僕のために、忘れていて【終】 俺は再び緊張した面持ちで大きな門の前に立っていた。3回目の訪問になるが、何度見ても自分の暮らしている環境とはレベルの違う門構えにどうしても体が固くなる。
「はぁ……」
出来ればもうしばらくは来たくなかった。前回、あれだけ気まずい思いをしたのだから当然だろう。弁明のしようがない状態をアキの母親に見られて、しかもその事に関してはなんの追及もされず、また遊びに来てね、と笑顔で言われ俺は思わず、はい、と答えてしまった。だからと言って、こんなにすぐにノコノコと訪問するつもりは断じて無かった。
俺は右手にぶら下げたコンビニの袋を眺めた。冷たいペットボトルに水滴がつき始め、ビニールがピッタリと張り付いている。俺は折角買った"お見舞いの品"が温くならないうちに覚悟を決めた。
「あら、リュージくん、こんにちは」
チャイムを押すとアキの母親が出迎えてくれた。どうやら俺が一方的に気まずく感じていただけで、アキの母親は特に気にした様子もなくスリッパを出してくれた。
「わざわざごめんね」
「あ、いえ、こちらこそ急にお邪魔してしまって……」
俺が畏まると、アキの母親はにっこりと笑って否定する様に手を振った。
「全然! 寧ろアキの我儘に付き合わせちゃって申し訳ないと思ってるのよ」
「我儘ってほどじゃ……。アキの具合はどうなんですか?」
あれからアキは暴れたせいか、元々弱っていたのか、何日にも渡り熱を出し学校を休んだ。
学校で普通に会えるだろうと思っていた俺は拍子抜けし、休む、とだけしか返ってこないLINEに焦れた。数日経ってようやく来た連絡には会いたい、と一言だけ。そんな連絡をもらってしまったからには会いに行かないといけないと思い、今に至る。
「多分もう良くなってるとは思うんだけど、ほら、あの子構われるのが嫌いでねー。世話焼こうとすると怒って部屋から追い出されちゃうから詳しくは分からなくって」
「…………反抗期ですね」
「ね、嫌になっちゃう」
困ったような顔を作ってはいるが、アキの母親は少しだけ嬉しそうな顔をしている。
「アキね、今まで友達らしい友達が居なくてね」
アキの母親は思い返すようにため息をつくと話し始めた。
「だからなのか物凄く不安定で。あんまり親が介入するのもどうかと思って同い年の乃亜ちゃんに遊び相手お願いしてたりしてたんだけど」
突如出た乃亜の名に反射的に反応してしまう。
「あ、乃亜ちゃんはアキの従姉妹ね。もしかしたら誤解してるかもって思って」
驚くくらいに納得した。アキと乃亜のクセのある性格は親族だったからなのか、と思えば似るのも分かる気がする。
と、ここまで考えて、俺はある言葉が引っかかった。
誤解……?
「でもリュージくんがアキのパートナーになってくれてわたしすっごく嬉しくて」
「は? え?」
「あれ? パートナーって言うんじゃなかった? 彼氏? でもアキも男の子だからそうなるとアキも彼氏ってこと? あれ?」
アキの母親はあたふたと訂正したが俺が疑問を抱いたのはそこではない。
「ごめんなさい、まだ勉強不足で……。でも二人の事は全力で応援するから!」
「いや、あの」
両腕をグッと曲げてやる気をアピールするアキの母親と困惑する俺。余りのテンションに流されそうになるが、堪えて口を開く。
「あの、誰から、その話を……」
今の容疑者は2名。状況からしてどちらかと言えば乃亜の方が怪しい。
「あの子、あれからずっと浮かれてるもの。口には出さないけど分かるわよ」
「はぁ……」
どうやら容疑者が言いふらした訳では無いらしい。それでも俺の羞恥心は変わらない。
「あんなに嬉しそうなアキを見るの久しぶりで」
嬉しそうなアキの顔を思い浮かべて釣られて笑顔になっているアキの母親を見ていると胸が熱くなってきた。目の奥がじんとしてくる。
「だから、アキの事、よろしくね」
「はい」
気まずさも羞恥心も忘れて、俺は驚くほど素直に返事をした。
***
ふぅ、と一息ついてドアをノックする。返事は無いが、中から人が動く音がしたので構わずドアノブを回した。
「アキー? 元気かー?」
緊張が顔に出ないように、なるべく戯けた口調で自分を和ます。滑り出しは順調だ。そう思ったが。
「アキ!?」
いつもより、若干顔色が悪いアキは上半身裸でベッドに座っていた。唯一あった家具のテーブルはアキが壊してしまったため片付けられていて、部屋には新しくなったカーテンとパイプベッドだけが置かれていた。
「なんで、お前」
平静を取り繕うとすればするほど声が上ずる。男同士だというのにまともにアキの方を向けない。
