エスパー少女と吸血鬼 〜焼肉大作戦の巻〜登場人物紹介
キュラド
男性/20歳くらいの見た目/不老
魔術を使う吸血鬼。研究が好き。傲慢で高貴。好奇心旺盛。
19年前のある日、吸血鬼として目を覚ました。
この世では吸血鬼という存在は滅んでいる為、ハッキリと自分は吸血鬼であるとも言い切れず、本当は何者であるか探している。
日光が苦手な夜行性。昼間は眠っている。
魔術で作った城に住んでいる。(異空間。窓がない。内装のみ存在している。来るたびに内装が変わる)
消化器官が機能していないので飲食はできない。
研究に没頭しすぎて血を摂取することを忘れ、行き倒れていたところをSPに救われて以来、彼女を『研究対象』にしている。人間との関わりはSPがほぼ初めて。
SP
女性/響星学園高等部1年
生まれつき超能力(サイコキネシス)が使える少女。
超能力のせいで周りからは気味悪がられ、孤立していた。吃音があり、話すことが苦手。
現在は地元を離れ、学園の寮に一人暮らし。中学は地元の公立に通っていた。
知らない土地で、内部進学の生徒が大半を占める中に飛び込んできたため、入学以来ずっと1人だったが、ハナヒメが初めての友達となった。
キュラドを助けたことをきっかけに『研究対象』にされてしまい、最初は戸惑っていたが、関わっていく中で彼の抱える孤独に気付き、寄り添うようになった。
超能力の暴走を抑える方法を考案してくれたり、吃っていても遮らずに話を聞いてくれるキュラドのことをとても大切に思っている。
ハナヒメ
女性/響星学園高等部1年/内部進学生
お金持ちのお嬢様。毎日車で送迎されている。隣のクラスに婚約者(リョク)がいる。
泣き虫であり、泣くたびに教室を飛び出して行くので授業は不在がち。周りからは「関わるのは面倒」だと思われていて、特定の友達はいなかった。SPと友人になってからはあまり泣かなくなり、授業にもきちんと出ている。
SPが泣いているところをハナヒメが助けたことをきっかけで仲良くなった。2人はお互いが初めての友達。
入学以来ずっとコイカミが見えている。
キュラドのことは「エスさんの大切なお方」と認識。正体も知っている。
コイカミ
女性/15歳くらいの見た目
自称『恋の神様』気軽にコイカミちゃんって呼んでね。
響星学園の七不思議として語られている存在で、恋をしている人にしか見えない不思議な存在。
ピンクのワンピースを着ていて、背中に天使のような羽を生やしている。
その正体は、数年前に中等部で亡くなった生徒の幽霊で、学園に縛られている地縛霊。中等部で亡くなっているのに高等部に現れるのは謎。
幽霊なので足が透けている。
自分のことが見える一部の生徒の恋バナを聞くことを楽しみに日々を過ごしている。
キュラドとは軽口を叩き合う友人同士だが、コイカミは一方的に想いを寄せている。
リョク
男性/響星学園高等部1年/SPやハナヒメの隣のクラス
ハナヒメの婚約者。幼馴染で又従兄弟。
育ちは良いがわがままで独占欲が強く、ハナヒメの周りの人間にとにかく噛み付く癖がある。
身体が弱く、病気がち。元気な時の方が珍しい。
最初はSPにも噛みついてきたが、ハナヒメの変化を見てSPのことを友人と認めるようになった。
キュラドのことも最初は怪しい大男だと言って噛み付いていたが、男として憧れを抱くようになり、師匠と呼ぶようになった。
ある日の夜更けのことです。
SPがスマートフォンの画面を操作していると、バイブレーションが短く震えました。母親からの「学校はどう? ちゃんとご飯食べてる?」という、いつもの心配そうなメッセージです。
SPは少しだけ表情を緩め、慣れない手つきで返信を打ち始めます。
『大丈夫だよ、ヒメちゃんたちによくしてもらってるから学校も楽しいよ』
文字を入力するSPの肩に、キュラドが背後から音もなく顎を乗せました。画面を覗き込む紅い瞳が、不満げに細められます。
「……おい。俺のことは?」
「ふぇっ!? ……あ、き、キュラド……。……び、びっくり……させないでよ……」
SPは慌ててスマートフォンを隠そうとしますが、キュラドの長い指がそれを制し、画面を固定しました。
「……ハナヒメと、リョクのことばかりではないか。俺がこれほどお前の面倒を見てやっているというのに。その『母親』とやらに、俺という存在を報告しないのは、統計的に見て不自然ではないか?」
「そ、それは……っ! ……だ、だって……『吸血鬼の恋人ができました』なんて……い、言えないもん……っ」
「別に吸血鬼と言う必要はないだろう。……そうだな。『知的で高貴な大学生と深い仲になった』とでも伝えておけ。嘘はついていない」
「……ぜ、絶対……だめ……! ……お、お母さん……し、心臓が……止まっちゃうよ……っ」
SPが必死に拒むと、キュラドは彼女の肩に長い指先を這わせました。
「フン。お前はいつもそうだ。外の世界では俺を『いなかったこと』にしようとする。……不愉快だな。俺という存在がお前の生活のうち、どれほどの割合を占めているか、その端末の向こうの者に理解させてやりたいものだ」
口では傲慢なことを言っていますが、その声には子供が自分だけ仲間外れにされたときのような、微かな拗ねが混ざっています。SPは、母親への送信ボタンを押すのを一度ためらい、少し考えてから、メッセージの最後に一言だけ付け加えました。
『あとね。すごく意地悪だけど、とっても大事な人もできたから、心配しないでね』
「……これで、い、いい……?」
SPが顔を真っ赤にして画面を見せると、キュラドは一瞬、虚を突かれたように目を見開きました。それからすぐに、勝ち誇ったような、けれどどこか照れくさそうな笑みを浮かべて顔を背けます。
「……意地悪というのは不正確な表現だが、まあ良いだろう。早く送れ。返信を待たせるのは時間の無駄だ」
そう言いながら、キュラドは満足そうにSPの肩を抱き寄せました。外の世界には決して明かせない二人の関係が、小さな画面の向こう側へと、ほんの少しだけ形を変えて伝わっていきました。
送信ボタンを押した数秒後、SPのスマートフォンが激しく震え出し、画面には『お母さん』の文字が躍りました。
「わ、わああああっ!? ほ、ほら……! こ、こうなるって思ったから……っ!」
SPは飛び上がるほど驚き、スマートフォンの画面とキュラドの顔を交互に見て、顔を青くします。対照的にキュラドは、まるで面白い実験結果を待つ観測者のように、悠然と背中を預けていました。
「何をうろたえている。早く取れ。親という存在は、子が反応を示さねば余計に妄想を膨らませる生き物だろう。……説明が面倒なら、俺が出て代わってやってもいいぞ。お前との『研究成果』について、論理的に説明してやる」
「ぜっ、絶対だめ! お、大人しく、し、静かに、してて……! お、お願いだから……っ!」
SPは必死の形相でキュラドの口を片手で押さえんばかりの勢いで制止し、震える指で通話ボタンを押しました。
「も、もしもし……。お、お母さん……?」
「エス! 大事な人って、今のメッセージ、どういうこと!? あんた彼氏でもできたの!? どんな人? まさか騙されてないでしょうね?」
スピーカーから漏れてくる母親の切実な声に、SPは冷や汗を流しながら、必死に言葉を探します。キュラドは押さえられた口元を不満げに歪めながらも、SPの首筋にわざとらしく冷たい鼻先を押し当て、嫌がらせのような「静かな妨害」を始めました。
「ひ、ひゃっ……! あ、あはは……ち、ちがうの……。す、すごく……あ、頭が良くて……理系の、だ、大学生……で……」
「大学生!? エス、あんたまだ高校1年生でしょ? どこで知り合ったの!」
「え、えっと……そ、それは……み、道端で……」
行き倒れていたところを助けたら気に入られました、とはとても話せません。
横で聞いていたキュラドが、こらえきれないといった様子でクスクスと笑います。彼はSPの耳元に顔を寄せると、母親に聞こえないほどの微かな吐息で囁いた。
「……ほう、俺は『道端で拾った理系大学生』か。なかなか愉快な紹介だな、エス」
(も、もう……っ!)
SPはキュラドを涙目で睨みつけながら、母親の矢継ぎ早な質問攻めを必死にかわし続けます。吸血鬼の城で、正体不明の恋人の腕に抱かれながら、平穏な家族との電話を繋ぎ止める……。SPにとって、それはどんな試験よりも過酷で、そして心臓の痛いひとときでした。
「ちゃんとした人なんでしょうね!? 本当に騙されてない!? お父さんやお母さんに紹介できるような人なの!?」
スマホ越しに響く母親の剣幕に、SPの思考は完全にショートしました。
「あ、あわわわ……そ、それは……えっと……しょ、紹介……えええ……っ!?」
顔面蒼白でスマホを握りしめるSPの手から、不意に、しかし滑らかに端末が奪い去られます。
「あ……キュ、キュラド……っ!?」
「代われ」
短く告げたキュラドは、慌てるSPを片腕で軽く制し、スマホを耳に当てました。彼は一つ、上品に、かつ理知的さを感じさせる絶妙なトーンで咳払いをします。
次の瞬間、彼の口から漏れたのは、傲慢な吸血鬼のものではなく、非の打ち所がない「理想的な青年」の声でした。
「……突然失礼いたします。エスの……いえ、SPさんの知人で、キュラドと申します。夜分に突然、驚かせてしまい申し訳ありません」
電話の向こうが、一瞬で静まり返ります。SPはあまりの変貌ぶりに、開いた口が塞がらなくなりました。
「ええ……。はい。私は……現在、魔術……失礼、数理物理学を専攻している大学生です。道端で困っていたところを彼女のひたむきな優しさに救われまして。以来、彼女の素晴らしい感性と、その真っ直ぐな瞳を、一人の人間として心から尊敬し、大切に思っております」
その声は穏やかで、誠実さに満ちていました。若者らしい瑞々しさと、育ちの良さを感じさせる完璧な「擬態」。キュラドはさらに畳み掛けます。
「……ええ、もちろん。彼女は学園生活も非常に勤勉にこなしています。彼女の繊細な心を傷つけるような真似は、この私が、命に代えても致しません。……紹介、ですか? はい、光栄です。いつか然るべき折に、改めて正式にご挨拶をさせてください。……ええ。おやすみなさい。……失礼いたします」
プツリと静かな音を立てて通話が切れます。キュラドは無表情のままスマホをテーブルに置き、いつもの不遜な、冷たい笑みを口元に浮かべました。
「……フン。これくらいの誤魔化し、造作もない」
「…………きゅ……キュラド……?」
あまりの演技力に圧倒されていたSPが、ようやく声を絞り出します。
「……す……すご……。そ、そんな……喋り方……わ、我……し、知らない……っ!」
「あれは一種の擬態だ。今までは必要がなかったからしてこなかっただけだ。……さて。これで『紹介』という外堀も埋めた。お前はもう、永遠に俺という檻から逃げられんぞ、エス」
キュラドは満足げにSPの腰を引き寄せ、耳元で「親の許しを得て、本当の意味での伴侶になる日も近い」と、いたずらっぽく囁きました。
一方、通話が切れた後のSPのスマートフォンは、まるで悲鳴を上げるように何度も震えます。
『あんなに素敵な声の人、どこで見つけたの!? エス、あなたには勿体ないくらいじゃない!』
『今すぐ紹介しなさい! 今度の週末にでも、どう?? お父さんも休みだし、こちらから会いに行ってもいいよ!』
画面に次々と表示される、熱狂的な母親からのメッセージ。SPはそれを見た瞬間、血の気が引いていくのを感じました。
「わ、わああああっ! ……ほ、ほらぁ! きゅ、キュラド……ど、どうしよう……『週末に会おう』って……」
パニックになってスマホを差し出すSPに対し、キュラドはソファに背を預けたまま、勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべていました。
「フン、当然の結果だな。俺のこの完璧な声と、選りすぐりの語彙に魅了されぬ人間など存在しない。むしろお前の母親はなかなか見る目がある」
「そ、そんな……か、感心、してる場合じゃ……な、ないよぉ……! ……キュ、キュラド、ひ、昼間は……そ、外……出られないし……っ!」
SPが涙目で訴えると、キュラドはふいと視線を逸らし、指先で自分の顎をなぞった。
「確かに、俺は昼間の活動は不可能だ。……だが、エス」
彼は再びSPの腰を引き寄せ、逃がさないようにその腕の中に閉じ込めた。
「『紹介しろ』ということは、お前の家族が俺を、お前の伴侶として認めるための儀式を要求しているということだ。……面白い。不可能を可能にするのが魔術だ。日光を遮る強力な結界を編むか、あるいは……お前の家族を、この窓のない城に招待してやるか」
「ぜ、絶対……だめ……っ! ……じ、実家の……お、お父さんが……こ、腰ぬかすだけじゃ……す、すまないよ……!」
SPはキュラドの胸を押し返そうとしますが、彼は動じません。それどころか、SPの困り果てた顔を見て、どこか愉悦を感じているようでした。
「……まあ、安心しろ。適当に『週末はゼミの合宿だ』とでも返しておけ。いくら俺とて、少しくらいは準備期間を設ける必要がある」
キュラドはそう言って、SPの手からスマホを取り上げ、勝手に返信を打ち込もうとします。
「あ、ちょっと……! か……か、勝手に……!」
「『週末は忙しいが、愛しの娘さんは責任を持って私が預かっている』……とでも送っておいてやろう」
「だ、だめえええええ!」
SPの絶叫が城に響き渡ります。外の世界では「完璧な彼氏」を演じながら、城の中では相変わらず傲慢で独占欲の強い吸血鬼。SPは、母親への釈明とキュラドのいたずらの板挟みになり、今夜も前途多難な夜を過ごすことになるのでした。
SPは、スマートフォンの画面を凝視したまま、魂が口から抜け出したような顔でソファに沈み込んでいました。
『じゃあ来週の週末に行くね。お父さんも楽しみにしてるよ。どうしても夜しか都合がつかないなら、一緒に晩ご飯食べに行こう。何が食べたいか決めておいてね!』
「……お、おわった…………」
画面から溢れ出す母親の凄まじいバイタリティ。断りきれなかった自分の弱さと、事態が最悪の方向に転がっていく速度に、SPは深いため息を吐き出しました。
「ら、来週……ほ、本当に、き、来ちゃう……。ど、どうしよう……キュラドは、ご、ご飯なんて……た、食べないのに……」
消化器官が機能せず、食事を必要としない吸血鬼が、娘の恋人として両親とテーブルを囲む。それはもはや一種のホラーか、高度な心理戦の舞台でしかありません。
SPの胃がストレスでキリキリと痛み出す中、隣に座るキュラドは、焦る様子もなく薄ら笑いを浮かべていました。彼はSPの震える肩を抱き寄せ、耳元で悪魔のような甘い声で囁きます。
