消えない残像
「今日の弁当、うまかった」
たった一言。それなのに。
「おう。」
愁の顔が見れねえ。だって、笑ってる──それがどうしようもなく俺の気分を落ち着かなくさせて──。
──顔、上げらんねえ。なんだよこれ、意味不明すぎだろ。
何もかも分からなくなって。ただひたすら食堂の床を見続ける。
だけど。
──その視界にさえ、愁のつま先が入り込む。
動揺して後ずさる。──が、既に食堂の壁に追い込まれていた俺は、もうこれ以上、さがることなどできねえ。──ぐっと更に愁の気配が近付く。
「明日もよろしくな」
ただ、逃げらんねえ。──それだけはどうしてか分かってしまった。
**************
校舎裏にあるベンチ。そこに座って昼飯を広げる。朝、きっちりと包んだ風呂敷は、皺一つなくきれいなまんまで。もったいねえがそれをゆっくりとほどいていく。
──補講も残すとこあと1日半。昼のチャイムと共にとっとと教室を出て、ここに来た。今日も天気が良いからちょっとばかし暑いが、あそこに比べりゃここは日陰も多いしそうでもねえ。
ベンチの後ろに並ぶ木々が、影を作っているからだ。──そこを通って時々、涼しい風が通り抜ける。
風呂敷から出てきた弁当の蓋を開け、箸を取り出す。今日のメニューは那雪曰く白身魚のソテー、付け合わせに焼いたパプリカとピーマン、スナップえんどう、なすの和え物。それと甘い玉子焼き。それらをざっと眺めたまんま、固まる。──食欲がねえ。目の前の弁当はうまそうだなって思うし、実際にうまいって分かってるのに、さっきから一向に箸が進まねえ。
そのまましばらく固まっていると、ベンチに広げた弁当の向こうから、盛大に息を吐く音が聞こえてくる。
弁当の向こう側──二人がけのベンチのもう一方の端に座わってるのは、久しぶりに昼飯を一緒に食っている聖だ。俺はそれを一瞥だけし、また弁当を眺める。向こう側からはもう一度同じように息を吐く音が聞こえてきて。
「結局何が不満なわけ?」
聖が意味不明なのはいつものことだけど。別に不満なんてねえよ。
「そんなもんねえ。」
じっと弁当から視線を外すことなくそう返す。とりあえず一口──と、箸を玉子焼きへと伸ばす。少しだけ端が焦げてるが、味は悪くねえ。──ちょっとばかし甘い気もすっけど。
まあ、愁にはきれいに焼けたやつ入れたし、無罪だろ。
「あっそ。じゃあ機嫌良くしてくんない?」
そう言って、聖は最後の一口を口にする。──どうやら購買で買ったらしいサンドイッチは全て食べ終えたみてえで。
「…………別に、普通だろ。」
次はメインの白身魚。ついでに付け合わせの野菜にも箸を付け、少しずつ昼飯を食べる進める。──相変わらず食欲はねえが、食べないことにはどうしようもねえ。
「普通じゃないから言ってるんだけどね~」
一向にそっちをちゃんと見ねえ俺なぞお構いなしに、飲み物を一口飲んだ聖がそう愚痴る。
お前を押し付けられた俺の気持ち分かる?──とか何とか。ついでに意味分かんねえことをぐちゃぐちゃ付け加え、聖がまた息を吐く。──つかさっきから何なんだよ。有罪過ぎんだろ。ちょっとうぜえ。そんな態度が漏れ出たのか。
「うん、だから俺に当たらないでくれる?」
にっこりと。あの腹黒を隠しもしねえ笑みを向けられてしまい。
──そんな有罪過ぎる微笑み、いつもなら何とも思わねえし、無視するだけだが。
「自分で機嫌良いって言ったよね?」
と、ついでのように付け足され。
「……………………」
──んなこと、言われたって。
