きっと、忘れない。これはあくまで私の持論なのですが、人には忘れられない、忘れてはいけないことがきっと一つはあると思うのです。
今から話す話はそんな話です。
当時私はあまり眠ることができず鬱屈した日々を過ごしていました。理由は何かは分からなかったのですが、とにかく息苦しかったのです。
もういっそ消えてしまおうかーーー
黒い思考に侵されながらロープを買うためにホームセンターに向かいました。
そんな時です。彼と出会ったのはーーー
彼の持つ赤い瞳に私はすっかり魅入られてしまったのです。
ーーー
彼と出会ってから私の表情は以前と比べ明るくなりました。
職場の人たちから「どうしたの?」「何か良いことあった?」と聞かれます。
私は自然と緩みそうになる顔を引き締めつつ「素敵な人に出会いました。その人のことを考えると胸の奥がじんわり暖かくなって…上手く言えませんが…顔が緩みます。」と答えます。
私の返答に笑顔になる人たち。「良かったね」「応援してるよ」と祝福してくれました。なんだかむず痒い気分であったことを今でも覚えています。
ある日、彼が私の職場に訪れました。
私は一人で舞い上がり職場の人達に彼が来ている旨を伝えました。
途端に冷たくなる空気。怯えが伝播していくのがはっきりと分かりました。
「そこ、誰も居ないけど…?」
予想だにしていなかった言葉を職場の人達全員が口を揃えて言うのです。
私には理解できない言葉に「そんなはずはない」と否定の言葉を重ね続けました。
さらに怯えが伝播していきます。
血の気が引いた顔をした社長に解雇宣告されたのは、彼が訪れた数日後のことでした。
ーーー
仕事を失った私は家にこもるようになりました。働いていない私に「怠け者だ、クズだ」と鋭い言葉を投げつける両親。
ナイフで切りつけられているような痛みを覚えました。痛いのに、こんなにも痛いのにどこが痛むのか全く分からないのです。
痛いと必ず彼が家を訪ねてきてくれました。彼が側にいてくれるだけで痛みが引いていきました。彼は何も語らないのですが、穏やかな眼差しで笑いかけてくれます。ただそれだけで居心地が良かったのです。
やがて彼は私の側にずっと寄り添ってくれるようになりました。彼が両親と顔を合わせる機会が増え両親が彼の近くを通る度に彼は控えめに微笑み、ぺこっと小さく会釈をします。一度も両親から彼に対して反応が返ってきたことはありません。
どうして誰にも見えないのでしょう。
彼はここに居るのに。優しい目であなた達に笑いかけているのに。
そんな彼に気づかずあなた達は怒るのです。
「いい加減にしろ」
「そこには誰もいない」
「子供みたいなことを言うな」
「現実を見ろ」
ひとしきり怒ったあとあなた達は泣くのです。どうして、どうして、と
あなた達の姿を見て彼は少し寂しそうに笑うのです。彼が寂しそうに笑うと私は苦しくなります。彼にも両親にも笑っていて欲しいのに。どうしてままならないのでしょう。
ーーー
両親と噛み合わない日々が続いたある日、両親の機嫌が良さそうに見えたので私と彼は打ち明けることにしました。
「子供ができました。」
「彼に似て黒くてたくさん腕の生えた朗らかに笑う子です。」
「たくさんついた赤く優しい瞳であなた達を見つめています。」
途端に顔から血の気が引くあなた達。
もう、ダメだ。手遅れだ。
その後は二人で真剣に話し始めました。
私にはどんな会話がなされているのか理解できませんでしたし興味もないです。
なぜなら彼がたくさんある腕で私の耳を塞ぎ抱きしめてくれていましたし、私たちの子供が心配ないよ、と語りかけるような眼差しでギュッと手を握っていてくれていたのですから。
やがて両親は私たちを遠ざけるように誰も住んでいない小さなアパートの一室に私たちを追いやりました。
病院に入院させるのは世間体が悪かったのでしょう。
世界から切り離されてしまった、おそらくもう両親と会うことはないーーー
その事実に気づいた時、私はやっと呼吸をすることが出来たような気がしたのです。
肺に入った空気が美味しくて、自然と笑みが溢れました。
彼は嬉しそうに笑みを浮かべ手を握って静かに寄り添ってくれました。
私と彼が嬉しいと子供も嬉しいのか、私の脚にたくさん生えた小さな黒い手でぎゅっとしがみつき、にこにこ笑っています。
すごく暖かい何かが身体の内側から溢れてくるのを感じました。
その暖かい何かの正体は分かりませんがすごく穏やかな気持ちで彼の腕に包まれながら家族三人、眠りにつきました。
その日は私の今までの人生で一番よく眠れました。
*
暖かい微睡みの中から目を覚ましました。
ベッドには今目を覚ましたばかりの私だけ。
彼と私たちの子供はいなくなっていました。
なんの前触れもなく忽然と。まるで最初から存在していなかったかのように。
なんとなくこんな日が来るのは分かっていた気がします。
ありがとう。さようなら。忘れないよ。
私は小さく笑って
ーーーそして泣いたのです。
END