「安心しろエス、俺に任せておけ。『食事』か。人間が生命維持のための栄養補給と親睦を深めるための儀式を同時に行う、神聖な場だな。案ずるな、俺の魔術と演技力をもってすれば、お前の親など赤子の手を捻るより容易く欺いてみせる」
「……そ、それが……こ、怖いの……! ……キュ、キュラド……な、なに……す、する、つもり……?」
「フン。お前の親がこの俺に心酔し『娘の伴侶として完璧な男』と考えるようになるよう洗脳してやればいいのだろう? 食事など、食べたふりをすれば済む話だ。あるいは、お前の両親を眠らせて、俺が直接脳細胞を刺激し、記憶を……」
「……ぜ、絶対……だめ……っ! ……ま、魔術……つ、使っちゃ……だ、だめ……っ!!」
SPの必死の訴えにも、キュラドは「冗談だ、半分はな」と不敵に笑うだけでした。
(うう、お母さんたち……楽しみにしてるのに……。嘘でいっぱいになっちゃう……)
目の前の吸血鬼は、来週の「人間擬態イベント」をまるで新しい実験でも楽しむかのような、好奇心に満ちた瞳で見つめています。
SPは、来週末に訪れるであろう阿鼻叫喚の食事会を想像し、胃の痛みを堪えました。どうにかして乗り切る策を練らねば……。
SPは必死に頭を回転させ、なんとか「食事をしない吸血鬼」と「娘の恋人の顔を見たい両親」が共存できる、唯一の解を導き出しました。
「……や、焼肉とかなら……キュ、キュラドが……お、お肉……や、焼くのに、む、夢中に、なってれば……た、食べてなくても……ふ、不自然じゃない……かな……? きゅ、キュラドに、お、お肉……や、焼いててもらおう……」
網の上で肉をひっくり返す作業を「奉仕」として引き受ければ、自分の口に運んでいないことも多少は誤魔化せるはずだ――。SPの精一杯の作戦に、キュラドは呆れたように鼻を鳴らしました。
「フン……この俺を、肉を焼く役に仕立て上げるか。だが、悪くない戦術だ。お前の親に『尽くす男』を印象づけることもできる」
キュラドは顎に手を当て、即座に魔術的な補助案を付け加えます。
「俺が肉を焼く手元に視線を誘導しつつ、俺自身の食器類から自然と意識が外れるような認識阻害の魔術を重ねておけば、十分だろう。お前の両親が『今日は彼がよく焼いてくれたな』という満足感だけを持って帰れるように調整してやる」
「そ、それなら……なんとか……? ま、魔術は……そ、そのくらいなら……使っても、いいかな……」
本来、キュラドが他人に魔術を使うことを嫌がるSPですが、今回ばかりは背に腹は代えられません。キュラドの提案に、ようやく地獄の淵から生還したような顔で頷きました。
「決まりだな。来週までに、俺は肉の最適な焼き加減と、認識阻害の魔術、そしてその場の空気を支配する話術のシミュレーションを終わらせておく。……安心しろエス。お前の親を、俺の信奉者に変えてやる」
「そ、それは……ほ、ほどほどに……してね……?」
SPは胃の痛みが少しだけ和らぐのを感じつつも、キュラドが「焼肉の網」という新たな実験台を前に、どこか楽しそうに目を細めているのを見て、再び一抹の不安を覚えるのでした。
日付が変わり、SPが自室に戻って深い眠りについた頃。響星学園の静まり返った屋上に佇むコイカミの前に、キュラドは姿を現しました。その口元には、隠しきれない愉悦の笑みが刻まれています。
「……何、そのニヤニヤ顔は。何か面白いことでもあった? 」
フェンスに腰掛けたコイカミが、からかうようにキュラドを見つめます。すると、キュラドは勝ち誇ったように、あるいは新しい未知の実験を控えた学者のような口調で告げました。
「来週、エスの両親に会うことになった」
一瞬の沈黙の後、コイカミは羽を激しく羽ばたかせ、空中で身を乗り出しました
「は!? いや面白すぎでしょ! あのキュラド様が『ご挨拶』!? 嘘、マジで!? 傲慢の塊みたいな吸血鬼様が、パパさんとママさんの前で『お嬢さんを僕にください』ってやるわけ!?」
「フン、言い草が過ぎるぞ。俺はただ、俺の所有物に群がる外敵を排除し、管理下に置くための手続きを踏むだけだ。……もっとも、あちらは俺の完璧な擬態に、既に心酔し始めているようだがな」
キュラドは、電話越しに母親を虜にしたときの手応えを思い出し、満足げに指を鳴らします。
「擬態って……あはは! 無理無理、絶対ボロが出るって! だって吸血鬼だよ? ご飯食べられないんだよ? どうすんのさ、挨拶といえばお食事会でしょ!?」
「『焼肉』という選択肢をエスが提示した。俺が肉を焼き続け、認知を操作すれば済む話だ。……どうだ、これ以上ないほど論理的な解決策だろう?」
「焼肉の網を囲む吸血鬼……。プッ、アハハハハ! おっかしい! 似合わなさすぎ!」
コイカミはお腹を抱えて笑い転げ、透けた足をバタバタと忙しなく動かします。
「好きに笑っていろ。だが、俺は本気だ。エスの家族を懐柔し、彼女の帰る場所を我が城だけに絞り込む。……これは、俺とエスの関係性をより強固にするための、極めて重要なプロセスなのだからな」
「はいはい、そうですか。……でもいいの? キュラド様。そんなに人間の関係に深入りしちゃってさ。……『家族』なんてものに触れたら、後戻りできなくなっちゃうかもよ?」
コイカミがふと、茶化すのをやめて寂しげな、けれど鋭い瞳でキュラドを見つめました。しかし、キュラドは視線を逸らすことなく、静かに、けれど傲岸不遜な笑みを深めます。
「構わん。エスの隣にいるために必要なことだ。俺は迷わず歩みを進めてやる」
キュラドの答えを聞くと、コイカミはふっと息をつき、また茶化すような笑みを浮かべます。
「……あーあ、そんな面白すぎる光景わたしも見たかったなー! わたしも焼肉行きたーい! 学園から出たーい!」
コイカミは腕をバタバタと動かし、本気で悔しそうに身をよじりました。恋の神様を自称し、他人の恋路を特等席で眺めるのが生きがいの彼女にとって、この「世紀の食事会」を見逃すのは、一生の不覚と言ってもいいくらいです。
「無理だ、お前は学園から出られない地縛霊だろう。大人しくここで雑草でもいじっていろ
キュラドが冷淡に言い放つと、コイカミは不敵な笑みを浮かべて人差し指を立てました。
「ふっふっふ……。なら、わたしの代わりにスパイとしてヒメちゃんを送りつけちゃおっかなー! 『SPちゃんがピンチだよ!』とか言えば、あの子絶対ついて行くでしょ」
「やめておけ」
キュラドの拒絶は即座でした。眉間に深い皺を刻み、心底嫌そうな顔を隠そうともしません。
「ただでさえエスの両親という未知の個体を相手にするのだ。そこにあの泣き虫の令嬢まで加わってみろ、収集がつかなくなる。それに、ハナヒメが来れば必然的にあの少々騒がしい婚約者まで付いてくるだろう。奴の面倒まで見るのは御免だ」
「えー、いいじゃん! 大家族みたいで楽しいよ? 賑やかな方がキュラド様が食べてないの誤魔化しやすいし!」
「断る。これは俺とエスの……その、家族という概念を整理するための静かな研究なのだ。余計な変数は一切排除する」
キュラドがいつになく頑なな態度を見せると、コイカミは「へぇー」とニヤニヤしながら彼に顔を近づけた。
「『静かな研究』ねぇ? ほんとは、お父さんとお母さんに『SPちゃんの彼氏』として、じっくり、たっぷり、かっこいいところ見せつけたいだけでしょ?」
「……フン、お前の妄想には付き合いきれん。俺はもう帰る。来週までに、当日のシミュレーションを重ねて完璧な舞台作りをせねばならんからな」
キュラドはそれだけ言い捨てると、翻るマントと共に闇の中へと消えていきました。
残されたコイカミは、彼が消えた空間に向かって「はいはい、頑張ってねー、恋する吸血鬼さま!」と、夜の校舎に響くような明るい声で叫ぶのでした。
翌朝、SPは登校するなり、ぐったりと机に突っ伏していました。
「……うぅ……胃が……キリキリ……する……」
まるで鉛でも飲み込んだかのような重苦しい痛みが、みぞおちのあたりを支配しています。来週末の光景を想像するだけで、意識が遠のきそうでした。
そこへ、春風のような軽やかさで、しかしSPにとっては「悪魔の囁き」に近い声が響きました。
「おはよー、SPちゃん! 今日は一段と顔色が悪いね!」
机の端にちょこんと腰掛けたコイカミが、羽をパタパタと震わせながら、身を乗り出してSPの顔を覗き込んできました。
「聞いたよ聞いたよ! 来週末、ご両親が……あはは! キュラド様と一緒に……っ、あははは!! 焼肉食べに行くんだってね!!」
彼女は昨夜、キュラドから聞いた「世紀の計画」を思い出し、堪えきれないといった様子で吹き出します。
「……コ、コイカミちゃん。……わ……笑いすぎ……だよぉ…………」
「だって、想像してみてよ! あの傲慢な吸血鬼様が、エプロンして『お父さん、このカルビはもう食べ頃ですよ』とか言いながらトング持ってる姿! ギャグ以外の何物でもないでしょ!」
コイカミは笑いすぎて空中で一回転し、涙を拭うような仕草をします。
「……わ、我に、とっては……し、死活問題、なんだよぉ……。きゅ、キュラド……『魔術でなんとかする』……って……い、言ってたけど……。も、もし……ば、バレたら……っ……」
「大丈夫、大丈夫! キュラド様、案外ノリノリだったよ? 『俺の完璧な擬態で心酔させてやる』なーんて言っちゃって。もう、SPちゃんのパパさんとママさんに『最高な彼氏』だって認められたくて必死なんだから!」
「……え……あ……」
SPはパニックのせいでそこまで考えが及んでいませんでした。コイカミの言葉を聞いて、頬が微かに赤く染まります。
(……キュラド。わたしの家族に……認めてもらいたいって、思ってくれてるのかな……)
胃の痛みは相変わらずだったが、その奥底に、ほんの少しだけ甘酸っぱい熱が混ざります。
「……で、でも……お、お肉……や、焼くの……す、すごく……大変そう……」
「あはは! 来週まで毎日、お城で特訓させればいいじゃん。……あ、そうだ、ヒメちゃんやリョクくんにも協力してもらったら? あの子たち、作法にはうるさいし、ちょうどいい練習台になるんじゃない?」
コイカミの悪ノリ気味な提案に、SPは(ヒメちゃんはともかく、リョクくんまで巻き込んだら……いよいよパニックだよ……)と、再び机に突っ伏して、深い溜息を吐き出しました。
そんな最中、教室の扉が開き、ハナヒメが登校してました。彼女は席に着くよりも先に、机に突っ伏して震えているSPの異変に気づき、駆け寄ってきます。
「まあ! エスさん、どうなさいましたの!? お顔が真っ青……いえ、土気色ですわ! すぐに保健室へ……それか、今すぐ救急車をお呼びいたしますわ!」
ハナヒメが涙目になりながらSPの背中をさすっていると、その横でコイカミがケラケラと笑いながら口を出した。
「あはは! 大丈夫だよヒメちゃん、病気じゃないから。……実はさ、来週末にSPちゃんのパパさんとママさんが来て、キュラド様と一緒に『焼肉』を食べに行くことになったんだって!」
「……えっ? キュラド様が、エスさんのご両親と、焼き肉……?」
ハナヒメは一瞬、きょとんとして動きを止めた。傲慢で高貴な、薄暗い城に住み、食事を必要としないあの吸血鬼が、賑やかな焼肉屋の網を囲む光景を頭の中で描きます。数秒後、ハナヒメの瞳がパッと輝きました。
「……それは!それは素晴らしい人生の門出ですわ!! エスさんの大切なご家族に、キュラド様を紹介なさるなんて……! 素敵! 素敵すぎますわ、エスさん!」
「ひ、ヒメちゃん……。す、素敵……だけど……っわ、我……そ、その、胃が……っ……!」
「わかっておりますわ! キュラド様が『お食事』をなさらないことも、その場をどう切り抜けるかが死活問題であることも! ですから……」
ハナヒメは拳をぎゅっと握りしめ、いつになく力強い表情で宣言します。
「私、全力でお力になりますわ! 当日のリハーサルから何から何まで、何でもお手伝いいたします! 私が『検分役』になって、キュラド様のご様子に違和感がないか厳しくチェックさせていただきますわよ!」
「え……あ……ヒ、ヒメちゃん……っ」
「いいねヒメちゃん! わたしも賛成! 完璧なお嬢様のヒメちゃんが『合格』って言えば、パパさんもママさんも絶対騙されるって!」
コイカミが囃し立てると、ハナヒメはさらにヒートアップしていきます。
「善は急げですわ! さっそく今日の放課後、リョク様にもお声をかけて『模擬・焼肉会』を執り行いましょう! 最上級の和牛の手配は私にお任せください!」
「え、えええっ! りょ、リョクくんまで……!て、いうか、お、お肉は、普通ので、いいよぉ……!」
SPの悲鳴も虚しく、事態は「キュラドの思いつき」から「学園の友人たちを巻き込んだ極秘プロジェクト」へと進化を遂げようとしていました。
放課後、静寂に包まれていたはずのキュラドの城に、場違いなほど賑やかな足音が響き渡りました。
「失礼いたしますわ、キュラド様! エスさんのため、そして来たるべき『聖なる晩餐』のため、私たちがお力添えに参りましたわ!」
ハナヒメが、後ろにリョクを従え、山のような最高級和牛の包みを抱えて現れると、静かに研究に勤しんでいたキュラドは、これ以上ないほど露骨に嫌そうな顔をして眉を寄せました。
「……お前たち、何のつもりだ。この神聖な場所に、そのような物を持ち込んで騒ぎ立てるとは。……エス、説明しろ」
「え、えっと……ご、ごめんね……。ヒ、ヒメちゃんたちが……リ、リハーサルしようって……」
SPが縮こまっていると、ハナヒメが臆することなく、昨日からの経緯と「完璧な認識阻害魔術の検分役」を買って出たことを凛々しく説明しました。それを聞いたキュラドの表情が、微かに動きます。
「……ほう。お前たちが『騙される側』のサンプルとして、俺の魔術の精度を確かめるというのか」
キュラドは顎に手を当て、フッと不敵な笑みを浮かべました。
「……いいだろう。気が利くな、ハナヒメ。一人で計算を重ねるよりも、生身の人間で試行回数を稼ぐ方が、確かに効率的だ。では、有り難く利用させていただこうか」
「師匠! 火加減と肉の返しについては、僕にお任せください! 騎士の呼吸をもって、完璧な焼き色をサポートいたします!」
「黙れ、リョク。肉を焼くのはこの俺だ。お前はそこで、俺が食べていないことに気づくかどうかの『検体』に徹していろ」
キュラドは立ち上がると、優雅に指を鳴らしました。すると、研究机の上が一瞬にして、無煙ロースターを備えた最新式の焼肉テーブルへと変貌します。
(こんなの、どこで見てきたの……?焼肉屋さん、見に行った……?)
