夏、明け方 ロナルドにはいくつもの顔がある。吸血鬼退治人としての顔、プロの作家としての顔、兄に対する弟としての顔、妹に対する兄としての顔、友人に対する同級生としての顔、地域における住人としての顔、子どもに対する大人としての顔、年長者に対する若輩者としての顔。それから、折々に垣間見せるこの世にただ一人の多感な青年としての顔。どれもそれぞれ見応えがあるし、つつき甲斐がある。組み合わせのバリエーションも様々だ。ちなみにドラルクに対するロナルドの顔は……外野の目がなければ、まあだいたいのところ欲求に忠実な子どもの顔である。
午前四時十分前。作家としてのロナルドが原稿明けの一眠りから起きてきた。スマホが知らせる日の出への猶予は約一時間。浴室へ向かう彼が甘くて冷たいものを要求したため、ドラルクはチョコレートムースを冷蔵庫から出して与えてやることにした。板チョコと卵と砂糖でちょちょいのちょいで出来上がる代物で、ジョンからのリクエストで作った冷たいおやつの残りである。いや、残りというのは半分本当で半分嘘だ。ドラルクは最初からロナルドの分も勘定に入れて材料を計量していた。ジョンのついで、というセリフはべらぼうに使い勝手が良いため、用法が妥当か否かに拘わらずついつい多用してしまう。そのせいでドラルクはときおり賢明なるマジロに諭されもする。ドラルクさま、そればっかり言っているのは確かに楽かもしれませんが、たまには自分の気持ちに対してきちんと向き合った方がいいですよ、と。愛しの使い魔のありがたい言葉にドラルクはちょっとだけ頭を垂れるが、なにしろ今が良ければそれでいいという性分なので、ものの数分で普段の心境に戻ってしまう。
おやつの用意を終えたドラルクは調理台を片付ける。裸足の裏が体重をかけて床を踏む有機的な音が近づいてくる。シャワーを浴びに去った人間がもう戻ってきたのだ。ゴリラのくせに烏と張り合えそうな行水速度である。キッチンの正面へ現れたロナルドは、頭にタオルをかぶった半袖短パン姿だった。床に水たまりができるほどではないが、豊かな銀髪がたっぷり水気を含んだままなのが見て取れる。上からタオル地を押さえて犬のようにわしわしと拭いてやりたい衝動に駆られる。実行はしないけれど、そうしてやりたい気持ちをドラルクは自覚する。自覚した上で重しをつけて、浮いてこないよう慎重に水底に沈める。
実のところ、ドラルクは眠っているロナルドの頭髪にそうっと指をくぐらせてみたことが幾度かある。発端は、おざなりに閉じられたカーテンから忍び込んでいた月の光だった。夜を静かに横切る光の粒子が彼の銀色の上で遊んでいるのを目にして、名状しがたい感情に流されうっかり手を伸ばしてしまったのだ。仄かに輝く銀色は想像より柔らかくはなかった。指のあいだをすり抜ける毛髪の感触は、自分のものとたいして変わらなかった。ただ、生きている人間の生々しい温度と手触りがそこにあるだけだった。
食卓として使っている小さなテーブルの椅子を引き、ロナルドが着席する。ドラルクはキッチンから歩み出て、ふたつのココット型を天板の上に置いてやる。ココアパウダーをふったのと生クリームを絞ったのとをひとつずつ。どちらもスライスしたバナナをトッピングしてある。ロナルドはわかりやすく目を輝かせる。うむ、とドラルクは内心で深くうなずく。さらに歓喜の念を補強してやるべく琥珀色のアイスティーを注いだグラスを隣に並べると、ロナルドは全身に喜びのオーラをみなぎらせて、元気よくいただきますと言った。
「それ食べたら歯を磨いてちゃんと寝ろよ」
ドラルクが淡々とした調子で言い聞かせると、ロナルドは口いっぱいにチョコレートムースを頬張ったまま頭を大きく上下させた。
「あーあ、ココアのひげができてるし、いったい君はいくつになったのかね」
