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    しおり
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    しおり
    お砂糖と太陽 砂糖の減りが早くなったと言われた。
     二人と一匹でスーパーへ買い出しに赴いた帰り道でのことだ。それは、退治人と吸血鬼の同居生活が開始されてから、月が二つほど変わった頃の話で、ロナルドは重い物を、ドラルクは軽くてかさ張る物をそれぞれ手に下げて歩いていた。そして、アルマジロのジョンは、彼の定位置のひとつである主人の頭の上にいた。
     米や小麦粉や味噌や醤油。それから油に塩に砂糖。
     穀物や調味料は大きなサイズで購入した方が安くなる。しかし、サイズが大きければ当然ながら重くなる。だからほとんどの場合、それらを持つのはロナルドの役目だ。ガリガリ砂おじさんは、フリをしているわけではなく本当に非力なので、分担を間違えると効率が悪くなること山の如しだ。最初は文句を言ったロナルドも、手痛い学習をへて必要に迫られ、いつしかやむなくその事実を飲み込んでいた。
    「砂糖だけじゃないだろ?」
     ドラルクはごく軽い調子で答えて、相手の出方をうかがった。
    「そうだけど」
     思案するようにロナルドが目線を上へ向けるのを、ドラルクは横目で見ていた。
    「俺、ほとんど自炊してなかったから、味噌が減るとか、塩が減るとか、そもそもそういうの見る機会もなかったんだ。でも、砂糖は使うだろ? だから見るし、在り処とかも一応わかってるし」
     訥々と喋る若者の隣を歩きながら、ドラルクは、砂地から水がしみ出すように、透き通ったなにかが胸の奥に薄く広がり始めるのを感じた。それは不思議な感覚だった。少なくとも、人間を相手に抱いた覚えのない情動であることだけは確かだった。
     小さな──とても小さな生活の実感を、言葉にして告げずにいられなかった吸血鬼退治人。粗暴なわりに繊細な性格をしている彼にそれを言わせたのは、どんな力学のなせる業だろうか。
    「甘党だもんな、ロナルド君は」
    「なんだよなんで知ってんだ。文句あるかよ」
     あからさまに警戒するような口調がいかにも青臭くて、ドラルクの口元は自然とゆるんだ。
    「ないさ。味覚に貴賎などない。糖分は適度に取った方がいいし、君みたいに若くて代謝が良くて体を動かす仕事もしている人間なら、相当な量を摂取してもたいして毒にはならんだろう」
     ロナルドは微妙に顔をしかめて、吸血鬼が常識的なこと言うじゃねーよ、とぼそりと言った。ははは、とドラルクは稚拙な暴言を笑い飛ばした。
    「私は料理が趣味だし、目下のところ私の料理を食べる筆頭は君だし、好みぐらいは把握していても罪はなかろう? 非常識な言動がお好みなら、いくらでもそうしてやれるがね」
     どうかね? と矛先を向けると、ロナルドは、やめろよ、ただでさえおまえの存在自体が非常識なんだ、と忌々し気に返事をした。まあまあ失礼な言い草だったが、ドラルクは表立って反論するのは控えた。その代わり、君の言に従うなら、存在自体が非常識な吸血鬼のつくる食事とおやつを毎回きっちり平らげている君も非常識だという結論になるがいいのかね? と胸中で問いかけた。行き着くところはお互いさまというやつだぞ。
     吸血鬼の視線の先で、退治人は物言いたげな横顔をさらして黙っていた。夜道の灯りが、彼の銀色の髪と精悍な顔立ちを舞台照明のように照らしていた。ドラルクは、形のいい唇がわずかに開きかけては閉じるのを繰り返す様子を目の端でとらえながら、手に下げた袋の左右を雑な仕草で入れ替えて持ち直した。
     困ったお子様だな。
     ドラルクはひそかに肩をすくめた。おそらく、彼はもっとほかになにか言いたいことがある。砂糖の減りに言及したのは前ふりにすぎない。わからいでか。真祖にして無敵のドラルクは人の心の機微に敏いのだ。頭の上で、アルマジロのジョンが小さくため息をつくのが聞こえた。そう、ジョンもドラルクに負けないくらい察しのいい頭脳を持っている。
    「いい夜だねぇ」
     呼び水にするつもりで、ドラルクはそんな当たり障りのないセリフを口にした。実際に、いい夜だった。空気はからりと乾いていて、風は穏やかで、空には明るい半月が浮かんでいた。ずっと遠い先の光景まで見通せそうな静穏と、そっと寄り添ってくれるやわらかい闇がそこにあった。
    「あのな」
     ようやく切り出された音声の突端は、一滴のインクのように夜の狭間に落ちて滲んだ。音の名残に耳を澄ませながら、ドラルクは、そこから先へ続く言葉を静かに待った。
    「このあいだの、茶色いプリン」
    「ん? ああ、プティ・ポ・ド・クレーム・キャラメル?」
    「ぷちぽ? いや、よくわかんねーけど白い器に入ってたあれな」
    「あれがどうした?」
    「うまかった」
     ドラルクは反射的にひゅっと息を吸い込んだ。まったく予期していない言葉だった。
