僕のために、忘れていて【7】 ギラギラとした太陽の光が容赦なく俺たちに突き刺さる。じっとりとした空気がモヤモヤと地面から湧き上がり、言いようのない不快感が全身に纏わりつく。それを振り切るように重い足を必死で前へと進める。
俺もアキも俯いて顔すら上げられないような状態なのに、1人だけやたら元気な奴がいた。常に俺たちの数歩前をスキップで進み、余裕の表れか鼻歌まで歌っている。俺も数年前まではあれだけの体力があったのだろうかと思わず思い悩んでしまう程に元気いっぱいの香奈は少し先で立ち止まるとこっちに向かって大きく手を振った。
「おにぃ〜〜〜〜遅いぞーーーー」
俺たちが遅いんじゃない、お前が速いんだ、と文句を言ってやりたいが、今はそんな体力すら惜しい程、目的地に着けるかどうか怪しいレベルで疲れてきている。力の入らない腕で弱々しくスマホを取り出すと時間を確認した。駅からすぐだと聞いていたのにもう20分くらいは歩いている。隣のアキに目をやると、心なしかいつもより表情が死んでいる。基本的に生き生きとした顔をしないアキだが、ここまで無表情になっているのは初めて見た。
「アキー? 大丈夫かぁー?」
アキは無言で頷いた。この様子は本格的にまずい予感がする。
とは言え、もうそろそろ目的地に到着すると地図アプリには表示されていた。音が近くなってきている感じはするし、特有の匂いもしてきた。沢山の人がいる気配を辿りながら歩みを進めると、1枚の錆びれた看板が現れた。
「着いた!」
看板には海水浴場の文字。ご利用の方はこちら、と矢印で道順が示してある。
「おにぃ! ここだよ!」
香奈が興奮したように看板を指差す。はしゃいだ声が俺たちを余計に疲れさせる。
「分かってる!」
「早く! 早く!」
香奈は俺たちの元に駆け寄ると、俺とアキの腕を一本ずつ両手で引っ張り、歩みを早めるように催促した。アキは抗う力が無いのか、なすがままに引っ張られ、それにつられて俺ももたつく足取りでアキに続いた。
「海だぁーーーーーー!!!!」
「待て」
香奈は大はしゃぎで荷物を置いて海に駆け寄ろうとした。すんでの所で首根っこを捕まえ、まずは落ち着かせる。ぐぇっ、と香奈の喉が潰れた音がして抗議の視線を向けられたが無視する事にする。
「んで、お前の友達どこにいんの?」
「ちょっと待ってて! 確認してみる!」
香奈はカバンの中からスマホを取り出すと友達に連絡を取り始めた。俺は深く一息吐き出すと、砂浜に向かう途中のコンクリートの階段の端に腰を下ろした。丁度木の陰になっていて、日の下にいるよりはだいぶマシだ。横で突っ立っているアキの袖を引っ張り、横に座るように促した。
「ごめんな、こんなにしんどいと思ってなかった……」
「いや、行くって言ったの、僕だし……」
俺はアキの顔を見た。座れた安堵感からか先程よりは少し生気が戻ってきているような気がする。しかし、止めどない汗が額を伝い、地獄のようなこの状況を嫌でも忘れさせてくれない。
本音を言えば、俺も早く海に入りたかった。勿論、事故にあった身としては全力で遊ぶことは出来ないが、海水に浸かればこの暑さも少しはマシになるだろうと思っていた。しかし、今日の目的は俺たちが海で遊ぶことではない。
「もうすぐ迎えに来てくれるって!」
香奈はスマホをカバンにしまうと、必要以上の大きな声で報告してきた。
「じゃあ待ってるかー」
「うん」
香奈は頷くと当然のようにアキの隣に腰を下ろした。アキは微動だにしない。
「香奈、こっちが陰になってるからこっち来い」
「え、アキくんの隣がいい」
「いいから」
ブーブーと、文句を言う香奈を自分の方に呼び寄せると、自身のスマホを取り出した。
「今10時か……。午後5時にここに集合な」
「え、勝手に決めないでよー! もっと遊びたい!」
「じゃあ1人で帰って来るか? 怒られても知らないぞ」
ぐぎぎ、と音がしそうな苦渋の表情を浮かべた後、香奈は折れたように分かったと頷いた。
そもそも、俺たちが何故こんな場所に居るかというと、一言で言ってしまえば香奈のお守りだった。それ以上でもそれ以下でも無い。友達と海に行きたいと言う香奈の申し出が香奈限定で過保護な両親によって却下され、そこに居合わせた俺が一緒について行くならオッケーというはた迷惑な流れになり、泣きつかれた結果である。日にちを聞けば丁度アキと勉強会をする予定の日で、アキに訳を話すと、何故かアキも一緒に行くと言い出した。そして現在に至る。
「あ、友達来た!」
香奈は遠くから手を振って近づいて来る女の子たちに手を振り返した。そして勢いよく立ち上がる。
「じゃあ行ってくるね!」
「おー、怪我に気を付けろよ」
「はーい!」
こんな時だけは気持ちが良い返事をする。現金だなぁ、と思いつつ、なんだかんだで笑顔で送り出す。
「アキ、これからどうする?」
俺は隣でぐったりしているアキに目を向けた。俺は木陰で座ってだいぶ体力が回復したが、アキはまだ若干辛そうだった。あまりに体調が優れないようならアキだけ先に帰ってもらおうかと考えていると、アキは俺の肩に頭を預けてきた。
「アキ? 具合悪いのか?」
アキは無言で更に俺の方に体重をかけてきた。アキの髪が俺の首筋に触れ、くすぐったくて肩を窄める。
「具合は大丈夫なんだけど」
おもむろにアキは俺の太ももに触れた。思っても見ない接触に、一瞬力が入ったが、気にしない様に努めた。