SPが脳内でツッコミを入れていると、キュラドはSPの肩をポンと叩きました。
「さあ、エス。まずはお前の親が好むであろう部位から順に焼いていく。ハナヒメ、リョク、お前たちは俺の挙動に一点の曇りもないか、その肥えた目で厳しく監視しろ。……今宵、この城で『究極の擬態』を完成させる」
「はいっ! 喜んでチェックさせていただきますわ!」
やる気満々のキュラドと、気合の入ったハナヒメたち。その熱気に押され、SPは(なんだか、すごいことになっちゃった……)と、胃の痛みも忘れて呆然と立ち尽くすのでした。
城の研究室が、一瞬にして肉の焼ける快音と香ばしい脂の香りに包まれました。
キュラドは「擬態モード」へと意識を切り替え、昨夜電話で見せたあの「非の打ち所がない好青年」の表情を作ります。手元では、認識阻害の魔術を薄く何層にも重ね、肉を焼くことにひたすら徹します。
「……どうだ。これなら、エスの両親も俺が食事を摂っていないことに気付くまい」
優雅な手つきでトングを操り、リョクの皿に絶妙な焼き加減のカルビを並べながら、キュラドが自信ありげに告げます。しかし、それを見守っていたハナヒメは、扇子を突きつけながら厳しく首を振りました。
「ダメですわ! キュラド様、表情が硬いですわよ!」
「……何だと? この俺の完璧な表情管理に異を唱えるというのか」
キュラドの眉がピクリと動きます。ハナヒメは臆することなく、立ち上がって指摘を続けました。
「声や動作は完璧ですわ。ですが、お肉を扱う際の目が、まるで『未知の劇物を処理する廃棄物処理班』のような鋭さを帯びています! もっとこう、幸福感……『ああ、なんて美味しそうなお肉でしょう、お義母様!』という、とろけるような喜びを瞳に宿らせてくださいまし!」
「……俺は肉に対して美味しそうなどという感想は抱けん。幸福感など、不要だ」
「いいえ! 親御様というものは、娘の恋人が自分の選んだ店や食事を心から楽しんでいる姿を見て、初めて安心するものですわ! さあ、もっと口角を上げて、瞳にハイライトを入れてください!」
「……ハイライト、だと?」
キュラドが困惑して、助けを求めるようにSPの方を向きました。SPは、必死にトングを握りしめ、顔を引きつらせながら「喜び」を演じようとするキュラドの姿に、おかしくも切ない気持ちになります。
「あ、あはは……き、キュラド。こ、怖い顔……してるよ……?」
「……計算外だ。筋肉の収縮だけで『幸福』を定義するのは、高度な演算を必要とするな……」
キュラドは再び肉を網に乗せると、ぶつぶつと「……大頬骨筋の引き上げ、眼輪筋の弛緩……」と呟きながら、自らの顔の筋肉をペタペタと触り始めました。
「師匠! 笑顔も一種の『構え』です! 腹筋に力を込め、魂を解放するのです!」
「黙れリョク、お前は肉を食うことだけに集中していろ」
吸血鬼の城で繰り広げられる、前代未聞の「焼肉スマイル特訓」。SPの胃の痛みは、いつの間にか、彼らの一生懸命な姿への可笑しさで、少しだけ和らいでいくのでした。
「……くっ、俺の頬の筋肉が、これほどまでに不自由なパーツだとは……。未知の言語で書かれた魔術書の解読の方がよほど容易いではないか……」
ハナヒメの情熱的なスパルタ指導により、キュラドの美貌はもはや限界を迎えていました。無理やり作った「慈愛の微笑み」はピクピクと引きつり、紅い瞳には隠しきれない殺気(あるいは困惑)が宿っています。
「ダメですわキュラド様! 今のは『獲物を網の上でじわじわと追い詰める邪悪な魔術師』の顔ですわ! もっとこう、春の陽だまりのような……!」
「……ヒ、ヒメちゃん……も、もう……そ、そのくらいに……」
SPは、今にもトングを叩きつけそうなキュラドの限界を察し、震える声で助け舟を出しました。
「……き、緊張してるって……こ、ことに、しよっか……」
「……緊張、だと?」
キュラドが、引きつった笑みのまま首を傾げます。
「……う、うん。……お、お母さんたちの前で……す、すごく……き、緊張して、か、顔が……こ、強張っちゃってる……って……。そ、そのほうが……『娘のこと大事に、思ってくれてる』……って……お、思って……もらえるかも、しれないし……」
SPが顔を真っ赤にして一生懸命に説明すると、ハナヒメはハッとしたように扇子で口元を押さえました。
「まあ!まあ! 『娘を愛するあまり、その両親の前でガチガチに固まってしまう若き秀才』……! なんて、なんて情熱的で愛らしい設定ですの! ギャップ萌えというやつですわね!?」
「……フン。この俺が、人間相手に緊張だと……? 論理的にあり得んが、この意味不明な表情練習を重ねるよりは効率的か……」
キュラドは少しだけプライドを回復させたのか、不遜な態度を取りつつも、頬の強張りをスッと解きました。
「『緊張のあまり、食事も喉を通らない』……。確かに、これなら一口も食べていないことへの強力な補強理由になるな。エスの策にしては、驚くほど高効率な解だ」
(いつものキュラドに戻った……)
ようやく城の中に漂っていた殺伐とした熱気が、少しだけ和らぎました。
「よし! では方向性を『誠実すぎて緊張しまくるエリート青年』に定めましょう! キュラド様、もう一度ですわ! 今度は『手元が狂ってお肉を網の外に落とす』くらいの初々しさを見せてくださいまし!」
「……ハナヒメ、それはやりすぎだ」
「師匠! 僕がその『緊張』を加速させるための、騎士流・精神統一法を伝授します!」
「黙れリョク。お前は黙って肉を食っていろ」
SPの機転により、最悪の「表情筋崩壊」は免れましたが、来週の本番に向けて、キュラドの「誠実な好青年の擬態」特訓は、夜更けまで続いていくのでした。
城の研究室には、先ほどまでの熱狂が嘘のような、奇妙で重苦しい静寂が漂っていました。
高級和牛をこれでもかと平らげたリョクは、重くなった胃を労わりながら椅子に深く沈み込んで「……くっ、これが……肉の……重圧……」とぼやき、ハナヒメもまた、優雅に扇子を動かす気力すら失ったのか、ぼんやりと空になった皿を眺めています。
SPにいたっては、胃の痛みと緊張と、ハナヒメのスパルタ指導による精神的疲労が重なり、魂が口から半分はみ出したような顔で、機械的に網を片付けていました。
「…………」
パチパチと、燭台の火が爆ぜる音だけが室内に響きます。 キュラドだけは、一人涼しい顔をして「ふむ、認識阻害魔術の展開は問題なさそうだ。あとは肉を焼くペース配分の問題か」と手元のメモに何かを書き込んでいましたが、ふと顔を上げ、疲れ果てた三人の様子を見て、怪訝そうに眉を寄せました。
(……これ、何の時間だったんだろう……)
SPの脳裏に、ふとそんな、根本的な疑問が浮かんでは消えました。
「両親への挨拶」という極めて人間的なイベントのために、吸血鬼が肉を焼き、騎士がそれを食らい、令嬢が表情筋の指導をする。冷静に考えれば、高貴な吸血鬼の城で行われる儀式としては、あまりに支離滅裂で、あまりに意味不明な光景です。
ハナヒメも、リョクも、おそらく同じことを感じていたはずです。
「なぜ、私は吸血鬼の住むお城で、お肉を食しながらキュラド様の表情管理に、命をかけておりましたの……?」
「なぜ、僕は師匠の恋路のために、これほどまでに胃袋を酷使しているんだ……?」
けれど、誰もその疑問を口にすることはありませんでした。 ここでそれを口にしてしまえば、この数時間の異常なまでの熱量と、必死に焼いた高級肉の思い出が、すべて霧散してしまうような気がしたからです。
「……エス。片付けが終わったら『緊張の演技』について、もう一度微調整を行うぞ」
キュラドの容赦ない声が響くと、SPは「……う、うん……」と、力なく返事をするのが精一杯でした。
片付けが終わり、疲れ切って足取りの重いハナヒメと、食べ過ぎで腹部を押さえながらフラフラと歩くリョクを前に、キュラドはスッと背筋を伸ばして立ちました。
その表情は、先ほどまでの「引きつった笑顔」ではなく、練習の成果か、あるいはSPの提案を汲み取ったのか、どこか穏やかで落ち着いた「完璧な青年」のそれでした。
「ハナヒメ、リョク。夜分遅くまで、協力に感謝する。お前たちの……いや、君たちの助言は、非常に有益だった。気をつけて帰るといい」
いつもの「お前」という呼びかけをあえて封印し、丁寧な言葉を選んで二人を送り出すキュラド。その声には、擬態を超えた、彼なりの誠実さが微かに滲んでいました。
「……ま、まあ。キュラド様にそのように仰っていただけるなんて……光栄ですわ。おやすみなさいませ……」
ハナヒメは疲れからか、いつもより控えめなカーテシーを返し、リョクもまた、虚ろな目で「……し、師匠……失礼……します……。検討を、祈ります……」と、静かに礼をして城を後にしました。
「…………」
やがて扉が重厚な音を立てて閉まると、キュラドは深い溜息を一つ吐きました。
「……社交辞令としてはこんなものか。先ほどまでの時間に意味があったのかは甚だ疑問だが、お前の友人の好意を無碍にするわけにはいかない」
そう毒づきながらも、キュラドの肩からは微かに力が抜けていました。
隣で見ていたSPは、彼の「丁寧な送り出し」が、自分を助けてくれた友人たちへの、彼なりの不器用な感謝なのだと気づいていました。
「……き、キュラド。あ……ありがとう……。ヒメちゃんたち……す、す……すごく、喜んでると、お、思うよ……」
SPがそっと彼の袖を引くと、キュラドはいつもの傲慢な顔に戻り、少しだけ照れくさそうに顔を背けました。
「……フン、勘違いするな。これはあくまで、来週の『本番』に向けたシミュレーションの一環に過ぎん。……さて、エス。お前も疲れただろう。少し早いが、今日はもう休め」
不器用な優しさを投げ捨て、キュラドは再び研究机へと戻っていきました。
外の世界では決して語られることのない、吸血鬼の城での「極秘焼肉リハーサル」が静かに幕を閉じたのでした。
深夜の静まり返った響星学園。キュラドは、先ほどまでの「焼肉リハーサル」の成果を胸に、闇に紛れてコイカミの元を訪れていました。
「ハナヒメとリョクの協力により、認識阻害魔術の精度と、俺の『緊張している誠実な青年』というパターンの有効性は証明された。準備に抜かりはない。これで完璧だ」
キュラドが淡々と、しかしどこか達成感の滲む声で報告すると、滞留していた空気の中からコイカミが噴き出すように姿を現しました。
「あははははは! いや、もう! リハーサルの時点でもう……! 面白すぎ! 無理、お腹痛い!! あのプライドの塊みたいな吸血鬼様が、脂ギッシュな網の前で『お義母様、焼き加減はいかがですか?』なんて……! 傑作すぎるでしょ!」
「笑うな。俺は極めて真剣に戦略を練っているのだ。全てはエスを俺のこの手に収めるために、な」
キュラドが不機嫌そうに眉を寄せると、コイカミは涙を拭いながら、ふとニヤニヤとした意地悪な笑みを浮かべました。
「でもさー、キュラド様。大事なこと忘れてない? ラスボスはきっとパパさんだよ? こないだ電話でメロメロにしたのもママさんの方だったんでしょ?」
「……パパ? ……父親のことか。それがどうした。母親があれほど心酔したのだ、同種の人間など造作もないことだ」
自信満々に言い放つキュラドに対し、コイカミは空中で指をチッチッと振って見せました。
「甘いなー! 甘すぎるよ、吸血鬼様。前になんか言ってなかったっけ? 吸血鬼は『異性』を魅了するのは得意だけど~、みたいな話!」
キュラドの動きが、一瞬だけ止まりました。
「……それは……血の誘惑や、魔力による精神干渉の波長が、異性に対してより強く作用するという……生物学的な基礎理論だが……」
「そうそう! つまりさ、ママさんはキュラド様の『若くてイケボなインテリ大学生』っていう声と設定にコロッと行ったけど、パパさんは別だよ? 大事な一人娘を、どこの馬の骨ともしれない『胡散臭い男』に奪われようとしてるんだよ? むしろ敵意全開で来るに決まってんじゃん!」
コイカミは楽しそうに、キュラドの周りをぐるぐると飛び回ります。
「同性からの評価は、外見の加点なんてゼロ、むしろマイナスからのスタート。魔術で誤魔化そうとしても、父親の『娘を守る』っていう本能的な直感、バカにできないよー?」
「…………」
キュラドの表情から、先ほどまでの余裕が消え失せました。彼は深く沈黙し、まるで難解な古代文字の解読に詰まった学者のように、険しい顔で考え込み始めます。
「……父親、か。なるほど、その変数を計算に入れていなかった……」
「あはは! 頑張ってね、キュラド様! 来週末の焼肉屋さんは、単なる食事会じゃなくて『オス同士の縄張り争い』になるかもね!」
コイカミの不吉な予言を残し、夜の校舎に彼女の高笑いが響き渡ります。 キュラドは、先ほどまで「完璧」だと思っていた自らの作戦に、突如として現れた「父親」という巨大な不確定要素を前に、再び深夜の再計算を始めるのでした。
翌朝、重い足取りで学園へ向かおうとするSPに、扉の向こうからキュラドのどこか悲痛な声が響きます。
「エス、頼みがある。……今日、放課後にリョクをここへ連れて来い」
SPは玄関の扉を開こうとした手を止め、慌ててノックを5回します。合図により城へ繋がった扉を開くと、扉の影には何やら難しい顔をしたキュラドの姿がありました。
「き、昨日の、今日……だけど……?リョクくん、に、な、何か、つ、伝え損ねた……?」
「いいから連れて来い。……それから、ハナヒメは呼ぶな。いいか、絶対にだ。分かったか?」
キュラドの瞳は、昨夜のリハーサルを経ての余裕な様子など微塵もなく、まるで未知の強敵を前にした軍師のような鋭さを帯びていました。ハナヒメを呼ぶなという念押しに、SPは首を傾げます。
「う、うん……わ……わかった。……で、でも……な、なんで……?」
「……『男同士の対話』が必要になった。それだけだ」
キュラドはそれだけ言い捨てると、バサリとマントを翻して、朝が来ても暗闇のままの書斎の奥へと消えていきました。
(……男同士? リョクくんと、何をお話しするんだろう……?)