    「カラメルが中に混ざってるプリン食ったのはじめてだったから、変な色とか、思ってたのと違うとか、いろいろ言ったけど、でも、うまかったから」
     たどたどしいセリフを、ドラルクは丁寧に拾い集めるようにして意識の上にのせた。
    「ああいうのつくるから、砂糖が減るんだろ?」
     そう言ってロナルドは、ドラルクの目から見て、いかにも昼の子という顔をして笑った。
     吸血鬼退治事務所に居候を決め込んでからほどなくして、ドラルクは台所を借りて食事の支度をするようになった。来客用にとクッキーなどを焼き始めたのも同じ時期からだ。食後のデザートの類をつくり始めたのは最近で、ロナルド言うところの茶色のプリンはその第一号だった。「カラメルの入ったプリン」とリクエストされてドラルクが出したものは、彼が頭に描いたものと違っていたらしく、まあそれなりに揉めた。揉めはしたが、舐めたようにきれいになって返された器にドラルクは満足していたので、特に気持ちのしこりなどなかった。そう、自分にはなかった。しかし、ロナルドにはあったのだといま知らされた。
    「はじめてだったんだ。買ったんじゃないプリンが家の台所から出てくるとか、びっくりした」
    「リクエストしただろ」
    「本当に出てくるとは思ってなかった」
     そこで、ヌヌヌ、と会話にマジロの声が割って入った。
    「うお、かわいい。ジョンどうした?」
    「ドラルク様を見くびるなとジョンは言っている」
    「はあー? マジでそんなこと言ってるか?」
     本当だ、とドラルクは請け合い、補足するようにジョンが首を縦にふりながらヌーと鳴く。頭上から伝わってくるわずかな振動に目を細めながら、ドラルクは言葉をついだ。
    「つまり、君は畏怖したんだな私を」
    「は? ちげーよ」
    「みとめたまえ。いま君がした告白はそういうことだ」
    「ちがうっつーの。頭わいてんのか」
     定石からすれば、この辺りでロナルドの手が出てドラルクは塵になるが、荷物を慮って彼は口以外を動かせない。珍しく有利な状況にドラルクはほくそ笑んだ。対するロナルドは、まるで苦虫を噛み潰したような顔になっている。気持ちを落ち着かせるためか、猫の威嚇のような息遣いをしているロナルドの姿を、ドラルクは頭の片隅でいじらしいと感じた。
    「私はこれから砂糖をたくさん使うと思うが、問題ないかね?」
    「ねーよ」
     簡潔にロナルドは答えた。不平も悪態もなく、そのときの彼の答えはただそれだけだった。じゃあ存分に減らしてやるとドラルクは思った。ふと辺りを見回すと、いつの間にそれだけ歩いたのか、事務所の入っているビルはもうすぐそこだった。合鍵つくらなきゃなあ、というロナルドのつぶやきが、夜風に運ばれてドラルクの耳に届いた。
     予感がした。
     成り行きと勢いで幕を開けたこの生活は、けっこう長く続くのかもしれない。この男とは、予想もつかない遠い場所まで、こうして一緒に歩いて行くのかもしれない。



        ☆



     使い慣れた台所の調味料の棚には、いくつもの種類の砂糖が並んでいる。
     白砂糖、グラニュー糖、粉砂糖、角砂糖。それからフランスの茶色いお砂糖。
     ここへ来た当初は一種類しかなかった。そこから、用途ごとの必要を訴えたドラルクが、月日とともに次々と増やしていった。もはや台所はドラルクの城だ。事務所ごとニュードラルクキャッスルへ変える計画は頓挫しているも同じだが、夜の台所はめでたく吸血鬼の牙城となっている。
     ドラルクは両手に分厚いミトンをはめて、オーブンのガラス窓の内側を透かし見ていた。あと少しで終了音が鳴る。主人の頭の上に位置どった使い魔は、ヌ、ヌ、ヌ、とオーブンの表示に合わせてカウントダウンをしている。あと少しだぞ、とドラルクは彼に声をかける。ほどなくして、終了を知らせる電子音が空気をさくように鳴り響いた。
     サブレ生地にグラニュー糖をまぶせばサブレディアマンドになる。砂糖のつぶがキラキラと輝いてダイヤモンドのように見えるから、そういう華やかな名称がつけられている。イマジネーションを上手に使えば、砂糖だってダイヤモンドに変身するのだ。
     焼き上がったサブレディアマンドを、ドラルクは天板ごとケーキクーラーの上にそっと置く。このまましばらく置いて粗熱を取らなくてはならない。オーブンから出した直後の熱いサブレはとても脆いから、うかつにさわると割れてしまう。ましてやこれは、ジョンが明日フットサルの仲間に配る差し入れなのだから、なるべく見目好いままに仕上げてやりたい。
     今日のできあがりも完璧だ。ドラルクは、自作の菓子を見下ろしながらうっとりと目を細める。抹茶にココアにプレーンと三種の生地を焼いたので、見た目も楽しい畏怖すべき仕上がりになっている。焼き菓子が誕生した空間に充満する甘い香りを、ドラルクは胸いっぱいに吸い込んだ。まれに、この香りだけでヒナイチが召喚されて現れる場合もある。あの子は小さななりをして、つねに食欲旺盛でたのもしい。特にクッキーが相手だと、彼女の胃袋は底なしのようだ。
    「ヌッヌー、ニュンヌ」
