無明の黒点
倒された燭台が血にまみれた金の屏風に触れて、あっという間に火が回る。夜闇の中で泰然と揺れ動く焔は男がどさりと落とした城主の死顔が如何に苛酷な物であったかを知らしめる。
「刑部、刀はあるか。」
火の回りを気にする素振りさえ見せないその快活な声は常通りの辟易を吉継に招く。
「何故われが持っておると思うた? 皮肉か?」
「ああそうだったな、すまんすまん。」
そもそも刀が必要なかったことまでようやく思い出したのか、誤魔化すように笑いながら羊歯の太陽を背負う男は吉継に近付く。吉継は眉間に皺を寄せてその様を眺めながら、また同時に退出路の道筋を頭の中で確認する。
「まあ良い、これで明後日の太閤と軍神の講話も上手く行くであろ。」
「ワシにはそこまで重要な城には思えないが……。」
「何、『いつの間にか潰されていた』という事実があれば良いのよ。それが堅牢名高い城であればある程良い。」
火は一段高い畳に移り、尚一層燃え上がる。自分の傍らにぴたりと男が並んだことを目視してから、吉継は右手に持っていた油瓶を下手から投げ上げた。
薄手の陶器であるそれは半円を描いて見事に畳の真横に落ちて割れる。すると吐き出された油は直ぐ様引火し、二人が居る部屋の隅の向かい側はすっかり火の海になってしまった。
昼の金を身に纏う男は蕩けたような瞳を細めて、寝所を隅々にまで舐める炎を見つめる。吉継はその男の横顔が好きにはなれなかった。しかしながら自分が求めてやまないものはこの瞳の奥底にこそ存在することを知っていた。都合の悪いこの矛盾に吉継はいつも苦い顔になる。
一先ず帰陣しようと吉継は気味の悪い感情を無視して、木張りの床にも火が付いたことを確認してから襖を開けた。まだ煙は何処かの通気孔から抜けていて少ないが、その内に充満して階下にまで伝わることであろう。浮かせた輿の下に殴死体をくぐらせて、まずは階段へ向かった。
人が並んで上がるには多少狭い階段は急勾配で、少し覗くだけですぐさま下の階の床が見えた。吉継は振り返り、腕を組んで微笑んでいる男を見た。
男は吉継の無言の指示に笑顔を見せ、両拳の手甲を一度叩き鳴らす。そしてひょいと下階を覗き込むと、大きく振りかぶって力を溜める。
陽光の色が一度二度と瞬き、三度目の輝きを見せる。そして気合いの声と共に溜め込んだ力が拳から押し出される。次の瞬間、階段だったものは粉々に砕け散り、下から巻き起こった一瞬の旋風がその短髪を揺らした。
「……毎度言うが口を噤めぬのかぬしは。」
「ははっ、毎度言うが閉じれないんだ。声を出さないとなると気が纏まりにくくてなあ。」
わざとらしい吉継の溜息に変わらない笑みで答える男は颯爽と元来た道を戻り始める。吉継は耳を澄ませ、木が爆ぜる音に混じる階下の音を聞いた。いつもの通りのざわめき。であれば後は帰るだけ、と死んだ兵達の背中を踏み付けながら悠然と歩む男の後ろに付き従った。
侵入する際に叩き壊した格子窓の辺りにはまだ火の手は回っていなかったが、既に黒煙の出口と化しており、年季の入った色の木っ端が無情にも置き去りにされたままであった。匂いからすれば直ぐ真横の襖にも既に火が付いているようだった。立ち止まって先を譲った男の横を通り過ぎて、吉継は足場の無い外へと躍り出た。
四重の屋根の上は常よりも強く風が骨身に打ち付ける。吉継は男を見る。男はいつもと違う吉継の様子に首を傾げる。
どうしたんだ刑部。その声は平坦であり、まるで傍らで猫が寝ているように穏やかな日溜まりの如き風情があった。しかし目の前に広がっている景色は、無惨にも破られた城とそれを黒灰の海に変えんとする炎の渦であった。
ばきりと何かが折れる音がして、視界に赤と橙の波が広がる。男の真後ろまで火は広がっていた。宙に浮いたままの吉継の耳にも、火事を報せる鐘がけたたましく打ち鳴らされ、それと重なるように悲鳴と怒号と数多の足音が津波のように轟く様が届いた。
不思議なことに目の前の男には音が無かった。梁にまで燃え広がった火が天井から雫となって落ち始め、形を保てなくなった壁や床がほどけるように壊れ初めても尚、男は微笑んだままであった。
吉継は白濁した瞳を細める。炎を背にする男は眩しく、徐々に赤へ塗り潰されていく。血に塗れた閃く金糸の戦装束は火の齎す影の中に沈んでいく。
業火の赤。劫火の紅。されどその充ち満ちた瞬きは変わらず、闇の中にあって尚闇より深い極彩を放つ。
無明の天に煌々と輝く災旱の星は吉継に手を伸ばした。そして口を開く。その瞬間吉継の脳裡にある記憶が走り、思わず眉根を顰めた。男はそれを見て微笑みを深める。
まるで同じことを思い出したかのようなその男の態度に、吉継は舌打ちする他なかった。
