短夜【ロナドラ既刊サンプル】 〈夏に追いつかれる前に〉
初夏は夕方の時間が長く続いて夜の兆しがなかなか現れない。
午後六時前に事務所へ依頼の電話があり、できればすぐに来てほしいとの話だったため、ロナルドは赤い衣装の背に西日を受けながら一人で現場に向かっている。ちょうど同居相手が起きてきたらどんな顔で迎えればいいか考えあぐねていたところだったので、単独で出かける口実ができたのはありがたいように思えた。しかし、いざ一人で外出してみると、時期としてはそろそろ暑苦しく見えてくるあの黒いマントを視界の端につい探してしまう。ロナルドはそんな自分に苦笑するしかない。いったいなにを期待しているのだろう。もし目覚めていたとしても、まだドラルクが外で活動するには太陽の光が強過ぎる。
矛盾している。会いたいのに会いたくなくて、浮ついているのに同時に不安で仕方がない。まだ十分に明るい空の下で、部屋に置いてきたはずの夜の記憶を連れて歩いている。
最寄り駅の改札を抜けながら、帰りに駅ビルでなにか買おうかと考える。たとえばちょっとしたプレゼントみたいなものを。そこで思考がつんのめる。
買うっていったいなにを? なんのために?
ちょっとしたプレゼントなんて──ちょっとしたパーティーと同じくらいロナルドの人生には縁がない。こんなイレギュラーな感情の先走りに任せて本来無縁な行動に出たら、きっとろくな結果にならない。やっぱり今の自分は普通じゃない。身の程を知れ。冷静になれ。仕事の前に無用な感情に引っ張られて無駄に頭を使うのはよせ。
東神奈川行のホームに電車が滑り込んでくる。風圧で上着の裾が体をはたく。ロナルドは立ったまま電車にゆられながら、依頼人とのやり取りを反芻する。
長いこと放っていた物置を開けたら、吸血ホコリカビっていうんですかね? そちらのホームページのよくある例に載っていたのと同じ下等吸血鬼だと思うんですけど、それが部屋いっぱいのサイズに育っていたんです。もう本当にびっくりしてしまって。
電話口で丁寧に事情を語る声には含羞を感じさせる響きがあり、おそらく真面目で控え目なタイプであろう当人の人柄が窺えた。そのサイズに育つまでずっと同じ場所で吸血ホコリカビは存在していて、昨日と今日を比べればおそらく状況に差は生じていないだろう。けれども、往々にして、ひとたび存在に気づいてしまえば、自身でも驚くほど耐えがたい状況だと感じるようになるものだ。知ってしまったあとは、知らなかった頃と同じ心境では暮らせない。たとえ差し迫った脅威がなくても、一刻も早く異物を取り除いて解決したいと願う気持ちは十分理解できる。
知らぬが仏という諺を繰り返し頭に思い浮かべながら、ロナルドは隣の駅で電車を降りる。吸血ホコリカビは昆虫や動物の類の下等吸血鬼に比べて危険性は低いが、巨大化するとなかなか厄介な物件になる。完全に駆除を終えるにはかなりの時間を要するし、わずかでも取り残すとそこからすぐに復活しかねないからだ。だから、やるなら徹底的に遺漏なく片付けてやらねばならない。吸血鬼退治人を名乗るにあたって、ロナルドは自分を選んでくれた依頼人に、安全だけではなく安心も届けたいと常に強く望んでいる。
目的地の方角を確認し、足早に駅前を抜けて住宅街に差し掛かる。あと数分で伺いますと依頼人へメッセージを送る。そのとき、道路に面して置かれたプランターから突き出している花のつぼみが、ふと意味のある映像として目に入った。足を止めないまま見覚えのある形に記憶を探るが名前が出てこない。その代わり、名前を教えてもらった際の一連の会話の記憶だけがはっきりとよみがえる。
前にも一度教えたぞとドラルクは言った。私は君の外部記憶装置じゃないんだぞ鳥頭ルド。この調子だと百年たっても憶えられないんじゃないの? やーい記憶力ミジンコ作家。
百年たったら俺は墓の下だから、記憶力もなにもねーよタコ。
ロナルドはなんの考えもなしにそう言い返したのだ。ドラルクは驚かされた猫みたいな顔をして発言者を見ていた。奇妙な沈黙がその場を満たして、ロナルドは自分が選んだセリフを後悔して、後悔させるような反応をしたドラルクに腹を立てた。
事務所を後にする前に傍らに立って眺めた棺桶は、未明にロナルドが吸血鬼を納棺したままの位置と角度で、はじめて現れた日から変わらぬ存在感を放っていた。折り重なるようにして眠っていたソファベッドから、薄い夜着をまとった痩身をそっと抱き上げて運んでやった際の感触と温度がまだ両手に残っている。添い寝をしていた人間の体温が移った吸血鬼の体は温かかった。棺の底に下ろされ蓋を閉められているあいだ、ドラルクはほんの少しも目を覚まさずに深い眠りを貪っていた。
