恋人協定 暫くぶりの静寂に夢の中だろうかと思いつつ目を開けた。見慣れぬ白い天井を捉え状況を察すると漂っていた独特の匂いにも気づく。同時に思い出された痛みに小さく顔を顰めた。改めて見れば腕や胸に白い包帯が巻かれている。
上体を引き上げベッドの背へと身体を預けると再び目を閉じた。爆音と怒号の染み付いた耳は無音の空間にも音を探す。耳を澄ませば遥か遠くに複数、人の気配が感じられた。
そのまま神経を研ぎ澄ませていると、おぼろげな気配の中から一つの塊が動き出す。此方へと向かう気配は次第に明確な足音となり、遂には扉の前へと到達した。軽いノックと共によく知る人物が顔を出す。
「Hello, shadow」
「……」
「状況は理解できてるみたいだな」
扉を閉める彼の手には見舞い用に設えた果物籠があった。臆することなく室内に滑り込んだ相手は、ベッド脇に置かれた丸椅子へと座り籠の中からナイフと林檎を取り上げる。剥かれる皮を見つめながら聞いた説明は概ね予想していたものだった。
任務中に重症を負った自分は現場を外されGUNの医療施設に収容された。それが四日前の話で、手術と検査の末に今いる部屋に移動したのはつい昨日のことだという。簡潔な説明の後、彼はついでのように付け加えた。
「暫く俺がお前の面倒見るから。明日も来るけど何か欲しいものあるか?」
「……君に気を遣われる理由は無い」
滑らかなナイフの動きが止まる。彼は立ち上がり手にしたものを全て椅子に預けると、無言で掛け布団の縁へと手をかけた。迷いも無く剥ぎ取られ、隠れていた下半身が露になる。
「……!」
「今は麻酔と鎮痛剤で感覚ごと殺してる。常人ならまだ絶叫してるレベルだ」
両足に巻かれた包帯に彼の指が触れる。感触が無いのは幾重にも巻かれた包帯のせいだけではないだろう。己の治癒力をもってしてもこれだけの傷が残っているのであれば、先刻まで全く目を覚まさなかったことにも頷ける。
自分が未だ人の力を借りねばならない状況にいることは納得した。しかしそれが彼である必要は全く無い。再度申し出を拒否した自分に、にやりと笑った彼は剥き終えたばかりの林檎をくるりと回す。長く伸びた皮を弄びながら顔を上げ自分を見た。
「理由があればいいんだな?」
「……?」
「一週間恋人になろうぜ」
それなら理由はあるだろうと言って、再び手にした林檎に刃を入れる。呆れて言葉を失った口へと強引に一切れ押し付けられた。唇に触れた果汁を押し退けることも出来ず、大人しく差し出された林檎を受け取る。此方が口をつけたのを見て相手はにこりと微笑んだ。籠から取り出した紙皿に残った林檎とナイフを置く。
「交渉成立だな」
用は済んだとばかりに席を立つ彼は既に此方を見ていない。引き止めたところで無駄なことを察し、自分はゆっくりと口内の果実を咀嚼した。別れの挨拶には沈黙で返す。
白い部屋の中、豊満な香だけが色付いているようだった。
翌日の正午、宣言通りに彼は病室を訪れた。手には色鮮やかな花束を携えている。
「見舞い品としては間違いがないだろ?」
ノックの音も無視して新聞を読んでいた自分を気にすることもなく、彼はサイドテーブルに花束を置くと丸椅子へと腰を下ろした。目の端で黄や赤の色彩が揺れる。
「GUNは施設まで愛想がないんだな。白過ぎて目が痛くなる」
「愛想など必要ない」
「でも花はあってもいいだろ。空気の浄化作用だってあるぜ」
花弁の縁をなぞりながら彼が笑い、水差しになるものを借りてくると言って立ち上がる。少しも落ち着かない背中を横目に読みかけの記事へと視線を戻した。眠っていた数日間の記憶を辿るつもりで丁寧に記事を追っていく。普段はここまでじっくりと新聞を読む時間は無い。