「ははっ! 流石に今回は置いて行かれるかと思ったぞ。」
「置いてけ堀にされたとて朝には惰眠を貪っておる狸がよく言うわ。」
「そんなことはない、お前が居てこそのこの策だ。ワシは誰よりもお前を信頼している。」
明快な声が甲高く朔夜の闇に響く。遠征途中の宿泊地に向かいながら、吉継はその背に普段は感じることの無い体温を負っていた。
空中での高速移動時の体勢に仁王立ちを選ぶような男に遠慮が要るとは吉継は微塵も思わず、理論上の最速値のまま空を駆けている。上機嫌な男は器用に重心を保ったまま半身を捩らせる。吉継はその手の甲が兜の後立に触れてから、僅かに草摺の端を掴んだことを察する。
手でも握ろうとしたのだろうが生憎印を結んでいるので不可能であることを毎回忘れているらしい。気楽な男よなと頭の端で考えつつ、吉継は現在の状態を維持する。
「ぬしに信頼されるとはわれもヤキが回ったものよ。」
「そうか? でもワシのことを分かってくれるのはお前だけだからなあ。」
ふふっと嬉しそうな笑い声が骨越しに伝わり、幾度となく感じている疎ましさが吉継の腹の中に生じる。それを表する為にこれ見よがしな溜息を吐いてみれば、何故か背中の男は吉継へ更に身を預ける。徐々に押し付けられる熱と肉は腹立たしい程に重く、その身の内に秘めている黒が纏わり付いてくるかのようであった。
「この世は地獄だ。親が子を殺し、子が親を殺す。人が人を殺し、人が人に殺される。人が簡単に死にすぎるこの世界を、ワシは救いたい。」
朗々と歌い上げる声は燦々と炫耀し、その足元に広がる闇を映さない。吉継はこの言葉が嘘偽りでないことを知っていた。嘘偽りでないことが、この男の抱える闇の本質であった。
「出来れば早く、なるべく早く。人と人とが殺し合わない世界を作らなければ、何もかもが終わってしまう。終わる前に終わらせなければならないんだ。」
声は尚も平坦を保ったままに続けられる。数多の死と滅びを眼前にした男は良心の根に狂気を宿した。初めは紛れもない他者への深慮だったものが、摩耗し転遷し、いつしか正当な異端へと変貌する。
人を殺さない為に人を殺す。多数を救う為に少数を殺す。人数の多寡こそが国の盛衰を左右すると男は知っている。そしてその行き着く先の泰平が実も花も無きただの空虚であることを知りながら、男は知らぬ振りを決め込んで走り続ける。
自由なき自由の為に戦う男の、何という醜さよ! かつて人も世も恨んだ吉継でさえ背筋を震えさせる程の矛盾を、あの太陽のような笑顔の底に孕んだ男は如何にも愛おしそうに病躯の背に頬を寄せた。
「お前はワシの思いを理解してくれた。民の為にいち早く天下を取らねばならないワシを理解し、あまつさえこうして手を貸してくれる。それに信頼を寄せないのであればワシは一体何を信じると言うんだ?」
「われがぬしを騙す為に信じさせておるだけであれば如何する?」
「どうもしないさ。騙されたなら騙された時。その時こそ忠勝の出番だ。」
「ぬしは余程自分に自信があると見える。足元を掬うには持って来いの視界よな。」
「その時はお前以外の誰かの力を借りるさ。三成なんてどうだ?」
「何と、太閤でもない賢人でもないぬしが三成を。果たしてどう手綱るか見ものよな。」
「ははは、楽しみにしておいてくれ! まあそうならないことをワシは願っているぞ。」
薄氷の上を叩き割るようにして歩くその様は恐れを失った狂人そのものの振る舞いである。思い当たる節のある吉継は何も言わず、会話が終わったらしい男も口を閉じた。
紙垂がはためく風の音以外は何も無くなった空には屑星だけが所在なく漂っている。男は時折下を覗き込んでは、吉継の背に雑な態度で体を戻す。その度に輿が僅かに揺れ、集中が途切れそうになるが、その意図を汲むのも不本意であった為、吉継は何も無かったような様を貫き続けた。
他者に生を望みながら死を求め、自らに死を望みながら生を求める。複雑にねじ曲がった希求の念は吉継のそれによく似ていた。ただそれが真逆である故に吉継はこの男を嫌っていたが、男の方はそこまで気が付いていないことは一筋の光明であった。
やがて宿舎が近付き、声がした。後もう少しだなあ。二重に重ねられた意味合いに吉継はひっそりと目を細めて応える。
所詮ぬしにわれは理解出来まい。遅く巧みな知謀こそが軍略の要と定める身とあらば、一つの嘘を騙し通すことさえ容易い。一枚だけ上手を取れれば勝ちなのだと自分に言い聞かせながら、今日も吉継は背に男を乗せて闇をひた走る。
そしてその度に光無き只中こそが自分の生きる場所であることを思い知らされる。偽りの陽の元に月は無し、明け無き朝に沈むこの白布の身を名残惜しむ者が居ないことだけが吉継にとって唯一の救いであった。