このアラサールドが、と軽く揶揄しながらドラルクは布巾を持った手をロナルドの唇に近づける。そのまま上唇をやさしく拭いかけて、あ、しまった、とドラルクは我に返った。これはジョンにはいつもしているけれどロナルドくんにはしてないやつだった。あんまり嬉しそうに勢いよく食べるものだから、つい釣り込まれて間違えてしまった。
湧き上がってくる面映ゆさを押し隠して、ドラルクはなんてことない風を装いながらアルマジロではない唇の汚れを拭き取った。ロナルドはドラルクからのイレギュラーな手出しにまるで気づいていない面持ちでされるがままだった。おそらく全意識が目の前の菓子に集中していたのだろう。よかったアホで、とドラルクは思った。今のような場合に限るなら、五歳児ムーブも大歓迎だ。ドラルクはひそかに安堵しつつロナルドの対面の椅子を引いて腰を落ち着けた。
今回も盛大に泣きを入れつつゴールにたどり着いた脱稿男は、熱心にココット型と口のあいだでスプーンを往復させている。頑丈な骨組みの上にしっかりと肉のついた手と腕、一定のリズムで滑らかに動く顎、剥いたばかりの果物を思わせるつややかな頬、開いた唇から覗く先端のまるい歯。ドラルクの視界でアイスティーのグラスが傾き、中身が一気に半分近くまで減っていく。食物と飲料が恐るべき速度でロナルドの体内へ取り込まれていく。いつもそうだ。ジョンも食いしん坊として負けてはいないが、やはり体積と馬力の点ではロナルドの方が明らかに勝っている。
飲むのも食べるのもドラルクは苦手だ。子どもの頃は血液を直に飲むのはほぼ不可能だったし、長じてからもそれらしい恰好をつけているだけで実際にはほとんど吸血しない。薄めて少しずつ、小分けにして少しずつ。それがドラルクの食事スタイルだ。ロナルドはがつがつ食べてごくごく飲む。固形物も飲み物もあっという間に器の中から消える。ドラルクは眺めているとある種の爽快感に包まれる。もしかしたら、認めるのは癪だが、そこにはほんの少しだけ憧れも混じっているのかもしれない。
いつかの夏の日、ドラルクはふたりと一匹で酒盛りした際にロナルドに絡んだことがある。私ね、子どもの頃は大人になったらお祖父さまやお父さまみたいに強い吸血鬼になれると思ってたんだ。大きくなったら丈夫になるんだと無邪気に信じてた。すごーく小さいとき。本当に小さいときの話だぞ。笑えるだろ? 笑っていいぞ。笑えよ。ほら、笑えったら。
ロナルドは笑わなかった。アルコールに頬を染めてトロンとした目をしていたくせに、まったくちっとも笑いはしなかった。笑えねーよ、と彼は言った。いささか呂律の怪しい口調で、けれども断固とした響きをのせて、笑うことじゃないだろと。
「はあ。うまい」
グラスを口から離したロナルドが、いかにも満足そうにふやけた声でつぶやく。そうだろうそうだろう美味いだろう当然だ、とドラルクは薄い胸を張る。
「君は果報者だぞ。この私の手によるデザートを好きなときに好きなだけ食べられるのだから」
「んー」
テーブルの上に生返事がこぼれる。その眠たげな響きにかぶせるようにドラルクは言葉を継ぐ。
「近年ますます高まるロナ戦人気もすべて私というハンサムでアドラブルな存在の賜物じゃないか。感謝して感謝し過ぎると言うことはないぞ」
「あー」
通常ならこの手のセリフを言い終える前に拳や蹴りが飛んできて砂になるのだが、ロナルドの頭のネジは相当ゆるんでいるらしくドラルクは無事だった。
眠そうだな若造……眠いのか、そりゃそうか。途中で起きてこないで朝までノンストップで寝てりゃよかったのに。昼の子らしく夜を寝て過ごせばよかったのに。
本来なら無事に越したことはないのだが、基本が殺し殺されの関係なので、ドラルクはロナルドの反応の鈍さにいささか物足りなさを覚えてしまう。張り合いがないなあ、などという感想を抱いてしまう。もっとこう……あるだろ、暴言とか、暴力とか、つまり私たちらしい受け答えが。
