イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    インビジブル


    「私は吸血鬼あなたの邪魔をかなえまウヴォァー‼」
     暦が師走に入り日暮れがどんどん早まる今日この頃、まだ五時前なのに空はすっかり夜の色だ。ポンチな高等吸血鬼が夕方の「ゆ」くらいの時刻からイキり始めてしまうのもむべなるかな。
     ちょうどオータムから東急新横浜線で帰ってきたロナルドは、駅前の立体歩道橋でそこそこ迷惑な吸血鬼の出現に遭遇したため、私服のまま作家から吸血鬼退治人へシームレスに職業移行した。ようするに千トンの握力を誇る拳一発で案件を片付けたのである。すでに目撃者から通報があったらしく、吸対とVRCへ連絡を入れようとロナルドがスマホを取り出すのと矢のようにヒナイチが駆けつけてくるのがほぼ同時だった。
    「おお、ロナルドか! ご苦労!」
     キビキビとした挨拶の声にほっとするのと並行して、ロナルドは心身の疲労をじわりと自覚した。難易度のレベルを五段階で設定すると三と半分くらいの締切りレースを終えるや否や亜空間へ招聘され、水道橋で今後のスケジュール諸々の打ち合わせを済ませて戻ってきたばかりなのである。
     あるていど溜まった文芸誌への出張読み切りをそろそろ一冊にまとめないかと、担当編集者は物柔らかなのに異様に迫力のあるいつもの口調で提案した。新規のファンの方から過去の掲載分をすべて読みたいという声が多く届いていますし、私も雑誌掲載という形で世に出たあなたの作品を一冊の本として改めて仕立て直してみたいんです。ロナルドは申出の内容のありがたさとマットな黒い瞳の圧にさらされて大いに汗をかき、額をぬぐおうとハンドタオルを出した直後に隅っこにセロリの刺繍がほどこされているのを発見して絶叫した。帰宅したら邪知暴虐な吸血鬼を百回殺そうと固く決意した。
    「こいつが名乗る前にのしちまった。色々とあと頼むわ」
    「もちろんだ。任せろ。帰るところか?」
    「ああ」
    「今日はチョコクッキーの気分だとドラルクに伝えてくれ」
     どんな言付けだよ、とロナルドは思ったが、クッキーモンスターらしいといえばこの上なくらしい安定したセリフなので流すことにした。とりあえず元気でなによりだ。公務員の頭が四六時中クッキーで占められているなんて平和の証拠以外のなにものでもない。いや、たったいま治安を乱す輩を捕まえたばかりだけど。今週もほぼ連日街中に変態吸血鬼のニューフェイスが躍り出ていたけれど。でも、そのくらいならシンヨコ基準では通常運行だから万事問題なしだ。つまりなんでもない日バンザイ。
     ロナルドは著しく出身都市に限定された理屈で自分を納得させ、新手のアホの身柄をヒナイチに引き渡した。そうこうするうちに数名のVRC職員が追いついて合流し「ご苦労様です」とそろってロナルドへ頭を下げる。私服で退治を引き受けたせいか、みな接してくる態度が通常よりいくらか丁寧だ。ロナルドはなんだか面映ゆい心持ちになり「あはは、毎日なんですよね」と小腰をかがめてふわっとした無意味な挨拶を口にしつつ現場を後にした。たぶんこの場合の「なん」は難儀な吸血鬼とかの略だろう。
     歩道橋を速足で降りながらロナルドは考える。うちのももう活動開始してるかなと。うちの、というのは無論うちの吸血鬼という意味である。太陽の光で由緒正しく即死するクソなザコは、その仕様の理屈からして日照時間が短くなるほど活動時間が長くなるのだ。一応……基本的には。
     一応だの基本的だのと付け加えてしまうは、だからと言ってドラルクが冬場に毎日決まって早起きしてくるわけでもないからだ。いい加減起きろ砂カスと七時近くに痺れを切らしたロナルドが棺桶をボンゴする日も普通にあったりする。とにかく気分に従って生きているやつなので、当て推量で決めてかかるとしばしばこちらが肩透かしを食う。
     私は自分の好きなように過ごしてるだけ、と貧弱な砂は繰り返しほざく。いたい場所にいるだけ、やりたいことをするだけ、と薄い胸を張る。無理やり転がり込んできた日から一貫して、ドラルクはそんな御題目を高々と掲げてちっともはばからない。そして、ロナルドが眠るソファベッドの隣にデンと棺桶を据え、根城にしている台所で自分は食べない料理を夜毎にこしらえ続けているのだ。死に至る弱点が無限にあるくせに、どこまでも自由に楽し気な風情で。
