僕のために、忘れていて【3】 事故に遭ってから1週間が過ぎた。
頭の包帯も取れて、身体の痛みもだいぶ良くなってきた。当初は少し動かすだけでも痛んでいた手足も徐々に自分の思うように動くようになり、健康であるありがたみをひしひしと感じていた。
医者からはそろそろ病院内なら少しの間だけ歩き回ってもいいと許可がおりた。今までの人生で1週間ベッドに寝たきりだったことなんて勿論なくて、こんなに自由に歩き回りたいと思う日が来るなんて思ってもみなかった。
薄く開いた窓から少し湿った風が流れ込んできた。さっき水野さんが換気のために開けて行ったのだ。なんだか懐かしい匂いがする。
今日は天気がいいから外に出てみようと思った。随分太陽の下に出てないなぁと思うと、夏の強い陽射しでさえなんだか恋しくなった。
俺はふと窓の外に目をやった。多分そろそろのはずだ。
と、コンコン、とドアがノックされた。そして俺れ返事を待たずに開かれる。普通なら驚くところだが、毎日のことなのでもう慣れた。すぐに嬉しそうな顔のアキが手に紙袋を持って近づいて来た。
「今日も来たよ」
「あぁ、ありがと」
アキはあれから毎日学校が終わると手土産を持ってお見舞いに来た。大変だろうとやんわり断ると、自分がしたくてしているのだから気にしないでくれと逆に断られてしまった。
アキが来てくれて、話し相手になってくれたり、学校であったニュースを聞かせてくれたり、病院から出られない俺にとってありがたい存在になっていた。たまに顔を見に来る家族もここまで親身に話し相手になってくれたりはしない。少しだけ滞在して、今日も元気そうで良かったわ!と笑って帰っていってしまう。家族もそれぞれ忙しいのは分かっている分、引き止めるのは気が引けて、ボーッとしている時間が長くなっていた。
そんな中、アキが居る時は2人で笑って、時には勉強もして、充実した時間を過ごすようになっていた。勉強を教えてもらうようになって気付いたことだが、アキはかなり頭が良かった。これぐらいしか取り柄が無いから、と謙遜していたが、そんなことは無いと思った。まずよく見れば見た目がいいし。
家族といるよりアキと居る時間が多くなり、色々なこと喋ったが、アキは自分のことをあまり多くは語らなかった。記憶を無くす前の自分は勿論アキのことをもっと知っていたはずで、改めて本人に聞くのはなんだか気が引けてしまいそのまま時間が過ぎていった。
「そろそろ散歩に出ていいって言われたからその辺ふらふらしに行こうかと思うんだけど」
俺がそう言うとアキの表情が一瞬曇った気がした。けれどすぐにいいね、と相槌を打ってくれたのできっと気のせいだろう。
「その辺って言ってもどこに行く?」
この感じは一緒について来てくれるらしい。特に考えていなかった俺はうーんと少し悩んだ。
「中庭……とか?」
この病院には綺麗に整備された中庭があった。広さもそこそこあり、ベンチや確かカフェも併設されていて評判が良いらしい。
「あぁ、綺麗だもんねここの中庭」
「行ったことあんの?」
「いつも帰りがけに通るから」
場所が分かっている人と一緒なら心強い。回復してきたと言ってもまだ多少痛みが残る身体で行くから尚更だ。
「はい」
そう言ってアキは手を差し出してきた。反射で思わず手を握ってしまったが、はっとして離そうとした。が、軽く握り返されて少し気まずくなって結局そのまま手を借りることにした。
「ゆっくりで大丈夫だから」
アキの言う通り、注意を払いながら立ち上がる。トイレに行く時以外立ち上がらないため、急には力が入らない。俺はバランスを崩して倒れ込むようにアキにしがみついた。
「うわぁっ」
「えっ」
突然の攻撃に構えていなかったアキは俺を庇うように尻もちをついた。見た目から想像していた通りアキの身体は骨張っていて頼りない。全体重でのしかかり押し倒したような体勢になってしまい怪我をさせていないか焦る。
「ごめ、」
急いで退こうとするが、アキに優しく腕を掴まれ制止させられた。
「急に動いたら痛いでしょ」
「あ、うん。そうだった。ありがとう」
アキだって痛かったところがあるはずなのに、すぐに立ち上がると俺の手を持ってゆっくり立ち上がらせてくれた。アキの手のひらはひんやりとしていて、何故か現実味がないと思った。
「悪い。今度から本当に気をつける」
「うん」
下手をしたらアキまで怪我をするところだった。どうにも注意力が欠けていていけないなぁと気を引き締める。
「あ、ちょっと待って」
おもむろにアキが手を伸ばしてきて俺の太ももの付け根を手で軽く払った。急な接触に驚くと共に少し恥ずかしくなってアキの顔を見た。アキはきょとんとした顔で見返してきた。さっきまでくっついていたのに、アキから少し触れられる方がなんだか焦る。
「ゴミついてた」
アキに下心は無いと分かっているのに、どうにも恋人という言葉が耳に残って離れないでいた。過去に彼女だって何人もいて、それなりの経験もしてきたはずなのに、まるで初恋の時のようにどうしたらいいのか分からなくなる時がある。アキだからなのか、俺の記憶が無いからなのか。今の状況では何も分からずに、ただただ戸惑うことしか出来なかった。
「行こっか」
アキは何も気にしていないといった様子で手を差し出してきた。恋人なら手を繋ぐのは至って普通だ。
じゃあ友達なら?
