‼︎ 私は帰るんです、邪魔をしたら許さない‼︎」
出せるはずの力を優に超えて、監督生が拘束から抜け出そうともがく。大きく開けた口が蛸足に噛みつく前に、後ろ手足に拘束方法を変えて届かない位置へ避難する。
「これは、厄介ですね……!」
背面では監督生が暴れている。力を抜けば振り払われてしまいそうだ。かといって渾身の力で締めれば人間の手足などあっという間に骨が砕けてしまうだろう。正面ではレスターが隙を窺っているのがわかる。数瞬の心理戦。
先に動いたのはレスターだった。攻撃魔法を幾重にも重ねて放つ。アズールが防ぎ切らなければ監督生も無事では済まないような、けれど片手間では防ぎ切れない威力の魔法が一直線に迫る。
考える。一度蛸足を緩めて監督生も一緒に囲むように、魔法から守りつつ逃がさないよう檻を作る。頭脳が導き出した解通りに魔法が発現する。腕に響く衝撃。視界に広がる炎と暗闇。耐え切る。片手を払った。次弾に備えるその刹那。
「それを返せ」
「ぐっ!」
咄嗟に防御魔法を展開したが間に合わない。魔力を乗せたレスターの拳に殴り付けられ、弾き飛ばされ床に叩きつけられる。前方のみを守る場合と全方位を守る場合では防御の強度に差が出る。後者の方が一点突破は容易い。相手の狙い通りの行動をしてしまった事を恥じてアズールは歯噛みした。
顔を上げる。監督生はレスターに背を押され、ふらふらとしながらも鏡に向かい共に歩いているところだった。
「さあ思い出せ。親の顔、友の顔、己の記憶、連なる全て! 私は世界を渡る!」
「やめろレスター‼︎」
「心配するなノーマン。いつか必ず戻ってくる。私は私達の研究の成果となってみせる。少し待たせるかもしれないが」
「ちッげェ! んなこた言ッてねェ‼︎ 止まれレスター、落ち着けよ! おい‼︎」
鏡面がゆらりと揺れる。懐かしい自室が見えた。ふかふかのベッド、枕元の時計、開かれたままの机上のノート。私が焦がれていたもの。
監督生は手を伸ばす。肩を抱いたレスターが笑う。フロイドが唸る。ノーマンが、アズールが叫ぶ。
あと五歩。四、三、二。
ざぶり。視界が水に歪んだ。
目の前で監督生がごぽりと空気の塊を吐いた。とっさに息を止めたレスターは現状把握に努める。フロイドやアズールの妨害。違う。学園長達が我に返った。違う。限界が近いはずのノーマンの捨て身の魔法。違う。異世界人が魔法を使えるわけもない。
ならば更なる第三者の乱入。現状把握に努める。水は部屋中を満たしているわけではない。球体状に空中に浮き上がっている。視線上の水面には鏡の輪郭が見えている。異世界人がもがく。意識を失われたら異世界へのパスがどうなるかわからない。最優先事項として意識を保たせることを選び、己と異世界人の顔の周囲に空気の膜を張るよう魔法を使おうとして。
レスターは、長い尾が翻るのを見た。
それがウツボの人魚のものであることも、それが異世界人の番であることも、それが激怒していることも何一つ知らぬまま、水中でうまく身動きが取れないレスターは呆気なくその尾に囚われた。
監督生を腕の中にしっかりと収め、長い尾を害敵に巻き付けたジェイドは、渾身の力を込めて尾を絞め付けた。何かが折れるような感触。到底収まらない怒りのまま、一度、二度、水中で回転をし勢いをつけてから、身体の下半分を水球の外に出すと同時に拘束を一気に緩め、光が弱まりつつある鏡へとレスターを力任せに投げつける。
慣性に従って鏡に一直線に飛んでいく己の身体を止めようと魔法を使う素振りを見せたレスターだが、折れた骨が軋んだ上、肺が空気を求めて喘いだ瞬間にゴボッとむせ込んだ。生き物としての生理現象。短い行動ターンが終わる。それが、ノーマンがこの世界で見た、研究施設で切磋琢磨してきた仲間で好敵手で友人の最後の姿だった。
レスターの身体の一部が鏡面に触れる。ノーマンが背負った魔法式が獲物に飛びかかる大蛇の如くレスターへと収束する。誰かが何かを言う前に、真っ白な光が弾けた。
