一知半解
骨と肉の間を蚍蜉が塗渡る。
群れ動く痛痒は大小を問わず首から下を蠢き回る。己の身の内側から溢れかえる不快は熱を持った痛みとなって、そこかしこに鈍痛を齎す。
横向きに丸まって掻巻の中に頭まで埋もれる吉継は動かない。痛みの場所を認識し、敢えて意識を切り離す。自分の体ではないと誤認することで苦しみから逃れる。
吉継は息を吐きながら、足先の筋肉の強張りを解いていく。足指から足の甲、足首、脹脛と順繰りに脱力している間にも、苦痛は引き続き大きくなっていく。常通りよと自分の中で繰り返しながら、十数年間繰り返してきた手順を追っていく。
首から下の筋肉の緊張を解いてしばらくすると熱が体中に満ちる。その辺りで切り離していた意識を元に戻す。すると最初は僅かだった疼痛が、一つ息を吸うごとに耐え難いほどの激痛へと変わっていく。しかし不思議なことに、蛙を水から茹でるかの如く痛みは直ぐ様体に馴染んでいく。
が、それも一瞬のことに過ぎず、あっという間に肉体が感知できる最大の痛苦にまでなる。
そこで思い切って、痛みの大波に身を任せる。当然槍で刺されるような酷痛が体の隅々に走り、場合によっては呼吸すら見失う羽目になる。そうなるとどうか。
限界を超えた苦痛の大波に飲まれた意識は、空の点と成り果てた凧の糸を手放す様にして急激に途切れ、瞬く暇もなく世界は黒に沈む。後は目覚めるまで眠り続けるだけのことだった。
端的に言えばただ何もしないで気絶するまで痛みに耐えるというだけの話である。しかしながら、この苦果だけは過去誰にも何にも引き渡すことが出来ないと判明していた為、吉継は諦めていた。無論体の中で痛みを肥え太らせることは本意では無かったが、季節の変わり目や昼夜の急激な温度差によって否が応にも生じるそれから逃れることは出来ない。投げ捨てた匙はとっくの昔に錆び付いており、吉継は一人掻巻の中でただただ呼吸をするだけで精一杯であった。
息を吸い、息を吐く。そのことだけに集中することで、意識を痛みから切り離す。今の吉継にはそれしか行えなかった。
故に、突然目の前の暗闇が消えた時は何が起こったのかがまず理解出来なかった。
「大丈夫か、刑部。」
次いで聞こえた声と言葉を頭の中で処理するのにも時間が掛かった。それより先に認識した顔には常の笑みが無く、ただ淡々と事実だけを認識している瞳だけがあった。反射的に吉継は睨もうとするが、背中の中央辺りを刺されたような鈍痛が走った。
発作からの逃避に失敗した吉継は浅い呼吸で褥を掴む。大きな痛みの後は、しばらく耐えきれない程ではない疼痛が続くことは経験上知っていた。それを呼吸で制しながら、吉継は体を起こそうとした。
ああ、とそこでようやく来客は膝を折り、吉継の脇から腕を通して自分の立てた膝に凭れさせる。相変わらずの膠漆に鬱積しつつも、度重なる苦痛で疲労していた吉継はそのままされるがままでいた。
男は器用なもので、病身を抱いたままの右手で何かを左に動かし、今度は左手で動かした物の中からまた何かを掬い上げた。吉継、と閨での呼び名に変わると同時に、ぽたりと水滴が手から零れる。
角度的に中身が見えなかったが、急かされたので吉継は仕方無しに口を開けた。揃えられた指先から何かが口の中に流れ込む。水と、硬質な何か。口内に広がる冷たさはまるで流れの早い清流がそのまま形を成したような涼やかさがあった。
吉継は微かに霞かかる白眼を男の横顔に向ける。その視線の鋭さに気付きながらも、次の手当に勤しむ男は吉継を見ないで、少し楽しげな声で答えた。
「氷だよ。お前がここ数日床に臥せっていると聞いて、三成がわざわざ京まで行って持って帰ってきたそうだ。」
余計なことを、と吉継は微笑む男に対して思う。氷室の管理は吉継の部下の担当であり、週に何度か京との連絡便がある。それを分かっていてこの男は言葉巧みに三成を動かしたのだと吉継は理解していた。
しかしながらその甘言を払いのける程の力は残っていなかった。舌の上の氷塊が金平糖程度の大きさになったところで、次のものが流し込まれる。包帯の覆いが無い歪んだ指は吉継の弱った顎へ強引に差し入り、幾重もの傷痕が残ったままの親指が角の取れた四角を押し込んでいく。
口の中の氷が溶けて、水分が生じる。それを嚥下すれば、乾き張り付いた喉へ潤いが齎される。痛みの大波の合間にある休止に相応しい施しに安堵の息を吐き出しながら、吉継は改めて自分を腕の中に収める男を睨めつけた。男は相変わらず吉継を見ないままに答える。
「言っておくが、ワシは三成に何も言ってないぞ。この部屋に行こうと思った時にたまたま出くわして、これをお前に渡すように頼まれただけだ。」
