安息の在処 風柱邸に限らず、柱に与えられた屋敷は広い。報告や連絡に訪れた隊士、柱に師事する継子、多忙な柱に代わって屋敷の管理や家事を行う使用人(藤の家の人々と同じく隊外の協力者という立場らしい)のために部屋を多く用意しているためだ。
兄弟二人で住むにはいささか広すぎる。家主である兄・実弥はいずれ屋敷を引き払ってどこか適度な大きさの家を買う予定でいるが、それはもう少し先になるだろう。
最後の戦いで重傷を負った実弥が人の手を借りずとも動ける程度に回復したのを見届けて、屋敷に勤めていた使用人は少しずつ次の行き先を見つけて去りつつある。全員が身を寄せる先を見つけるまで、いましばらく実弥と玄弥は風柱邸に住まうことに決めた。まだ実弥の体調も万全ではないため、蝶屋敷と連絡が取りやすい場所で暮らしていた方がいいだろうというのも理由だった。
玄弥はといえば、命の灯火が消えるより先にわずかに鬼の再生力が勝ち、決戦を生き残った者としては珍しく五体満足で生きている。右半身が時折痺れて動かし難くなるが、日常生活にさほど支障はないと言っていい。
玄弥が実弥に連れられて風柱邸に移ったのはつい最近のことだ。それまでは、治療や身体機能回復のために蝶屋敷にとどまっていた。
特に柱として最前線に立ち続けた実弥の負傷は深刻で、邸に帰ってよいと許しが出るまでに時間がかかった。一足先に人手を借りずに動けるようになった玄弥は、兄を支えながら蝶屋敷の雑務を手伝って過ごしていた。
意識が戻ったのだって、玄弥より実弥のほうがずっと後だ。うまく動かない身体を引きずって、玄弥はこんこんと眠る兄の傍へ寄り添い続けた。細い呼吸の音を確かめて、手を握り体温を分ける。そんな日々をずっと続けていた。
回復した隊士は一人また一人と、故郷へ帰り、あるいは新しい居場所を見つけ、次の人生を歩み始めていたが、玄弥の時間は眠る兄とともに止まっていた。自分の「これから」など、頭のどこにも浮かべられなかった。
「おまえが良けりゃ、俺と暮らさねぇか」
だから、実弥の言葉は玄弥にとって唐突だった。兄と再び共に暮らす。そんな未来を願ったことはあった。けれど鬼殺隊に入って、兄に拒絶されてからは都合のいい夢を見ないように胸の奥底にしまい込んで触れないようにしていた。
ぽかんと口を開けたままの玄弥の反応を否と取ったのか、実弥は睫毛を伏せてつとめて平坦な声で話した。
「嫌なら、別に──」
「いいの?」
気の抜けた声だったと自分でも思う。寝惚けて出すような、夢と現の境界にある寄る辺ない声。
「俺、兄ちゃんと居ていいの?」
実弥の、深い藤色が揺れて玄弥を見た。包帯と点滴だらけの腕が伸び、玄弥の手を握る。長い間伏せっていて筋力が落ちているはずなのに、手を握る指には確かな芯があった。
どれだけ握っても握り返してこなかった手を思い出す。目の奥が熱くなって視界が滲んだ。確かめるように玄弥も指に力を込めると、実弥がくしゃりと目を細めた。
「居てくれ」
静かな声は、思い出の中にある幼い声と重なる。雨音にも似た、しとしとと落ちる穏やかな声が好きだった。
「兄ちゃんと居てくれ、玄弥」
頬がぼろぼろと濡れていくのを止めることなく、玄弥はひたすらに頷いた。
この屋敷は風がよく通る。秋の気配を乗せた風が、庭に干した洗濯物を揺らした。
使用人が辞めていっていることもあり、現在主だって家を回しているのは玄弥である。兄の身体はまだ全快とは言い難く、静養に専念してほしかった。「小間使いが欲しくておまえを連れ帰ったんじゃねぇ」と渋る実弥を「治ったらちゃんと分担するから」と宥めすかして今に至る。
ここ数日は洗濯日和のいい天気が続いている。空は高く、向こう側が透けて見えそうなほど澄み切った青が一面に広がっていた。心地のいい涼しさになってきた気温とあいまって、散歩にでも行きたい気分になる。
「……行こうかな、兄貴も誘って」
そうと決まればと残りの洗濯物を手早く干して、屋内に戻り兄を探す。広い邸といえども普段使う部屋は限られている。大体このあたりにいるだろうと当たりを付けていくつか部屋を覗いていくうちに、視界に見慣れた白い頭を発見する。
「にい──」
ちゃん、と声になる前に口をつぐんだ。
兄は、畳んだ座布団を枕にして寝転がっていた。耳をすませば規則的な寝息が聞こえてくる。その呼吸に合わせて、少々はだけた胸元が緩やかに上下していた。
