空閑は訪ねる ──愁はずりい。
いつだって、こっちはいっぱいいっぱいなのに余裕綽々で。
「愁はずりい。有罪」
じとっと。目の前にある、愁のその顔を見つめながら伝えるが。
「急に何だ」
横顔を向けたまま、こっちをまるで見ずに返答を寄越した愁は、さっきからずっと漫画本に夢中で。
「ずりいからずりいんだよ」
一向にこちらを見ない愁に焦れて、その肩に頭突きをする。ぐりぐりと頭を押し付けるが、漫画に夢中な愁は、俺のこの行動すらもどうでもいいらしく、全くの無反応だった。
「あ、そう」
そう言ったきり。愁は会話を続ける気がないらしく、黙ったまんまだ。
「………………」
愁が話さねえなら、こっちだって喋ってやる理由もねえから──まともに取り合ってくれないのに言うかよ──、お互い無言の状態が続き。しんとした室内は、愁が時々漫画をめくる音だけが聞こえるだけで、とても静かだった。
三学期も退寮も終わった、二年生最後の長期休み──春休みに入ってしばらくした頃。
愁が遊びに来たいと言ったから、今日は引っ越したばかりの俺の一人暮らしの部屋に、愁を招待していた。
あの二月にあったドタバタ劇の前に──まだ退寮と退寮バザーに向けてお互い部屋の整理をしてたある日に──愁から春休みにどこか出掛けないかと誘いのメッセージが入っていた。
まあ、約束だけしておいて特に何も決めなかったから、忘れてた頃に──それこそ終業式が来る頃に──どうせならお前の家に遊びに行きたいと、愁からまた連絡があって。お互いの予定を調整した今日、愁が俺の家を訪ねて来た。
終業式はともかく、退寮はほんの一日二日前の出来事だから、そんなに久しぶりじゃねえってのもあるんだけど。三月入ってからもお互いバタバタしてたから(学期末のテストやら退寮やらで)、ちゃんと顔合わせられたのは数えるほどだったし、こうやって二人で過ごすのも前回から割りと時間が経ってたし。俺としてはそれなりに楽しみだったんだぜ。──それなのに、愁ときたら。有罪だろ、まじで。
夏の時は、俺が愁の家にお邪魔する形だったから、お返しとしてうちに招待する分には構わなかったが。(実家に招待すんのは、とあるリスクを考えるとちょっと嫌だったし)
あの時と違って、課題をするという口実もなかったから、あっという間に暇をもてあそび。部屋に通して、お茶を持ってくる間に、軽く物色する中で見つけたらしい俺の漫画本に興味を示した愁は、『読んでいいか?』と軽く聞いたっきり、ずっとその漫画本達に夢中だった。
──まじでこっちに興味示さねえ。
横から、愁の肩に顔を預けたまま、斜め上を盗み見るが。
愁の目は相変わらず漫画の方に向けられたまんまで。
かさり、かさり。
紙の擦れる音だけが響いてくる。
南向きの部屋だから、ベランダが併設された窓から春のあたたかい陽射しが入り込んでくる。
四畳半の愁の部屋と違い、七畳だったか八畳だったかあるワンルームの部屋はそれなりの広さがあった。と言っても、ベッドを持ち込んであるから、多少の圧迫感はある。
ただ、そこそこ広めの収納スペースのおかげで、部屋の中にタンスを置く必要はねえから、ベッドの反対側の壁には、ちょっとしたテレビと本棚を置くだけで済んで。余ったそれなりに広々としたスペースに、食事をしたり何か書いたりする用のちゃぶ台を置けば。まあ、それなりにワンルームの一人暮らしとしては悪くない空間が出来上がっている。
今後のこともあるからと、親からはもっと広い部屋を──それこそ2Lとか部屋数のある──借りても良いと言われたが。掃除とかめんどくせえし。自分でやんなきゃいけねえのに、もて余すだけだろ、そんなの。それに、一応、一年間はまだ綾薙に通うことを考えて、そこそこ学校からも近い場所で借りたから、どうせそんなに長く住むこともねえだろうし。と、1Kの部屋と玄関の間にちょっとしたキッチン付きの廊下のある、よくある一人暮らしの部屋を借りることにした。