     頭上で存在を主張するジョンの声に、ドラルクは口元をほころばせた。まるで主人の思考を読んだかのようなタイミングだ。クッキー、ジョンの、と主張してくる甘えた声には、罪のない独占欲の響きがある。
    「君も小さい体でとってもよく食べることはわかっているさ。でも、冷めてからだよ。今すぐはだめだ」
     軽くたしなめると、ヌーと不満の呻きをもらしたジョンは、頭から肩へすべり降りてきて、さらにそこから胸元へと前足を伸ばしてくる。ははん、抱っこしてほしいんだなと了解して、ドラルクは両手をそっとアルマジロの背中に回す。吸血鬼の手に体重を受け止めてもらった使い魔は、小さな口で面前の白い布を当たり前のようにもぐもぐやり出す。それは、テニスボールくらいのサイズだったむかしから、ずっと変わらないジョンのくせのひとつだ。これを長いことやられると、コモ産シルクのクラバットは傷んで寿命が短くなるので、ドラルクはつねに替えをたくさん用意している。ジョンを止めるという選択肢はない。なぜならあまりにも彼がかわいいからだ。
     そう──ジョンはかわいい。いついかなるときもどこから見てもかわいい。これは世界の真理である。それを解さない相手とは、たとえどれほど好条件が用意されたとしても、一緒に暮らすことは不可能だろう。他のことは譲れるかもしれないが、こればっかりは譲れない。つまりロナルドは、初手からドラルクと同居する最も重要な点を、楽々とクリアしていたと言える。なにしろ、二人と一匹が暮らし初めてまだ日が浅い時代、ロナルドはドラルクを追い出してジョンを独り占めしようとたくらんだくらいなのだから。
    「ロナルド君の原稿の進み具合はどうだろうねえ」
     胸元に引っ付いた相手へ半分ひとりごとのように話しかけながら、ドラルクは閉ざされたドアの向こうにいるであろう存在へと意識を向けた。


     追いつめられると本領を発揮する系男子な作家は、現在、事務所の机で執筆の最終コーナーを回っているはずだ。文芸誌へ寄稿するロナ戦番外編の締め切りが本日であることは、カレンダーにもはっきりと記してある。
     どうして何年たってもあんなにギリギリまでスイッチが入らないんだろう。
     毎度毎度のことなので、ドラルクは不思議に思わずにいられなかった。昨日の晩は、その疑問を解消すべく、やや焦りが顔に滲み始めた自伝作家の正面に陣取り、ゲーマー吸血鬼は優等生風の口調を装って問いただしてみた。
     質問がありまーす。ロナルド君はなぜいつもギリギリまで原稿が仕上がらないんですか?
     知らねえよそういうタイプなんじゃ!
     質問に対して売れっ子作家は即座にキレた。その口吻の激しさにあてられて、新横浜最弱の吸血鬼はその場でさらりと死んだ。だが、一度聞きたいと思えば、塵になったていどでドラルクは止まらない。復活してからさらに押せ押せの勢いで訊ねると、押しに弱い若造は、観念したように締め切りにまつわる過去の記憶を語り出した。その語りは、最終的に子ども時代の彼が毎年八月最終日に決死のタイムラインを過ごしていた時代までさかのぼった。拝聴していたドラルクは感心した。なんてわかりやすい過去だろうか。三つ子の魂百までというやつである。
     自由研究とか、忘れてるとマジであとからつらかった。洗濯機の蓋開けて、こっから過去にいけねえかなってわりと真面目に検討したり、本気で宿題のこと忘れれば存在がなくなるんじゃないかって柱に頭ぶつけてみたり。
     はあー、長じてからの奇行の原型がすでに十分うかがえる。少年時代もすがすがしくバカ。
     るっせえ。
     罵声と同時にどつかれて死んで、笑いながら再生すると、ちょっぴり気まずそうなロナルドの顔が視界の中心にあった。ゴリラのくせに、ゴリッたことを後悔しているかのような矛盾した表情で、ロナルドはドラルクから微妙に視線をそらしていた。
     それは、ともに暮らす年数がそれなりに経過してから、たまに彼の上に現れるようになった挙動だった。最初は気のせいかと考えたが、同じものを何度も見せられれば、さすがにドラルクも退治人に起きた変化をみとめずにはいられなかった。
     二人のあいだに、なにか新しいチャンネルが開かれつつあった。妙にくすぐったいような、不似合いに甘ったるいような──そんな空気が、ふとした瞬間に泡のように生まれては消えるのだ。ドラルクとしては、悪い気はしないが、だからと言って歓迎するのも違う気がして、とりあえず無期限でペンディング中にしていた。
     明確な結論に辿り着くことなく、ずっと途上に居続けるのも、それはそれでありだろう。ロナルドが無自覚に出している好意の矢印を、自分だけが知っているという状況も、なにやら優越感があって愉快と言えなくもない。退屈とは程遠い毎日を送っているし、若造には若造なりの出会いがそのうちあるかもしれないし、いいんじゃないの私たちこのままで。
     きっと、私がなにもしなければ、きっと半永久的にこのままで……。
     ドラ公。
     唐突に呼びかけられて、ドラルクは物思いから浮上した。間近には、水面に映り込んだ青空のような瑞々しい青い瞳。青空なんて実際に見たことはないけれど、この目で見ることは不可能だけれど、たぶんそういう表現が最も似合う大きな瞳。
     なに?