     俺はおまえを受け入れたわけじゃねーぞ、と先日ロナルドは名状しがたいなにかに逆らうように声に出して言ってみた。そうしたら、耳聡くその言を聞き取った吸血鬼は、訳知り顔で口を開いて、心配しなさんな、受け入れたんじゃなくて慣れただけだ、などと意外な返答を寄こしてきた。
     なんだって慣れるもんだろ、人間は。きっと私じゃなくたって慣れちゃったよ君は。チョロルドだもん。
     ロナルドはドラルクが続けたそのセリフにどうしてか非常に腹が立って、無言の頭突きをかまして派手な死をお見舞いした。今の会話に殺す要素あった? と抗議しながら再生する吸血鬼に手刀を入れ、肘を入れ、ロナルドはおさまらない気持ちのまま連続して砂を砂にしてジョンに激しく泣かれた。
     全身を襲ったあの腹立たしい感覚の原因はいったいなんなんだろうか。ロナルドの脳裏にそんな疑問が白い靄のようにふわふわと漂い出る。それこそ靄のようにつかみどころのない疑問は、解消する手がかりが見つからないまま、暗い街角に溶けるように薄れて遠ざかっていく。ロナルドは街灯との距離によって見え隠れする自分の影に目を落とした。影が落ちない吸血鬼と、それに連れ立った丸い影。三者三葉の当たり前の眺めをそこに重ねながら、歩き慣れた道を一人で歩いていく。
     事務所兼住居の入っているビルの正面へ到着して、ロナルドは俯きがちだった目線をようやく真っ直ぐ前方へ向けた。そうして、くじでも引くように三階の窓を確認してみる。事務所側の窓は暗い。居住スペース側は明るい。闇に浮き上がる四角い灯り。室内のスイッチを入れた存在を示す光のサイン。
     あ、起きてる。
     胸の内でそうつぶやいて、やおらロナルドはグッと顔をしかめた。いやいやいや、べつに嬉しいとかないし。ザコにお帰りって言ってもらえるの別にどうとも思ってないし? 家着いたとき電気ついてんの見てそわつくこのアレは喜んでるからってわけじゃねーから勘違いすんなよ。
     謎に仮定された第三者へ言い訳を繰り出しながらロナルドはエントランスの郵便受けを確かめる。事務所宛てに投函されていたのはエアロビ教室と新たにオープンする洋菓子店のチラシで、それぞれ端っこに十パーセントオフのクーポンと先着〇〇名様にウェルカムクッキープレゼントの案内が印刷されていた。前者はロナルドにとって無用の紙切れだが、後者のチラシに関してはジョンと情報を分かち合いたい。
     そういやチョコクッキーだったけか、ヒナイチからの伝言。
     先ほどドラルク宛てに託されたセリフがポコンと頭に浮かんでくる。まあ、確かにあいつの焼くクッキーはうまい。それだけは認めてやってもいい。クッキー以外も色々とうまい。出してくるものみんなうまい。
     じんわりと、ロナルドの舌の上に数日前に味わった甘味の記憶がよみがえる。最近は甘いものと言えば思い出されるのは砂おじさんが作ったものばかりになってしまった。餌付けされてなるものかと意地を張っていた頃がもはや懐かしい。あの頃の自分が今のありさまを知ったら、ショックのあまりバリーンと帽子を引き裂くだろう。
     チョコバナナマフィン食いてぇーな。一昨日……いや昨日かどっちでもいーけどあんとき砂が作ったのすっげぇうまかった。なんだあれ。うまいがドーンと来て頭がバーンてなって胸がズーンとした。あいつ料理と菓子だけは本当にうまいもん作るけど、なんか最近ますます進化してる気がする。言ったら調子づいてムカつくから面と向かっては言わねーけどクッソうまい。場合によってはうっかり泣きそうなくらいうまいからマジでヤバい。
     一応ボタンを押してみたが案の定来ないエレベーターのドアの前で、ロナルドはよみがえる甘味の記憶に小さく唸る。あ~待ってるうちにますますチョコバナナマフィンで頭いっぱいになってきた。これじゃヒナイチと一緒じゃん。
     いつまでも降りてこないエレベーターを諦め、ロナルドは外階段へ足を向ける。いつだったか、ここのエレベーターってさあ、とドラルクが言いかけて話をやめたのをぼんやりと思い出す。なんだよ気になんだろと続きを促したら、若造に聞かせたらあとが面倒になりそうだから黙っとく、などとダルい調子で返されたので即どついて砂にしたのだ。
     だって君、怖い話苦手だろ?
