Antinomic appetite
食卓には豪勢な料理が並んでいた。真紅のワインが揺れるのを眺めながら用意された席に着く。並べられた食器は一式だけで、正面に座る彼の席にはサーブ用のナイフしか置かれていない。冷めない内にと勧められ、自分は料理に手をつけた。食器のぶつかる音が小さく響く。
「美味いか」
「ああ」
短い返答に彼がにこりと笑う。既に幾度となく繰り返された会話で此方には愛想の欠片も無いのだが、相手にはそれで充分らしい。目前に並ぶ料理が黙々と消費されるのを嬉しげに眺めている。
グラスを取り上げようとして右腕に巻かれた包帯が解けかかっていることに気が付いた。血が滲んではいたが怪我自体はほぼ完治している。巻き直すほどでもないと剥ぎ取れば、真っ黒な腕が現れた。治癒能力の高さは今更言うまでもないが、同じ箇所ばかり損傷するせいか徐々に回復が早くなっている気がする。
この腕も既に三本目だ。
「それ食ったら、今日は足を貰うぜ」
にこにこと笑いながら彼が言う。此方の食事が終わるのを待って、彼は再び料理を始める。今度は彼自身が食べるためであり、その食材として自分は身体の一部を提供する。腕や足、棘に眼球。内臓はまだ試していないが、その内相手が言い出すだろう。
最初に食われたのは左腕だった。彼が欲しいと言ったから、肩から先を丸ごとくれてやったのだ。ばっさりと切り落としたそれはその日の内に煮込まれて彼の胃袋に収まった。その時はまさか、もう一度腕が生えてくるとは思っていなかった。完全に失ったつもりでいたものが数日後には元通りである。我が事ながら流石に驚かざるを得ない自分に対し、彼はと言えばこの状況を喜んで受け入れた。
「どうして君が喜ぶんだ」
「そりゃあ飢える心配が無くなったからさ」
さらりと言ってのけるとまだ毛並の整わない腕を取ってキスをする。それ以来、彼は自分以外を口にしなくなった。貰った分の代わりにと毎晩料理を振舞ってくる。それを食べることで自分の欠損は回復する。養っているのか養われているのか分からない。
彼になら全てを食われてもいいと思った。
いつだか本人にそう言ったら珍しく困ったような顔を見せた。そもそもの発端が彼の一言にあり自分はそれを受け入れたのだから、それほどおかしな発言ではなかったはずだ。首を傾げればそっと頬を撫ぜられた。
「食らいたかったのは、本当」
「……」
「でも、全部食っちまったらもうお前には触れられない。それが残念だった」
だから俺は今とても幸せだよと言って、彼が自分の背中に腕を回す。満ち足りているのだと思った。ならばそれ以上、何かを求める必要は無い。彼が自分を独占するように、彼に食われることで自分も彼を独占している。誰も代わることが出来ないという絶対感は安心であり、眩暈がするほどの陶酔だった。
細胞は何年もかけて入れ替わる。いつの日か彼を形作る細胞の全てが、自分によって構成されるだろう。抱きしめるこの腕も地を駆けるその足も、いずれは自分だけのものになる。
それはひどく奇妙な感覚だったが、錯覚と呼ぶには鮮明過ぎるようだった。