     うん。自由研究がさ、
     自由研究が、なに?
     もしいま自由研究の宿題出されたら、やること決まってるし、ちょー簡単なんだけどなって思ってさ。
     じいっとこちらを見つめながらそんなことを告げるロナルドに、ドラルクは首をかしげた。
     いまだったらなにを研究するのかね?
     ───。
     ロナルドが放ったセリフを、ドラルクはうまく聞き取れなかった。
     なんだ若造? 聞こえなかったからもう一度、
     お、ま、え。
     は?
     だから、おまえ。
     言われた内容が腑に落ちるまで、少しだけ時間が必要だった。
     夏休みのあいだ、おまえが何時に起きてくるかを記録して、吸血鬼の起床時間の観察──みたいな題つけて提出する。楽勝で終わる。
     なんだそれ。
     反射的にドラルクはそう言葉を返した。なんだそれは。それは、つまり……。
     おまえと暮らすようになって、冬は夜が長くて夏は短いんだってことが、すっごくよくわかるようになった。ああ陽が沈んだからおまえが起きてくるなとか、もう朝が来るからおまえ寝るなとか、外にいても家にいても、太陽の具合見てそういうことよく考える。
     へえ、そう。
     ドラルクは、かろうじて動いた舌で無難な相槌を打った。
     小学生くらいの頃は、とにかく遊ぶことしか頭になくってさ。当たり前だけど、子どもだから日が暮れたら帰らなくちゃならないし、暗いうちに出かけるのはダメだし、ちくしょー太陽ずっと出てろよ俺は遊んでたいんだよって思ってた。
     ははは、とんだわんぱく坊主だ。
     自分の声が、やけに遠くから響いているように聞こえた。
     まーな。しごく真っ当なお子様だったんだよ。子どもが夜の楽しさを知ってたらやばいだろ?
     にかっと若者らしい笑顔を向けられ、じわじわと襲ってくる羞恥に似たなにものかに絡めとられて、数秒後にドラルクは死んだ。
     なんでスナってるんだドラ公! 俺いまなにもしてないだろ?
     困惑したロナルドの叫びを塵になった体に浴びながら、ドラルクは内心で毒づいていた。この天然野郎めと。退治人のくせに退治人のくせに退治人のくせに──吸血鬼にそこまで無防備になついてどうするんだ。その事実に死ぬほど感銘を受ける私もこの先どうするんだ。
     若造──君なぁ、私のことかなり好きだろ?
     発作的に、ドラルクはつい言ってしまった。久しく言葉として具現化せずにすませてきたものを、感情のアップダウンで生じた波に乗って、考えなしに。
     退治人は一瞬だけスペースキャット顔になってから、悲鳴じみた声を上げた。
     ええ? ええええー!?
     それを聞くやいなや、体感として現実が追いついてきて、吸血鬼はしまったと思ったが後の祭りだった。
     言っちゃった。言っちゃった! 私ったらやらかしちゃった。だって突っ込みの衝動が堪え切れなかったんだもの。過失だけど故意じゃないからどうか見逃して。
     責任を負いたくない吸血鬼は、とりあえず塵になりたいと願った。しかし、なぜかこういう場合に限って、輪郭さえ崩れずまるっと無事なままなのだった。
     ひとしきり吠えたロナルドは、茫然とした面持ちで、自問自答するようにつぶやいた。
     そうだったのか。俺はつまり、そういう──そうか、これはそういうことだったのか。
     ドラルクは瞑目した。それは、自分がはからずも力を加えてしまったピタゴラ装置が、行き着くところへ行き着いた瞬間だった。


     ジョンの背中をなでながらドラルクは小声で語りかける。
    「さすがの私も、少しだけ悪かったなって思っているんだよ」
     よりによって締め切り前日に情緒方面へ爆弾落としたのはまずかったなって。身体面ではゴリラだけど、ロナルド先生ってけっこう繊細なタイプじゃない?