まあ、あとはどうしても防音の壁の厚い部屋が良かったから──じゃねえと、台本読みとか家で出来ねえし──、ちょっと騒いでも怒られないような部屋となると、あんまり選択肢もなくて。
音大生とかが利用するような学生マンション系を選んだだけだった。
それなりの時間が過ぎた気がするが。
未だに、愁が漫画本をめくるだけの音しか聞こえない。
収納機能付きの、そこそこ高さのあるベッドを背もたれ代わりにして。座布団のうえに三角座りで座った愁は、ずっと漫画を読んでる。
愁の肩に頭を預けて、一緒になってさっきから俺もその漫画を眺めているが。読むペースが違えし、何度も読んだやつでもあるから、見ててもつまんねえし。なんだよ。
実家から出る時に、それなりに自分のものは整理しろと言われたが、家にそれなりにある漫画を持ってくる気にはなれず。ある程度ならそのまま置いといても良いと言われたので、厳選して持ってきたそれらは、かなり選り好みして、面白いやつしかねえのもあって。ついつい読み更けっちまうのも分かるのだが。
──漫画に負けるとか、有罪だろ。
ちょっとだけショックを受ける。
まあ、寮の部屋で遊んでた時だって(俺の部屋でも愁の部屋でも)、愁は割りとしょっちゅう雑誌を読んでるか、何かしてるかで、あんまりこっちを見ることは少なくなかったんだが。それでも、話しかければそれなりに聞いてくれてると分かる手応えみてえなもんはあって。あんまり見てくんねえけど、意識はこっち側に向けてる感じがあったのに。今はそれすらなくて、まじで漫画に夢中かよ。やっぱ有罪だ、有罪。
ぐりぐりと再び頭を愁の肩にぶつけて。構えと、アピールする。
けど、今度はうっとうしそうに追い払われ。肩の上から退かそうと愁が横に少しずつずれていく。が、読む手は止めねえらしい。まじで有罪。
ちょっと逃げてく愁を追いかけようかとも思ったが、顔を上げた際に横目で見た時計の指す時間に気付いてやめる。──そろそろ昼飯の用意しねえと。愁を追うことを諦めて立ち上がった俺は、キッチンへと向かった。
愁の家を訪ねた時は、愁のお袋さんが午前中はまだ家に居るからと、昼飯を外で食べてからお邪魔した。お昼もそれぞれで良かったのだが、用意するお袋さんの負担を考えた愁が、自分も外で食べると言ったので、じゃあと、昼頃に待ち合わせをしたのだった。
だから、今回も同じ感じで良いかと思ったのに、愁が午前中からこっちに来たいと言い出して。(だから、何をとは言わないがちょっとだけ期待してたのにこれだぜ。) 昼はどうすんだと聞けば、少しだけ間があいた後に、久しぶりにお前の手料理が食いたいと返ってきて。──何か、ちょっとだけむずかゆかったが、少しだけ嬉しかったから、OKと返事をしてしまい。でもちょっとあんまり自信がねえ。結構本当に久しぶりに作るし。
越してきたばかりなので当たり前だが使ってねえ、キレイなキッチンの前に立って。うしっと、気合いを一つ入れて調理を開始する。献立は、何が食べたいか事前に聞いてあり──じゃないと食材の調達が出来ねえし──、愁が要望したアヒージョと、ベーコンとアスパラとか野菜を混ぜて軽く炒めたピラフもどきと、野菜をたっぷり突っ込んだスープにした。
夏の補講期間中に何回か弁当作りをしたもんだが、結局は那雪主導だったし、あれ以来あんまり作ることも少なくて。まじで何を作ったら良いか分からず、取り敢えず愁が食べたいものを作ろうと聞いたのだが。──最初は、あの時の弁当からラインナップを考えたが。ハンバーグがうまかったとかからあげがうまかったとか言われても、俺一人で作るとなるとそれなりに難易度が高けえから。つか、料理する気はあっても、食材をそんなに買い込んどくつもりもねえし。もっと手軽さと俺でも出来る感じを求めて聞き進めたら、〔それなら、お前がキャンプ行った時に作ったやつが食べたい〕と、言われて。──そういえば、夏休み中に一回だけ逃げられずに姉貴に拉致られて行った(行かされた)キャンプの話を愁にしていたのだった。(つっても、暇だったから話し相手にとメッセージをその場で送って聞いてもらった形だったけど)
