僕のために、忘れていて【5】「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
俺は誰もいないバイト先のロッカーの前で溢れ出てくる感情のまま間抜けな声を出した。
「おい、なんだよ変な声出して」
背後からコツンと頭を小突かれた。誰もいないと思っていたが違ったらしい。いつもより気持ち力が弱めなのは事故にあった俺への配慮だろうか。
「あ、堤さん、お疲れ様でーす」
堤さんは俺のバイト先のカフェの社員で俺の教育係だ。社員の中では歳が近い方ということもあって、何かと俺に良くしてくれていた。そのお陰で俺はかなり堤さんに懐いていたし頼りにもしていた。
「お前大丈夫なのか〜? まだ退院してからそんなに経ってないだろ」
退院してすぐに学校は夏休み期間へと突入し、一度も顔を出すことなく家に引き篭もる生活が始まった。当然ながら俺が事故に遭ってから入院している間はバイトは休んでいたので、正真正銘の引き篭もりだ。課題が出ているのでやる事がないわけでは無いが気分が乗らない。そこで俺はある考えに至った。
突然シフトに穴をあけてしまっている罪悪感もあったが、何より人生初の入院生活で想像以上に世間との繋がりが恋しくなり、退院して直ぐに無理を言ってバイト復帰させてもらったのだ。
「検査でも異常無いって話だったんで大丈夫です! それに俺、労働出来る感動を噛み締めてて」
「それでさっきの間抜けな鳴き声か」
「鳴き声って!」
堤さんははっはっはと気持ち良く笑うと、俺にエプロンを手渡してきた。キチンとアイロンがかけられている。堤さんがかけてくれたんだろうか。カフェの制服の黒のエプロンの感触に何故か懐かしさを感じる。
「学生の仕事は勉強することだからな〜忘れんなよ」
「へーい」
それだけ言い残して堤さんは部屋を出て事務所に向かっていった。バリスタ姿の堤さんは後ろ姿も様になっている。相変わらずカッコいいなぁと離れていく足音に耳を傾ける。
たまたま入ったこのカフェで女の子に囲まれている堤さんを見て、俺もああなりたいとバイトを志願した。動機は不純だが、堤さんと一緒に仕事をしているとためになる事も多く、結果的にバイトをしている時間がとても充実していると感じていた。
「よーし、今日も頑張ろ」
俺は久しぶりの労働に気合を入れるとエプロンを頭から被った。
***
「お待たせいたしました」
注文されたケーキをテーブルまで持って行き番号札を受け取る。と、番号札が滑り落ち、テーブルの下に入ってしまった。
「あ、失礼いたしました」
慌ててしゃがみ込み番号札に手を伸ばす。奥の方に入っていってしまっていて、限界まで手を伸ばす。すると指先にプラスチックの感触を感じた。指先で番号札を手繰り寄せ掴むと、安心感からすぐに立ち上がろうとした。が。
「いっ、だ!!!」
散々気を付けろと医者や家族から念を押されていたのに、テーブルの裏で派手に後頭部をぶつけてしまった。再びしゃがみ込んで後頭部を手で覆う。少し涙が出てきた。また記憶が消えたらたまったものじゃない。ウンウン唸りながら動きを止めた俺に頭上から声がかかった。
「あの、大丈夫ですか…」
慌てて顔を見て上げるとケーキを注文してくれた女の子2人組が心配そうな顔で俺を見ていた。
「あ、大丈夫で……あ!!! ケーキ! ケーキは無事ですか!?」
俺は頭が痛いのも忘れて慌てて立ち上がり、テーブルの上を確認した。そこには被害を受けていないケーキがちょこんとそこにあった。映えを狙って不安定に飾り付けられたクッキーも微動だにしていない。
俺はホッと息を吐いた。
テーブルが固定されていた事で被害を免れたらしい。その分、俺の後頭部が大変なことになったが。
「はぁ〜良かったぁ……」
慌てて行動するなと堤さんからいつも言われていた。それなのに今日もやらかしてしまった。バイト復帰初日から反省会をやらないといけないなんて自分が情けない。
俺が目に見えて凹んだ顔をすると、突然女の子達が声を出して笑った。
「大丈夫そうで良かったです。ケーキも無事なんで気にしないでください」
そう微笑んだ女の子が女神に見えた。いや本当に女神なのかもしれないと本気で思った。
茶色に染められたふわふわの髪の毛が揺れる度についそれを目で追ってしまう。気づけばポカンと口を開けていてしばらく固まってしまっていた。
「あの、」
控えめに女の子から声を掛けられてやっと我にかえる。女の子は少し言い出しにくそうにした後、意を決したように口を開いた。
「お兄さんしばらく見ないなぁと思ってたんです」
「え、」
「あ、や、あの、変な意味じゃなくて、」