SPは不安を抱えたまま、登校の途につきました。
学園に着くなり、昨日の胃もたれで青白い顔をしていたリョクに「……あ、あの……リョクくん。……き、今日の放課後……ま、また……お城に……」と切り出すと、リョクは一瞬、絶望に目を見開きました。
「な、な……。師匠、まだ足りないというのですか!? 僕の胃袋は……騎士の誇りをもってしても、もう限界を……っ!」
「ち、ちがうの……っ! ご……ご飯じゃなくて……お……お話……みたいで……」
「お話……? 師匠が、僕と?」
リョクは不思議そうに首を傾げましたが、師匠の命とあらば断る理由はありません。
一方、その様子を見ていたハナヒメが「あら、今日は私はお呼ばれしておりませんの?」と寂しそうに声をかけてきましたが、SPはキュラドの「呼ぶな」という強い言葉を思い出し、「……ご、ごめんね……ヒ、ヒメちゃん……。き、今日は……そ、その……『男同士の対話』……なんだって……」と、申し訳なさそうに伝えました。
城の重厚な扉が閉まる直前、キュラドの目はいつになく真剣で、どこか焦燥感すら漂っていました。
「ご苦労。……エス、ここからは男同士の秘儀だ。お前は少し外していろ」
有無を言わさぬ口調で追い出され、自室に一人残されたSPは、納得のいかない気持ちを抱えたまま机に向かいます。
(……なんか、除け者にされるの、初めてかも。リョクくん……一人で大丈夫かな……)
教科書を広げても、頭をよぎるのは滅茶苦茶な命令を強引に下す傲慢な吸血鬼の姿と、それに振り回される哀れな友人の姿ばかり。
SPは、まさか自分の父親が吸血鬼の城で、最強の吸血鬼によって徹底的に分析されているとはつゆ知らず、全く頭に入らない課題の必死に文字を追い続けました。
一方、扉の向こうでは、魔術の講義よりもはるかに深刻なトーンの対話が行われていました。
「我が家の場合、子供は僕のみで父上に娘はおりませんが……そうですね、ヒメの父上の話なら良いサンプルになるかと。あの御方は、ある意味『娘を持つ父親』の究極形ですから」
リョクが真面目な声でそう提案すると、キュラドが深く頷くような気配が伝わります。
「……ほう。それは丁度良い。あの家中から過保護に扱われている泣き虫の令嬢を育て上げた父親か。データとしての価値は高そうだ」
「ええ。ヒメの父上は、それはもうヒメのことを大切に思われておりますから。僕が少しでも不審な行動をしたり、彼女を悲しませるような気配を見せれば、即座に雷が落ちますとも。……いえ、物理的な雷ではなく、比喩的な意味での、凄まじい威圧感というやつです」
リョクの言葉に、キュラドは低く、嫌悪感を隠そうともしない声を漏らしました。
「厄介な生き物だ。……合理的ではないな。個体の独立性を認めず、過去の執着を未来に投影しているに過ぎん」
「ですが師匠、それが父親の持つ『父性』という本能なのです。……いいですか、まずは相手の『城』を攻める前に、相手の『誇り』を尊重することから始めねばなりません。ヒメの父上の場合、まずは彼女がいかに健やかに育っているかを……」
「……待て。メモを取る。……『誇りの尊重』、『健やかな成長への言及』……。フン、不毛な儀式だが、エスの父親がそのタイプである可能性は否定できんからな」
リョクは少し、様子を伺うように口を開きます。
「……師匠、これはあくまで僕の意見なのですが」
「何だ。何でも言ってみろ。父親の心理を読み解くための『男の視点』だ。遠慮は要らん」
キュラドが自信たっぷりに促した直後、リョクは震える声で、しかし騎士としての誠実さを込めて爆弾を投下しました。
「もし、この僕自身に高校生の娘がいたとして、その娘が『この人とお付き合いをしています』と紹介してきたのが師匠だった場合……その……」
「……何だと言うのだ。俺の完璧な知性と、非の打ち所がない『大学生』としての擬態に、何か不服でもあるのか?」
「……す、すみません! めちゃくちゃ怪しいです!!」
一瞬、城の中が真空になったかのような沈黙が訪れました。
「な……なに……?」
「いいですか師匠! 確かに師匠は……その、とんでもなく美形で、頭も良すぎます! ですが、その『完璧すぎて隙がない』感じが、父親からすれば一番怪しいんです! どこか遠い世界の、人を喰ったような……いえ、実際吸血鬼なのですが……とにかく、正体が掴めない不気味さというか、胡散臭さがプンプンします!」
「……う、胡散臭い、だと……? この俺が……?」
ショックのあまり、キュラドの声が微かに裏返っています。
「そうです! 19歳の大学生が、これほどまでに落ち着き払って、慇懃無礼な態度で、しかも娘を『手懐けている』ような雰囲気を出していたら……僕なら、即座に娘を背後に隠して、剣を抜きますね!!」
キュラドは目を見開き、指先で額を抑えました。
「……論理的ではない。完璧であることが、なぜマイナスに……。では、どうしろと言うのだ? 顔を変えるか?」
「違います! もっとこう……『お父さん、娘さんを僕にください!』という、泥臭い熱意というか……必死さというか……! 『緊張してボロが出る』くらいの方が、父親は安心するんです!」
「……フン、昨日エスも同じようなことを言っていたな……。緊張、泥臭い熱意……」
キュラドのブツブツと独り言を言う声が聞こえてきます。吸血鬼の高いプライドが、人間界の「父親」という理不尽な壁にぶつかり、音を立てて崩れていく気配が伝わってきました。
困り果ててしまったキュラドに対し、リョクはさらに口を開きます。リョクの真っ直ぐで力強い、騎士らしい言葉が響きました。
「師匠! 完璧に擬態することよりもっと大切なことが一つあります!」
「何を……。この俺が人間社会という不条理な環境に適応するための『完璧な擬態』より大切なことなど、あるわけが……」
キュラドが困惑を隠せない様子で言い返すと、リョクはさらに一歩踏み込むような気配を見せました。
「一番はやはり、エスさんを大切に思う気持ちです! 父親とは、いずれ大切な自分の娘を他の男に預ける運命にあります。……どれほど理屈を並べ、外見を整えたところで、肝心なのはそこです。師匠がエスさんを誠実に想う気持ちが伝われば、多少怪しくとも……いえ、どれほど胡散臭くとも、娘をよろしくと言えるでしょう!」
「…………」
それまで、理詰めで対策を練っていたキュラドが、完全に沈黙しました。
魔術的な偽装でも、知識の誇示でも、計算された微笑でもない。 「誠実さ」という、数値化も理論化もできない概念を突きつけられ、最強の吸血鬼は言葉を失ったのです。
そして、長い沈黙のあと、キュラドが絞り出すように、低く、どこか掠れた声で呟きました。
「……大切に、思う気持ち……だと? そんなものは、わざわざ言語化せずとも、俺の……この、執着の深さを見れば、自明のことだろう……」
「それを相手に届けるのが『誠実さ』なんです、師匠!」
「……理解に苦しむ。非論理的だ。……だが」
キュラドの気配が、少しだけ変わりました。 トゲトゲとした攻撃的な魔力が収まり、静かで、しかし深い決意を秘めた重みに変わります。
「……わかった。リョク、お前がそこまで言うのなら、その通りなのだろうな……」
「はい、間違いありません」
「よし、ならばどうすれば『誠実さ』がより良く伝わるか、もう一度この俺に教えろ」
「はいっ! 喜んで!」
キュラドとリョクは長時間にわたる『男同士の対話』を終えて、SPの部屋に戻ってきました。そこには昨夜とは打って変わって、どこか憑き物が落ちたような顔のリョクと、相変わらず不遜ながらも、わずかにその瞳に熱い決意を宿したキュラドが並んで立っていました。
「リョク、連日の協力感謝する。……せいぜい体調を崩さないように、気をつけてさっさと帰れ」
キュラドの言葉は、相変わらず突き放すような響きでしたが、その「さっさと帰れ」の中には、騎士の胃袋と精神を散々酷使したことへの、彼なりの最大限の「労い」が込められているのをSPは感じ取ります。
「はい、師匠! 師匠のお役に立てて何よりです! ……では、僕はこれにて失礼します!」
リョクは、昨夜の「肉の重圧」から解放された反動か、それとも師匠に「誠実さ」の大切さを説き伏せた達成感からか、晴れやかな笑顔で深々と一礼しました。
「あ……り、リョクくん。あ、ありがとう……!ま、また、あ、明日……学校でね……」
「ああ、エスさん! 師匠の勇姿、楽しみにしていてくれ!」
リョクは清々しい足取りで寮の部屋を後にしていきました。
扉が閉まり、再び二人きりの静寂が戻ってくると、キュラドはしばらく無言で玄関を見つめていましたが、やがてSPの方を向き、少しだけ気まずそうに、けれど力強く告げました。
「……エス。お前は良い友人を持ったな。……リョクもハナヒメも、この俺にも臆せず意見を言える、芯を持った強い人間だ」
「……う、うん。そう、そう……なの……!」」
「協力してくれたお前の友人の為にも、お前の父親に、俺が『胡散臭い男』だと認定されないよう、その……『誠実さ』とやらを、これからの時間で再定義し、最適化しておくことにする」
キュラドはそう言って、SPの頭を少し乱暴に、けれど慈しむように撫でました。
(……キュラド、すごく……頑張ってくれようとしてる)
SPの胃の痛みは完全には消えていませんでしたが、キュラドが「完璧な吸血鬼」としてではなく、一人の「誠実な男」として家族に会おうとしてくれていることに、言葉にできない温かい勇気をもらうのでした。
キュラドは、リョクから叩き込まれた「誠実さを見せる」という難題を咀嚼するかのように、ゆっくりと腕を組みました。紅い瞳が思索に沈み、まるで未解明の術式を目の前にした時のような、険しくも真剣な光が宿ります。
「そういえばエス、一つ重要なことを聞きそびれていた」
「な、なに……? 」
ようやく緊張感が解けたと思っていた矢先の追及に、身を強張らせました。キュラドは彼女の目を真っ直ぐに見据え、低く響く声で問いかけます。
「お前の父親は、具体的にどのような性質を持っている。あらかじめ見極め、対策を練っておかねばならん」
「……え、えっと……う、うちの……お、お父さん……?……む、無口で……な、何考えてるのか……よ、よくわかんない……」
「……何だと?」
キュラドの眉が、不満げに跳ね上がりました。完璧なデータを収集し、全知全能の状態で挑みたい彼にとって、その曖昧な回答は許容しがたいものだったようです。
「お前は実の娘だろう。共に過ごした時間がそれなりにあるはずだ。それなのに、父親の考えていることも分からないというのか?」
「だ、だって……お、お父さん……お家にいても……あ、あんまり……お、お話ししないし……。……わ、我が……お、お話ししても……『ああ』とか……『そうか』とか……そ、それくらいしか……い、言わないから……っ」
SPは申し訳なさそうに肩をすくめ、視線を落としました。彼女にとっての父親像は、夕食の席で静かに新聞を読んだり、黙々と庭の手入れをしたりしている、穏やかだけれど心の奥底が見えない、静止画のような存在だったのです。
「ふむ……。無口、あまり話さない、か。参考にならんな。情報不足も甚だしい」
キュラドは苛立ちを隠すように指先でコツコツと机を叩きました。饒舌な母親であれば吸血鬼の魅了やお得意の弁舌でどうにでもなる確信がありましたが、「無口で何を考えているかわからない男」というのは、彼にとって最も計算が狂いやすい、厄介な存在です。
「……だが、待て。無口ということは、逆説的に言えば、僅かな挙動や、沈黙の合間に挟まれる非言語的な情報を重視するということか。……リョクの言う『誠実さ』の出力先としては、これ以上ない難敵だな」
「え、え……そ、そんなに……む、難しく……か、考えなくて……い、いいと、思うけど……」
「いいや、妥協は許されん。お前の父親が『沈黙』という名の城壁を築いているのなら、俺はその壁を崩さず、むしろその静寂の中に、俺という存在の正当性を滑り込ませる必要がある」
キュラドは再び、何か恐ろしい策略を練るかのような、深い沈黙に入りました。SPは(お父さん、なんだかキュラドの中ですごい強敵にされてる……)と、本番の焼肉屋で、無口な父と必死に「誠実さ」を演じる吸血鬼に挟まれる自分の姿を想像し、今から逃げ出したくなるのでした。
あっという間に決戦前夜です。
深夜の響星学園に、低く淀みのない独り言が響いていました。
「……相手が沈黙を保つなら、こちらからの過度な干渉は警戒を招く。視線は常に網の上、だが問いかけられた瞬間の応答速度は0.5秒以内。『誠実さ』を出すには、適度なためらいや緊張を含ませた発声が必要か……」
キュラドが眉間に深い皺を刻み、虚空に向かってシミュレーションを繰り返していると、背後からコイカミが呆れたような、けれどどこか感心したような顔で現れました。
「必死だねえ、キュラド様。なんか一周回って、茶化すのも悪いっていうか……笑えなくなってきちゃったよ」
「俺はずっと真剣だが? お前には、この『無口な父親』という難攻不落の存在を攻略する重要性が理解できんのか?」
キュラドが冷徹に、しかしどこか必死さを孕んだ目で問い返すと、コイカミは「はいはい」と肩をすくめ、抱えていた数冊の本を机にドサリと置きました。
「……ま、わたしも協力してあげるよ。ほら、図書室の隅っこからいろいろ見つけてきたよ。『娘さんを僕にください!』的なシーンのある小説とか、あとマナーの本とか? キュラド様のお城には、こういう本ないでしょ」
キュラドは怪訝そうに、しかしすぐに吸い寄せられるようにその本を手に取りました。
「ほう、たまには良い働きをするな。女神」
「たまにはじゃないでしょ。いつも横でウンウン唸ってるのを聞いてあげてるのは誰だと思ってるのさ。もっとわたしに感謝してよね!」
コイカミが不満げに頬を膨らませるのも構わず、キュラドはすでに小説の一頁を開き、食い入るように文字を追っていました。
「……『男は震える手で、茶碗を置いた。……お義父さん、僕は彼女を一生守ると誓います』……ほう『震える手』か。人間は緊張によって手の震えが起こることもあるのだな。これを模倣すれば誠実さを演出する武器にもなる、か。……魔術による筋収縮の制御で再現可能だな」
「いや、そこまでガチな演技しなくてもいいから! っていうか、キュラド様。あんまりマニュアルに頼りすぎるとアドリブ効かないよ?」
「黙れ。これは情報戦だ。俺は全ての武器をこの手にして見せる」
深夜の静まり返った学園で、吸血鬼が恋愛小説とマナー本を貪り読むという、なんとも言い難い奇妙な光景が続いていきます。SPが知らないところで、彼女の父親という「最強のラスボス」への対策本部は、かつてない熱を帯びていきました。
「……ねえキュラド様。もしパパさんが『お前には娘を渡せん!』って言ったら、どうするつもり?」
コイカミの投げかけたその問いは、静まり返った学園の空気を一瞬で凍りつかせました。
マナー本をめくっていたキュラドの手がピタリと止まり、紅い瞳が本から離れて、暗闇の向こう側にある「最悪のシナリオ」を見据えるように細められました。
「……『渡せん』だと?」
「そうだよ。『お父さん』ってさ、相手がどれだけハイスペックで誠実そうでも、理屈抜きで『嫌だ!』って言う生き物なんだから。魔術も効かない、論理も通じない、ただの頑固な親父の拒絶。そうなったらどうするの?」
コイカミが面白がるように、けれど核心を突く鋭い視線で問いかけます。キュラドはしばらく無言で、自身の指先を見つめていました。
「……力ずくで奪うのは容易い。エスの精神を書き換え、過去を消去し、永遠に城に閉じ込めることも、俺の魔力をもってすれば造作もないことだ」