    「いつもなら君と事務所で妨害カーニバルをするところだけど、昨日の今日でそれはないかなって」
     おまえのせいで間に合わないって言われたら、腹立つけど今回はそのとおりかなって思っちゃうし、私、罪悪感持たされるのが死ぬより嫌いだし。
    「ヌーヌーヌヌ?」
     ドラルク様はどうしたいの? とジョンに問いかけられて、吸血鬼は首を横に倒してうーんと唸った。アルマジロのジョンは、昨日起きたことの経緯をすべて知っている。理由は簡単で、使い魔は主人にくっついて現場に居合わせたからだ。つけ加えるなら、キンデメもメビヤツも死のゲームも事情を知っている。なぜなら居住スペースへのドアは開いていて、みんな通常運行でそこにいたからだ。ロナルド退治人事務所は、住人にとってワンルーム事情筒抜け事務所なのである。
     今日は、事務所とのあいだのドアはちゃんと閉まっている。日が沈んでドラルクが起床してから、ドアは一度も開いていない。ドラルクは、いつもより時間をかけて身支度を終え、夕飯の下ごしらえを終え、ジョンの差し入れ作りも終わらせてしまった。
    「ロナルド君がこっち来ないってことが、つまり答えなのかなと思ったり、ね?」
    「ヌ?」
    「意志の力で忘れてなかったことにしてるってケースもあったりして」
    「ヌヌヌヌ! ヌンヌ!」
    「え? ない? それはないってずいぶん力説するねぇジョン……そっか、ないか」
     ふむ、とドラルクは一人うなずいた。主張の義務を果たしたジョンは、ふたたび主人のクラバットをくわえた。ドラルクは使い魔を片手で抱え直しながら台所を出て、食卓として使用しているカフェテーブルへと足を進めた。二脚ある椅子の片方を引いて腰かけて、片手を伸ばしてテーブルの上のスマホをつかむ。
    『原稿どう?』
     そう送ったRINEのメッセージにはすぐさま既読がついた。集中できていないんだなと、ドラルクは思った。続く言葉をどうしようか思案していると、液晶画面が先に反応した。送られてきたテキストはたった二文字だ。
    『無理』
     文字通りの状態のロナルドをドラルクは想像した。胸元のジョンがスマホの画面を一瞥し、憂いを含んだ声でヌーと鳴いた。
    「無理だって。かわいそうだね」
     他人事のようにそう言ってから、ドラルクは指先を素早く画面に滑らせた。
    『どうすれば無理じゃなくなる?』
     一拍ほどのち、パっと返信が表示される。
    『ちゃんと告白したい』
     心なしか、文面に悲壮感がただよっているように見える。ちゃんとってなに、とドラルクは思う。いや、本気で、ロナルド君の「ちゃんと」ってなんだろうか。
    『告白って必要かな?』
    『必要!』
     即答だ。 
    『おまえは俺より先に俺の気持ちをわかっていたんだろう?』
     ドラルクは送られてきた文章をじっと見つめた。
    『ずいぶん前からわかってて、本当はなにも言うつもりなかったんだろう?』
     ドラルクはゆるく握ったこぶしを口元にあてた。
    『数年なんておまえの感覚からしたら誤差の範囲だろうけど、俺は違うんだよ。人間だからな』
     浮かび上がるロナルドの訴えを、ドラルクは眉間に力を入れて読んだ。
     君は人間で、私は吸血鬼だ。それ以上でも以下でもない。胸のうちでそうつぶやいてみる。
     ドラルクを退治するためにロナルドが城にやって来た日の記憶が脳裏によみがえる。ひるがえる真っ赤なマントと輝く銀髪。こちらを鋭く見据える碧眼と、芝居がかった不遜な口調。初対面の鮮烈な印象と、それを裏切る素顔の滑稽さと慕わしさ。
    『一晩かけてメンタルのデフラグした。間違いない。おまえが好きだ』
     目にした文字にうっかりスマホを取り落としかけて、ドラルクは、自分が実はあまり冷静ではないらしいことに気づかされた。許可していないのに告白されてしまった。いや、告白に許可とかいらないか。
    『テキストだから証拠が残ってしまうぞ。いいのか?』
     言外に、まだ取り消せるぞ、との含みを持たせてドラルクは返事を送った。
    『いいに決まってる』
     決まってるのか、そうか。
     ドラルクは腕組みをしたくなった。それは典型的な自己防衛のしぐさだ。べつに負けているわけではないのに、なぜそうしたくなるのだろうか。
    『俺は恋愛経験がない』
     そんなこと言わんでもわかっとる、とドラルクは苛立ちながら返信する。
    『知ってる!』
    『自分の気持ちを伝えて返事をもらったこともない』
     ドラルクはスマホをテーブルに置いて、少し距離を取ってロナルドの言葉を眺めた。
    『海外旅行の経験もない』
     それも知ってるがいま関係あるのか?
    『飛行機に乗ったこともない』
     いや、だから関係なくない?
    『ないない尽くしの俺かもしれないけど、だれかに惚れるのを怖がるような男じゃない』
     ──ふぁ?
    『だれかってもちろんおまえだからな。揚げ足取ろうとするなよ無駄だぞ?』
     自分の肩がびくりと揺れるのをドラルクは感じた。ゴリラが──あの五歳児が、いっぱしの男のようなセリフを語っている。送られてくる文章に、自分は心を動かされている。まったく予期しなかった事態が起きている。どうしてだろうと考える。そして、ふと思い当たる。もし直接この場で相対していたら、彼からこんなセリフは聞けなかったんじゃないだろうか。
     ああ、君は物書きとして生きている人間なんだな。
     当たり前と言えば当たり前の事実に、ドラルクは心の深いところで納得する。ロナルドが口でドラルクに勝てたことはほとんどない。だが、文章でなら、そこそこ互角の勝負が成り立つのだ。
    『俺がなにも言わなきゃなにも起きない。おまえは現状維持を選択していたから。でも、俺の気持ちがわかっていてそのままをよしとしていたなら、おまえだって俺のことが好きなんだろう?』
     ドラルクは音を立てて椅子から立ち上がった。
    『俺は知ってる。おまえは自分がしたくないことは絶対にしないやつだ。本当に言いたくないことだったら事故だろうとなんだろうと絶対に言わないやつだ』
     液晶画面に映し出される文章を見下ろしながら、ドラルクは呼吸が浅くなるのを感じた。
    『図星か?』
     早く返信しないと図星ってことにされてしまう、と思いつつ、ドラルクは立ち上がった姿勢のまま動けなかった。
    『なんか言えよ』
     現れる文字に対してドラルクが息をつめていると、顎の下からヌーと声が響いた。
    「ジョン?」
     アルマジロのジョンは、ドラルクの腕から抜け出てテーブルの上に着地した。
    「ヌヌヌヌヌヌ、ヌンヌヌヌ?」
     ロナルド君とつき合っても一番好きなのはヌンのまま?