     苦手だが?
     素直かよ。じゃあやっぱりやめとこうよ。
     以上、不穏な回想終了。そう、考えない考えない。エレベーターなんて来るときもあれば来ないときもある。え? だれが使ってんの? などと疑問を抱いたらきりがない。ビルだって足が生える日もあれば倒壊する日もある。事務所の同一性が保たれているのは、そこが変わらず自分の事務所であると信じているからこそなのだ。ゴーイットイージーロナルド。思い煩うことなく家賃八千円の自宅へ帰れ。
     一段飛ばしで階段を昇ったロナルドは、廊下を突っ切り外鍵を開けて速やかに暗い事務所を通り抜けると生活空間のドアを開いた。
    「ただいま~」
     ぐぶぶ、もどったか人間よ……と水槽から重々しいあいさつを寄こすキンデメの声に頷きながら、ロナルドは明るい玄関で靴を脱ぐ。視界の利く部屋。暖かい空気。ザコの返事がねーな風呂場かベランダにでも出てんのかと訝しみつつ床へ一歩を踏み出せば、そのとたんに、あれ? と思う。チリリと生じた違和感の火花が意識に降りかかって回答が出るまでコンマ二秒。

     あるべきものが、あるべき場所にない。
     床から、棺桶が、なくなっている。

    「え? は? うん?」
     動揺の呻きを漏らしながらロナルドはぐるりと頭を動かして部屋の中を見渡した。まって、なに、まって。情報を受け止めきれずに思考が停止した人間特有のセリフを繰り返しながら、ロナルドはうろうろとリビングを行ったり来たりする。待ってほしいのはおそらく目の前の現実。あってほしいのは黒くてデカくて邪魔な棺桶。だが、なけなしの理性は素っ気なくロナルドに告げる。そこになければないですね。
    「ンお~~~~!」
     ロナルドの脳裏に走馬灯のように棺桶を持ち込まれた日の記憶がよみがえたった。デケーしジャマだし縁起悪いわ‼ 捨てろ‼ そう叫んだ自分の声の大きさまでありありと。なんということでしょう。部屋に当たり前に棺桶のある暮らしを続けてきた結果、ノー棺桶の光景をこんなにも縁起が悪く感じるように仕上がってしまったのです。まさに驚きの劇的ビフォーアフター。
     破損や汚損がない限りソファがリビングから運び出される理由がないように、棺桶だって前振りもなく消える謂れはない。夜空に星があるように、ソファの隣に棺桶があるのがなんでもない日常の布陣だったのである。もちろん曇っていたら地上から星は見えないけれど、見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。いやここで金子みすゞ出してくるのは冒涜だろやめろや俺。
     自らの頬を一発張り倒してロナルドはもう一度問題の地点へ目を向けた。やはり棺桶はなかった。絶対に出かける際にはあったはずなのに。それ以降だってこうして不在が観測される瞬間まではあった……はず……ですよね? え、もしかして頭にあるこれも存在しない記憶ってやつだったらどうしよう。
    「砂ァ……う、あ、クソ、す、な……」
     混乱のあまりロナルドはスナスナと鳴く生き物になり下がりそうになる。たぶん……いや確実にロナルドはかなり疲れていた。けっこう空腹でもあった。おかげで感情のふり幅が極端になっていた。棺桶がないイコール一方的な同居解消イコールもう二度と会えないのかもしれない。そんな冷静に見たらたいそう脈絡のない結論に飛びついてしまうくらいにだ。SNSで定期的に流れてくる極端な選択は疲労のサインみたいな忠告にまんま当てはまる思考回路は止まらない。
     しばらくご厄介になりに来たのだとあいつは言った。しばらくがいつまでかなんて話は一度もしたことがなかった。そのしばらくが終わってしまったのだろうか。そう……ゲームオーバーは突然に。どの日どのときどの場所で俺は間違えたのか。ぐぶ、おい、人間、おい。水槽の中からは控え目な呼びかけが幾度も発せられていたが、増し増しになったマイナス思考アクセルベタ踏みで進む若者にはまったく届いていなかった。
     お帰りと迎えられたかった。皮肉を言われつつ種類は問わないからあったかい食べ物が出てきてほしかった。ヌーと鳴くかわいい声を聞きたかったし、あわよくば腹毛をもふりたかった。いずれにせよ、室内を照らす蛍光灯が映し出す光景が棺桶のなくなったリビングであってほしくなかった。予告もなく唐突にこんなひどい目にあわされたくなかった。予告されてもいやだけど。