「……初めて見た」
口の中だけでぼそりと呟く。何の変哲もないごく普通の昼寝姿だが、この風柱邸で暮らす中で、実弥が昼間から寝入っている姿など見たのはこれが初めてだった。
起こしてしまわないように、そろりそろりと傍に寄る。ぐっすりと眠っているのだろう、近寄って座り込んでも起きる気配はなかった。
傷だらけの顔は、その物々しさには似つかわしくないほど安穏とした寝顔を浮かべていた。こちらのほうが本来の実弥に近いのだと、玄弥は知っている。
(大変だったもんなぁ)
おそらく、きっと、ようやっと気を抜くことができるようになったのだと思う。夜ごと死地へ赴く鬼狩りとして、その筆頭たる柱として、背負うものがあまりにも大きかった。戦いが終わり、家に帰って、しばらく過ごしてようやく──うららかな午後に微睡むことができるようになった。
「あ……」
視界が歪み、ぽた、と膝の上に水滴が落ちた。
兄が穏やかに眠っているのが嬉しかった。任務の前にとる、今宵にも死ぬかもしれないと覚悟しながらの睡眠ではない平穏な眠り。
「これから」のことを考えられなかった。玄弥にとっては兄の背を追うことだけが全てで、戦いの後のことを思う余裕などなかった。それは実弥とともにこの屋敷に来てからも同じだ。兄とともにいるという願いが叶い、それだけで満たされてしまってそれ以上のことは何も思い浮かばなかった。
けれど今、自分がどうしたいかがはっきりと分かった。
何も脅かされない長閑な午睡。これまで誰かのために走り続けたこの人が、肩の力を抜いて穏やかに過ごせる時間を、場所を、この先もたくさん贈りたい。こんなに傷だらけになって頑張った人なのだから、その何倍も優しいものに包まれないと嘘だ。
(兄ちゃん)
頭の奥がじんじんと熱を持って、押し出されるように涙が次々に溢れていく。兄の寝顔を眺めながら泣いているなんて傍から見たら奇妙な光景だろう。だがそんなもの気にしない。どうせ誰も見ていないし、見られたとしてもどうでもよかった。
(頑張るから。俺、頑張るから……)
風が吹く。柔らかな白い髪と、傍らにある濡れた頬を撫でて、澄んだ空の彼方へと去っていった。
あれから実弥は時折昼寝をするようになった。長い間ベッドの上で生活していたおかげで体力が落ちている。そのためにこまめな休息を身体が求めているのだった。こればかりは、じっくり体力を取り戻さないとどうにもならない。
眠る実弥を見かけるたびに玄弥の胸は満たされる。兄が気を抜ける場所として、玄弥との暮らしが機能しているのがたまらなく嬉しかった。
秋が深まり、気温は少しずつ下がっている。大きく障子を開け放った部屋で眠る実弥を見つけた玄弥は、薄手の掛布を抱えて戻ってきた。最初はともかく、あれ以来起こさないように遠巻きから眺めるにとどめていた。だが今日は少々冷える。そっと近付いて掛布を被せようとする玄弥を、ぼんやりと開いた藤色が捉えた。
「あ、ごめん……起こした?」
「……げんやァ」
実弥の声はふわふわと芯がない。まさに夢うつつといった様子だ。寝惚けてんのかぁ、と玄弥は微笑ましい気持ちになった。
「ん……」
実弥の腕が緩慢に動き、自分の隣をぽんぽんと叩く。
「ん?」
その動きには覚えがある。うんと小さいころ、兄が玄弥を寝かしつけるために布団に呼ぶ動きがこんな感じだった。
おいで。そんな優しい声で呼ばれたのを覚えている。
「……俺も寝ろってこと?」
そうだ、と言わんばかりに寝惚け眼が細められる。懐かしさと、有無を言わせぬ妙な圧に負けて玄弥が隣に寝転ぶと、すかさず傷だらけの腕に抱き込まれる。
「うわっ」
寝惚けていても柱だった男は伊達ではないということか。あっという間に腕の中に閉じ込められて、立派な胸筋で視界が埋まる。暴れれば抜け出せないことはないだろうが、そんなことをすれば完全に起こしてしまう。今日はもう特に予定もない。大人しく一緒に寝てもいいかもしれない。
とん、とん、と優しく背中を叩かれる。実弥が玄弥を寝かしつけるときは、いつもこうしていた。
(あ、ずるい、これ)
こんなことをされたら絶対に眠ってしまう。温かくて安心できる体温が傍にあって、その上記憶に沁みついた心地いい拍子が襲ってくるのだ。みるみるうちに瞼が重くなってくる。
「げーんやぁ」
ゆったりと沈んでいく意識の中、吐息交じりの兄の声を聞く。
これまで聞いた中で一番、あたたかく緩んだ声だった。
end