「あーその、なんだ。遠い先の将来にわたっても君は安泰だぞ。通常だったら作家の死後は作品の扱いの保証なんぞないも同然だが、君の場合はシリーズの相棒たる私が末永く見守ってやるのだからな。お門違いなアレンジや引用には畏怖畏怖しく物申してやろう」
煽って不興を買うつもりで切り出した語りはなんだか妙な方角へと向かった。口をつぐんでドラルクは戸惑う。こんな話をするつもりはなかったはずだが、どうしたことか。ドラルクはそっと息を吐き、次の瞬間、ロナルドの青い目と目が合ってドキリとする。そこにはつい今しがた見せていた眠たげな様子は微塵も認められなかった。代わりに彼の両眼には強い意志の光がはっきりと宿っていた。
「おまえが守ってくれんの? 俺の本を? 俺がいなくなったずーっと先も?」
真っ向から淡々と静かに問う声にドラルクは狼狽えて赤面しそうになった。改めてロナルドの口から聞かされると、柄にもなくかなり恥ずかしいことを言ったような気がしてくる。しかし、一体全体なぜこの男は急にしゃんとして口を挟んでくるのだろうか。完全に覚醒モードにおなりあそばしているのはなにゆえか。さっきまでゆるゆるだっただろーが青二才め。
「いや、つまり、私もロナ戦の登場人物だから色々とこう……権利? とかがあるっていうか……まあそういう空気感の話だが、べつにそれが私でなくてもいいわけで、たぶん君の考えでも私以外に適任が」
「おまえがいい」
断ち切るように宣言され、喉がひゅっと音を立てた。
「それ、おまえでなくちゃだめだわ。おまえがいい」
「そ、そう……なんだ」
まっすぐに切り込んでくる言葉と眼差しに殺されそうだった。
「うん、絶対に」
向けられた明け透けな肯定に指の先がざらりと崩れ落ちる。なんで死にかけてんだよ? と不思議そうに尋ねる声に、なんでだろうねえ、と力なくドラルクは答えた。
「俺さ、おまえのこといつでも追い出せると思ってた。こんなザコどうにでもできるから大丈夫だって。全然平気だって。俺は強くておまえは弱いから、だから俺たちの関係を決めてるのは俺だってずっと思ってて」
ちょー笑える、とロナルドは言った。そして発言どおり肩をゆすって笑い出した。
「あの、ロナルドくん?」
ひとりで笑い続ける相手にドラルクは恐る恐る呼びかける。そして、これはあれだろうかと考える。脱稿ハイのバリエーションの一種もしくは亜流みたいなあれなのかしら。わけがわからん、と首をひねっていると、やっと笑いをおさめた相手に下からすくい上げるような視線を向けられる。さっきまで激しく空気を押し出していた唇が、静かにゆっくりと動いて言葉を発する。
「おまえさ、たまに俺の頭をなでるだろ?」
寝てるとき、とまだ笑いの残る声でロナルドが告げた。
ぎゃあ。
ドラルクはその場で飛び上がって今度こそ本当に死んだ。
「な、な、なんで……知って、いつ、その、どの」
「俺が知ってるだけで、五回」
嘘だろこいつ数えてやがる。
「寝たふり。けっこう上手いだろ? 兄貴が帰ってきたとき起きてると心配させたからさ。子どもの頃それなりに修練を積んだみたいな?」
タヌキ寝入り! ゴリラのくせにタヌキ!
「なでられるたびにすっっっげぇ~考えた。なんでなのか、めっちゃくちゃ考えたわマジで」
ドラルクは死と再生を行き来しながら申し開きの文句を探した。意識がなければオッケー三秒ルールならオッケー毛髪は死んだ細胞だからオッケー等々これまで採用した言い訳が脳裏をぐるぐると練り歩く。自分に明確な非があるのはわかっているだけに状況が耐え難く、できれば塵のままよみがえりたくなかった。えーと、このたびは誠にぶしつけな行為に及びましたことを深くお詫びいたします。すべては私の不徳の致すところでありまして、たとえ当人に気づかれていなくても許可なく他者の身体にふれれば罰せられるのは明白な……
「そんでさ、不公平だなって思った」
「なんて?」
驚きのあまり頭のてっぺんから声が出た。え、なんの話? なにが不公平? 途中から話題が次元の違うとこに接続してない?
