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    小さな夜の音楽【同人誌再録】夜と朝の交差点で夏と彼らの食卓ここにあるものすべてシトラスノート不完全なレンズリンゴの木の下でああ吸血鬼よ君を泣くセレナーデ  夜と朝の交差点で


     ドアを開けると、部屋の奥から日本語とアルマジロ語の二重奏でおかえりの挨拶が飛んできた。ロナルドは気の抜けた声でただいま~と返しながら、玄関タイルの上でブーツを脱いだ。左脇の水槽から、遅かったのう、とくぐもった声がかかる。ロナルドは、まあな、とため息混じりに言ってリビングへ向かう。スマートフォンのロック画面を表示させると、時刻は午前一時をわずかに過ぎていた。ツクモ吸血鬼化したプリントゴッコの始末の依頼は、途中からタフな戦いへと化けたのだった。
     依頼主が問題の品を運んでこられず、こちらが家に出向かねばならなかった時点で、厄介ごとへ発展する結果はわかっていたのかもしれない。わかっていなかったのは俺だけだったのかもしれない。俺の星回りはそんなのばっかりだ。
     ロナルドは、んあ~と屈託を声に出しながらソファの前に到達し、スマートフォンを座面に抛り、コートを脱ぎ、手袋を脱いだ。フラッシュランプがピカっと炸裂する残像と古い絵の具の匂いが、まだ意識にこびりついている。忘れ去られた昭和のツールの無念の叫びが夢に出そうだ。この平成生まれが、と三十回は罵られた。使ったことがない事実は変えられないので仕方なかった。
     無言でソファにどっかりと腰を下ろし、目を閉じて、指先で眉間を揉む。背後から、自分とたいして変わらぬ身長があるとは思えない軽い足音が近づいてくる。
    「いや~ずいぶんと苦労した様子だね若造。その疲れ具合を見ると、私は行かなくて正解だったな。依頼人のプリントゴッコは巨大化でもしたかね?」
    「うるせえ」
     振り返りざまの拳で真後ろに立った相手を塵に変えると、健気な使い魔がヌーと泣く声が深夜の室内に響いた。言い当てられて癪に障るが、実際に、プリントゴッコは巨大化したのだ。おまえがいたら挟まれて無限に死んでたぞ、と言ってやりたかったが、却っておもしろがられそうな予感がして、ロナルドは意志の力で口をつぐんだ。
    「しかし、まさかこんなに時間がかかるとは思わなかったな。夕飯を早めに食べて行ってよかったじゃないか」
     君は帰ってきてから食べるって言ったけど、ドラちゃんの先見の明の勝利で~す。陽気にそう続けながら、クラシックスタイルの吸血鬼は床の上で再生して立ち上がる。にょっきりと、まるで床からじかに腕が生え胴が生えるかのように。
     ドラルクがざらりと崩れてから姿を取り戻すまでの一連の光景に、ロナルドはすっかり慣れてしまっている。あまりに見慣れ過ぎていて、もはや一周して心が休まる眺めだとさえ感じてしまうほどだ。ドラルクがこの場所でこんなふうなのは当たり前で、それが当たり前ではなかった頃のことが、もう定かには思い出せない。
    「お風呂入るよね?」
    「んー」
     たずねてくる声に生返事をしながら、ロナルドはソファの背に頭をあずけた。ここから動きたくない気持ちと、湯に浸かってさっぱりしたい気持ちが脳裏でせめぎ合う。このまま寝落ちしてもいいだろうか。明日は朝からなにかあっただろうか――なにか、あった。あったな。
    「やべえ……忘れるとこだった」
    「なになに?」
     正面へ回り込んできたドラルクが、ジョンを抱いて隣に座る。失態を期待するような目の輝きにイラッとしたロナルドが手刀を叩きこむと、派手な悲鳴を上げてドラルクは死んだ。
    「ヌヌー!」
    「俺、今日は五時半起きで公園清掃のボランティアだったわ」
    「ほ~君ひとりで?」
     今度はソファから生えた吸血鬼が、とぼけた調子で聞き返してくる。
    「んなわけないだろ。ぼっちで公園清掃ってどんな罰ゲームだ?」
    「基本夜勤の退治人が早朝出勤とは珍しい」
    「たいてい新人がギルド経由で受け持つ――一種の地域奉仕活動なんだよ。俺もむかしはよくやった。名を上げるために、地元の好感度を勝ち取るために」
    「君のむかしって最近の話だろ?」
    「吸血鬼の感覚で上げ足取るんじゃねーよ。とにかく、土壇場で参加できなくなった新人くんが出たから、俺とサテツに話が回ってきたんだ」
    「実にわかりやすい。訪問販売の勧誘を断るのが苦手な人材トップツーだな。結果的に君は引き受けているわけだし、正しい人選だったと言える」
    「うっせーわ」
    「私がここに来たばっかりの頃、事務所に置き薬が三社分あったぞ。どんだけ断るの苦手だ? このドラルク様が二社断ってやったんだから感謝しなさい」
     ぽん、と憐れむように肩に手をかけられ、ロナルドは反射的にその手をはらって顔をしかめた。
    「べつにいーんだよ、使わなきゃ金かかんないんだから」
    「場所は取る」
     悔しいがそのとおりなので、ロナルドは黙った。この場合の沈黙は金だ。
    「お茶でも淹れようか? カフェインレスの貰い物もあるけど」
    「いや、風呂入るよ」
     答えて立ち上がろうとすると、ちょんと太ももを突く感触があり、ロナルドは動きを止めた。視線を落とすと、見上げてくる一対の小さな目と目が合う。
    「ジョン?」
    「ヌー」
     後足で立ち上がったジョンは、ヌ、ヌヌヌ、ヌヌーン、となにやら話しかけてくる。はっきり言って、めちゃくちゃかわいい。しかし悲しいことに、ロナルドにはジョンの言葉のすべてがわかるわけではない。この一年ちょっとでずいぶん読み取り力が上達したと自負してはいるが、いまのところ独力では限界がある。Eテレの語学講座などに早くマジロ語が加わってくれればいいのにと思う。絶対にまじめに履修する。ただし、実現するとしたら講師はドラルク以外でお願いしたい。
     そのドラルクは、いつもどおりナチュラルにアルマジロのジョンと会話を始める。話しかけられている当人を差し置いての所業に苛立ちがつのる。うらやましいことこの上ない。
    「へえ、それは感心だね」
     吸血鬼は、自らの使い魔へたいそう穏やかな優しい表情を向けている。ロナルドは第三者の視点でそれを見ている状態だ。これがこいつの素なのか、それともジョンだけが引き出せる一種の特異点なのか。そんなことをロナルドは最近たまに考える。
    「ヌン」
     ジョンが一声鳴いてサムズアップのポーズを取る。
    「えらいし優しいし可愛いし、やっぱり君は世界一だ!」
    「ヌヌヌン」
    「まてまて、俺抜きで勝手に盛り上がるなよ。ジョンなんて言ってんの?」
     ドラルクが、わかんないの? という顔でこっちを見るのが大変にむかつくが、ここで殺すとややこしくなるのでロナルドは耐えた。
    「喜びたまえ青二才。ジョンは君と一緒に早朝清掃に行ってくれるそうだ」
    「へ? ええ⁉」
     思いがけない内容に声がおもいきり裏返った。ジョン、マジで? 本当に俺と一緒に行ってくれるの? 天使なの?
    「ヌ」
     低音で短く答えながら、ジョンが愛らしい頭を縦にふる。
    「ヌンヌヌヌヌイ」
    「天使ではないって言ってる」
     律儀に通訳してくるドラルクに、わーってるよ! と二重の意味をこめてロナルドは怒鳴った。そのていどなら俺にもわかるし、ただの言葉のあやだっつーの。
    「ダイエットを兼ねてジョンもボランティアをするそうだ。ロナルドくんに恩も売れるし、つねに一石二鳥を狙っていくスタイルだって~さすが私のジョン~」
     最近またちょっと体重が気になる数値になってきたからなあ、とドラルクが続けるのを聞き流して、ロナルドは両手でジョンを抱え上げた。そのまま勢いで天井へ振りかぶり、高い高いをする。恩を売る云々のくだりは何かの間違いなので聞かなかったことにする。
    「ありがとう、ジョン! 俺すごくうれしい。がんばろうな」
    「ヌヌン」
    「で、集合は何時なのかね?」
    「五時五十分厳守」
    「それで五時半起きで向かうのか。余裕がないように思うが」
    「おまえと違って、俺、したくにそんな時間かかんねーもん」
    「朝ごはん食べるだろう?」
    「いや、終わってから食うからべつに」
     そう言いかけたところへ、ドラルクがやや高圧的な態度で言葉を挟んだ。
    「仕事の前に血糖値を上げておきたまえ。それに、もう少し早く起きてくれば、できたてほかほかの朝食を私に給仕してもらえるぞ」
     どうかね? と打診され、ロナルドはなにやら不可解な気分になる。同時に、みぞおちがキュッと引き攣れるような、そんな奇妙な身体感覚まで生じたりもする。楽し気に語尾を上げてんじゃねーよ。この会話のどこに、おまえを嬉しがらせる要素があるっていうんだ。
    「じゃあ五時前に起きれば満足かよ?」
    「うん、合格。それなら入れ違いぎりぎりで間に合うから」
     合格ってなんだよ、と言い返したいのだけれど、そうしてしまうと手をふれるのが危ぶまれる場所に踏み込みそうで、ロナルドは言葉を飲み下した。
     一晩ごとに日が長くなっていく時期だ。季節は春から夏へ少しずつ移り変わっていく。朝がやって来る時間が早くなるほどに、ドラルクの活動時間は短くなる。吸血鬼は夜の住人だ。太陽と合わせる顔は持っていない。特に虚弱体質のドラルクにとって、日の光は天敵だ。一瞬たりとも抗うことはできない。
     スマートフォンで日の出入り時刻を確かめながら、いまはこういうものがあるから便利だよねえ、などと言って笑う相手に、どんな返答をすればいいのかロナルドはわからなくなるときがある。こいつ吸血鬼なんだな、という感想だけが頭を占めて、からかいの言葉さえ出てこなくなるときがある。
     生き物として違い過ぎて、それなのに日常に馴染み過ぎていて、これでいいのかと、だれかに問いかけてみたくなる。退治人なのに、吸血鬼に生活の世話をされているなんておかしくないか。去年の俺がいまの俺を見たらなんて言うだろう。
     でも、きっと、だれかに非難されたら自分は言うのだ。この関係に不安が過ぎったり人知れず戸惑ったりするくせに、外野のだれかが相手ならきっと言うのだ。おまえになにがわかるんだと。俺たちはこれでいいんだと。
    「ヌヌヌヌヌン、ヌヌヌヌ!」
     空中にかかげられたままのジョンが、バタバタと足を動かし始める。お、ごめんな、と詫びながら、ロナルドは困り顔のアルマジロをソファの上に下ろした。ジョンは短い足でジャンプをして、すぐに自分の主人に抱きついた。肩へよじ登ったジョンの背を、白い手袋をはめたドラルクの手がなでる。
    「あんまり早く食うと、半端な時間に腹が減るんだけどな」
     聞こえよがしにそんなことを言ってみると、使い魔を肩にのせた吸血鬼は、だったら第二朝食でも用意するかな、と答えた。
    「第二朝食?」
    「食事は一日三食とは限らないものだ。世界は広いんだよ、ロナルドくん」
     訳知り顔の同居相手は、そう述べながら腕を伸ばすと、指の先でこちらの額をちょいと突いた。ものすごく子ども扱いされているとロナルドは感じたが、不思議と腹は立たなかった。
    「ようするに、弁当もつくってくれるってことか?」
    「まあ、そんなものかな。お風呂に入っておいで」
    「うおーい」
    「ちゃっちゃと入って、さっさと寝なさい。朝早いんだから。ほら、ジョンも寝ておかないと」
    「ヌイ」
    「ジョンも一緒に入るか?」
    「ヌン」
     ジョンが前足を挙げて、入る、と意思表示する。一人と一匹は、風呂場に向かって歩き出す。
    「長湯させないでくれよ」
    「わかってるって!」
     背後からかけられたセリフに大声で返事をして、ロナルドはそっと振り返る。
    立ち上がったドラルクがマントを脱ぎ、ジャケットを脱いでいる。重ね着をしていても細い体が、皮を剥くようにますます細くなる。手袋をはずして台所へ入っていく姿を目で追いかける。覆うもののなくなった手の先の爪は赤くない。今夜は塗ってないのか、という感想が頭に浮かび、そんな些細な点にも目が留まるようになった自分の変化に少し驚く。ドラルクがエプロンの肩紐に流れるようなしぐさで腕をとおして、背中の紐を左右の指先に力を入れてきゅっと結ぶ。アームバンドでたくし上げられた袖の下から、極端に痩せた――まるで棒みたいな腕があらわになる。下手に握ったらぽきんと折れそうだ。冷蔵庫を開ける音がやけに大きく響く。ドラルクは庫内の中身と小声でなにやら会話を始める。
     そうするつもりはなかったのに、どうしてか目が離せず、ロナルドは一連の吸血鬼の動作を立ったままじっと眺めてしまった。そのうちに、当然の成り行きのように、露骨な視線に気づいて振り向いたドラルクと目が合ってしまう。
    「なに?」
    「いや、べつに」
     特にやましいことはないのに、うろたえそうになる自分がいる。本当に、なんだってそんなに見る必要があるのだろう。
    「リクエストある?」
     平坦な声音で問いかけられ、とっさにロナルドは言った。
    「からあげ」
     ドラルクの目が丸くなる。薄い唇の端が瞬時に大きくめくれ上がる。こいつの口は大きくてよく動くとロナルドは考える。
    「はい、出ました~ゴリラの一つおぼえ。なんと今週三度目の唐揚げです。彼の言語中枢はどうなっていると思われますか皆さん? 押すと唐揚げと鳴くおもちゃなんでしょうかロナルドくんは。献立という概念を、はたしてこの男は持っているのでしょーか」
     ドラルクは甲高い声で架空のリスナー相手に機関銃のようにまくし立てる。ロナルドは肩を怒らせてうるさいと叫んだ。
    「からあげはいつだっておいしいからいーんだよ!」
    「はいはい。私のつくる唐揚げがいつもおいしくってごめんね~」
    「勝手に所有格つけんな。だれもおまえのからあげとは言ってないだろ」
    「うんうん。まあそういうことにしておいてあげようじゃないの」
     ニヤニヤ笑いに威嚇の眼差しを向けて、ロナルドは踵を返した。口では勝てないし、台所では基本的に暴力はNG行為だ。ドスドスと足音を響かせながら風呂場まで歩を進めると、待っていたジョンが首をかしげてヌヒっと言った。


     暗いうちにのっそりと起き上がったロナルドを迎えたのは、複雑な料理の匂いだった。稼働している台所の気配が、寝起きの薄膜がかかったような意識をくすぐって、なんだか浮ついた心持ちになる。床に足を下ろすと、起床に気づいて駆け寄ってきたジョンから、ヌヌヌヌ、と挨拶された。おはよう、とロナルドは和やかに朝の挨拶を返した。台所に近づくと、落ち着いた声が、おはよう、と言った。おまえは「おはよう」じゃないだろ、と奇妙な気分になりながら、ロナルドは同じ言葉を口早に放り投げて顔を洗いに行った。
    朝食のメニューは、新生姜としらすの炊き込みご飯、柚子胡椒風味の唐揚げ、きゅうりの浅漬けとさつま芋のレモン煮、それから厚揚げとえのきの味噌汁だった。パタパタと立ち働く吸血鬼を横目にしながら、ロナルドはお代わりしてもりもりとご飯を食べた。
     寝支度を終えた姿で後片付けをするドラルクに見送られながら、退治人とアルマジロは家を出た。一人と一匹が歩き出してほどなく、徐々にせり上がってきていた朝の光が、弾けるように街へ広がり始めた。
     夜と朝の交差点の、夜に一歩下がったところに立っている相手のことをロナルドは考えた。この時間に外を一緒に歩くことは、この先も決してないだろう。ジョンとは問題なく歩けるが、ドラルクとは歩けない。それは、どれだけ年月を経ても、不動の現実であり続けると決まっている。ただそうだというだけの――当たり前のことだ。
     陽光の下に出てこられない存在と暮らしている。顔を合わせられる時間には制限がある。その事実が煩わしいと感じることがあるとしても、手前勝手な尺度を当てはめて語るべきではない。そう判断できる分別が、すでにロナルドには備わっている。晴れた昼の空が、濃淡のないべったりと塗られた青一色ではないように、夜もまた、実体は単調な黒い闇などではない。
    そうなのだ。ロナルドはもうちゃんと知っている。夜を生きる彼の毎日が、じゅうぶんに実り多く豊かであることを。太陽と縁のない彼の世界が、途方もなく広く明るいものであることを。


