僕のために、忘れていて【キスの日番外編】 アキの目が俺を真っ直ぐに見据えた。
あ、これは合図だ。
俺はそう感じると、ぎこちなく目を閉じた。
案の定、アキは即座に唇に触れてくる。
「…………ん、」
俺が舌を入れるなと怒ってからというもの、アキは俺に深くキスをすることは無くなった。
代わりに、もっとやっかいな事になってしまったが。
「ちょ、アキ、」
「黙ってて」
アキは強い力で俺の顔を固定すると、チュッ、チュッ、わざと大きな音を立てて唇を吸い上げてくる。
「音出すなって」
「嫌」
俺の抵抗はアキを興奮させる材料にしかならないことはもう分かっていた。それでも今抵抗しようとしたのには訳がある。
「誰か来たらどうするんだよ!」
「別に? 困らないけど」
「お前は困らなくても俺は困るの!」
ここが保健室でなければ俺だってもう少しアキに付き合っていた。だけど、ここは正真正銘学校の保健室で今は昼休み中だ。生徒だって、いまは留守にしている保険医だっていつ戻って来るか分からない。そんな状況でとてもじゃないがキスになんて集中出来ない。
「むしろ誰か来てくれた方が好都合なんだけど」
アキは言いながら俺の口の端に唇を寄せた。そして隙をついて舌で小さく舐め上げる。
「だっ、から……」
俺が怒ろうとすると、すかさず唇を押し付けてくる。仕方なく言葉を切ると、安心したような顔をするからそれ以上怒れなくなる。
アキは深いキスをしなくなった代わりにやたらめったら触れてくるようになった。
一応、始める時は人のいない瞬間を狙ってくれるのだが、夢中になり過ぎて周りが見えなくなることも多い。しかも一回のキスがとてつもなく長くなり、周りに気を張っている俺ですら変な気持ちになってしまうこともあった。
俺は薄目でアキの顔を盗み見た。俺に触れている時のアキはとても穏やかな顔をしている。アキのそんな表情を引き出しているのが自分だと、自覚する度に心臓が早くなる。
確実に、俺の中のアキに対する気持ちは大きくなっている。それは分かっているのだが、行動に移せていない。
アキと付き合い始めて3ヶ月。
まだキス以上の関係にはなっていない。
タイミングを逃してしまったと言えば聞こえはいいが、要するに、そういう雰囲気になる度に俺が尻込みし、アキが諦めて、の繰り返しだった。
覚悟は出来た、と豪語したにも関わらず、一旦冷静になってしまうと怖どうしても気付いてしまう。
アキは優しいから文句も言わずに"おあずけ"を続けてくれている。それに甘えているのが現状だ。
「3ヶ月とかマジか〜〜〜〜〜〜それはもう拷問って言うんだよ〜」
ケラケラと笑いながら、乃亜はなんとかフラペチーノに口をつけた。外見だけは可愛い乃亜は周囲の視線を集めているが、本人も、更に言えば乃亜の本性を知っている俺もその視線を全く気にしていなかった。
「うっ……やっぱり…………?」
「アキってば意外に忍耐強い子だったんだねぇー! 乃亜初めて知ったよ!」
アキの従姉妹である乃亜とこうして学校帰りに2人で会うようになったのは最近だ。俺が一方的にアキのことで相談を持ちかけているだけなのだが、面白いネタとして俺のことを見ている乃亜は喜んで相談に付き合ってくれている。
「むしろ3ヶ月も持ったんならどこまで持つか試してみたくならない?」
「さすがにそれはちょっと……」
「えー、絶対楽しいのにぃー!」
乃亜への相談は冷やかしで返されることが9割、残りの1割が有益なアドバイスでほぼ時間を無駄にする事になる。それでも乃亜以外に相談できる相手がいないとなると、飲み物を奢ってでも話を聞いてもらいたくなる。
「そのさ、これから俺たちどうしたら良いのかな……?」
「それって乃亜が決めること?」
「いや、そうなんだけど」
急に真面目に冷たく返されて言葉に詰まる。