     最後に食った夜食が他人丼だったのはこの事態への伏線だったのかもしれない、などという迷走した推理がロナルドの頭に浮かぶ。卵でとじているのが鶏肉以外の肉の場合に他人丼などと呼ぶのだよ。なかなかどうして物騒な発想だとは思わんかね? などとドラルクは笑って説明していた。あれはこれから君と他人になりますみたいな符丁だったのやも……いや、もともと他人だわ。他人だしあいつ人間じゃねーし生きてきた年月からなにからすっげー違うわ。あーでもそういう客観的な事実ベースの他人じゃなくて、もっと概念の……ひとつ屋根に暮らしてきた者同士のしがらみを断ち切って以後完全に関りを持たない他人になります的なそういうアレ……え、これ思い浮かべてるだけですげーつらいんだけどなんでだよ。だいじょうぶかよ俺……いやかなりだいじょうぶじゃないわ。だいじょうぶだったらこうやって転がったりしてねーもん。うわ~うける。嘘。うけない。うけねーよチクショー。えーん、もう他人丼なんて一生食わないんだからな!
     ついに堰を切った涙がロナルドの頬をじっとりと濡らしていく。こんなふうに終わるんなら、もっと……そうだ、もっとちゃんとあいつに俺は……って、タイム。
     ロナルドは己の思考が辿り着こうとした場所に驚いて文字通り跳ね起きた。
     ちょっと待って。ちゃんとってなに? あいつになに? いったいドラ公になに言うつもりなの俺?
     そのとき、新たな混乱に見舞われ慌てふためくロナルドの耳に聞き慣れた呑気な響きの挨拶が届いた。
    「おかえり~い? うん? どうしたんだロナ造。新手のゴリラパントマイムのお時間か? あれ、ちょっともしかして君なんか泣いてない?」
    「ド! ドラ!」
    「なに? 麻雀デビューした? ぼろ負けした? 機会があったらお情けで手牌見てあげようか?」
    「してねーし情けなんかいるかボケ! 死ね!」
     見慣れた黒いエプロン姿の吸血鬼を慣れた動作でロナルドは殺した。リビングにマジロの悲痛な叫びが高く愛らしく響いた。
    「ヌー! ヌヌヌヌヌヌ!」
    「ジョン! いるじゃん! なんで? クソ砂もいるしジョンもいる!」
     ロナルドは生活空間には不釣り合いな見事な跳躍をかましてアルマジロのジョンを床から抱き取った。バナナで釘が打てそうな凍り付いたメンタルから突然の楽園気分である。異様なテンションになったロナルドは、小さな足をばたつかせる丸い体を撫でまわして強引に頬ずりした代償として甲羅に鼻先を挟まれて悲鳴を上げた。防御という名の容赦のない攻撃を放ったジョン・O・ガーディアンは、機敏な動きで主人のもとへ駆けつけてキリリとした面持ちで抱っこをねだった。
    「帰宅するなり奇天烈言動やめろサル! まだ脱稿ハイ抜けんのか?」
     鼻を押さえるロナルドの面前で、再生した腕に忠実なる使い魔を抱いたドラルクがすっくと立ち上がる。当たり前のようにすぐ死んでよみがえる相手が変わらずここにいる。
    「クソ砂! おまえ! なんでいるんだよ!」
    「いて悪いかここは私の城だ」
    「俺んちじゃ! だってさっきまでいなかっただろ!」
    「目の前にいなきゃいないって幼児か! 風呂場にいたわ! 掃除しとったわ!」
     え……とロナルドはドラルクの返答に勢いを殺がれて目をぱちくりした。念のためソファの隣の床を視線で探るがやはりないものはないままだった。
    「だって棺桶ないじゃん……そこに、棺桶……ないじゃん」
    「はあぁ?」
     心底あきれた調子でドラルクが声を上げる。唱和するようにアルマジロのジョンもヌエェと鳴く。
    「な~にをわけわからんことばかり言っとるんだ。気品と威風を兼ね備えたドラルク様が眠るにふさわしい畏怖い逸品の棺桶を勝手に消すな」
    「消したのはそっちだろ! メンテか追加オプションか知らねーけど部屋から搬出するならちゃんと言っとけや!」
    「言うも言わないもあるものをない呼ばわりしてるのはそっち……」