      夏と彼らの食卓


     箸でアジの南蛮漬けを口に運ぶ合間にロナルドがぽつりと言った。
    「避暑地に行きたい」
    「なんて?」
     布巾で調理台を拭いていたドラルクは、不似合いな単語を発した退治人をキッチンカウンター越しにまじまじと見た。
     避暑地。避暑のために訪れる土地。夏でも冷涼な気候であることが求められるため、標高の高い、または緯度の高い寒冷地が選ばれることが多い。
     いかにもウィキペディアな通り一遍の説明文が、ドラルクの脳裏を一陣の風のように駆け抜ける。ううむ、ようするに涼しい土地へ旅行したいという理解でいいのだろうか。そういう主張として受け取る以外になにか言外の意味があるだろうか。旅行どころかオフの日の外出でさえ仕事を拾ってくる男の口から飛び出た「避暑地」。ちょっと背筋がそわっとなるくらいの違和感がある。
    「避暑地に、行きたいです」
    「いや、丁寧に言い直されても……」
     ドラルクは困惑しつつも、若造の頭が愉快なことになりつつある予感に引かれてキッチンスペースからダイニングテープルへ移動した。ある意味ドラルクの体重に似合いの重みのない椅子を引いて腰かけると、専用の食器で食事をとっているジョンが、気遣わしげに「ヌヌ」と小さく鳴く。ドラルクは指の腹でそっと使い魔の耳をなでてやる。ジョンはいつだって惜しみなくやさしい。たとえ相手が様子のおかしいゴリラであろうとも。
    「今年、暑すぎる」
    「うん、そーだね」
     なぜか片言になりつつあるロナルドへ、ドラルクは温情を示してうなずいてやった。いったいどんな方向のバグなんだろう。本当におもしろいなこの顔のいいチンパンは。
     本日の夕飯は、アジの南蛮漬けと鶏胸肉のピカタと叩きキュウリのラー油漬けとくずし豆腐のお吸い物である。猛暑の記録がどこまで伸びるか油断ならない今年の夏に対抗するべく、さっぱりしつつタンパク質多めなメニューを最近のドラルクは心掛けている。もちろん頻繁に投げこまれる唐揚げのリクエストに合わせて献立を案分するという芸当をこなしながらだ。そういう縛りで料理をするのも目先が変わって楽しかったりする。
     去年や一昨年と比べて暑さが増しているような気がする今日この頃――そんなふうに思考をめぐらせてから、ドラルクはこの場所で過ごした記憶が去年の分とさらにその前の年の分もあることに奇妙な感慨を覚えた。
     もう三年になるのだ。
     生涯のパートナーひと玉を胸に抱いてロナルド退治人事務所に転がり込んでから、これが三度目の夏だった。ほんの数年前なら、ウサギ小屋のような住居のちんまりした食卓で、ご飯を威勢よくお代わりする男子に当たり前のように給仕する日々をだれが想像しただろうか。たった三年など吹けば飛ぶような短い時間だが、どんどん増える新横浜ならではの交友関係と、ロナルドの体格や態度の変化の著しさのせいで、えらく密度の濃い年月だったような気がしてしまう。
     いや、なにをらしくもなくしみじみとした気持ちになっているのだろうか。ドラルクはぶるりと上半身をふるわせた。これも青二才が妙な発言をしたせいだ。さて、避暑地がなんだって?
    「ヌンヌヌヌヌヌヌヌヌイヌ?」
     なんで避暑地に行きたいの?
     ドラルクが質問しようとするより一足先に小首をかしげて問いかけたのはジョンだった。そのかわいさだけでも崇められるに値するのに、加えて愛情深くて気配り上手ときている。この世にジョンに勝る宝はない。
    「んー昼間テレビつけたらスイス鉄道の旅って番組やってて、なんかめちゃくちゃどっか行きたくなった。ああいう空気がきれいっぽくて湿度低そうなところに」
     ロナルドは間延びした調子でそう答えて、旨そうに汁椀をすすった。どうやら避暑地発言は、憶えたての言葉を使わずにいられない類のガキくさい精神の産物だったらしい。
     それにしても、とドラルクはロナルドとジョンを交互に見やった。素直にぺらぺらと返答したロナルドは、つまり吸血鬼の助けを借りずともアルマジロのジョンと完全に意思疎通できるようになっている。ロナルド君ってマジロ語をいつぐらいからマスターしたんだっけとドラルクは近い過去を探ったが、どうにも時期が判然としなかった。なんということだろう。いつの間にかと言うよりほかにないなんて。
    「ここんとこ陽が落ちても空気がお湯みたいでやんなってて」
     ああ、とドラルクは吐露された言葉に同意の声をもらす。まったくもって、気温以上に毎日の湿度の高さは耐えがたい。比喩ではなく訪日中のインドネシア人がびっくりするレベルだ。
    「避暑地って、なんつーか言葉に高級な響きがあるだろ? 番組のナレーションが言ってるの聞いてそれだけでリフレッシュ気分になるっていうか、そういう涼し気なあれをそれしたいっていうか」
    「言ってることが一貫してワヤワヤ過ぎるぞ猿」
    「うるせー。言うだけならただなんだよ!」
     個人的欲求を語る稚拙さ選手権優勝候補の退治人は、箸を箸置きに下ろして怒鳴った。暴力ゴリラはこれで食卓ではけっこう行儀がいいのだ。ドラルクは、いましがた聞かされた言い分を反芻しながら、ふむ、と顎に片手を当てた。
    「私の場合は生まれた土地それ自体が避暑地みたいなものだから、君に生じた憧れはあまり理解できそうにないが」
    「は? どういうことだよ」
     食いついてくる勢いにドラルクはちょっぴり気圧されて耳の先が砂になりかけた。
    「トランシルヴァニアはバルカンのスイスと呼ばれているのだよ」
    「おお?」
     なんだそれいい響きだな、と感心した口ぶりでロナルドが言う。故郷を褒められて悪い気はしない。
    「お中元でいただいた水ようかん冷やしてあるけど、食後に食べる?」
    「食べる!」
     元気過ぎる返事に笑いを誘われて、ドラルクは相手から目線を逸らしてわずかにうつむいた。ロナルド宛に届いたものをドラルクが管理して食する許可を与えている図式に、目の前の人間はもはやなんの疑問も抱いていないらしい。
     バカだ。ほんっとバカ。バカ過ぎて逆にときめくわこのバカルドが。
     内心でリズミカルに罵倒をくり出していると、ジョンが横からヌンヌヌンヌとアピールしてくる。はいはいジョンも水ようかんね、と答えるドラルクの耳に、キュウリが小気味よく嚙み砕かれる音がテーブルの向かい側から届く。見えない糸に引かれるように、ドラルクは音の主へ視線を向けた。
     食事を再開し、キュウリの小鉢の次に平皿へ箸を着地させたロナルドが、卵の黄色い衣を薄くまとった鶏肉を、大きく開いた口へのなかへと運んでいる。ロナルドの箸使いは大胆だが、刺し箸はしないし、口に入れたものを箸の先でさらに押し込むようなまねも決してしない。しっかりと奥歯を使って噛んでいる顎の動きや、咀嚼した食物を飲み込む際に健康的に上下する喉仏を、ドラルクの目は好ましいものとしてとらえ続ける。食欲旺盛で顔色も毛づやもいいし、眺めたところ夏バテの兆候は見受けられないが、心理面では不可視の部分に負荷がかかっているのかもしれない。このところ屋外の仕事が多く続いているし、その隙間で自伝の取材のために弾丸スケジュールで出張もこなしている。
     とにかく息抜きの下手な男であることは重々承知している。先ほどの言動は本人も自覚していない遠回しなSOSである可能性もなくはない。もしかしたら、多少は手を貸した方がいいタイミングなのかもしれない。人間というのは弱点も少なく頑健そうに見えながら、実際のところは驚くほど脆い生き物なのだから。
     ロナルドは盛りだくさんに並んでいた料理をほぼ食べ終えて、南蛮漬けの残りの野菜を箸でさらっては茶碗に集めている。一片たりとも残さない姿勢は見上げたものだ。ほめてつかわすぞ、と内心で言葉をかけながら、ドラルクはさりげなく今夜の予定をたずねてみる。
    「今日これから退治の依頼は何件入っているのかね?」
    「三件。まあ、退治っつってもプランターで栽培してる野菜が吸血鬼化してないかチェックして忌避剤まくだけだから、たぶん楽に終わる」
    「つまり楽に終わらない可能性もあると」
    「やなこと言うなよ殺すぞ」
     そう吠えつつもロナルドは箸と茶碗から手を放さないのでドラルクの身は安泰だ。若造は食べているときと寝ているときは基本的に暴力が控えめなのだ。もっとも、寝ているときは意識がないのだから、ロナルドでなくてもそれが当たり前であるのだが。
    「前にオフの日に吸血鬼化案件に遭遇してサービスで退治した家のおばあちゃんから正式に依頼が来たんだ。お友だちの家も一緒にってまとめて三件」
    「ほほう。善行の報いか」
     そんなんじゃねえよ、と含羞を感じさせるセリフを吐いてから、ロナルドは少し改まった調子でご馳走様と言った。ヌヌヌヌヌとジョンがそのあいさつに唱和する。ドラルクはひとりと一匹へ水ようかんを用意するために、椅子から体をずらして床にスリッパを履いた足の裏をつけた。
    「ゴーヤってさ、ウリ科だろ」
     冷蔵庫のドアを開ける背中でドラルクはロナルドの言葉を聞く。腕を伸ばして、庫内からとろりとした薄墨色を閉じ込めた四角いプラスチックの容器を二つ出し、それから水出し緑茶のガラスポットも取り出してから、手のひらに力を入れてバタンと右開きのドアを閉める。
    「ニガウリっていうくらいだからね、ウリ科もウリ科、メジャーどころだろ」
     話しながら、キッチンの引き出しから銀色に光る小さなスプーンを二つ取り出す。先が平べったくてやわらかい食べ物をすくいやすいこのスプーンは、先日新しく購入したものだ。続いて調理台の上にグラスを二つ並べ、ガラスポットを傾けて緑色の冷たい液体を注ぐ。七分目まで注いだところでポットを水平に持ち直し、ドラルクは姿勢を低くしてグラスを満たした色の具合を検分する。なかなかいい透明感が出ているじゃないか。次もこの銘柄を買うとしよう。
    「うん。そんでさ、夏は緑のカーテンつくろうとする人が多いだろ」
    「そうだねぇ。あれで十度近く変わってくるって話もあるし」
    「俺も効果は疑ってないんだ。エコを意識すんの大事だと思う。でも、シンヨコだとどうしたって吸血鬼化しやすいんだよ」
     アルマジロと人間それぞれの前にグラスを置き、スプーンと水ようかんの容器を渡した吸血鬼は、憂いを含んだ言葉を紡いだ相手の表情をそれとなくうかがう。
    「この時期の吸血鬼化案件の何割かはゴーヤとヘチマでさ、なんだかちょっとやり切れないなって」
     うーん、とドラルクは手のひらで肘を支えて天井を仰いだ。そうした土地ならではのハンデは、残念ながらロナルドひとりですぐにどうこうできる話でもない。
    「ウリ科以外の植物を提案できるといいのだろうが、その辺りが一番育てやすいからな」
    「だよなあ」
     退治人はため息まじりの相槌を打つ。
    「アサガオとかユウガオとかツンベルギアとかも初心者向きだろうが、実がなるってところがいいんだろうねえ」
    「あーまあなーそうだよなー」
     でも実が吸血鬼化しちゃうのはなー。そう続けてロナルドが難しい顔をする。水ようかん食べな、とドラルクは言った。
    「ん、食べる」
     ロナルドは素直にそう返事をして、まずジョンの容器のふたを開け、それから自分の分のふたをベリリと開けた。すぐに礼を述べるジョンに対して、ロナルドはいいよいいよと恥ずかしそうに体をよじって答える。
     まだ同居して間もない頃、ドラルクはプラスチック容器に入ったゼリーやようかんは、出せるものは中身を皿に出したうえでロナルドへ提供していた。それはごく自然なおこないで、手間でもなんでもなかったため、特になんの考えもなしにそうしていたのだが、ある日ロナルドにそのままでいいと告げられた。
     自分でふた開けて食うからそこまでしなくていい、と気まずそうな表情を浮かべて彼は言った。ドラルクは「そこまで」の意味するところがよくわからなかったので、つまり自分でふたを開けたいのかね? と確認を取るように問い返してみた。
     うん、まあ、そういうことだと思ってもらっていい。
     ロナルドはそう答えて落ち着かない面持ちでもじもじしていた。だって洗う皿が増えるじゃん、と続ける相手に、皿洗いも趣味だからと言い返す寸前でドラルクは言葉を引っこめた。なにやら頑張って意思表示をしてきたというのに、それを無に帰すような返事をするのはいかがなものかという思考がとっさに頭をもたげたからだ。ゼリーなどが入っている容器は、ものによってはふたが固過ぎてうっかり死んだ経験もなくはないし、もしかすると若造は貧弱吸血鬼のそんな現場を見かけたのかもしれないし、もしくはそれと全然関係ない申し入れなのかもしれない。いずれにせよ、わざわざ希望を伝えてきたのだから、受け入れてやるにしくはない。じゃあそうする、とドラルクは晴れやかに言った。おう、そうしろ、とロナルドはぎこちない風情で応じた。
     そんなわけで、市販のプラスチック容器入りデザートは、そのままの形でテーブルの上に出ることになった。そして、以後ずっとそういうことになっている。 
    「ウリ科でグリーンカーテンを作るお宅を、あらかじめリスト化しておくことはできないのかね?」
    「ん?」
     思いつきでしゃべったドラルクの言葉へロナルドが反応して首をかしげる。
    「退治人や吸対などで情報共有して、過去に依頼があった住所をチェックリストにしておくとか、どうだろう?」
     いいかもしんねぇ、とロナルドがつぶやくように言う。
    「ちゃんとご本人たちに説明してからじゃないとまずいけど、多少は違ってくるんじゃないかね」
     うん、とロナルドが大きく首を縦にふる。
    「クソ砂にしちゃいいこと言うな」
    「ひとこと余計なんだよ君は。そういうところだぞ」
     大きく水ようかんをすくい取って口に入れる若者へ、ドラルクはちくりと小言を返す。そうして目線を少しずらせば、スプーンを握ったジョンが小さな口の周りを盛大にようかん色にしてしまっている。ドラルクは濡れ布巾を取り上げると、使い魔の顔をちょいちょいと拭ってやった。いくつになっても世話を焼く隙を見せてくれるジョンの存在は、ドラルクにとって掛け替えのないものだ。ジョンさえそばにいれば、ドラルクはどこにいようと自分らしさを保ったまま生きられる。それが真理だ。しかし、必要不可欠ではなくても、できる限り大事にしたい相手もここにいるのだ。関心を寄せて手をかけてやるのが、ただただ楽しくてならなくないと感じる相手が。
    アルマジロのジョンは、用心して少しずつ水ようかんを口に運び始める。その様子をドラルクは視線で存分に愛でる。ロナルドもまた、口をもぐもぐさせるジョンに視線を奪われていて、ふんわりと慈愛を宿した表情になっている。二人でひとつの対象に情を注いでいるという温かな連帯感がそこに生じて、雄弁な沈黙が食卓の上に長々と横たわる。
     スプーンが容器とふれ合う音、ときおり椅子の脚が床をこする音、エアコンが部屋の空気の熱を外へ送り出している低い音。そうした音に耳を澄ますドラルクの体を取り巻いているのは、隅々まで満ちている静かで豊かな夜の生活の気配だ。知らず知らずのうちにすっかり身に馴染んだ平和な情景がそこにあった。
    「なあ、ロナルド君」
     平坦な声音でドラルクが呼びかけると、ロナルドはぴくりと反応した。
    「一緒に行くか? 避暑地に」
    「へあ?」
     間が抜けた声がロナルドの口からこぼれ、ドラルクの口の端が吊り上がる。
    「行きたいって言っただろう?」
    「や、言ったけど、いきなり休めねーし、言ってみただけだし」
     ロナルドの声はどんどん小さくなる。宙に放った願望がいざ形を取ろうとしたら気後れするような小心さ――それを私がどう感じているかなんて、こいつは全然わかっちゃいないんだろうなとドラルクは思う。
    「その気になれば我々は今夜にでも発てるじゃないか」
    「ええ? なんだよいきなり」
     慌てるロナルドへドラルクは告げる。
    「〈誰でも幻覚見えるくん〉に不可能はない」
    「うわー! 出たー!」
     叫び出すロナルドへ、幻覚のなにが悪い? とドラルクは畳みかける。そりゃもちろん幻覚なところ、と言いかけてから、ロナルドははたとなにかに気づいたように言葉を途切れさせた。
    「いや、べつに悪く……ないかも」
    「本当に副作用も後遺症もなにもないことはすでに体で確認済みじゃないか」
    「あーああ……たしかに行こうと思えば行けちゃうのか俺らは」
     呆然と言葉を並べるロナルドに、国内? それとも海外? とドラルクは水を向ける。空気の読める使い魔が、ヌイヌイ? と愛らしい仕草で頭をロナルドへ向ける。
    「どこでも行けるんだから、どうせなら海外……がいいかと思ったけど、俺に海外旅行の知識はない」
    「スイス鉄道の旅を見たんだろ?」
    「ちょっと見ただけだぞ。俺の頭に残ってるていどじゃもう絶対に超チープなふわっふわスイスになるわ!」
    「じゃあ私にまかせるかね?」
     ドラルクのセリフに、ふぁ? とロナルドが目をみはる。
    「おまえ、外国、旅行経験、豊富」
    「なにいきなり片言になっとるんじゃアホルド」
    「うるせーな。頭が事態を処理しきれてねーんだよ」
     言葉とともにバシッと肩をはたかれて、その衝撃でドラルクは死んだ。
    「はしゃぐなゴリラ、身体言語は控えめに!」
    「なあ、どこ連れてってくれるんだ?」
    「ハワイ以外だな」
    「あったりまえだろ! 避暑地だぞ?」
     もう完全に連れて行ってもらう気になっているらしいチョロい男の顔を、よみがえったドラルクは笑いをこらえながら見返した。本当に、この先もおかしな誘惑に引っかからずに変わらず無事に過ごしてほしいものだ。
    「ボヘミアの名だたる温泉地で保養とかどうかね?」
    「はあ? 夏に温泉?」
    「君の思い描いている温泉とはだいぶ違うから安心しろ。日本とヨーロッパじゃ温泉のイメージ自体が大違いだ」
    「そうなのかよ」
    「三十度くらいの水につかるから、温水プールみたいなもんだな。あと温泉水を飲んだりする。ジョンによると美味しくないそうだ。それから、保養地では温泉と森林浴がたいていセットになっている」
    「へえ~」
     のんきに驚き顔をさらしているロナルドへ、ところで時間はだいじょうぶなのか? とドラルクは注意を促してやる。
    「あ?」
    「退治の予定だ」
     うお、やっべ、とにわかに焦り出すお約束な姿にドラルクとジョンは顔を見合わせる。ロナルドはグラスに残っていた緑茶を飲み干すと、椅子を鳴らしながら立ち上がった。
    「帰ってきたらまた話を詰めようじゃないか」
    「ん、そーする」
     うなずいてバタバタと退治人として出かける支度をし出すせわしない男を尻目に、ドラルクは残された空の食器をシンクへ運び始める。
    「あ、俺やるよ!」
    「いいから、早く行け」
     後片付けに加わろうとするロナルドの殊勝な心掛けを微笑ましく胸にとどめて、ドラルクは送り出す言葉をかけてやる。
    「いってらっしゃい」
     ヌッヌッヌッヌイとマジロ語と二重奏になるあいさつに背を押されるように、ロナルドは小走りに玄関に向かい、勢いよくブーツを履いてドアノブに手をかけた。ドアを開けながらふり返って「いってきます」を言うロナルドに、ドラルクはひらひらと手をふってやった。その手の動きを止めたのは、次の瞬間に放たれたロナルドの言葉だった。真っ赤な衣装を身にまとった吸血鬼退治人は、去り際に置き土産のようなセリフを残していった。

