こんなもの、どうにもならない「おい、片腕を出せ」
「あ?何だよこの忙しい時期に」
しぶしぶ出した腕に、スファレは手枷を掛けた。急に体が重くなる。この感覚には覚えがあるぞ!
「おいお前これ銀製の」
「そのまま表の馬車に乗れ。ミットライト祭司が更生しているか審査すると言っている。暴れるなよ」
そう釘を刺しつつもう片腕に枷を掛けるスファレに、俺は何も言えなかった。
久々に踏み込んだ聖堂では、あの憎たらしい坊主が茶の用意をしていた。笑みを浮かべ、着席を促してくる。お茶するには邪魔でしょう、と手枷を外された。
「最近どうですか」
「どうもこうも無ェよ。やっぱり月に3人は食わねえと持たねえ」
「純血の方だとやはり量が多くなりますね。まあそれでも、貴女の姉君よりは随分少ない方なのでそのまま極力節制を心掛けてください」
意外な回答に思わず瞬きをする。てっきり、もう金輪際止めろと言われるものだと思っていた。心臓の鼓動が早くなる。そんな俺の変化を知ってか知らずか、坊主は慈しみの視線を俺に送る。気分が悪い。
「私は人を食べるのを止めろと言った覚えはありませんよ?貴方は一定の周期で人を襲いに出掛けているようですが、燈明の神様、ウォード家の当主はお止めにならないでしょう?もちろん、消費するエネルギーを減らすことで生命維持に必要な血液の量を減らすことはできます。しかし、純血として生を受け、一人も殺さないまでに減らすとなると、術を掛けて長い眠りに落ちるしか手はないでしょう。それでも、何十年に一度だけ目覚め再び眠りに就く刹那に、幾人かの命が失われることは回避できません。その場しのぎの誤魔化しでしかないのです。私が欲しいのは、そんな歪んだ在り方の虚構ではないのです。だから、私は節制をお願いしますが、飢餓は要求しません。貴方の姉君も、ここで過ごすようになってから、何とか人を殺さずに過ごせているのですよ?もちろん、ありったけの血の奉納を募り、一日銀の枷を付けて過ごしている上での話ではありますが……貴方の罪は、吸血鬼としての在り様ではないんです」
「だったら、俺に何を望むというんだ」
冷めた紅茶に自分の顔が映る。俺には何もない。生きる意味は、あの日あいつと一緒に焼失した。普通に生きることができると信じていた記憶喪失時はライセンとの平和な生活を維持するという目的があったが、お互い記憶が戻った今となっては笑い話にしかならない。大切なものができても、大切だからこそ離れなければならない。望むものこそ捨てる必要がある俺が持っているものなんて、もうこの命しかないというのに。この坊主は俺に何を望むというんだ。
「質問を変えましょうか。貴方は最近、誰かの為に何かしましたか?」
この質問と、更生の判断に何の関係があるんだ。俺は「誰か」の為に9人殺したというのに、何の差がある。……最近か。誰かの為にしたことといえば、あれだな。
「スファレライトの姉の誕生日に、物を作って贈った」
「ほう。喜んでいただけましたか」
「使ってくれているから、多分そこそこは」
「それは良かった。他にはありますか?小さいことでも、下らないことでも、取るに足らないことでもいいんですよ」
明らかにうきうきと色めき立った坊主は、続きを促すように俺のカップを下げ新しい紅茶を淹れる。紅茶の温かさが、恐ろしい。
「使用人の細々とした用事をやって、仕事の効率が良くなったと感謝された。遠くから屋敷を監視している奴に接触して対処したり、昼の買い出しの荷物持ちに重宝されたりしている」
「なるほど。それらは、貴方がこうすれば屋敷の方に喜んでもらえると考えて、率先して実行したことですか?」
「まちまちだな。人に頼まれてやったこともあるし、俺が勝手にやったことを後で知らせて礼を言われたこともある」
「ふむ。貴方は、貴方自身の困りごとを誰かに打ち明けることができましたか?」
「そりゃあ道具の在処とか住民にしか分からないことは山ほどあるだろう」
「違います。もっと深い、頭が痛くなるほど、真剣で深刻な、悩み事です」
ざっくりと切り捨てられる。全て知っていると言わんばかりに光る、坊主の目に抑えがたい嫌悪感を覚えた。何も知っているはずがないのに、どうしてこんなにも鋭く刺さる?何かを知っているとすれば、昔の話をしているユーディアだけだというのに。
「深刻な悩みが無ぇんだから、打ち明けるもなにもないだろ。ずっと目的もなくこの身ひとつで気ままに旅してきて、失うものも守るものも無ぇんだからよ」
本当のことだ。手に入れても捨ててきたから、もうこの手には何もない。抱えそうになっても、自分を抑えて。
「そうですか、羨ましいですね。私などは一人では抱えきれない悩み事が山のようにあるので、日々沢山の人に分けて持っていただいているのですよ。貴方にも何か押し付けましょうかね?」
「いらねーよ」
こいつが分からない。やはり人と吸血鬼では根本から見えているものが違うのだろうか。
「はは。そうそう、先日こちらにゲシュプを名乗る方がいらっしゃったんですよ」
「!!俺や姉貴を渡せと言ってきたんじゃないか」
「ああ、やはり心当たりがあるのですね」
息が詰まる。ついにここまで。拳を握りしめる。
「どっちの奴か知らねえが、悪いことは言わない、俺を手放せ。外聞なんて気にせず、力ずくや汚い手だって使う連中だ。取り返しがつかない被害が出る」
「貴方が気にすることではありません。それより、貴方はこの罰から解放されることを優先して考えてください」
「俺が更生するか否かなんて気にしてられなくなる未来が来るんだよ!」
坊主は少しこちらに乗り出して、組んだ手の上に顎を置いた。にこりと笑うが嘘くさい。
「何か勘違いをしていますね。現在の貴方に、自分の身の振り方を決める決定権など無いのです。貴方は私と燈明の神様に心を改めたと認められない限り、我々の決定に背くことはできないのです。それに、我々を見くびって貰っては困ります。貴方の『良かれと思って』言っていることは、お節介というものなのですよ。……やはりまだ、貴方を解放するわけにはいかないようですね。そのカップが空になったら、両手を出してください。枷を付けて、ウォード邸に送らせましょう」
坊主は立ち上がり、スファレへの手紙なのか、何かを書き始める。ぼんやりその背を眺めていると、突然こちらを振り向いた。
「それと、永遠に答えに辿り着かなそうな愚鈍たる貴方へのヒントを差し上げます。人にものをねだる時は、ちゃんと『何が欲しい』と言わないと望むものは手に入らないんですよ。ここの一番小さな子でも知っていることです」
キャリッジから降りて、ウォード邸を眺める。窓越しにせわしなく働く使用人たちが見えた。当然だが、俺が居なくても不足無く仕事は回っているようで。胸が締まる。縋るように腕の手錠に触れると、安心できた。
「ああ、俺は」
理由がないと此処に居続けることは叶わないのか。
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三冬さん宅スファレさんお借りしました