卯の花腐し
雨が降っている。伊達への返書を抱えて転がるように左近が出て行くと、多言を好まない三成と二人きりになった屋敷には最早雨音以外聞こえない筈だった。
『お前も折れることなんてあるんだな。』
「煩いぞ徳川。」
戸が広く開くという理由だけで宛がわれた屋敷の中でも最大の居室を十二分に持て余しながら、吉継は中庭を臨む障子の隣で幾度となく読み返してきた為政に関する書物を開いていた。それを覗き込むように体の全てを半透明にした家康が肩に乗る。重さを感じないながらもその行動が鬱陶しいと感じた吉継は書から目を離さないまま左手で退くよう合図を出すが、家康は見えなかった体で無視をした。
『あんなに三成と死にたがってたお前がまさか伊達に下ってまで二人と生きる道を選ぶとは意外だと思ってな。』
「ぬし……われらとはここでようやく再会したと宣っておった筈。」
『ん? ああそうだったな。』
「ぬしの本性は狸より性が悪い……。」
苦虫を奥歯で噛み潰したように表情を歪ませた吉継を見て、家康は生前通りの快活な笑顔でふわりと宙に浮かぶ。病の悪化で視界が狭まってきている吉継ではあったが、人とは違うその動きの滑らかさをつい目で追ってしまう。そうすると全身の部分部分だけが仄かな黄に照る輪郭で出来た家康と目を合わせる羽目になり、毎度毎度深い溜息を吐くことになってしまった。
「三成は佐和山に戻る。伊達は恙なく天下を治むる。もうこれで良かろ、早よに成仏せよ。」
『うーん、後もう少しだけ見届けさせてくれ。秀吉殿と半兵衛殿にお会いした際にその辺りを咎められるとワシも辛いのでな。』
「太閤と賢人がぬしのようにのろのろと現に留まっておる訳が無かろ。」
『ははっ、それもそうかも知れないな!』
笑ってはいるが自分の言葉を聞き入れた訳でも無いのが同時に知れて、吉継は呆れた仕草でこめかみを親指で押さえる。家康はくるくると器用に背面から縦に回りながらまた吉継の肩の上に顔を乗せた。
『まあそう細かいこと言うなよ刑部。ワシもようやく自由になれたんだ、次の世までの猶予ぐらい存分に味わいたいんだ。』
「ぬしを殺した三成の傍に憑くのがぬしの自由か? 死んでからも絆される男よなぬしは。」
『ワシが憑いてるのはお前だぞ刑部。何せ三成は隣に居ても も全然気付いてくれないからな!』
「あれはわれと違い此岸しか見えぬ目ぞ、当然であろ。」
『ああ、だから感謝してるぞ刑部。お前が居てくれて本当に良かった。』
これもまた生前と変わらない様子で微笑むので吉継はぞっとする。死して怨霊に近しい身となっても保たれる善性など古今東西の妖かし語りにもついぞ無い。却ってこの男の底抜けさを知らしめているその様子は、初対面から抱き続けていた気味の悪さを常に日毎更新し続けていた。
「蜻蛉はまだ帰って来ぬのか。」
救いを求め嘆くように吉継が言えば、空中であぐらをかいて両腕を胸の前に組んでいた家康はこてんと首を傾げて告げる。
『忠勝なら天下平定が成った時に成仏したぞ?』
「……主たるぬしを置いてか? あの精忠無二がか?」
『死んでからも忠義を尽くすとは言ってくれたが流石に冥土へまでは連れて行けないからな。先に生まれ変わって覚えてたなら墓にでも参ってくれと言ったら泣いてたよ、まさか泣かれるとは思わなかったがなあ。』
「ぬしが冥土に行く訳が無かろ。噂に拠れば三河の民は未だに竜より狸を好いておるぞ。」
『おっ、その辺りは三成と同じだな! まあ三河の皆は強いからな、ワシが居なくとも商売上手にやっていくさ。』
「抜け目無いの間違いであろ……。」
死ぬ前からお喋りな男ではあったが、話す相手が自分しか居ないせいか余計に煩く思える。読書を諦めた吉継は深い深い溜息をついて、脇息代わりの行李に両の腕を投げ出して身を任せた。
吉継は顔よりも一寸ほど上に居る家康を少し顎を上げて見上げる。手で掬い上げた水のように向こう側の朽ちた土壁が透けて見える家康は紛うこと無き彼岸の存在であった。生前の人望からすればそれはもう手厚く丁重に深い哀悼の意を以って正しく葬られただろうに、何の因果か未練かは知らないが未だに此岸を彷徨っている。とあらば弔った者達が報われないことが分からぬ程には鈍感な男では無いことを、大軍の豊臣の中でも三成を介して最も近くに居た吉継は一番よく分かっていた。山を穢すと祟られると言ったのは確かに自分ではあるがこんな祟られ方とは思わなんだ、と考えていると吉継が黙り込んだ分黙っていた家康が不意に口を開いた。
