僕のために、忘れていて【13】「瑠璃華、ちょっといい?」
名前を呼ばれて嬉しそうな顔で振り返った瑠璃華は、俺の顔を見た瞬間何かを察したのか表情を曇らせた。
「あ……うん。でもここじゃ……あの……」
瑠璃華は教室内を見回す。放課後にはなっていたが、まだ残っている生徒の数は多く、これから話す内容を考えると確かに気まずい。
俺は頷いてから歩き出した。瑠璃華も黙って後ろをついてきた。
「ここで……いいか」
俺は使われていない教室のドアを開けて中を見渡す。普段勉学に使われている棟から少し遠い場所にあり、主に倉庫として使われているため生徒が通りかかる事は稀だ。俺は先に教室内に入ると、埃っぽいカーテンを開けて陰気な空気を緩和した。このままじゃ余りにも暗過ぎる。
「あのさ」
誰かが口を開かない限り話が進まない。
「瑠璃華、俺に何か言う事ない?」
俺は覚悟を決めてそう言った。なるべく優しく、瑠璃華が怯えない様な声色で。
「あ、あの……わたし……」
「ゆっくりで良いから」
瑠璃華は言葉を詰まらせると、俯いた。前で組んだ手が小刻みに震えている。
「ごめんなさい!」
震えながらも大きな声でそう言い、瑠璃華は俺の顔を見た。涙を瞳いっぱいに溜め、堪える様に真横に口を結ぶ。
「謝って済むなんて思ってない。リュージの優しさにつけ込もうとしようとしたことも最低だと思ってる」
「…………」
「バレるのが怖くて、自分から言い出せなくて。本当に自分勝手で…………ごめんなさい」
瑠璃華は頭を深く下げた。丁寧に整えられた黒髪が肩から滑り落ち、カーテンのように瑠璃華の表情を隠す。
「あのさ……俺の事、嫌いだった?」
俺の問いに瑠璃華は思い切り頭を上げ、勢いよく首を左右に振った。
「違う! リュージの事、嫌いなわけない!」
「なら……どうして?」
瑠璃華は一瞬迷うように瞳を泳がせた後、意を決したように口を開いた。
「ずっと前からあの人に好意を向けられてるのは知ってたんだ」
あの人……と言うのは名前も知らない浮気相手だろう。
「わたしにはリュージがいるからって無視してて……でもあの日、魔がさして一回くらいならデートしてあげても良いかなって、思って……」
「うん」
「学校帰りに適当にカフェとか行って終わらせようと思ってたんだ。だけど」
言われなくてもその先は想像がつく。俺が微かに顔を顰めると、瑠璃華は慌てたように口調を早めた。
「本当に最低な事をしたって思った。求められるままに肩に手を回されて一緒に歩いてて……そしたら偶然リュージと会っちゃって。わたし、怖くなって逃げちゃって。車が来てるのにも気付かなくて、それで」
なんで俺が記憶を無くしたのか何となく分かった様な気がした。無くしたんじゃなく、忘れたかったんだ。
「そっか」
心の準備が出来ていたせいか、思ったよりは落ち着いている。絶望より諦めが優っていてそう感じるだけかもしれないが。
「とにかく謝らなきゃって思って、すぐに病院に行こうとしたんだ。でもあの男が……」
唐突に瑠璃華の口調が怯えと怒りを含んだものになる。
俺は空気が変わったのを感じて瑠璃華を見た。
「あの男が、もうリュージには会うなって。リュージが別れたいって言ってるって会わせてももらえなかった」
もしかして。
「あの男って……」
「名前なんか知らない。背が高くて陰気な感じの……」
アキだ。保健室で会ったアキの自暴自棄な表情の理由が薄らと分かり始めた。瑠璃華が言っている事が本当だとしたら、俺と瑠璃華を別れさせたのはアキという事になる。
「それにアイツ、わたしとあの人の浮気写真撮ったから、ばら撒かれたく無かったら大人しくしてろって脅してきて……怖くて……」
瑠璃華は俺が怒っていると思って怯えてたんじゃない、アキに怯えていたのだ。
「なんで……そんなこと……」
俺は独り言のつもりで呟いたが、瑠璃華は頭に血が昇っているのか食い気味に言葉を被せてきた。
「知らない! とにかくアイツヤバいよ!」
瑠璃華は涙目で荒く息を吐きながら、俺に縋り付くように両手で俺のブレザーを掴んだ。
俺は反射的に瑠璃華から体を離していた。なんでそうしたのかは分からない。ただ、ここには居ないアキの顔が頭を過ぎって動いていた。
「あ、ごめん……」
「…………」
瑠璃華は一瞬驚いた様な顔をした後、無言で俺から距離をとり、自身の足で真っ直ぐと立った。乱暴に袖で目元を拭うと、真っ赤になった目で俺を見た。
「ごめん。…………またリュージの優しさにつけ込もうとした」
先程より落ち着いてき始めたのか、瑠璃華の呼吸は徐々に深くなり、整い始めた。俺は短く息を吸った。
「昨日も言ったけど、俺、好きなやつがいて」
「……うん」
「前みたいには戻れないと思う」
