ティースプーン一杯の魔法 魔王城で月に一度行われる留学生活の報告会。いつの間にか定例と化した報告会の流れはいつだって同じだ。
魔界の生活で何か困っていることや不便なことがないかとディアボロが私に確認した後、話題は雑談へと流れていく。十五分もしないうちに一向に減る気配のない書類の山に対するディアボロのぼやきを私が聞いているというこの会に、私以外の留学生が呼ばれているのを見たことはない。
報告会と銘打ちながら、実際のところはディアボロの息抜きの意味合いが強いのだろう。
それを考慮したとしても月に一度魔王城へ出向く程度なら大した労力でもないし、たかだか三十分程度のおしゃべりがディアボロの息抜きになるのならばそれでいいかと、私はそう思っている。そうして毎月律儀に魔王城を訪ねては帰る私を、バルバトスはあるときこう言って引き留めた。
「実はちょうど、今から少々特別な紅茶を淹れようと思っていたところなんです。もう少しお時間があるのなら、ご一緒にいかがですか?」
それを聞いた私は、何よりも先に「珍しいな」と思った。
報告会はいつだってバルバトスが扉をノックする音で終わりを告げる。しかもちょうどディアボロのぼやきが一段落ついた完璧なタイミングで、だ。まるで扉の外で話を聞いていたのではないかとすら思ってしまうが、およそ完璧が服を着て歩いているようなバルバトスなら、この程度のことはやってのけてもおかしくはないのだろう。
そうしてひらひらと手を振るディアボロに見送られて席を立った私は、普段ならバルバトスにエントランスホールへ案内されてそのまま魔王城を後にする。ホールまでの道すがら「本日はご足労いただきまして、ありがとうございました。こうしてあなたのお話を聞くのを、坊ちゃまはいつも楽しみにしておられるのですよ」「ぜひまた、あなたのお話を坊ちゃまに聞かせて差し上げてください」と言われて普段は魔王城から送り出されるのだが、今日だけその代わりに発された紅茶会のお誘いを断る理由を私は持ち合わせていない。
◇
案内されたのはいつものティールームでも、バルバトスの自室でもなかった。
木目の美しい一枚板で作られた大きなカウンター。カウンター正面、バックバーに所狭しと並んだデモナスの瓶。カウンター天井に逆さに収納されたワイングラスはどれもよく磨かれていて、照度の低い落ち着いたライティングを受けて柔らかい輝きを放っている。
勧められたスツールは背が高く、腰掛ければ足掛けにも届かない爪先がぷらりと揺れた。まるで大人だけに許された秘密の隠れ家のような空気が部屋中に満ち満ちている。
「まさか魔王城にバーカウンターがあるなんて」
周囲をぐるりと見回していれば私の口からそんな感想がこぼれ出る。聞いてほしいわけではなかったが、私とバルバトスの二人しかいないカウンターに独り言はよく響いた。
「九百年ほど前でしょうか。坊ちゃまたってのご希望で設えました。たまにはデモナスだけではなく雰囲気も一緒に楽しみたい、とのことで」
「へー。本格的だね」
カウンターの向こう側ではバルバトスが戸棚からティーポットとカップを取り出していた。普段陶器製を好んで使うバルバトスにしては珍しく、中身がよく見える透明なガラス製。ころんとした丸いフォルムが愛らしく、ガラスから受ける無機質な冷たさを和らげている。
私を迎えに来る前に沸かしておいたのか、バルバトスはさっそくポットにこぽこぽとお湯を注いでいる。ポットを温めるための少量のお湯でも、途端に茶器の内側が湯気で白く煙った。
「ここ、よく使うの?」
「時々、といったところでしょうか」
私の質問に答えながらバルバトスは吊り棚を開けて紅茶缶の品定めをしていた。視線が左から右へとゆっくり流れていき、端までいって少し左へ戻る。白手袋が選び取ったのは右から四番目の缶だったが、ラベルに書かれている文字をここから読み取ることはできなかった。