     ドラルクはそこでなにかに思い当たったように言葉を途切れさせた。白目の面積が大きい目がひたとロナルドへ据えられる。
    「もしかして、本当に見えていないのか? ロナルドくん、君の目にはここにある棺桶が映っていないということかね?」
     改まった口調で問いかけられて、ロナルドは心臓がキュッとなるのを感じた。だって、ないし。なくなってるし。再びにじみそうになる涙をこらえ、体の両脇で拳をぎゅっと握って絞り出すように答える。本当に自分の目には見えないのだと。
    「ふーむ、なるほど」
     思案するようにドラルクは指先を顎にあててわずかに頭部の二本角を傾ける。その肩にのったジョンも同じポーズをとっている。とてもかわいい。
    「これはまたアレだな」
    「ヌン」
    「な、なんだよ」
     通じ合う一人とひと玉に置き去りにされる形になったロナルドは、不安を覚えて小刻みに肩をふるわせた。対する吸血鬼は手袋をしていない青白い素手の指をピッと立てて同居人へ向ける。その指先の爪はきっちりと赤くてツヤっとしていてよくこんなとこまで毎度ちゃんと再生するよなとロナルドはひそかに感心する。
    「ま~たどこぞで催眠喰らって帰ってきおってこの迂闊ルド。本日のポンチはどんな物件だ?」
    「へ? え……催眠?」
     予期せぬ言葉に固まるロナルドへ、自覚症状は棺桶が見えないだけか? 出没した吸血鬼の名前は? 退治の現場にだれが居合わせた? と矢継ぎ早にドラルクが訊ねる。そのあいだにジョンがドラルクの肩から飛び降りクリヌックスの箱を運んできてロナルドに涙を拭くように言う。
    「ヌヌヌヌンヌ」
    「あ、ありがとう」
     顔を拭って鼻をかんでいくらか気持ちが落ち着いたロナルドは、聞かれた質問にゆっくりと一つずつ答えていった。棺桶がないのに驚いて他のことへは気が回らなかったこと、対象が名乗りを上げる途中でぶん殴って倒したこと、現場にはすぐにヒナイチが到着したこと。
    「オッケーわかった。もしもし、ヒナイチくんか?」
     ロナルドが話し終える前にもうドラルクはスマホを手にしてヒナイチとやり取りを始めていた。まるで敏腕マネージャーみたいなムーブにロナルドは少々イラっとした。スピーカーに切り替えられたスマホからはヒナイチの声が聞こえている。本日駅前で遭遇した吸血鬼について歯切れよく詳細を伝えている。
    「私は吸血鬼あなたの邪魔をかなえましょう。そう名乗るつもりだったらしいぞ、彼は。能力が発動して三日目に入り、効果を把握したところで広く恩恵を行き渡らせたくなってパフォーマンスに及んだという話だ。実際は恩恵という名の厄災がふりかかる結果が容易に予想されるわけだが」
     うーむ、とドラルクが合の手を入れる。とりま百パー厄災だったとロナルドは唇を噛む。
    「吸血鬼曰く、直近で〈邪魔〉と本人が口にした対象を視界から消す力を持っているらしい。ただし、あくまで視覚情報に介入してそこにあると認識できなくするだけであり、対象それ自体には一切変化が生じない。つまりは視覚以外の五感には作用しない限定的な催眠。しかも催眠をかけられた本人以外はなんの影響も受けないから、被害の訴えを周囲が理解するのに少々時間がかかる。そんなところだ」
    「実にしょーもない能力だな」
    「言ってしまえばそうだな」
     自分にはなんの能力もないくせに平然と情け容赦のない感想を吐く吸血鬼へ、ヒナイチもまた鬼のような朗らかさで肯定の言葉を返す。
    「それで、もしそのしょーもない催眠にかかった場合、効果はどれくらい続くのかね?」
    「うむ。一両日中にはもとに戻るらしい。せめて三日は持たせたくて鋭意努力中という供述を得た」
    「持続力より応用の方向性について検討した方がいいんじゃないのかねその輩は」
    「私もそう思う。伝えておく」
     礼を述べて通話を切ろうとするドラルクへヒナイチが呼びかける。
    「ドラルク、今日の私はチョコクッキーの気分だ」
    「ふむ。ココア生地に粒チョコを混ぜて焼こう」
    「最高だな!」
     あとで寄る、というコメントを最後に応答画面が終了する。会話の名残りで少し口角が上がったままのドラルクがロナルドへと向き直る。