次の頁へと指を伸ばしたところで足音と共に彼が戻ってきた。白い花瓶には既に水が注がれているのだろう。その手が他にも何かを抱えていることに気づく。顔を上げる前に膝上にそれが置かれた。
「一週間分の新聞。退屈かと思って持ってきた」
もう読んだなら返してくるけどと言って彼は花束のリボンへと手をかける。自分は広げた新聞を畳むと膝上の束を拾い上げた。今まで読んでいたのは午前の検診の際に持ってきてもらったもので、記事の大半には既に目を通してしまっている。彼の気遣いは有難かった。
手際良く花を活ける横顔に礼を言うか迷っていると、作業を終えた彼が此方を振り返る。視線が合うとにっこりと笑った。
「な、恋人にお礼のキスは?」
言いつつ軽く頬を突いてみせる。昨日の一方的な口約束は彼の中で既成事実となっていたらしい。ふざけた台詞に冷たい視線を送りつける。短い沈黙の後、先に折れたのは相手の方だった。
「……お前に能動的な行為を期待した俺が馬鹿だった」
「そうだな」
「でもこれぐらいは貰っていくぜ」
言うが早いかぐいと身を乗り出してくる。背後を壁に阻まれては避けることも叶わず、額に掠めるような柔らかい感触を受けた。絶句する自分から身を離し彼がけらけらと笑う。
「Thanks ! お大事に、な」
怒鳴る気力も奪われて否が応にも肩が落ちる。笑い声を残して彼は部屋を後にした。
三日目は雨音で目を覚ました。午前中に検診と投薬を済ませる。常態より若干遅いペースではあるが身体は確実に回復していた。腕の包帯を外した医師が目を見張り、取り替える予定の新しい包帯を鞄へと戻す。その後、麻酔と薬の量を減らす旨を伝えられた。これだけの回復力ならば自然治癒に任せた方が良いという判断らしい。その分発熱の恐れがあるので、水分と睡眠は多く取るよう注意を受けた。
本日付の新聞に目を通していると雨音に紛れて軽い足音が聞こえてくる。ノックに対する返事を待つこともなく騒々しい声が扉を開けた。
「Hi ! お、腕の包帯取れたんだな!」
「あぁ……」
曖昧に頷き目を伏せる。彼はいつもの丸椅子へと座ると僅かに首を傾げた。調子が悪いのかと尋ねられ閉じかけていた瞼を持ち上げる。指摘されてみれば確かに心持ち身体が重い。
瞬く自分の額に腕が伸ばされる。外から来た彼の掌は冷たかった。
「……少し上がってるな。熱いか?」
「いや」
ベッドサイドには医師の忠告により水差しが置かれていた。昨日までは無かったそれに気づいて彼が理由を求める視線を向けてくる。投薬量を減らしたことを伝えると納得したのか、コップに水を注いで差し出した。黙って受け取り口をつければ冷えた液体が体内を通り過ぎて行く。吐き出した息と共に言葉が零れた。
「今日は、来ないかと思っていた」
「Why ?」
「君は雨が嫌いだろう」
「嫌いだな。だから甘えに来たんだ」
それからこれを届けに来たと言って彼は手にした布地を広げた。橙色をしたそれを此方の肩へと覆いかける。内側がフリースになっているらしく触れた箇所に柔らかさが残った。
「肩口が冷えると寒いだろ。雨の日は特に気をつけろよ」
麻酔で感覚が麻痺すると寒暖差にも疎くなる。これまでにも下手に体力があるせいで傷や症状に気づかず無理を強いてしまうことはあった。つくづく気のつく、もとい目敏い相手だと思う。それだけの配慮が為せるのは彼自身も同様の経験を重ねてきているのかも知れない。
「ゆっくり眠れよ。俺はもう行くからさ」
小さく音を立てて彼が立ち上がる。今にも部屋を出ようとする背に向けて名前を呼んだ。振り返る不思議そうな顔に溜息を吐く。彼の言う通り調子が悪いのだろう。肩掛けの礼だと内心で自分を諭しつつ言葉を継いだ。