女の子は、慌てた様子で必死に手を振り少し俯いた。髪の隙間から見えた耳が心なしか少し赤い。その様子に少しずつ鼓動が早くなってくる。
もしかして、これは期待してもいいんだろうか……。
一気に邪な思いが頭の中を占拠する。女神か?と思ったほどの女の子だ。こちらとしては大歓迎、なはずなのだが……。
俺は頭を振って考えを正すとにっこりと笑った。
「そうなんですよー色々あって! でもまたバイト再開したんでまたいつでも会いに来てください!」
冗談めかしてそう言うと、女の子はあははと笑った。当初の目論見通り、女の子との接点が増えるのは嬉しいが、今は色々状況が変わってきた。安易に誘いに乗るのは誰に対しても誠実じゃない。
早く色んなことをはっきりさせて、恋人といちゃいちゃしたいなぁと思った瞬間にアキの顔が浮かんだ。
いや、アキはそういうんじゃないから。
「じゃあまた会いにきますね!」
冗談に乗ってくれるこのノリがとても心地良い。笑顔で手を振る女の子に後ろ髪を引かれつつもテーブルを離れた。
キッチンに戻ると次のケーキが用意されていた。今日はなんだか忙しい。鈍った体と感覚に気持ちが落ち着かない分、いつもより大変に感じる。
それでも笑顔を作ってテーブルまでケーキを運ぶと、目の前に見知った顔があった。思わず声が出る。
「アキ!?」
いつもより何故か冷たく感じる表情でアキは俺を見た。
他に連れは居ないようで、1人で2人用のテーブル席に腰掛けている。黒いTシャツに制服と同じサイズの合ってないジーパンを履いていて、いつものよりに折角の顔が台無しの格好をしている。オシャレなカフェには不釣り合いで微妙に浮いていた。
「なんでここ知って……って言うかいつから!?」
アキはスッと目線を落とすと俺の質問には答えず、静かな声で抑揚なく聞いてきた。
「いつから居たのか気になるんだ?」
「そりゃあ、まぁ」
アキの渇いた笑いに心がざわつく。
「それは、見られちゃいけないことをしてたから?」
「そんなことないけど」
「そっか」
別にアキに見られてまずいことなんてしてないつもりだ。女の子との会話だって接客の範囲内で内心がどうであれやましい事はない。
それでもアキはどこか納得していないような表情で目を伏せていた。その姿に何故かイラッとした。
俺はアキの顔を両手で挟むと無理矢理顔を自分に向けさせた。
「アキ」
アキはとても驚いた顔で俺の瞳から目を離せないでいた。アキの瞳が困惑で染まっていくのが分かる。
と、背後から慌てて駆け寄ってくる音が聞こえてきた。
「す、すみません!」
この声は堤さんだ、と思う前に俺は肩に手をかけられ、アキから引き離されていた。
「お前何やってんだ!」
堤さんは小声で俺を叱咤した。遠目から俺がアキに掴みかかっているように見えたのだろう。
「違います。こいつ友達なんです」
俺がそう言うと、堤さんは少し状況を理解したのか俺の肩に置いていた手を離した。アキは突然現れた堤さんには目もくれず、堤さんの手を凝視していた。
「そうなのか? いや、でもまぁ、一応今は仕事中だからな。友達とふざけるのは程々にしとけよ」
「はい」
社員なのにそこまでうるさく追求してこない堤さんはやっぱり好きだなぁと思う。頭ごなしに怒ってこない所もポイントが高い。益々堤さんの株が俺の中で上がっていく中、引き続きよろしくな、とだけ言って俺の肩をポンポンと叩くと堤さんは元いた場所へ戻って行った。
「今日」
アキが突然喋り出して俺は思わず肩を揺らした。アキは構わず喋り続ける。
「今日、終わるまで待ってる」
「え?」
「一緒に帰ろう」
アキがとんでもない事を言い始めた。今日は後3時間近くはシフトが入っている。流石に待てる時間じゃない。
「終わるまで3時間くらいあるんだけど」
時間を告げれば引くだろうと思った。が。
「分かった」
了承されてしまった。
「いやいやいや、後3時間だぞ? 流石に長すぎるだろ!」
「平気」
これまでの付き合いで少し察してきたが、こうなったアキは頑固でテコでも動かない。
「帰りにリュージが倒れたりしないか心配だし」
そう言われて自分が病み上がりだということを思い出す。言われてみればその可能性もゼロではない。心配だ、と言われてしまうと断るに断れなくなってくる。悩みに悩んだ結果、待っていられたら一緒に帰ろう、気が変わったら先に帰って欲しいと曖昧な返事をしてしまった。
それでもアキはその返答に少し安堵したのか笑顔を見せると分かったと答えた。
俺は少しギクシャクしながらアキの元を離れると、今までの失敗分を取り返そうと、頭の中から懸念事項を消し去り仕事に集中した。