     後足で立ち上がった使い魔に正面から重ねて真摯に問いかけられ、吸血鬼は大きくうなずいた。
    「もちろんだ。生涯君が一番だ」
    「ヌン」
     満足そうに小さな頭を上下させると、吸血鬼の使い魔はスマホの画面を前足でちょんとつついた。
    「ヌンヌヌンヌヌヌヌヌヌ」
    「返事?」
    「ヌッヌーヌ」
    「は? オッケーって返事するの? 私が?」
     面食らって聞き返したドラルクにジョンは淡々と答えを返した。
     アルマジロ曰く、「ロナルド君とつき合っても」のところで否定しなかったでしょ?
     やはりアルマジロ曰く、つまりその前提はすでにありってことでしょ?
     とどめにアルマジロ曰く、早くクッキーが食べたい。
    「うん、そうだな。君は本当に賢いな」
     ドラルクは苦笑しながらうなずいた。


     アルマジロのジョンが現在のサイズに育ってから百八十年以上が過ぎている。それでも、ドラルクはジョンを眺めながら、大きくなったなあ、と感慨深くなることが時々ある。
     出会ったときの彼は手のひらに載るサイズだった。怪我をして、両親とはぐれて、独りぼっちで怯えてふるえていた。
     よしよし、怖くないぞ。
     それがドラルクがジョンにかけた最初の言葉だ。手のひらでそっと包んだ体は、とてもやわらかくて、満足に目も開いていなかった。
     小さな命。生まれて間もなくて、傷ついていて、身を守るすべを持っていない儚い存在。そのときの彼は、ドラルクが初めてふれた自分より弱い生き物だった。大事に守って育ててやらなければならない存在を得て、ドラルクの世界はにわかに色を変えた。刻まれる時間のリズムが変わり、一日がより鮮やかに速いテンポで過ぎていくようになった。
     日に何度も様子を見ては、スポイトで一滴ずつミルクを吸わせ、元気になれ、大きくなれ、とそのたびに声をかけ続けた。ふにゃふにゃの甲羅がだんだんと硬くなり、体重が少しずつ増えていく様子を、ノートに子細に書き記して、何度も読み返して家族にも見せて回った。かわいくて、かわいくて、籠で眠っている様子を無心に眺めて、起こさないように指先でそっと頭をなでた。
     ジョンはしばらくすると元気になり、一緒に遊べるようになった。そして、食いしん坊で茶目っ気のある個性を発揮して、ドラルクをますます夢中にさせた。硬い甲羅に強い足、俊敏な動作に機転の利く頭脳。彼が一万五千キロの遥かな道のりを超えてきた度胸とスタミナに、ドラルクはずっと感謝している。その感謝の念は、きっと終生に渡って消えはしないだろう。
     トランシルヴァニアの森で再会した瞬間、ジョンはドラルクの庇護対象の生き物ではなくなり、対等なパートナーとなった。主人と使い魔という血の契約関係ではあるが、一人と一匹のあいだに上下の意識はない。
     育てて、手放して、ふたたび出会ったからいまがある。
     ドラルクは考える。もしかすると、自分はロナルドのことを、いつの間にか育てる対象として見ていたのではないだろうか。身体的には途方もなく頑健な相手だが、庇護すべき幼い生き物として見ていた部分はないだろうか。
     だから、彼の向けてくる感情の変化をやり過ごそうとしたのかもしれない。だから、彼の胸のうちに生れた想いに対して、責任を感じて持て余したのかもしれない。
     この仮定が正しいとするならば、言うまでもない。それは過保護というものだ。ロナルドの気持ちにはロナルド自身が責任を負うべきであって、頼まれもしないのに転ばぬ先の杖になってやろうとするのは間違いだ。私がいま相手にしている彼は──おそらく、そういう形で見くびっていい男ではない。


     ドラルクは、時間の経過でスリープ状態になったスマホをテーブルから取り上げた。パスコードを入力して、ホーム画面から最後に見たロナルドのメッセージへ移動する。
    『私もちゃんと告白する。そっちに行こうか? それとも君がこちらに来るか?』
     送信して指先を離すやいなや、すぐさまメッセージが浮上する。
    『行く』
     簡潔でよろしい、とドラルクは返信へ評価を下し、事務所へつながるドアの方角へ目を向けた。一、二、三と声に出さずにカウントする。三と同時に大きな音を立ててドアが開いた。