俺が気まずい顔をしているのがバレたのか、乃亜は短く息を吐いて、そう言えばぁ〜と話し出した。
「アキってリュージくんが初恋だと思うんだよねぇー」
「えっ?」
「今までそれなりに付き合ってる……って言うか体の関係? だけみたいな人はいたっぽいんだけど、別れても何ともないって顔してて」
「……うん」
「リュージくんの時の取り乱し方ヤバかったでしょ? 誰かのことであんなになるアキの初めて見たんだよー」
アキに関する聞きたく無かった事実まで知っているのが乃亜だ。本人から聞く前に勝手に知ってしまった罪悪感とアキとそういう関係になった人物が何人もいた事実に嫉妬する自分がない混ぜになる。自分にも彼女はいたし、それなりに経験もある。アキの事ばかり気にするのは筋違いだと分かっていても止められない。
初恋、と聞いた時は跳ね上がった心臓も、今は驚くほど消沈している。
「だからさ、多分、アキもどうしたらいいか分かんなくなってると思うんだよね」
「アキが……?」
意外な言葉に虚をつかれた。いつも少し強引に、だけど肝心なところで引いてくれるアキは余裕の塊としか思えていなかったからだ。
「だって初恋だよ!? 訳分かんなくなるに決まってんじゃん! リュージくんだってそうだったでしょ!?」
言われて自分の初恋を思い出す。多分小学校低学年の頃、隣の席に座っていた女の子で、当時は話すのもやっとだった。距離感の測り方が分からなくて、いつも意地悪しては泣かせてしまっていた。
それと同じ状態にアキがなっているなら、余裕の無さは俺と同じくらいかもしれないと思う。
そう考えると少しだけ、これからどうするべきか分かってきたような気がした。
「分かった! ありがとう!」
俺はそれだけ言うと立ち上がった。
「頑張ってねぇ〜」
乃亜は気の抜けた声で激励してくれた。
「アキ! 入るぞ!」
いつものようにアキのお母さんに挨拶をし、アポ無しであることは隠し、家に上げてもらう。付き合い始めてからと言うもの、しょっちゅうアキの家に入り浸っていたため、もう扱いが家族同然のようになっていた。
俺を家に上げて、入れ替わるようにアキのお母さんは買い物に出て行ってしまった。
この家に2人きりだと思うと少しだけ緊張してしまうがここで引くわけには行かない。
俺は覚悟を決めて、アキの部屋のドアを開けた。
「リュージ? 今日は用事があるから一緒に帰れないって言ってなかったっけ?」
「ああ、用事はもう終わった」
乃亜に相談するために、アキに嘘をついていたことを思い出して少しだけ動揺する。
アキはベッドの上に腰掛け、ぼんやりとスマホを眺めていた。
「それで、どうしたの?」
「え、どうしたって……?」
「用があったからウチに来たんじゃないの?」
「あ、ああ……」
いきなり確信をつかれて更に動揺する。来る途中、何度も心に言い聞かせてきたが、いざ本人を目の前にすると言葉が出てこなくなる。
「アキ、あのさ……」
俺の改まった空気を感じ取ったのか、アキはスマホを眺めるのをやめた。
そして俺の方に向き直った。
「絶対に嫌」
「いやまだ何も言ってない……」
「リュージがそんなに改まってるなんて、絶対に悪いこというに決まってる」
アキの中での俺への信頼度の低さに泣きたくなってくる。
少しは話を聞いてほしい。
「別れようなんて言ってきたらまた暴れるから」
「それは勘弁して」
俺はアキの乱心ぶりを思い出して即座に嗜めた。
「ってかそういう話じゃなくて!」
まるで威嚇するかのように俺に向かって視線を投げかけるアキに、俺は大声で遮るように言った。
「ちょっと、こっち来て」
アキは怪訝そうな顔をしながらもベッドから立ち上がり俺の目の前まで来た。
相変わらずアキは上背だけはある。俺は少しだけ見上げる形になり、僅かに怯んだ。
