そして腹は満たされる とろとろに溶けた玉子を包んで、蔵内は寝室へと戻った。
「王子」
扉をしずかに開け、控えめに声をかけて様子を窺う。ベッドの上、こんもりとふくらんだ毛布が震えるようにして動いた。
やがて隙間から王子が顔を出した。まだ眠そうな目をして、くらうち、と返事をする。むくり、と起き上がったからだは布をなにひとつ纏っていない。
「おはよ、クラウチ……」
さくらいろの肌のそこかしこに、赤い花が咲いていた。蔵内は王子の傍に寄って、乱れた前髪を整えてやると、まろい額にうやうやしくキスを落とす。
昨晩は彼をさんざんに味わい尽くしてしまった。奥の奥までからだをひらかせて、余すところなく啜り尽くして、正体をなくした彼のあたまのてっぺんからつまさきまで、腹いっぱいになるまですべてを食べ尽くした。
にこ、と笑った王子は、どこかけだるげな雰囲気を纏っている。まだ情事の名残りがあるのだろう。
さっきのおかえしと言わんばかり、王子は蔵内の頬にキスをした。蔵内が手を差し出すと、素直にとって、立ち上がろうとする。
「朝ごはん、できてるぞ」
「うん、ありがと。……」
ベッドから降りようとして、王子は動きを止めた。顔を覗き込もうとするとふいと逸らしたので、蔵内はその理由を察した。――たぶん、いま、王子は立つのがつらい。
「王子」
「うん」
「よかったら、俺に運ばせてくれ」
「……うん」
できるだけ、なんでもないことのように提案する。王子はすこしだけ恥じらうそぶりを見せたが、それも一瞬のこと。すぐに自分からベッドへ戻ると、毛布にくるまって座った。
ちら、と王子が蔵内を見上げる。蔵内はひとつ頷いて、彼の背とひざのうしろ、毛布ごと巻き込むようにして腕をまわした。王子は蔵内に凭れかかって、その首にすがる。
「せーの」
声をかけてから、一息に持ちあげる。平然としている王子が、その瞬間だけ、ぎゅ、と目を瞑るのを、蔵内は知っている。
すでに何度か経験していることだった。翌日に動けなくなった王子を、こうして蔵内が運んで、なにからなにまで面倒を見ること。蔵内はこれがきらいではない。王子も、恥ずかしがる素振りは見せるものの、おおむね蔵内に身を任せてくれる。機嫌が悪くなければ、たっぷり甘えてもくれる。曰く、「ぼくはクラウチがしたいようにしてるのを見るのが好きなんだよ」。
王子をていねいに抱えたまま、ゆっくりと廊下を歩く。身長一七七センチの重みが腕のなかにある。その重さを与えられることが、蔵内にとっては、幸福だった。
リビングには、蔵内と王子が横並びで座って尚余りあるようなサイズのソファと、その傍に配置されたローテーブルがある。
ソファに王子を下ろして、蔵内はキッチンからふたつの皿を運ぶ。載っているのは、先ほどつくったオムレツだ。ひとりひとつずつ。中には、細かく刻まれた玉ねぎとベーコンがたっぷり入っている。玉子もぜいたくに三つ使ったそれはとても大きくて、これだけで朝ごはんに足りうるものだ。
蔵内の一挙一動を見守っていた王子は、ローテーブルに置かれたそのオムレツを見て、わあ、とうれしそうに声をあげた。
「中は? しっかり? ふわふわ?」
「ふわふわのほうが好きだろう」
はんぶん笑いながらそう告げると、王子はますますうれしそうにした。
毛布からはみ出た肩には情事の痕が色濃くのこっている。そんな様相でこどものように頬を上気させる姿はアンバランスで、かえってなんだか――みだらな気がした。
穏やかな朝に似つかわしくない雑念だ。それを振り払うように、蔵内はふたたび立ち上がった。
「待ってくれ、いまクロワッサンを焼くから」
そう言ってまたキッチンに戻ろうとする蔵内の服の裾を、王子の手がくいと引っ張った。
「そんなに食べられないよ。オムレツだけでじゅうぶん。ね、早く食べよう」
「じゃあ、飲み物だけ取ってくるよ」
急かす王子をなだめて、キッチンに立つ。王子のぶんは紅茶。ティーポットに茶葉を入れ、湯を注いで、砂時計をひっくり返す。ティーカップにも、いちど湯を入れて、しっかりあたためておく。蔵内のぶんはスティックコーヒーだ。マグカップに開けて、湯に溶かすだけ。
「お待たせ」
それらすべてをトレーに載せて、蔵内は王子のもとへ戻った。かたん、とテーブルにトレーを置いて、ソファに腰掛けると、待ってましたというように王子が寄りかかってくる。
蔵内の肩口に、すり、と鼻先を擦り付ける姿は、気まぐれな猫みたいだった。そのうなじから指を差し込んで頭を撫ぜてやる。あちこちに跳ねている髪のひとふさをとって、口づけてから、蔵内はテーブルに向き直った。王子もそれに倣って、毛布にくるまったまま、無理のない程度に姿勢を正す。
