喝采 白く霞んだ視界の中、気付けば自分と彼しかいなかった。つい先程まで周囲を取り巻いていたはずの声も聞こえない。声どころか物の気配すら希薄だ。五感に伝わる情報が少な過ぎて、油断すると自分が立っているか座っているかも忘れそうになる。視線を下ろすと此方を見上げていた彼と目が合った。
「Good morning. 戻って来たな」
「……どういう…」
「刻限が来たんだよ。少なくとも俺達には」
そう言って自分より背の低い彼は肩を竦めた。言葉の意味を察し、現状に納得する。どうりで何もかもが軽い。存在も、影も、感情さえ凪いでいる。感慨も無かった。
「そのまま行っちまうと思ったのに、起きたってことは俺に別れの言葉ぐらいくれるのか?」
「要らないだろう」
何も無かったのだからと言うと、それもそうかと頷いた。悪態の一つも返さず鼻歌混じりに先を歩く。既に会話をせずとも意識を共有できるぐらい、空間が混濁していた。
不意に彼が立ち止まる。その背を追い越してから、ついて来ない足音に後ろを振り返った。行ってしまったかと思った彼はまだそこに佇んでおり、足先をくるくると回している。ここから先は走っていくつもりらしい。
「I wish see you again」
言われた言葉に沈黙する。そんな態度にもけたけたと笑って手を振った、恐らく言葉は実現しない。それで良かったのだろう。二度と来ない今のために、記憶にも残らない今のために、自分達は生きていたのだから。
「Good luck to you !」
同意の言葉は返さない。無自覚にキザったらしい言葉を吐いて、しかもそれが様になるなんて彼ぐらいしかいない。代わりに吸いかけの煙草を指に挟んで掲げてやった。その時にはもう走り出していたから、見えたかは分からない。しかしそれで十分だろう。
最後まで振り返らなかったその背に、届くことのない喝采を!