小さな夜の音楽【同人誌再録】 夜と朝の交差点で
ドアを開けると、部屋の奥から日本語とアルマジロ語の二重奏でおかえりの挨拶が飛んできた。ロナルドは気の抜けた声でただいま~と返しながら、玄関タイルの上でブーツを脱いだ。左脇の水槽から、遅かったのう、とくぐもった声がかかる。ロナルドは、まあな、とため息混じりに言ってリビングへ向かう。スマートフォンのロック画面を表示させると、時刻は午前一時をわずかに過ぎていた。ツクモ吸血鬼化したプリントゴッコの始末の依頼は、途中からタフな戦いへと化けたのだった。
依頼主が問題の品を運んでこられず、こちらが家に出向かねばならなかった時点で、厄介ごとへ発展する結果はわかっていたのかもしれない。わかっていなかったのは俺だけだったのかもしれない。俺の星回りはそんなのばっかりだ。
ロナルドは、んあ~と屈託を声に出しながらソファの前に到達し、スマートフォンを座面に抛り、コートを脱ぎ、手袋を脱いだ。フラッシュランプがピカっと炸裂する残像と古い絵の具の匂いが、まだ意識にこびりついている。忘れ去られた昭和のツールの無念の叫びが夢に出そうだ。この平成生まれが、と三十回は罵られた。使ったことがない事実は変えられないので仕方なかった。
無言でソファにどっかりと腰を下ろし、目を閉じて、指先で眉間を揉む。背後から、自分とたいして変わらぬ身長があるとは思えない軽い足音が近づいてくる。
「いや~ずいぶんと苦労した様子だね若造。その疲れ具合を見ると、私は行かなくて正解だったな。依頼人のプリントゴッコは巨大化でもしたかね?」
「うるせえ」
振り返りざまの拳で真後ろに立った相手を塵に変えると、健気な使い魔がヌーと泣く声が深夜の室内に響いた。言い当てられて癪に障るが、実際に、プリントゴッコは巨大化したのだ。おまえがいたら挟まれて無限に死んでたぞ、と言ってやりたかったが、却っておもしろがられそうな予感がして、ロナルドは意志の力で口をつぐんだ。
「しかし、まさかこんなに時間がかかるとは思わなかったな。夕飯を早めに食べて行ってよかったじゃないか」
君は帰ってきてから食べるって言ったけど、ドラちゃんの先見の明の勝利で~す。陽気にそう続けながら、クラシックスタイルの吸血鬼は床の上で再生して立ち上がる。にょっきりと、まるで床からじかに腕が生え胴が生えるかのように。
ドラルクがざらりと崩れてから姿を取り戻すまでの一連の光景に、ロナルドはすっかり慣れてしまっている。あまりに見慣れ過ぎていて、もはや一周して心が休まる眺めだとさえ感じてしまうほどだ。ドラルクがこの場所でこんなふうなのは当たり前で、それが当たり前ではなかった頃のことが、もう定かには思い出せない。
「お風呂入るよね?」
「んー」
たずねてくる声に生返事をしながら、ロナルドはソファの背に頭をあずけた。ここから動きたくない気持ちと、湯に浸かってさっぱりしたい気持ちが脳裏でせめぎ合う。このまま寝落ちしてもいいだろうか。明日は朝からなにかあっただろうか――なにか、あった。あったな。
「やべえ……忘れるとこだった」
「なになに?」
正面へ回り込んできたドラルクが、ジョンを抱いて隣に座る。失態を期待するような目の輝きにイラッとしたロナルドが手刀を叩きこむと、派手な悲鳴を上げてドラルクは死んだ。