視線を再び弁当の上に落とす。玉子焼きと違い、両面程よく焼けた白身魚。味付けの塩コショウは那雪がやっただけあって、絶妙にうまかった。──付け合わせの野菜の塩コショウは俺がやったから、少しだけ味がばらついてる。許容範囲と言えば許容範囲だろ。──多分。なすの和え物もちょっとだけ入れるもん間違えたんだが──まあ、うまいから無罪だろ。那雪だって大丈夫って言ってたし。
──でも、こいつら──パプリカやピーマンになすとか──の下ごしらえは、ほとんど俺がやったんだ。味付けはともかく、作るのは俺だってやったんだし──。
スナップえんどうの筋とりだって。那雪じゃなくて俺がやったんだぜ。──へたをうまくとらねえと筋もうまくとれねえとか有罪だろ。
「でもきれいにできただろ、愁──」
そう言って顔を上げて固まる。──ちげえ、今目の前にいるのは聖だった。
「あー、わりい……」
何故か嫌そうな顔ではなく、目を見開いて固まった聖から視線をそらし──そのまま校舎の方へと顔を向ける。白い建物のせいか、さんさんとあたる太陽が反射して、少しだけまぶしい。それを目を細めて──ただ、じっと見つめる。
時々、ベンチの上から影が落ちてきて、視界を覆う。まぶしさがやわらいだ一瞬──見えた残像を振り払うように目をつむる。風が吹く度に木陰は揺れ、まぶたの向こう側を明るくしたり暗くしたりを繰り返す。
──そんな中。ゆっくりと息を吐き出した聖が口を開くのを感じた。
「とりあえず、弁当食べなよ。」
どんな顔をしてんのかは見えねえけど。有無を言わさない聖の圧力に負け──目を開けて、のろのろと箸を動かした。
昼休みになった瞬間に。挨拶もそこそこに弁当を抱えて教室を出た。今日は愁とは食わねえと──弁当渡すのは那雪に頼んだと──朝、学校来る前に聖には話してあった。だから、そっち(team漣)で食う、とも。まあ、実際、校舎裏来たのは聖だけだったけど。別にそれ自体はいつもの事だし──気が向いたら一緒に食べるし、そうじゃなきゃバラバラで食べるし──来なくたって一人でここで食ってた。
だけど。
愁に顔合わせねえと決めて。──逃げ出しといて。
愁の事考えちまうの、ダセえだろ。有罪じゃねえか。
この弁当を広げた時、愁がどんなリアクションをとったのか。──気にならねえ訳じゃねえけど。
ただ。
あの愁の笑顔をもう一度見たとき、俺はどうしたらいいのか分からない。それだけだ。
***************
寮生活してて会わねえようにすんのは、意外と簡単にできる。──だから今日一日、愁と会わねえ洋にするのもできるって思ってた。
愁が大体どの時間帯に夕飯を食べに食堂を利用しているか知っていたから、避けるのは簡単だった。
このまま会うことがなければ、あとは明日の一日のみ。
弁当作りは言い出した手前、途中でやめんのは嫌だったし、愁には食べてもらいたかったからやるけど。そこと昼さえ逃げきれば、明後日からは夏休みだ。──愁から逃げてんの、まじでだせえ。有罪だろ。
でも、明日が終われば──しばらく愁と会うこともなくなる。
今の俺にはとにかく愁と会わないこと、それだけが重要だった。だって──
──だって、あんな愁の顔、初めて見た。
初めてだった。あんな風に笑う愁を見たのは。
昼の時間を一緒に過ごすようになって。オーランド役を競っていた時の愁とも、普段の授業中に盗み見る愁とも、全然違え愁の顔を。確かにいっぱい知ることはできた。今まで知らなかった愁の表情──無表情のようで、時々口角が上がってること、逆に眉間にシワが寄ることがあること、からかう時は案外有罪な顔をしてること、時々、まぶしそうに目を細めること──色んな愁の顔を知った。
案外食欲に従順で満たされるまではひたすら食い続けること、話を聞いてないようで聞いてること、そうは言っても興味ねえことには関心が薄いこと──知らなかった愁をたくさん知って。正直浮かれていた。愁との距離が縮んだようで。だけど。