キュラドの声は、いつもの冷徹で傲慢な吸血鬼のトーンに戻っていました。しかし、彼はすぐに自嘲気味な笑みを浮かべ、首を横に振りました。
「だが……それでは意味がない。リョクの言う『誠実さ』の対極にある行為だ。それに、もしそんなことをすれば……エスは二度と、俺に笑いかけることはなくなるだろう」
キュラドは手に持っていたマナー本を閉じ、静かに机に置きました。
「もし、拒絶されたなら……認められるまで、俺は何度でも足を運ぶ。無口な父親が沈黙を貫くなら、俺はその沈黙に寄り添い、時間の概念を無視して待ち続けるだけだ。全てはエスを手に入れる為、俺は何でもやる覚悟を決めている」
「……へぇ。切実だねえ」
「エスの帰る場所をここにするためには、外因的な強制ではなく、彼女の『意志』と、それを支える『家族の承諾』が必要なのだ。……それがどれほど非論理的な回り道であっても、俺はそれを攻略する」
コイカミは、キュラドのあまりに真っ直ぐで執着に満ちた回答に、今度こそ呆れたように溜息をつきました。
「……本当、執念深いね。まあ、そのくらいの気概があるなら、パパさんも案外、根負けしちゃうかもね」
「フン、根負けなどさせん。……俺の『誠実さ』に、ひれ伏させてやる」
そう宣言するキュラドの背中は、もはや吸血鬼としての威厳ではなく、一人の「絶対に引き下がらない男」の決意に満ちていました。
キュラドは再び本を開き、次々と読み進めていきます。もはやコイカミの存在すら意識の外にあるかのように、「結納」や「贈答の作法」が書かれた本を食い入るように見つめ、時折、何事かを手帳に書き留めています。その横顔には、禁忌の魔術書を読み解く時以上の、凄まじい集中力が宿っていました。
そんな彼の様子を横目で眺めながら、コイカミはふっと、窓の外に広がる夜空へと視線を移しました。
「パパ……両親、かあ……」
口からこぼれた言葉は、夜の闇に吸い込まれるように消えていきました。 学園の地縛霊として生まれてからは過去も未来もなく「今」という時間の中で漂い続けている彼女にとって、それはあまりに遠く、輪郭のぼやけた記憶です。
(……わたしのパパも、ちょっと怖かったっけ。それでも、優しかったな)
ふと思い出したのは、背後から自分を呼ぶ低い声や、大きくて少し無骨な手の温もり。怒られた時の気まずさや、それでも最後には笑い合っていた、ありふれた家族の光景。
「……わたしのパパなら、キュラド様を見てなんて言ったかな」
誰に聞かせるでもなく呟き、コイカミは透き通った手を夜空へ伸ばしました。星の光が、彼女の指先をすり抜けていきます。
彼女にはもう、守ってくれる親も、自分のために頭を下げてくれる恋人もいません。けれど、目の前で「誠実さ」という正体不明の概念と戦っているこの偏屈な吸血鬼と、彼が守ろうとしている震えがちな少女の物語が、今は少しだけ愛おしく感じられました。
「ま、精々頑張りなよ、キュラド様。……ハッピーエンドじゃないと、わざわざ本を貸してあげたわたしの立場がないからさ」
コイカミの呟きは、集中しているキュラドの耳には届いていませんでした。
コイカミは小さく笑うと、再びキュラドの隣で、静かに夜が明けるのを待つことにしました。窓の外では、夜明け前の深い青色が、ゆっくりと広がり始めていました。
東の空が白み始め、夜の終わりを告げる薄青い光が差し込み始めました。
「キュラド様、もう夜明けだよ。早く帰らないと、日光苦手なんでしょ?」
コイカミの声に、キュラドはハッと顔を上げました。手元には、付箋とメモで膨れ上がったマナー本と小説。彼は本と、白んでいく空を交互に見た後、深い溜息と共に呟きました。
「……やむを得ない。シミュレーションはここまでにしよう」
本を丁寧に閉じ、立ち上がるキュラド。その表情には、万全の準備を整えたはずの自信と、それでも拭いきれない「未知の領域」への微かな不安が同居していました。
「あはは、そんな不安そうな顔しちゃって。大丈夫だよ。根拠はないけどさ、今のキュラド様、結構『必死な男』に見えるから。パパさんも、その必死さには弱いかもよ?」
コイカミが浮遊しながら、いたずらっぽく、けれど温かい眼差しで彼を見つめます。キュラドはマントを整え、いつもの不遜な態度を少しだけ取り戻しながら鼻で笑いました。
「……フン。根拠がない言葉に何の価値もない。……が、今は素直に感謝しよう。女神」
「……あ、今の今の! その『ちょっと素直になっちゃった』感じ、本番でも出しなよ! 絶対そっちの方がいいって!」
「黙れ。本番ではもっと、鋼のような誠実さを見せる」
キュラドは背を向けて歩き出し、影に溶け込む直前、一度だけ振り返って短く「……本は、借りていくぞ」と言い残しました。
城へ戻る道すがら、キュラドは心の中で「緊張」という単語の定義を上書きしていました。それはもはや擬態のための道具ではなく、大切なものを守るために、強大な力を持つ吸血鬼ですら抱いてしまう、あまりに人間臭い感情へと変わりつつありました。
朝の光が街を白く染め上げる中、キュラドはなんとか城の自室へと帰りました。
徹夜で「誠実さ」を詰め込んだ代償は、強力な禁忌魔術を使った後よりも、ずっと重く彼の精神にのしかかっているようです。
「エス、起きろ。今日はXデーだ」
低く、しかしどこか切迫感のある声に、ベッドで丸まっていたSPがパチリと目を開けました。
「ん……キュラド……お、おはよう……。キュラド……な、なんだか……顔色が、す、すごく……悪くない……?」
「お早う、と言いたいところだが……俺は一旦眠る……。何故だか分からんが、魔力が霞んで疲れている。時間までには万全に整えておく……」
キュラドはそう言うと、いつもの優雅な足取りもどこへやら、ふらりと壁に手をつきました。古今東西の魔術書を読破してもこれほど疲弊しなかった彼が、たった数冊の「マナー本」と「恋愛小説」に精神エネルギーを根こそぎ持っていかれたのです。
「だ……大丈夫……? あ、挨拶は、今日の、夜……だけど……」
「ああ、心配するな。元々日中は調子が優れない上に……少し精神に負荷をかけてしまったようだ。一眠りすれば、魔力も元に戻る。」
キュラドは最後にそう言い残すと、そのままベッドへと沈み込んでいきました。
SPは、かつてないほど疲弊したキュラドの姿見ながら(こんなになるまで必死に……お父さん対策、してたのかな……)と、これからやってくる本番へ不安をさらに強めました。
徹夜の「攻略準備」で疲れ果てたキュラドの、静かで規則正しい寝息だけが聞こえる寝室。そんな静寂を破るように、SPのスマホが「チリン」と無機質な通知音を鳴らします。震える手で画面を確認すると、そこにはあまりに屈託のない母親からのメッセージが表示されていました。
『18時ごろに駅に着くように行くからね。楽しみにしてます。』
「……け、決戦は、18時…………」
SPはスマホを握りしめたまま、ガタガタと震え始めました。 あと12時間足らず。時計の針が無情に刻む音が、まるで処刑台へのカウントダウンのように聞こえます。
ふと横を見ると、あんなに自信満々だったキュラドが、今は見たこともないほど深い眠りに落ちています。その枕元には、付箋だらけの小説とマナー本が転がっていました。
(……キュラド、あんなに頑張って調べものして。……でも……お父さんは無口だし、お母さんは……楽しみにしてるなんて言ってるし……)
期待に胸を膨らませる母と、沈黙の要塞である父。 そして、その二人に挑むために「誠実さ」を魔術のように分析し、ボロボロになって眠る吸血鬼。
SPは、胃のあたりをぎゅっと押さえながら、ベッドの端に力なく腰を下ろしました。
(どうしよう……。絶対なにか……起きちゃうよ……)
外は皮肉なほどに綺麗な青空が広がっていますが、SPの心の中は、18時の駅の改札口で待ち構える運命への恐怖で真っ暗。緊張のあまり、もはや朝ごはんを食べる気力すら起きないのでした。
夕闇が迫り、建物の影が長く伸びる17時。
それまで死んだように眠っていたキュラドが、まるで精巧な機械が起動するかのように、一点の淀みもなく上体を起こしました。
「……時間か。体調は良好。魔力も回復し、脳内のシミュレーション結果は全て定着した」
その瞳には、今朝の疲弊など微塵も感じさせない、冷徹で鋭い眼光が宿っています。彼は迷いなく立ち上がると、動揺して部屋の隅で小さくなっていたSPを一瞥しました。
「何を呆然としている、エス。……さあ準備だ。まずは身なりを整える。リョクとハナヒメ、そして女神の助言を統合した結果、選ぶべき解は一つしかない」
キュラドはクローゼットを開くと、そこにはシワ一つない深い紺色のスーツが用意されていました。吸血鬼の正装である華美なマントやフリルを一切排除した、若くてフレッシュなよそ行きの大学生らしいスタイルです。
「シャツの襟の角度、ネクタイの結び目、そして……」
キュラドはあえて少しだけ、本当にわずか数ミリだけネクタイを緩めました。
「完璧すぎては『胡散臭い』。リョクのアドバイス通り、わずかな『隙』を意図的に配置する。……よし、これでいい」
「……き、キュラド。……す、すごい……気合、だね……」
SPが震えながら声をかけると、キュラドは振り返り、練習した「誠実な、しかし少し緊張を含んだ微笑み」を完璧に、しかしどこか人間臭く浮かべて見せました。
「全てはお前を手に入れる為、この程度のことは当然だ。……準備はできているか、エス。決戦の地へ行くぞ」
「う、うん……さ、最終、チェックだけ、しよう……ね」
キュラドは静かに頷き、コイカミから借りた本を最後にもう一度だけ開き、一分の隙もない足取りで歩き出しました。
駅の雑踏の中、18時を告げるチャイムが遠くで響きました。
SPはもはや立っているのがやっとというほど顔色を失い、自分の心臓の音が耳元でドラムのように鳴り響くのを感じていました。一方、その隣に立つキュラドは、恐ろしいほどの静寂を纏っています。紺色のスーツに身を包んだ彼は、背筋を正しながらも、リョクの助言通り「指先をわずかに震わせる」という、計算し尽くされた『緊張の擬態』を完璧にこなしていました。
その時、自動改札のゲートが開き、二人の人物が姿を現しました。
「あ、エス! こっちこっち! 元気にしてた?」
真っ先に笑顔で大きく手を振りながら駆け寄ってきたのは、電話の声そのままの明るい母親でした。しかし、SPとキュラドの視線は、その数歩後ろから、重厚な足取りで歩いてくる「影」に釘付けになります。
「…………」
無口な父親。
彼は、娘の隣に立つ見慣れぬ「男」を認めた瞬間、眉間に深い、深い皺を刻みました。その鋭い眼光は、まるで不法侵入者を検閲する門番のように、キュラドの頭の先から靴の先までを冷徹に射抜きます。
「あっ……お、お父さん……お母さん……っ」
SPが消え入りそうな声で絞り出すと、隣のキュラドが動きました。
「……ッ」
キュラドはあえて言葉を詰まらせ、ワンテンポ遅れてから、深く、深く頭を下げました。角度は練習通りに最敬礼です。
「……初めまして。キュラドと申します。本日は……その、お忙しい中、わざわざお越しいただき……誠にありがとうございます」
声は低く落ち着いていながらも、末尾が微かに震えています。徹夜のシミュレーションと借りた本から学んだ『娘を思う父親に気圧される誠実な青年』の出力です。
母親は「あらあ! 声もカッコよかったけど実物もイケメンさんねぇ!」とはしゃいでいますが、父親は未だ無言。ただじっと、キュラドの顔を何やら恐ろしい鑑定眼で見つめ続けています。
駅の改札前、再会の喜びを爆発させる母と、石像のように沈黙を貫く父。そして、全て魔力を「誠実な青年への擬態」に変換して耐えるキュラド。
SPの胃の痛みは、ついに限界を迎えようとしていました。
駅の改札から焼肉屋へと向かう道中、戦場はキュラドが予想していた「無口な父との心理戦」とは少し異なる様相を呈していました。
「近くで見ると、モデルさんみたいに背が高いのねえ。何センチあるの?」
「185センチです。……およそですが」
「どこの大学に通ってるの? 理系って仰ってたけど、学部は? 専門は何なの?」
「大学はこの近くの──」
母親の機関銃のような質問攻めに対し、キュラドは完璧な「対・異性モード」を無意識に発動させていました。
「──の、理学部です。専攻は……古い数理モデルの解析です」と、嘘ではない範囲で極めて知的に、かつ謙虚に答えていきます。
(……ふむ、やはり母親は容易い。波長を合わせるのは容易だ。このまま彼女の好感度を維持しつつ、背後の要塞を……)
キュラドが母親を鮮やかにいなしながら、背後の父親へ意識を向けたその時です。
ずっと石像のように沈黙していた父親が、キュラドではなく、隣でガタガタ震えているSPへと、地響きのような低い声をかけました。
「……元気だったか」
「は、え、っ……! う、うん……げ、元気……っ!!」
あまりに突然の直球に、SPの声は見事に裏返りました。
父親は、裏返った娘の声を聞いても表情一つ変えず、ただじっと娘の顔を見つめています。その視線には、「この男に何かされていないか」「無理をしていないか」という、言葉にできない重苦しい心配と、それを隠すための不器用な厳しさが凝縮されていました。
(……しまった。俺ではなく、エスの様子から真実を読み取ろうとしているのか……!)
キュラドの脳内シミュレーションが激しく書き換えられます。
母親はキュラドの「完璧な擬態」に目を奪われていますが、父親の方は、キュラドというフィルターを透かし、その影響を受けている「娘の変容」を直接観察している。
SPが「あわわ……」と視線を泳がせれば泳がせるほど、父親のキュラドを見る目は「胡散臭い男」から「娘を怯えさせている不審者」へと格下げされていくのでした。
(キュラド、助けて……! お父さんの目が……怖いよぉ……!)
(馬鹿、エスめ……!お前がそのような態度だと余計怪しまれる……ッ!)
二人はアイコンタクトで会話します。
キュラドの脳内シミュレーションは早くも崩壊の危機でした。
某所、焼肉屋。
店内に漂う香ばしい肉の香りと、賑やかな客の声。しかし、SPたちの座るボックス席だけは、まるで重力の層が一段深くなったような独特の緊張感に包まれていました。
「さあ、遠慮せず注文してね。ご馳走するから」
母親が明るく差し出したメニュー。それを受け取ったキュラドは、指先が触れるか触れないかの絶妙な所作でSPの方へとそれを向けました。
「……ありがとうございます、お母様。エス、何がいい? エスが食べたいものを注文しよう」
「好青年モード」のスイッチを全開にしたキュラドは、SPを覗き込む視線に、甘さと誠実さを 5:5 で配合した極上の光を宿します。徹夜で読み込んだ『恋愛小説』のテクニック──「選択権を女性に譲る際の余裕」の具現化です。
「え、え、えっと……じ、じゃあ……た、タン塩……と……」
「……ふむ。まずはタン塩か。いい選択だ」
SPが震える指で指差す項目を、キュラドは優しく肯定します。その横顔は、誰がどう見ても「内気な彼女を優しくリードする理想的な彼氏」そのもの。母親は「まあまあ、仲が良いのねぇ」と目を細めていますが、問題はその隣です。
「…………」
父親は、メニューを見るキュラドの視線の動き、SPとの距離感、そして何よりキュラドが発する「洗練されすぎた空気」を、黙ったまま検品するように見つめています。
父親の手は、膝の上で固く握られたまま。
彼にとって、目の前の男が「完璧」であればあるほど、「娘を丸め込んでいるのではないか」という疑念の城壁が、一気に高く積み上がっていくようでした。
(キュラド、お父さんが……一言も喋らないまま、すごい威圧感を……出してるよぉ……!)