「甘えに来たなら甘えて行け。もう少し待てば雨も上がるだろう」
ただし僕は眠ると付け足すことは忘れなかった。布団を引き上げる自分を見つめる瞳が丸くなり、それから嬉しげに細められる。再び椅子に腰を下ろした彼はベッドの端へと腕を組んで頭を預けた。
「優しいなぁ、シャドウは」
「……」
自身がそうなるように仕向けておいて心底嬉しそうに笑う。確信犯と知りながら受け流すことが出来なかった理由については考えないことにして目を閉じた。
四日目になると胸に巻かれた包帯が外された。両足の容態も随分と良くなっており、この調子なら完治まで数日とかからないと言う。医師が診療鞄を閉めかけたところで検診を終えるタイミングを見計らったように彼が現れた。
「Oops……」
片手を挙げて苦笑う彼の横を、診療鞄を抱えた医師が擦り抜ける。擦れ違う瞬間彼がちらりと医師を見上げた。音を立てて閉まった扉に一度視線を向けてから此方へと歩み寄る。肩にかけていた鞄を下ろして椅子に座ると不満げな声で呟いた。
「お前、針なんか打たれてたのか」
「免疫力を上げる薬だ」
診療鞄の中に注射器が見えたのだろう。彼は軽く鼻を鳴らしてベッドサイドに置かれた錠剤を手に取った。指先で摘み上げ目の前で軽く振ってみせる。
「で、こっちは鎮痛剤か?」
「あぁ」
「薬の量は減ったんじゃなかったのか?」
「あと数日で完全に要らなくなるはずだ。薬の種類も変わっている」
既に傷跡も見えなくなった腕と胸が回復の証だった。暫しの沈黙の後、彼が諦めたように息を吐き出す。張り詰めかけた空気が柔らかなものへと変化した。
「今日は甘いもの持ってきたんだぜ」
食事は済んでいるかと訊く声に頷くと、彼は早速とばかりに鞄の中から白い小箱を取り出し渡してきた。受け取った箱を開ければ小さな容器が四つ並んでいる。蓋の代わりにラップをかけられた中身は艶やかな卵色だった。その間にも彼はクッキーやら紅茶の入った水筒やらを次々と取り出していく。
「GUNの食事なんてどうせ栄養バランス完璧だけど味は最悪なんだろ?」
「……そこまで酷くはない」
「へぇ?」
否定はしきれなかった自分に彼が紙コップに注いだ紅茶を差し出してくる。琥珀色の液体から漂う芳香は久しぶりのものだった。食後の休息を取る暇も無い日々を送っていたことに今になって気づく。クッキーを齧ると砂糖の甘味と生姜の苦味が舌へと広がった。ジンジャークッキーだったらしい。
「しかし……この量は多過ぎるだろう。僕を肥えさせる気か?」
「肥えたらリハビリとダイエットは喜んで付き合うぜ」
だから早く走れるようになれよと笑って彼はスプーンを銜える。冗談に紛らせた本音には気づかない振りで肯定した。
五日目の早朝、自分で両足の包帯を換えた。傷口は明白で縫い目も残るが、化膿も発熱もしていない。今日の回復次第では麻酔を無くすと昨日の段階で伝えられていた。鎮痛剤と解熱剤で持ちこたえられたなら明後日には歩けるようになるだろう。既に一週間以上休息している身としては悠長に休みを味わってもいられない。長過ぎる休息は身体から感覚を奪う。
検診の時刻を待っているとノックの音が響いた。顔を出したのは医師ではなく彼である。午前中、それも早い時間に訪れるのは初めてのことだった。
「Good morning, 昨日はよく眠れたか?」
にこにこと笑いながら彼は新聞を手渡してくる。そのままいつもの丸椅子には座らず、閉じられていたカーテンに歩み寄り左右に押し分けた。室内に差し込む光に瞬間動きを止めたが、すぐに窓の鍵へと手を伸ばす。両開きの窓が半分だけ開かれ清涼な空気が肌を浚っていった。彼が窓枠に背を預けて微笑する。
「今日は手土産は無いぜ。偶には手ぶらでも喜んでくれるかなって思ってさ」
