蝶様借景
三成からの文を携えて家康の屋敷にやってきた左近は、玄関先で出会した顔見知りから『主は縁側に居る』という話を聞いたのでわざわざ外から家の脇に入っていった。
花の咲いている細い木や、咲いてない太い木。腰ぐらいの高さに固い葉が生い茂り、その向こうにある砂利は何かの流れを表すように整えられており、所々に松の大木とそれらしい岩が置かれている。品格や風情などというものにさほど縁が無い左近からしてみても、庭という概念自体がほぼ皆無な(というより屋敷自体が練兵舎である)三成の屋敷とは全く違う『それらしい』庭である。
へー、ともほー、ともつかない中途半端な感想を小さく吐き出しながら左近が先へ進むと、砂利の終わりに視界が開けた。少しの池と石灯籠と広く取られた空き地は三成の屋敷よりも少しは狭いが、それでも充分なものだった。
縁側、と思い浮かべた左近は家に沿って家康の姿を探す。すると丁度自分に背を向ける形で片脚を縁から降ろして座っている。背中の丸まりから何か本でも読んでいるのだろうかと考えた左近は、いつも三成にするようにそっと至近距離まで近付き、身体の向こうを覗き込む。
「うわっ、何すかそれ。」
「あっ!? 何だ左近か、驚かすなよ……。」
全く気配に気付いてなかったらしい家康は背後から唐突に話し掛けられた声にまず驚き、それからそれが左近であることを確認するとほっと胸を撫で下ろす様を見せた。
一方の左近は多少の疑問を対象に差した指先に載せる。それ、と言われた家康は一拍遅れてから、ああ、と答えた。
「綺麗だろう?」
「……? まあスゲーのは分かるんすけど、俺にはちょっと分かんねえっすね。」
仄かに笑う家康に左近は首を傾げてみせる。帰参時の事情についてまだ蟠りが残っていない訳では無いが、この度の反応はそれとはまた違った部分にあることをお互いが察していた。
単純な価値観の相違。それでも他者に寛容な家康は気にする様子を見せることなく、それに歌のようなものが書かれた宿紙を載せて、木箱に仕舞った。
「それで? わざわざお前が来るということは、三成から何かあるのだろう?」
「あ、そーでした。これなんすけど……」
左近は懐に差していた書状を家康に手渡す。家康はそれを開き、いつものように文を読んだ。
襖越しに小姓から告げられた名前に吉継は少し考える。それから入室を許可すると、文机の右側に積み重ねっている未処理の書状の一番上を取った。
ありがとう、といつもの明朗な声で小姓の労をねぎらった後、自分の諱を呼ぶ。面倒そうに吉継がそちらを向けば、淡朽葉の羽織に中黄の長着を合わせたいつもの上着の家康が立っていた。
「何用か。」
「お前に贈りたい物があってな。」
「ほう、吝嗇家のぬしにしては珍しい。」
「そうか? 別にワシは自分がケチとは思ったことはないがなぁ。」
濃緋の袴を折りながら手に持っている木箱を間に置き、家康は吉継の左隣に座る。多少の興味が引かれた吉継は書を読むのを止め、近くにあった円座を家康の側へ置いて渡した。
家康は円座の上で胡座を組み、木箱の折紐を解く。そして蓋を開けると、まず中に入れていた紙を吉継に渡した。
「『花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらむ』……源氏か。ぬしも随分皮肉が巧くなったものよな。」
「よく分かったな。でも皮肉のつもりでは無いんだが……。」
「今この時にこの書をわれに渡す時点で皮肉であろ。」
ヒヒヒと吉継は笑う。近々秀吉が桜の花見を兼ねた大茶湯を開くにあたって、早々に裏方に回った上で茶会自体には出ないことにしている自分の噂を何処かで耳聡く聞き付けたのだろう。回りくどい当て擦りではあるが、過日の同胞よりかは詰めの甘い立ち振る舞いに吉継は仄かな懐旧を口元に載せる。
その時、喉に僅かの引っかかりを感じた吉継は少しだけ患部を手を擦りながら、歌がしたためられた紙を箱の傍らに置く。それでも少しの機嫌の良さを保ったまま、平たい箱の中から家康が取り出したものを覗き込む。
が、進物と称された『それ』を見た吉継は、今までの上機嫌を一瞬の内に引っ繰り返し、むしろ普段よりも険の強い表情になった。
吉継は包帯で覆われた人差し指の先をそれに向ける。しかしながら家康はそんな吉継の変化を察する様子も見せず、先と同じ柔和な笑みをそれにも向ける。
「綺麗だろう。もっと早くに渡したかったんだが、中々時間が取れなくてな。結局年を跨いでしまった。」
「悪趣味な。」
頬を朱に染める様に苦労を語る家康を吉継は一言で吐き捨てる。その言葉でようやく吉継の不機嫌に気付いた家康は不思議そうに首を傾げる。
「そうなのか? お前はこういったものが好きだと思っていたんだが……。」
「違う。ぬしが、われに、これを渡すことが悪趣味だと言っておる。」
吉継からの指摘が分からないという風に家康は困ったように眉を八の字に下ろす。その行為に他意が無いことが腹立たしく、吉継はこの憤りが家康にも分かるように音を立てて大きく息を吐き出した。
