僕のために、忘れていて【10】「どうしてアキくんこっち見てくれないの?……」
沈黙が続いてどれくらい経ったのか。乃亜はアキの身体に縋りついたまま腕を伸ばし、アキの輪郭を細い指でなぞった。が、アキは小さく眉間に皺を寄せると片手で乃亜の身体を押し、自身から引き離した。小柄な乃亜は押された反動で少しよろけて2、3歩後ずさりアキを見上げる。
信じられない、という表情で乃亜はアキを凝視し、肩を大きく上下させた。
「アキくん…………?」
乃亜は小さく口を開き消え入りそうな声でそう名前を吐き出すと、大きな瞳から堪え切れない気持ちが溢れ出すように涙を流し始めた。
信じられないことにその様子を見てもアキは微動だにせず、何故か俺が焦り始めてしまう。目の前の女の子を泣かせてしまっている原因が心当たりは無くとも自分にあるのかもしれないとしたら、このまま黙っているのも良くない気がする。泣き止む気配のない乃亜は俯いて顔を両手で覆っている。
俺はこの空気をどうにかするべく口を開こうとした。が。
「乃亜とは遊びだったの!?」
唐突にヒステリックに吐き出された乃亜の声に思わず全身が固まる。
遊び? ってどういう意味だ……?
普通に考えれば遊びは遊びだ。何ら引っ掛かるような単語でも無い。ただこの場合の『遊び』には急に心臓がドクドクと動き始める程度の意味があることくらい、今の俺にも感じ取れた。
「酷いよ…………」
乃亜の悲痛な叫びが俺の心にも重なり、呼吸が浅くなる。一体、酷いことをしているのは誰なのか、と回らない頭で瞳を動かす。と、その言葉を向けられている人物と目が合い、一層大きく心臓が跳ねた。
「面倒くさいなぁ」
俺と乃亜、2人の視線を一身に受けながら無言を貫いていたアキは、心底気怠そうにそう吐き捨てた。この発言には俺のみならず、乃亜も動きを止めた。驚き過ぎて涙は引っ込み、声も出せずに立ち尽くしている。
「いや、面倒くさいってお前」
このアキの発言に、流石の俺も我に返った。乃亜がどのような人物がまだ完全に分かっていないが、この言い方はあんまりだ。
「なんでリュージが怒るの?」
「はぁ?」
「リュージに対して言ったわけじゃないから安心してよ」
何を勘違いしているのか、アキはいつもの笑顔を俺に向けてそう言った。いつもと変わらないはずのその笑顔に少しの不安と恐怖を感じて思わず目を逸らす。
「そうじゃねぇだろ! お前、今、何言ったか分かってんのか?」
顔がまともに見れない分、少しでも今の自分の気持ちを伝えたくて語気を強める。何故か俺まで泣きたい気持ちになってきたが歯を食いしばって意地でも耐える。
「乃亜のこと面倒くさいって言ったこと? そんなに怒ることかな?」
悪びれない様子のアキにどうしようもない距離を感じて絶望する。もう戻れないところまで来てしまっているような感覚が身体中を駆け巡る。それでもまだ、俺はアキと近づいたと感じた距離を手放したくなくて食い下がる。
「言っていいことと、悪いことぐらい分かるだろ」
先程よりだいぶ語気は弱め、諭すように言った。アキが発言のおかしさに気付いてくれるよう祈りながら。しかし、アキは首を捻った後、何故か自嘲するように笑った。
「リュージは優しいね。浮気相手かもしれない人の為に怒ってあげるなんて」
「は……」
「え、そういうことでしょ?」
段々とアキの顔が恐ろしく見えてきた。あんなに安心して寄り添っていたアキの隣にはもう戻れない気がしてきた。
「やっぱり、乃亜とは……」
押し黙っていた乃亜は掠れるように呟いた。先程から浅く呼吸を繰り返していて、今にも倒れてしまうのではないかと心配になる。俺は話が通じないアキから乃亜の方へ身体を向けようとした。瞬間。
「死んじゃえクソ男!!!!」
乃亜は髪の毛を振り乱しながらアキに駆け寄ると腕を大きく振りかぶり、アキの頬を叩いた。しかし、長身のアキと小柄な乃亜ではリーチの差が大きく、すんでのところでアキは身体を逸らし乃亜の爪が頬を掠っただけに留まった。アキの頬に薄らと赤い線が頬に浮き出る。乃亜は想像していた手応えには全く及ばない空回り具合に思い切り顔を歪めて拳を強く握った。しかし、これ以上仕掛けても勝ち目は無いと悟ったのか、また大きな瞳に涙を溜めながら、乱暴にドアを開け、出ていってしまった。
「リュージ」
小動物だと思っていた乃亜の意外な行動に呆気に取られていた俺はアキに肩を触られるまで正気を失っていた。アキに触られた部分から電気が走るように嫌悪感が広がっていく。
「触んな」
何事も無かったかのような空気を出して近づいて来たアキに吐き気がする。
今の俺はとても正常とは言えないくらい混乱しているが、それ以上にアキがおかしい。こんなやつじゃなかったはずなのに。
「ごめんね」
取ってつけたような謝罪をされ、ますます不快感が増す。この状況で謝れば許して貰えるとでも思っているのか。
「嫌な気分にさせちゃって」
そうじゃない。この場これ限りの謝罪に意味なんかない。
「ちゃんと説明しろ」
「乃亜と浮気してたんじゃないかってこと?」