SPはメニューの裏側で、キュラドに助けを求めるように視線を送ります。
するとキュラドは、SPからメニューを引き取ると、意を決したように向かい側の「要塞」へと視線を向けました。
「……お父様。何か、特にお好みの部位や、お酒の肴になるようなものはございますか? エスさんの話では、お父様は……その、あまり多くを語られないけれど、こだわりをお持ちだと伺っております」
リョクから教わった「相手の誇りの尊重」と、昨夜シミュレーションした「無口な相手への適切な情報収集」の合わせ技。
父親の視線が、ゆっくりとキュラドの瞳とぶつかりました。
「……君は、何を飲むんだ」
その一言には、「男の付き合いができるか」という確認と、酒に酔った際の隙を見定めようとする、父親ならではの鋭い意図が込められていました。しかし、その刹那、隣で顔を真っ青にしていたSPが、椅子から浮き上がるほどの勢いで叫びました。
「お、お父さん! キュラドは……っ! 19歳だから……! ま、まだお酒は……っ! 飲めない歳だから……!!」
実際にはお酒どころか、水一滴すら飲まない吸血鬼です。しかし表向きの設定を準拠する以上、この世界では法に縛られた「未成年の大学生」です。SPの必死すぎる制止に、父親の眉がぴくりと動きました。
「……19、か」
「はい。……お父様、せっかくのお誘いですが、未熟者ですみません。今は……緑茶を頂きます」
キュラドは、リョクとの特訓で学んだ「誠実な若者の微笑み」を崩さず、静かに、しかし毅然とした態度で答えました。
酒という共通言語を失ったことで、父親の「男の品定め」は、より純粋な立ち振る舞いや、肉を焼く際の手際に絞られることになります。
「…………そうか。ならいい」
父親はそれだけ言うと、手元の冷え切ったお冷を一口飲み、運ばれてきたタン塩の皿をじっと見つめました。
(危なかった……! 急にお酒の話されて、キュラドが大学1年生の設定が……崩壊するかと思った……!)
SPが胸をなでおろす横で、キュラドの脳内では凄まじい速度で計算が続いていました。
「……お父様、網が温まったようです。まずは、こちらからお焼きしてもよろしいでしょうか」
キュラドは、まるで儀式用の短剣を扱うような精密さでトングを手に取り、一番状態の良い肉へと手を伸ばしました。
戦場は今、静かな「焼き肉の儀」へと移行しようとしています。
脂の爆ぜる音と、母親の快活な喋り声。
キュラドは完璧なタイミングで肉を裏返しつつ、同時に母親から繰り出される「趣味は何?」「休日はどこへ行くの?」という質問の波を鮮やかにさばき続けていました。
(……ふむ、母親の意識は完全に掌握した。ここまでは計算通りだ)
しかし、そのとき。キュラドは背筋を走る奇妙な違和感に気づきました。
隣に座る父親の、底冷えするような沈黙。
その眼光は肉でも母親でもなく、ただじっと、キュラドの「手元」と「呼吸」だけを凝視しています。
(……しまった。母親との対話にリソースを割きすぎた。認識阻害魔術は上手く機能しているのか……?)
極度の集中と緊張の演技に気を取られ、魔術展開に綻びが生じていました。キュラドは誰にも悟られぬよう、テーブルの下で指先を細かく動かし、認識阻害魔術の術式を重ねがけしようとします。
しかし、今日の彼は「誠実な青年」として、全神経を肉の焼き加減と愛想笑いに注ぎ込んでいます。展開した術式は、その効果が果たして有効に機能しているのかの判別すらできません。
「だ……大丈夫……?」
隣でガタガタと震えるSPが、キュラドの焦燥感のようなものを敏感に察知して、不安そうに袖を引きました。
「……大丈夫だ。……少し"緊張"している」
キュラドは心なしか「緊張」という単語を強調して話します。絞り出したその言葉は、果たして父親を安心させるための高度な演技なのか。あるいは、百戦錬磨の吸血鬼が、たった一人の「人間の父親」の沈黙に気圧された本音なのか。本人ですら、その境界線が曖昧になっていました。
「……うむ」
その時、父親がついに動きました。
彼はキュラドの焼いた肉を一欠片、箸でつまみ上げると、それをじっくりと観察してから口に運びます。
(キュラドが焼いたお肉……お父さんが……お父さんが食べてる……! どうしよう……焼き加減とか、合わなかったら……)
SPはもはや、自分の分の肉に手をつける余裕すらありません。
父親は黙々と肉を咀嚼し、やがて一瞬だけ鋭い視線を落とした後、再びキュラドの目を見ました。
「…………焼き方は、悪くない」
その言葉は、合格点なのか、それともさらなる追求への合図なのか。
次の瞬間、店内の喧騒が遠のき、テーブルの上の空気が一変しました。
「……卒業後の進路はどうする。娘を養う覚悟はあるのか」
父親の言葉は、19歳の学生に向けたものとしてはあまりに重く、逃げ場のない刃でした。隣の母親も、それまでの朗らかさを消し、一人の親として、キュラドの魂の在り方を問うような真剣な眼差しを向けています。
「卒業後は……」
キュラドの脳内では、昨夜読み耽った小説の「一生守ると誓います」という台詞や、マナー本の「将来設計の提示」といったテンプレートが、火花を散らすように駆け巡りました。
(……ここで『誠実な将来』を語るか? だが俺の未来は、こいつらの物差しでは測れん。数百年、数千年、俺という存在の永劫の中に、エスを繋ぎ止める……それが俺の論理だ。それを、この『誠実』という狭い枠にどう押し込めばいい……?)
「まだ入学したばかりの身ですから、将来へのビジョンはまだ甘く……」
キュラドは話しながら言葉を探します。
誠実とは、何か。ここで偽りの『誠実』を並べたところで、この父親が納得できるのか。偽りの姿で得た評価に何の価値があるのか。
「しかし彼女との関係は……決して遊びでは……」
計算が、理論が、そして「擬態」という名の嘘が、限界を迎えました。
キュラドは低く、地を這うような声で吐き捨てました。
「…………やめた」
「え、きゅ、……キュラド……っ?」
SPが息を呑む隣で、キュラドは背筋を伸ばし、腕を組みました。猫を被っていた柔らかな輪郭が消え、絶対的な捕食者の威厳が溢れ出します。
「こんな茶番に、何の意味もない。言葉を飾り、作法を模倣し、矮小な存在に成り代わってまでお前たちの機嫌を伺うなど……合理性の欠片もなかったな」
キュラドは深くため息をつくと、好青年の仮面を完全に脱ぎ捨て、伏せていた顔を上げました。
吸血鬼の特徴である紅い瞳が夜の宝石のようにギラつきます。吸血鬼としての本質的な「熱」と「冷酷さ」が混じり合った視線が、真正面の父親を射抜きました。
「…………っ」
父親の肩が、初めてビクリと震えました。
母親も言葉を失い、目の前の「青年」が、実は全く別の、得体の知れない強大な存在であることに、本能的な恐怖を感じて硬直します。
「俺に『卒業後の進路』などという概念はない。この世の理がどう変わろうと、俺が俺であることに変わりはない。……そして、娘を養う覚悟だったな?」
キュラドは不敵に、そしてどこか残酷なまでに美しく唇を歪めました。
「そんな軟弱な言葉で測るな。……俺は、エスという存在を、この世界のあらゆる不条理、老化、そして死からさえも、俺の執着が続く限り守り抜くことができる唯一の存在だ。お前たちが土に還った後も、彼女が孤独に泣かぬよう、俺の隣に繋ぎ止める。……これが俺の誠実さだ。不服か?」
「え、えっ……キュラド……!」
SPは、あまりの衝撃に椅子から転げ落ちそうになりながら、真っ赤になってキュラドの袖を掴みました。
しかし、キュラドは止まりません。
リョクの言う「誠実さ」を、吸血鬼としての「エゴ」で強引に翻訳した結果、彼は最悪で最高の「告白」を、震える両親に叩きつけたのでした。
焼き肉の網の上で、肉の脂が激しく爆ぜました。その音さえも、今のキュラドが放つ圧倒的な「真実」の前では、ひどく遠い世界の出来事のように感じられます。
「……ち、ち、ちが、違うの! お父さん、キュラドは、ちょっと……その、ちゅ、厨二病っていうか、せ、設定!そう、設定!がすごくて……っ!」
SPが涙目で必死にフォローを入れようとしますが、キュラドはそれを冷徹な、けれどどこか慈しむような手付きで制しました。
「……黙っていろ、エス。お前の両親に、これ以上の嘘はつきたくない」
キュラドは真っ直ぐに父親の目を見据え、隠していた「正体」を静かに解き放ちました。彼が指先をくるりと動かすと、指先から怪しげな光が浮かび上がり、テーブルの上にあった緑茶の湯気が一瞬にして凍りつき、美しい氷の結晶となって宙に浮きました。さらに、周囲の喧騒がふっと消え、まるでこのボックス席だけが異空間に切り取られたかのような静寂が訪れます。
「……俺は人間ではない。バケモノだ」
その告白に、父親の顔から血の気が完全に引きました。母親は持っていた箸を落とし、震える唇で「……なにこれ……?」と呟くのが精一杯でした。
「……故に、人間であるエスと結婚はできない。同じ生計で暮らすことも、子を成すことも、不可能だ。お前たちが望むような『真っ当な幸せ』を、俺はこの娘に与えてやることはできん」
キュラドの声は、低く、重く、そして残酷なまでに誠実でした。
「だが、俺にはエスが必要だ。理由などない。しかしこれほどまでに俺を狂わせる存在は、他にいないのだ。必要だから、俺はエスを求めている。これは俺のエゴだ」
「誠実さ」を分析し続けた吸血鬼が辿り着いた答え。それは、着飾った言葉ではなく、剥き出しの「本心」を晒すことでした。娘を愛し、その幸せを願う父親に対し、彼は「幸せにできない」と断言しながら、それでも「離さない」と告げたのです。
(キュラド……そんな……正直すぎるよ……)
SPは、恐怖と、そしてそれ以上にキュラドのあまりに身勝手で真っ直ぐな言葉に胸が締め付けられ、自分でも気づかないうちに彼のスーツの裾をぎゅっと握りしめていました。
沈黙。
焼肉屋の片隅で、世界の理から外れた化け物が、一人の人間の父親の審判を待っています。
父親は、宙に浮く氷の結晶を見つめ、それから自分を睨みつけるキュラドの紅い瞳を見つめ、次に、震えながらもキュラドの側に寄り添っている娘の手を見つめました。
沈黙を一旦破ったのは母親でした。
「……エスはどう思ってるの? キュラドさんのこと、好き? 結婚できなくても、子供ができなくても、いいの?」
母親の問いは、先ほどまでのキュラドの圧倒的な独白とは打って変わり、静かで、重く、そして母親としての深い愛情に満ちたものでした。
その問いの鋭さに、SPの思考は真っ白になりました。
「普通の幸せ」を願っていた両親の顔と、隣にいる「バケモノ」の、あまりに強烈な告白。自分が選ぶ答えが、自分のこれからの人生を決定づけてしまう──その重圧に、SPの呼吸が浅くなります。
思わず、隣にいるキュラドに助けを求めるように視線を送りました。
キュラドは、紅い瞳に宿っていた冷徹な光をわずかに和らげ、SPの震える手をテーブルの下でそっと、けれど力強く包み込みました。
「……エス。正直に言えばいい」
その声は、傲慢な吸血鬼としての命令ではなく、一人の男としての、どこか祈りに似た響きを持っていました。
「目の前にいるのは敵ではない。お前を心から大切に思っている、お前の家族だ。俺に気を使う必要はない。誰もお前の言葉を遮らない。お前の、本当の『意志』を口にしろ」
キュラドの言葉は、SPに対する深い信頼に満ちていました。掌から伝わってくる、吸血鬼らしい少し冷たい温度。それが今のSPには、どんな暖炉よりも心強く感じられました。
「…………う、うん。わかった」
SPは一つ、大きく深呼吸をしました。
鼻に突く肉の匂いも、店内の喧騒も、今はすべてが遠い。目の前で、自分を心配そうに見つめる母親と、固く口を閉ざしたまま答えを待つ父親。
「……わ、我……わ、わた、わたし……」
SPは、キュラドの手を握り返しました。
「……キュラドは……わ、わがままだし……偉そうだし、な、何、考えてるか……わ、わかんないし……。い、いっつも……わた、わ、わたしの、こと……ふ、振り回して……ばっかり、だけど……」
ぽつり、ぽつりと。
マナー本にも、恋愛小説にも書いていない、不器用で格好悪い、けれど真実の言葉がこぼれ出します。
「……でも……わ、わ、わた、わたしの、この……力のことも、う、美しい、力だって……言ってくれて……。そ、それでね、力が、暴走しないように……とか、わ、わたしが、困らないように……いろいろ、研究、してくれたんだよ……。こ、この力のこと……き、嫌いだったのに、今はね、ちょっと……違うんだ……」
SPは自分の手をしばらく見つめました。カタカタと震える手をきゅっと握り、さらに自分の意思を告げていきます。
「……キュラドに、出会って、わ、わたし、変われたんだよ……だから……わ、わ、わたし、キュラドが……好き……。こ、こんなわ、わたしを……ここまで……ひ、必死に……た、大切に、してくれる人は……ほ、他にいないから……っ」
SPは顔を上げました。頬は赤く、目には涙が溜まっていましたが、その瞳はしっかりと両親を見据えていました。
「……け、結婚とか……こ、子供とか……。お、お父さんたちが……し、心配するのは……わかるよ……。でも、わたし……この人の、隣で、笑っていたい……。キュラドの……『エゴ』に……わ、わたしも……つ、ついていきたい……って……お、思っちゃったの……!」
言い切った瞬間、SPは力尽きたように俯き、キュラドの肩に額を預けました。
キュラドは驚いたように目を見開き、それから、深く、深く安堵したように息を吐き出します。しっかりと自分の意思を言い切ったSPを労うように、彼女の背中を撫でました。
「……だ、そうだ。……聞いたな、ご両親」
キュラドは誇らしげに、そして挑発的に、沈黙を守り続けていた父親を睨みつけました。自分の肩に額を預けて震えるSPの温もりを感じながら、独白を続けます。その声はもはや最強の吸血鬼のものではなく、自らの矛盾に引き裂かれ、それでも愛を捨てきれない一人の男の吐露でした。
「……エスはまだ子供だ。人間社会で生きていくにあたって、経験が浅く、現実を知らない。……いずれ、逃れられない現実の壁に当たり、俺との『違い』に絶望する日が来るだろう。そして、俺の元を離れることを選ぶ……。俺は、今でもそう考えている」
父親の目が、微かに揺れました。目の前の化け物が、娘の若さと無知を食い物にしているのではなく、むしろ娘がいつか自分を捨てて「正しい世界」へ帰る日を、誰よりも恐れ、予見しているのだと悟ったからです。
「エスを手放したくないのは、俺のエゴだ。だから……エスが自分の意志で俺の側にいることを選択し続ける限りは……この、永劫とも言える命に換えても……」
言葉の最後は、形にならない決意となって夜の空気に溶けていきました。キュラドは、震える手でSPの濡れた頬に触れ、宝物を扱うような手付きで、そっとその涙を拭いました。
その時、ずっと沈黙の要塞を築いていた父親が、ようやく重い口を開きました。
「…………肉が焦げている。食え」
「え……?」