「リュージ」
アキは嬉しそうに立ち上がると駆け寄ってきた。そのままの勢いで強く抱き締められる。
「は!? ちょ、」
「はぁー……会いたかった」
アキの肌に直に触れている感覚に心拍数が上がる。
「離れろ! そして服を着ろ!」
「えー……」
俺は力を振り絞ってアキを突き離す。あのままくっついて居たらどうなってしまったか分からない。
「大体、なんで裸なんだよ!」
「リュージが来てくれるから着替えようと思ったんだよ。そしたらリュージが急にドアを開けてくるから……」
「それに関してはすまん!」
確かに自分も悪かった。
「んで、具合良くなったのか?」
俺がそう尋ねると、アキは少しの間を置き曖昧な返事をした。いつも具合が悪そうな顔をしているが、今日はそれよりも若干顔色が悪いと思ったことを思い出した。
「まだ本調子じゃ無さそうだな」
俺は言いながらアキをベッドまで誘導して座らせた。ベッドに置かれていたスウェットを子どもに着替えさせるかのように頭から被せ、取り敢えず目のやり場を確保する。俺は少し間を空けて隣に座ったが、アキが詰めてきたので寄り添う形になった。アキは少し俺の方に体重を傾けて頭を預けた。肩を貸すなんてなんて事ない仕草も緊張し過ぎて体が固くなる。
顔を少し動かしてアキの方を見ると前髪で隠れてどんな顔をしているのか分からなかった。
自分だけが表情を晒していることに何故だか不満を感じて、俺は手で軽くアキの前髪を払った。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
聞かれて答えに困る。アキの顔が見たかったなんて口が裂けても言えない。
「…………」
アキは無言でポケットから俺があげた髪ゴムを取り出して渡してきた。俺はその意味を汲み取り、アキと向かい合うように体勢を変えた。
いつものようにアキの前髪を一つに束ねるとアキが嬉しそうに笑った。釣られて俺も笑顔になる。こんなに良い雰囲気なのに、それを壊してしまうかもしれない事を言うために俺は口を開いた。
「あのさ、一個だけ、聞いて良い?」
「………………いいよ」
アキは覚悟していたのか、それとも俺の気持ちが分かったからなのか、落ち着いた声で応えた。
「いつから俺のこと……その……」
「好きだったかって?」
「うん。まぁ、そんな感じ」
アキは少しだけムスッとしたような顔をした。
「あの女と付き合う前から」
浮気女からあの女に変わったのは少し反省したのだろう。それでも悪意があるのは変わりないが瑠璃華がやったことを考えれば分からなくもないので訂正せずに話を進める。
「え……そんなに前から……?」
瑠璃華とは高校に入学してすぐに付き合い始めた。それからずっと一緒にいて、2年生になってもその関係は続いていた。
「僕、昔から人付き合いが苦手でさ」
「うん」
「高校入っても友達なんか出来なくて、クラスにも居づらくなって」
「うん」
「それで保健室に通うようになってたんだけど」
アキの事を誰も知らない理由が分かった。
そんな理由があるとは知らず、学校についてあれこれ聞いてしまったのを後悔する。
「そこで、リュージと会った」
「俺が? 保健室で?」
「うん。なんか怪我したとかで急に来て。でも先生が居なかったから僕が手当てして」
確かに入学早々やらかして保健室に行った記憶はある。ただ、誰が対応してくれたかは全く覚えていない。
「リュージは覚えて無いかもしれないけど」
「いや、そんなことは……」
図星をつかれて言葉に詰まる。焦っているとアキは小さく笑った。
「大したことしてないのに、リュージは僕にありがとう、助かったって言ってくれてさ。それがすごく嬉しくて」
お礼を言うのは当たり前の事なのに。そんな当たり前のやり取りをする相手すらアキには居なかったのかと思うと胸が痛くなってくる。
「そんなことでって思うかもしれないけど」
アキは少しだけ自嘲するように鼻で笑った。
「…………思わないよ」
「え?」
「そんなことなんて思わない」
アキの気持ちを大事にしたいと思った。そんなことと思う人もいるかもしれないが、俺にとっても大切な気持ちだった。
「アキがそう思ってくれたから、俺たち出会えた訳だし」
ちょっと強引だった部分はあるけど。
「俺、あの時、アキに会えて良かった」
今そう思えている事が全てだと思った。色々考えたり、悩んだりしたのがどうでも良くなるくらい自分の気持ちが正直になる。
アキは少しだけ瞳を潤ませながら僕も、と呟いた。