「君の来訪を喜んだ覚えは無い」
「可愛くないなぁ」
本当は店に寄ろうとしたが何処も開いていなかっただけらしい。時刻はようやく七時を回ったばかりだった。窓枠を離れた彼はベッドサイドに落ちていた花弁を拾い上げ、花瓶の水を換える為に部屋を出て行く。戻ってくるといつもの丸椅子に座った。
「早いからまだ寝ているかと思ったのに。休めるのも後少しだろ?」
「そうだろうな……それで今日は何をしに来たんだ?」
「恋人に会いに来たのさ」
それが理由だったろうと言って彼が笑う。これまでにも何度か聞かされた台詞だったが、今日に限っては見逃すつもりは無かった。はぐらかされないよう瞳を見据えて相手を捕らえる。
「そろそろ君の方も決着がついた頃だろう」
「……What do you mean ?」
「君が何をしようと勝手だ。だが干渉が過ぎるのであれば僕も抵抗はする」
瞬いて首を傾げた顔に、確信を持って言葉を突きつける。
自由奔放で縛られることも縛ることも嫌う彼が、頼みもしない看病を買って出た時点で疑っていた。更には“恋人”という関係性の定義である。看病をするだけならば関係に命名する必要など無い。恋人と言う過剰な表現を選んだからにはその裏に相応の意図があったと考えられる。例えば毎日見舞いに来ることが当然であるような関係、毎日GUNの施設に入り込んでも不自然ではなく、同時に彼の行動を自分に単なる冗談と思わせるだけの理由として、恋人というポジションは悪くないだろう。
気紛れな遊びに見せかけて、彼が此処で何をしていたか。
この両足が完治してしまえば問い詰める機会は二度と訪れない。だからこそ、今この時を逃すわけにはいかなかった。
長い沈黙が部屋に満ちる。静寂を破ったのは彼の小さな溜息だった。瞳を伏せ、困ったように笑ってみせる。
「嘘を吐いたつもりは、無かったんだけどな」
「……君の目的は何だったんだ」
「秘密。多分お前の推測のどれかだよ」
それだけ言うとするりと椅子から立ち上がる。優しい声音が一切の説明をする気が無いことを告げていた。軽い足取りで扉を開けると、閉め切る寸前に片手を挙げて微笑む。
「See you, my dear」
「…」
ぱたりと小さな音を立てて扉が閉まる。最後の言葉が退室の挨拶なのか、或いは恋人という関係への別れを意味するのかは判じかねた。静かになった部屋で彼の残していった新聞を広げる。文字を目で追う一方で脳内では彼の言動を整理する。
恐らく彼は既に、恋人という隠れ蓑を利用して出来ることは成し終えていたのだろう。本人の口から聞き出すことは叶わなかったが、その目的に心当たりが無いわけではなかった。自分の傷も看護が要らないほどに回復している。彼がこの部屋を訪れる理由は表にも裏に無くなっていた。騒がしい声はもう聞こえない。
ふいに窓が軋んだことで思考の波から引き戻される。吹き込む風が頁を捲る指先を掠めていった。
意識を取り戻してから六日目、GUNから前回の任務に関する封書が届いた。
検診を終え一人になったベッドの上で封を切る。中には自分が受けた任務の名称と、自分が離脱した後の状況が記載されていた。任務自体はその後無事遂行されたらしい。流石に自分が負傷した状況についての説明は無かったが、代わりに現場で使用された兵器のリストを見つける。ざっと目を通した限りどれもよく知るものだった。
自分の意識を四日も奪う重症を負わせられるようなものは一つとして無い。
抱えていた推論が確信へと一歩傾いたことに溜息を吐く。様々な悪条件が重なり重症に至ったと考えることは可能だ。傷は全身に渡っており、その全てを癒すのに相応の時間がかかることは納得がいく。しかしその点を差し引いても常態より遅いペースでの回復は不自然だった。単純な外傷だけなら治癒力までもが奪われるはずはない。