「おまえは眠ってる俺にさわれるけど、俺は無理じゃん」
蓋あるだろおまえのベッド。いっつも閉めて寝るだろ。あれをベッドって呼ぶのなんか納得いかねーけど、とりあえず便宜的に言っとくとそういうことだよ。おまえはできて俺にはできねーのクッソむかつく。
「いや、むかつくって……君な」
「おまえ一回あれに蓋なしで寝ろ」
「死ぬわ!」
「バーカ。死なねーよーに工夫すればいーだろーが」
なんだその上から目線の物言いは、とドラルクはいきり立ったが、そもそも何についての会話かを思い出すと同時にスン……とテンションが落ちた。
「あーもう、君は本当によくわからん男だな。ようするに、謝罪はいらないからやられたことをやり返したいと、そういう話か?」
「違うけど、おまえが理解できないんならそういうことにしておいてやってもいいぜ」
見慣れた造作の顔に見知らぬ表情が浮かぶのをドラルクは目の当たりにした。甘いような苦いような、嬉しいような悲しいような、明るいような暗いような、そんな複雑な陰影のある表情を。たぶん……違う、たぶんではない。絶対に、だ。子どもはこんな顔は絶対にしない。わかっている。本当は最初から。見かけはどうあれ、こいつは分別のある大人だ。
「なんで俺がそうしたいかってちゃんと聞いとけよ。なかったことにしようとすんな。始めたのはおまえの方なんだからな」
わずかに眉をひそめて低い声で言いつのる男は怖いほどに美しかった。着飾っているどころかくたびれた部屋着姿で首にはタオルを引っかけているのに、目を逸らせなくなるほど美しかった。欲目だと心が叫ぶ。致命的な欲目だ。
「末永く見守ってくれるんだろう? おまえが、俺を」
そう言ったよな、と念を押す同居人を前にドラルクは首をふる方向を決めかねて固まっていた。テーブルの上では中身が半分残ったグラスが汗をかいていた。二十七度のエアコンの風がふたりを取り巻く空気をゆるく動かしていた。日の出の時刻まであと半時間弱。棺桶へ逃げる方便として朝日を採用するにはまだ少し早かった。だが、逃げると言ってもいったい自分はなにから逃げ出したいのだろうか。
「ロナルドくん、気をつけた方がいいぞ。この先はくれぐれもよく考えて喋ることだ」
冴え冴えとした声色を使ってドラルクはロナルドへ語り掛けた。それは吸血鬼が人間へ投げかける牽制だった。しかし、すでにドラルクには頭のどこかでわかっていた。自分の言葉に相手を怯ませる効果も翻意させる力もないことを。普段は笑えるくらいチョロいくせに、肝心な局面では頑として譲らず、まったくぶれずに我を通せる。通してしまう。ロナルドはそういう人間だった。崇拝と見まがうほどに慕っている兄に徹頭徹尾反対されても、一切進路を変えずなりたいものになった人間だった。なったからあの日彼は城に来た。その結果として自分たちはここにいる。挙句の果てにこんな事態になっている。
「ドラルク」
改まった響きで名前を呼ばれる。自分に向けられている悩ましい顔を、どんなふうに区分して形容すればいいのかわからない。どうしてこんなときに限ってジョンは私の棺で早寝をしているんだろう。本来ならここに一緒にいてくれるべきなのに。ひょっとすると、そこにもなにか裏があるのだろうか。
「なんで今なんだ?」
ドラルクは苦し紛れに問いを発した。べつに、今じゃなくてもいいだろう? そうだ、あと一週間ちょっとで君の誕生日じゃないか。
「話そらしてんじゃねーよ」
このクソザコが、と吸血鬼退治人は言った。うるせー若造が、とすぐ死ぬ吸血鬼は叫び返した。緊張に満ちた静寂が、互いを隔てて夏の明け方に横たわった。時間は限りなく引き伸ばされ、永遠のような数秒が過ぎて行った。
いつか手放せるように多くの保険をかけてきたのに、ほんの短い時間ですべてが台無しにされようとしていた。同居人を殊更に子ども扱いし、それと引き換えに覆い隠せてきた諸々が、白日の下に晒されようとしていた。わずかな日差しにさえ耐えられず死んでしまう生き物に対して、なんという仕打ちだろうか。毎日のように殺してくる男が、これまでとは違う新しいやり方で自分を殺そうとしている。暴言でも暴力でもないなにかが、死を招こうとしている。ドラルクはそう思った。
いつの間にか目をつぶっていた。椅子が床をこする音がした。ひとが立ち上がる物音がした。泣くなよ、とロナルドが言った。泣いとらん、とドラルクは言い返した。まぶたを開けても視界は不可解におぼつかなくて、相手の気配がほとんどゼロの距離にあった。頭上に落ちる影を感じた。
うそつき。
甘くなじる声を、ドラルクは自分を包み込むロナルドの腕のなかで聞いた。かろうじて、まだ死なずに。