SPが顔を上げると、父親は相変わらず眉間に皺を寄せたまま、けれどどこか吹っ切れたような手付きで、網の上の肉を皿へと移しました。
「……先のことは、分からん。人間同士でも、添い遂げるのは難儀なものだ。……だが。口下手な娘がこれほどまでに『自分の意志』で言葉を紡いだのを、俺は初めて見た」
父親はキュラドを真っ直ぐに見据え、短く、けれど断定するように告げました。
「お前のその『エゴ』とやら、せいぜい最後まで貫き通せ。……娘が泣いて帰ってくるような真似をすれば、たとえ化け物相手だろうと、俺が黙ってはいない」
「……お、お父さん……っ!」
「お父さんったら……もう、素直じゃないんだから」
母親が堪えきれず、ふふっと笑い声を漏らしました。
キュラドは一瞬、呆然としたように父親を見つめていましたが、やがてフッと不敵な、それでいてどこか晴れやかな笑みを浮かべました。
「……言われずとも、貫いてやる。俺の執着を甘く見ないことだ、お父様」
再び、網の上で肉が爆ぜる音が心地よく響き始めました。
偽りの擬態でも、借り物の誠実さでもない。
「化け物の本性」を晒して手に入れた、不器用で、けれど確かな家族の晩餐がそこにはありました。
母親が感極まったように目尻を拭いながら、ぽつりと呟きました。
「……エス、あなた。……本当に、愛されてるのね」
その言葉に、SPが顔を真っ赤にして固まった瞬間、キュラドは迷いなく、けれど静謐な響きを伴って即答しました。
「ああ、愛している。……それが不条理で非論理的な感情であったとしても、俺が彼女を求めているという事実に、もはや疑いの余地はない」
「……ううう……っ!」
SPが湯気を出しそうなほど顔を伏せる一方で、そのあまりに真っ直ぐな、そして「バケモノ」らしい極端なまでの熱量に、テーブルの空気は一気に和みました。父親も「……ふん」と視線を逸らしましたが、その口元はわずかに緩んでいます。
すると、これまでの緊張から解き放たれた母親が、本来の旺盛な好奇心を爆発させました。
「ねえ、そうなると……さっき『バケモノ』って言ったけど、具体的にどういう種類の? お化け? 吸血鬼? 狼男? さっきの氷の、魔法……?とっても綺麗だった!」
キュラドは腕を組み、自慢の牙を見せつけるように口を開きます。
「……俺は吸血鬼だ。血を啜り、魔術を使役する。日光の下を歩くことはできず、消化器官も機能していないため、お前たちの人間のような食事を摂ることもできない」
「わあ、吸血鬼さんなのね!」
「……だがその定義も曖昧だ。自分が本当は何者であるのか、俺は知らない。俺とは、19年前のある日突然目覚めた時からの記憶しか持たない、ただひたすらに自分の正体を探し続けている空虚な存在だ」
キュラドは、もはや取り繕うのをやめ、淡々と自らの特異な生態を語り始めました。SPを愛することを選んだ以上、彼女のルーツであるこの両親に対しても、自身の真実を「研究成果」のように開示することに決めたのです。
「でも、そっか、ご飯食べられないんだったら……じゃあ、今のこのお肉は……?」
「エスのために焼いているだけだ。先ほどから俺は1枚も手をつけていない。……俺の住まいである城は異空間にあり、内装も俺の気分で常に作り変えているが、そこにキッチンなどというものは存在せん」
「異空間!? 内装が変わるの!? まあ、引っ越し要らずでいいわねぇ……」
「……お母さん、そ、そこ……感心するところ……?」
母親の、恐怖を通り越した圧倒的な受容力に、SPは呆れ顔。しかし、キュラドは意外にもその「未知への興味」に悪い気はしなかったようで、ふと胸元から一枚の紙を取り出しました。
「……先日、エスから素晴らしいインクを贈られた。その礼に、俺の魔術を込めて作った護符を彼女に渡したのだが……。もし貴殿らが望むなら、同じような術式を組み込んで貴殿らにも提供しよう」
「あら! お守り? 嬉しいねぇ、お父さん!」
「…………ああ」
父親は、相変わらず無口なまま、けれど今度はしっかりとキュラドの顔を見て頷きました。そこには、得体の知れない存在への恐怖ではなく、不器用ながらも娘を、そして自分たちを「身内」として扱おうとする男への、静かな信頼が芽生え始めていました。
夜は更けていきますが、焼肉屋の片隅で、人間と吸血鬼という決して交わらないはずの境界線が、肉を焼く煙と共に少しずつ溶けていくような、不思議で温かい時間が流れていました。
駅の改札前、電光掲示板が刻む時刻は、間もなく宴の終わりを告げようとしていました。夜の冷たい空気が、焼肉屋の熱気で火照った肌を心地よく撫でます。
「……じゃあ、もう行くね。エス、ちゃんと連絡してね。キュラドさんも、今日は本当にありがとう。今度はぜひ、あなたのお城に招待してね!」
母親は最後まで屈託のない笑顔で手を振り、隣に立つ父親を促しました。
父親は、最後まで多くを語りませんでした。しかし、去り際にキュラドの正面に立つと、その紺色のスーツの肩を一度だけ、無言で強く叩きました。
そこには、言葉以上の「……娘を頼む」という重みと、男としての奇妙な連帯感が込められていたように思います。
「…………承知した、任せておけ。お父様」
キュラドは背筋を正し、静かに、けれど力強く応じました。
二人の背中が改札の向こうへと消えていくまで、SPとキュラドは並んでそれを見送っていました。
「……ふぅ……っ……お、終わったぁ……っ……!!」
両親の姿が見えなくなった瞬間、SPはその場にへなへなと座り込みそうなほど、深い、深い溜息を吐き出しました。
「……酷い顔だぞ、エス。……だが、概ね成功したと見ていいのではないか?」
キュラドはいつもの傲慢な口調を取り戻しながらも、隣に立つSPの肩をそっと支えました。その指先は、吸血鬼らしからぬ極度の緊張状態によって、微かに熱を持っています。
「う、うん……。正直、キュラドが『自分はバケモノだ』って、い、言い出したときは、し、心臓が止まるかと思ったけど……」
「……フン。嘘を重ねるよりも、俺の『正体』を叩きつけた方が『誠実』であり、お前の父親という要塞を崩すには効率的だと判断したまでだ。……結果として、お前の意志も確認できたしな」
キュラドはそう言って、ふいと顔を背けました。耳の端が少しだけ赤いのは、きっと夜の冷気ではなく、SPの「隣で笑っていたい」という言葉を反芻しているせいでしょう。
「……さて。日付が変わる前に、城へ戻るとしよう。……これ以上人間の喧騒に身を置くのは、俺の研究に支障が出る」
不遜な言葉とは裏腹に、キュラドはSPの手を、指の間を埋めるようにしっかりと握りしめました。
「……帰るぞ、エス。よく頑張ったな」
「キュラドも、ね……」
月明かりの下、紺色のスーツを着た吸血鬼と、まだ少しだけ震えている少女。二人の影は重なり合いながら、夜の闇が支配する、静かな城への帰り道へと消えていきました。
静まり返った深夜の学園。月明かりだけが差し込む図書室に、紺色のスーツに身を包んだキュラドが姿を現しました。
窓際で夜空を眺めていたコイカミは、その気配に気づくと、ニヤニヤとした笑みを浮かべて宙を泳ぎながら近づいてきます。
「おかえり、キュラド様。……ボロボロになって逃げ帰ってくるかと思ったけど、案外しっかりしてるじゃない」
キュラドは無言で椅子の背もたれに深く腰掛け、ネクタイを乱暴に緩めました。
「……女神。お前の貸した本は、全く役に立たなかったぞ。特に『理想のプロポーズ』の項だ。あれは論理が破綻している」
「あはは! それ、作戦は大失敗だったってこと?」
「……いや。結果から言えば、要塞は陥落した」
キュラドはどこか遠くを見るような目で、窓の外の月を見上げました。
「俺は……擬態を捨てた。自分がバケモノであることを明かし、エスの人生を歪めてでも側に置くという『エゴ』を、そのまま父親に叩きつけてやった」
コイカミは一瞬、驚いたように目を丸くしましたが、すぐにクスクスと肩を揺らして笑い始めました。
「……最高に最低で、最高にキュラド様らしいね。で? パパさんはなんて?」
「『肉が焦げている、食え』……だそうだ」
キュラドは鼻で笑いながらも、その表情には隠しきれない満足感が漂っていました。
「人間というのは不可解だな。俺の正体を知ってもなお、娘を泣かせるなと説教をしてくる。……だが、あの男の無言の圧力に比べれば、禁忌の魔術書の解読など造作もないことだ」
「……ふーん、そう。良かったじゃない、パパさんに認めてもらえて」
コイカミは透き通った体で机の上に座り、楽しげに透けた足を揺らしました。
「あんなに必死になって、徹夜で『誠実さ』なんて調べて……結局最後は素直に自分を晒け出したわけだ。それこそ、一番の『誠実』だったのかもね」
「……フン。お前の解釈など興味はない。俺はただ、俺の所有物に手を出させないという確約を取りに行ったまでだ」
キュラドは立ち上がると、借りていた本を机の上に置きました。
「……だが、感謝はしておこう、女神。お前の暇つぶしに付き合ったおかげで……少しだけ、人間の『執着』の深さを理解できた気がする」
「……どういたしまして、吸血鬼様」
キュラドが影に溶けるように去っていくのを見送りながら、コイカミはポツリと「……パパさんかぁ」と呟き、再び夜空を見上げました。その顔は、少しだけ寂しそうで、けれどとても穏やかな微笑みを浮かべていました。
日曜日の午後。昨晩の決戦を乗り越えた達成感と、極限まで張り詰めていた緊張が解けた反動で、SPは泥のように深く眠っていました。
そんな彼女の枕元で、昨晩の主役であった吸血鬼は、すっかり活力を取り戻し、腕を組んでSPの寝顔を見下ろしています。
「……いつまで寝ている。そろそろ起きろ、エス。貴重な休日を、ただの生命維持のための睡眠で消費するつもりか?」
キュラドが少しだけ低めの声をかけると、SPは「……う、ん……」と小さく声を漏らし、重い瞼をゆっくりと押し上げました。
「……あ、キュラド……。おは……よう……? いま、何時……? もう朝……?」
「朝どころか、とうに正午を過ぎているぞ。お前がいつまでも起きないから、魔術式の改良研究を三冊分も終わらせてしまった」
ぶつぶつと文句を言いながらも、キュラドはSPが起き上がりやすいように、さりげなくクッションの位置を整えてやります。SPはぼんやりした頭で枕元のスマホを手に取り、画面を点灯させました。
「……あ、ヒメちゃんから……連絡来てる……」
画面には、親友であるハナヒメからの通知が数件並んでいました。
『エスさん、ごきげんよう。昨晩のご両親との面談……いえ、お食事会はいかがでしたか?』
『心配で、昨晩は私も中々寝付けませんでしたの。もしよろしければ、落ち着いた頃にお話を聞かせてくださいな』
最後には、返信がないことに不安を感じてしまったのか、彼女らしい泣き顔のスタンプまで添えられています。
「……ハナヒメか。……あの泣き虫の令嬢にも随分と心配をかけたようだな。どうする、エス。昨晩の『バケモノの告白』をそのまま伝えるつもりか?」
キュラドは少しだけ意地悪そうに、けれどどこか誇らしげに口角を上げ、SPが返信を打つのを横から覗き込もうとします。
「も、もう! キュラド、み、見ないでよ……!……なんて返そう……『お父さんに肉が焦げているって言われた』なんて言ったら、ヒメちゃん、も、もっと、混乱しちゃうよね……」
SPはまだ少し赤みの残る顔を隠しながら、大切な友達への返信内容を考え始めました。
しばらくの間打っては消して、打っては決してを繰り返して、首を一つ傾げた後に思い切って通話ボタンを押しました。
キュラドが横で「わざわざ通話か……」と鼻で笑いながらも、どこか興味深げに聞き耳を立てている中、スマホからはハナヒメの切羽詰まったような声が響きました。
「エスさん! ご無事ですか!? お返事がございませんでしたから、何かあったのかと心配で……! もしやキュラド様が暴走して、そのまま……!? 私、怖くて怖くて!」
「だ、大丈夫……。すごく、つ、疲れて……さ、さっきまで、寝てた……。ご、ごめんね……心配かけちゃって……」
SPはベッドの端に座り直し、ぽつりぽつりと昨晩のことを話し始めました。キュラドは自分の名が出てくるたびに、傲慢にふんぞり返りながらも、SPのたどたどしい言葉を遮ることなく見守っています。
「……あ、あのね……。キュラドが……お父さんたちの前で……じ、自分が『バケモノだ』って……本当のことを……い、言っちゃったの……」
「まあ……! キュラド様が、ご自身の正体を……!? それで、それでエスさんのご両親は……!?」
「……お、お父さんは……『肉が焦げている』って……言ってた……。ま、魔術も、見せちゃったから……す、すごく、びっくりしてたけど……。でも……わ、我の……気持ち……尊重してくれたの……」
電話の向こうで、ハナヒメの「……っ、ううっ……」という、鼻をすする音が聞こえてきました。
「……ヒメちゃん……? な、泣かないで……?」
「……ううっ、す、素晴らしいですわ! キュラド様が、エスさんのためにそこまで覚悟を決められたなんて……! なんて情熱的で、恐ろしくて、でも、なんて誠実な愛の形なのかしら……! エスさんが……エスさんがそんなにも愛されていることが、私、本当に……本当に嬉しいですわ!!」
ハナヒメは感極まった様子で、もはや自分のことのように号泣し始めてしまいました。
そんなハナヒメの様子をスピーカー越しに察したキュラドは、「……フン。相変わらず泣き虫なお嬢様だ。誠実さの定義を履き違えているようだが……まあ、あの要塞を陥落させたのだから、情熱的と言われても否定はせん」と、どこか満足げに呟きました。
「ヒメ!エスさんと電話か!?」
突然、電話の向こうから、リョクの少し掠れた、けれど血気盛んな声が聞こえてきます。
「エスさん! 師匠は無事か!? 師匠は、ちゃんと僕の教えた『誠実さ』を実践できたのだろうか!?」
SPが慌てて通話をスピーカーに切り替えると、キュラドは呆れたように肩をすくめ、スマホの画面に向かって尊大な態度で口を開きました。
「……リョク、お前の言葉は正しかったな。俺はこれ以上ないほど誠実に話してやったぞ。『俺はバケモノだ』とな」
一瞬の沈黙。その後、リョクの「なっ……!?」という驚愕の声が響き渡りました。
「し、師匠……! 擬態はどうされたのですか! あれほど練習した『好青年モード』は!? いやしかし……むしろそれは誠実すぎるぐらい誠実なのか……? 自分の正体を真っ向から晒すなんて、並の男にできることじゃない……!感服です!」
リョクは困惑しながらも、キュラドのあまりに極端な「誠実さ」の解釈に、どこか戦慄しつつ感銘を受けているようです。
「擬態など、俺の誇りが許さなかっただけだ。……結果、エスの父親という名の強固な要塞は、俺の『エゴ』という名の究極理論によって陥落した。……リョク、お前の助言は無駄ではなかった。感謝してやろう」
「……っ、師匠に感謝されるなんて……。ヒメ、聞いたか! 師匠はやっぱり、僕が尊敬する男……いや、漢だ!」