「なに?」
なにも言わない俺に痺れを切らしたのかアキが聞いてくる。俺はというと、ようやく心の準備を終え、アキの顔に手を伸ばした。
「リュ、──」
名前を呼ばれる前に思い切り唇を奪った。考えてみれば、いつもキスはアキからだった。自分から行動を起こすのがこんなにも勇気がいることなんて想像もつかなかった。元カノとキスする時もこんなに緊張したことはなかった。誰でもないアキとすることだからこんな気持ちになるのかと思うと、一層鼓動が早まった。
アキは黙って俺を受け入れてくれた。俺の耳に手を添え、さすりながら俺のぎこちないキスに応えてくれる。アキの手が耳に触れる度、声が出そうになるのを我慢する。ここで俺が気持ち良くなってしまってはいけない。
「…………アキ、」
少し唇を離して名前を呼ぶ。アキは、ん、と短く返事をしてくれた。
俺は意を決してまたアキの唇を塞いだ。しかし今度は口を僅かに開きながら。
俺がアキの唇を舌でなぞると、驚いたように身をひこうとした。すかさず後頭部に手を回し、逃げられないようにする。
中々開いてくれない唇に焦れながら触れていると、アキが俺の腰に腕を回してきた。それを合図に一気に形成が逆転する。
久しぶりにアキの舌に口内を弄られる。怯んで逃げる俺の舌を簡単に捕まえては、遊ぶように撫でていく。
「──っ、アキ」
「リュージから始めたんだから」
「だけど、ちょっと──」
「ちゃんと責任取って」
言いながらまた奪われる。
こんなに激しく求められるのが久し振りで頭が回らなくなってくる。
俺は、とうとう足に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちた。恥ずかしさからアキの顔が見れない。
俺がずっと舌を向いてへたり込んでいると、アキがしゃがんで目線を合わせてきた。
「ごめん、リュージはディープキス嫌だって言ってたのに調子に乗った」
どうやら後悔し始めているらしい。
俺は否定するべく顔を上げた。
「俺だってアキとキスしたいと思ってる!」
「え? なに急に……」
「だけど、正直どう接したらいいのか分かんなくなってて……」
乃亜が言うには多分アキも同じように困っている。
「距離感とか、色々分かんなくなってて……アキのことどんどん好きになっていってるのに、それに応えられない自分がもどかしかったりとか……」
俺の必死の告白にアキは手で口元を押さえた。
「今、僕すごいこと言われてるよね……」
アキはニヤけるのを止められないという顔で俺を見る。そのニヤけ顔が少し癪に触ったが、ここで話が脱線してしまっては元の木阿弥だ。
「だから、少しづつ慣れていこうかなって思って! アキにはまだ我慢してもらう事になるかもしれないけど、俺、頑張るから……」
言い終わらない内に、アキに抱き寄せられた。ポンポン、と頭を撫でられる。
「リュージが頑張ってくれるなら、僕もその頑張りを返さないとね」
「アキ……」
「でもまぁ、」
アキが不自然に言い淀む。
「どこまで我慢できるかは正直自分でも分からないんだけど……」
言いながらアキは俺との間に隙間を作った。
「だから、なるべく早めに慣れてくれると助かります……」
ここでようやく、アキが俺との間に距離を取った理由を察した。遅れて顔が赤くなってくる。
「善処します……」
そう答えるしか道がない。
アキはにっこりと笑うと、ふと真面目な顔をした。
「だけど折角だから、」
「えっ……」
アキは離した身体を再び密着させてきた。
当然、俺に反応している熱もはっきりと感じた。
「今日はもっと触れさせて」
「まっ、」
静止の言葉をかける前にアキの猛攻が始まった。俺はなす術なく、アキに抱き抱えられながら、自分のものとは思えない声色に赤面する他なかった。
fin