「……いッてェ……こんな光るなんて聞いてねェんだけどォ……」
ノーマンは目をしぱしぱと開閉する。目が潰れることも覚悟したが、だんだん視力が戻ってきた。まだぼやける視界の中、巨大な海洋生物の輪郭を認めてぎょっとする。
巨大な海洋生物こと人魚姿のジェイドは、びしょ濡れの床に身体を投げ出したまま、腕の中にしっかりと抱いていた監督生へと声をかけた。
「痛む所は、苦しくはないですか? 声は出ますか? 呼吸は?」
「げほ、だ、大丈夫です、ごほっ、鼻に水が」
「見せてください」
「えっ⁉︎ いやちょっとげほっ今見せられる顔を、はぁ、していないので……!」
普段通りのやり取りに、身体の緊張を解いたアズールとフロイドは安堵のため息を吐く。アズールの思考はもう、この騒動の落とし前を誰にどう付けてもらうかで一杯だったし、フロイドは身体痛えなーなんか暴れたい気分ー久々にバスケでもしよっかなーなどと考えながら大きな欠伸をした。
「おい、大丈夫か⁉︎」
「目が潰れるかと思ったんだゾ〜‼︎」
駆け寄ってきたデュースと彼に抱えられたままのグリムが口々に言い、その後ろでは学園長が大袈裟なまでの落胆を身体中で表現しながらぼやく。
「ああ、なんということでしょう……長年の研究成果が、こんな……」
「こんな筈じゃあなかッたんだけど。失敗だ。異世界へのルートは開かなかった」
「あーあ、監督生の故郷が見られるっていうから来たのに、とんだ期待外れだっつーの」
「カニちゃーん、オレすっごくバスケの気分なんだけど、明日部活ある日ぃ?」
「明日はない日で、す、あの、先輩、ぼくもちょっとこの後用事が、ははは」
「部活ねぇの? じゃあカニちゃんでいいや。久しぶりに可愛がってあげるねぇ」
「あー! やっぱりそうなりますよねー!」
エースがフロイドに捕まっている間、学園長とノーマンのやりとりは続く。
「失敗の原因特定をよろしくお願いしますよ、ノーマン博士。それにしても大事に至らなくてよかった。誰も怪我などしていませんね?」
「ッかしーな、飛ばすことは難しくても異世界の様子を垣間見ることはできるッて試算だッたんだけどォ……」
疲労で重怠い身体に鞭打ちながら、部屋の一角に積まれた書物をぺらぺらとめくったノーマンは素っ頓狂な声を上げる。
「なんッだこれ、穴だらけになッてやがる!」
「はい? 虫喰いですか?」
「や、虫とかでなく、論文や理論そのものが虫喰いで……はァ……? 何でこんな不完全な状態でゴーサイン出したんだぼかァ……?」
構築式は穴だらけ、訳も章も完成とはとても言い難く、何よりこの量を一人でなんてとても恐ろしくて身震いがする。金を積まれたってやりたくはない。維持できずに自壊、全員を巻き込んで辺り一帯消滅の未来しか見えないからだ。よくこれで成功するなどと一瞬でも考えたな、としか言えない。
一方デュースは困り果てていた。エースはフロイドに絡まれて……もとい話しかけられているし、学園長はノーマンと何やら難しい雰囲気で難しい話をしている。アズールは自分の世界に入ってしまっているし、監督生のことは人魚姿のジェイドがきつく抱き締めていて離そうとしない。更に言うならこちらからは髪の毛しか見えない状態なので安否確認のしようもない。
「……オレ様、腹が減ったんだゾ……」
「グリムもか、実は僕もだ。提案なんだが、二人で出口を探しに行くというのはどうだろう」
「賛成なんだゾ!」
まったく人騒がせな子分なんだゾ、とぶちぶちぼやきながら、どこまで続いているのかもわからない白い空間をてちてち歩くグリムの後ろをデュースがきょろきょろしながらついていく。
そして、当の監督生も困り果てていた。
頭がぼやぼやしていることも、なんだか記憶が定かではないこともそうだが、なによりジェイドが離してくれない。会話はしてくれるが、顔をぎゅっと胸元に押し付けられたまま身動きがとれない。どうして先輩がここにと訊けば、使えるものは全て使って休まず駆けてきましたと本当なのかわからないような事を言う。人魚のままで苦しくないですか、と訊けば大丈夫ですと返ってくる。そろそろ離れませんかと言った時は最後まで言わせてもらえず「嫌です」と一蹴された。