アキは無言で待っている。俺はどうしたらいいか分からずに差し出された手のひらを凝視した。深い意味は無いかもしれない。また俺が転ばない様に気を遣ってくれたのかもしれない。そう、自分にとって都合の良い解釈だけが頭の中に浮かんで、俺はアキの手をとった。さっきと変わらない冷たい手に僅かに熱が広がった気がした。
***
「やっぱ暑いな……」
「そうだね」
中庭に出てきて、しばらくあてもなく歩いていた。7月の野外はそれなりに暑くて歩いている人もまばらだった。と言っても木陰に入ってしまえば我慢できない程ではなく、時々吹く風が心地良いとさえ感じる程度だった。
「どっか日陰で休めるところないかなぁ」
俺は少し汗をかき始めていて、どこかで休みたかった。カフェに入るほどではないけど、座りたい。1週間動かなかっただけで体力が落ちてしまったのかと少し凹む。
「えーと」
アキは周囲を見渡して場所を探した。俺はアキの方を見て一緒に目線を動かした。
俺の隣で遠くを見るアキは表情は変わらないが少し頬を紅潮させていた。いつも青白い顔をしていて血の気の無さが気になっていたが、いつもと違う雰囲気に少しだけ唇を噛んだ。
「ごめん、暑いよな。もう帰ろっか」
自分のことばかり考えていたが、アキも暑そうだ。
「あ、いいとこがある」
アキは思いついた様に俺の方を見ると、俺の手を取った。
結局病室を出てすぐに離してしまった手が再び繋がってまた熱がこもる。
「行こ」
アキは俺の返事を待たずに手を引いて歩き出した。俺はつられるようにアキの後について行った。
「ここ、良くない?」
アキは大きな木の裏に設置されているベンチの前で止まった。普段みんなが通る道からは木の影に隠れていて存在すら分からない。こんなに奥まった場所まで来る必要があったかと聞かれれば首を傾げるが、折角アキが見つけてくれた場所なので休むことにする。
「はぁー久しぶりに歩いたから疲れたー」
俺はベンチに座るとパタパタと手で顔を仰いだ。
続いてアキが隣に腰掛けた。と、俺が真ん中寄りに座っていたせいでぴったりと密着するような形になった。
「あ、悪い」
俺は場所を移動しようとしたが、アキが制止した。
「このままがいい」
少しだけ含みのある言い方に状況を理解して急に距離が近いことを意識する。アキの方が背が高い分肩の位置も高くて自分と比べてしまう。すると、アキが首を傾けて俺の肩に乗せてきた。普段サイドに分けられている前髪が横になびき俺の肩に触れる。ぴったりと重なった部分が熱を帯び始めて気が気じゃない。暑さのせいだと思うが、それにしては鼓動が早い。
「あ、あの、アキ」
どうしたらいいか分からなくなってとりあえず名前を呼ぶと、アキは俺の肩から頭を離し、覗き込むように見上げてきた。
「なに?」
後に続く言葉を考えていなかった。やめろと言うのは流石にキツイだろうか。やんわりと暑いからと距離を取ってもらおうか。それともこのままでいいんだろうか。
完全に混乱した俺は上手く言葉が出せずにもごもごと口ごもった。アキはまた俺の肩に頭を戻し、戯れる様に俺の手に触れ始めた。存在を確かめるように指で撫でられむず痒くて鳥肌が立つ。
しばらく弄ばれた後、そろそろ本当に我慢ができないと思い始めた瞬間、アキが手を離した。
「リュージの手って僕よりいかついね」
さっきまでの妙な雰囲気を壊すようにアキは無邪気に笑った。
「え、あー、アキよりは俺の方ががたい良いし」
「背は僕の方が高いけどね」
「褒めてるのか貶してるのかどっちなんだよ」
友達の距離感に戻ったアキに少しほっとする。アキには悪いがまだアキを友達以上には思えない。さっきみたいに急に距離を詰められると反射的に拒否してしまいそうで怖い。
「もう戻るか」
夏で日が長くなっていて気付かなかったが、もういい時間だろう。
「そうだね」
アキは立ち上がるとまた手を差し出してきた。俺はその手を取らずに立ち上がり普通を装って笑顔を作った。
「もう大丈夫だから」
それだけ言うと歩き出した。アキの反応が怖くて後ろに続くアキの顔は見れなかった。