『刑部、お前もワシが冥土に行くと思わないのか?』
「ぬしはまず賽の河原に行くべきよな。われらから疾くと離れよ。」
『自分の葬儀を初めて見たんだが、みな口々にワシが浄土へ行ける行く行くべきだと言っていてな。結局天下泰平すら成し遂げられなかったワシは甘言で万民を死に追いやっただけの大罪人だと思うんだが。』
大して悩んでない様に聞かせながらもその実あまりにも重すぎる艱苦を隠した声色。複雑怪奇極まるその内面を一言で察した吉継だったが、最早指摘することすら億劫であるので渋々ながら家康の望み通り主とした返答を避け、わざと枝葉に寄る。
「初めてとは笑わせる、まず自らの葬儀を見ること自体が正気の沙汰では無いぞ。」
『そうか? でもまず気が付いたのがそこだったからなあ。』
「はぁぬしはぬしの葬儀の時に目覚めたと。先立っての話と随分違うが?」
『まあそう細かいこと言うなよ刑部。』
「ぬしのその笑みに騙された者が今の話を知ったら失望に打ち震えるであろうな、三河の大狸よ。」
手厳しいなと少しも堪えていない笑みで家康が応えると、辟易とした表情を隠しもせず吉継は頬骨に指を当て上体を起こす。すいと位置を下げていた家康は鼻先が触れ合いそうな距離にまで近付いていた。
「喜べ徳川、ぬしは紛れもなく浄土行きよ。」
『え、さっきまでお前ワシは冥土に行くと』
「冥土にころり堕ちるはぬしではなくわれよ。ぬしは精々浄土にて至福の時を永久に過ごすが良い。」
『それはどういう意味だ、お前の話は難しくて分からん。』
「ぬしと同じ処へなど真っ平御免と言うておるのよ。」
『へえ、なら三成はどうなんだ? 左近は?』
「あれらに彼岸は似合わぬ。蜻蛉や太閤らと同じように即輪廻よ、テンセイよ。」
『じゃあ何でお前とワシだけ向こうに残るんだ?』
「ぬしとわれは三成の来世に必要ないからよ。」
しばらく吉継は家康と見つめ合っていた。いつぞやに見た体から放たれた気と同じ色をしたかつての同僚は、出会った頃から何ら変わらない温和な表情でそこにあった。何故これが成仏出来なんだか。その理由を薄々解してはいた吉継ではあったが、それを認めるのは何だか腹立たしいため、残り短い人生ながらもそれを絶対に口にはすまいという強い決意をこの時固めたのだった。
やがて家康は笑い、また身を伸ばして背面で一回転する。刑部、と朗らかに呼びかける声は正に太陽そのものであり、元より溌剌を好まない吉継は先にも増してより気疎い気分になった。
『もし生まれ変わることが出来たなら、ワシとお前は再び三成に巡り会えると思ってるのか! お前も大層な夢を見る男だな!』
「……ぬしのその皮肉さが豊臣の頃にあったのならば、われも躍起になってまでぬしを遠ざけはせなんだが。」
『フフフ、それは無理な相談だな刑部。ワシのこれは死なねば言えぬ言葉だ。』
「絆絆と煩い男ではあったが、実のところは絆された四つ足とは傑作よなケッサク。」
『あっははは! だからこそワシには十万の皆がついて来てくれたんだ、建前も突き通せば真だぞ?』
嫌味もここまで真正面から押し返されればいっそ清々しい。この世で最も未練から懸け離れていると思っていた男のとんでもない不幸を舌先で転がしながら、やれ三成に次いで退屈せぬことよなと吉継は投げ出していた本を手に取った。
雨はまだ降り続いている。
おまけ
刑部、お化けの家康と再会する
「めっっっっっっっっっっっっっちゃ今更な話ししてイイっすか? ここオバケ屋敷じゃないっスか!?!!!??!!!??!!!??!」
「今更何を申すかぬしは。われはそれが望みでこの屋敷をぬしが見付けたと思うたのだが。」
「おばけやしき……? 刑部、何かの罠なのか?」
「いや罠の類では無いぞ三成。そうさな……そこなる左がぬしの次に苦手としておるものよ。」
「私が苦手とはどういう意味だ左近、逃言は許可しない。」
「ぎょーぶさんオレそれめっちゃとばっちりなんスけど!?!?」ガタン
「……い、今の聞こえました?」
「なあに大方鼠が騒いだ程度であろ、左腕に近し男の名が聞いて呆れ」ガタガタガタガタンッ
「賊か。」
「待て三成、今はわれらの方が賊よ。穏便に行けるのであれば穏便に行くべき。ここは一つ、われに任せよ。」