そのキャンプ中、また姉貴からの無茶振りに変わったものを作れと命令され。んなもん、無視する一択だったが、殺生権を握られてる状態で歯向かうのはさすがに危険すぎるだろ。だから仕方なく、何か作るかと、作らされた一品のアヒージョを。割りと出来が良かったから、写真だけ愁に送っていて。──それを、どうやら愁は、覚えていたらしい。
あのやり取りを覚えてくれてたのだと知って──だって、愁はメッセージ上でも素っ気ねえから──、かなり嬉しくて。気分がふわふわとしたのは事実だった。〔いいぜ〕、なあんて、軽く安請け合いするくらいには、まあ、浮かれていた。
それが、なんだかんだで、そのための鉄板を実家から持ってきたり、アヒージョとピラフもどきじゃ栄養が偏るからと(脳内の那雪に言われて)、野菜スープを追加して食材が増えたりで、割りと手間がかかっちまったのだが。まあ、愁が喜んでくれるなら、そんなもん無罪だろ。
どうせそんな余裕もなくなるからと、自炊のこととか特に考えず部屋を選んだから。キッチンは寮の台所と比べて大分せめーし、コンロは一個しかねえし、調理台もあんまりねえから、ちっとばかしめんどくせえなと思ったが。まあ、手順考えりゃなんとかなるだろうと、まずは小鍋に火をかけて、スープを作ってくことにする。保存と手間の簡略化を考えて冷凍されたミックスベジタブルを鍋の中に入れて、ある程度炒めてる間に、お湯を湯沸し器で沸かす。ピラフにはアスパラと姉貴のキャンプグッズの中から拝借した──もちろん賞味期限は切れていない──乾燥トマトを突っ込むことにしたので、それらを簡単に切る。ある程度野菜に熱が通ったところで、沸いたお湯と固形スープの素を鍋に加えて少しだけ煮る。ピラフ用の野菜をまな板の端に寄せ、アヒージョ用のじゃがいもの皮を剥く。まな板を少しだけ手前に寄せて、鍋敷きを置いて、煮たった鍋をこの上にどかし、フライパンを取り出す。油──アヒージョ用で買ったオリーブオイル──を少しだけ足らし、火を付ける。さっきの野菜、カットベーコンを炒め、ご飯──炊飯器で炊いてあった──を加えて。こちらも姉貴のキャンプグッズから拝借したアウトドアスパイスを振って味付けをする。と。
「うまそうだな」
いつからか分かんねえが、いつの間にかそこに居たらしい愁が声をかけてくる。廊下と部屋の境目の辺りに立って──ここは仕切りみてえなもんがないから、実は部屋からも丸見えだったりするのだが──、愁はこちらを眺めている。気付いちまえば、あからさまな程の視線を背中に感じるが。一瞬振り返ったものの、火元から目を離す訳にもいかず、じっと見つめてくる愁にちょっとだけ動揺する。よく考えたら初めてじゃねえか?──あの夏の時は愁はほとんど顔を出すことはなかったから。多分作ってるのを見られるのは今日が初めてで。
ちょっとだけ、緊張する。
「おう。もうすぐで出来る」
「何か手伝うか?」
「あーじゃあ、スープ皿によそってくれ」
「皿は?」
「そこの上に入ってる」
手首のスナップを効かせて具材をひっくり返しながら、首を振って場所を示す。──手、離せねえし。ちらっとそちらに目線を向けたから、まあ伝わっただろうと思い、またフライパンの中身を返す。
流し台の上に、ちょこんとくっついてる戸棚を開けて、愁が食器を取り出す。──思ったよりも距離が近え。コンロと流し台の間なんてそう大した距離もないのだから、当たり前ではあるが。なんとなく、ちょっと緊張して身構えてしまう。さっきの方が近かったけど、あれは自分からだったし、愁も何かあんまりこっちに関心なかったし、なんか、なんか──。