──ああやって笑う愁の顔は初めてだったから。
詰めた距離が、近付いた距離が、あまりにも近付き過ぎたようで。
そんなつもりなかった。そこまで都合良く考えてなかった。
だから。
怖くなって逃げ出した。
これ以上愁と近付けばどうなるのか。──自分がどうなってしまうのか。
鼓動が壊れそうで破裂しそうで、息が苦しくなって。どうしたらいいのか分かんねえ。
そわそわと。ぴりぴりと。
すげえ緊張してる。愁に対して。──有罪だろ、そんなの。
だから、しばらく愁に会わなくて済むように。
この動悸やそわそわする感情がなくなるまで。ぴりぴりと体中を覆う緊張感がなくなるまで。──時間が必要だったから。
逃げ出したんだ、俺は。──愁から。
**************
最後の弁当の仕込みを終えて。那雪は用事があるとかで後片付けを引き受け──。特に何も考えず、台の上に残ってる調理器具を片していった。──よく考えたら愁が頼んだんだろうな。有罪じゃねーか。
──まあ、目の前の愁に退路塞がれてる今が一番有罪なんだけど。
大量にあったボールを棚にしまい立ち上がった瞬間、「北原」と愁の声がして。──それが入り口からだったら。もうちょいなんとかなったかもしんねえけど。振り返った先には既に目の前に愁が立ってて。角にある戸棚のとこだったから、後ろは壁だし、これ以上逃げようがねえ。──つか、今逃げたら、 "避けてる" ってモロバレじゃねえか。それは何か有罪だろ。今更だけど。
「片付け、終わったか?」
ゆったりと、愁がそう尋ねてくる。
──まっすぐにこちらを見つめる力強い愁の目に捕らわれて。俺はこれ以上動けなくなる。
「ああ。」
そう返すのが精一杯で。ただ愁のその目を見返すことしかできねえ。じっと。ただひたすら愁は俺を見てくる。
「愁は──お茶か?それならまだポットに──」
「お茶じゃねえ。──お前に用がある。」
愁から発せられる一言一言に。どうしようもなく鼓動がひどく暴れ。──逃げ出してえ。やっぱり。
「俺に?」
「ああ。」
そう言って頷いた愁が、もう一度まっすぐこちらを見てくる。
「今日の弁当、うまかった」
たった一言。それなのに。
「おう。」
愁の顔が見れねえ。だって、笑ってる──あの笑顔で。それがどうしようもなく俺の気分を落ち着かなくさせて。どうしようもなくそわそわと逃げ出しい気持ちにさせて。
──顔、上げらんねえ。なんだよこれ、意味不明すぎだろ。
何もかも分からなくなって。ただひたすら食堂の床を見続ける。白いタイルは照明に照らされてきらきらと反射していた。
だけど。
──その視界にさえ、愁のつま先が入り込む。
動揺して後ずさる。──が、既に食堂の壁に追い込まれていた俺は、もうこれ以上──さがることなどできねえ。背中全体にひんやりとした壁を感じ。──ぐっと更に愁の気配が近付く。
「明日もよろしくな」
愁の笑った声が耳元から入ってくる。
──ああ、すごく楽しそうだ。見えねえけど、きっと──からかう時のあの表情をしてんじゃえかなって──。食堂の床、白いタイルの上に有罪な顔をして笑う愁が浮かび──。
ただ、逃げらんねえ。──それだけはどうしてか分かってしまった。
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「よそ見すんなよ」
そう言って笑ったその顔が。
今まで見たことない愁の顔で。
その瞬間はただ嬉しくて、「愁こそよそ見すんなよ」なんてつい返しちまったけど。
気付いたらこびりついて離れていかねえ。
頭の中を占拠した愁のあの笑顔のせいで。俺は翌日もそのまた翌日も。ずっとどうしてかそわそわと、そわそわと落ち着かない気持ちになっていた。