使用された武器には体内に影響を及ぼすような化学兵器は含まれていなかった。他に治癒力や免疫力を低下させられる方法があるとすれば、一つしか考えられない。
病院での治療。
これほど確実に相手を狙える手段は無いだろう。治療と称して薬物を投入することは容易い。此処には肉を切り裂くメスも肌を突き刺す注射器も揃っており、しかもそれらは治療と言う名の下に合法的に行われる。命を狙う隙ならば戦場よりも余程多い。味方に命を狙われるとは思っていないからだ。尤も味方すら信じられないようでは軍隊は既に脆い。
今回の自分の負傷が、任務を一時的に外れなければならないだけのものであったことは事実だろう。しかしこれほどに長引いたのは治療側、若しくはそれを指示した上の意向があったというのが自分の推論だった。
考えられる理由は三つである。一つは任務から自分を外したい何らかの事情があった場合だ。負傷を理由に治療という形で病院に足止めさせ、その間に任務を遂行する。この理由の問題点は、自分を関わらせたくないのであれば最初から任務を依頼しなければ良いという点だ。任務の遂行途中で自分を離脱させなければならない理由が生じた可能性はあるが、受け取った通知に不審な点は無かった。そもそも離脱させたいだけであれば管轄の変更や撤退など方法はいくらでもあっただろう。
もう一つ考えられる理由は、最初から自分の排除が目的だった場合である。任務を完遂出来ないほどに重症であったとは思えないというのが自分の結論だった。そうかと言って、負傷の隙を狙い自分の抹殺を試みたというのは妄想に過ぎるだろう。現時点で命まで狙われるほど危険視されてはいないはずである。実際、ペースこそ緩やだが身体は確実に回復へと向かっている。殺すことが目的とは考えにくい。
戦線を離脱させることも、抹殺することも目的ではない。ここで第三の理由へと思い至る。
今回の治療が、任務の負傷とは全く無関係の人体実験であった場合だ。
不死の肉体は、永遠を目指す人間にとって喉から手が出るほど欲しい情報の塊である。敵に回すには恐ろしいが、そのデータを手に入れられるならば治療と称して実験の一つや二つはするだろう。自分に関して言えば負傷で意識を失うなどそうあることではない。治療者、もとい研究者にしてみれば絶好の機会だ。
常であれば傷つけることは叶わない、しかし「治療」であれば話は異なる。メスを入れねば傷は治せない。そして不老不死にどのような治療が適切かは、前例が無い以上「やってみなければ分からない」。
治療を長引かせたかったのではなく、結果として治療が長引いた。毎日の検診と投薬は治療の経過を見るだけでなく、実験結果の観測を兼ねていた。手持ちの材料で想像出来る理由としてはこれが最も真実に近いと思われる。
そんなことは承知していた。
承知した上で、自分はGUNに所属することを選んだのだ。
危険な任務や理不尽な扱いを受けることを恐れていては動くことすらままならない。しかし何処にも所属せずに生きていくには、自分の力が強大過ぎることも理解していた。所属しない人間は、所属している人間にとっていつ敵に回るか分からない不安対象である。その力が大きければ大きいほど不安は増すことだろう。
所属しない生き方が不可能なわけではない。事実あの青い針鼠は、力を持ちながらにしてそれを実現している。彼は大衆から英雄と認められることにより、その高い能力にも関わらず危険視されることを免れている。そういう術を、生き方を知っている。彼自身がそれを意図しているかは分からないが、彼のように自分が民衆からの指示を得られる性質でないことは分かっていた。そのことに虚しさを覚えたりはしない。