「──おい、」
「うお、びっくりした。なんだよ」
急に声をかけられて我に返る。ざっとフライパンの中身を確認してから──こんなもんか──火を止めて、愁の方を見る。
「皿、これで良いか?」
そう言って、愁が手に取ったボウル皿を見せてくる。
「ああ、いいぜ。ついでにこれもよそってほしいから、その隣の平皿も出しといて」
「分かった」
カチャカチャと音を出しながら、まずはボウル皿を運んでく愁を見送って、俺は壁に備え付けられていたフックにかかったおたまを取る。
料理する気はあるが、そういうもんはよく分かんねえし。親から調理道具一式くらい揃えておけと、一通り買わされて。流し台の下の戸棚中に、ちょこんと収まるくらいのちょっとした調理器具は用意してあった。──まあ、そのおかげで、こうやって愁に手料理作れてる訳だけど。
鍋におたまを突っ込んでおき、もう一つの鍋敷きとフライパンを持って部屋の方へ移動する。──あ、そういやテーブル拭いてねえな。鍋敷きの上にフライパンを置いて戻り、布巾を手にすると、愁が代わろうと手を出してくる。それにありがたくお願いし、鉄鍋を取り出して、オリーブオイルをたっぷりと入れ火を付ける。じゃがいもを賽の目上に細かく刻んで、沸騰したオリーブオイルの中に突っ込む。ピラフ用で使った残りのカットベーコンを加えて、火が通るのを待つ。
「よそったぞ」
「ん、サンキューな」
カタンカタンと音を立てながら、流しに鍋やフライパンを置いて、愁は洗い物を始める。軽くアスパラを洗った時に拭いたキッチンペーパーを渡し、油を拭き取ってもらってから、愁は手際よく洗っていく。
「わりーな」
「いや? これくらいはな」
「サンキュ。あ、拭くのはこれ使え」
洗い終わった食器を上げて置くスペースがないから、洗ったらいちいち先に拭かないといけない。まあ、だから、そういうの使う気ねえんだけど。
ぐつぐつとアヒージョの中が煮込まれていく。
愁はあっという間に鍋だけでなく、包丁やまな板まで洗ってくれて。すげえ助かった。このままなら、後片付けが楽に済みそうだ。
「──ん。もう良いな」
よしと、思って火を止める。ぐつぐつと泡立つオリーブオイルの中、ちょうどよく火の通ったじゃがいもやベーコンがおいしそうな色をしていて。鉄鍋を借りる際に一緒に持ってきた鍋掴みを両手にはめ、持っていく。
愁が下げずに置いといてくれた先ほどの鍋敷きの上に置いて。カトラリーを出して、お茶をついで。
「完成! 食べようぜ」
「ん。いただきます」
さっきと同じように横並びで座った俺らは、手を合わせると食事に手を付ける。
ピラフを一口食べた後、そのまま持っていたスプーンをスープへと向けてすくい、口に含む。──ん、一応まだ温けえな。ちょっと冷めてるけど。まあ、冷たくなってねえなら大丈夫か。心配だったから、一安心して、食べ進める。味付けとかもちょっと不安だったけど、まあまあな及第点じゃねえか? まあ、もうちょっとだけ塩味効かせても良かったかもだけど。
「どうだよ?」
ちらりと、横を見て尋ねる。
「ん。うまい」
少しだけ笑って愁がそういうから。──まあ、悪くねえな。
でも。
「……もうちょい何かあるだろ」
こっちは作らされたんだ。もうちょいあんだろ。
「うまい以外にねえだろ」
「つめてえ」
「…………」
俺がじとっとにらんでもどこ吹く風の愁は、こっちを無視して無言で食べ進める。まあ、いい。食べ終わってたからまた聞いてやる。
あ、アヒージョ用のパンとか用意すれば良かったかも。ちょっと後悔する。
「あ、」
「なんだ?」
「レーズンパンならあんな」
「? 何の話だ」
「アヒージョにパン浸して食べるとうめえんだけど、レーズンパンならあるなって」
「……それ、代用になるのか?」
「分かんねえ」
「…………」
「試すか?」