「……あ、あの……」
「……指輪」
「はい?」
「指輪、どうしたんですか」
顔は上げさせてもらえないまま、左手の薬指をすり、と撫でられる。そこにいつも収まっているはずのお揃いの指輪は今。
「……ベッドサイドの、ジュエリーボックスに……」
「肌身離さずずっとつけていてくださいとお伝えした筈でしたが」
「起きている間はつけてますよ! あの、ね、寝てる時に失くしたりしたら嫌だなと、思いまして……」
あ、これは、本当に怒っているやつだ。一言一句違えず守らなければいけなかった約束だ。と監督生は思ったが、ジェイドは顔を上げないまま、深くため息を吐いて「説明不足だった僕がいけませんでしたね」と逆に監督生に詫びた。
「あの指輪、かなり強力な反射の魔法がかかっています。僕は今年実習でなかなか傍に居られないので、今回のように魔法実験の失敗に巻き込まれたとしても間に合わないかもしれない。もしも貴方が悪意ある魔法に晒されたとしてもすぐ気が付けないかもしれない。ましてや来年は卒業、益々離れてしまいます。今後は、くれぐれも、肌身離さず、つけていてくださいね」
思い出した。確かに指輪を受け取った当時そんな事を言っていた。ペアリングに浮かれきっていてもきちんと聞いてはいて、実際入浴時も眠る時も肌身離さずつけていたのに、ある夜寝ている間に無意識に弄って取ってしまったようで朝方に紛失、半日ほど必死で捜索したことがあった。その恐怖から説明をすっかり忘れ、それ以来夜間はボックスにしまうようにしたのだった。
監督生は蚊の鳴くような声で「……今後は絶対外しません……」と誓った。それよりも更に小さな声でジェイドが何かを呟く。
「…………った」
「……先輩?」
「まにあわないかと、思いました」
漸く合わせてくれた目は赤く潤んでいて、薄らと隈が浮いていた。水がぽたぽたと滴っている様が泣いているように見えて、監督生はそれを拭おうと慌てて頬に手を伸ばしたが、ジェイドはその手をそっと取って自身の唇へと寄せた。
「わ、」
「魔法式の暴走とその近くにいる貴方を見た瞬間、心臓が止まるかと思いました。もう二度と、僕に黙ってどこかへ行ったりしないでください。喪うなんてもう耐えられないんです。僕は自由に飛び回る蝶のような貴方を心から愛しています。けれど、手の届かない蜘蛛の巣にかかるのをみすみす見逃すような愚かなウツボに成り下がるくらいなら、蝶が決して傷つかない箱庭に閉じ込めて」
「そのくらいにしておきなさい、ジェイド」
声と共に暖かな風が監督生を包み、濡れた髪や衣服が瞬間乾燥される。魔法を使用したアズールは、ジェイドに変身薬を手渡しながら監督生へ憐みの視線を向け言った。
「あなたと一日連絡が取れなかっただけでこの様です。こいつは本当に色々とやりかねないので、己の身を案じるなら不安要素は極力排除するよう努めたほうが自身の為ですよ」
「はい……」
「それに、今回は本当にあなたに魔法実験失敗という危険が迫っていたということでよしとしますが、たかが! 恋人が連絡に出なかったというただそれだけで! 自分が一番遠い実習先であるから保険の為というただそれだけで! 急に実習日程を変えるなどという将来が台無しになりかねないような危ない橋を! いくら同郷の友人とその番のためとはいえ、そう何度も渡らされては堪ったものではないのでね! ねえ学園長?」
監督生に向けているようでジェイドへの嫌味の最中、猫撫で声で話題を振られた学園長は「はい?」と間の抜けた声を上げる。オーバーリアクションで頭を振って、アズールは責任者への詰め寄りを開始した。
「善良な生徒達をこんな騒動に巻き込んだのです、勿論責任は取っていただけるんですよね? 僕達が間に合わなかったら、魔法の暴走で死者が出ていた可能性が高い。今回のことは『学園側の事情で実習日程を変え、三名を呼び戻した』という処理をして頂くということでよろしいでしょうか?」