いくつあるのか、男は氷を自分の口にも運んだ。その言葉を信用しない吉継は呆れたような息を吐きながら半眼に伏せる。男はがりがりと奥歯で氷を削りながら、嬉しそうに笑う。その含みのある笑いに、吉継はうんざりした様子を隠さなかった。
やがて準備を整えたらしい男は、ずり落ちかけている吉継の上身をもう一度引き起こすと、顎を上げて口を開かせる。痛みのぶり返しが始まった吉継は眉間に皺を寄せつつ、顎の力を抜いた。
次は氷ではなく、何かの薬のようだった。白い薬包紙の角が半分に折られ、僅かに開いた吉継の唇の間に入り込む。黒の粉の味は特に無かったが、鼻に抜ける程度には甘さがあった。
水分が残っている喉に粉薬が纏わりつく。咳き込みかけた吉継の口元が何かで塞がれる。そのまま流れ込んできた冷たさの入り交じる生温い液体は、開けたままになっていた吉継の口を抜け、喉を鎮めて臓の底へと落ちていく。それが今し方男が噛み砕いていた氷と溶けた水であることを知った時には、吉継の口からも喉からも薬は綺麗さっぱり無くなってしまっていた。
男は吉継の下顎を掴んで口の中を確かめる。火が一つしかない冥闇の内で何が見えたものかと吉継は飽き飽きするものの、男はよしと確認の意を呟く。それからようやく瞳の先が交わった。
微量の光を蓄えた梔子の瞳は深い慈悲めいた色で吉継を見ていた。吉継は何も言わずに瞼を半分閉じる。しばらくの間の後、男は両腕を吉継の胴に回すと、背もたれにしていた膝を下ろし、力の入らない病躯を抱きかかえる。己の身の内に溜まった熱よりも高い体温と明瞭な脈動。痛みと痛みの間にだけある怠さが抜けない吉継にとっては、疎ましい以外に感情の起こらない行動であったが、それでも男の好きなようにさせていた。
続けて男は片腕で腰を囲むと、よっと小さな掛け声を掛けて自分の太腿の上に吉継の両脚が渡るように抱え直す。いつの間にか胡座に組んだ上に座らされていることに気が付いた吉継は面倒そうな眼差しを男に送る。男は吉継の想像通り、如何にも人畜無害といった破顔で応えた。
やがていつもの様に事の前の戯れが始まる。白布に覆われた首筋に唇が幾度となく触れ、腰に回した腕の先にある右手が腰や太腿を執拗に撫で回す。男の親指の腹は、まるで骨と肉の間で蠢く虫達を入念に押し潰していくような動作を見せている。反論することさえ億劫な吉継は男の右の首元に頭の側面を預ける。
すると男は我が意を得たりとばかりに吉継の帯を緩めると、襟を開いてそこから上腕に指を滑り込ませる。その時ずきりと何処かが大きく痛んだが、最早吉継にはどうでも良かった。
それより、と吉継は今更ながら変化に気付く。瞼が重くて目が開けられない。痛くはないのに意識が遠い。意識が遠いということは手足が遠い。察した吉継は右腕を上げようとするが、何か目に見えない重石を載せられてしまったかのように動かない。
吉継は唯一動かすことが出来る目で男を見た。それすらも薄ぼんやりとしている様は向こうにも伝わったらしい。男は常の微笑みを翻し、薄情さが目立つ顔になる。その酷薄さこそがこの者たる所以であるとする吉継は、吐けるものなら溜息を吐いて笑うところだった。
「さっきのか? あれは北に行った時に最上から貰ったものでな。何でも『どんな痛みでも一晩だけ消し去る』薬だそうだが、ワシが飲んでも大した効果が無くてな。」
ふと何かを思い出したように笑いながら、男は尚も吉継の頬に自分のそれを擦り合わせる。それから「少しだけ夢を見た程度だ」と耳元で囁くように告げると、それを掻き消すように包帯の上から耳に唇を重ねた。これまでの痛みの代わりに重さが全身にのしかかっている吉継は、最後まで残していた聴覚情報の処理を投げ出して、両の瞼を閉じた。
目の前に再び闇が現れ、体中の輪郭がどろりと溶け出していくような感触が始まる。男がまた何言か宣っていたが吉継は理解出来なかった。
体中が重い。自分の体の範囲が分からない。意識が遠退く。肉と魂が渾然一体となって沈んでいく。不快では無いが、好みではない。これならまだ痛みの方が生きているという実感がある、とまで吉継は考えた。
もしかすれば、という言葉が不意に浮かぶ。もしかすれば次の目覚めは無いのかも知れない。そこまで思ったところで吉継の意識は途切れた。いつの間にか明日を望んでいる自分が居たことに気付くには、後一歩ほど届かないままであった。
おい、と背後から呼び止められる。振り返ると声の通り三成が立っていた。
「今から刑部の許へ行くのか。」