そう問えば、また微妙な顔した愁がいて。面白かったから持ってきて食べてみる。──まあ、好みで分かれる、んな味だな。
「「ごちそうさま」」
また二人して手を合わせて、食事を終える。割りとボリュームあったけど、こんなもんだろ。俺も愁もよく食べる方だからな。もの足りねえよりかはずっと良い。
満腹感で動けず、ベッドに寄りかかってる俺とは違い、カチャカチャと食器を重ねて、愁が流しへと運んで行く。それを目で追って。んー、と伸びを一つ。──もういっちょやるか! と、立ち上がって、同じように食器を持って愁のあとを付いていった。
*********
愁が洗って、俺が拭いて。食器を全て棚へと戻したあと。
ようやく一息付けると、俺はだらしなくベッドの上で横になる。……なんかやっぱり緊張したっていうか。
「おい」
「愁だってまた漫画手に取ってんじゃん」
「これは戻すやつ」
「何かするか?」
ゲーム機とかも持ってきてあるけど、大体、あと何をしたら良いのか分かんねえし。
「愁、何時ごろ帰んだよ」
「もう帰れってことか」
「ちげえ。けど」
だって、分かんねえ。
今日ずっと、愁の目がよく分かんねえ。こっちが見てる時は見ねえくせに。こっちが見ねえと見てくるし。なんか、やっぱり。ずりい、愁は。
ベッドの横に立つ愁の胸と腹辺りに頭をぶつける。
ぐりぐりと、先ほど同様に頭突きをして。
「──痛え」
そう言って愁の手が伸びてきて、俺の頭を愁の体から引き離す。少しだけムッとして、抵抗しようかと思ったが、俺の頭を包み込んだ愁の手がそのまま優しく撫でてくるから。つい抵抗も忘れてそのまま撫でられ続けてしまう。引き離す時は割りと強引だった癖に。今は優しく俺の髪をすいている。なんなんだよ、本当に。有罪じゃねえか。
「……やっぱり愁はずりい」
「……さっきの話か」
「ずりい。愁、有罪」
愁の手に押し付けるように頭をぐりぐりと擦り付けて。そのまま目を閉じる。いつだってそう。愁はなんかずるい。こっちがぐるぐるして、そわそわして、どうしたら良いか分かんねえのに。そこまでの余裕ねえのに。そんな俺をヒラリと躱して、一歩向こうから俺を翻弄する。そんなのずりいだろ。まじで有罪。
「……ずりいってのは分かったが。」
そう愁が言葉をこぼした瞬間に。ガッチリと頭を両手で固定されて。
「お前だって“ずるい”だろ」
急に目の前に現れた愁から、そんなことを言われる。真っ正面にいきなり登場した愁の顔を二度三度、まばたきしながら見つめて。
「──っ! は!? どう考えても愁の方だろ??」
そう思いっきり叫びながら、顔を離す。まじで心臓にわりいな。暖房は入ってねえけどそれなりに暖かい室内でも、さっきまで額にあった愁の熱が消えてくのは一瞬で。ちょっとだけ寂しく思いつつも、バクバクと鳴る心臓を落ち着けようと、必死で愁から距離をとる。──こういうところ! こういうところが俺は“ずるい”って言ってんだ! 有罪! と、口にしようとした瞬間。
「そうやって逃げんのは“ずるい”だろ」
と、当たり前のように愁から告げられて。思わず俺は固まって。
「お前、自覚ねえみてえだけど。俺が距離詰めると逃げるだろ。」
あの時だって、今だって。──そう言って、愁がこちらを射抜く。
真剣な目がこちらに刺さって。抜けなくなる。目も動かすことができずに俺は固まって。
「だから、お前だってずりいだろ」
──逃げんな。そう言うようにまっすぐと、愁の力強い紫色の目がこちらを見つめてくるから。思わず、そこから逃げ出したくなる気持ちをこらえて、見つめ返す。それこそ、そっから逃げたら俺のが有罪だろ。だから、逆に向こうが根負けするくらい見つめ返して──その紫色の目、睨み付けて。
「逃げねえなら、愁もずるくなくなるのかよ」
俺を翻弄する愁がずるいって話で、なんで俺が逃げてるって思われてる話になんのか分かんねえけど。そうやって言うなら、愁だって、それ、やめてくれるのかよ。