     ヘアバンドで剝き出しになったロナルドの額が、ドラルクは実はけっこう好きだった。普段は晒されていない肌があらわになっている眺めは、奇妙に特別な趣がある。髪型をオールバックに整えせて、衣装はディナージャケットに手結びのボウタイを合わせたらどうだろうかなどと、彼をドレスアップさせた姿を勝手に妄想──いや、想像したこともある。彼がそんな出で立ちをすれば、『マイ・フェア・レディ』でイライザがトランシルヴァニア女王の目に留まったように、間違いなく賛嘆の眼差しを集めるだろう。
     ロナルドは途方に暮れた子どものような顔をして上がり框に立っていた。あたかも、靴を脱いだとたんにスイッチが切れてしまったかのように。
     スリッパを履いたら? とドラルクが声をかけると、ロナルドはぎくしゃくとした動作でスリッパラックから自分のスリッパを取って履いた。それからまた、どうしよう、という顔でこちらを見る。
    「おいで」
     ドラルクは様子のおかしいロナルドを手招きした。ロナルドは、右手と右足が一緒に出る歩き方でドラルクの前までやってきた。
    「座りなさいよ」
     対面の椅子を指さしてやると、ロナルドは口を引き結んでドラルクの顔をにらみながら着席した。
    「みとめるよ。私も君が好きだ。さて、どうしようかね」
     穏やかな口調でドラルクが切り出すと、いきなりロナルドは決壊した。
    「うおおお!? どうしたんだ君?」
     驚きで輪郭の一部を崩れさせながら、ドラルクはテーブルに両手をついて椅子から腰を浮かせた。視界には、青と、青と、そこからあふれ出る水。
    「ロナルド君……なんで泣くの?」
     顔中をずぶ濡れにしてロナルドは泣いていた。涙の合間から、うっうっう、としゃくり上げる声がもれる。
     おめでとうございます立派な五歳児です! などという注釈を付けたくなるほどの、体裁を一切取り繕わない堂々たる泣き方だった。先ほどまでRINEのメッセージでこちらをタジタジとさせていた男はいったいどこへ消えたのか。
    「えーと、あの、泣かないで? ね?」
     懐柔するように優しく話しかけながら、ドラルクはジョンが前足で掲げて持ってきたクリネックスの箱を受け取った。つくづくできたマジロである。あとでたくさん褒めてやらねばなるまい。
    「はいロナルド君。これで顔拭いて、あと鼻かんで。そう、チーンて。はい、よくできました」
     テーブルの上に築かれたティッシュの山越しにロナルドを眺めやり、ドラルクは察した。こいつ、いっぱいいっぱいなんだなと。
    「おばべばべんじおぞいがらぼうむりばのらとおぼっで」
    「まてまてまてー! なに言っとるのか全然わからん!」
     謎の言語の奔流を押しとどめるように両手を突き出しながら、ドラルクは叫んだ。叫びながら高速で箱からティッシュペーパーを引き出してロナルドの顔面へ押しつける。
    「もう一回鼻かめ。それから深呼吸しろ。吐いてー吸ってー吐いてー吸ってーってなんか途中から君ラマーズ法になってるな。いったいこの場になにを生み出す気だ?」
     ヒッヒッフーと呼吸を続けるギリギリの形相をした作家を、ドラルクはしばらくのあいだ見守った。まるでふいごのようだった彼の息遣いがしだいに穏やかになり、ティッシュの消費が止まり、意味の取れる言葉が口から出るようになるまで、呆れつつも腰を落ち着けて待機した。若造の言葉を直に聞きたかったので、そうするよりほかに仕方がなかった。
    「おまえの返事が遅いから、もう無理なのかと思った」
     やっと成人男性にもどったロナルドは、疲れた表情でそう言った。無理じゃないよ、とため息まじりにドラルクは言った。
    「だって、もうめちゃくちゃ不安で、不安で、不安だった」
    「ボキャ貧か」
    「だってー!」
    「やめろ、幼児化するな」
     ドラルクはテーブルに腕を立てて、手の甲の上に顎をのせた。そして、冷静に考えてみれば予想できた事態だったなと苦笑した。
     吸血鬼の起床時間を避けて事務所に居続けたこと。こちらから発信するまでコンタクトがなかったこと。メッセージのやり取り後も呼ばれるまでドアを開けなかったこと。
     どれも、彼がネガティブ回路に接続して気をまわし過ぎてオーバーヒートしていたとするなら理解できる行動だ。肝心なときに小心者で、それでいて肝心なときに心を打つ文章が書ける。矛盾の塊みたいな男だ。アンバランス過ぎて、おもしろくてしょーがない。
     なんなの? 惚れた腫れたのやり取りってこんなに愉快なものだったの?