外側から切り崩すのが彼のやり方ならば、自分は中に飛び込み内側から食い破る。
その彼が今回自分を足がかりにGUNに干渉しようとしたことが不可解だった。恐らく彼は自分が人体実験を受けている可能性を察していた。毎日此処を訪れてはその疑惑を確かめようと内部を嗅ぎ回っていたのだろう。医師に向けた訝しげな瞳や治療への不満げな声が思い出される。もしも昨日自分が彼の真意を尋ねなければ、検診を眺めるつもりだったのかも知れない。
その行為が彼の正義感故だとしても、それは自分のやり方であって彼の領分ではない。
溜息を吐きつつ広げていた書類を封筒にしまう。胸には尋ねる相手のいない疑問が残っている。
彼に会いたいと思った。
久しぶりに自分の足で外に出る。病院内で何度か松葉杖を使った歩行訓練は行っていた。今はそれも必要としない。普段からすればもどかしい程の速度ではあるが、日常生活に支障が無い程度の歩行は出来るようになっている。外出許可も下りた。
外に出てまず彼の居場所を知りそうな人間に電話をかけた。一つ所に留まらない彼のことなので捕まらないかと思ったが、意外にもあっさりと情報を得る。今朝方姿を見たと言う場所に目星をつけ、礼を言って電話を切った。人の波を避けて歩き出す。
聞きたいことは一つだけだった。
だから町外れの草原に佇む彼の姿を見つけた時、名前を呼ぶよりも早くその疑問が口をついた。
「どうして君は僕に構うんだ」
不意に呼びかけられ青い背中が振り返る。驚く顔はすぐに柔らかいものへと変化した。
「元気になったな、シャドウ」
「ソニック」
「逃げないから場所を変えよう。座った方が話しやすいだろ」
そう言って彼は近付くと当然のように自分の手を取った。此方の歩調に合わせる為とは言え、恥ずかしげもなくこういった動作が行えることに若干の呆れを感じる。彼は適当な大木を見つけるとするりと手を離し根元へと腰を下ろした。自分も寄り添うようにして幹へと身体を預ける。
「それで、お前は何か答えを見つけたのか?」
軽い口調ではあったが先程の質問を覚えているのだろう。僅かに首肯すると彼はそうかと言い膝上で腕を組んだ。背中を丸め草原を走る風に目を細める。
「だが、君が干渉する理由は分からなかった」
「そりゃ、俺はお前が好きだからさ」
「恋人の振りならもう必要ないだろう」
淡々とした会話が続く。彼がこの一週間の間、具体的に何をしていたかを今更聞く気は無かった。一度聞いて答えなかったことを彼が話すとは思えない。ただその動機は知っておきたかった。それを知る為にわざわざ此処まで来たのだ。手間と暇をかけるという妥協をしてまで会いに来た自分をはぐらかすほど、相手も軽薄ではないだろう。
佇む自分を彼が見上げる。いつもの笑顔が消えたことで瞳の深緑がよく見えた。
「……お前は信じないかも知れないけど、他者を排除して一人で立とうとするお前の生き方、俺は嫌いじゃないんだぜ」
「……」
「だからお前の生き方を阻もうとする奴が目に入るといい気はしない」
「……それは、君のエゴだ。君の好奇心と彼らの探究心に大差は無い」
「分かってる。だから俺は自分が正しいとは思わない」
ただそうしたいからそうしたのさと言って彼はふいと視線を外した。絶対的な正義など存在しないことは嫌という程見てきた。それは彼も同じだろう。
だから正義は語らない。その代わり全てを自分の為だと言い切ってみせる。
彼は干渉の理由として自分の生き方への好意を挙げた。だがそれは自分が想定した理由とは違う。自分は彼の干渉には何らかの利害関係があったのではないかと考えていた。彼の行為が彼だけのものであると言うなら尚更だ。そのずれを修正する為、再度彼へと声をかける。