「いただきます」
「いただきます」
オムレツを大きく切って、ひとくち。――我ながらよくできている、と蔵内は思った。ほんのりと甘い玉子は絶妙にやわらかく、ベーコンの塩気がきいている。
これなら王子も満足だろう。そう思って隣を見ると、彼はフォークを手になにかを考え込んでいた。怪訝に思った蔵内の視線に気付くと、王子はにっこりと笑んで、フォークを置く。
「クラウチ。食べさせて」
そう言って、餌を待つ雛鳥のように、ぱかりとくちをあけた。あかい舌が、ちろりとおどる。
しばらく静止してから、蔵内は自分の口の中にあった玉子を、ごくり、とのみこんだ。王子のぶんのオムレツを切り分けてやると、それを掬って彼の口元へ運ぶ。
はむ、と閉じられたくちびるからフォークをゆっくり引き抜いてやる。王子はむぐむぐと口を動かした。ただでさえやわらかいオムレツを、時間をかけて咀嚼する。やがてこくりと飲みくだして、おいしい、さすがクラウチ、と笑った。
そうしている間に、砂時計の砂が落ちきった。抽出の済んだ紅茶を淹れる。
「クラウチ、それも」
「……わかった。熱いから気を付けろ」
ティーカップをそろりと持ち上げる。こぼさないよう細心の注意をはらいながら口元に当ててやると、小動物がするようにぺろぺろと飲みはじめる。
ぷは、と顔を上げたタイミングで離してやると、またオムレツを要求された。苦笑しながら、言われたとおり、蔵内は王子の親鳥をつとめる。
クラウチ、くらうち。幾度も呼ばれるがまま求められるがままに食事を与えて、王子がオムレツを味わっている隙に自分のぶんを食べる。忙しないが、決して不愉快ではない――むしろ、蔵内はとても楽しくて、うれしかった。
はだかのままで、ソファの上。怠惰で奔放な朝をすっかり堪能している王子は、なにもかもを蔵内に任せきっている。そこにすこしだけ、なんとも言えないほの暗いよろこびがある。褥で彼を組み敷いているときと異なるようで根本は同じ、きっと支配欲の一種なのだろう。
火の通った玉子を、王子が口の中でとろかしている間、蔵内の胸のうちも、弱い火でとろとろと溶かされているような心地だった。
甘やかして与えることで、自分も満たされている。
「……ごちそうさま。おいしかった」
大きいとはいえオムレツひとつを食べるだけのことに、どれだけ時間をかけただろう。やっとのことですべてを胃の中に収め、王子は満足そうにソファに背を預けた。テーブルに置かれたふたつの皿は、どちらも綺麗にからっぽになっている。
「ぜんぶ食べさせてもらって、なんだかぼく、赤ん坊みたいじゃなかった?」
「ははは、そうかもな」
いまさらもいまさらなことを言われて、蔵内は笑いながらコーヒーを飲み干した。自分で言い出したくせに、王子は拗ねたような顔をする。
「こどもじゃないんだけど。コーヒーだって飲めるよ。……そうだクラウチ、それひとくちちょうだい」
「あ、いま全部飲――」
飲み終えたところなのだと、そう言おうとして、口を塞がれた。
「ん……っ!?」
抵抗する暇もなく、蔵内の口内になまあたたかいものが侵入してくる。至近距離で王子と目が合って、垂れた目尻のそれが、にい、と細められるのを見た。みごとな半月形は、まるでさっきまで食べていたオムレツだ。わらうあおいろに射すくめられた蔵内の、視界のはしで、はらり、毛布が落ちる。淡いいろをした肢体が、顕になる。
「んむっ、う、う……!」
舌で舌を押し返そうとする蔵内を意にも介さず、口腔が蹂躙されてゆく。せまいなかを、うえからしたへ、みぎからひだりへ。べろり、すべてをひとめぐりして舐めまわしてから解放された。
「ごちそうさま!」
先ほども聞いたばかりの食後の挨拶は、けれどもずいぶん違う響きで蔵内の耳に届いた。いたずらっぽく笑った王子は、昨夜の痕跡にまみれたからだを惜しげもなく晒し、無邪気と淫蕩の狭間に居座りながら、蔵内を揶揄っている。その気まぐれで自由なさまといったら。
蔵内の胸の中、くすぶっていた火が、途端に大きくなった。
――いっぺんに玉子を流し込み、さいしょは弱い火でかたちを整え、そしてほんのすこしだけ、強火にして。
それと同じだ。さんざん煽られて、一気にぼうっと燃え上がった炎は、目の前の男をとろかすためだけに在る。
「王子」
「ふふ、なに? クラウチ」
「いまのじゃ、ひとくちにも満たないだろう?」
「そうかな? ……ん、」
今度は蔵内から口づけた。ちゅ、と触れるだけのキスをいちど落として、それから舌を差し入れた。