    「なに笑ってんだよ」
    「ん? 楽しくて」
     ロナルドは不貞腐れた態度でそっぽを向いた。一方のドラルクは俄然テンションが上がってきた。
    「ロナルドくーん。わかってる? 私たちちゃんと両思いになってるよ? なにがしたい?」
     浮き浮きとドラルクはたずねてみる。ロナルドは、はっとした顔をして正面へ向き直った。
    「ほらほら、言ってみなさい」
     重ねて促すと、ロナルドはちょっと恥じらうような素振りをして、恐る恐るといったふうに口を開いた。
    「せ、せ、せ──」
    「せっせっせーのよいよいよい?」
    「接吻をしたい」
     おお、とドラルクは気圧されかけた。出し抜けに古風な表現で来るとは、文系ロマンチックゴリラ侮りがたし。ロナルドのロはロマンチックのロなのか。
    「じゃあ、しよっか?」
    「おおう」
     上擦った声で返事をするロナルドに、ドラルクは笑いを嚙み殺しながら席を立った。したいと言ったくせに百パーセント待ちの姿勢ってどういうことなの。ドラルクは着席したままの彼の真横に立ち、片腕を伸ばして指の背で若々しい頬にふれ、輪郭に沿って上から下へすべらせた。ロナルドは膝の上で手を握りしめて小刻みにふるえている。小動物か。ドラルクが指先で顎をわずかに持ち上げると、ロナルドはぎゅっと目をつぶった。
     初心。まっさら。純度一番搾り。そんな単語たちが明滅しながら手を取り合ってドラルクの脳裏を駆け抜けた。品評会があったら入賞できそうなキス待ち顔をさらしている退治人へ、吸血鬼は頭を屈めて上からかぶさるように接吻した。
     こんなのキスの数に入らんぞ、と思いつつ、ピカピカの初心者相手なので、吸血鬼はふれるだけで唇を離した。
    「ほら、接吻してやったぞ。嬉しいだろう?」
     半分くらいは揶揄するつもりで言った言葉だった。けれども、次の瞬間あまりに嬉しそうな笑顔を向けられて、ドラルクはそれ以上なにも言えなくなった。滾々と湧き出る清水のように顔いっぱいに広がった明るい笑み。まるで、彼が昼間に浴びた陽射しが身の内に留まって光を放っているかのような輝かしい表情。
    「この日を俺は忘れない」
     やけに厳粛な口調でロナルドが述べた。唇と唇をふれ合わせるキスをしただけなのに、とドラルクは内心で突っ込む。なんだかえらく過激なことをしたような気分になってしまうじゃないか。
     感情を惜しまない退治人に向けて、吸血鬼は口角を上げて返事をした。
    「私も忘れられんよ……いろんな意味で」
     

     その後の時間は平穏に過ぎた。
     ドラルクは締め切り直前作家に軽めの夕飯を食べさせ、仕事にもどれと背中を押した。それから、今日だけは一切の邪魔をしないでやるから気張れよと、恩着せがましく声をかけた。ドアを開けたままでいいかと聞かれれば、好きにしろと笑ってみせた。ロナルドには、吸血鬼の語る怪談を怖がってトイレのドアを閉められなくなった過去がある。半開きにされたドアの類似からその光景を思い出して、ドラルクはおかしくてたまらなくなる。
     ドラルクとジョンは、百円ショップで買った小分け袋にサブレディアマンドを詰め始める。詰め終わった袋には、鈍く輝く金色のシールを貼って封をする。いまは便利なものが広くたくさん売っている世の中だ。新横浜の百円ショップの店長は吸血鬼で、当初の悶着がおさまってみれば、もはや誰も気にする者はいない。なにもかもが当たり前になる。この街はそれが可能な街だ。
    「六個あまるね。このあまったぶんは君とロナルド君で分けっこしてくれ」
     差し入れの数を確認して、ドラルクはジョンにそう話す。ジョンは良心と欲望を秤にかけている顔をする。しばらく黙って考えたのちに、マジロは小さな前足で、あまった焼き菓子を半分に分けた。
    「えらい!」
     間髪入れずに吸血鬼は褒めた。使い魔はえへんと胸を張り、チョコと抹茶とプレーンの三種を小分けの袋へ丁寧に封入した。
    「ヌッヌヌヌヌ」
    「行ってらっしゃい。じゃあ、ついでに締め切り明けのおやつのリクエストも聞いてきてくれ」
     ロナルドへ取り分を届けるという言う使い魔を、ドラルクは手をふってすぐそこへと送り出した。玄関へ降り立って、短い距離を事務所の机へと向かう小さな姿。
    「うわー! 差し入れ? 超うれしい! ありがとうなジョン!」
     声が無駄に大きいので、リビングまで普通に聞こえた。
    「一個やるよ。ん? そうだな、このクッキー、まわりについてる砂糖がキラキラしててきれいだな」
     ああ、せっかく平等に分けたのに、なんて麗しい分かち合いの精神。ジョンは自分の取り分を説明して断るだろうか。うむ、伝わってくる雰囲気からして、どうやら断る気はなさそうだ。仕方がない。だれしもジョンの魅力には逆らえないのだから。
     そうして隣の部屋の会話へ耳を澄ませながら、ドラルクはソファでゆるく足を組む。
    「おやつは……そうだな、プリンがいいって伝えてくれ」
     ロナルドがジョンへ話している音の連なりが、心地良い旋律として伝わってくる。
    「底にカラメルが入ってて、皿にひっくり返すと頂上にカラメルがかかってる形になるやつな」
     ほお、とドラルクは感心した。成長したな青二才。いつかの夜に比べると、ずいぶんとまあ正しく詳細なリクエストができるようになったものだ。
    「とびきり甘くて美味しいのを、よーく冷やして食べさせてやるさ」
     自分だけに聞こえる声でそうつぶやいて、ドラルクはソファの背に体をあずけた。
     もう少ししたら、自分とジョンのためにお茶を淹れて、ついでにロナルドにもふるまって、それから明日のおやつの準備に取りかかるとしよう。
     思い描いた直近の行動予定に気をよくした吸血鬼は、ダイアモンドだね~とバブル崩壊初期の流行歌を口ずさみながら、天井へ向けて大きく伸びをした。
    ゆえん Link Message Mute
    2022/09/22 20:56:57

    お砂糖と太陽

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    ソファ棺3で発行した合同誌『夜のティーブレイク』に載せた小説のWEB再録です。ロナ君の生活にドラちゃんがだんだんとお砂糖を増やしていくうちに関係性の転機が訪れるお話。 #ロナドラ

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