「ヌヌー!」
「俺、今日は五時半起きで公園清掃のボランティアだったわ」
「ほ~君ひとりで?」
今度はソファから生えた吸血鬼が、とぼけた調子で聞き返してくる。
「んなわけないだろ。ぼっちで公園清掃ってどんな罰ゲームだ?」
「基本夜勤の退治人が早朝出勤とは珍しい」
「たいてい新人がギルド経由で受け持つ――一種の地域奉仕活動なんだよ。俺もむかしはよくやった。名を上げるために、地元の好感度を勝ち取るために」
「君のむかしって最近の話だろ?」
「吸血鬼の感覚で上げ足取るんじゃねーよ。とにかく、土壇場で参加できなくなった新人くんが出たから、俺とサテツに話が回ってきたんだ」
「実にわかりやすい。訪問販売の勧誘を断るのが苦手な人材トップツーだな。結果的に君は引き受けているわけだし、正しい人選だったと言える」
「うっせーわ」
「私がここに来たばっかりの頃、事務所に置き薬が三社分あったぞ。どんだけ断るの苦手だ? このドラルク様が二社断ってやったんだから感謝しなさい」
ぽん、と憐れむように肩に手をかけられ、ロナルドは反射的にその手をはらって顔をしかめた。
「べつにいーんだよ、使わなきゃ金かかんないんだから」
「場所は取る」
悔しいがそのとおりなので、ロナルドは黙った。この場合の沈黙は金だ。
「お茶でも淹れようか? カフェインレスの貰い物もあるけど」
「いや、風呂入るよ」
答えて立ち上がろうとすると、ちょんと太ももを突く感触があり、ロナルドは動きを止めた。視線を落とすと、見上げてくる一対の小さな目と目が合う。
「ジョン?」
「ヌー」
後足で立ち上がったジョンは、ヌ、ヌヌヌ、ヌヌーン、となにやら話しかけてくる。はっきり言って、めちゃくちゃかわいい。しかし悲しいことに、ロナルドにはジョンの言葉のすべてがわかるわけではない。この一年ちょっとでずいぶん読み取り力が上達したと自負してはいるが、いまのところ独力では限界がある。Eテレの語学講座などに早くマジロ語が加わってくれればいいのにと思う。絶対にまじめに履修する。ただし、実現するとしたら講師はドラルク以外でお願いしたい。
そのドラルクは、いつもどおりナチュラルにアルマジロのジョンと会話を始める。話しかけられている当人を差し置いての所業に苛立ちがつのる。うらやましいことこの上ない。
「へえ、それは感心だね」
吸血鬼は、自らの使い魔へたいそう穏やかな優しい表情を向けている。ロナルドは第三者の視点でそれを見ている状態だ。これがこいつの素なのか、それともジョンだけが引き出せる一種の特異点なのか。そんなことをロナルドは最近たまに考える。
「ヌン」
ジョンが一声鳴いてサムズアップのポーズを取る。
「えらいし優しいし可愛いし、やっぱり君は世界一だ!」
「ヌヌヌン」
「まてまて、俺抜きで勝手に盛り上がるなよ。ジョンなんて言ってんの?」
ドラルクが、わかんないの? という顔でこっちを見るのが大変にむかつくが、ここで殺すとややこしくなるのでロナルドは耐えた。
「喜びたまえ青二才。ジョンは君と一緒に早朝清掃に行ってくれるそうだ」
「へ? ええ⁉」
思いがけない内容に声がおもいきり裏返った。ジョン、マジで? 本当に俺と一緒に行ってくれるの? 天使なの?