家康と吉継の間には皿が一つあった。白磁の平皿に檳榔子黒が広がり、箇所箇所に差し挟まれる赤橙や黄蘗や紺瑠璃は一つとして同じ形をしていない。染付や象嵌の類いで施された装飾であれば正に絢爛豪華という他ない見事な作であった。
だが今吉継の目の前に置かれている『それ』は違った。吉継は皿の縁に触れる。そして内の装飾の輪郭に沿って指先を動かすと、白布に黒粉が浮かんだのを見て、吉継は更に眉間の皺を深めた。
皿の上には蝶の翅が広がっている。
中央には黒地に白と朱の縁取りがある大きな翅が一双。その上下を埋めるように黄の強い翅が一双。外側は大小拘り無い色とりどりの翅が幾数にも敷き詰められ、七寸程の皿の表面殆どを埋め尽くしていた。正気とは思えない沙汰を眼前に突き出された吉継は苦々しい顔で口を開く。
「何だこれは。」
「何って、見た通りの品だが。」
しかし家康は吉継が何に不服を抱いているのかを未だに理解していなかった。吉継が口を噤んで弁明を促すと、家康は胸の前で両腕を組んでうーんと軽い調子で唸ってから、はたと思い出したように語り始めた。
「去年の夏の初めぐらいにな、ワシの屋敷の薬草園でその真ん中に置いている蝶が動けなくなっていてな。可哀想だと思って部屋に持ち帰って世話しようとしたんだ。
でも死んでしまってな。それで埋めてやろうとは思ったんだが、忙しくてそんな暇が取れなかったんだ。
それで夏だったからか、その内に蝶の胴体のところが腐ってしまってな。でも翅は問題無さそうだったから、それだけ切り取って保管していたんだ。
だったらワシが蝶の世話をしようとしていたのを身の回りの者たちが知っていたみたいでな。気が付いたら色んな蝶が手元に集まってきてたんだ。それでどんな噂が広がったのかはよく分からんが、他国に出向いた時にも渡してくるものがちらほら居て……。」
「それで全部生かそうとしては殺して翅を取ったのか。」
記憶を一つずつ辿るような家康の話しぶりに辟易した吉継は、敢えて感情を逆撫でするような言葉を選んで放つ。その刺々しさに家康の口は一旦閉じられるが、一瞬間を置くとああそうかとようやく合点が行った様子で再度開かれた。
「違う。ワシも出来れば冬を越させたかったんだが、菊の頃からみな動きが鈍くなってしまって……。」
「当たり前であろう。」
「そうなんだ、当たり前だったんだ。別の蝶同士では卵を産まないことも知らなくてな……。」
みんなに教えてもらいながらどうにかしたかったんだが、と落胆した様子で話す目の前の男を吉継は気味が悪いと感じていた。春夏に飛ぶ蝶は秋口まで持てばかなりの長命であるし、同種でなければ繁殖しない。通常であれば幼少の時期に通り過ぎている筈であろう事項を、国主でもあったこの男が今まで知らずに来ていることが吉継にとっては不気味で仕方が無かった。
皿から視線を外した吉継はその隣に置いた書を改めて見る。事情がこれなら、添えられた歌の意味も変わる。皮肉ではない、という家康の言葉は恐らく本意だとすると、歌の向きが逆になる。返歌こそが進物になる。
「……『こてふにも誘はれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば』か。」
「よく覚えてるな。流石は半兵衛殿に次ぐ悟性だ。」
過去よりも明らかに蓄積量が増大した記憶の中から対の歌を詠めば、友の称賛を借りつつ家康は優しく微笑んだ。その栗色の瞳をより鮮明に瞬かせる淡朽葉と中黄の上着にも気が付いた吉継は、家康らしからぬ袴の色の理由をも察した。
「ではそれは山吹の襲を念頭に置いたものか。」
「凄いな! いや気付かれなかったら寂しいな〜とは思っていたんだが、気付かれたならそれはそれで結構気恥ずかしいものだな。」
「ならその袴は……。」
「ああ。経紅緯洗黄、に似た色のを出したんだ。あの頃には中々着れなかった色だからなぁ。」
素直な嬉しさを声色に込めてみせる家康に吉継は頭を抱える。山吹と赤朽葉の色目まで引き合いにして春秋論争を持ち出せる男が、何故蝶の生死の都合すら今まで知らなかったのか。今更ながらに吉継は徳川家康という人間の底抜け加減に背筋を冷やす。
過去に後悔を捨てた身ではあるが、流石にここまで来るとあの時の家康に手を差し伸べた自分を悔いてしまいそうになる。しかしながらここで堰き止めているからこそに豊臣という地盤が安住しているのだとすれば、多少のことは受容すべきなのだろうと吉継は諦める。
「……『七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき』。」
「ん? それは何だ? まだ読み進めてないんだが後で出てくるのか?」
「いや、何……八重山吹と聞いて思い出しただけよ。大したものではない。」
そうかと答えた家康はまた蝶の翅が敷き詰められた平皿を見る。その眼差しには翳りが無い。かつてはこの翳りの無さこそが嫉妬の対象であったが、今では憐れみですらない。
太陽をその天頂に掲げる者は何故誰も彼もこれほどまでに手強いのか。戦乱の世を終えて尚悩みが尽きない吉継は、喉の引っ掛かりを解消する為に一度だけ咳払いをした。