僕のために、忘れていて【2】
「…………………は?」
そう息と共に吐き出すのが精一杯だった。
今こいつはなんで言った?
恋人?
誰の?
俺の?
「ちょっと、俺、今こんなだし、冗談はやめて欲しいつーか……」
はは、と笑って軽く手を振る。よくよく考えてみれば冗談だとすぐに分かる。なのに一瞬信じてしまった自分に1番びっくりする。
アキは少し落ち込んだ顔をした。
「冗談じゃ……ないんだけど」
真剣な声色に茶化せない雰囲気が漂う。いくら俺が記憶喪失だからといって、アキは真面目にこの話をしている事ぐらいは分かる。だけど。
「いやでも、俺、彼女いるし、そもそも男とは……」
言いかけて、どんどん暗くなるアキの表情に言葉が詰まる。何故だかアキの悲しい顔は見たくないと思った。
「彼女とは、別れたって聞いたけど。僕によく相談してくれたよね」
別れた…?
でもまぁ思い返してみれば、正直すごく仲が良かったかと言われればお互い惰性で付き合っていたような気もする。付き合いたての時は虹色だった彼女との関係も時間が経てばそれなりに色褪せくる。これが倦怠期か、と思ったこともあった。倦怠期から抜け出せずに別れるカップルは割といる。俺がこの1ヶ月の間に別れていたとしても不思議ではない。だけど、どうしても彼女と別れてすぐに他のやつと付き合うとは思えない。しかも相手は男。女の子だったら、相談に乗ってもらって、優しくなんかされちゃったらまぁ、そういう事もあるかもしれないけど。
「えーと、アキが俺と彼女のこと相談に乗ってくれて、それで、あの……」
ごにょごにょと声を濁しながら続く言葉を考えていると、空気を読んだアキが口を開いた。
「うん、それで、仲良くなって付き合うことになった」
なんてベタな馴れ初めなんだ。いや、相手が男っていう時点でベタではないか。
「本当にそれ、冗談じゃないんだよな?」
男だなんだと散々否定しておいてなんだが、世の中にはそういう人たちがいるのも理解しているし、そういうこともあり得ると頭では分かっている。ただ自分には関係の無い話でどこか物語の中の出来事のようなものだと思っていた分、当事者だと言われた衝撃は大きい。
アキはコクリと頷くと、一歩俺に近づいて来た。反射的に少し身を引いてしまったのは許されたい。
「ごめん、急には驚くよね……。記憶が戻るまでは僕のこと友達だと思ってくれててもいいから怖がらないでくれると嬉しい……」
また悲しそうな顔をさせてしまった。
俺は俺で驚いているが、アキにしたら恋人が事故に遭って自分の記憶を無くしてしまったとなれば悲しいに違いない。
恋人です、はいそうですか、とは流石にならないが、友達として付き合っていくことくらいは今の俺にも出来るだろう。
「ごめんな。今はちょっと混乱してて酷い態度とっちゃったけど、友達として仲良くしてくれたら俺も嬉しい」
そう言うと、アキはまた笑顔を見せてくれた。やけに長いまつ毛の奥にある茶色い瞳が細められ、そこに自分が写っているのかと思うと不思議な気持ちになる。
「そろそろ、帰るね。心配で押しかけちゃったけど、長居するの良くないし」
「あ、あぁ。来てくれてありがとな」
アキは来た時と同じようにゆっくりとドアを開けると、丁寧な動作でドアを閉めた。ドアが閉まり切る直前、一瞬見えたアキの瞳が更に弧を描くように細められたのが見えたが、すぐにドアは閉められてしまった。
俺はふぅ、と息を吐くと頭に巻かれている包帯を触った。
事故に遭って記憶を無くした。短期間だし大したことは無いと思っていた。だけど、その短期間が俺にとって重要な期間だったなんて、なんて間が悪いんだろう。これからアキには沢山迷惑をかけるんだろうなぁなどと物思いにふけっているとまたドアがノックされた。
「はぁい」
今度こそ水野さんだろう。あれだけ浮かれていたのに、自分の恋人だというアキが現れてしまい、水野さんに好意を寄せるのもいかがなものかという気持ちになってしまった。俺の記憶が無いせいでアキは寂しい思いをしているのに、当の本人がへらへらしているわけにはいかない。記憶が戻れば全て解決するのだから、記憶の回復に努めるのが最優先だろう。
返事はしたが中々ドアが開かない。ドアの向こうに人の気配はあるので、ノックされたのは間違いなさそうだが。
「どうぞー?」
中々入って来ない訪問者に痺れを切らしてもう一度大きめに声をかける。すると、遠慮するような控えめな動きでドアが開かれた。
そして、驚きのあまり声を失った。
「あ、瑠璃華……」
現れたのはさっき別れたと告げられたばかりの元カノ瑠璃華だった。俺の記憶に残るのと違わない綺麗な黒のストレートの髪が揺れている。
「あの、大丈夫…………?」
震える声でそう聞かれ、少し面食らってしまった。確かに事故に遭ったと聞かされたら心配になるかもしれないが、もう別れたのにこんなに早くお見舞いに来て律儀だなぁなどと少しおかしくなる。そう言えば、瑠璃華のそんな律儀な性格も最初の方は好きだったと思い出す。律儀過ぎて融通がきかない部分があって喧嘩もしょっちゅうだったが。
「あ、うん。身体は痛いけど大丈夫」
「そう…………良かった…………」
心の底から安堵してくれているのが分かって俺の気持ちも落ち着く。何故か瑠璃華は緊張しているのか微妙に肩が上がり呼吸も速い。落ち着きなさげに視線を動かして、俺と目を合わそうともしない。
「あの、本当に、ごめんね……ごめん…………」
突然の瑠璃華の謝罪に俺は目を丸くした。ごめんなさいと呟き続ける瑠璃華の声は段々と嗚咽混じりのものになり、深く下げた頭からパタパタと流れた涙が床に染みを作る。震える肩は弱々しく、顔は髪に覆われていて表情が分からない。
俺が事故に遭ったという事と瑠璃華がここまで謝ってくる状況が理解出来ないでいると、瑠璃華は袖口でぐしゃぐしゃになった目元を押さえるともう一度深くお辞儀をして走り去るように病室から出て行ってしまった。
「え……?」
何も分からないまま瑠璃華は居なくなってしまった。何故あんなに泣いていたのか。元カレが事故に遭うのはそんなにショックな出来事なのだろうか。だけど、ひたすらに謝罪していた意味はどうしても分からない。
瑠璃華の行動も分からなければ、アキとの関係も分からない。全部記憶を無くしたせいだと思うと、楽観的に構えていた少し前の自分に頭を抱える。
「早く治さないとな……」
治そうとして治るものなのかと言われれば答えはNOだろう。医者の話でもこればかりはどうしようもないとはっきり言われていた。それでも思い出したいと思ってしまったのだから、努力できることはしたい。
「まずは動けるようにならないとなぁ……」
こんな状態じゃ何も出来ないしな、と鈍い痛みを抱えながら手のひらを握ったり開いたりしてみた。俺は自らの意思でちゃんと動く手を見ながら息を吐いた。