風下る いちしの花は いなのみの眼前に広がる黄金の波は、熱を払う秋風にのたうっている。それを囲む真紅の枠は同じ風に流されながらも、僅かに頭を揺らすのみで動かない。天高く晴れた処暑の末侯に相応しいその光景は、目を病んだ吉継にとっては酷く毒なものであった。
「これは見事だな! 流石は天下の豊臣軍と言うべきか。」
兜の陰に引っ込めた目を薄く擦っていた吉継は、隣から発せられた大声に思わず左目を顰めて応じる。重く実りつつある稲穂と同じ色をした胴鎧と手甲が陽光を押し戻している。その凄烈さにも目を痛めた吉継は一度強く瞼を瞑った。慣れ親しんだ皮膚の裏の闇すらも侵するほどの陽がただただ疎ましい。
しかし隣の男はまるでそれが当然かの如く振る舞う。過ぎ去った真夏の残渣たる陽射しを浴び、それらに育まれた産物を良しとする。健全たるその行いが、吉継にとっては不快この上ない。二、三度の長い瞬きの後、吉継はようやく隣で上機嫌そうな笑みを貼り付ける男に視線を向けた。
「誰も居らぬのに世辞とは愉快なものよ。」
「世辞などではない、これはワシの心からの本心だ。ここまで広大な稲田は他に見たことがない。この地の者達はさぞ開墾に苦労したことだろう。」
よくもまあこれほどするすると言葉を紡げるものだとある意味で感心する。しかしながら自らが発した台詞の冒頭に否定はなく、吉継は改めてこの男の状況認識の早さに辟易ともした。
実際、自分達の周囲に人影は一切無く、誰かが潜めるほどの草木も無い。加えて今日は風が強く、少し離れただけですぐに声が聞こえなくなる。何か話すのであれば、ここまでの条件が整った場も中々無かった。
辺りの背の低い山々から流れる風の向きが変わり、ほとんど正面から受けるようになる。目元に上げた手首から流れる包帯の端が宙にはためく。乾いた目に水を含ませるように再度瞼を閉じた吉継はその耳に、獲物を眼差す低音を聞いた。
「……半兵衛殿はもう長くないのか。」
尋ねるにしては些か確信の強さが滲む言に、吉継は察する。元よりこの男は薬学に明るく疫に詳しい。そして力を信奉するあまりに単純化して骨格のみとなった大坂城の隅々に至るまで糸を張り巡らせている。当の本人はそれを絆だと嘯いていたが、吉継はそうでないことを理解していた。
吉継は少し返答を考えたかったが、その逡巡すら回答として読み取る相手ではそうもいかない。かといえば適当に茶を濁すことも明確な返答になる。面倒だとうんざりした気分で吉継は口を開く。
「ぬしの承知の通りよ。」
「……そうか。」
城内で囁かれている噂の大抵を把握している吉継がそう告げると、民の営みを見守る優しい瞳は一転する。吉継に馴染み深い筈のその色は、おかしなことに光を含んでなお朗々と煌めいている。気味が悪い、と吉継は口に出さず思う。
「秀吉殿はこれからどうされるつもりだ。半兵衛殿亡き後もこれまでと変わらず外つ国を目指されるのか。」
「さてどうであろ。あの御二方の意志は、あの御二方だけのものであるゆえな。箸にも棒にもかからぬ身のわれが知る由も無い。」
「お前がか? それは謙遜が過ぎるだろう。」
男はほのかに笑う。まるで初陣の若武者を励ます古強者のような快活で優しさに満ちた微笑みは、紛れもない己への自信に他ならず、男の何もかもが気に食わない吉継は一層顔を顰める。
「もし半兵衛殿が身罷られたら、……豊臣方の軍師はお前だけになる。」
流石に主君が最も信頼を置く参謀の不幸については声を潜める様に、吉継は更に苛つく。この男は何もかもを分かっていながら、否、分かっているからこそにこうして人を試す。そしてそれが対話であると誤認している。人に恵まれず育った末であると吉継は認識していたが、男はその部分でさえも取り違えてしまっているようであった。
「何が言いたい。」
目元に上げていた手を常通り胡座の膝に戻し、吉継は瑞穂の湖を睥睨する。隣の男は胸の前で組んだ腕を崩すこと無く同じ物を眺める。山風は変わらず正面から荒び、自分と男以外の物事の一切は認識の外にあった。