    「そういうことだ。つまり君が私の棺桶を邪魔だと思う気持ちが今の状況を招いたわけだな」
     ヌンヌン。後足で立ち上がったジョンがドラルクの隣で同意するように小さな頭を縦にふる。
    「しかし、謎だな。声に出して邪魔だと宣言しているにもかかわらず、君は棺桶がなくなったと勘違いしたとたんに泣くほどのパニックに陥ってしまった。こりゃいったいどういう理屈だ?」
     ヌヌヌヌ? と小首をかしげて調子を合わせるジョンの愛らしさといったらない。だが目下のところロナルドはその愛らしさを愛でている場合ではないのだった。
    「あれか。腹減ってて支離滅裂思考になってたってやつか。それじゃあ仕方ないか。締め切り明けてすぐだしな。頭の疲労の度合いも重かろうというものだ。なんにせよゴリラの思考回路なんぞ私の与り知らん世界だが、自宅の間違い探しでハッスルするのも限度というものが」
    「邪魔だけど、邪魔じゃなかったから!」
     事態を勝手に解釈しようとする相手を止めるためにロナルドは叫んだ。勢いだけで言葉を発したので、なんだかどこかで聞いた言い回しのもじりみたいになったが、なりふり構っていられなかった。邪魔、邪魔、とドラルクがその単語を発声するたびにみぞおちの辺りがズキズキ傷んで耐えらえない。ドラルクは浴びせられた音量に死んで、よみがえってからようやく言葉の意味が頭に達したらしく、思い切り怪訝そうな表情になってまた軽く半分くらいスナっと死んだ。人型の生き物がサラサラと崩れては色と形を取り戻す。目の当たりにしているのは摩訶不思議としか言いようのない光景だが、ロナルドにとってはもはやすっかり馴染んだ日常の一部だった。
    「あ、うん、へえ」
     ドラルクはパチパチと瞬きしながら、いまだ腑に落ちない面持ちをしていた。ロナルドは相変わらず目には見えないがそこにあるらしい棺桶を指さすと、強い口調で問いかけた。
    「本当に、本当にまだあるんだよな。おまえの棺桶」
     あるぞ、と平坦な声音でドラルクが回答する。私にもジョンにもちゃんとあるのが見えているし、ヒナイチくんの発言もその事実を裏付けていただろう?
    「そうだな。そうだけど、俺には見えないから」
     いま、俺だけが見えないから、とロナルドは重ねて訴えるように言った。音になったセリフは、思っていた以上に切迫した響きになり、ロナルドは這い上がってくる焦りと気恥ずかしさに耐えるため両足を踏ん張らなければならかった。ドラルクはそんなロナルドの様子をじっと観察するように眺めてから、静かな声で、あるからな、と告げてきた。それから、葉を落とした冬の木立みたいな腕と五指を伸ばしてロナルドの手をつかんだ。グイグイと非力ながら力を込めて引っ張るドラルクに導かれて、ロナルドはソファのすぐ傍らの床に膝をついた。
    「さあ、その手で現実を確かめてみるといい」
     間近にある赤い瞳に促されて、ロナルドは床すれすれの位置で手のひらをぐっと前に押し出すようにした。そうしたら、突き当たる手応えはすぐにやってきた。
    「あ」
    「ほらな?」
     いかにも得意げな声に少しだけ反発を感じたが、ロナルドの手は堅い無機質な感触を追うのをやめられなかった。側面、角、蓋の縁、蓋の表面、その表面に嵌っている一族の紋章だと教えられた石の形。なにも見えないのに、見えているのは素通しの床だけなのに、ロナルドの両手はすべての質感をきちんと受け取っていた。
    「ある」
     ある、ある、と何度もつぶやいていると、だから最初からそう言っとるだろーが、と笑いながら喋るドラルクの声が聞こえた。ヌフヌフと笑うジョンの声も聞こえた。触感をたよりに蓋の合わせ目に指をかけて持ち上げると、ガコンと外れる音がして、それがドラルクの起床を目にするときと同じ響きなので嬉しくなる。
    「おや、中身も確かめる気かね?」
     見えないくせに、と揶揄するように声をかけてくるドラルクに、見えねーな、と余裕の態度で返事をしながらロナルドは蓋を少し離れた場所に置いた。もちろん棺桶の本体も蓋も依然として目には見えないので、すべて感覚だけでしていることだった。