「…………」
「愁」
「……お前次第だ」
「じゃあ、逃げねえ」
だんだんと腹が立ってきた。自分のこと、棚に上げやがって。時々、愁はそういうことをする。俺にはぐちぐち言うくせに、自分は悪くないって言って、俺のせいにして。ちょっと前のあん時だって。自分の優位がちょっと危うくなるとすぐ冷たくなって。
──やっぱり愁のがずるいじゃねえか。
「俺はもう逃げねえ。だから、愁も腹、括りやがれ」
眼力が増しまくる愁の目をためらいなく見返して。いや、睨み付けて。
「大体、愁のがどう考えても有罪だろ。俺がこうやって“ずるい”って訴えてんのにはぐらかして、俺を“ずるい”つーとことか」
睨み付ける目はそのままに。さっき離した距離を埋めるように近づいていく。
「いつもいつも。こっちが焦ってぐるぐるそわそわして余裕ねえのに。それかわして、一歩向こうから俺を翻弄してんだろ。いつも余裕かましたすました顔、しやがって。」
俺が距離つめても、愁は表情変わんねえから。いつもの見慣れた“すました”顔。それにも腹が立って、睨みを更に強くして。俺はガラスみてえな、紫色のその目をきつく見返す。
「今だって、そうだろ。愁ばっか余裕あるし。」
紫の目は、特に変わることなくそこにあって。つるりとしたその目をただじっと見つめ続ける。
「有罪。だから、愁のがどう考えてもずりいだろ」
「はー……分かった」
そう言って、目をつぶった愁は、一つため息をついて。
そのまま沈黙を貫くもんだから。
「おい、愁……」
「言いたいことはそれだけか?」
「あ? あー、まあな。大体全部言ったぜ?」
「分かった」
そう言って、またため息をついて。額に右手を当て、数秒程考える仕草をとった愁は、目を開けてこちらを──その指の間から俺の方を──まっすぐ見てくる。
愁の紫色の瞳が、じっと見つめてきて。
「愁?」
じっと俺を見る愁の目の紫色は、いつものまんま──意志の強いまっすぐな色をしたいつものまんま──だったけど。少しだけ目尻の下がったその様子が何だか普段と違った様子を見せて。少しだけ不思議な表情をしている。キリッとしてねえ──だけどいつもの無表情とも違う──愁の顔。だから、愁の名前呼んだ。そしたら。
「分かった。だから──」
「──これで満足か」
そう言って急に引っ張られた俺は。愁の胸の中に頭ぶつける羽目になって。
「は?! 愁?」
「……言っとくけど。俺だってんなに余裕はねえんだからな」
急に感じる体温に、バクバクとなる心臓に。逃げんなって言われても、こちらとしてはもう少しだけ距離取りてえだろって──だってこのままじゃあ、ワケ分かんなくなるだけだし──身動ぎしようとしても、愁の腕の力が強すぎて。動けねえ。そのまましばらく愁の胸に頭預けることになって。数分にも数秒にも感じられる間、そうしていれば、どくどくと。俺の心臓の音に重なるように鳴る、別の鼓動が聞こえてきて。
──愁の心臓の音。俺と同じ速さで動いている、愁の心臓の音が聞こえてきて。
『余裕はねえ』そう言った。愁は確かにそう言った、けど。
バクバクバクバクと。
耳の後で鳴ってんじゃねえかってくらい、更に強くなる自分の鼓動。
──なんだよ、それ。
ずっとずるいと思ってた。愁はいつも余裕ばっかあって。言いたいことしか言わねえし、基本表情は変わんねえし。目だけばっかうるさくて。俺を見てるくせに、そう聞けばはぐらかすし、絶対に頷かねえ。すぐ素っ気なくなるし、冷たいことばっか言ってきて。俺を好きだって態度より、そうじゃねえことのが“常”だろって感じで。
それでも。
好かれてないわけじゃねえのは、知ってんだ。むしろ、ちゃんと愁が俺のこと、好きなの分かってる。分かってるけど。──それを疑う気持ちだって、一ミリもねえけど。
やっぱり普段からの態度、有罪だって思ったって、普通だろ?