「は…………?」
堂々と浮気という言葉を言ってのける。そんなアキの態度にもう言葉が出てこなくなった。
急にこれまでに感じていたアキとのズレがどんどん思い返され気分が悪くなっていく。考えてみれば最初からおかしかった。病室にアキが来た時からひどく一方的だった。それでも段々とアキの隣が心地良いと感じて、その違和感は感じなくなってた。しかし、感じなくなっていただけだったのだ。常に違和感は隣にあって、俺がそれに蓋をした。
溢れた違和感はもう止められない。
「…………もういい」
「え」
「もう、別れよ」
その言葉を聞いた瞬間、アキの瞳に暗い影が落ちた。それでも構わず俺は続ける。
「浮気するほど俺のことどうでも良かったみたいだし」
「違う。浮気なんてしてない」
「訂正おせーよ」
今更だ。別に這いつくばって許しをこうアキが見たかったわけじゃない。ただすぐに否定して欲しかった。乃亜とは何の関係もないと、一言言ってくれるだけで良かった。
それだけで、俺は、アキの事を信じられたのに。
「そういうわけだから、今後は友達として……」
「いや、だ」
「せっかく仲良くなれたんだから友達になれたらって思ったけど、やっぱ嫌だよな」
こんな状況になってもアキと離れるのが惜しいと感じてしまい、中途半端な提案で濁そうとしたが、アキにすぐ却下されてしまう。よくよく考えれば虫のいい話で嫌がられるのも当然だ。そもそもアキは俺に興味が無くなって浮気をしたのに。
「ごめん、もう会わないから」
俺はそれだけ言うと、テーブルの上に広げっぱなしだった課題を片付け始めた。すぐでもここから逃げ出したい一心で乱暴にカバンに詰め込む。途中、学校に提出するプリントが破れた音がしたが構わず続けた。
「いやだ」
ぼそりとアキが呟く。俺に向けて言ったと言うよりは誰もいない空間に向かって溢す。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……」
段々とアキの激情は膨れ上がって、その分声も大きくなる。こんなに大きな声を出すアキを初めて目の当たりにし、思わず片付ける手が止まる。
「嫌だ、絶対に別れない」
アキは急に俺の手首を掴むと痛いぐらい締め上げた。
「アキ! 痛い!」
「絶対、離さない」
体格は俺の方が良いはずなのに、アキの気迫に押されてか、身体に力が入らず振り解けない。
「アキ! 離せって!」
「嫌だ!」
アキは俺の手首を引っ張り、乱暴にベッドへと押し倒した。パイプで組み立てられた簡素なベッドは男2人分の重みで軋み、鈍い音を立てて揺れた。
背中に衝撃を感じ、痛みに顔を歪ませているといつの間にか俺の両手はアキに片手でまとめ上げられていた。下半身はアキの脚で固定されていて微動だにしない。いくら俺の方が体格が良いとは言え、上背のあるアキにのし掛かられてしまえばもう身動きは取れない。
俺はせめてもの抵抗でアキを睨んだ。
「離せ」
「嫌だ」
嫌だ、としか言わないアキは困ったような苦しそうな顔をしている。
グッと両手に力を入れて手を振り解こうとするが、案の定びくともしない。
「アキ」
「嫌だ」
話し合いすら出来ない空気の中、アキは息を吐いた。どこか自暴自棄な空気を孕みながら呼吸を繰り返す。
「リュージは僕のことが好きだって言ったのに、なんで別れようなんて言うの……」
驚き過ぎて思わず気が抜けた。自分がした事を全部棚に上げて、まるでこの状況を全部俺が引き起こしたかのように言う。
「そんなの、アキが浮気したからだろ!」
あまりにも頭にき過ぎて声を荒げてしまった。
「だからしてない!!!!」
俺以上に荒げた声でアキが叫んだ。
これ以上話してもイタチごっこだと思った。浮気云々よりも、アキを怖いと思ってしまったことの方が堪えた。
アキは興奮しているのか目が血走り、いつもの落ち着きは影も形もない。折角のかっこいい顔も歪んでいて見るに堪えない。
「ッ……」
アキは一瞬、一層顔を歪めると、俺の目を見た。そして、乱暴に俺のシャツの襟ぐりを引っ張った。留めていたボタンが数個飛び散って音を立てて転がっていった。
「は? アキ? 何して──」
確認する間も無く、アキは俺の首に噛み付いてきた。突然の鈍い痛みに身体が強張る。続けざまに噛み付いた箇所を舌でなぞられ、違った感覚が押し寄せる。
「やめ──」
拒否の言葉を発しようとすると、今度は口を塞がれた。口内に侵入してくる違和感に目尻に涙が浮かぶ。
アキは性急に空いている方の手を俺のベルトまで伸ばしてきた。
俺は必死に抑えていた涙が頬を伝うのを感じながら、カチャカチャとベルトが解かれていく
音を聞いた。
アキは一旦唇を離すと俺の顔を見た。
不意に、アキの力が弱まるのを感じた。
その一瞬の隙に俺は出来る限りの力でアキの手を振り払い、拘束から逃れると、アキの上半身を思い切り突き飛ばし立ち上がった。無我夢中で自分の荷物を拾い集め、突き飛ばされてから微動だにしないアキを視界に入れないように部屋から飛び出した。