僕のために、忘れていて【8】 どうしよう、思わず飛び出してきてしまった……などと自分の今の状況に後悔の色が浮かび始めたのは海の家を走り去って随分経ってからだった。いや、実際はそこまで経っていないのかもしれない。時間の感覚が分からなくなるほど今の自分は混乱しているという事を自覚する。
一旦落ち着こうと身の置き場を探して歩みを進めるが、どうにも落ち着かなくてふらふらと賑やかな海沿いを歩く。思い思いに楽しんでいる人たちの喧騒に気が紛れて丁度良かった。
「あれ? おにぃ?」
ボーッとしながら歩いていると背後から声をかけられた。振り向くと香奈が浮き輪を抱えながら走り寄って来た。香奈の背後には友人と思われる女の子数人が喋りながらこちらを見ている。香奈の友達にしてはみんな大人っぽいなぁなどと今の状況にそぐわない感想を抱く。
「おにぃ1人? アキくんは?」
「あー……別行動」
「別行動? なんで?」
そんなのこっちが聞きたい。
別行動を提案したのは自分なのに、何故か苛立ちやさぐれた気分になる。
「あー、えーっと……お、おにぃも一緒に遊ぶ……?」
「は?」
「いや、なんか、急におにぃが可哀想な生き物に見えてきて」
「可哀想な生き物って」
普段空気を読まない香奈が空気を読んでこんな提案をしてくるなんて、俺の顔はよほど可哀想な事になっていたんだろう。
「大丈夫だから。時間まで目一杯遊んでこい」
「うーん……分かったぁ」
俺は香奈の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、思いっきり腕を跳ね除けられた。
「もう! それやめてってば!」
「悪い悪い」
「悪いと思ってないからいつもやるんでしょ!」
「思ってるって」
香奈と軽口を叩きながら先程のアキの髪を撫でた感触を思い出す。あの時まではいつも通りだったのに。
「じゃあもう行くねー! また後で!」
「おー」
香奈は来た時と同様に友達の元へ小走りで近付いて行き、談笑しながら海の方へ向かって行った。
行く宛も無い俺は、とりあえず日差しから逃れようと砂浜から離れる事にした。もし、アキとあの女の子が遊んでいるところを見てしまったら更に香奈に空気を読ませることになりかねない。
ふと、サンダルと足の間に入り込んだ砂が妙に気になり始めた。ザラザラと不快な感触は手で払っても中々消えない。もう砂浜に足を踏み入れないなら洗ってしまってもいいかもしれない。洗ってしまえば、アキを探しに行こうなどと思う気が起きなくなるかもしれない、そんな事を期待して俺は海水浴場に併設されたシャワールームを探し始めた。
初めて来た海水浴場だったが、各施設の場所は大体どこも同じような場所にあることはなんとなく分かる。シャワールームといったら砂浜から上がった駐車場の近くだろうか。
来た時に通った階段を上がり、周囲を見回すと大きな駐車場があった。その横に思った通り、新しい作りのシャワールームがあった。最近建てられたのか、はたまた改修したのか、俺が想像していた仮設トイレを並べたような作りでは無く、綺麗な建物で中は個室になっているようだった。
と、言っても俺は海には入っていないし、足を洗いたいだけなので、外に併設されている蛇口で済まそうと近づいて行った。
まだ時間が早いせいか、シャワールームに人の姿は無く、遠くの駐車場から今来たと思われる家族連れの楽しそうな声がするだけだった。
俺は力無く蛇口を捻ると生暖かい水が足にかかった。徐々に冷たさを帯びてきて心地良くなってくる。水に洗い流されていく砂を目で追い、全てが流れ切る頃には少しだけ頭がすっきりとしてきた。足の不快感も無くなり、気にしていたことが一つずつ解けていくような感覚になる。
アキのこともきっと色々と過剰になり過ぎてたのだと思う。恋人だとか俺のことが好きだとか、すんなりと受け入れ難い事実のオンパレードでアキに対してどう接して良いのか自分でも分からなくなっていた。俺が本当に恋人であるなら、声をかけてきた女の子に嫉妬して、まんざらでも無さそうなアキを怒らないといけない。でもどこかでそれで合っているのかと自問している自分もいる。
「もうどうしたらいいか分かんねぇ……」
自然と口から漏れた呟きに後悔の色が滲む。曖昧な関係のまま、なんとなく感じる心地良さに甘えてしまった結果なんだろう。
「じゃあ僕が教えてあげる」
突然の声に振り向けば、何故か眉間に皺を寄せて、こちはを睨んでいるアキの姿があった。
アキは何故か俺が前髪を結んだ時のままでいた為、いつも前髪に隠れている目と真っ直ぐに目があった。その瞳の奥が激しく揺れている。
「アキ!? なんでここに!?」
「リュージが勝手にいなくなっちゃうから探した」
「え、……ごめん」
反射的に謝ってから、疑問が浮かんでくる。
「あの女の子は?」
「はぁ?」
出会ってから初めてアキが声を荒げた姿を見て言葉を失う。そんなに怒らせるようなことを言ってしまったんだろうか。
俺が目を泳がせながら悩んでいると、アキはため息をついて前髪をかき上げた。結んでいた髪ゴムが取れて落ちた。それを拾い上げながら近づいて来た。