「う、うぐぐ……いいでしょう、今回はそのように処理をしておきます」
「嗚呼! 寛大な御心に感謝致します! これで評価に響くことはありませんね! それはそれとして、学園長も今後は監督生さんを危険に巻き込むようなことは極力避けて頂きたい。僕達だっていつでもあれを止められるわけではないのですよ」
「あれって……長年のご友人でしょうに。それに、今回の事は異世界をひと目見たかった監督生さんと、どうしても異世界とのコンタクトを成功させたかったノーマン博士の需要と供給が合致した結果のビジネスで……」
「『異世界出身の方に心当たりがあります、条件次第ではご紹介できますが……最近新たな魔法施設の導入を考えておりまして……いえ含みはありませんよぉ?』なんつッて割とでかい金額巻き上げてッたのはどこの」
「あーっ! あーっっ‼︎」
魔法薬を飲み終え、じっと動向を見守っていたジェイドが据わった目で淡々と言う。
「次に人の番を金のために売ったら殺しますよ」
「なんとストレートな殺害予告! ちょっと! 私学園長ですよ⁉︎ 退学処分とかもできちゃう立場なんですからね⁉︎」
「おやおや、なんと恐ろしい。恐ろしすぎて、うっかり録音したデータを全世界に公開してしまいそうです……しくしく」
「嗚呼、可哀想なジェイド。最愛の番を金で売られ殺されかけ、それを救うために命を削って遠くの地から駆けつけたというのに退学処分とは! 学園長には慈悲の心がおありではないのですか⁉︎」
「そしてストレートな脅し‼︎ その言い方、私が極悪人みたいじゃないですか!」
「しかし事実しか含まれていませんが」というアズールの言に反論できず、学園長が唸る。
「と、ともかく! もう夜も遅いです。明日からの活動に差し支えますから、学園に戻らないと」
「僕ももう歩けますし、一緒に戻りましょうか。……そうだ監督生さん。学生結婚しましょう」
「はい。……はい?」
差し出された手を反射的に取った監督生は語尾を跳ね上げる。今何と?
「学生結婚です。今回僕は痛感しました。貴方を守る為にはきちんと形から入ることも重要だと。結婚をしていれば、今回の事は『妻の一大事』という家族の問題として正式に休みをもらう事もできた筈。なのできちんと結婚しましょう。戸籍なんてどうにでもなります。そうすると女性が在籍しているのは不自然なのでどうせ学歴に残らないNRCは中退して実習先に借りているアパートで同棲を」
「ジェイドぉ、小エビちゃん引いてっから」
「おや。僕としたことが」
「言いたいことはわかるけどさぁ。まずうちの親が納得するレベルできちんと戸籍整備する方が先じゃね?」
「そうですね。あの人達は心配性ですから、探られても問題ないように作り込まなくては」
「だって。よかったねえ小エビちゃん。これでオレとも家族だよぉ」
にこにこと将来のあれこれを具体的に組み立てていくジェイドに対し、時には頷き時にはやんわり反論しながら一緒にオンボロ寮に到着した監督生だったが、到着早々「部屋が空っぽだから夜逃げでもしたのかと思った」とゴースト達に泣き付かれ、何故かカーテンすら外され完璧に荷造りが済んでいる自室を目の当たりにした心配性の番に根掘り葉掘り質問をされ、「もう二度と相手に黙ってどこかへ行こうとしない」という誓いを再度、骨の髄まで教え込まれることになった。
そして数日後、登校早々にエースから『学園長が身寄りのない監督生を怪しげな研究機関に売り渡し、激怒したジェイド・リーチが研究機関を襲撃し半壊させた後に強引に監督生に婚姻契約を迫ったという噂が広まっている』と聞いた監督生は、生まれて初めて仮病を使って早退し、すっかり元通りな上あらゆるものがペアと化した自室のベッドの上で枕に顔を埋め、明日から始まるであろう全方向からのからかいと詮索にどう対応しようかと頭を悩ませるのだった。