小机駅近くの庭付き一戸建てにたどり着いたロナルドは、一目見るなり待ち人だと特定してくれた依頼人の様子に、やはり退治人の衣装はこうした仕事に欠かせないと改めて確信した。
そこから案内してもらった広い物置の内外で格闘すること二時間弱。幸いトンチキなハプニングが起きることもなかったし、定年で退職したばかりだという依頼人も、こちらの説明をよく理解してくれて終始協力的だった。おかげでロナルドは金額面でも時間の面でも見積もり通りに作業を終えることができた。退治で出たゴミは、終了時間を見越して連絡しておいたVRCの職員が、タイミングよく引き取りに来てくれた。
ロナルドは依頼人と一緒に家の前で運搬車のバックドアが閉められるのを見守り、視界を遠ざかるテールランプの光に現在の時刻を知らされた。着いたときは難なく見通せた通りの景色は薄闇に広く覆われつつあり、ぽつぽつと外灯が点り始めている。街並みから目線を少し上げれば、空の低いところに残っている橙色が目に留まる。迫りくる夜の気配を肌で感じて、ロナルドの思考は自然と同居している吸血鬼へ向かった。寝坊していなければ、もうあいつは起きているだろう。
「あれ、退治人さん──帽子が」
ふいに隣から上がった声に、ロナルドは我に返ってとっさに両手を帽子のつばにやった。
「その花の飾りのところ、取れかけてますよ」
ロナルドはゆっくり帽子を脱いで、隣から指で示された部分を確認した。確かに、飾りを縫い留めてある糸が部分的に擦り切れてゆるくなっている。試しに空中で帽子を左右に動かすと、土台が不安定になったニンニクの花は、赤い布地の上でぐらぐらとゆれた。
「ちょっと待っててください」
言葉とともに依頼人が機敏な動きで玄関へ引き返し、いえおかまいなく! とロナルドは叫んだが間に合わなかった。ややあって安全ピンを指につまんで現れた相手にロナルドは大いに恐縮し、応急処置として飾りをピンで止めてもらう最中ずっと頭を下げっぱなしだった。
「赤い糸の持ち合わせがないので、とりあえずこれで」
「いやいやいや、本当にもう、すいません。お気遣いありがとうございます。あとでちゃんとしますんで、大丈夫です。ありがとうございます。すいません」
冷や汗をかく勢いで礼を言うロナルドへ、親切な依頼人は笑顔で言った。
「なくす前に気づけてよかった」
「そうですね。いや、本当にありがとうございます。帰ったらうちのに直してもらいます」
「うちの?」
「あ、えっと、あの、うちに裁縫が得意なやつがいて」
「ははあ、それはありがたいですね。ではおうちのひとによろしく」
「ええと、ひとではないです」
「は?」
「いや、なんでもないです」
右手を胸の前でふりながら、ロナルドは慌てて発言を打ち消す言葉を口にした。君は動揺すると余計なことばっかり喋るなあ、という呆れた調子のセリフが、頭の片隅から聞こえてくるような気がした。軽快に語尾が跳ね上がる──イメージのなかの具体的な音の残響。あれはひとではないのに、ひとであるロナルドより上手にひとに寄り添える。普段の性格と容姿からすると理不尽に思えるほど、そういう術に長けている。
「おかげで心機一転、明日から第二の人生を始められます。またなにかあったらよろしくお願いします」
依頼人から感謝の言葉とともに現金払いで報酬を受け取ったロナルドは、独力で一仕事を終えた満足感に包まれて帰宅の途に就いた。来るときは急いでいたので電車を使ったが、もともと事務所から一駅あるかどうかの距離の場所だ。この後に待たせている客もいないし応援要請の連絡もないので、横浜線沿いの道をロナルドは歩いて帰ることにした。
日中はじりじりと太陽が照り付けて、最高気温は勢いよく上昇したが、日が落ちればすぐに風が通って涼しくなる。まだ本格的な夏にはいくらか猶予があるのだ。近いうちに、闇が帳を下ろしても暑熱の去らない過酷な季節が来る。今はまだ楽に息をしながら戸外を歩けるが、じきにそれが叶わなくなる。
五十年前はこんなんじゃなかったよとドラルクは言う。去年の夏──それからたぶん昨年の夏も、一昨年の夏も、同じように彼はそう言っていた。痩せた体をさらに細らせながら、日本の夏はこんな暴力的にぶん殴ってくるような夏じゃなかったのに、と。