「まあ、リョク様……! また熱が上がってしまいますわ、落ち着いてくださいませ!」
電話の向こうで、ハナヒメが慌ててリョクを介抱する気配が伝わってきます。リョクは興奮のあまり咳き込みながらも「師匠、今度……その、攻略の詳しい手順を僕に教えてください。僕もヒメの父上やリンシン兄様に立ち向かう時に、その『エゴ』の使い方が必要になるかもしれない……」と、必死に食い下がっています。
SPは、スマホを挟んで繰り広げられる歪な師弟の会話を、苦笑いしながら眺めていました。
(……本当によかった。無事に終わって、なんとかなって)
SPは脳内でそっと呟き、キュラドの袖を小さく引きました。
「……キュラド。リョクくんたち、にも……か、感謝、だね……」
キュラドはフンと鼻を鳴らすと、SPの手を上から包み込みました。
「……まあ、今回ばかりは全員褒めてやろう。皆それぞれ良い働きをしたな」
通話を終えると、異空間にある城の寝室は、再び静謐な静寂に包まれます。
壁に据えられた燭台の灯りが、ゆらゆらと二人の影を長く壁に映し出していました。
「……ふう……」
SPはスマホを胸元に抱え、ゆっくりと息をつきました。
昨晩の焼肉屋での、あの嵐のような時間。
『俺にはエスが必要だ』『俺のエゴだ』と言い切った、キュラドの傲慢なまでに真っ直ぐな瞳。そして、今も指先で熱を持っているような「愛している」という言葉。
(……あんなに、はっきり……言われちゃうなんて……)
思い返すたび、胸の奥がくすぐったいような、それでいて熱い塊が込み上げてくるような感覚に襲われます。SPの口元には、自分でも制御できないほど幸せそうな笑みがこぼれていました。
「……エス。何をニヤついている。お前のその締まりのない表情は、観察対象として甚だ不可解だ」
すぐ隣で、腕を組んだキュラドが不審げに眉を寄せて覗き込んできます。薄暗い部屋の中で、彼の紅い瞳だけが、研究対象の異変を逃さまいと鋭く、けれどどこか熱を帯びて光っていました。
「な、なんでも……ない……っ! べ、別に……ニヤついてなんて……っ!」
SPは慌てて両手で頬を押さえ、顔を背けました。
しかし、左手の人差し指に付けられたルビーの指輪が、薄闇の中でキュラドの瞳と同じ色にキラリと輝き、彼女の隠しきれない高揚感を饒舌に物語っています。
「嘘だな。心拍数が上がり、末梢血管が拡張している。……昨晩の俺の言動の中に、それほどまでにお前の精神構造を揺さぶる数式でもあったか?」
「そ……そういうところだよ……っ」
SPは、脳内で(もう、ほんとに……)と呟きながら、薄暗い部屋の空気に甘えるように、キュラドの服の裾をぎゅっと握りました。
「……でも……ほんとに。……あ、ありがとう……キュラド。……わ、我も……キュラドと、い、一緒にいたい……って……思ってるよ……」
辿々しく紡がれたその言葉に、キュラドは一瞬だけ言葉を失い、それからふいと顔を背けました。
「……フン、当然だ。お前を手に入れるためにこれほどまでに手を尽くしてきたのだ。今更逃げられるなど、俺の計算には含まれていない」
そう言って、キュラドは大きな手でSPの頭を少し乱暴に、けれど慈しむように撫でました。そのままキュラドは自分の膝の上にSPを招き寄せ、大きな椅子に二人で身を預けます。
キュラドが広げたのは、羊皮紙が古びて褐色の色味を帯びた、分厚い魔術書。燭台の揺らめく火に照らされながら、彼はSPの背中を支えるように腕を回し、長い指先で文字列をなぞります。
「……見ろ、エス。この術式構成は非常に興味深い。空間を固定するために重力場の定数を一時的に書き換える手法だが、ここに『家族』という共同体の精神的波長を代入すると、防護壁の強度が飛躍的に上昇するという記述がある」
「え、え……? じ、じゅうりょく……? は、はちょう……?」
SPは膝の上で背筋を伸ばし、一生懸命にページを見つめますが、そこに並んでいるのは文字というよりは、幾何学模様が複雑に絡み合ったような、見たこともない紋章の羅列です。
「要するにだ。人間同士の強い執着……お前たちが『愛』と呼ぶ非合理なエネルギーは、物理法則さえも歪める触媒になり得るということだ。昨晩、お前の父親が見せたあの『沈黙による圧力』も、ある種の領域展開に近い現象だと推測できる」
「お、お父さんの……む、無口……魔術……なの……?」
「理論上はな。……エス、またその顔か。全く理解できていないようだな」
キュラドは少し呆れたように吐息を漏らしましたが、その声に棘はありません。むしろ、自分の解説に眉をひそめて首を傾げるSPの様子を、どこか楽しんでいるようでもあります。
「う、うん……。わ、我には……む、むずかし……すぎる……よ……」
SPは脳内で(たまにはもっと、普通のお話してほしいな……)と思いつつも、キュラドの体から伝わってくる、微かに冷たくて、けれど不思議と安心する独特の気配に、そっと体重を預けました。
「……いい。エスが理解する必要はない。この世の理は俺が握っていれば済むことだ。お前はただ、俺の膝の上で、この俺が紡ぐ言葉だけを聞いていればいい」
キュラドは解説を止め、SPの耳元で低く囁きました。魔術書の難解な中身よりも、その低く響く声の方が、今のSPにとってはどんな真実よりも心地よく胸に響きます。
キュラドはSPが理解できないはずの解説を、その後も時折挟みながら、ゆっくりとページをめくっていきました。聞いていてもよく分からないのには変わりませんが、今日のキュラドの魔術理論解説からは「家族」という言葉が頻繁に出ます。
「……ねえ、キュラド」
「何だ、エス」
「……吸血鬼は、か、家族を、作らないの……?」
薄暗い書斎に、SPの小さな問いかけが波紋のように広がりました。
キュラドがページをめくる手が、ぴたりと止まります。
「吸血鬼は種の繁栄として人間を吸血鬼に変えるという手段を取る。自分の血を、眷属にしたい人間に分け与えるのだ。それが、吸血鬼における『家族』の定義に近いかもしれん」
キュラドは感情の読めない声で、あくまで知識を披露するように答えました。しかし、膝の上でその言葉を聞いていたSPは、ふと不安を覚えたように彼の服をぎゅっと握りしめました。
「じゃあ、キュラドも……い、いつか、仲間を、増やすの……?」
その問いに、キュラドは沈黙しました。
燭台の火が揺れ、彼の紅い瞳に深い影を落とします。
「…………」
吸血鬼にとって、血を分け与えるという行為は、その対象を永遠の孤独と飢えの連鎖に引きずり込むことを意味します。かつて19年前に独りきりで目覚め、自分の正体すら分からぬまま闇を彷徨った彼にとって、それは安易に行える「種の保存」ではありませんでした。
「……仲間、か。俺はこの19年、誰にも血を分け与えたことはない。俺という個体が何者であるかさえ不明なまま、不完全な血を広めるなど、研究者として無責任極まりないからな」
キュラドは冷徹な論理を口にしながらも、腕の中にいるSPの体温を確かめるように、わずかに力を込めました。
「それに……」
彼は魔術書を閉じ、SPの耳元へ顔を寄せました。
「……俺の隣は、少々狭くてな。お前一人で、既に俺の計算領域の過半数を占有している。これ以上、未知の個体を招き入れる余地など、どこにもない」
「……キュラド……」
「……仲間など不要だ。俺には、俺の理を狂わせ、俺のエゴを肯定するエスという存在がいれば、それで十分だ。……不服か?」
傲慢で、独占的。けれどこれ以上ないほど純粋な、彼なりの回答。
SPは脳内で(……わたしも、同じだよ)と呟きながら、恥ずかしさに顔を伏せ、キュラドの胸にそっと顔を埋めました。
城の深い闇の中、キュラドは二度と増えることのない「家族」の形を、その腕の中で静かに噛み締めていました。
深夜、月光が青白く床を照らす響星学園の図書室で、キュラドは窓際の特等席に腰を下ろしていました。
「あら、キュラド様。昨日の余韻に浸りに来たの? それとも、パパさんに叩かれた肩がまだ痛むのかな」
空中で透けた足をぶらつかせながら、コイカミがいつものように茶化すように現れます。しかし、キュラドの反応はいつになく静かでした。彼は窓の外、夜の校庭をじっと見つめたまま、低く呟きました。
「……女神。お前は、誰かを『此方側』へ引き入れたいと思ったことはあるか」
「え……?」
不意に突きつけられた真剣な響きに、コイカミはふわりと着地し、不思議そうに首を傾げました。
「吸血鬼が家族を作る唯一の手段は、自らの血を分け与え、人間を同族に変えることだ。……先程、エスに問われた。『いつか、仲間を増やすのか』とな」
キュラドは膝の上で組んだ指を強く噛み締め、言葉を続けます。
「血を分かつということは、その者に俺と同じ『永劫の渇き』と『日の当たらぬ孤独』を背負わせるということだ。19年前、理由も分からず闇の中で目覚めたあの絶望を、俺は知っている。……それを、エスに強いるなど……」
「……キュラド様」
「俺は傲慢だ。エスを離したくない。だが、俺が彼女を愛すれば愛するほど、彼女の『人間としての時間』は残酷に削り取られていく。俺が不老である以上、彼女を此方側へ引き入れない限り、いつか必ず別れが来る。……昨日、俺はエスの両親に『死からさえも守り抜く』と言い放った。だが、その代償が、俺と同じバケモノになることだと知れば、あの親たちはどう思うだろうな」
コイカミは、キュラドの隣に静かに寄り添いました。恋の神様を自称し、数多の恋バナを聞いてきた彼女にとっても、種族の壁という「期限付きの恋」は、あまりに重いテーマでした。
「……ねえ、キュラド様。あなたはさっき『絶望を背負わせる』って言ったけど。……もし、SPちゃんが、あなたの隣に居続けるためなら、そんな絶望すら『幸せ』だって笑ったら、どうするの?」
「…………」
「あなたは研究者でしょ? だったら、愛が引き起こす『奇跡』っていう、一番非論理的な数式も計算に入れなきゃダメじゃない」
キュラドは鼻で笑おうとしましたが、上手く口角が上がりませんでした。
「……非論理的にも程がある。だが……そうだな。俺の理を狂わせたのは、他ならぬあの娘だ。いつかその時が来た時、俺が選ぶのは……最悪の独占か、それとも……」
最後の方は声にならず、夜の図書室の静寂に吸い込まれていきました。
吸血鬼としての本質と、初めて知った「家族」というぬくもり。深夜の図書室は、世界の終わりを予感させるほど静まり返り、キュラドの抱える「種族の断絶」という重すぎる問いが、夜の空気をじりじりと侵食していました。
重苦しい沈黙を、コイカミの軽やかな羽ばたきが裂きました。
「キュラド様、また寂しくなっちゃった? せっかくパパさんに認めてもらったのに、そんな顔してちゃダメだよ」
コイカミは宙に浮いたまま、覗き込むように顔を近づけてきます。その無邪気な瞳には、キュラドが今まさに直面している「永遠という名の孤独」など微塵も映っていないかのようです。
「寂しい……。そんなくだらない言葉で、俺のこの感情を表されてたまるか」
キュラドは視線を外に向けたまま、不快そうに声を低くしました。傲慢な彼にとって、自分の苦悩を一般的な形容詞に落とし込まれることは、何よりも我慢ならない屈辱でした。
しかし、コイカミはひるむことなく、その浮遊する体をキュラドの肩のあたりまで高度を下げました。
「……前にキュラド様、わたしに言ってくれたよね。誰が忘れても、誰がいなくなっても、俺がいるって。……それ、わたしも同じだからね」
その言葉に、キュラドの端正な横顔が微かに動きました。いつだったか、独りで学園に縛り付けられていた幽霊の彼女に、この吸血鬼が投げかけた不器用な救い。それを今、彼女はそのまま彼へと返したのです。
「お前の慰めなど……いらん……」
キュラドは吐き捨てるように言いましたが、その言葉には先ほどまでの鋭い棘がありませんでした。彼の紅い瞳が、迷いの中に安らぎを見つけたように、ほんの一瞬だけ細められます。
「あれ、おかしいな。わたし、前にこれ言われてすっごく胸に響いたのに……。キュラド様には効かなかった?」
コイカミはわざとらしく首を傾げ、ふわりと一回転して見せました。そのおどけた仕草に、キュラドは溜息をつき、ようやく窓の外から視線を戻しました。
「女神がいても、騒がしいだけだ」
「……とか言っちゃって。わたしのこと、大好きなくせに」
コイカミは確信に満ちた笑みを浮かべ、夜の闇に溶けるようなピンク色のワンピースを揺らしました。
「大好き」という言葉の裏には、友人としての情愛か、あるいは彼女の秘めた想いか、それともこの歪な夜を共有する者同士の連帯感か──。
キュラドはそれ以上反論せず、ただ静かに椅子に深く背を預けました。孤独を知る二人の影が、月明かりの床の上で静かに重なり合います。
コイカミの言葉は、夜の図書室の冷たい静寂を、優しく、けれど有無を言わせぬ強さで溶かしていきました。
「いいよ、迷子になったらまた連れ戻してあげる。思考の海に溺れそうになったら、水面まで案内してあげる。わたし、ずっとキュラド様のこと見守っててあげるから」
その声は、かつて彼女がこの場所に縛られ、誰にも見られず消えてしまいそうだった時に、キュラドが見つけ、繋ぎ止めてくれたことへの、最大の恩返しでした。幽霊である彼女には、吸血鬼の彼を「日の当たる場所」へ連れていくことはできません。けれど、同じ「孤独な夜」を生きる者として、彼が闇の深淵に呑み込まれないための道標になることはできるのです。
「…………」
キュラドは、ゆっくりと顔を上げました。
その顔は、いつもの傲慢な研究者の顔でも、高貴な吸血鬼の顔でもありませんでした。
微かに震えるその瞳には、19年間の孤独と、昨晩手に入れたばかりの「失う恐怖」が混じり合い、一瞬だけ、迷子の子供のような縋るような表情が浮かびました。
最強の魔術を操り、人間の父親を圧倒した男が、一人の幽霊の少女の前で、その魂の「脆さ」を剥き出しにしたのです。
「……お前は……本当に騒がしい『神』だな」
絞り出すような声は、拒絶ではなく、溺れかけていた者がようやく掴んだ浮木に安堵したような響きを帯びていました。縋るような眼差しは、ほんの一瞬で再び深い紅の奥へと隠されましたが、彼を縛っていた「永遠の孤独」という鎖は、コイカミの言葉によって確かに緩んでいました。
コイカミは、満足そうにふわりと宙を舞いました。
「ふふん、やっといつものキュラド様に戻ったかな? さ、あんまり考えすぎないで。SPちゃんが明日、またあなたの笑顔……じゃなくて、その偉そうな顔を待ってるんだから」
「……言われずとも分かっている。俺は城に戻る。……お前は、さっさと成仏でもしていろ」
「あはは! 無理無理、わたしはキュラド様の恋の行方を見届けるまで、絶対にいなくならないんだから!」
毒づきながらも、キュラドの足取りは先ほどよりもずっと確かになっていました。
闇の中へ消えていく彼の背中を、コイカミは月明かりの下で見送り続けました。彼にはSPの「熱」があり、そしてここには恋の神様の「眼差し」がある。
吸血鬼が家族を、仲間を、そして自分自身の存在を肯定するための長い旅路は、まだ始まったばかりでした。