    「ほんとに行こうな、家族旅行!」

     閉じたドアに重なる赤い残像をにらみながら、ドラルクはしてやられた気分になる。もしかしたら自分でなにを言ったかわかっていない可能性もあるが、さて、これはどう受け取るべきか。うーむと考え込む吸血鬼と目が合った使い魔は、どうしてか訳知り顔でヌンヌンとうなずいた。
    まあ、たんにアホだから言葉を選び間違ったってこともあり得るな。
    そんな可能性を勘定に入れて心を落ち着けたドラルクは、とりあえず汚れた皿を洗うことにした。それが終わったら、ついでにシンクもピカピカにしてしまおう。


     水回りの掃除を終え、五徳をガスコンロから外しながらドラルクは思案する。さて、ロナルドが帰ってきたらどんなふうにからかってやろうか。どんなふうに言葉を選んで問い詰めれば、こちらの動揺を悟らせぬまま核心に迫ることができるだろうか。


     ここにあるものすべて


     締め切りという名のフィールドを駆け抜けた直後の朝を迎えたロナルドは、事務所のソファに突っ伏してぼんやりぐんにゃりしていた。そのぐんにゃり加減は、夏の日に涼を求めて床に落ちている猫と張り合えるほどだった。足かけ二徹で仕上げた原稿は、亜空間から現れてチェックを済ませた敏腕編集者が無事に持ち帰った。一方の執筆した本人は、いつもながらの脱稿ハイに突入し、意識が途切れたあとの祭りが応接用のソファの上だった。
     覚醒しきらないまぶたを押し上げて、ロナルドは目玉だけを動かして辺りをうかがった。ブラインドの隙間から差し込む日の光が、照明の落ちた薄暗い部屋のデスクに白っぽい格子模様をつくっている。日差しの具合からして、夜明けはとうに過ぎ去り、街は完全に目覚めている時刻に違いなかった。寝そべったまま体を反転させて、ロナルドは釈迦涅槃像のような姿勢をとった。茫洋とした視線を向けたローテーブルの天板には、皿の上に載った蒸しパンの残りと、アイスティーだったものが入ったマグカップがあった。カップの内側には、くっきりと茶色い線ができていて、もしかすると普通に洗っても落ちないかもしれなかった。よく言われるのだ。飲み残しを放っておくと、そのたびに茶渋がついて洗剤では落ちなくなるのだと。
     ぼうっとテーブルの上を眺めるうちに、ロナルドは蒸しパンがラップでゆるくおおわれていることに気づいた。いまここにいない作り手が、そうした処置をして去って行ったのだと、動きのにぶい頭で理解する。片付けようとするのを、まだ食うと言い張って止めた記憶がうっすらと脳裏によみがえる。ロナルドは目をしばたいた。煌々とついていたはずの部屋の灯りを消したのも、間違いなく彼だろう。
     左手で頭部を支えた怠惰な姿勢で、ロナルドはにゅっと右手を伸ばして皿のラップをはらいのけた。にわかに沸き上がった強い衝動に駆られるまま、ロナルドは大口を開けてココア色の蒸しパンにかじりついた。
     これは俺のだ。
     ドラルク手製のココアバナナ蒸しパンは、寝起きの喉にはそのままだと飲み込みにくかった。ロナルドは上半身を起こし、左手でマグカップを引き寄せると、いそいで口元までもっていった。なかば蒸発してすっかりぬるくなった紅茶は、それでも水分には違いなかった。少なくとも、頬張った蒸しパンのかたまりを飲み下す助けになるくらいには。
     ちゃんとベッドで寝なさいよ、と叱るように告げた声の名残が、耳の奥にこびりついている。私には運べないんだぞ。おい若造、聞いているのか?
     運べない代わりに靴を脱がせてくれたのかと、ロナルドは靴下のつま先を眺めながら感慨に浸った。悪態をつきながら同居人の足から靴を引っこ抜いているドラルクの姿を想像すると、みぞおちの辺りが小さくひきつれるような感覚をおぼえる。結局ちゃんと寝なかったので、また夜に小言をちょうだいするかもしれない。でも、ひとまずこうして寝るには寝たのだ。その証拠に、すっかり朝になっている。きっともう、とうに吸血鬼は棺桶のなかだ。日が落ちて起きてくるまで顔を見ることはできない。
     もっしゃもっしゃと顎を動かして、テーブルの上の食べ残しをすべて平らげたロナルドは、うう、と小さく呻きながら天井へ向けて腕を伸ばした。上半身を右に倒し、次いで左に倒し、それから両肩を大きく回す。全身に血がめぐり始め、思考にかかった霧がだんだんと晴れていく。さらに反り返って背筋も伸ばしてから、ロナルドはソファの下に揃えてあった靴を履いて立ち上がった。冷たい水が飲みたかった。透明な液体で満たされたグラスを差し出す細い腕を思い描きながら、ロナルドは歩を進めて隣の部屋に通じるドアを開けた。履いたばかりの靴を玄関でまたすぐに脱ぐのがおかしくて、フローリングの床に足をつけながら口の端が上がった。
     カーテンが閉まっている室内は、事務所よりさらに暗かった。それでも、ロナルドは蛍光灯のスイッチに指をふれなかった。デメキンの水槽には布がかけられているし、最近のジョンは主人の棺桶で同衾しているので、部屋を明るくするのに遠慮はいらない。けれども、まだ灯りをつけないでいたかった。不明瞭な視界のまま、馴染んだ空間にただ身を置くことが許される時間。外界から切り離され、完全に弛緩していられる途方もない平穏。
     薄暗がりを縫って台所の流しに到達する前に、床に据えられた棺桶に目が吸い寄せられる。半ば闇に沈んでいるが、黒々とした立体の質感は見間違えようがない。その内側に横たわっているであろう痩せた体は、いまはおそらく深い眠りのさなかにある。どんな姿勢で寝ているのだろうかとロナルドは考える。指先をまるめたり、寝言をつぶやいたりすることはあるのだろうか。日毎にどんな夢を見るのだろうか。
     頭からかぶるタイプの薄い夜着に包まれて、無防備に手足をさらして、静かに寝息を立てている吸血鬼の姿を――その輪郭を、ロナルドは想像のなかでなぞってみる。彼の薄い肩を、腰を、自分の両腕の輪のうちに閉じ込めてみたいという密かな願望がロナルドにはある。
     自覚したのは最近だ。いつからそんな望みが芽吹いて育ち始めたのかはわからない。どれだけ過去の意識をたどり直しても、分岐点は特定できない。いつの間にか、いやでも視界に入る高さまで伸びていた。だから気づいたのだ。気づいた瞬間、ああそうかと思った。ドラルクさんの描写がやわらかくなりましたね、といつぞや感想を述べていた担当編集者の黒い瞳が思い出された。突き上げるような苛立ちや、ふとした折りに感じた胸の痛み、なぜか指先がふるえた場面、そうした数々のささいな過去の蓄積に、時間差で理解が追いついたような感覚があった。そうして、ロナルドは、ドラルクがそばにいるという事実へと改めて考えを向けたのだ。
     ロナルドの意向にかかわりなくドラルクはここにいる。嫌われていようが好かれていようが彼には関係ない。自分のいたい場所にあの吸血鬼はいるだけであって、追い出す方法もない代わりに留め置く方法もない。すべてはドラルクの心しだいなのだ。
     ここにあるものすべてが当たり前になってしまっていたが、実のところ、明日も変わらずにすべてがここにある保証はなにもなかった。改めて認識すると軽く眩暈がしそうになったが、それがありのままの事実だった。ロナルドは過去に何度もドラルクに出て行けと言った。おまえなんかいらないと言った。冗談ではなく、なんらかの感情の裏返しでもなく、本心からそう言っていた。現在の自分からふり返るとぞっとするが、当時はそれが当たり前だったのだ。
     痩せさらばえた体の線に、隈の浮き出た青白い顔色。生存のために一日に数杯の牛乳しか必要としない、太陽の下に出れば焼かれて死ぬ生き物。かつてのロナルドにとっては退治の対象でしかなかった吸血鬼という存在。勝手に住み着いて、どれほど邪険にしても意に介さず居座り、ロナルドの生活を根底から変えてしまった相手。死んではよみがえり、死んではよみがえりしながら、脆い肉体を乗り物にして、つねに陽気に騒がしく、憂うことなどひとつも持たない風情で――ドラルクは毎日を生きている。
     ここにいてほしいと言ったらどんな顔をするのだろうか。俺にはおまえが必要だと言ったら、なにか目新しい反応が見られるのだろうか。
     ロナルドは、自分がそう告げるシーンを思い浮かべてみた。色よい返事がもたらされるとは限らないが、働きかけてみる価値はあるのではないかと思った。大人になってから知り合った相手で、ここまでつながりを断ちたくないと願うようになった存在はいない。絶対にほかのだれかのところへ行ってほしくない。それがいまの本音だ。なにも言葉にせず、これから先の関係を運まかせにしたら、きっと想像もつかないほど後悔することになるだろう。
     水を満たしたグラスを手にして、カーテンの閉まった窓へ目をやる。記憶にある数日前の夜の景色がそこへ重なる。開け放った窓の前に佇んでいた吸血鬼の姿と、その向こうに広がっていた月のない暗い空。室内へ流れ込んでくる空気には、急斜面をすべるように濃くなりつつある秋の気配が滲んでいた。


     夜風をはらんで、見慣れたカーテン生地がふうわりと膨らむ。吸血鬼の羽織ったマントの裾がひるがえる。ハタリ、ハタリと、艶のあるたっぷりとした黒い布が、波のようにドラルクの細い足に打ち寄せてはゆれる。闇の色を背負った痩身がこちらをふり返る。曇っているよ、と気落ちした声が言う。今夜は満月のはずなのに、空が厚い雲におおわれているから見えやしない。
     そんなに見たいものか? とロナルドは聞いた。満月なんて、毎月見るチャンスがある。逃したからといって、さほど惜しく感じるようなものでもないとロナルドは思う。だから、肩を落とすほど残念がる吸血鬼の気持ちはよくわからない。
    「君は月よりダンゴリラだから、空模様に感傷的になる心持ちなんてわからんだろう」
    「変な造語つくってディスるんじゃねーよ」
     即座に低く言い返すと、高等吸血鬼は口の端を吊り上げて音もなく笑った。
     ドラルクのスマートフォンには月齢カレンダーのアプリが入っていて、今日は満月だの新月だのと、ロナルドが聞いてもいないのに教えてくれたりする。夜の眷属は満月の夜に力を増すという俗説があるにはあるが、ロナルドは取り立てて実感したことはない。この新横浜において月絡みで騒動が起きるとしたら、満月にいい気分になって羽目を外しすぎた吸血鬼が捕獲されるとか、大方そのていどのものだろう。
     ロナルドにとって、夜空で輝いている月は、昼間の空に太陽が出ているのと同様のただの自然現象だった。昼と夜でどちらにより思い入れが深いというものでもない。
    「君と違って私が眺められる天の光は限られているからなぁ」
     ドラルクは窓を閉めながら、そんなことをつぶやいた。それは、夜明けとともに塵に帰る吸血鬼のつぶやきだった。
     吸血鬼は月や星が特別に好きなのだろうかとロナルドは思案した。少なくともドラルクに関してはそうかもしれなかった。故ドラルク城には天文台がついていたと聞いたし、棺桶には立派なプラネタリウムの投影機能がついているのを、ロナルドは実地体験をしたうえで知っている。
     きっと、伊奈架町は月も星もよく見えただろう。なにしろ周りになにもなかったのだから、街の灯りの干渉をほとんど受けずに天体が観測できたはずだ。ここは――新横浜は違う。天上の光より地上の光の方が、いつも華やかで騒がしい街だ。この場所に越してきたばかりの頃、ドラルクはその差をどう感じたのだろうか。
    「ここからなにも見えないなら、棺桶のなかで星でも見てたらいいんじゃないか?」
     提案というほどの意思もなくロナルドは言った。
    「本当に、情緒のない男だねぇ」
     嘆かわしいと言わんばかりにドラルクが大仰に両肩をすくめる。反射的に、頭をはたいて殺してやろうかとロナルドは考える。一歩踏み出そうとする。しかし、果たせず動きを止める。足元を小さな影が素早く横切り、その丸い姿がドラルクに抱きあげられたからだ。
    「ジョン、今夜は月夜じゃないから、ともに街の灯りでも眺めるとしようか。そこのゴリラは無駄に顔はいいけれど、花鳥風月に縁のない人間だからね」
     使い魔に語り掛けるドラルクの声は、とても甘くてやわらかい。無駄に顔はいいってなんだ、とロナルドは眉をひそめる。そういうふうに、不意打ちでけなしながらほめるようなことを言うから、俺は、おまえに、おまえのことが……。
    「おまえがいいんだよ」
     自分の声がそう告げるのをロナルドは聞いた。気がつけば、言葉が先走ってその場に転がり落ちていた。胸にアルマジロのジョンを抱えたドラルクが、なにごとかと問いかける眼差しを向けてくる。
    「情緒はないかもしんねーけど、でも、俺は、なんだって一緒に見たいと思ってる。おまえと、おまえが見たいものとか、そういうの」
     グダグダもいいところだった。喋っている本人が伝えたいことの全体像を把握できていないせいで、言葉が玉突き事故を起こしていた。まるっきりバカみたいだとロナルドは思った。絶対に笑われる。意味わからんってアホ扱いされる。あいつのよく回る舌と語彙力でメタメタのギタギタにされる。
    「明るい街だと……月はともかくとして星は見えにくい」
     聞こえてきた音声に、ロナルドは項垂れていた頭を上げて目を見開いた。鋭い皮肉の切っ先で抉られる衝撃に備えていたのに、ドラルクが語り始めたのはまるで違った種類のセリフで、そのために、一瞬頭が混乱しかける。
    「だが、私は天体観測のために旧ドラルク城に帰りたいとは思わんな。ここで人間とともに空の光を眺めるのが、まあ、それなりに……いや、かなり気に入っているものでね」
    「ドラ公?」
     やけに静かな声で続けられる文言に、ロナルドは気圧されそうになる。
    「私が見たいものを君も見たいと言ったな。君は本当にそれだけでいいのかね?」
     ロナルドくん、とドラルクは呼びかけた。
    「私たちには分かち合えないものがたくさんある。夜明けの輝きも、真昼の明るさも、青空に浮かぶ白い月も、天使の梯子も木漏れ日も、私たちは分け合うことができない。君と私がともに眺められる天の光は、月明かりと星明りだけだ。私はかまわない。私に不満はない。だが、君は本当に自らそういう相手を選んでいいのかね?」
     それは真摯な問いかけだった。夜によく馴染む声は、相手を対等に扱い判断をうながす言葉を紡いでいた。勢いで想いの一端を吐露した人間に、考える猶予を与えようとしていた。
    「一度選んでしまったら、もう取り消しはきかないぞ。君が相手にしているのはそういう存在だ」
     鼓動が早まるのをロナルドは感じた。答えなど、考えるまでもなく決まっている。そうでなければ、口火を切ったりしない。出てきた言葉こそ拙かったが、それを支える気持ちはとっくに定まっていて、ゆらぐことなどない。
    「ドラルク、俺は」
     その瞬間、電話が鳴った。文字通りロナルドは飛び上がった。尻ポケットに入れたスマートフォンから朗々と鳴り響く着信音。体がかたまって、頭が真っ白になった。
     出なさいよ、とドラルクが言った。
    「仕事の電話かもしれない。早く出ろ青二才!」
     叱咤する声に慌てて耳にあてたスマートフォンから発せられた原稿の進捗を問う声に、ロナルドはきつく目をつぶって奥歯を噛み締めた。遅々として進まないまま頭から追い出していた番外編の存在が脳裏に浮かび上がる。もう、時間にするとあと二日もない。
     ひとしきり謝罪と約束の文句を繰り返してから通話を終わらせると、笑いをこらえている顔をしたドラルクと目が合った。
    「そんな情けない顔しなさんな。保留にしとくよ。ちゃんと全部終わってから聞いてあげるから、仕事しろ若造」
    「い、いま言うから!」
    「やめとけ。そんなふうに急いで片付けられちゃつまらん」
    「え?」
     つまるとかつまらないとか、そんな類の話なのかと困惑しつつ、ロナルドは出しかけた言葉をいったんしまった。
     事務所のデスクでパソコンと向き合うロナルドに対して、ドラルクはジョンと一緒に、平常と一切変わらない態度で煽ったり茶化したり夜食を差し入れたりしてきた。それは、二人のあいだに生じた真剣なやり取りが夢かなにかだったのではないかとロナルドに疑わせるくらいに、実に一貫して自然なふるまいだった。