五十年前なんてロナルドは知らない。生まれてさえいない。この先の五十年後に生きているかもわからない。ドラルクは簡単に遠い昔を紐解くし、造作もなく遥かな未来を射程に入れて語る。そこに自分がどう位置付けられているのかロナルドにはわからない。どう位置付けられたいのかもわからない。
川を超えて北上し、コンビニを通り過ぎたところでスマートフォンが振動した。画面を表示させると、ドラルクからの短いメッセージを目が読み取る。
『今どこ?』
ああ起きたのかとロナルドは思う。体は大丈夫かとかそういうことを聞いた方がいいのかと一瞬考えるが、言ったら笑われそうだし相手はすぐ死んでよみがえる吸血鬼だ。
『隣駅から歩いて帰ってる。あと五分くらいで着く』
『帰宅ついでに散歩か。ゴリラのくせに優雅じゃないか』
即座に返ってくる憎まれ口に、ロナルドは、うるせえ、殺す、とスタンプを重ねて送る。ドラルクからは、遠隔で殺すなバカ、と返事が来る。
『バカ砂、夕飯なに?』
『バカはよけいだ。ほかほかご飯にカツオのたたき』
『うまそう』
『当然』
表示された文字に頬がゆるむ。どんな顔で送ってきているのか知りたくなる。
昨夜、聞いたことのない声を聞いて、見たことのない表情を目の当たりにした。骨の手応え、低い体温、髪の質感、濡れた頬。胸にじかに耳を当てたら、生きている証拠の音がちゃんと聞こえた。意外とセンスがあると言われて、どういう意味かわからなかったが褒められたのだと感じて嬉しかった。
『今日の依頼人、すごくいい人だった。いい仕事ができた』
思わずそう打ち込んで送って、直後にわざわざラインで言うことかと疑問を覚えて落ち着かなくなる。既読がついたあとの空白を、食い入るように見つめてしまう。
『よかったね』
浮かび上がったメッセージにロナルドは大きく息を吐いた。すると、間を置かずもう一つの文章が現れる。
『私もうれしい』
息を呑んだ。その言葉はどんな声色を、どんな面持ちを想定した言葉だろうか。おまえはいまどんな気持ちでそれを言うのか。言ってくれているのか。
画面を見るうちに衝動が抑えきれなくなり、ロナルドはドラルクに電話をかける。コール音がきっかり三回で途切れて待ち望んだ声が答える。
「どうしたんでちゅか? 文字の打ち方忘れちゃったんでちゅか?」
「殺す」
「わざわざ音声で殺害予告するために電話すんな!」
「うるせーな。急にどうしても声が聞きたくなったんだよ!」
絶句している気配が伝わってくる。どうしちゃったの君、と明らかに動揺しながら返事をする吸血鬼に、なんか文句あるかとロナルドは畳みかける。
「ないけど、うん」
ヌーと鳴く小さな声が耳に届く。アルマジロのジョンもこの会話を聞いているのかもしれないと思うと少し照れくさい。
「なんで嬉しいんだ?」
「はあ?」
「今の今ラインで寄こしただろ、私もうれしいって」
ああ、とドラルクが得心したような声をもらす。ロナルドはその響きに耳を澄ませる。
「君が嬉しい気持ちでいるのが文面から伝わってきたから、君が嬉しいなら私も嬉しいなと思った。それだけだ」
笑ってしまう。言った側が「それだけだ」と片付けようとすることが、言われた側にとっては大変な意味を持つのだから。大きく心をゆさぶられてしまうのだから。
「うれしい。うれしかった。きっとずっとうれしいままだ」
一息にロナルドが告げると、ドラルクは最初にああそうかねと軽く応じて、次いで少しのあいだ言葉を途切れさせて、それからとても穏やかな口調で「私もだよ」と返事をくれた。ロナルドが言外に伝えようとしたことを、ドラルクはしっかり受け取ってくれた。
「そうだ。帽子についてる飾りが取れそうだから、明日までに直してくれるか?」
「いいけど……なに? どこかで引っかけた?」
「わかんねえ。依頼人が教えてくれた」
「出かけるときに気づかなかったのか?」
「だからわかんねーんだよ」
「注意力散漫ルド」
「──おまえのせいだよ」
きっと今日じゃなければ気づいてた。そう続けると、ドラルクは電話の向こうで噴き出して、悪役じみた派手な笑い方を披露した。
「笑いたきゃ笑え。あのさ、なんか必要なものあるか? 買って帰った方がいいものとか、ほしいものとか」
「ほしいものねぇ……そりゃたくさんあるにはあるが、今の君に買ってもらうのは違うだろ」
まだ笑いの残る声でドラルクはそう答えた。ロナルドは唇を引き結んで続く言葉を待った。
「なんにも持たなくてかまわないから、早く帰ってこい若造」
ロナルドは力いっぱい頷いて通話を切ると、家で待っている鮮やかな夜に向かって走り出した。