「ああ、そのつもりだ。何だったら一緒に行くか?」
「行かん。来るなと言われている。」
軍の指導教官とあって戦が無くなった後も黒紫の鎧を纏う三成は、短く答えながら家康に何かを差し出す。浅い手桶の上に被せられた筵を捲ると、中には十六に斬られた氷が入っていた。
二回りほど溶けているが、一人が食するには充分過ぎる量だろう。兵站管理に厳しい三成が城から持ち出したとは思えず、かと言って城下でこの量を得ようとするならそこそこの高値になるだろう。給金の使い途が分からないのできっと何処かに貯め込んでいる筈だ、とかつて口さがない彼の部下が言っていたことを思い出して小さく笑いながら、家康はそれを受け取る。
「氷か、また随分買ったな。」
「あれが寝込む時は大抵熱を出している時だ。冷やせば治る。」
「ここ最近急に暑くなったからな、高かっただろう?」
「分からん。城下の氷屋は刑部が入出を統制しているだろうが、店に物が無かったので京へ行った。」
「……馬で?」
「私が走った方が速い。」
「えぇ……。」
通りでとっぷり日が暮れたこの時間帯でも着替えずに鎧姿のまま城に居るのだと家康は把握した。
三成は普段二の丸にある練兵舎を兼ねた屋敷に住んでおり、この時間帯であれば湯浴みをして寝間着になっていることが多い。恐らく今日の訓練が終わった後にすぐ街へ出たのだろうが、先に述べた通り氷が売り切れていたので、わざわざ京まで買いに行ったのだろう。馬よりも速く持久力もある三成の驚異の身体能力を改めて思い知らされた家康は困ったように笑いながら、今貰ったばかりの桶を差し出し返した。
「ならお前が持って行った方が刑部も喜ぶだろう。わざわざ刑部の為に京まで行ったんだろう?」
「意味が分からん。何処で買おうと氷は氷だ。何故私が京に行ったことで刑部が喜ぶ? むしろあれは城下の氷屋が品切れだったことを気に掛ける男だ。体力が戻ってから調整の情報を取り纏めた方が有用だろう。」
貴様は何が言いたいんだ?と言わんばかりに、三成は胸の前で両腕を組む。理論尽くの結論に家康はぽりぽりと指先で頭を掻きつつ、うーんと言葉を考える。
「お前は刑部の体が心配だからこうやって見舞いの氷を京まで買いに行ったんだろう? ならそれを刑部に伝えてみたらどうだと言いたいんだ。」
「それを言って何になると私は問訊している。大体貴様のその恩着せがましい物言いは何だ。押し付けがましいにも程がある。」
「恩着せがましい上に押し付けがましいと来たか……。」
「刑部がよく言っていた。貴様ほど恩着せがましい物言いをする者も珍しい。加えて押し付けがましいのも常なのは最早手の打ちようがない、と。」
「しかも刑部か……。」
譲らない三成に、今度は家康が胸の前で腕を重ねて唸る。その家康の困った様子に対し、三成はフンと鼻を鳴らして応える。そしてもう用事は済んだとばかりに踵を返して、その場から去ろうとする。三成、と家康が慌てた様子で呼び止めれば、まだ何かあるのかという意味合いの視線が返ってきた。
「じゃあせめて部屋前の小姓に預ければいいだろう。何故ワシに?」
「貴様が指に包帯を巻かないのは刑部の部屋に長居する時だけだ。そしてどうせ貴様のことだ、こんな夜分に刑部の許へ行くのであれば匙の代わりに面倒を見るつもりだろう。ならば貴様に預けた方が早いのは自明の理だ。」
三成が溜息混じりに並べた事実と予想が寸分も違わなかったことに家康は声に出さず驚く。目を丸くしてみせた家康に気付いた三成は、より一層怪訝そうな声と顔で「何だ」と乱雑に投げ付けた。
「いや……よく見ているなと思ってな。」
「……下らんことを抜かす暇があるならさっさと行け。私は帰る。桶は厨にでも渡せ。」
今にも舌打ちしそうな表情で続けた三成は、今度こそ振り返るまいとする早歩きで遠ざかっていく。その背と手に持っている桶の蓋代わりになっている筵を見比べながら、家康は自分で意識しない内に溜息を吐いていた。
三成の言葉には嘘がない。言い淀んだならそれは三成の中で答えが出ていない問いかけに限られている。それだけにどう考えるべきなのかと家康は思ったが、恐らくさっきの言葉以上のものはないのだろうということにも見当がついていた。
家康はまた氷を見た。うっすらと桶の底に張った水は隙間なく置かれた頭上の蝋燭の火を浴びて、まるで水飴のようなとろみがあるように見えた。
しばらく考えてから家康は小さな藁の織物を元の位置に戻すと、廊下を進み始めた。そして懐に収めた薬を取り出すと、左袖の中に入れる。
それから「難しいな」とだけ呟いて、上へ向かう階段に足を掛けた。