     ロナルドは喉を鳴らして水を飲んだ。そして、窓から棺桶へゆるりと視線を移す。
     ドラルクは、一度もロナルドの仕事を軽んじたことはない。さんざん邪魔はしてくるし、トラブルの種も大量にまき散らすが、仕事の結果を否定するようなセリフを吐いたことはない。吸血鬼退治人としての仕事にしても、作家としての仕事にしても、ロナルドには結局のところほめられた記憶しかない。そのほめ方が、めったやたらに皮肉っぽかったり、極端に遠回しだったり、あまりにも型破りな言い草だったりするとしてもだ。あの吸血鬼は、ロナルドが突発的な依頼で執筆した地域紙の小さなコラムまできちんと読んでいて、他愛ない会話の合間に感想を織り交ぜて寄こしたりもするのだ。
     そういうところだ、とロナルドは言いたくなる。
     本当に、そういうところなのだ。
     ロナルドはグラスを流しに置いて、棺桶のかたわらへ足を運び、ゆっくりと床に膝をついた。片手を棺桶の蓋にあてて、手のひら全体を使って表面をそっとなでてみる。その下に眠る相手を――ひたすら強く意識しながら。
    「それでいいんだって言いたかった。すぐに、あのとき」
     声をひそめて囁きかける。さながら、人知れず秘密を打ち明けるように。
    「間違えなく、俺はおまえがいいんだよ」
     左右の腕を大きく広げて、かたくて冷たい棺桶をそっと抱いた。傍から眺めたら、まるで死者にすがっているようなかっこうに見えるだろう。いかにも滑稽じみたおこないだ。だが、ロナルドはそうしたかった。
    「おまえが知らせてくれるまで、意識して夜空に月を探したことなんてなかった。花に目を留めることも、風の匂いをかぐこともなかった。大人になってからは全部忘れてた。いつも忙しかった。いつもなにかが足りてない気がして焦ってた」
     たぶん、ぎりぎりのところで、毎日の歯車を回して必死に息をついていた。そういう余裕のなさに、自分で気づけていなかったことに、ようやく気づかされたのだ。
     月明かりのない空を背景に笑ったドラルクの顔をロナルドは思い出す。重なり合って咲いている小さな花が、風にゆれているような笑顔だと思った。浮かんだとたんに二重線を引いて消すような――どこにも使えない表現だが、あのとき本当にそう思った。恋は、無粋な吸血鬼退治人でさえ詩人にする。
     夜会ったのに、朝もまた会いたくなる。もうそういうところまで来てしまっている。
    「知らないだろう? おまえが来てから、俺にとって夜は単なる闇じゃなくなったんだ」
     心情を吐露し終えて、ロナルドは大きく息をついた。聞いている相手が目の前にいない方がうまく喋れる自分の不甲斐なさが身に染みて、口元がわずかにゆがんだ。喉が詰まるのを熱として感じて、その直後に、目が潤んで視界がぼやけた。
     ロナルドは、子どもの頃、感情が昂るとすぐに涙があふれてくる自分がいやだった。勝手に出てきてしまう涙を見られて、泣き虫と呼ばれてしまうのが我慢ならなかった。涙をこらえながら、泣き虫をやめたい、と兄に向かって真剣に訴えた。兄ちゃん、俺、強くなって泣かないようになりたい。
     それはむつかしいのう、と兄は笑って答えた。弱さや強さは泣くのと関係にゃーからな、と続ける兄の言葉にロナルドは困惑して、強くても泣くの? と聞き返した。
     おお、強くても泣くぞ。べつにのう、泣いて悪いことなんかないじゃろ。
     兄の言い分にロナルドは納得できず、でも泣き虫って言われるのやだ、と重ねて訴えた。そうかそうか、と兄はうなずいて、虫じゃなくて人間ってことじゃなぁ、とちょっとずれた返事をした。そして、泣いている最中にあまり目をこすったらいかん、出てくる涙は落とし切ったほうがいいぞ、と言ってロナルドの頭をやさしくなでた。
     つまるところ、兄の言は正しかったのだ。ロナルドが大人になっても、どれだけ体を鍛えても、すぐに涙があふれそうになってしまうのは変わらないのだから。
     まぶたが熱くなって鼻の奥がツンとする感覚をやり過ごすために、ロナルドは静かに深呼吸をした。後ろめたさを抱えて長く会えていなかった兄と再会したときも、ドラルクはロナルドの隣にいた。誤解が解けた瞬間を、同じ時間に同じ場所で話を聞いて共有していた。
     おまえがいいよ、とロナルドは棺桶を相手に繰り返した。頬に涙が一筋だけこぼれるのを感じた。むかしは、兄が好きで、妹が好きで、アイスクリームが好きで、飛んだり走ったりするのが好きだった。ただそれだけの子どもだった。日が暮れていく空でオレンジと群青がまざっていくのを見ては、なんてきれいなんだろうと感動して、けれどもその思いをだれにも言わなかった。与えられたもの以外を望んだことがなくて、欲しがり方を知らないまま、体ばかりが大きくなった。
     ふいに、胸の下から、コツン、とかすかな音がした。ロナルドはハッと息をのんだ。腕を回した棺桶のなかから、コツ、コツ、とノックするような音が鳴るのを、ロナルドの耳は確かに聞いた。
     たった数回で音は止んで、すぐにもとどおりの静寂がもどってくる。いきなり合図のように響いた音の意味はわからなかった。見当もつかない。きっと、あれこれ考えても無駄なのだろう。棺桶の主から直接そのわけを聞ける時間まで、あと半日は待たなければならないとしても。
     ちゃんと全部終わってから聞いてあげるから、と告げたあの声を、ロナルドは良い方向に信じたいと思った。板一枚はさんだ下に眠る――人の形と丸い形をした命。夜の名残の闇が薄く降り積もった床。目覚めて動き出そうとしているひとりの人間。ここにあるものはそれがすべてで、立ち上がり足を運びカーテンを開け放てば、外には吸血鬼を殺す午前の光が街いっぱいに満ちている。


      シトラスノート


     まるくて黄色くて片手に余る大きなグレープフルーツが、調理台の上にゴロリとひとつ。ドラルクは持ち重りのするその果物を手に取り、ヘタの反対側に包丁で十文字に浅く切れ目を入れる。そして、ここからは力が必要なので、いくらか気合を入れた表情をつくる。切れ目に指を突き立てるようにして、分厚くてかたい外側の皮をむいていく。すると、メリメリと音を立てて引き破られる皮の――つやつやとした表面から、香りを含んだ油分がじわりとにじみ出してくる。傷つけられた果実の息吹は天然のフレグランスだ。ふわりと清々しい芳香がキッチンをただよい広がっていく。
     自我は傷つけられてはじめて語る――ふとそんな文言が煙のように頭をよぎる。たしかロラン・バルトの言葉だった。
     ドラルクはいったん手を止めて、ゆっくりと静かに息を吸い込んだ。立ちのぼる柑橘の香りが、引き潮のように意識をさらっていく。目線を横にやると、調理台の端っこで、使い魔のアルマジロが主人と同じように顎を上げて香り堪能している。その姿が愛らしくて、吸血鬼はうふふと笑う。
     果肉を包む薄皮をはいで、房状になった果肉を取り出してガラスの保存容器へぽいぽいと投げ入れる。黙々と手を動かして、グレープフルーツひとつ丸ごと全部の果肉を丸裸にして容器の中へ移していく。それから、鍋に煮詰めて用意しておいた白ワインとローズマリーのシロップを上から注ぐ。このまま冷蔵庫で半日。明日の昼頃に食べてもらえばちょうどいい。
     これ、やるよ。
     え? なにこれ?
     目線を不自然にそらしながら大きな黄色い果物を差し出してきた退治人の姿を思い返し、吸血鬼はやに下がる。まったく可愛いったらありゃしない。


     ドラルクは吸血鬼退治人ロナルドと、日本的に言うところの「お付き合い」をすることになった。彼のぎこちない告白は、ぎこちなさのレベルが突き抜けていて、好意を語っているというより、駄々をこねていると表現した方がしっくりくるような代物だった。だが、ドラルクはかえってそこにグッときてしまった。
    もうずいぶん前から、ドラルクはロナルドが好きだった。広げればとてつもなく大きくなる愛情を、小さく折りたたんで胸の奥深くに隠していた。はっきり言って、ロナルドは好きにならずにいる方が難しい人間だった。容姿にも運動神経にも文才にも恵まれていながら、つねに引け目ばかり感じているアンバランスな自己認識。自分が他人に与えたものをすぐに忘れ、他人から自分が与えられたものだけをいつまでも憶えている謙虚過ぎる性格。あと一歩で利他に見せかけた自己放棄へ陥りかねないギリギリのレベルの犠牲的精神。お人好しで騙されやすく、生活全般においてチョロいくせに、敵に対峙すれば怖いくらい冷静にトリガーを引けるプロ意識。ガサツなのに繊細で、見栄っ張りなのに正直者。名声を求めるくせに、どこまでも純情で奥ゆかしいし、出来事を物語るのは得意な反面、自分の感情を言語化するのが大の不得手。
    こんな生き物をアリーナ席で見続けたら、どうしたって思い入れずにはいられない。とにかく見ていて全然飽きない。おかげで毎日愉快で仕方ない。人知れず恋しているという状態は、外部から下手な干渉を受けないため、純粋に楽しめるし終わりが訪れることもない。運命共同体である使い魔のジョンにだけは、何事も隠し立てはできないが、ジョンはつねにドラルクの望むところを尊重してくれるので問題ない。従って、ロナルドを想うドラルクの日々に不満はなにもなかった。
     そうなのだ。現状維持のままでドラルクに不満は一切なかった。しかし、本人から名指しされて恋を告げられたら話は別である。引いていた線を向こうが自分の意思で越えてきたのなら、そんなのOKに決まっているではないか。
     告白現場のロナルドは、緊張のあまりややおかしくなっていたし、いかにも彼らしいと言うべきか、突然の電話や突然の下等吸血鬼乱入などのハプニングも起きたため、やり取りは何回かに分けて行われた。自分の行動がうまく運ばないと自信をなくしていくタイプの退治人は、三度目の仕切り直しでついに弁護のしようのないセリフを選んでぶつけてきた。
    「おまえ、少なくとも俺の顔だけは好きなんだよな?」
    いったいどこからそんな珍妙な付加疑問文が導き出されたのかは知らないが、いくらなんでもネガティブ面に落ち過ぎである。ひそかにときめきつつ相手の言葉を待っていたドラルクは、提示された見積もりの低さに思わず頬が引きつった。おかげで、意図せず地を這うような声を出してしまった。
    「顔だけのわけないだろ」
     とたんに、ロナルドは叱られた子どものような顔になった。その反応にドラルクはついイラっときて畳みかけてしまった。
    「君のその鼻持ちならない劣等感はそろそろどうにかならんのかね。たしかに、私も最初のうちは自らの美しさに気づいていない君の風情にそそられたものさ。それはみとめる。だが、さすがにこのような局面に至ってまでその体たらくはないだろう。いい加減に嘆かわしくなってくるぞ。もっと、自分に、自信を、持て!」
    「う、お」
     なにがうおだ、ここは魚河岸か。まったくなっとらん、とドラルクは肩を怒らせた。
    「返事!」
    「え、あの」
     返事は「はい」だろ、とドラルクが至近距離ですごむと、ロナルドは大人しく、はい、と答えた。
    「よろしい。とにかくね、君はきれいなんだから頑張りなさいよ」
     どういう流れで始まった会話だったか半ば忘れて、ドラルクはロナルドに発破をかけた。もはや完全にモデル出身の新人俳優を楽屋で励ますベテランみたいな図式になっていた。ロマンのかけらも残っていない。危うくそこで話が終わりかねなかったが、なかなかどうして土壇場でロナルドは打たれ強いところを見せた。
    「わかった頑張る。頑張るから、おまえが俺の顔もそれ以外も好きなんだったらつき合ってくれ!」
     あ、そういえば告白されてる場面だった、とドラルクは瞬間的に思い出した。切り替えは早い方なので、間髪入れずに「いいよ」と答えた。とたんにロナルドが目を剥いて、いいのかよ! と大声で叫んだ。それがなんだか非難がましい響きに聞こえたので、ドラルクは反射的にムッとした。
    「なに? 断られたかったの? いまから断る?」
    「ちげーよ! 安心し過ぎて思わず突っ込んだんだよ! だっておまえが色々厳しいこと言ってくるから、なにがダメでなにがいいんだかわかんなくなってきて……」
     うあー! と髪をかき乱しながら吠える相手を前にして、こいつ本当におもしろいなとドラルクは思った。きっと、何十年たってもこの調子でおもしろさを更新し続けてくれるに違いない。
    「まあそういうことになったわけだから、これから改めてよろしくロナルド君」
     仕切り直す気持ちで、右手を差し出してドラルクは言った。ロナルドは差し出された手に対して目を白黒させて、キジのホロ打ちのように両脇で腕をバタバタさせたあげく、やっと両手でドラルクの手を包んだ。どうやら握手という概念にたどり着けなかったらしい。両手に対しては両手だろうな、とドラルクはロナルドの手の甲に左手を重ねてやった。そうして手を取り合って相手の様子をうかがうと、食い入るように見つめてくる潤んだ青い双眸と正面から目が合った。
     ドキリとした。
     こんなに美しい青が保たれているのは、彼の両目がつねに新しい涙に洗われ続けているからなのだろうか。視線に縫い留められる自分を感じながら、とっさにそんなことをドラルクは考えた。
     君が思っているよりもずっとずっと私は君の顔が好きなんだぞバカ! 畏怖するがいいわこのにぶにぶゴリラ。キラキラしおってふざけるなよ目がくらむだろ。三十年たたずにに禿げるがいいわ。イケハゲとして私に写真撮られまくれ阿保スカタンルド。
     ロナルドの手が離れるまで、ドラルクは脳内で延々と脈絡のない罵倒の言葉を繰り出し続けた。そうしないと、手袋越しに伝わる体温と間近で輝いている青い目の影響により、なにかとんでもなく馬鹿げたことを口走りかねなかったからだ。