「ヌ」
低音で短く答えながら、ジョンが愛らしい頭を縦にふる。
「ヌンヌヌヌヌイ」
「天使ではないって言ってる」
律儀に通訳してくるドラルクに、わーってるよ! と二重の意味をこめてロナルドは怒鳴った。そのていどなら俺にもわかるし、ただの言葉のあやだっつーの。
「ダイエットを兼ねてジョンもボランティアをするそうだ。ロナルドくんに恩も売れるし、つねに一石二鳥を狙っていくスタイルだって~さすが私のジョン~」
最近またちょっと体重が気になる数値になってきたからなあ、とドラルクが続けるのを聞き流して、ロナルドは両手でジョンを抱え上げた。そのまま勢いで天井へ振りかぶり、高い高いをする。恩を売る云々のくだりは何かの間違いなので聞かなかったことにする。
「ありがとう、ジョン! 俺すごくうれしい。がんばろうな」
「ヌヌン」
「で、集合は何時なのかね?」
「五時五十分厳守」
「それで五時半起きで向かうのか。余裕がないように思うが」
「おまえと違って、俺、したくにそんな時間かかんねーもん」
「朝ごはん食べるだろう?」
「いや、終わってから食うからべつに」
そう言いかけたところへ、ドラルクがやや高圧的な態度で言葉を挟んだ。
「仕事の前に血糖値を上げておきたまえ。それに、もう少し早く起きてくれば、できたてほかほかの朝食を私に給仕してもらえるぞ」
どうかね? と打診され、ロナルドはなにやら不可解な気分になる。同時に、みぞおちがキュッと引き攣れるような、そんな奇妙な身体感覚まで生じたりもする。楽し気に語尾を上げてんじゃねーよ。この会話のどこに、おまえを嬉しがらせる要素があるっていうんだ。
「じゃあ五時前に起きれば満足かよ?」
「うん、合格。それなら入れ違いぎりぎりで間に合うから」
合格ってなんだよ、と言い返したいのだけれど、そうしてしまうと手をふれるのが危ぶまれる場所に踏み込みそうで、ロナルドは言葉を飲み下した。
一晩ごとに日が長くなっていく時期だ。季節は春から夏へ少しずつ移り変わっていく。朝がやって来る時間が早くなるほどに、ドラルクの活動時間は短くなる。吸血鬼は夜の住人だ。太陽と合わせる顔は持っていない。特に虚弱体質のドラルクにとって、日の光は天敵だ。一瞬たりとも抗うことはできない。
スマートフォンで日の出入り時刻を確かめながら、いまはこういうものがあるから便利だよねえ、などと言って笑う相手に、どんな返答をすればいいのかロナルドはわからなくなるときがある。こいつ吸血鬼なんだな、という感想だけが頭を占めて、からかいの言葉さえ出てこなくなるときがある。
生き物として違い過ぎて、それなのに日常に馴染み過ぎていて、これでいいのかと、だれかに問いかけてみたくなる。退治人なのに、吸血鬼に生活の世話をされているなんておかしくないか。去年の俺がいまの俺を見たらなんて言うだろう。
でも、きっと、だれかに非難されたら自分は言うのだ。この関係に不安が過ぎったり人知れず戸惑ったりするくせに、外野のだれかが相手ならきっと言うのだ。おまえになにがわかるんだと。俺たちはこれでいいんだと。
「ヌヌヌヌヌン、ヌヌヌヌ!」
空中にかかげられたままのジョンが、バタバタと足を動かし始める。お、ごめんな、と詫びながら、ロナルドは困り顔のアルマジロをソファの上に下ろした。ジョンは短い足でジャンプをして、すぐに自分の主人に抱きついた。肩へよじ登ったジョンの背を、白い手袋をはめたドラルクの手がなでる。
「あんまり早く食うと、半端な時間に腹が減るんだけどな」
聞こえよがしにそんなことを言ってみると、使い魔を肩にのせた吸血鬼は、だったら第二朝食でも用意するかな、と答えた。
「第二朝食?」
「食事は一日三食とは限らないものだ。世界は広いんだよ、ロナルドくん」
訳知り顔の同居相手は、そう述べながら腕を伸ばすと、指の先でこちらの額をちょいと突いた。ものすごく子ども扱いされているとロナルドは感じたが、不思議と腹は立たなかった。
「ようするに、弁当もつくってくれるってことか?」
「まあ、そんなものかな。お風呂に入っておいで」
「うおーい」
「ちゃっちゃと入って、さっさと寝なさい。朝早いんだから。ほら、ジョンも寝ておかないと」
「ヌイ」
「ジョンも一緒に入るか?」
「ヌン」
ジョンが前足を挙げて、入る、と意思表示する。一人と一匹は、風呂場に向かって歩き出す。
「長湯させないでくれよ」
「わかってるって!」
背後からかけられたセリフに大声で返事をして、ロナルドはそっと振り返る。