それなのに。
その上でこれって。──やっぱり、愁はずるい。
ドクドクと早鐘ようになる心臓。俺のか、愁のか、分かんねえけど。──多分どっちのでもある心臓の音。それにしばらく耳を傾ける。
こんなに速いのが続くのって、ちょっとやべえ気もするけど。あっついくらいの愁の胸とか腕とかの体温が心地良いから。少しだけ。ほんの少しだけ、その中に囲われたまんまでいて。その鼓動を聞き続ける。
「やっぱり、愁のが有罪じゃねえか」
ドンと一つ、愁の胸目掛けて頭突きして。そのままそこに頭を預ける。──ああ、でも。
「そういう愁も、俺は好きだからな……無罪にしてやる」
もう一度頭突きをして、ちょっと照れくさい気持ちをうやむやにする。──ああ、くそ。こんなん好きとしか言えねえだろ。
「……………………そりゃどうも」
しばらくの無言の後で。平坦な愁の声が頭上から降ってくる。その、あまりにも平坦な声が、どうしても気になって。(結局、愁のが余裕あるじゃねえか)
さすがに痛いくらい押さえつけてた腕の力も弱くなっていたので。ちょっと頭を動かして、ちらっと愁の方を見れば。
そこには、珍しく真っ赤な顔をした愁がいて。
「は? ──って、痛え! 痛えだろ愁!!」
その、真っ赤な顔をよく見ようと顔を上げた瞬間、思いっきり上から押さえつけられて。──つか、首曲がる! さすがに有罪だろ!!
ベッドのマットレスに沈み込まされるように、愁が俺の頭を無理矢理押さえつけてきて。──そういうとこ、見せようとしねえんだから、やっぱり愁はずりい。
「やっぱり、愁のがずるいじゃねえか! 有罪!!」
押さえつけるその腕から逃げようと、必死になりながら。俺はそんな事を愁に叫んだ。
おまけ
「つか、なんで今日、午前中から来たいつったんだよ」
あの後。必死の攻防で、俺が愁の腕をどけようともがきながら、足を動かしたら。ちょうど愁の腹に思いっきし決まっちまって。
で、怒った愁が俺に一撃決めようとして、何故か取っ組み合いが始まって。俺のベッドの上でまあ、散々やり合ったわけなんだけど。(なんでこんなことしてんだよ、俺たち。ベッドの上でやることじゃねえだろ)
ベッドから落ちそうになったのと、どちらとも疲れはてたのとで、ようやく終止符が打たれて、今、俺も愁もベッドの上で伸びてる、そんな状態で。俺はそういえば、と思い出し、聞きたかったことを聞いたところだった。
「なんでって……良いだろ、別に……」
「言えよ。昼飯が食いたかったから──とかじゃねえだろ、だって」
「……」
「愁」
「……お前、引っ越し昨日だったんだろ?」
「? そうだけど?」
「だから、手伝うことがあるんじゃねえかと思ってな……まあ、こんだけキレイに片付いてんだから、そんな必要、なかったみたいだが」
「? 引っ越し、春馬や創、遊晴が手伝うって話したじゃねえか」
「それは、聞いてたが……それでも一日で済むとも思わなかったんでな」
「そんな大した量、移動させてねえから、終わるぜ?」
「そう、みたいだな」
「?」
「いや、良い。気にするな」
ふいっと、愁はそう言って寝返りをうち、向こう側──俺とは反対側の、壁の方──を向いてしまう。
「手伝いが必要だと思ったから、午前中からが良いって言ったのかよ?」
「……そういうことだ」
「……愁、その、……ありがとな」
愁が早く来たがった理由、思ってたのと違ってたけど。これはこれで悪くねえだろ。
──そう思って、そう言えば。
向こうを向いていた愁が、寝返りをうって、こちらを見てくる。
ふてくされたような顔はそのまんま、だけど。その目は、今日ずっと見た愁の目でもあって。──あ、そうか。だから、愁は。
そんな目をしたまんまの愁の顔に、何となく惹かれて、ゆっくりと近づいていく。
愁に対して感じる何かを、うまく言語化できねえが。こういう愁の部分を俺は割りと気にいっていて。いつもとは違う愁を見せてくれることに浮かれていて。そわそわする。そういうのを押し込みながら、愁の目をじっと見つめつつ、愁の額に俺のを合わせる。
「愁」
「北原」
力強い意志を持った紫色のその目を、数秒見つめた後。俺はゆっくりと目を閉じて、そっと顔を傾ける。
そうして、愁の唇が触れる感触を味わうのだった。