「ちょっと、我慢の限界」
アキはいつもより強い力で俺の腕を引くとシャワールームへ引きずり込んだ。乱暴に個室に投げ入れられ、入り口を塞ぐように立ちはだかられ、後ろ手に鍵をかけられた。1人用の個室に大の男が2人入っていれば必然的に距離が近くなる。アキは俯いて深く呼吸を繰り返している。
「アキ? どうし……」
俺が質問を投げかける前に冷たい感触が頭から降りかかって来た。
「ごめん、ちょっと、頭冷やさせて」
アキはそう言いながらシャワーの蛇口を捻る。狭い空間だけあって、アキにも俺にもシャワーの冷たい水が染みてくる。だが、意外にも不快感は無く、冷たい水が心地良かった。
「………………アキ?」
アキは何も言わなかった。相変わらず眉間に皺を寄せたままだったが、怒りの色は薄くなっているような気がした。
「リュージは……僕のこと……」
アキから微かな声が聞こえた気がしたが、シャワーの音に掻き消えた。
「アキ?」
先程の激しい空気は身を潜め、今度は急な沈黙が押し寄せた。シャワーの音以外にはここには何もない。名前を呼んでみても、返事をしてくれない。それが何となく寂しくて悲しかった。
「アキ! アキ!」
俺は意地になってアキの名前を呼んだ。アキがこっちを見てくれないのが急に怖くなった。
「アキってば!」
俺は勢い余って倒れる様にアキに縋り付いた。アキは俺の体重を支え切れなかったのか尻もちをつくような形でしゃがみ込み、俺はそれに正面から覆い被さるように膝を曲げた。水で張り付いたシャツのせいで妙にアキとの距離が近く感じる。
俺は正面にアキの顔を捉えたが、長い前髪が水で張り付き表情が見えなかった。
「アキ? 俺なんかした? なんかしたなら言って欲しい…………」
俺は切実に声を出した。
「……恋人なんだから…………」
あれほど口にするのを躊躇っていたのに、気が付いたら空気を震わせていた。
アキは恋人という言葉に少しだけ顔を上げた。
「…………僕もう限界かもしれない」
「それは……俺のせいで?」
アキは否定も肯定もせずに言葉を続けた。
「リュージと一緒にいるとすごく幸せなのに、…………苦しい」
それは俺も同じだと、思った。
「リュージはさ、」
「ん?」
「僕のこと、どう思ってる……?」
「えっ」
急な核心をつく質問に思わず声が裏返る。
アキのことは勿論嫌いじゃない。好きかと言われれば……。
「好き……だと……思う、多分」
シャワーの音に掻き消えてくれないかと淡く願いながら言葉にする。それは恋愛的な好きかどうかは正面分からない。それでもアキに感じる心地良さは好意を持っていないと感じないと思う。
「多分……か」
思案するような声色でアキが呟いた。また悲しませるようなことを言ってしまったかと、内心焦ったが、アキは今度ははっきりと顔を上げ、俺を見つめてきた。
「多分でもいいよ……今は」
優しい声色でそう言われ、胸の奥がぎゅっと縮まった気がした。
「ねぇ、リュージの顔もっとよく見たいから」
アキはおもむろに自身のポケットに手を入れた。
「さっきみたいにまた結んで?」
そう言いながら、前髪を縛っていた香奈の髪ゴムを渡してきた。
「分かった」
俺はそれを受け取ると、前屈みになってアキの前髪を束ね始めた。水に濡れた髪は中々綺麗に結ぶことが出来ず、悪戦苦闘する俺を見て、アキは笑った。間近で見る笑顔にまた胸がぎゅっとなる。
「よし、出来た……」
「リュージ、いい?」
「うん?」
なんとかまとめ終わった達成感に一息つこうとしたとこで、アキが何かを聞いてきた。
「ア、」
聞き返そうとした瞬間、アキの顔が間近に迫って来た。宙に浮いていた手首を掴まれ引き寄せられる。そして唇の微かに触れる感触。
反射的に腕を伸ばした俺は、そのままアキと距離をあけた。
「アアアアアアアアキ!!!! 今何した!?」
「何もしてないよ」
「しただろ!」
「リュージが避けるから何も出来なかったよ」
「でもあたって──」
俺はハッとして一旦落ち着くと、呼吸を整えた。別に初めてって訳でもないし、男同士だし、そんな一々慌てるのは流石に情けなさ過ぎる。
「そういうこと、勝手にするなって言っただろ」
「ちゃんと聞いたよ?」
「意思の疎通が図れてなかったら、聞いてないのも同然だっての」
「えー……」
アキは少しだけ不満そうにしたが、切り替えたように俺を見てきた。
「じゃあ、改めて、いい?」
「却下」
「えー……」
アキに怒りの色はもう無く、駄々をこねる子どものように眉をハの字に曲げ唇を尖らせた。不覚にもアキの唇に意識が集中しそうになって慌てて首を振る。
と、ここで自分たちの状況に改めて気が付いた。
「そう言えばさぁ、俺たちこれで電車乗るの?」
「あ……」
依然出続けるシャワーを全身に浴びながら、パンツの中までびちゃびちゃになっている事を確認して力が抜けた。
「…………ホテル行く?」
「冗談は後で聞いてやるから」
「…………」
俺は無言で立ち上がってシャワーを止めると、香奈になんと説明しようかと頭を悩ませ始めた。