     そこから約一ヶ月。ついにドラルクはロナルドからはじめてのプレゼントを受け取った。それが大玉の黄色いグレープフルーツである。
     ロナルド吸血鬼退治事務所は、年に何件かの割合でプロボノ活動を行っている。それは退治人の個人事務所に課せられている義務ではなく、ロナルドの信条によるものだ。最初にその事実を聞いたとき、ドラルクは弁護士である母のことを思い出さずにいられなかった。社会貢献のために絶えず奔走しているという点では、なにかと共通点の多い二人かもしれない。
     本日昼過ぎ、そうした活動の一環で以前手を貸した青果店の前をロナルドは通りかかった。その際に、店主から、先日のお礼によかったらお好きなフルーツを差し上げますとの申し出があったらしい。ロナルドがご好意を断り切れずに選んで持ち帰ってきた果物が、いま調理中のこれである。 
     丸くて黄色くてでかいから、見られなかった満月の代わりにいいかと思った。
     やるよ、と差し出された果物に添えられたコメントに、ドラルクは笑いの発作でいったん死んだ。すぐに再生すると、死なれたことにより決まり悪さが頂点に達した退治人にどつかれ、もう一度死んだ。ふたたびナァスナァスとよみがえりながら、お月様の貢ぎ物をありがとう、とドラルクは明るく礼を述べた。そうしたら、貢ぎ物じゃねえ! と赤い顔で怒鳴る退治人の語気にあてられて吸血鬼はみたび死んだ。実に忙しい彼我の距離の往復である。
     先月と今月の二ヶ月連続で満月の夜が曇り空であったため、ドラルクは盛大にぶつくさ言っていたのだ。新月だと思えよとロナルドに言われたが、新月の夜と満月が雲に隠された夜ではまったくその価値が違う。
     満月ガチャに二度も外れた! くそー夜空には課金ができんから打つ手なしか! うーむ月夜め……勝負の土俵から逃げおってからに。
     夜空に喧嘩売ってんじゃねーよ、などとロナルドは終始呆れ顔をしていたが、実は気に留めていてくれたらしい。そんな不意打ちの心遣いを素朴な形にして見せられたら、どうしたって嬉しくなってしまう。
     対抗して丸まったジョンとグレープフルーツを並べて、ドラルクは記念にスマートフォンで写真を撮った。なに写真に撮ってんだやめろ、などとロナルドは騒いでいたが、これが撮らずにいられようか。
     ドラルクは黄色い球体をジョンと一緒に満足がいくまで眺めて撫でて、それからようやく調理に取り掛かったのだ。
    「ロナルドくーん、この容器に君がくれたグレープフルーツを甘くしたのが入ってるから、明日食べてね」
     風呂から上がってきたロナルドに、ドラルクは保存容器を掲げてそう申し渡しながら、冷蔵庫のドアを開けて作り置きスペースにしまう。
    「はあ?」
     あからさまに怪訝な声が耳に届いて、ドラルクはリビングの方角へふり返る。
    「なに? なんか文句でもある?」
     いや、文句じゃなくて、と言いながら、頭にバスタオルをかぶったロナルドが近づいてくる。風呂場からびっしゃびしゃのまま出てこなくなったのは、かなりの進歩だとドラルクは思う。日々の教育のたまものだ。
    「おまえにやったもんなのに、俺が食うのかよ」
     途方に暮れているような声音で、ロナルドが言う。
    「だって食材だもん。当たり前でしょ」
     ドラルクが言葉どおりの表情で返すと、うわ、と一声つぶやいて、ロナルドが片手で口をおおう。
    「なんだ若造? 私のつくったものに不満でもあるのか? 食べたくないのか?」
    「いや、そういうんじゃなくて」
     口元をおおった手の下からロナルドが返事をする。
    「じゃあなんだ?」
    「おまえの当たり前がそれなんだと思ったら、なんか理解した瞬間にうわってなった」
     ふうん、よくわからん。
     ドラルクは不可解なロナルドの言い分を心の隅に追いやって適当に片づけた。だって、プレゼントなんて、食べてなくなるのが一番理想的ではないか。しかも、食べてほしい相手の胃に入るのだから言うことなしだ。もちろん、ジョンの分は残しておいてもらわねばならないが。
    「ロナルド君、ジョンの分は少し残しておいてね」
    「おう、食べる前にちょっと分けとく」
    「ヌー」
     前足の片方をあげて応じるアルマジロのジョンを、ドラルクは目を細めて眺める。今日はジョンと一緒にグレープフルーツ湯につかることにしよう。
     ドラルクが流しに置いた黄色い皮を水切りしていると、だけどさぁ、とロナルドが話しかけてくる。
    「んー?」
    「金出して買ったわけじゃねーし、結局は俺が食うし……おまえはプレゼント呼ばわりするけど、これってそういうふうにカウントできなくね?」
    「できますー。ドラちゃんの認識は絶対なんですー」
     むむ、と言葉に詰まる相手を、ドラルクは上目遣いに見返した。そして、はたと気がついた。
     この男は、吸血鬼の執着の重さをまだ知らないのだ。ドラルクは重いものを軽く扱う術に長けているが、それで実際に重さが消えてなくなるわけではない。
     ドラルクは、急に心もとない気分になった。表皮に、少しだけ爪を立てられたような――そんなひやりとする感覚。手元から、少し苦みを含んだ柑橘の香りが強く立ちのぼり、鼻腔をくすぐって逃げていく。香りに形がないことを、頭のどこかでありがたいと思っている自分がいた。


      不完全なレンズ


     ある休日の宵に、ロナルドは調理中の吸血鬼に向かってスマートフォンをかまえてみた。想定したとおり、四角く切り取られた撮影画面には、食卓側から見た台所の景色が映っていた。吸血鬼だけを除いた――それ以外は欠けるところのない見慣れた景色が。
    「お、なんだ若造? 私のかわいい姿を撮りたくなったのか?」
     ドラルクが向けられたレンズの存在に気づいて発言すると同時に、画面に彼の姿が現れる。カメラ機能をとおして見る眺めが、肉眼で見ている全体図と一致する。種も仕掛けもないマジックを見ているような気分になる。
     わかっている。吸血鬼の姿を映し出す仕掛けはある。それは、「写ろう」とするドラルクの意思の存在の有無だ。
    「新しい機種のカメラ性能をためしてんだよ」
     そう告げてロナルドはシャッターボタンを押す。牙を見せてにっと笑ったドラルクの姿が、一枚の写真としてスマートフォンのカメラロールに保存される。
    「ちゃんと写った?」
    「写った写った。ほら」
     近づいて見せてやると、きれいに写ってるねえ、とドラルクが言う。
    「私、ほっとんど尻に力を入れないで自然体だったんだけど、ばっちりだなぁ」
    「自然体っつーのは、こういういかにもカメラ意識してますって顔じゃねーぞ」
    「いやだねー私のサービス精神にいちいちケチつけるゴリラ。撮られてあげたのになにその態度」
     ロナルドは、はいはいどうも、と適当に返事をしながら、スマートフォンをジーンズのポケットにしまった。


     この世界に吸血鬼のスナップショットは存在しない。
     地上に生きながら地上の物理法則に縛られない吸血鬼の特性のひとつが、カメラに写らないことだ。連れ立ってショーウィンドーの前を歩けば、ロナルドひとりだけがガラスに映っている。体の位置が重なっていてさえ素通しで映る。街灯が照らす水たまりも、電車の窓も、洗面所の鏡も、ドラルクの姿をつかまえることはできない。そこにいるけれど、映像としてはいないのだ。
     最初は違和感がすごかった。職業柄、ロナルドは実際に吸血鬼を嫌と言うほど見ていたし、その特性も学習して理解していた。しかし、あくまでもそれは仕事の領分での話だった。住居をともにして四六時中一緒に過ごすとなると、実体としての生々しさの桁が違ってくる。毎日の生活のなかに組み込まれて馴染んだ相手を、頭は勝手に自分と近しい存在として処理しようとする。
     確かな肉体を備えて隣にいるのに――見えない。少し目線をずらせばそこにいる。声も体温も香りもある。容易に手でつかむこともできる。けれど鏡面には映らない。
     日常のさなかの不意打ちにロナルドがぎょっとするたびに、ドラルクは嬉しそうな顔をした。
    「畏怖した? 畏怖したか?」
     しねーよ、とすげなく返して不興を買いながら、ロナルドは、いつも苛々するような寄る辺ないような不明瞭な気持ちを抱かされた。
     一度だけ、衝動に任せて腕をつかんでしまったことがある。気恥ずかしさから一瞬で放したのだが、そのあと長いことドラルクの視線を感じた。口から先に生まれてきたようなやつなのに、そういう場合に限って、吸血鬼はなにも問わず、なにも語らないままでいるのだ。
     それでも、いつしかロナルドは慣れた。ひとはなんにだって慣れるものだ。慣れて、当たり前として処理できるようになって、自分でも言語化できなかった気持ちも次第に消えていった。しかしながら、同居吸血鬼と相思相愛になるというイベントをへて、ふたたびその頃の感覚が戻ってきてしまった。
     発端は、ドラルクがロナルドの間抜けな寝顔写真を保存していると口を滑らせたことだった。
    「はあ~? おまえ勝手になにしてくれてんだよ! 肖像権の侵害も甚だしいわ!」
    「いーだろべつに! 私が見たものを撮っただけで、写真があろうとなかろうとそこに存在した間抜け面は変わらないんだから」
    「撮ったってことは第三者に見せる可能性があるっつーか、さっきおまえ言ったろ? サンズさんにちらつかせるとかなんとか。吸血鬼が怪しい商売しようってんならこっちには取り締まる義務があるんだかんな!」
    「ヒョーッヒョヒョヒョヒョ! 自分の写真が商売になりえるという自意識をお持ちのようじゃないか青二才? いやあ、けっこうなことだ。その意気で今後も活躍してくれたまえ」
     ロナルドはそこで言葉に詰まった。自意識云々のくだりにメンタルの死角を突かれたのだ。一方のドラルクは、会話が途切れたことから話題が一段落したとばかりに離席しようとした。
    「おい待てコラ。話まだ終わってねーぞ」
     襟首をむんずと捕まえると、ドラルクは短く悲鳴を上げてスナ~と崩れた。塵化したまま逃げられないように、サラサラした感触を両手でかき集めながらロナルドは低い声で凄んだ。
    「さっさと撮ったもん出せや」
    「いや~! チンピラゴリラがいる! 怖い!」
     お願いゴリラないで。ゴリルわ。ゴリッてもなにも出ないんだから。などと動詞化したゴリラが活用され続けるうちに、ドラルクは完全に再生し、気づけばロナルドは両腕でその体をしっかり抱きしめていた。
     ドラルクを相手に、つき合ってほしい、はいOKです、といったやり取りをきっちり済ませたロナルドだったが、この時点ではまだ身体的に恋人らしいことを何一つしたことがなかった。それなのに、いきなり心の用意もなく腕の中に吸血鬼をきつく閉じ込めてしまった。ロナルドの頬にカーッと勢いよく血が上った。
    「――若造? あの、急に無言になられると怖いんだけど、ねえ、ロナルド君?」
    「うるせーよ」
     ドラルクの戸惑った声より自分の鼓動の音の方がずっとうるさかった。
    「えーなに、どうしちゃったのさ」
     ロナルドは背中にドラルクの腕が回されるのを感じた。彼の手のひらが、ポン、ポン、と宥めるように背を叩く。それから、ささやき声で吸血鬼が言う。私たち、こうして抱き合うのはじめてだね、と。
    「うう」
     返事が唸り声にしかならず、ロナルドはもどかしい気分になる。
    「そんなに嫌だったらさあ……もうしないよ。撮らないよ。すでに撮っちゃったのは私だけが見るよ。過去に活用しちゃった事実はどうしようもないけど」
    「活用してんなよ」
    「だって活用できちゃったんだもん」
     君はもてるからさ~などとドラルクが言う。知らねえよとロナルドは言い返す。腕の中の体が細過ぎて骨過ぎてなんだか良い匂いがして、頭がぐしゃぐしゃになりそうになる。
    「撮ったのって、活用するためだけか?」
     感情に押しつぶされた声でロナルドはたずねた。ドラルクが笑う気配がした。
    「私が撮りたかったからに決まってるだろ。私が、私のものとして保存しておきたかったんだよ」
     言わせるなこんなこと、と拳で背中を何度もぶたれて、それがちっとも痛くなくてロナルドは笑った。笑いながら、なんだかとても切なくなった。
     だって、俺にはできないじゃないか。意識がないおまえを写真におさめるとか、無理じゃないか。そんなの――そんなのぜんぜん公平じゃない。


     だらりとソファに伸びて、ロナルドは先ほど撮った写真を表示させてみる。こっちを向いて台所で笑っているドラルク。これはこれで、べつに悪くない画だと思う。でも、もっとこういうのじゃなくて、ふとした瞬間を切り取ったようなあいつの写真が手に入ればいいのに。
     不可能なのはわかっている。注意を向けてもらわなければ、吸血鬼はカメラに収まらない。
     ついこんなことばかり考えてしまうものだから、ロナルドは先日ギルドが主催した防犯イベントで吸血鬼とカメラについて一席ぶってしまった。吸血鬼を映すことが可能な防犯カメラは価格の点で普及が難しいこと。吸血鬼絡みの事件は証拠となる映像が残らないために目撃証言がとても重要であること。また、逆の点から見れば、カメラに映らない吸血鬼は冤罪を晴らすための証拠集めが難しいこと。やけに熱く語る自分に、仲間たちは怪訝な眼差しを向けていたような気がする。思い出すと少し――いや、だいぶ恥ずかしくなってくる。
    「ヌー」
    「おう、おはようジョン」
     二度寝していたジョンが、いつの間にか起きて足元まで来ていた。ロナルドは腕を伸ばしてマジロの体をひょいと抱き上げ、腹の上に載せた。
    「ジョン、一緒に写真撮ろっか?」
     ロナルドが頭上でスマートフォンをかまえると、ジョンはヌン! と顎を上げて気合の入った顔をした。シャッター音とともに、ひとりと一匹のツーショットが誕生する。
    「夕飯だぞ~。どうしたんだ急に自撮りなんかはじめて。新しいスマホで撮影に目覚めたのか若造?」
     パタパタと近づいてきたドラルクが、ソファの上のひとりと一匹を見下ろして聞く。
    「なんとなくかな。ジョンがかわいいから」
     ごまかすようにロナルドはそう答えた。そっか、とドラルクはうなずいた。
    「ジョンはいつだって最高にかわいいからな」
     力強く納得する声の響きを耳にしながら、ロナルドは胸がもやもやするのを感じた。ないものねだりの贅沢と、どう折り合いをつければいいのかわからない。この気持ちは、いつになったら消えてくれるのだろうか。


     目が覚めたら真っ暗だった。
     食後にジョンとテレビを見て、その後はドラルクがゲームの実況をする声を聞いていた辺りまでは憶えている。知らないうちにソファにもたれたまま眠っていたらしい。部屋の中は完全に明かりが消えていて、ものの輪郭さえわからない闇が空間を満たしている。
     いま何時だ?
     時間を確かめるために、ロナルドは手探りで自分のスマートフォンを探そうとした。
    「うっわ!」
     ロナルドはとっさに驚いて飛び上がった。すぐ隣に座っているやつがいたのだ。肘から先にふれるすべすべした布の感触。線香を連想させるかすかな香り。
    「ど、ドラ公か? びっくりさせんなよ」
    「夜へようこそ」
     密やかな口調で吸血鬼はそう告げた。
    「ふふふ、なにも見えないようだね」
    「そりゃ電気消されて真っ暗だからな。いま何時だよ?」
    「未明といったところかな。おそらく日付が変わって間もない頃だ」
    「なんで暗くしてるんだよ。いきなり新横浜大停電か?」
     いや、違うさ、とドラルクは答えた。
    「消したのは私だ。君がアホ面さらして居眠りしはじめたから、ちょうどいい機会だと思ってね」
     ロナルドは眉根を寄せた。ちょうどいい機会? なんだそれ。
    「見えないんだろう?」
     念を押すようにドラルクが言う。見えねーよ、とロナルドは言った。
    「私にはよーく見えている」
    「なんだよ自慢かよ。そりゃおまえ、吸血鬼だもんな」
     返事をしながら、ロナルドは会話の行き着く先の見当がつかず、奇妙な居心地の悪さを感じた。
    「見えなくても私はここにいるだろう?」
    「なんだよ。なに当たり前のこと言って……」
     そこでロナルドは口をつぐんだ。
    「ほら、さわってみたまえ。私は君の隣にいる」
     言葉に導かれるように、ロナルドはおずおずと手を伸ばしてすぐそばにある体にふれた。
    「そこは肩だ」
     ドラルクが闇に溶け込む静かな声で言った。
    「そこは首」
     手のひらが滑らかな素肌にふれる。
    「そこは顎」
     鋭角的な線を指先がたどる。
    「わかるだろう?」
     問いかけられて、ロナルドは唇を引き結んだ。吸血鬼の言いたいことが少しずつわかりかけていた。
    「私の鏡像を追い求める暇があるなら、実物にしっかりさわって存在を確認しておきなさいよ」
     知られていたのか、とロナルドは思った。表に出せなかった手前勝手な不満や不安を、知られてしまっていたのか。
     するりと頬をなでる手袋をはめた手の感触。ロナルドはたまらない心持ちになって、とっさに捕まえて唇を押し当てた。おやおや、と吸血鬼がつぶやく。
    「君は――君はさぁ、きっと寂しさを認識するのが下手な子どもだったんだろうね」
    「なんだよ。なに言ってんだ」
     寂しいなんて話はひとつもこの場に出ていない。だれがいつ寂しいなんて言ったんだ。
    「だから色々と見過ごされて蓄えられたものが、地下水みたいに出てくるのかもしれないね」
     捕まえているのとは逆の手が、頭にふれるのを感じた。ドラルクの細い指先が、ゆっくりと髪を梳き始める。
    「私を写せないからって落ち込まないでよ」
     君に備わっているレンズが映すものを信じてよ。私はここにいるからさぁ。
     ロナルドはきつく目をつぶってただうなずいた。
    「まあいいよ。ゆっくり大きくなりなさい。私、育てるの好きだから」
     そういう意味ではないと理解しながら、これ以上身長伸びねーよ、とロナルドは暗がりでつかんだ体に言い返した。