俺は無意識にアキを抱き寄せると少し背筋を伸ばしてアキの額に唇を寄せた。急に恥ずかしくなって触れるか触れないかのタイミングで体を離すとアキは不意をつかれた顔でこちらを見ていた。
「し、仕返し」
以前、不意をつかれた時の事を思い出し、照れ隠しでそう言う。アキは自分の額に手を当てて、微かに残っているかもしれない感触を確かめようとする。
そんな様子がおかしくて、俺は小さく笑うとアキの頭を撫でようと腕を上げた。が。
「リュージのくせに」
俺の腕は素早くアキに掴まれ、身動きできなくなった。続けざまに肩を押され、バランスを崩した俺は背中からベッドへと沈む。
声を発する間も無く、アキは俺の上へと覆い被さり、甘く笑っている。
「アキ──」
名前を呼んで静止する前にアキは自身の名前を飲み込んだ。性急に唇を割って侵入してくる異物に俺は感じたことのない感覚が身体中を駆け巡るのを感じた。何とか無理矢理口を離すと全力で抗議する。
「お前、そうやってすぐ舌いれてくんのやめろ!」
「なんで?」
「なんでって……」
俺がおかしくなりそうだから、なんて絶対に言いたくない。確実に馬鹿にしてくるに決まってる。
「僕、ディープキスの方が好きなんだけど」
「は?」
「でもリュージがそう言うなら」
アキは再び顔を近づてくると、ちゅっ、とわざとらしい音を立てて俺の唇を軽く吸った。その音の生々しさに急に顔が熱くなる。
「あ、ほんとだ。リュージこっちの方が好きなんだね」
すかさず顔を赤くした俺を見たアキは少し嬉しそうに、軽く触れては離れるキスを繰り返した。同時に右耳を優しく撫でられくすぐったくて力が入る。初めは軽いキスに舌を入れられるよりはマシか……と容認していたが、何故だか段々と物足りないような気がしてくる。自分でもなんでそんな気持ちになっているのか分からない。
アキは俺の下唇を軽く噛む。今までとは違う刺激に思わず微かに腰が動いてしまった。それをアキは見逃さなかった。アキは笑うと、顔を横にずらし俺の耳を舐めた。
「っ、」
抑えきれなかった声が漏れると、アキは一層嬉しそうに耳から首筋へと顔を移動させ、わざと音を立てながら唇で触れていった。
これ以上はやばい。そう感じるのに声が出ない。
アキは満足したようにされるがままの俺を見下ろすと、俺のネクタイをゆっくりと解こうとした。が。
アキの手が急に止まった。俺は不思議に思ってアキの顔を見た。アキはさっきとは打って変わって困惑しているような表情をしており、その理由が見当もつかない。
「アキ?」
「いいの?」
「へ?」
「だから、このままやっちゃっていいの?」
俺はハッとして首を振った。アキはあからさまにしゅんとして、ネクタイにかけていた手を退けた。
「やっぱり嫌だよね……男同士でこんな……」
「?」
「前にこうなった時もリュージは嫌がってたし」
アキが何に引っかかっているのか分かった。前にこうなった時の事を思い出したのだ。
「前は無理矢理だったし……」
俺は聞こえるか聞こえないかの小さい声で反論した。間違ってもアキとそうなるのが嫌なわけじゃないと分かって欲しかったが、どうしても照れくさくて声が出なかった。
「今は?」
「は?」
「今は──」
流されそうになった感覚を思い出して、心のどこかではもうアキを受け入れる覚悟が出来ているのを感じた。でも。
「覚悟は出来てる! でもここはアキの家! 下の階にはお前のお母さんもいる! だから無理!」
早口で捲し立てる。一言一句すべてが恥ずかしくて何故だか説明口調になる。アキは呆気に取られたような顔で俺を見つめた後、見たこともないくらい声を出して大笑いし始めた。
今度は俺が呆気に取られて口が開く。
「リュージって本当に面白い」
アキの大爆笑にどうしていいか分からず固まっていると、目尻に溜まった涙を拭いながらアキは息を吐いた。
「分かった。じゃあもうしばらくおあずけだね」
おあずけ、と自分で言いながらアキはまた俺の唇に自身のそれを寄せてきた。
「おあずけじゃないのかよ! 大体何回キスするんだよ」
「何回しても足りないけど?」
真顔で返してくるから言葉に詰まる。
「っていうか、具合悪いっていうからお見舞いに来たのに……」
そういえば流されていたが、今自分がここに居る理由を思い出して反論する。具合が悪いなら安静にしていないといけないし、こんな事している場合ではない。
「僕がいつ具合悪いって言った?」
確かに明確に具合が悪いとは言っていない。しかし、アキの顔色そのものが具合の悪さを物語っている。
「もし、具合が悪そうに見えるならそれはリュージに会えなかったせいだよ」
満面の笑みでそう答えたアキは再び俺の額にキスを落とした。
fin