「人は僕達を、僕達自身が思う以上に似ていると見なす」
「……」
「僕に対する敵視や不安は、いずれよく似た君へと及ぶ恐れがある。君はその可能性に気づいて予め降りかかる火の粉を打ち払ったんじゃないのか? ならば今回の君の行為はGUNに対する牽制だ。僕への好意とは、」
「シャドウ」
低い声で名前を呼ばれ口を閉ざす。此方を見る目は真摯で強さを思わせたが、その向こうに深い感情が見えた気がした。例えるならば悲しみのようなものだったと思う。それが何か捉えきる前に、彼は立ち上がり自分へと近付いた。腕を伸ばし指先で頬へと触れる。
「……深読みしてもいいけどな、それで傷つくのはお前だぜ」
「……」
「疑わないでくれ。お前にそう言われたら、俺は否定出来ない」
そっと指が離れていく。彼には珍しい自身を嘆く言葉に驚き、言葉を失った。同時に彼自身が気づいていなかった、若しくは気づきたくなかった打算を指摘してしまったことに気づく。他者に干渉することによる影響を考えなかった彼ではないだろう。その中に自己保身の思いが一度も過ぎらなかったとしたら、それは余程の聖人かただ思慮が浅いかのどちらかだ。一方で、彼が語った好意が嘘ではないことも理解していた。
自分の問いは、そんな彼の好意を無下にした。
「……」
離れた指を掴むことが出来ない。彼は沈黙する自分を見つめていたが、ふっと相好を崩し微笑んだ。
「そんな顔するなよ、シャドウ」
言葉が地面に落ちていく。明るい表情も励ます言葉も彼の矜持で、本当は涙が出そうなほどに痛いはずだ。触れようとすればいとも容易く逃げてしまう。謝る隙すら見せはしない。
伝えていないことがある。
もしもまだ届くなら、今此処で伝えたいことがある。
「……一週間の約束はまだ有効か」
唐突な問いかけに彼が目を瞬く。口が開かれるのを待たずして半歩の距離を詰め、唇で彼の頬へと触れた。状況を理解出来ずにいる相手から目を逸らす。
「意地の悪い言い方をした。すまない」
「……」
本当に恋人であればこの行為で感謝の気持ちが伝わるのだろう。ただ模倣に過ぎない関係だった自分に対して、彼が折れてくれるかは分からなかった。
愛しているとは叫べない。胸の内にあるのはそれほど能動的な感情ではない。だが彼が向ける好意を、好意を向けることの出来る彼を、尊重したいと思った。出来ることならばそのままに生きて欲しいと願う、自分もまた彼の生き方を好いているのだろう。
そうなりたいともなれるとも思わない。ただそのままに生きていてくれるならば、それだけのことが希望に為り得る。
自分は彼を、嫌いになれない。
「いいよ、許す」
声と共に腕を羽のように広げた彼が自分へと抱きついた。他人の体温を感じながら腕の中で目を閉じる。
自分達は誰かが思うほどには似ていない。似ていないことを知っている。
だからこそ、互いに憧れたりもするのだ。
「Good luck, shadow !」
腕を解かれ覗いた顔からは先刻掴み損ねた深い感情は消えていた。あの痛みを隠して彼は生きていく。もう二度と垣間見ることは無いのかも知れなかった。時に叫びかねないほどの傷を負いつつも彼は毅然として前を向く。
ならば、振り返ることなど求めない。
上気した頬を隠すように駆け出していった背中を見送る。この足では到底追いつけないが、追いかけるつもりもなかった。それぞれの道を行けばいい。憧れや嫌悪、戸惑いや好意を抱きながらも自分達は走っていく。
「……Adios, my dear」
呟いた言葉は風に乗って消える。小さくなる背から目を逸らすと踵を返しGUNへと向かった。