      リンゴの木の下で


     今日はたいして荷物がないから一人で大丈夫、と伝えても、ロナルドは一緒にスーパーについてきたがるようになった。最近はもう、ちょっとした買い物でも、急を要する仕事がなければ同行するのが当たり前のようになっている。些細かもしれないが、行動としてわかりやすいという意味では、これは関係性の名が変わったあとに起きた大きな変化なのかもしれない。
    「余計なもの買ったおまえに、あとから呼び出されんのめんどくさいんだよ」
     そんな因縁めいたセリフを寄越しながら、一緒に事務所を出ようとするロナルドを、ドラルクは一度はからかった。いささか気恥ずかしさを感じたため、その感覚を、ロナルドをおちょくることで紛らわせようとしたのだ。
     やだ~若造ったらそんなに私といたいの? ドラちゃん愛が重くて困っちゃう。
     そんなふうに、軽薄なノリでキャラキャラ笑って相手の怒りを誘おうとしたドラルクは、予想外の返答に撃沈する羽目になった。
    「それで悪いかよ。おまえは俺についてこられちゃいやなのか?」
     みっしりと生えそろった銀色のまつ毛をやや伏せて、ふっくらつやつやの唇をとがらせながら、敵ははっきりとそうご発言あそばしたのである。いや、ロナルドは敵ではないのだが、素直という名の反撃をもろに食らったドラルクとしては、その手の形容をしたくなるのも無理からぬ状態だった。
     ロナルドの不器用な告白を受け入れてから早数ヶ月。恋人同士になっても私たちってなにも変わらないな~、などとドラルクはこっそり考えていた。ちょっと感情面でオプション増えたけど、ロナルド君てば基本的に日常の仕様はそのまんまだよね、と。
     見くびっていたのかもしれない。ロナトカゲはいつの間にかすでにロナードになっていて、さらに人知れずロナードンへ進化しようとしているのかもしれない。そして、もしかすると自分の方も、自覚できていないが、傍らから見たらわかりやすい変化が生じているのかもしれない。
     ドラルクは平静を装いつつ水面下でいささか焦った。
    「いや……ではない。いやではないです、はい」
     気おくれから思わず丁寧語で返事をしたドラルクは、以後このネタでロナルドをからかうのは禁じ手とした。藪をつついたらキラキラした好きが飛び出してくるとか、ちょっとまだ慣れていないので刺激が強過ぎてしまう。
     まあそういった次第で、ドラルクは今夜も銀髪の荷物持ちを連れてスーパーにいる。一方のドラルクの優秀なる使い魔のジョンは、フットサルの仲間に誘われてダーツバーでの飲み会に参加している。今頃きっと店中の注目の的になって、大いにファンを増やしていることだろう。
     買い物カートにカゴをのっけて、ドラルクは青果コーナーへ足を進める。そこにあるのは、チラシでチェックしてきたとおり、ごく短い期間しか出まわらない紅玉が大袋入りで山積みというパラダイスだ。ゴロゴロと積み上がったリンゴを前に、ドラルクのテンションは湯につけられた水銀体温計の目盛のように上がる。
    「すごーい、新鮮な紅玉がこんなに! しかも安いぞ!」
     はしゃいだ声を上げるドラルクの横で、ロナルドがリンゴの袋に片手をかけて持ち上げる。
    「いくつほしーんだよ?」
     いきなりぶっきらぼうに声をかけられて、ドラルクは目を丸くする。
     まだ買うって言ってないのに、なに先回りしたこと言ってんの? ちょっと待って、待ちたまえよ。いきなりイケメン仕草とか青二才のくせに生意気が過ぎるし有罪では?
     うぐぐ、となりつつ、三つ入れろ、とドラルクは申し渡す。命令すんな、と言いながらロナルドがカートにリンゴの袋を三つ入れる。これだけでけっこうな量になる。
     あとは豚汁の材料と牛乳だけにしておくか。
     そう思案しながら、ドラルクはカートを押して前進する。ロナルドはごく自然に歩調を合わせてついてくる。
     ロナルドがまめに付き合ってくれるので、毎日の買い物の内容にはわりと余裕がある。一応感謝はしているのだが、私の感謝の内容はゴリラの腹に直接入るから特に言及しなくてもよくない? とドラルクはだれとも知れぬ対象に言い訳をしていたりする。なんというか、いちい照れくさくて調子が狂う。それもこれもゴリラが勝手に進化するからいけないのだ。不意打ちでかわいいこと言ったりしたりしやがってコノヤロウ。
     言外に罵倒される気配でも察したのか、急にロナルドがドラルクの顔をじっと見つめてくる。
    「なにかね?」
     少々つんけんしながらドラルクがたずねると、ロナルドが口を開く。
    「紅玉っていいリンゴなのか?」
     ほほう、とドラルクは態度に出さずに感心する。自分の腹に入る食材の名前に注意が向くようになったのか。なかなかいい進化の傾向ではないか。
    「いいとか悪いとか――そういうとらえ方をする話ではないかな。だが、君が生まれるずっと前になるが、かつては日本で売られているリンゴと言ったらまず紅玉だったんだ。一番安かったし、手に入りやすかった。でも、だんだんとその座を他の品種にとって代わられて、いまや一般のスーパーではめったに巡り合えない存在になってしまった」
     ふうん、とロナルドは理解した顔をして、なんだか切ない話だな、とつぶやいた。
     ドラルクはロナルドの言葉にわずかに目を細めた。つぶやかれた感想に、ロナルドの感受性の好ましい点を透かし見たからだ。それを「切ない」と表現するのか君は。いいね。そういうところ、すごくいいと思う。
    「果物がどんどん甘くなっていっているんだ。それはそれでいいのかもしれないけれど、菓子作りにはやっぱり酸味のある品種が向いている」
    「そうなのか」
    「そうなのだよ」
     根菜類とタイムサービスの豚ロース薄切り肉を確保して乳製品のコーナーを目指しながら、ドラルクはロナルドに向けてうなずく。
    「牛乳買うのか?」
     林立する一リットルの牛乳パックに大股で近づきながら、ロナルドが聞く。並んでいたのに、いつの間にか追い越されている。
    「ああ、うん」
    「何本?」
    「二本にしとこうかな」
     ドラルクが言い終わる前に、もうロナルドは手に牛乳パックを二つ持って戻ってきている。このていどの身のこなしにも、つい見惚れるような軽やかさがある男なのだ。ドラルクは、一瞬とはいえ目を奪われた自分が少しだけ悔しくなる。
     胸の奥で、つねに埋火のように絶えることなく、ほの赤く燃えている感情がある。その感情のゆらめきに、俗に言う名をつけると恋になる。
     火は風にあおられると燃え上がるので、余計な害をなさないように、できるだけ慎重に存在を見守ってやらなければならない。


     コバルトブルーの夕空の高いところに、ぽつんと白い月が浮いている。闇の色が少しずつ降りてくる空の下を、買い物帰りの二人は肩を並べて歩く。街のネオンが刻々と目立つようになっていく時間。夜の入り口。
     ドラルクは手ぶらだ。ジョンもいないので本当に空手でふわふわと歩いている。荷物はすべてロナルドの両手に下がっている。この量から分けて半端におまえに持たせんのもな、とロナルドが言ったのだ。だから、ドラルクは買った品物を重さが釣り合うように二等分にしてエコバッグに詰めた。ロナルドはパズルが下手だ。なにをどこへ詰めるか的確な判断ができない。ドラルクは得意で、瞬時に組み立てを描くことができる。
     重いもの、軽いもの、やわらかいもの、かたいもの。
     それぞれ適した場所を与えてやらないと、せっかく買った食材が損なわれてしまうことになりかねない。簡単だが重要なことだ。
    「リンゴの名前とか、色々あるのな」
     横断歩道で足を止めると、信号の色に目線を当てながら、ロナルドがそんなふうに言葉を切り出した。
    「おまえが教えるから、そういうのがわかる。知らなかったってことがわかる」
     そうかね、とドラルクは応じた。ジョンの不在の感覚が強く意識された。こうしたときにつねにあるべき感触が、体のどこにも存在しない。
    「日本語で紅玉と呼ばれているリンゴは、欧米でジョナサンと呼ばれているリンゴと同じものだよ」
    「へえ」
    「品種として誕生したのは、私が生まれるよりも前だ」
    「そうなのかよ」
     おまえより前って、けっこうな年じゃん、とロナルドが言う。その言い方はどうかと思うが、彼の言わんとするところはなんとなくわかる。二人のあいだに横たわっている二世紀近い時間の質量について、ロナルドはおそらく思いを馳せている。
    「俺は、もっと早く教えてもらいたかった」
     内にこもるような調子のロナルドの声がドラルクの耳に届く。体を取り巻く空気にわずかな緊張が走るのを感じる。心情を吐露しようとしているときの話し方だと直感が告げて、ドラルクはひそかに警戒する。
    「おまえは先に知ってたんだから、俺のおまえに対する気持ちを、もっと早く教えてくれてもよかったんじゃないか?」
     ドラルクは無言で数回またたきをした。
     ロナルドは、かなり前から無自覚な好意をぶつけてくるようになっていた。そして、それより以前から、ドラルクはロナルドへの恋心が自分の内側に巣食っていることを、すでに疑いなく認めていた。つまり、想っているだけだったのが、途中から想われ始めたという成り行きだった。
     その変化を悟ったとき、ドラルクは、ロナルド本人が自力で感情の種類に気づくまで、心身ともに絶対に手出しはしないと心に決めた。もし彼が気づかないまま終わっても、それならそれでいいのだと。夜の情にふれさせずに、昼の子としての生を全うさせてやれるなら、むしろその方が彼にとってもいいかもしれないと。なにしろロナルドは人間で、しかも吸血鬼退治人なのだから。
     ただ近くで眺めるだけで不足などなくいつも楽しい。ロナルドはドラルクにとってそういう相手だった。たとえ生まれてしまった恋が成就しなくても、まったくかまわずに好きでいられる相手だった。
     ドラルクとジョンだけで回っていた世界に、ロナルドはある日突然飛び込んできた。ロナルド一人で回っていた世界に、ドラルクとジョンはある日いきなり飛び込んでいった。お互いが、互いの世界に思いがけなく落ちてきて、二人と一匹を中心とする世界が新しく生まれた。それはちょっとしたひとつの奇跡だ。ほかに付け加えるものなどなにもなくても、それだけで十分に素晴らしく、とてつもなく愉快な。
    「聞かれれば教えたさ。聞かれなかったから黙っていた。ただそれだけのことだ」
    「わかってなけりゃ聞けない。だって聞くことがわからないんだから」
    「うん。だからそれでよかったんだと思う」
     ロナルドは、不服そうな面持ちをさらしてうつむいた。信号は青に変わった。ドラルクはさっさと道を渡り始めた。少し遅れてロナルドが続いた。
    「俺は知らなくて、おまえだけずっと知ってたなんてムカつくんだよ」
     背後からぼやかれて、ドラルクはひっそりと苦笑した。横断歩道を渡り切ったところでくるりと後ろをふり返ると、その動作に気圧されたように、目の前でロナルドが立ち止まった。ドラルクは牙を見せつけるように、にいっと笑って呼びかける。
    「ロナルド君。君はケントの花という名のリンゴを知っているかね?」
     知らねぇ、とロナルドが答える。
    「ニュートンが万有引力を発見するのを手助けしたと言われているリンゴだよ」
    「その話は知ってっけど、リンゴに名前なんてあったのか?」
    「俗にニュートンのリンゴと呼ばれているね。とにかくフラワー・オブ・ケントが世紀の発見に貢献した品種だということになっている。本当かどうかは知らんがね。リンゴの逸話も、実際の話なのかどうかの判断はまちまちだ」
     ロナルドは考え込む素振りを見せて、あれっていつの話なんだ、とドラルクに聞いた。十七世紀だ、とドラルクが回答すると、うわ、めちゃくちゃむかしじゃねーか、とロナルドは驚きの声を上げた。
    「むかしだねぇ。その頃だったらお父様もいまの私よりも若かった」
    「おまえの親父いったいいつの生まれなんだよ……」
     呆れたような声を出すロナルドに、自分で聞いてみれば、とドラルクは軽い調子で言葉を返す。
    「まあともかく、私が語りたいのは、そのリンゴの特性についてだ」
    「特性?」
    「そう。この品種のリンゴは、熟すると必ず自然に落下する。風もないのに熟したものは次々に落ちる」
    「だからニュートンのリンゴか」
     納得したようにロナルドが言う。
    「説得力あるだろ?」
    「あるな。引力なかったらリンゴ落ちねーもん」
    「うん。だから私も風はいっさい吹かせないことにしたんだ」
     はあ? とロナルドが腑に落ちない顔をする。
    「自然に熟して落ちたんなら受け止めようって」
     それだったら、その場合だけなら、仕方がないと自分に言い訳できる。こちらから仕向けたわけではないのだからと。
    「落ちてこなかったらどうしてた?」
     ふたたび歩き出したドラルクの隣へ並んで、ロナルドが問いかける。
    「どうもこうも。木に成ってるのをずっと見てたかな」
    「マジかよ」
     ロナルドが愕然とした様子でつぶやく。
    「でも、落ちたし」
     勢いよく落ちてきたし、とドラルクが続けると、勢いしかなかったな、とロナルドがため息まじりに言う。
    「真っ赤になっててかわいかったよ」
    「うっせーよ」
     照れて吠えるロナルドに、声を上げてドラルクは笑った。自ら落ちてきたものを拾うのは自由だ。拾わないのも自由だ。ドラルクは拾った。欲しかったものだから、そうなったらもう我慢する理由がなかった。


     ドラルクは両手を後ろに組んで、ゆったりとした歩調で、事務所の入っているビルへの道を歩く。そうしながら、夜道をともに歩く相手へ語りかける。
    「二十世紀に日本の詩人が書いただろ? 万有引力とはひき合う孤独の力であるって」
     どっかで読んだ、とロナルドが返事をする。ドラルクはひとつうなずいて言葉を重ねる。だったら私の言いたいことは伝わってるんじゃないの?
     たぶんな、とロナルドは言った。
    「いま、めちゃくちゃおまえとキスしたい」
    「おやおや」
    「おやおや、じゃねーよ。いつもそうやって余裕ぶっこいてて腹立つんだよ」
     まいったなあ、とドラルクは思う。ついこのあいだ気持ちに気づいたばかりのくせに、もうこんなことが言えるようになっている。これから先も、こちらの思惑などふり切って、どんどん進んで行ってしまうのだろうか。
    「うーん、さいわい人通りもほぼないし、ここでささっと素早くしてあげようか?」
     からかうようにドラルクはロナルドに提案してやる。すると即座に跳ねのけるようにロナルドが言い返す。
    「バーカ。ささっと素早くなんかで満足できるかっての」
     さすがに返す言葉がなくなり、ドラルクは口をつぐんだ。
    「おまえ人間なめてるだろう? そういうの伝わってんだからな」
     噛みつくように告げるロナルドの感情が胸に落ちてきて、ドラルクは重くなった部分を手で押さえた。もうこれ以上はないくらいに好きになっていたはずでも、それよりもまだ先がある。長く生きていても知らないことは色々とある。
     なんて危険なんだろうとドラルクは考える。またたきするごとに変わっていく、百年ぽっちの寿命しか持たない生き物に心を奪われるなんて――本当に、とてもとても危ういことだ。けれども、だからこそ楽しくてやめられない。すでに手に手を取って踏み出してしまった。もうやめられないのだとわかっている。
    「君こそ、吸血鬼を侮るんじゃないぞ」
     びしっと指を突きつけてそう告げながら、同時にドラルクはロナルドが抱えている荷物を冷蔵庫にしまう算段を始める。すべてのことはそのあとだ。唇を引き結んでずんずん先へ進んでいくロナルドのあとを、ドラルクは踊るような足取りで追いかけていく。


      ああ吸血鬼よ君を泣く


    「黄色だなー黄色だなー銀杏の葉っぱが黄色だなー」
    「読経やめろ」
    「ギャ! なんと失礼な因縁つけルド君。読経ちゃうわ。替え歌だわ! 童謡にのせて日本の美を愛でている雅な私に対してなんたる侮辱」
    「その替え歌が歌として歌えてなくて読経だっつってんだよ」
     べえーと真っ赤な舌を出す吸血鬼に、ロナルドは呆れながら言い返す。ドラルクは機嫌がいいとなにかしら歌い出したりするのだが、なにしろ壊滅的な音痴なためメロディラインはもれなく死んでおり、たいていなにを歌っているのかわからない。ただし、元の歌はわからなくても聞いていればドラルクが上機嫌なことだけはちゃんとわかる。それだけで十分だとロナルドは思っていたりする。
     本音を言えば、同居初期ならいざ知らず、音階が死滅した読経ソングもロナルドはすっかり聞き慣れてしまっていて、べつに不快なわけでもないのだが、咎めるのが習い性になっているので歌われるとつい口を挟んでしまう。またそのたびにドラルクがいい反応をするものだから、ロナルドはどうしたって反射的に「読経やめろ」と言ってしまうのだ。結果として一連のやり取りは、もはや打てば響く二人の様式美のようにさえなっている。
     舌を出したドラルクは、さらに目の下を引っ張ってロナルドを思い切りあっかんべの顔で威嚇した。もちろん滑稽なだけで怖くもなんともない。それどころか、ちょっとかわいいとさえ感じてしまう。なにしろ惚れているので。惚れた欲目が日々悪化し続けているので。
     どこからどう見ても、時代錯誤のフォーマルウェアに身を包んだ顔色の悪いガリヒョロおじさんなのに、認識の変化というのは恐ろしい。
     そんなことを考えてロナルドがつい口元をほころばせると、ドラルクはわざとらしい身振りでぷーんとそっぽを向いて、頭の上へに右手をやった。
    「なあジョン、私の歌は読経じゃないよな?」
    「ヌン」
     とても楽しく歌えてる、と吸血鬼の頭上で答えるアルマジロにロナルドは畏怖の眼差しを送る。技巧について一切言及せずにドラルクをほめるジョンのスキルは匠のレベルだ。しかもいつもきちんと心がこもっている。慈愛に満ちたかわいさが丸い形で存在する――それがすなわちジョン・O・ガーディアンなのだった。
    「ヌッヌヌヌ、ヌッヌヌヌ、ヌヌーヌヌッヌヌヌッヌヌヌ」
     あたかも励ますように高い声で歌い出す使い魔に、吸血鬼が、黄色だな、黄色だな、とふたたび無邪気に歌い始める。ガイドボーカルがついているせいか、ドラルクの歌声は先ほどよりややましになったように聞こえる。ロナルドはマジロ語と日本語の二重奏にしばし無言で耳を傾けた。
    「なあ、おまえ赤が好きなんじゃなかったのか? なんで黄色でそんなにテンション上げてんだよ」
    「黄色はあの歯ブラシヒゲが嫌いな色でねぇ……理由は知らんが、黄色を見るとむかつくんだと。そんなの私は楽しくなるに決まってるじゃないか。そうでなくたって、紅葉というのは赤でも黄色でも実に風情があっていいものだよ」
     それにね、赤は一等きれいなのを毎日眺めているからね。そう続けてスマートフォンのカメラを頭上に向ける高等吸血鬼の言わんとするところがつかめずに、ロナルドはひとり首をひねった。