「……そうだよね」
そのまましばらく沈黙が続いた。お互い目も合わせず俯きがちに瞳を伏せた。
しばらくして、瑠璃華は自責の念を噛み締める様に手を強く握ると、踵を返した。
「本当にごめんなさい」
「瑠璃華、今までありがとう」
俺がそう言うと、瑠璃華の肩が一瞬揺れたが、何も言わずに教室を出て行った。
俺は額に手を当てると、更に痛み始めた頭を休ませるように目を閉じた。ドク、ドク、と血管が脈打つ度に鈍い痛みが走る。
「どういうことなんだよ……」
目眩がするくらい沢山の情報が頭の中に渦巻く。整理しようにも、俺には重要な記憶が無い。俺だけが蚊帳の外で、誰の気持ちにも寄り添えないことが悔しいと思った。
中でも一番アキの事が分からなかった。今まで知っていたアキという人物が一切分からなくなった。本当のアキはどこにいるのだろう。
「帰るか……」
陰気な場所に居ると気持ちまで暗くなってくる。日はもう傾き始めていて、電気をつけていなかった教室内は薄暗くなり始めていた。
俺は自分の教室まで鞄を取りに行くと、足早に学校を出ようと校門をくぐった。するとすかさず誰かから背中に声をかけられた。
「えっ、マジか! マジで見つかるもんなんだ!」
聞き覚えのある声と、思い出したくない記憶がセットで蘇る。俺は声のする方へ顔を向けた。ふわふわの髪を靡かせながら、小柄な女の子がこちらに向かって小走りで近づいて来た。
「こんにちは! あ〜もうこんばんはかなぁ?」
どうでもいい挨拶への拘りを緩いテンションで語られて、若干苛つく。今の俺は色々なことがあって心に余裕が無いらしい。
「ええっと……リュージくん、だよね? キミの事探しに来たんだけど、まさか本当に見つかるとは!」
屈託なく笑う姿は普通の状況で見れば可愛い女の子だ。さっきから下校中の生徒たちがチラチラと盗み見て行く程度にはオーラがある。俺も初めて見た時はそう思ったな、などと思い返す。
「それはそうと、リュージくん」
乃亜はいきなりゼロ距離で距離を詰めると俺の腕に自身の腕を巻き付けてきた。
「えっ、ちょっと、やめ」
「え、あーごめん! ついいつもの感じでやっちゃった!」
いつもこうなのか。こんなに恐ろしい生き物がこの世に存在するなんて知らなかった。
「アキが嫉妬しちゃうから今のは内緒ねー?」
不意に乃亜からアキの名前が出て心臓が跳ねる。元々乃亜はアキの元カノなのだから名前が出てもおかしくは無いが、アキの事で悩んでいる今、その名前を聞くのは遠慮したかった。
「えっと、じゃあ、行こっか!」
「え、どこに……?」
「ついて来れば分かるよー! ちょっと今大変でさぁ」
何かは分からないが、乃亜は今困っているらしい。困っている人が目の前にいて無視できる様な人間じゃない俺は、自分のお人好し具合を呪いながら乃亜の後に続いた。
「アキが大変でさー」
「アキが?」
「うん。もうめちゃくちゃ!」
もしかしたら深刻な話なのかもしれないが、乃亜の喋り方が余りにも間伸びしていて緊張感が無い。そういえばアキの家で乃亜と会った時はこんなに穏やかに喋ってはいなかった。タイミングがタイミングだっただけかもしれないが何かが引っかかる。
「それで何で俺のこと探すの?」
「え、だってリュージくん、アキの彼氏でしょー?」
なんて事ないような顔で乃亜は笑いかけてくる。
「えっ、いや、あの、アキとはもう別れた……」
おそらくもっと他に言うことはあった筈だが、余りにも普通に乃亜が俺の事をアキの彼氏と認識していたことに動揺して頭が真っ白になる。
「うそ!? 別れちゃったの!? えー折角乃亜が協力してあげたのにぃー!」
「は? え、」
「アキがどうしてもリュージくんに嫉妬して欲しいって言うから乃亜が一芝居うったのに!」
口を尖らせて怒る乃亜。
「結局、あの後なんか知らないけどアキに無視されるようになるしさー!自分勝手過ぎない?」
その乃亜の一芝居が原因で別れたと言おうかと思ったがやめておいた。乃亜は多分善意で協力してくれた筈だ。
「アキが何かに執着するなんて面白そうって思って協力してあげたのに」
前言撤回。完全に冷やかしだった。
「俺、もうアキの彼氏でも何でもないし、もしアキが困ってるなら力になれる事なんて無いと思う」
「ん〜?」
乃亜は思案するような顔で首を傾げる。まさに仕草が小動物のそれで、狙っているのかいないのかは分からないが、これで今まで何人の人生を狂わせて来たんだろうと思う。
俺はそんなどうでもいいことを考えながら、何故か他人事のように乃亜の返事を待った。
「そんなこと無いと思うよー? だってアキが大変なことになってるの、リュージくんが原因だもん」
乃亜はニコニコと笑っているが、俺の心は凍りついた。