Give you hope
急遽ねじ込まれた出張のため乗り込んだ新幹線でヒーローに会うとは思わなかった。平日午前の新幹線は予想以上にガラ空きで、前日深夜までの残業から自宅に飛んで帰って飛び乗った身には親切な静寂に満ちていた。旅行客の賑やかな声も泣き出す子供の声も聞こえない。それらが悪いわけではないが、寝不足の社会人には有難かった。
売店に駆け込んで働かない頭で買った駅弁二つ(食べ損ねた朝食と昼の分だ)を空いた隣席に放り出し、ようやく一息ついたところで窓に映る鮮やかな青色に気づく。動き出した車窓の向こうに映る空は快晴だが、それよりももっと青い。ガラスの反射かとまだ眠い頭で考え、それが通路を挟んだ向こうに座る人物の影だと気がついた。原色に近いほどの純粋な青。派手な色だと思いつつ何となく横目に覗いた、先にいたのが彼だった。
ハッとして瞬時に身体が硬直する。その気配に相手も気づいたらしい。窓の向こうを覗いていた瞳が、つ、と離れてこちらを見る。一切の迷いもなく視線が真っ向から繋がってしまったために逸らすこともできなかった。ソニックザヘッジホッグ。今この時代で彼の名前を知らない奴は、よっぽどニュースに疎いかエンタメを憎んでいるかのどちらかだ。どこからともなく流星のように現れ、世界的な問題すら軽やかに解決するヒーロー。その自由過ぎるやり口に批判を受けることもあったが、何者にも囚われない姿は多くの人間をその生き様だけで魅了した。キザったらしい台詞も彼ならば様になった。自分もそんな彼に憧れ、今も憧れている一人だ。それが、こんなところで。というか。
「は――走らないんです、か」
半徹夜で掠れた声しか出なかったことにも、そんな質問が口をついてしまったことにも後悔する。もっと、もっと言えることは沢山あったはずだった。社会人一年目でひどい叱責を受けた時も、取引先とトラブルを起こして辞職を考えた時も、ニュースで彼を見ればこんな生き方もあるのだと鼓舞された。自分が彼を見て勝手に感じていたことだ。彼は何も知らないし、自分の感傷を知ってもらいたいとも思わない。ただ、それよりもどうしてという気持ちが勝ってしまった。あんなに走ることが好きなのに、彼の足よりずっと遅い新幹線に乗るなんてイメージにそぐわない。いや、それが悪いとは言わない。ただ、ただただ、こんな場所で彼に出会ったことが不思議だった。恐らく自分の顔は、寝不足も相まって呆けていたことだろう。寝癖だって直っているか自信が無い。
彼は自分の目を見据えたまま沈黙している。驚いたのかも知れない。くたびれたサラリーマンが突然話しかけてきたのだからドン引きされても仕方ない。お前はいつもそうだよと内心で己に悪態をつく。自分は彼に、勝手に救われてきた小市民だ。彼のことを理解できるとも思わないし、彼に自分を見てほしいとも思っていない。熱烈に彼を追いかけるファンでもない。ただ、ふと彼の名前を耳にする時、確かに胸に灯るものがあった。そうやって生きている人間は少なからずいる。
だから、視線を逸らさなかった。
いつか死んでしまいたくなった時、この日の邂逅を思い出して今少し生きようと思う日がいつか来る。
「“これ”でしか行けない場所があるのさ」
コンコンと指先で二回、彼の白い指が窓枠の僅かなスペースをノックする。彼の声は新幹線の静寂を脅かさないほどに落ち着いたもので、恐らくは通路を挟んだ自分にしか聞こえなかっただろう。思ったよりも低い声。その声音にヒーローでない、15歳らしい気取らない響きを感じた。呆ける自分に、ふ、と口角を緩めて彼はそのまま瞳を伏せてしまう。すっかり寛いだ様子に、それ以上の言葉はかけられなかった。かける必要もなかった。
散々テレビで見てきた、フィクションでない少年がそこにいる。
揺れる車体に身を任せ、窓から見える空を仰ぐ。
駅弁二つは、結局終点まで食べ損ねたのだった。