     菊名池公園の屋外プール沿いの木々は、冬を前にして赤や黄やオレンジ色に染まっているらしかった。わけても特に見事なのが銀杏の木々なのは明らかだそうなので、ドラルクが歌い出すのもわからないでもない。二人が立っている煉瓦敷きの歩道の上は、広く銀杏からの落葉におおわれていて、遠目に見るとまるで黄色い絨毯のようだという。
     依頼先に向かう途上では、まだ地平線に近いところに夕日の名残がほのかに留まっていて、淡いオレンジ色の光が低い建物の輪郭をぼうっと浮き上がらせていたのだが、いまはもう空の一番高いところは漆黒に近い色に染まり、ロナルドの目に映る景色には闇のベールがかかっている。だからロナルドは、ドラルクとジョンの説明を受けて、想像で木々の色の鮮やかさを補っている。夜が足元まで降りてくる気配を感じながら、人間の頼りない視界で、彼らとともに同じ場所を眺めている。
     今日の夕方、吸血鬼化した害虫駆除の依頼で出向いた仕事は、予想外にとても早く終わった。そのため、東急東横線の最寄り駅に向かう帰り道で、ドラルクがこのすぐ近くに紅葉スポットがあると言い出したとき、少し足を延ばすのもいいかとロナルドは思ったのだ。前日がドラルクの誕生日だったこともあり、彼の言い分を聞いてやりたい気持ちがいつもより勝ったせいもある。そうして訪れた妙蓮寺駅からすぐの場所にある広い公園は、すでに日が落ちた時間のせいか、ほかに人影は見当たらなかった。穴場じゃないか、とドラルクは言った。ヌヌヌ、とジョンも同意して鳴いた。確かに、これがもし山下公園だったら、二人と一匹で景色を独り占めというわけにはいかないだろう。
     公園内に足を踏み入れ、辺りをうかがいながらゆっくりと歩を進める途中で、ロナルドはふと考えた。
     ひょっとして、こういう条件の下でなら手をつないでもいいんじゃないだろうか。これは図らずも直面した絶好の機会というやつなんじゃないだろうか。
     ロナルドは、少し先を行くドラルクの――暗がりに淡く目立つ白手袋の指先をじっと見つめた。けれども、結局は見つめるだけで終わった。実際にその願望を言葉にして告げたり、無言で行動に出たりする度胸はなかった。
     互いに気持ちを確認し合って一年以上過ぎていて、すでにしっかり深い仲なのだが、ロナルドはいまだに外ではどうふるまったらいいのかがわからない。日常のふとした折に浮かぶ些細な欲望に、いちいち戸惑ってばかりいる。退治人の衣装を着ているときは、それが一層ひどくなる。なにも変える必要はないと考えつつも、それを不満に思う自分も同時にいて、両方の声はしばしばぶつかり合ってロナルドの動作をぎこちなくする。関係が変わったという意味ではドラルクも同じ境遇にあるはずだが、小憎らしいことに、すぐ死ぬ吸血鬼はごく自然な言動を維持して好き勝手にふるまっている。以前とまったく変化なく接してくるかと思えば、いきなり体をくっつけてきたりするし、情事について仄めかしながらからかってくることもある。そういう場合、ロナルドは驚きと照れくささで盛大に突き放してしまいがちで、当然ながらあとで悔やむはめになる。まさに、あとからするから後悔なんだなと納得しながら、ロナルドはひとりで苛まれるしかない。一方のドラルクは、絡んでいって邪険にされてもちっとも気にしない。起きることすべてをそのまま受け止めて楽しんでいる。
     まったく、けちルド君だな。ジョンさん私をたくさんギュッとしてー。
     そんなことをのたまいながら、胸にしがみついてくる愛しの使い魔を笑顔で抱き締めたりしている。
     ロナルドはときおり自分の余裕のなさがいやになる。俺は重い男だな、という忸怩たる思いが込み上げてきて気分が沈む。好きだ、と言うとドラルクは「私も!」と言う。ここにいてくれ、と頼むと「いいよ!」と答える。ドラルクの返事は、いつだってとても速くてとても軽い。あまりに軽いものだから、欲しい言葉をもらえているのに、ロナルドは思いの丈が釣り合っていないんじゃないかと不安になる。そんな自分を自分でもめんどうくさいなと感じたりする。
     自覚する瞬間ごとに愕然としてしまうくらいに、ロナルドはドラルクのことを好きだった。好きになってしまっていた。


     一昨日の夜――というより時間としては昨日の朝と言った方が正確だが、ロナルドはドラルクを抱えて、ドラルクはジョンを抱いて、背もたれを倒したソファベッドの上で、並んで一緒に眠りについた。そんなふうに二人と一匹で寝るのははじめてのことだった。ジョンがドラルクにくっついて棺桶に入ることはあるけれど、それぞれが決まった自分の寝床を持っているから、三カ所に分かれて横になるのが普通の状態だ。そして、ロナルドとドラルクが睦み合うときは、ジョンが不在のタイミングを選ぶか外泊するかしているので、そろってひとつところに寝るのは本当に珍しい成り行きだった。
     ドラルクの誕生日を祝う夜は、主役のお祭り好きと自己アピール能力の高さも相まって、毎年かなりにぎやかなものになる。あふれるプレゼントと華やかな祝福の言葉、弾けるような笑顔と惜しみなくふるまわれる菓子や料理。にぎにぎしい祝宴は、夜明け前まで間断なく続く。まさに踊り明かすという表現がぴったりくる特別な晩になる。ドラルクは一晩中忙しい。楽しむのも楽しませるのも大好きな吸血鬼は、エンジンをかけっ放しの状態で客のあいだを飛び回る。もちろん頻繁に砂になるのだが、すぐに復活してはしゃぎ始める。いったん仕事で中座してから戻り、少し離れてそんな様子を見守りながら、もしかしたら、と今年のロナルドは考えた。自分が主賓や主催にならないにぎやかな席が好きだと以前話したことが、こうした華やかな夜の原因のひとつになっているのかもしれないと。勘違い男になりたくないから、本人へ実際に確認する気はなかったが、そうだったら嬉しいと勝手に思った。
     パーティーが終わって最後の来客を送り出したドラルクは、特徴のある癖毛までしんなりするほどぐんにゃりしていた。疲れちゃった、と笑う相手に、そりゃそうだろ、とロナルドも笑った。ヌヌヌヌッヌと眠たそうな声でジョンが言って、そうだね楽しかったねと答えながら、ドラルクが小さな頭をやさしくなでた。ドラルクとジョンが出たあとから、回転ドアをくぐるように素早く入浴をすませたロナルドは、ソファの背を倒して寝具を敷くと、その上に体を投げ出した。電気消すぞ、とドラルクが声をかけるのに、ん、と一声返して布団に潜り込んで目をつぶる。そうして、眠るために体を弛緩させようとすると、ひたひたと汐が満ちてくるように、今夜の記憶が瞼の裏や耳の奥によみがえってくる。
     うっわなにこれ! ちょっと待って、こんなの用意できるのって逆に貴重な才能じゃないの? やだ私ったらロナルド君にうっかり畏怖の念を抱きそう! 本当にそれくらいにクッソだっさくてあり得ないハムカツファイナルディスティネーション最高!
     容赦なく罵倒しやがってあいつ、とプレゼントを渡した際のドラルクの顔をロナルドは思い出す。ほとんど一息でまくし立ててきたあの無駄な滑舌のよさといったら。
    「ちょっとつめて」
    「んあァ?」
     いきなりぐいっと脇腹を押されてロナルドは驚きの声を上げた。
    「なん……え、なにおまえ、どうしたの?」
    「寝るんだよ」
     ドラルクがベッドに乗り上げてくる気配にロナルドは混乱しつつ体をよじって場所を空ける。
    「おい」
    「なにかね?」
    「なにかね、じゃねーよ。なんで棺桶に行かないんだよ」
    「いいだろ誕生日なんだから」
    「はあ?」
    「君に私の毛布になる栄誉を与えよう」
     闇のなかで目を凝らしても相手の表情はうかがえない。掛け布団の下に滑り込んできた吸血鬼は、ロナルドの腕をとって自分の体に巻き付けようとしている。本気かよ、とロナルドが胸のうちでつぶやいていると、ヌヌ、というかすかな声がすぐそばから響いた。つまり現在ベッドの上にジョンもいるのだ。おいおい、どういうことだよ。ドラ公のやつジョンと一緒に乗り込んできやがった。
     性的な意図を持たずに同衾するという突然の事態に、ロナルドの頭はなかなか追いつけなかった。暗くて対応しづらいうえにべつにいやなわけでもないし、という曖昧な心持ちのまま、ロナルドは手を取られ足を取られ、ドラルクを背後から抱えるような姿勢へと誘導され、おやすみ、と和やかに挨拶までされてしまった。
    「あのなぁ……」
    「変なことするなよ」
    「うっぐ」
     この場合の変なことってなんだよ、とロナルドは叫びたい気分だったが、ジョンがもう寝ている予感がしたのでこらえた。
     余計なこと言うんじゃねーよ。わざわざ言われたら、それこそ色々と変なこと考えちまうだろーが。
     ロナルドは心を鎮めるためにかわいい猫動画を思い浮かべながら深呼吸をした。できるだけ静かに息を吸って、ゆっくりと細く長く吐いて、と繰り返していると、包み込むように腕のなかに収めている痩せた体が、しだいに小刻みにふるえ出した。伝わってきた震動にぎょっとして一瞬凍り付いたロナルドだったが、すぐさま相手が笑っているのだと気づいた。
    「おいクソ砂、なに笑ってんだよ」
    「くっくっく、だって、ゴリラの息がくすぐったくて」
     うぎゃーとロナルドは声にならない悲鳴を上げた。そりゃあこの距離のこの体勢で深呼吸してればそうなる。当然そうなる。畜生、俺にどうしろって言うんだ。
     ロナルドはきつく目をつぶって心頭滅却とばかりに息を殺した。そうすると今度は鼓動が早くなってなんだか体温も上がっているような気がして、また別の形で居たたまれなかった。しばらくはドラルクがくふくふ笑っている密やかな音が耳に届いていたが、ひたすらじっとしているうちに、やがてそれも途絶えた。やっと寝てくれたかとロナルドがほっとしていると、半分眠りの世界にいるような――おぼろげで舌足らずな小さな声が、しんしんと水かさを増していく夜の質量を超えて枕元に響いた。
     だんろみたい。
     その言葉は、ひっそりと落とされた小石のように、ロナルドの心の水面で静かに波紋を広げた。
     あったかい。いろいろもらってるってきがする。だんろみたい。
     最後はほとんど息だけでささやかれた言葉の残響は、長く尾を引いていつまでも意識の狭間をただよっていた。ロナルドは、ドラルクの曲げた膝の裏にそっと膝頭を添わせて、胴体からつま先までをぴったりと重ねた。それから、眠りの妨げにならないように慎重に腕を動かして、力の抜けた瘦身を抱きしめた。薄くてすべすべした布地越しに、骨っぽい体の形がありありとわかる。足の甲でふれるドラルクの足裏の感触はとても滑らかで、しょっちゅう死んでるんだもんなと改めて思う。
     まったく違う輪郭を持つ生き物が、光沢があってしっとりした布でできた服を身にまとい、完全に人間に体を預けて眠っている。そういう現実がここにある。ドラルクが着ているワンピース型のゆったりとした寝間着の裾は、わずかな身じろぎでも寝具の上をさらさらとすべる。絹のネグリジェで寝ているやつなんて、ロナルドは生れてこの方ドラルクひとりしか知らない。ほかのことだって、ドラルク以外には知らない。隙間なく抱き合ったり、髪の匂いを嗅いだり、舌で唇を濡らしたり、服を脱がせて素肌に手や唇でじかにふれたり、湿ったやわらかい場所の奥深くに導き入れてもらったり。全部が全部ドラルクが相手で――たったひとりしかロナルドは知らない。ほかを知りたいとはまったく思わない。
     静寂と憂鬱を蹴散らす騒々しさで居座って、帰宅を迎える気配と匂いを与えて憶えさせて、勝手にたくさんの顔をつないで縁を結んで、我が物顔で隣を歩いて冗談と助言を山ほど浴びせて、それらのすべてを――ただ楽しいからというひとつの理由に集約して譲らない。やることなすこと笑いのめして囃し立てるくせに、流れる涙をからかいの種には決してしない。ロナルドはすぐ泣いてしまうのに、ドラルクはそれを一度も馬鹿にしたことがない。
     色々もらってるのは俺の方だ。
     たぶん、もうずいぶん前から、そのことを痛いほどわかっている。だから、もっときちんとわかっていると伝えなければいけないのに、ずっとそれができずにいる。
     なにもせずにただ一緒に寝ることは、なによりも親密な行為だった。消し切れない情欲に睡眠の邪魔をされた事実を割り引いても、驚くほど充足したのは本当のことだ。


     さかんに写真を撮っていたドラルクが、ぴゃっと一声叫んで地面に崩れた。駆け寄ったロナルドの足元で、ジョンがヌーヌー鳴きながら塵を前足で寄せ集めようとしている。
    「おい、どうした?」
    「落ち葉が顔にあたったから~」
     急に吹いてきた風にあおられて舞い落ちてきた銀杏の葉に、吸血鬼は負けたらしい。
    「ザコ過ぎんだろ」
    「うるさい! 過ぎるとはなんだ。私はザコを極めたザコなんだからな!」
    「いや、そこで威張んなよ」
     歩道の上にそこだけ先に再生してにゅっと生えた手を、ロナルドは膝を折ってつかまえた。そのまま立ち上がりながら引き上げると、あたかも大掛かりな手品かなにかのように、ドラルクは鮮やかに人型の姿を取り戻す。そこで、あ、とロナルドは気づく。黒い手袋をはめた手のひらの内側にある――白い手袋をはめた肉の薄い手。
     外で手をつないでいる。こんなに簡単に、あっけなく。
     まるっとよみがえったドラルクは、握られたままの自分の手をちらっと見たが、特になにも言わなかった。代わりに周囲の木々へ向けて読み上げるように、ひとつの短歌を暗唱し出した。
    「金色のーちいさき鳥のかたちしてー銀杏ちるなり夕日の岡にー」
    「もう夕日残ってないだろ」
    「細かいことは置いておけ。気分だ気分」
     ふーん、とロナルドは納得するようなしないような感覚で相槌を打った。それから歌の作者の名前を口にした。
    「与謝野晶子だろ」
    「ふぁー?」
     ドラルクが頓狂な声を発して目を丸くする。
    「正解だ。珍しく物知りなところを見せたな若造。教科書にでも載っていたのか?」
     うっとロナルドは喉の詰まる音をもらした。そのとおりだった。こいつはどうしてこう勘がいいのだろう。
    「載ってたよ。あーくっそ、なんでわかんだよ」
    「はっはっは、まさか言い当ててしまうとは私ときたら鋭すぎて罪深いな」
    「うっせーな」
     そんなのなくたっておまえなんかとっくに有罪だ、とロナルドは胸のうちでぼやく。
    「ほかにももっとなにか憶えてないか?」
    「はあ?」
     つながったままの手を前後に小さくゆらしながら、浮き浮きとした声でドラルクがたずねてくる。
    「どうせだから、与謝野晶子の歌」
    「なにおもしろがってんだコノヤロー」
    「だってゴリルド君の口から歌人の名前が出てくるのおもしろかったんだもん。そりゃおもしろがるさ」
     にやにやしながら開き直る相手に律儀に答えてやる必要はない。ないのだけれど、ロナルドは口をつぐんで記憶にある文章を探った。
    「んーと、あれだ。有名なやつ。ああ恋人よ君を泣く君死にたもうことなかれ」
     どうだ、とばかりにロナルドが肩をそびやかすと、ドラルクはじわじわと目を見開いて、唇をかすかにふるわせて、次の瞬間大口を開けて爆笑した。
    「なんっだよ、なにが悪いっつーんだよクソ砂!」
     ヒーヒッヒッヒと邪悪な笑い声を響かせながら、ドラルクはほとんど体を二つ折りにしている。その動きに腕を引っ張られながら、ロナルドは眦を吊り上げて怒りの形相をつくる。極めつきにすぐ死ぬ吸血鬼は、笑い過ぎて激しくむせ返り、しまいに死んで塵になった。手につかんでいた感触が一瞬ではかなく消え失せて、ざらりと足元へ落下する。
    「恋人じゃなくて弟だ。憶え間違ってるんだよロナルド君。正しくは、ああ弟よ君を泣く、だぞ」
    「え? あー!」
     砂状でうごめきながら指摘してくる声を相手に、ロナルドは、うう、と細く呻いた。ドラルクは泣いているアルマジロのジョンを両腕に抱いて、その場にすっくと再生した。
    「混ざっちゃったんだな~たぶん、恋の歌のイメージと呼びかけの部分が。これで宮沢賢治と混ざって、ああ妹よ、とかだったらもっと笑えたんだがな」
    「うがー!」
    「それともなにかな、自分に弟はいないが恋人はいるっていう自己主張かな? まあ弟は君自身だものなあ」
     言いたい放題のドラルクを、ロナルドは強い視線でにらみつけた。
    「もしくは替え歌ってやつ? それもいいかもねえ。しかし日露戦争……あれはひどい戦争だったな。いや、でも……ひどくない戦争なんてないか、うん」
     自分の言葉に自分でうなずく吸血鬼に、ロナルドは怪訝な眼差しを向けた。
    「君死にたもうことなかれ。戦場にいる弟に、死なないでくれと伝えた印象深い歌だね。そう、あの歌は当時めんどくさいご意見番に目をつけられて炎上したのだよ。なにせ教育勅語の時代だからな。色々ときなくさいやり取りが交わされたものさ。一番問題になった部分は、おそらくトルストイの論文へのエアリプだったんだろうと推測されるんだが、優れた文学作品ってものは、書いた本人の意図を超えて鋭く時世を照らしてしまうものなのかもしれないな」
     炎上だのエアリプだの、明治を語る表現としてはカジュアル過ぎやしないかと、ロナルドは少しばかり反応に困った。ドラルクらしいと言えばらしいが。
    「君の伝記だって、後世でどう受容され批評されるかわからんからな。ふむ、ちょっと楽しみではあるな」
    「いや、おまえな」
     ちょっと待てよ、とロナルドは思う。日本語で書かれているという点を除けば共通点などないものを、いきなり大雑把な括りで話されても面食らってしまう。レベルが違うしジャンルが違う。ナポレオン戦争の時代から生きているやつはこれだから困るのだ。
    「遠い未来に人と吸血鬼の歴史が語られる際に、どこかで参考例として引用されるかもしれない」
    「そうは思えねえけどな」
    「私は思うな」
     ドラルクは無邪気に言い返した。と、そこで、ヌヌヌヌイヌ、と主人の腕のなかから使い魔が空腹を訴えた。
    「おやおや、だいぶ長居をしてしまったようだ」
     冷えてきたし、帰るか、と軽い口調で言うドラルクに、ロナルドは黙ってうなずいた。