「いやこのウチに刑部さんってかえって雰囲気出過ぎでマズいんじゃないッスかね……??」
「何か言うたか左近。」
「いっ、いや何でもないっすよーなんでもー。」
「しかし音のする方は昼に何者も居ないことを三人で確認した筈だ。」
「そそそそそそそうっすよ! だ、だから別にぎょーぶさんでも誰でも見に行く必要無いって言うか、その、」ゴッ ブオン
「……浮いたな。」
「浮きましたね……。」キィン バシッ ドッ
「? 何が浮いっ三成!!」
「ああ三成様待って待って待って置いてかないで下さい!!」ドタバタドタバタ バタン ガタン バッ
「……何も居ない。」
「ちょ、ちょっと三成様邪魔だったからって襖切るのはどうかと……」
「ぬしらのそれにはほとほと困ったも、の、」
『……お前たち、もしかして遂にワシが―――』バッシャアアアアン
「ちょ……ちょっと刑部さん!?!!!?? 今のオレまじ紙一重も一重ですからね?!???!!!!? 二度とやんないで下さいよ!!!???!!??!!!!!?!」
「どうした刑部、お前らしくもない。」
「……ちと、この室から離れられるか両人よ?」
「!! 何か居たのか刑部! 案ずるな、直ぐに斬滅して終焉だ!!」
「ああ、ああ、ぬしは話が纏まらなくなるからよい。左近、ぬしの勘は正しかった。対処するに一先ず三成と共に隣の部屋に入りやれ入りやれ。」
「エッ、じゃあここってマジもんの……」ガッ グワッ
「左近! 何をする離せ!!」
「いいから三成様おばけは切れないんです早くこっち来て早く早く!!」
「ぎょ、刑部、貴様一人で何をするつもりだ!!」
「ぬしが思っておるようなことにはならぬゆえ安心せよ三成。われはすぐに戻る。」
「ぎょ、刑部、ぎょうぶー!!!」ズルズルズルズル
「…………さて。」スッ
『あっ。』
「…………………………………………………」
『……………………………』
「……色々問いたいことは無きにしもあらずだが、即刻去ね。死したぬしの顔を見る程われらも暇では無いわ。」
『そう冷たいこと言うなよ刑部、ワシとお前の仲だろう。』
「どの面を下げてそれを宣うのか、ぬしのせいでどれ程の歯車が狂ったか。」
『でも歯車が狂った結果、お前たちは豊臣から離れ自由を生きている。ワシはいつまで経っても死んだままだ。それでは駄目か?』
「……全てぬしのせいぞ。」
『三成はともかく、お前は大して思ってないだろそんなこと。』
「ぬしは相変わらず最初から最期まで腹が立つ。」
『安心しろ、ワシが見えるのは恐らくお前だけだ。言葉を交わせるのもお前だけだ。』
「何故そう言い切れる?」
『お前たちの前に色々と会いに行ったんだが誰にも気付かれなくてな。ああでも、何故か片倉殿だけは気配だけ感じていたみたいでな、中々に寂しいものだったよ。』
「われの目にはこれほどにまでなくはっきり見えておるが。」
『本当か!? いやでも不思議だな、まさかお前にだけは見えてるなんて……』
「われは墓穴に片脚どころか両脚を突っ込んでいる身の上ゆえな。この目も盲しいてからが本領よ。」
『それは心強いな。』
「……何故ぬしがここに居る。骸は三河に戻った筈であろ?」
『ワシもよく分からないんだ。ただお前たちがこの屋敷に住もうとしていたからワシもと思って入ったら、不審な輩が居たので取り敢えずとっちめてたんだが……。』
「今のぬしほど不審な輩も居らぬと言うのにな。」
『そう言うなよ刑部。でもほら、さっきまでの奴らも何処かへ行ったみたいだし、少しは住みやすくなったんじゃないか?』
「そうかそうか、ならば早々に去ね。ぬしが憑くべきはわれらでは無かろう。」
『じゃあ誰なんだ?』
「ぬしの交友などわれが知るか。」
『独眼竜、元親、直虎殿……思いつく限りの宛は当たったんだが気付いたのはお前だけなんだ刑部。これも何かの縁だと思って』
「絆とやらに殉じたぬしが死してはそれに救われぬか、悲劇よなヒゲキ。」
『ワシは別に自分自身が救われる為に絆を掲げていた訳では無いぞ、刑部。』
「……ぬしのそれはほんに気味が悪い。早晩左近に塩を買いに行かせねばな。」
『塩か? ワシは味噌の方が好きだな!』
「金吾でもあるまいし、ぬしに食べさせる飯など無いわ。」
『この体で飯が必要だと思ってるなんて、面白いなお前は。』
「……祓いの手筈は何処にやったか……。」