「ちょっとどこかで休みたいかも」
「あー、どこかかぁ……」
確かにこの暑さの中、ここで待ち続けるのは厳しい。少しだけ海に入ろうかと思っていたが、その後の事は考えていなかった。
「だからさ……」
「あ、じゃあ海の家行こう!」
アキと俺の言葉が被った。
「あ? アキなんか言おうとしてた?」
「いや、別に……」
アキは少しだけ難しい顔をすると、小さくため息をついた。
「じゃあ早速行くか」
俺は立ち上がるとズボンに付いた砂を払った。一方アキは、俺という支えが無くなり少しだけ傾いた身体をゆっくりとした動作で戻すと立ち上がった。
「アキ、砂いっぱい付いてる!」
俺はアキのお尻に付いていた砂を手で払った。途端、アキが跳ねるように飛び退いた。
「え、何…………?」
俺も驚いて思わず手を引っ込める。そんなに驚かせるような事でもしただろうか。
「…………リュージって誰にでもこういう事するの……?」
「え……?」
アキが信じられないと言わんばかりの目で見てくる。そんな目で見られるほど変な事をしてしまったのかと自問するが、いまいちピンとこない。
「い、嫌だった……?」
「嫌じゃない」
嫌じゃないなら何が問題なんだろうか。
まるで状況が分かっていない様子の俺に、アキはため息をつくと、いきなり俺の腰に腕を回してきた。そして、グッと引き寄せられる。
「好きな人にいきなり触れられたらびっくりするんだよ……分かった?」
アキは耳元でボソッと呟くと、直ぐに離れていった。俺は固まった脳内で、アキだっていつも勝手に触ってくるじゃん、と反論したが、勿論アキには届かなかった。
「あ、ちょっと待てって」
アキはすたすたと歩いて行ってしまった。俺は急いで荷物をとると、アキの背中を追いかけた。
***
「はあ〜〜生き返る〜〜」
俺は出されたジュースを一気飲みすると、テーブルにもたれかかった。まだお昼には早い時間のせいか、海の家はそれほど混雑しておらず、すんなりと入ることができた。取り敢えず何か冷たい物、と頼んだジュースが一瞬で無くなってしまった。
「アキもだいぶ顔色良くなったみたいで良かった」
「心配かけてごめん」
アキが少し落ち込んだように見えて、俺はテーブルに乗り出してアキの頭を両手で掴み、まるで犬を撫でるかのように頭を撫でた。アキは大きく目を見開き俺を見た。
「リュージ……!」
香奈にもよく同じ事をするが、いつも鬱陶しそうにされる。アキにも同じ反応をされるかと思いきや、思いの外大人しかった。
「鬱陶しくない?」
「いや? むしろ気持ちいい」
香奈と感想が180度違い少し驚く。そしてなんだか照れ臭くなってきた。パッと手を離すと素早く自分の席に戻った。
「あー、えーと……アキの前髪って暑そうだよなー」
どうでもいいことで話を逸らそうとする。アキは上目遣いに自分の前髪を確認してから、そう?と聞き返してきた。
「アキぐらい前髪長いと結べそうだよな…………あ! そういえばいいもん持ってた!」
俺は思い立ってカバンの中を漁る。そこには今朝、香奈に渡しそびれた髪ゴムがあった。
「ちょっとこっち来て」
俺はアキの顔を引き寄せると、前髪を頭上で縛った。所謂ちょんまげ状態だ。
「これで涼しいだろ!」
「えー…………」
俺の雑な縛り方に不服そうなアキだったが、涼しいことには変わりなかったようで、そのまま話を続けた。
「ってか本当にごめん! 今日本当は勉強会のはずだったのに……!」
「ん? あぁ、別にいいよ。それに僕的には一緒に来れて嬉しいし」
そう言いながら何故かアキは周囲を見回した。知り合いでも居るのかと思ったがそうではないらしい。
「? …………また今度、勉強会しような」
「そうだね」
アキは俺の方に向き直るとにっこり笑った。と、瞬間、空気がざわついた気がした。不審に思って周囲を確認するとやけにこちらを向いている人が多い。しかも全員が女の人だ。盗み見るようにチラチラと視線を向けられ、コソコソと何かを喋っている。
「アキ、なんか──」
この違和感を共有しようとアキに声をかけようとした時、1人の女の人に声を掛けられた。
「あの、良かったら、この後一緒に遊びませんか?」
「え、」
女の人は普通の姿の俺ではなく、ちょんまげ姿のアキに声を掛けた。
ここで初めて周囲の違和感の正体に気がついた。アキの顔を隠していた前髪が俺によって纏められ、その素顔に周囲が気が付いたのだ。顔が見えた途端にこの反応。今までアキはずっとここに居たのに、と思うとなんだかやり切れない気持ちになってきた。まるでアキの顔にしか興味が無いような、そんな対応をされて、アキはどう思うのだろうか。
「…………どうする? リュージ」
「えっ」
断ってくれるものだと思っていたのに、アキはよりにもよって俺に聞いてきた。前にも同じような状況でアキの前で失態を見せてしまった身としてはこの件に触れたくなかった。あの時、アキは嫉妬だと言ったが、確かに今もモヤモヤする気持ちが無いとは言い切れない。でもこれが嫉妬かと言われれば、自分の気持ちに向き合うのが怖くてあやふやな答えしか出てこない。ひとつだけ言えるのは、もうアキの前で感情を剥き出しにしたくないという事だけだった。
「お、俺は良いと思うよ! 2人で遊んできなよ!」
「えっ! リュー……」
アキの言葉を聞きたくなくて、出来るだけ明るくそう答えると、すばやくお金だけ置いて店を飛び出した。