     公園を出て駅の方角へ歩き出したところで、ありがとう、とドラルクから唐突に礼を言われてロナルドは首をかしげた。
    「なにがだよ?」
    「私たちが見たいものを見せてもらえて嬉しかった。君は昼間に行って見られる機会があるといいね」
     なんださっきの公園の銀杏のことか、とロナルドは得心する。
    「暗くて見えなかっただろう?」
    「いや、そうでもなかった気がする」
     実際に、鮮やかな景色を見たような感覚が胸に残っている。
    「ふーん、そうか」
     ドラルクは思案するような顔をして向かう先の空を見上げた。すでに夕闇から夜の闇に切り替わっている空は、吸血鬼の目には明るく見えているのだろうか。
    「デート楽しかった」
     ぽんと放ってよこされた言葉に、ロナルドは平坦な道でうっかり躓きそうになった。
    「そそそ、そうかよ」
     デートだったのかよ、あれが。そうなのかよ。
     動揺して瞬きを繰り返すロナルドの耳に、風に乗せるようにつぶやかれる言葉がするりと忍び込む。

    「ああ人間よ君を泣く君死にたもうことなかれ」

    「なんだよ、替え歌か?」
    「そう、替え歌だよ」
     夜の生き物らしく街灯に照らされても影をまとわずドラルクが返事をする。
    「ずいぶん宛てた範囲の広い替え歌だな」
    「そんなことはないさ」
     私の人間はひとりだけだからね。そう続けて、ロナルドにとってひとりだけの吸血鬼は、にやりと笑ったようだった。


      セレナーデ


     目覚めるとドラルクは棺桶のなかでひとりだった。しかし、眠りについた場所は棺桶ではなく、隣に位置するソファベッドの上のはずだった。ドラルクは意識のないまま移動などできない。つまり、吸血鬼の体を運んでご丁寧に棺に収めた者がいる。それをしたのは、もちろん同じ場所で眠ったロナルドをおいて他にはいない。
     最近はしばしばこういうことがある。以前は違った。情を交わしたあとに共寝をした場合、ドラルクは夜明け前に静かに起き出して、眠るロナルドを残してベッドから降り、すぐそばの床に置かれた――本来の寝場所である棺桶に潜り込んでいた。まれにロナルドが寝ぼけて引き留めようとすることがあっても、やさしく撫でてあやすように言い聞かせると、彼は曖昧な意識に呑まれて従順に手の力をゆるめ、ドラルクを開放してくれた。お互いに、そうしたことの次第をよしとしているのだとドラルクは考えていた。起床する時間や睡眠の条件が異なる者同士が、できる限り寄り添う方法としては、これが最も合理的であるし不足はないと。
     けれども、それはドラルクだけの考えで、ロナルドには別に思うところがあったのだ。なにごとも、話し合ってみるまでわからない。言葉のやり取りを省いていると、いつの間にか想定外の場所に立っていたり、もしくは相手を立たせてしまっていたりするものだ。気安さをアリバイにして勝手に気持ちを推し量るのはときに考えものだ。
     ドラルクは両腕で自身の肩を抱きながら、自らの口がロナルドに語って聞かせた言葉を思い出す。そうして思い出しながら、自然と安堵のため息をつく。時刻も判然としないままぽっかりと意識が浮上するこんなとき、きちんと蓋をされた空間にいられるのはありがたい。四方が遮蔽されている感覚は、無防備に太陽にさらされることは決してないと保証するものだ。その保証があればこそ、ドラルクは心から安らいで横たわっていられるのだ。とりわけ、愛しの使い魔が不在である場合には、その条件が欠かせない。


     年が変わる少し前、確かテレビで寝具のCMかなにかが流れていて、それに言及する形で、話題が偶然寝る場所にまつわる所感へ至ったのだ。自分に関するちょっとした情報を教えてやる気分で、ドラルクはロナルドに話して聞かせた。君が一緒なら別だけど、やっぱり蓋が閉まらない場所で寝るのはちょっと不安なんだよねと。すると、ロナルドはドラルクにとって予想外の反応を見せた。あくまでごく軽く述べられた言葉に対して、不釣り合いに大きなショックを示したのだ。ロナルドは凍り付いたような表情を浮かべて、絞り出すような声で言った。
     そういうの、言われねーとマジ全然わかんねぇのな。おまえのそういう感覚とか、俺、ほんとに考えたこともなかった。遮光カーテン新しくしてからも途中で棺桶に帰るのって、単にそっちの方が寝心地いいからじゃなかったんだな。
     いきなり深刻モードになってしまった場の空気に面食らいながら、それはそうだろうとドラルクは思った。ロナルドに棺桶という安全地帯は必要ないのだから、言われなければ体感としてわからないのは当たり前で、言われてわかったのならそれでいいのだ。悔しがる必要などまったくないし、ましてや、ありもしない罪を数えるような顔をするなんて馬鹿げている。それに、「寝心地がいい」と「安心できる」はほぼ同じ意味なのだから、べつにロナルドの考えが間違っていたわけでもない。さらにつけ加えるなら、君が一緒なら別だけど、と前置きしてやったのだから、むしろ嬉しがるべきだろうがバカルドめ。君はマイナス要素抽出マシンか。
     ドラルクは指先でロナルドの頬をむにっとつまんで伸ばしながら、そんな顔するんじゃありません、と諭すように言ってやった。
     わかりたい。色々と、もっと、おまえのこと。
     頬をつままれた間抜け顔のまま、陰りのある口調でぼそぼそとそんな言葉を寄越してくるロナルドを、ドラルクは心の底から可愛い生き物だと感じた。そして、つい、そうだね私のクソゲーコレクションをもっと深く理解してもらわないと、などと軽口を叩いてしまって、そういう話してんじゃねーよ! と生真面目な退治人を大いに嘆かせてしまうのだった。まあ、それは仕方のないことだ。そうした成り行きは不可抗力と言ってもいい。なにしろドラルクはロナルドをからかうのが大好きなのだから。ロナルドほどからかい甲斐のある人間など、この地上においてまず他にはいないと確信しているのだから。
     俺が起きるときに移動させるんじゃだめなのか? とロナルドは伺いを立てた。ちゃんと棺桶に入れるから、信じて眠っててもらえないかな。
     えーいいけどさ、とドラルクは返事をしつつ、なんだかよくわからないなと落ち着かない気分になった。それって君になにかメリットがあるのか? ただ面倒が増えるだけじゃないのかね?
     だって、起きたときにいてほしーし。あ、いるって思いたいし。
     そんなもんなの? 気持ちの問題?
     これが気持ちの問題以外のなんなんだっつーの。おまえたまに変なとこ鈍いよな。
     はあ?
     知らないうちにいなくなられるより自分の手で運びたいって話なんだよ。
     いなくなってないだろ。君は私が棺桶で寝てるの知ってるんだから。
     あーもーいーわ。わかんなくていいから俺の好きにさせろ。
     ふーん、あれかな。えっちしたあとに動物は悲しくなるっていうから、君にもそういう心理作用が働いちゃう感じ?
     は? なんだそれ。
     ラテン語のことわざであるんですー。オムネ・アニマル・ポスト・コイツム・トリステ・エスト。
     いきなり呪文やめろよ。なんか石とか光りそうだろ。
     だまれこのラピュタっ子が。困ったときのおまじないじゃないんだからな。この文句は、すべての動物は性交のあと悲しくなるっていう意味で、シェイクスピアなんかもよく引用してるポピュラーなやつだ。わかったか?
     おまえと俺だとポピュラーの概念が違うってことはよくわかった。
     ほほう、畏怖したか。
     してねーわ、ボケ。


     そんな締まらない会話をして、そのあとに訪れた機会から、ロナルドの有言実行が始まったのだった。正直なところ、吸血鬼ドラルクはあまり真剣に取り合っていなかったのだが、退治人ロナルドは本気だったらしい。
     ドラルクが横になったままスマートフォンを探り当てて時刻を見ると、午後五時半になるところだった。今日のロナルドは、応急手当普及員の再講習で南区へ出かけているはずだ。普及員の認定証は三年ごとに期限があり、ロナルドは今年で失効するため、再講習が必要となる。忘れないうちになるべく早くと、献身を生き甲斐のひとつにしている彼は気にかけていて、年が明けるとすぐに予約を入れていた。午後一時半から三時間の予定だと言っていたから、終了は四時半になる。最寄り駅まで徒歩十分、市営地下鉄で新横浜まで二十分、そこから事務所まで七分の距離だから、順当に行けばそろそろ帰ってくる頃だ。暖房のスイッチを入れておいてやろうと、ドラルクは手にしたスマートフォンを操作する。
     すでに日は沈んでいるので、本当はもう蓋を開けて起きてもかまわないのだが、棺桶の内側でしどけなく帰宅の足音を聞くのもたまにはいいものだ。ドラルクは棺桶の防音機能をオフにして待つことにする。フットサルの友人たちと新春初詣ミステリーツアーに出かけたジョンも、今日の夕方に帰ってくるはずだ。もしかしたら、ロナルドと帰宅時間が重なるかもしれない。
     ロナルドとコンビを組むことになったばかりの頃、ドラルクはロナルドにほとんど無理やり救命講習の夜間入門コースへ連れて行かれたことがある。たとえ名前だけでも退治人と組むのなら、一度は人間の命を助ける方法を習っておくべきだと、ロナルドは断言して譲らなかった。チョロい男のチョロくない一面を、ドラルクは正面から見せつけられて大いに戸惑った。面倒なことになったと何度も砂になりながら足を踏み入れた会場には、思いのほか吸血鬼も多くいた。心肺蘇生やAEDの使い方などを他の受講者とともにドラルクは一通り習ったが、どの過程でもいちいち砂になった。
    たぶん私本番でも死ぬけど、こんな感じで学ぶ意味ってある? 
    ドラルクはロナルドへそんなふうに質問してみた。彼は答えた。自分でできなくても、やり方を知っているのが重要なのだと。
     知ってれば、だれかに指示出して動いてもらえるだろ? おまえ、口が達者なんだから。
     一点の曇りもない善性を宿した眼差しに中てられて、そのとき、ドラルクは返す言葉を失くしてしまった。当たり前のように良心を期待する言葉を紡ぐ相手は、ドラルクにとっては異物であり、ひとつの新鮮な謎だった。そして、このときばかりではなく、ロナルドはドラルクに対して、まるで信頼の一端を預けるような物言いをすることが幾度もあり、けれども、彼はそれと並行してたびたび出て行けと言い放っていた。そこに生じている矛盾に、おそらくロナルドは気づいていなかった。無自覚な自分の言動が、人間に混じって暮らし始めたばかりの高等吸血鬼に、どんな影響を与えようとしているのかを、彼は少しもわかっていなかった。
     人間の体は吸血鬼とはまったく違う。数えきれないほど様々な病気にかかるし、もし怪我をしたら部位や損傷程度に応じた処置が必要で、血をかければそれで万事片が付くようにはできていない。こんなに修復が難しい仕組みでできているくせに、よくもまあ危険な生き方をするものだと感心してしまう。
     ドラルクはすぐに死ぬ。だがすぐに生き返る。たいていの吸血鬼は太陽が苦手だが、一筋の朝の光で死ぬのはドラルクだけだ。幼い日に、か弱い息子に父は言った。おまえほど吸血鬼らしい吸血鬼はいないと。太陽とまったく相容れないおまえこそ、最も夜を生きる種族として優れていると。あらゆる吸血鬼の弱点で瞬時に死ぬのも理由は同じで、恥じることなどなにもないと。それは強者の余裕から生まれた無邪気なセリフだったのかもしれないが、小さな子どもの心には、細く長く続く命の道を歩きやすくする魔法の文言として伝わった。


     夜明け前に自分の手で吸血鬼の体を棺桶に収めようとするロナルドの心の在り様を、ドラルクは自分ごととしては理解できない。身を削って他者の安全に奉仕する彼の生き方に、本心から共感を寄せてやることもできない。二人のあいだで完全にわかり合えることは、実はひとつもないかもしれない。それでも、ひたすら前進を諦めない二匹のカタツムリのように這って行けば、はるか遠くても一緒にたどり着ける場所がどこかにあるのだと信じている。
     スマートフォンが震えてメッセージの着信を知らせる。ジョンの帰りは少々遅れるらしい。お土産あるよのスタンプを彼は送ってきていて、ドラルクは画面の向こうに得意げな顔を見るような思いがする。いつだってジョンはとびきり可愛くて優しさに満ちている。愛くるしい丸い体を早く抱きしめたくて、ドラルクは胸がそわそわするのを感じる。
     ひとりで過ごす部屋の静けさはまだ破られない。もうすぐ騒々しい気配がドアを二つ隔てた向こうへ現れて、事務所のガーディアンへ帰宅を告げる一度目の挨拶が聞こえてくるだろう。それから間を置かずもうひとつのドアが開けば、室内の空気は大きく動いてかき乱される。足音が近づいてきたら、もったいぶって内側からノックをして、起きていると知らせてやるのもいいかもしれない。棺桶の蓋を開けるのが、彼の手になるか自分の手になるかはわからないが、きっとそこで二度目の挨拶を聞くことになるだろう。
     およそ認識できるあらゆることは、ドラルクのなかで速やかに楽しみへと変わる。こんなふうに穏やかなイメージのなかに身をゆだねる目覚めの時間があること。その時間を成り立たせる条件と経験をこの部屋で積み重ねてきたということ。それらすべてが、かつては想像の及ばない未知の未来であったこと。この関係が行き着く先を知る者はだれもいないのだということ。
     ふたたびスマートフォンに着信があり、確認すると、駅前で吸血鬼と遭遇して退治になったというロナルドからのメッセージだった。本当に、油断のならない街で生きているものだと思う。毎日が、いつまでもどこまでも予測不可能なままだ。しかし、カフェラテからラテを抜く吸血鬼とは、またずいぶんとしょっぱい輩が現れたものだ。
     ドラルクは棺桶の底で寝返りを打つ。伸ばしかけの後ろ髪が首筋をくすぐるのを感じる。そうして、もういい加減に起きてしまおうかと思案していると、次の瞬間、事務所のドアが開く音と、それに続いて予期したとおりの挨拶が聞こえてくる。奏でられる聞き慣れた平凡な物音の数々。近づいてくるひとつの生命の気配。自然と込み上げてくる笑いを嚙み殺しながら、ドラルクの頭には理由を超えた確信が浮かんでいる。
     不可能を可能に変える愛の力など存在しないけれど、私たちには私たちにしか見られない水平線が、いまに繋がる果てのどこかに、きっと用意されているだろう。雪原で橇を引くように、大海原に小舟で漕ぎ出すように、ここではない未踏のどこかへ進む途上に残る数々の足跡。それらはいつまでも消えずにそのしるしを残し、蛍火のように過去を照らし続けるだろう。そして、遠い未来の地においてよみがえる記憶は、懐かしい音楽のように私たちを励ましてくれるだろう。


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    2023/08/04 22:53:29

    小さな夜の音楽【同人誌再録】

    人気作品アーカイブ入り (2023/08/08)

    2021年12月に発行した連作ロナドラ短編集の再録です。内容はTwitterとpixivに一度掲載した話7本(加筆修正有り)と書下ろし1本。これが私のロナドラ本一冊目ですが、 今になってみると「リンゴの木の下で」というタイトルがめちゃめちゃ笑えます。
    #ロナドラ

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