吉継は気付かれない程度に瞳を動かし、黄衣の男を見た。山吹の袴に中紅の腰紐、金黒の草摺に胴鎧。片腕のみの鎖籠手はその編目で細々とした白の反射を濡羽色に焼き付けている。
曝け出された逆の腕と腹は如何にも皆が望む通りの雄健さに満ちている、が吉継はその皮の一枚下こそが男の本質であると理解していた。
刑部、と官職の名で呼ばれた吉継はゆっくりと田に視線を戻す。今度は男が腕を下ろし、包帯と面頬で隠された横顔を真っ直ぐ見つめてくる番だった。
「ワシはこのまま豊臣が外つ国にまで戦火を広げていくことが恐ろしくて仕方が無い。刑部、豊臣に唯一残った軍師のお前なら」
「何故ぬしがそれを恐れる? 戦うは所詮下々の兵がやること、上々のぬしはその高みより見下ろせば良きだけよ。」
「お前は本当にそう思っているのか? 知っている者の居ない地で、若き命が散らされることを見ているのが本当に許されると」
「ではぬしが行くか? そこまで言うのであればぬしが兵どもと共に海を渡り、大陸の民を箒れば良い。ぬしは無駄死にが減らせ、太閤は勝ちを得る。やれ両者万々歳の大団円よ。」
熱の籠もり始めた声に冷や水を浴びせかければ、熱した石にそれをしたと同様の蒸気が沸き上がる。それは男の場合奥歯を苦々しく噛み締めた顔であり、吉継はそれがここ最近見ていないものであることに気付いた。少なくとも豊臣に参じてすぐ以降には全く見られなくなっていた類の顔であった。
吉継は記憶との比較でその理由を察し、思わず眉間に皺を寄せる。この男は自分が思っているより厄介かも知れない。第二の皮膚たる白布と白赤の鉄で覆っている己よりも、心底を隠すことに長けている。清廉潔白な外見と言葉の裏にある腹の中が探れないのは、この男が紛れもない戦国の世の育ちであるゆえだと吉継は思い知らされる。
だか吉継の危惧には気付かないのか、男はいつの間にか握り込んでいた拳を解き、視線を吉継から逸らす。その動作でようやく吉継は自分が殴られる瀬戸際にあったことに気付き、悟られないように乾いた喉を唾で湿らせた。
「………外つ国に行かないという選択肢は取れないのか。」
「太閤は折れぬ。死に際で賢人がそうであれと望んだならば、最早止められぬ者は居らぬであろ。その程度、ぬしであればよくよく知ってのことと思うが。」
「………………。」
男はもう一度拳を握りかけて、それを誤魔化すように再度胸の前で腕を組む。そして今度は体ごと方向を変え、再び風に靡く稲穂を見つめた。
吉継も同様に視線を目の前に戻す。山の緑と空の青で囲まれた金は、話の間に随分と縮んでしまったように見えた。この景色を毎日のように眺めていれば、あの幻のように遠大な計画さえ夢とは思えなくなってしまうものなのかと吉継はふと考える。夢と現の最中に何とか命を繋げている身の上ではどうにも理解出来ない話ではあったが、隣の男には理解どころか想像すら出来ないことなのだろうとも思った。
「ぬしは夢を見るか。」
不意に吉継が尋ねた。水気の無い乾いた風はここ数日の晴天を表しており、布越しながら衰えた皮膚に降りかかる陽の光を和らげるだけの涼感がある。久方ぶりの心地良さが口を軽くしたのだと吉継は思うことにした。
「夢、か? いや、最近は見ていないな。」
唐突な問い掛けながら先までの強張りを解いた家康は、人懐っこそうに首を傾けながら答える。違うと吉継は無言で顔の前で手を振り、輿ごとくるりと向きを変えた。その動きに合わせるように、家康も半身を捌いて吉継に向き合った。
「それではない。この先のこと、豊臣の天下の先に見る『夢』はあるのか?」
「ああ、それならば勿論。皆が手を取り合い、助け合い、支え合う、心穏やかな世だ!」
再び見せた表の腹に、吉継は少し首を引いて半眼を向ける。明らかに芳しくない反応に家康は顔の前で握った拳の行き先を惑わせる。そこでようやく機嫌を直した吉継は、皮肉そうに唇を歪めて笑ってみせた。
「では聞くが、われの手を取るものは居るか?」
「無論だ! 病など気にすることではない、ワシがお前の手を取ろう。」
「われがぬしの手を? 冗談はよさぬか徳川。われがぬしの手など求むる筈が無かろう。」