「んぅ……あは、むぐ……っ、んふふ、ぁんっ……、」
なにが楽しいのか、王子は貪られながら笑っている。その笑い声ごと唾液を掬いあげて、飲み込んだ。それでも余裕そうにしているので、蔵内はどうにかそれを崩してやりたくなって、ぐ、と体重をかける。王子のからだがゆっくりとソファに沈んでゆく。
逃げられないように、後頭部をがっちりとわし掴みにして、キスを深くする。奥歯の付け根をくじるように舌でつつくと、さすがの王子も笑いをひそめ、あえかな声ばかりを漏らした。
「んふ、う、…………ふあっ!?」
いつの間にやら蔵内の背中に回されていた腕が、とつぜん、びくっと跳ねた。抑えていた手を離して、蔵内は身を起こす。ずる、と、落ちていった王子の腕がソファの上に着地して、片方は目元を隠すようにふたたび持ち上げられた。
「ん…………」
「王子?」
きゅ、と唇が引き結ばれるのを見て、蔵内は首を傾げた。
王子はこの程度でへたばるような男ではないのだ。にもかかわらず、すっかり仰向けになったはだかの胸は、落ち着かない様子で上下を繰り返している。
蔵内が顔を覗き込むようにすると、ぎゅっ、とブルーの瞳がすがたを隠した。顔を背けられてそこでようやく、これは感じ入っているのではなく恥じらっているのだと、気が付いた。
どうした、とできるだけやさしく声をかけてやる。頬に朱をのぼらせて、王子はきれぎれの単語を発した。
「ごめん……、もうふ、せんたく」
「毛布?」
先ほど王子の肩からすべり落ちていった毛布は、寝そべったからだの下になって、すっかりくしゃくしゃになっていた。
蔵内は、さっと視線をはしらせ、――乳白色を見つけた。
いとしいこいびとの下半身、まだ反応を示していない中心よりも、もっと奥。昨夜さんざん蹂躙したおぼえのあるばしょから、たら、と、液がこぼれているのだ。半透明、しろく濁ったそれにそっと触れると、ぬるりと指先が滑った。毛布の先が、濡れて束になる。
王子に食わせるために三つも使った玉子、その卵白を思った。空気を含んで音を立てながら、たくさんにかき混ぜられて、泡立った液体。打ちつけられるおと。ぱん、と、あたまのなかで鳴ったのは、はたして、殻の割れた音だったろうか。
「あんまり、見ないでよ……」
抗議の声にはっとした。視線をあげると、王子は恨みがましい目つきで蔵内のほうを見ている。羞恥か屈辱か、肌寒さもあいまってか、一糸を纏わぬ肩がふるえていた。
途端に申し訳なくなり、蔵内は慌てて目を逸らした。
そもそも昨日はきちんと事後処理を済ませてから眠ったはず――だが、王子の状態を見るに、不十分だったのだろう。どれだけの負担をかけてしまったのか。そう思った瞬間、あがった熱が冷めてゆく。
「……悪い。全部掻き出したつもりだったんだが」
とっさに離れようとした蔵内を、王子の手が引きとめた。驚いてふたたび見やれば、王子はつい先ほどまでの睨むような視線を引っ込めて、うすく微笑んでいる。
蔵内に触れている手のひらが熱い。まだ冷めるなと、言葉を用いず、けれども強く、伝えてくる。
「……いいよ。だいじょうぶ。…………でも、ね、」
また、したくなっちゃった。
困ったような表情をして、王子は笑う。
「ねえクラウチ、朝ごはん、ぼくの好きなものばっかりだった」
――きちんとした手順で淹れられた紅茶に、ふわっふわの大きなオムレツ。結果的に食べなかったけれど、クロワッサン。
そのとおりだ。王子よりも早く起床して、王子を起こさないようにこっそりとベッドを抜け出して、王子のためだけに朝食をつくった。ゆうべは無理をさせたから、身体をいたわってやりたかったこともあるし、それに、蔵内は王子を甘やかすことを楽しみにしていた。
だから、礼なんてなにひとつ必要ないのだ。
だと言うのに、王子は言う。
「……今度はさ、きみが好きなもの、食べていいよ」
それは鯛茶漬けや親子丼を食べないかと――そう提案しているのではないと、すぐに知れた。
おかえしだよ、と、王子は蔵内の手を引く。手のひらを自身の胸にあててみせる。そうすると、王子の鼓動が伝わってきた。常よりすこしだけ速いそれは、食らわれることを期待し、脈打っている。
自身を差し出して、蔵内の手に銀の食器を持たせて。皿のうえ、蔵内が愛してやまないそのたべものが、凄艶なさまで、わらう。
蔵内にたべられるのを、心待ちにしている。
「きみが、こんなに、食べごろにしたんだ」
そう言った王子の瞳は、もうどうしようもないくらいに、熟れて、とろけきっている。
とろとろに溶けた王子を包んで、蔵内は寝室へと戻った。