    「クックック、見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ」
    「冒涜的な引用やめろクソ砂」
     棺桶の内側を撫でながらロナルドはドラルクの物言いに釘を刺す。刺された側はまったく意に介していない口ぶりで、私なかに入ってみようか? などと言い出す。
    「んァ?」
    「その方がより実感わくかなと思って」
     ロナルドが返事をする前にドラルクはよっこいしょと片足を持ち上げてなにもない空間に移動する。その言動に、おっさんくせぇ、とロナルドは思い、いや、おっさんだったわ、と即座に思い直した。ロナルドの真ん前で横になったドラルクは、両手足を側面(と思われる位置)に向かって伸ばして、こんな感じ、と言った。
    「こんなもどんなもおまえ……」
    「ん~マント着てないから面積が足りなかったか」
     ゆったりと胸の上で両手を組むポーズをとりながら、ドラルクはそんな述懐をした。ため息をつくロナルドへ、続けて飄々とドラルクが語り始める。
    「お祖父さまがさ~いつだったかお父さまの棺桶いっぱいにゼリーを流し込む悪戯をして、それで珍しくめちゃくちゃ怒られてたことがあって」
    「いや、さすがに怒るだろそれは」
     知らされた内容にぎょっとしてロナルドは口を挟む。
    「あれはたぶん型を取りたかったのかもな~と今この状況で考えている」
    「あ~なるほど、じゃねーわ。大迷惑だろ。親父さん苦労が絶えねえな」
    「うむ。ほら、棺桶って吸血鬼にとっては究極のプライベートスペースだから、いくらなんでもあれはやり過ぎだったんだろうなあ……お父さまは滅多に見られない顔をしていたから」
    「おまえがやり過ぎを判定する基準も俺は信用できねえけどな」
     ロナルドがボソリと差し挟んだ意見へ、ふーん、そう、と愉快そうにドラルクが言葉を返す。それから、ロナルドくん、と横臥したままの姿勢で楽し気に呼び掛けてくる。
    「なんだよ」
    「ここ、一緒に入る?」
     はあ? とロナルドは裏返った声を上げた。
    「君には見えない棺桶に君が入って蓋を閉じたら外から見る君はいないけれど棺桶は君には見えない状態にある……とか考えたら、それってすごくおもしろいなって」
    「おまえの享楽主義スイッチ謎過ぎるわ」
    「だが興味を感じなくもないだろ? なんか深い感じするだろ?」
    「適当なテメーの思いつきを深い浅いで語んなムカつく」
    「んっふ、で、どーする?」
     ロナルドは一瞬思案するように頭を傾げて、入る、と答えた。ようこそ、とドラルクはおどけてコメントした。そうして、ヌンヌヌンヌと飛び込んだジョンを加え、にっぴきは一つの棺桶にギチっとおさまった。
    「ウヒャヒャヒャヒャ、せーまーいー」
    「あったりまえだろ! マジ蓋閉めたら世界が閉じた感すげーわ。しかも暗いから棺桶が見える見えない以前の問題になってるし……いや、でもおまえ本当に骨だな……あたるわ、っつーか、刺さる、骨が」
    「ヒョワ! さわさわすんなくすぐったい」
    「だってしょうがねえだろ手の置きどころがわかんねーんだよ」
     ウサギ小屋呼ばわりされる狭い住居のさらにもっとずっと狭い場所にわざわざおさまってワーワー喚き合っている滑稽さは、他にたとえようのないものだった。あまりにも馬鹿馬鹿しく、あまりにも楽しかった。
    「フフーン、落ち着くだろ? プラネタリウムつけるか?」
    「それやると趣旨がずれる気がすんだわ……」
    「趣旨ときたか……作家先生の言葉選びウケる」
    「ウケんな。そういや今日フクマさんがさ」
    「なになに?」
     いかにも楽し気に話題へ食いついてくるドラルクにロナルドは不可解な気分になる。こんな場所を選んでこんな体勢で普通に今日あった出来事の報告をしているなんていかにも妙な具合だ。
    「文芸誌への出張読み切りがけっこう溜まってるから一冊にまとめて本にしないかって」
    「え、すごい。やったな若造! わ~楽しみ~」