「だがワシはそれでもお前の手を取り、お前の力を生かせる場所へ連れて行くぞ。」
「それが無意味だと言うのよ、この愚か者めが。」
それまで声色に含めていた笑みを一気に怒気へ変え、吉継は唸る。その言葉の裏にある本意を察したであろう家康は、一瞬だけ虚を衝かれた顔を見せてから険相を作った。
「われの手を取る者など居らぬ。われを助ける者など居らぬ。ましてや支え合うなど夢のまた夢よ。」
「それは違う、お前には力がある。物事を見極め、先を読む力がある。」
「ならばそれを失くした時にわれに残るものは何だ? 未だ蝕むをやめぬ痼疾と最早人としての形をなさぬ身のみよ。そんな者を一体誰が助ける?」
「ならお前は何故豊臣に居る。力なくば不要と切り捨てる秀吉殿に何故従っているんだ。」
「何故分からぬのだ徳川。太閤はわれを切り捨てるからよ。」
飲み込まれた息の音が生々しく響く。予期していない反応だったのか、家康は吉継の返答に言葉を詰まらせ、凍り付いた表情になる。吉継はヒヒッと声を上げて笑うと、胡座の膝の上に左肘をつき、下から覗き込むようにねめつけた。
「ぬしの望みし世はわれの求める世ではない。力失いし後にまでぬしのような生温い同情と憐憫で生かされるなどわれはマッピラよ。われが太閤に付くはな、太閤がわれを殺すからよ。」
「…………………」
「徳川、何故ぬしは皆が自分と同じように生きると考えられる? ぬしのように頑健で、幸福で、他に恵まれた人生が過ごせると考えておる? ぬしのそれは、ぬしが得たものではなかろ?」
吉継が含意を込めて尋ねれば、家康の眉間に深い皺が刻まれる。明らかに不機嫌を示す家康を見て上機嫌になった吉継が何寸かだけ輿を上に浮かせると、二人分程空いていた間を半分だけ詰めて寄った。
「ぬしは幸福よな、徳川。生まれながらにして戦国最強が傅き、十万の兵民が侍る。そして絆とやらでなおもその数を増やそうとしておる。このまま進めばいずれ日ノ本中がぬしの手の中にあるやも知れぬ。」
刑部、と家康が名を呼ぶ。その声には不服と同情が含まれていて、吉継にとっては不快極まりない音に過ぎなかった。恐らくそれは相手も同じだろうと吉継は考え、殊更侮辱するように唇を歪めて笑みを作る。
「だがわれは、われだけはぬしの手を取らぬ。ぬしに助けを求めぬ。ぬしの支えを拒む。この世の全てがぬしを選んだとしても、われはぬしを選ばぬ。
よく覚えておけ徳川、ぬしの差し伸べる手を払う者が存在することを。ぬしの全てを拒む者が、ここに居るとな。」
風さえ入り込めない程の至近距離で吉継は家康に捲し立てる。家康はなおも苦い表情のまま吉継を見下ろす。吉継はその瞳が自分よりも遠くにあるものを見ていることを察し、訝しげに両目を眇めた。
この男は初めからそうだった。空に輝くものの全てを手に入れようとする大胆さと、それを得る為の翼を絆などという脆弱な糸を丹念に撚り合わせて作るだけの執拗さがあった。それは自信と呼ぶには程遠いほどの傲慢さで、己が身の邪魔になるものは全て焼き尽くさんとするほどの強欲そのものである。
しかしながら表に見せる腹は白々しく、嘘偽りを一切感じさせない瞳で皆の為の泰平の世を謳う。何がこの男をそこまで駆り立てているのか。世の狂気の大半を見てきたと自負する吉継であっても、目の前にいる男のそれを見通せている実感は無かった。
そうしている内に家康は一度強く目を閉じると、まるで溜息のような息を口から吐き出し、ゆっくりと瞼を開ける。その顔はついぞ険しく、反射的に吉継は舌打ちをしてしまった。それを誤魔化すように輿を回した吉継は、これ以上話すつもりはないと家康に背を向ける。
去り際に失望とも諦念とも受け取れる声で名を呼ばれたが、吉継は振り向かなかった。遠ざかる気配と視線を断つように、山風が荒々しく過ぎ去っていく。吉継はその場を離れながら、主君の権威に依って生った慈恵を目の端に映す。
揺れ続ける金の穂先が白く瞬く。紅の花弁は無力を示すように天へ向けて指を開く。高きに臨む蒼穹だけが地を這う虫達を見下ろしており、吉継が世を望まない理由はただそれだけで充分であった。