常の通り
寝込んでいる間に積み上がっていた書類が半分になったところで、吉継は筆を置いて自分の肩を揉む。ふうと息を吐きながら体の向きを万年床の方向に回し、褥の上で盃を傾けている家康の隣へずりずりと座したまま移動する。何事か思索に耽っていたらしい家康はその音で吉継の行動に気付き、小さな笑みを浮かべながら場所を作った。
「終わったか。大変そうだったな。」
「そう思うならぬしがやれ。一日二日床から出られぬだけでここまで溜まるのは流石に御免蒙る。」
「まぁ一理あるな。お前が動けないだけで政が滞るのは良くない。」
行灯の前に置かれた空の盃を家康が吉継に手渡す。漆塗りのそれは軽く手に馴染み、疲れて感覚が薄くなっている吉継の指先でもあまり意識せずに持ち上げることが出来る。家康が薄手の土瓶から器用に酒を注ぐ様を眺めながら、吉継は襟周りを少しだけ緩めた。
「ではどうしようか。あまりお前もワシに任せたくはないだろう?」
「いくつか見繕ってはいるが、実地での経験がまだ足りぬ。後二年は掛かろうな。」
「二年か、流石に長いな。そもそもお前の仕事をお前並みに出来る者は早々居ないからな。半兵衛殿は良き目をお持ちだった。」
「贅沢を言えばもう一人ほど置いておくべきであったがな。棺桶に片足を入れておるは何分賢人のみでは無かったというのに。」
「それがワシか、竜の右目だったということだろう。」
「才しか見えぬ目も考えものよな。手に入らぬならば滅せとは賢人らしい懸念よ。」
吉継にしては珍しい親愛を込めた皮肉を察したらしい家康は薄く笑う。ふふふと何が面白いのか分からない微笑みを受けながら吉継は注がれた酒を飲む。水よりもとろみのあるそれはじんわりとした熱を喉に齎す。以前家康が持ち込んできた物よりも穏やかな味わいであるからにして、恐らく南よりも北の出の物だろうと予想する。
「……どうした徳川、その口は。」
左の口端の血溜まり。久方ぶりの一献を堪能していた吉継は、ようやく見た家康の顔に妙な傷があることに気付く。指摘された家康はああと忘れていたような声を出してから、隠すように右手の先でさする。
「いや、ちょっとな。」
「今や豊臣の重臣たるぬしが気安く殴られるなど考えられぬな。どうせ視察か何かで民に殴られたのであろ。」
吉継の予測に家康は言葉を詰まらせる。その反応自体が答えだと理解している吉継は何とも思うこともなく、家康に続きを促す。家康は一先ず吉継の盃に酒を入れてから一息吐き、自分の杯に半分残ったそれをくるりくるりと回してみせた。
「お前は何でもお見通しだな。その通りだ。」
「前会うた時には無かったが……ああ、北か。さしずめ最北か奥州か。」
吉継が壁に貼った暦と行灯の前の酒瓶に視線を向けると、家康は回答の代わりに手を止めた。そして盃を一気に干すと、些か神妙な手付きで褥の外に空のそれを置いた。
「奥州だ。最上から備蓄の量を偽っている可能性があると聞いてな。少しだけ見てみようと思って行ったら見つかって殴られたよ。」
「まあ殴られような。奥州の地では未だ竜の加護ぞあると意気軒昂な輩が絶えぬと聞く。」
「ああ。……独眼竜は未だ民に慕われ続けている。それだけであの男があの地で成した事がどれほどのものだったのかが分かる。」
家康は片膝を立てて座り直す。人差し指で怪我の部分を何度も触れながら視線を落とす家康に、吉継は何も言わず酒を口に含む。
かつて奥州を治めていた独眼竜こと伊達政宗は死んだ。殺したのは他ならぬ自分とこの男の策があってのものであろう。民の命を盾に、背を守る右目を閉じさせれば何てことのない戦であった。吉継にとって伊達やその従者であった片倉はその程度のものでしかないが、国主としての親近感があったらしい家康にはまた別の思いがあるらしい。
相変わらず女々しい奴だと思いながらも、その部分に付け込んでいる自覚がある吉継は口を噤む。しばらく二人の間には吉継が盃を傾けて飲む際の布ずれの音だけがあった。二度目の底を見た所で、ふうと胸に溜まった息を吐き出し、家康の杯の横に自分のそれを並べた。
「それは由々しき事態であるな。やれ、われも行くとするか。」
「いや……これはワシがやろう。最上もそれが目的でお前でなくワシに告げたのだろう。」
「あれがそこまで考えて宣うとは思えぬな。ぬしは要らぬ、蜻蛉だけ寄越せ。糧を蓄えるのであれば土地も要りよう。地図で見当を付ければ然程時も掛からぬ。」
「お前にわざわざ出てもらわなくとも」
「ぬしの役目は『それ』では無かろう。」
抽象的な代名詞を強調して言えば、吉継が考えた通り家康は黙り込む。吉継は何度目かも分からない溜息を吐きながら、改めて家康に向き直る。
「驥足を展ぶが豊臣よ。ぬしがかけるべきは良き為政者の面、空吹の面はわれよ。」
「お前はそれでいいのか。」
「はてそれは何の痛心か。今ですら黒々腹の毒蛇たるわれに何ぞ痛むものがあるものか。」
城下での仇名を載せて嘲笑ってみれば、通称を呼んだ唇が散々躊躇った末に閉じられる。これまで幾度となく見てきた家康の良心を、またも一笑に付した吉継は尚も引きつった笑い声のまま口元の傷を包帯巻きの親指で覆ってやった。
枯れきった皮膚の、その布越しの、そのまた下にある傷口へ、ほんの少しだけ力を入れる。家康の眉間にその分だけの力が籠もる。その反応に上機嫌になった吉継はヒヒヒと笑いつつ、残りの指を顎の下に添えたまま唇の形をなぞった。
「美しき大義名分とそれを背負い証するだけの健全さ。こればかりはわれにも三成にも、ましてや太閤にも叶わぬものよ。ぬしにしか出来ぬ大難事、その為であればわれの身の上など些事に過ぎぬ。」
まあ実際些事であるしなと続けてみせれば、家康はますます眉間に力を込めて哀しそうに瞼を下げる。だからこそであるのになと無自覚な家康には何も言わず、吉継は降ろされていたその左手を取った。
厚く締まった皮膚、その上に幾筋も走る刀傷。他を害する為に歪められた拳骨は今や深くに更けた夜闇の中でしか現れない。落陽の後の帳に月を持ちえないこの男にとって、星たる己は相当に眩しいらしい。眩惑、という言葉を目の裏に浮かばせながら、吉継は重ねた手をこと優しく撫でてみせた。
「われが良きに取り図ろ。ぬしはわれの成すが天下の為にならぬと判じた時に止めるが役よ。その為のものは全てこの手の内に。」
刑部、と唇が動く。自分に向けられた瞳の色に何処とない陶酔を見た吉継はゆっくりと手を離す。そして再度盃を持ち、中身を催促する。淀みなくいつもの軽妙さに戻った吉継に家康は一瞬だけ虚を突かれた顔をしてから、やれやれといった風な仄かな笑みを口元に浮かべる。
それはこっちの気分よなと思いながら吉継は注がれる酒を見つめた。まるで清流のように澄んだそれは漆の紅に輪を作り、満たしていく。空の器の無意味さをよく知る吉継にとっては、何とも皮肉めいた光景であった。