Closed positionおもむろに差し出した左手を訝しげに睨まれて、まあ普通はそうなるだろうな、とクレトは内心で自分の行動を毒づいた。つくづく自分は配慮の足らない男だと。
少し前から街は雨に降られていた。室内にまで聞こえる程激しい降り方ではなく、窓に当たる水滴は霧吹きを掛けたように柔らかく細かい。
"昼から夜にかけて街全体は雨模様に。大雨になる気配はないが、雨は長時間降り続けると予想される。外出の折は傘を持って出かけるように。"
昨夜見た天気予報の通りであった。雨の日は嫌いではない、こんな時であればかねてよりやりたいと思っていた事を実行に移せるのではと、ソファで寝転びまどろんでいたエキニシィを散歩に誘った。
街の人間の多くは雨を嫌っている。天候の変化に敏感な気質であったり、水に嫌悪を示す特徴を精神的に多く有しているからだ。案の定、傘要らずの二人が揃って訪れた交差点は、平時より車両の通りも少ないのも相俟って人気が一切無かった。所々がくぼんだアスファルトには水溜まりが幾つも出来ており、煩わしさは感じないまでにしても、服や肌を濡らす雨は降り続けている。
「さあ。」
そこで冒頭に至る。クレトはおもむろにエキニシィへ手を伸ばした。二人でダンスをしたかったからである。そもそも雨天に外へ繰り出した理由はここにあり、しかしその説明をエキニシィに一切しないでいた。だからいきなり雨の降る中散歩に誘われ、誰もいない交差点のど真ん中で手を差し出されてもその意図を理解など出来よう筈もない。キョトンとしたまま立ち尽くす姿に苦笑し、一言謝罪を添えてから、
「踊りたかったんだ。お前と二人きりで。」
クレトは流れるようにエキニシィの固く組まれていた腕をほどき、自由になった手を掬い取った。棒切れのように貧弱でみすぼらしい自分のとは違う、太く逞しい男の手。短く切られた爪は爪切りではなく、自分で噛んだか毟ってしまったのだろう。形は少し歪で、縁の部分の皮は逆剥けしていた。傷は既に治っている、雨に濡れて痛む訳もないと理解した上で、同時にこの感情は大袈裟であると自嘲した上で、クレトは痛ましいと感じた。自分の知らない所で何を思い、小さな傷を重ねているのか。それを話してくれるいつかの為、どうあってもこの男の傍にいれたらとも。
「────……そんな事で…。」
エキニシィの指先に力が籠る。振り払う意図ではなく、クレトの手を握り返す為だった。雨に打たれ続けた身体はシャツが貼り付くくらいにまで濡れていて、モノクルに滴った雨粒が重みに耐えきれず下へ落ちていった。感傷的な気分になっていたクレトには、まるで涙を流しているように見えた。
「構わないかな。」
伺いを立てるように、しかし有無を聞かない素振りで握った手を引く。誘われるままに一歩を踏み出したエキニシィが水溜まりに片足を突っ込んだが、軽く舌打ちをしただけでそれ以上気にする様子はなかった。
「言っとくけど踊れやしねえぞ。」
「ダンスなんて振りで良いんだよ。ほら。」
あれこれと文句を言うのを聞き流しながら、スマートフォンから手頃な音楽を選びポケットへ戻し、右手をエキニシィの腰に添えて引き寄せる。ぎょっとした表情で後ろと前とを見比べる姿が少しだけ面白かったけれど、表情には出さずクレトは続けた。
「あちこち向いたりしないで、私の方を見て……。
そう、音楽に合わせてリズムを踏む…。何となくで良いんだ、何となくで。」
どうって言われても。小言でそう呟きながらも足並みを揃えようとしている。時折テンポを落とし、離れそうになる身体を引き寄せて、こういうのは街の外では出来なかったな、と。クレトは目の前にいるたった一人を見つめながら、そんな事を頭の端で考えていた。
「…誰かが見てたら………。」
間奏に入った辺りで赤紫の瞳が不安げに揺れた。リードを維持したままクレトが首を傾げる。相変わらず覚束ない動きだが、リズムは崩れていない。
想定していたよりもずっとずっと踊りやすかったのに。
「うん。」
腰に回した手に力を入れ直す。
「とうとう気が狂っちまいましたって、言えば良いかな。」
眉を下げながら、最後は尻すぼみになりながらエキニシィはそう溢した。何がおかしいんだ、どうしてそんな顔をするんだ。喉元まで出掛けた非難の言葉を寸での所で呑み込む。
その代わりに、一際力強く足を踏み込んで強引にエキニシィの意識をダンスへと向けさせた。
「うわっ!!」
水溜まりに飛び込んだ二人分の足が、勢いよく水を跳ね上げる。頬にまでかかった飛沫を振り払い、わざとやりやがったなと言わんばかりにこちらを睨んだエキニシィに、してやったりだとクレトは笑った。