「飲みに行きたい気分ですが外ではしにくい話があるときなどは重宝しています。ルシファーも、ここで一杯飲んでから嘆きの館に帰るときがありますよ」
大人の隠れ家のようだなどと思ったが、ルシファーも利用しているとなればあながち間違いでもなかったらしい。そんな場所に招待してもらえたことが嬉しくて──まるで大人だと認められたようなこそばゆさに──思わず頬が緩むと、それを見ていたバルバトスの目尻も少しばかり下がったような気がした。
バルバトスはポットの取手と注ぎ口を押さえるようにして両手で持ち、くるくると回している。お湯を揺らしてポット全体を温めているようだ。陶器製のポットでそんな淹れ方をしているのは見たことがないから、きっとそういう演出なのだろう。中身のよく見えるガラスポットを選んだことといい、どうやら今日は「魅せる」紅茶を淹れてくれるのかもしれないとの期待がむくむくと膨らんでいく。
「今日はどんな紅茶を淹れてくれるの?」
バルバトスの手元から視線を上げて尋ねる。
私の質問を聞いたバルバトスは、落ち着いた照明の下で人差し指を唇に当てぱちりとウインクをひとつ投げて寄越した。
◇
ほんのりとしたスモーキーさと、爽やかなブラッディーベルガモットが琥珀色の水面から香り立つ。人間界でいえばキームンが近い、のだろうか。そんな茶葉で作られたアールグレイは水色も香りも華やかで、いかにも特別な紅茶と呼ばれるにふさわしい様子でティーカップを満たしている。
「いい香りがするね」
「私一押しの紅茶です。このまま戴くのももちろん美味しいのですが、今日はここにもうひと手間加えます」
「もうひと手間?」
「ええ。特別なときにだけ使う、とっておきの魔法です」
何をするのだろうと見ている私の前で、バルバトスはティーカップの上にスプーンを渡した。スプーンの先に突起がついており、それをカップの縁に引っ掛けることでスプーンを固定できるようになっている特殊なスプーンだ。
それからシュガーポットから角砂糖をひとつ取り出してスプーンに載せる。カクテルを作るときに使うメジャーカップでほんの少量だけ量り取ったデモナスを、角砂糖に染み込ませるようにしてゆっくりとスプーンに注いだあと火の点いたマッチを砂糖に近づければ、ぽわ、と青い炎が角砂糖に灯った。
綺麗だった。
ゆらりと揺らめく炎の穂先に目を奪われているうちに、ブラッディーベルガモットに混ざったデモナスの香りがカウンターの上にゆるゆると広がっていく。揺れる炎の不安定な美しさと辺りに漂う深い香りとがあいまって、まるで時の流れから切り離された別世界に来てしまったような錯覚すら覚えていた。空気の動きも、時間も、私の鼓動でさえもゆっくりになってしまったような、そんな気分。
「お気に召しましたか?」
「──うん。すごく綺麗だね」
「美しいでしょう? ティーロワイヤル、と呼ばれる飲み方です。炎が消えたら砂糖を紅茶と混ぜてお召し上がりください」
バルバトスの説明を聞いて視線をティーカップに戻せば、溶けてほろりと崩れた砂糖と一緒に炎はみるみるうちに小さくなっていった。ティースプーン一杯のデモナスにかけられたバルバトスの魔法が、二人きりの秘密のバーカウンターに吸い込まれてふっと姿を消す。
どうぞと促されて私はティースプーンをそっと手に取った。とろとろに溶けた砂糖を零さないように紅茶へ沈めてくるくると混ぜれば、ゆったり回る小さな渦にデモナス味の砂糖が馴染んで溶けていく。こうしてティースプーン一杯の魔法を溶かしたティーカップも魔法を帯びてしまったに違いない。その紅茶を飲んでいるからだろうか、私の鼓動にかけられた魔法もしばらく解けそうにないような気がしていた。