     ヌ~と呼応するような明るい鳴き声が棺の内側を満たして、ロナルドは頭がぼうっとして体の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。なんでそんなに自然に喜ぶんだろう。なんで俺のめんどくさい状況に全力で付き合ってくれてるんだろう。なんで俺たちこんなに密着してるんだろう。ヤバいわ。だいぶ冷静になってきたらあり得なさがヤバい。やけにいい匂いがしてるのもヤバい。
    「本になるの、おまえが嬉しいのかよ」
    「君は嬉しくないのかね?」
    「いや、嬉しいしありがたい話だと思ってるけどさ。おまえがそんなふうに喜ぶのって……」
    「最初に言っただろう? 君の書くものはおもしろいって」
    「ああ、うん。それはロナ戦についての」
    「私は過去に雑誌に掲載された読み切りも全部読んでるもん」
     当然だろ、とふてぶてしく言い放つ声が胸にどんどん沁み込んできて、もうダメかもしれないとロナルドは思った。これがそういうことじゃなかったら、もう俺はダメかもしれない。受け入れたんじゃなくて慣れただけ、なんて絶対に違う。そんなはずない。たとえ過去のどこかで自分の認識がその通りだったとしても、もうとっくに選んでいるから。唯一として選んでいるから。代わりになる相手はいないとわかっているから。
    「……なんかアレだわ、見えてきた気がするわ」
     気づけばそんな言葉が口からこぼれ落ちていた。
    「おお? ロナ造なんか深いこと言っちゃう?」
    「うっせーよ。おまえさ、棺桶に自分から退治人招くってさ、どうかしてると思われても仕方なくね?」
     うっかり切り出してしまった手前、破れかぶれな心境でロナルドは先を続ける。
    「展開に意外性あるだろ? 畏怖を感じたかね?」
    「んなわけないだろ。ないけどさ、考えちゃうだろ。もしかしておまえって俺のことしゅ、す、すきなんかなって……」
    「肝心なところで噛んだ悲しさよ」
    「一句詠むな! 韻を踏むな! で、あの、その……勘違いだったらゴメン」
     少し間を置いただけで急速に生来の弱気が襲ってきて、ロナルドの言葉は尻すぼみに消える。一瞬ごとに居たたまれなさが増してきて、できれば縮んで体ごと消えたいなどと考える。自分が世界で一番の勘違い野郎のような気がしてくる。思考が現実逃避に走ろうとする。長命種と養命酒って音の響きと長さが似てるよな。
    「おいバカ造」
    「ヒャイ」
     緊張のあまり音程が狂った返事をしてしまう。我ながらバカ過ぎる。
    「そこで引いちゃダメだろ。押すならしっかり押さないと」
     苦言を呈すドラルクの声はやんわりした響きと笑いの気配を帯びている。ロナルドは不安と期待でビクつきながらその先を待った。そして、無情にも直後にお約束の展開がやって来た。閉ざされた狭い闇の中に唐突に間の抜けた高い音が響いた。
    「う、あ」
    「腹の虫だな~元気だな~」
     よし出るか、と陽気な声が宣言をして、くっついていた細い体が動き出す。あ、あ、どうしよう、とロナルドが戸惑っているうちに、棺桶の蓋が持ち上がる音がする。空間が解放されて、なにもかもを照らす光が入ってくる。見えないけれどある棺桶と一人と一人と一匹の姿。さっさと外に出て床の上に立つ吸血鬼とアルマジロが、後に残った人間が追いついてくるのをじっと待っている。
    「ドラ公、おれ、おれ……」
     うん、とドラルクは大きく頷いた。それから、ロナルドくん、と名前を呼んだ。
    「私は私のいたい場所にいるだけで、やりたいことをするだけで、この棺桶はこれから先もずっとここにあるのだよ」
     空気を読まない腹の虫が、あたかも主人に代わって主張するかのように、ひときわ大きな音で鳴いた。


    ゆえん Link Message Mute
    2024/01/06 20:13:15

    インビジブル

    12/17の銀弾DR2023にてスペースで配布したコピー本の再録です。ロナ君の目に棺桶が見えなくなってしまう話。ハートフル棺桶ラブコメディです。 #ロナドラ

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品