立ち上がったドラルクがマントを脱ぎ、ジャケットを脱いでいる。重ね着をしていても細い体が、皮を剥くようにますます細くなる。手袋をはずして台所へ入っていく姿を目で追いかける。覆うもののなくなった手の先の爪は赤くない。今夜は塗ってないのか、という感想が頭に浮かび、そんな些細な点にも目が留まるようになった自分の変化に少し驚く。ドラルクがエプロンの肩紐に流れるようなしぐさで腕をとおして、背中の紐を左右の指先に力を入れてきゅっと結ぶ。アームバンドでたくし上げられた袖の下から、極端に痩せた――まるで棒みたいな腕があらわになる。下手に握ったらぽきんと折れそうだ。冷蔵庫を開ける音がやけに大きく響く。ドラルクは庫内の中身と小声でなにやら会話を始める。
そうするつもりはなかったのに、どうしてか目が離せず、ロナルドは一連の吸血鬼の動作を立ったままじっと眺めてしまった。そのうちに、当然の成り行きのように、露骨な視線に気づいて振り向いたドラルクと目が合ってしまう。
「なに?」
「いや、べつに」
特にやましいことはないのに、うろたえそうになる自分がいる。本当に、なんだってそんなに見る必要があるのだろう。
「リクエストある?」
平坦な声音で問いかけられ、とっさにロナルドは言った。
「からあげ」
ドラルクの目が丸くなる。薄い唇の端が瞬時に大きくめくれ上がる。こいつの口は大きくてよく動くとロナルドは考える。
「はい、出ました~ゴリラの一つおぼえ。なんと今週三度目の唐揚げです。彼の言語中枢はどうなっていると思われますか皆さん? 押すと唐揚げと鳴くおもちゃなんでしょうかロナルドくんは。献立という概念を、はたしてこの男は持っているのでしょーか」
ドラルクは甲高い声で架空のリスナー相手に機関銃のようにまくし立てる。ロナルドは肩を怒らせてうるさいと叫んだ。
「からあげはいつだっておいしいからいーんだよ!」
「はいはい。私のつくる唐揚げがいつもおいしくってごめんね~」
「勝手に所有格つけんな。だれもおまえのからあげとは言ってないだろ」
「うんうん。まあそういうことにしておいてあげようじゃないの」
ニヤニヤ笑いに威嚇の眼差しを向けて、ロナルドは踵を返した。口では勝てないし、台所では基本的に暴力はNG行為だ。ドスドスと足音を響かせながら風呂場まで歩を進めると、待っていたジョンが首をかしげてヌヒっと言った。
暗いうちにのっそりと起き上がったロナルドを迎えたのは、複雑な料理の匂いだった。稼働している台所の気配が、寝起きの薄膜がかかったような意識をくすぐって、なんだか浮ついた心持ちになる。床に足を下ろすと、起床に気づいて駆け寄ってきたジョンから、ヌヌヌヌ、と挨拶された。おはよう、とロナルドは和やかに朝の挨拶を返した。台所に近づくと、落ち着いた声が、おはよう、と言った。おまえは「おはよう」じゃないだろ、と奇妙な気分になりながら、ロナルドは同じ言葉を口早に放り投げて顔を洗いに行った。
朝食のメニューは、新生姜としらすの炊き込みご飯、柚子胡椒風味の唐揚げ、きゅうりの浅漬けとさつま芋のレモン煮、それから厚揚げとえのきの味噌汁だった。パタパタと立ち働く吸血鬼を横目にしながら、ロナルドはお代わりしてもりもりとご飯を食べた。
寝支度を終えた姿で後片付けをするドラルクに見送られながら、退治人とアルマジロは家を出た。一人と一匹が歩き出してほどなく、徐々にせり上がってきていた朝の光が、弾けるように街へ広がり始めた。
夜と朝の交差点の、夜に一歩下がったところに立っている相手のことをロナルドは考えた。この時間に外を一緒に歩くことは、この先も決してないだろう。ジョンとは問題なく歩けるが、ドラルクとは歩けない。それは、どれだけ年月を経ても、不動の現実であり続けると決まっている。ただそうだというだけの――当たり前のことだ。
陽光の下に出てこられない存在と暮らしている。顔を合わせられる時間には制限がある。その事実が煩わしいと感じることがあるとしても、手前勝手な尺度を当てはめて語るべきではない。そう判断できる分別が、すでにロナルドには備わっている。晴れた昼の空が、濃淡のないべったりと塗られた青一色ではないように、夜もまた、実体は単調な黒い闇などではない。
そうなのだ。ロナルドはもうちゃんと知っている。夜を生きる彼の毎日が、じゅうぶんに実り多く豊かであることを。太陽と縁のない彼の世界が、途方もなく広く明るいものであることを。